<AM0:40>
ベッドから跳ね起きたと同時に空気を求めて口が喘ぎ、見開いた瞳がキャンピングカーの天井を食い入るように凝視する。呼吸を整え、何時も通りに落ち着いて、再び体を仰向けるまで、アメリアは少々の時間を費やした。
自分が夢に叩き起こされた事を、アメリアはまどろむ思考の中で思い返している。最早それが何の夢だったかは覚えていないが、ランドグリズに纏わるまずいものなのだろうとは想像できる。何しろ夢の中で自ら呼吸を止めたのだから、係る状況が何だったのか、察しがつくというものだ。
アメリアはパイロットとして、他のスタッフとは違う待遇を受けている。食事の栄養バランスに気を使い、可能な限り筋肉に負担のかかる仕事を回さず、テントの雑魚寝ではなくキャンピングカーで就寝させるという具合に。全てはパイロットという最高級の部品に最高の調整を行なう為だ。だからアメリアが悪い夢などに物怖じせず、決められた刻限まで熟睡するのは、操縦士としての義務である。
とは言え、当然のようにアメリアは人間だ。テンションをモチベーションに変えて様々なトライを乗り切った彼女だが、肝心の本番直前になって、遂に不安が覆い隠せなくなってきた。短期間の突貫作業による代物とは言え、ランドグリズは実に良い機体である。そしてこれを上手く操れるか否かに関らず、自分に全てが託されているのだ。
アメリアは頭から敷布を被り直し、プラットフォーム上でのカウント&ゴーのシミュレーションをひたすら繰り返した。託された期待に応えられるのかどうか、そんな不安は日常の中で誰もが当たり前に持っている。しかしながらそれを自らの力で乗り越えるのは、託された者としての責務でもある。
<AM5:15>
大渡鴉の朝は早い。出番が昼からの滑空機部門10番目という事もあって、ランドグリズのスケジュールは然程急ったものでもないのだが、何しろ明日には超大型人力飛行機、レイヴンスⅡのフライトが朝一番から控えている。滑空機本番との同時進行で準備を行うのは、タイムスケジュールが非常に厳しい。もうすぐ東京から到着するだろうレイヴンスⅡの機材を待つまでの間が、今日という一日の比較的自由な時間となるはずである。この間に受け入れ準備をする者も居れば、パイロット達のようにストレッチを開始する者も居る。初日の応援の為に練習を詰めるのも重要な仕事だ。
キャンピングカーの中、ほとんどすし詰め状態で女子一同が総勢8人。全員が水着に着替えの真っ最中。
Aラインワンピースの良い所は、水着でありながら普段着然として可愛い所だとシャーリーは思っている。しかしながら派手に泳いだり動き回ったりするには不向きなデザインでもある。胸元のリボンを結びながら、自分もビキニの方が良かったのかとも考えてしまうが。
(駄目。ビキニはどうしても駄目。私、ビキニキャラって感じじゃないもの)
「そう言やさ、シャーリーはホットパンツをどうすんの? Aラインだと辛いんじゃない?」
と、ビキニキャラの申し子、アルフェッタが声をかけて来た。確かにその通りで、これではAラインがAラインたる所以、スカートの部分を捲り上げねばならない。このタイプだけでもホットパンツは除外という方向でお願いしなければと、シャーリーは決心した。
それはともかく、この面子で揃って水着を着るのは珍しい。水着になって初めて分かる友達の姿というものがある。アルフェッタの胸は、実は8割方筋肉だった。水着は爽やかなのに大鳥の疲れた感じは何処から来るのだろう。ゲルトの水着は小学生らしくてとても可愛い。風霞は、もっと訳の分からない水着を着るのかと思いきや至って普通。百々目の体は顔を挿げ替えれば男で通じる。首から上がペンギンでありマスクである山根は、白黒ツートンビキニと相俟って、圧倒的に何だか訳が分からない。そして体はベネズエラ、リコが声高らかに宣言した。
「はいっ、それでは皆さん、着ぐるみ装着!」
朝からシャーリーがどうにも気が乗らない理由はこれだった。カラスに似た生物を模したこの着ぐるみを装着し、これから駐車場の空きスペースでダンスの特訓が始まるのだ。客が居れば思い切る事も出来るだろうが、外に居るのはトリコン関係者と早朝の散歩をする人達がまばらに居るだけだ。このチョコボール状の物体が群れを為して現れた時、彼らは一体どんな顔をするのだろうと思うと。次いで言えば、尤もな疑問がついつい口をつく。
「これだったら、別に水着に着替えなくとも練習できるのでは…」
真っ黒な、内一体は白黒ペンギンツートンカラーのこんもりした着ぐるみ達が一列縦隊で行進する様は、近辺に居る人々にさぞかし脅威を感じさせた事だろう。風間はそんな事を思いながらスペースの向こう側に行く彼らを見送り、目線を三々五々と集まってきた応援団以外の者達に向けた。
「さて、今日のスケジュールを再度確認しようか。ランドグリズは最低でも11時までには完成させる。しかしもうすぐレイヴンスⅡの機材が搬入されて、それ用の陣地をまた構築しなきゃならん。その直後にレイヴンスⅡの仮組みを開始。オフィシャルの機体チェックは夕方の5時までだから、少なくとも4時までにはレイヴンスⅡを形にする」
「ちなみにランドグリズのフライト予定時間は?」
「恐らく午後3時から4時までの間ってとこだろう」
風間の言を聞き、全員が深刻な面持ちになった。一つのチームが二つの部門に参加するパターンは鳥人間コンテストでも前代未聞であるのだが、そうされない理由が今になってよく分かる。資金面、技術力云々以前に、割ける時間が足りないからだ。滑空機の本番フライトと平行して、人力飛行機の機材搬入・組立を、仮組み程度とは言え行なうのは非常に厳しい。恐らくは、ランドグリズのフライト以外の時間全てが、組立作業にほとんど費やされる事となるだろう。
進行する状況に待ったは効かない。これより大渡鴉は分刻みの過酷なスケジュールをこなして行く事になる。それでも苦労ばかりに苛まれるのかと言えば、そんな事は無い。彼らが一年を通じて培ってきた人の繋がりは、確実に彼らを助けてくれるはずだ。
<AM5:30>
ヨットハーバーの駐車スペースに、大渡鴉がチャーターしたトラックと、引き続いてマイクロバスがやってきた。
マイクロバスの運転手、平田は半分方寝ている乗客達に到着の旨を告げ、自らも運転席から降りた。朝とは言え湿気が重く暑苦しい空気を、顔をしかめて吸い込む。同じようにして既知の仲であるトラックの運転手も降車し、二人は軋む関節を軽く伸ばしてやりながら、ぞんざいに朝の挨拶を交わした。
「これで機材のピストン輸送は終わりか。後はせいぜい眠らせてもらいたいものだ」
「香車ぁ、お前、まだまだ経験が浅ぇなあ。俺くらいになると、睡眠欲すらコントロール出来るんだぜ?」
「そんな経験は積みたく無ぇな…ところで、あの走ってくるチョコボールはどちら様なんだ?」
「ああ、あれは、大渡鴉の応援団員」
と、言う傍から件のチョコボールが、マイクロバスから降りてくる人々の元に駆け寄った。燕子花がダンスの練習から脱け出して、到着した元人力飛行機部OB達を出迎えに上がった、という次第である。始めに鶺鴒皐月が気づいて、手を挙げて挨拶を寄越した。
「鶺鴒さん、それに皆さん、朝早くから御苦労様!」
「いや、御苦労様は大渡鴉の方さ…って燕子花君か。何処のチョコボールかと思ったよ」
「おはよう、燕子花君。ランドグリズの組み上げは終わっているの?」
ひょいと鶺鴒の後ろから顔を出した女性の顔を見て、燕子花は一瞬言葉を失った。面立ちは年数を経ているものの、その顔に誘われて自分達は八十神から琵琶湖までやって来たのだ。目の前に居る人は彼女とは違うのだと分かっていても、もう彼女とは会話を交わせないのだと思うだけで胸に迫るものがある。
「おはよう、弥生さん」
弥生ちゃん、という呼び方で親しんできた燕子花には、今だこの言い方が馴染めない。
「ランドグリズは6時くらいから本格的な組立作業に入る所だよ。フライトは昼以降だし、出来るだけ完成形の時間を先延ばしにしなきゃならないって」
「そう。時間は全然無いと考えた方がいいわね」
頷き、鶺鴒弥生はOB仲間を呼び集めた。
「私達は、これからレイヴンスⅡの陣地設営にかかります。この作業は7時までに終わらせて、朝食はその間ね。その後レイヴンスⅡの機材搬入の順番が回るから、総がかりでこれを降ろして行く事。昼の1時から機体チェックがかかるから、私達は邪魔にならない範囲でこれを手伝いましょう。作業配分は風間さんと葵さんに確認のうえ、重要なポイントは大渡烏に任せる事。主役の彼らを差し置いて出しゃばる訳にはいかないし、何と言っても私達の技術力の範疇を越えた代物ですからね」
弥生が小気味良く指示を出して行く。10年前の宿願であった鳥人間コンテストの本戦会場を、あのプラットフォームを目の前にすれば、湧き上がる感慨もあるだろうに、傍目からはそれを察する事は出来ない。こうして自分を抑えられるのが、年を経るという事なのだろうと燕子花は納得し、同時に烏丸弥生ならばどんな喜び方をするのだろうと、心の中で少しだけ笑った。
大渡烏がトラックを水泳場脇の道路に進入出来るまで、今しばらく待たねばならない。取り敢えず手で持って行けるだけの荷物を運び出すべく、運転手の香車がウィングの開放を始めた。
せり上がるウィングから徐々に見えてくるレイヴンスⅡの部材は、今はパーツ毎に分解されてバラバラになっている。それでも、この機体がどれ程巨大なものかは、トラックに満載の状態を見れば知れようというものだ
燕子花は体を大きく震わせた。この機体がプラットフォームのくびきから開放される時、それが彼女の喜びに満ちた姿なのだと。
<AM6:15>
初日出場選手の健康診断は7時30分からとなっているため、この時間からアメリアが急ぐ必要は無い。ましてやパイロットスーツに着替えるのは、ずっと後からでも結構なはずだ。しかしアメリアは、矢上から提供されたパイロットスーツをいきなり着込んでいた。寝苦しい夜の淀みをさっぱりと落とせる楽しさが、そのスーツにはあったからだ。
「ひめちゃん、これ、イイ! 凄くイイ!」
「でしょう? 趣味全開で作ってみたけど、大層喜んで貰えて嬉しい限りだわ」
スーツを着たままクルクルと回ってみせるアメリアのはしゃぎ振りに、苦労の甲斐があったと矢上も安堵した。色調は空の青と雲の白を配色した、これはアメリアをイメージしたものだ。ポリプロピレン素材のフルスーツは、体に張り付きながら動作の邪魔にはならない。他に見るべきは体の局所局所に対衝撃用のガードが装着されており、矢上らしいパイロットの安全性を重視した仕様だった。大満足の二人を前にして、同じくパイロットである神楽と双月は、しかしながら何となく複雑な面持ちである。
「これ、何てプラグスーツ?」
「それを言っちゃあお終いよ。大丈夫、二人の分もちゃんと用意しておいたから。神楽さんは情熱の赤! 双月さんは何となく白っぽいので白!」
「俺が白。つまり俺のスーツは、アレで言う所のアレに相当するのか…」
「無口系のキャラクターだしね」
結局アメリアはフライトが終わるまで、半日スーツを着て過ごす事になるのだが、スーツを体に馴染ませるという意味では、これはこれで良い方策であったりする。
「皆さん、朝食が出来ましたから、配膳の手伝いをお願いします」
雲母が空の鍋を杓子で鳴らすと、動物園の動物の如く、わらわらと人が集まってきた。全員が4時から5時起きであった為、良い加減に腹も空いているはずだ。
「今日はシンプルに一膳一汁です。炊き立てご飯と豚汁ですよ。豚汁は根野菜をふんだんに煮込んでいますから、栄養バランスは大したものだと思います」
「…野菜に埋もれているせいかな。豚肉が見えませんが」
「豚肉の代わりに、奥の方に鶏肉が入っています」
藤林が肩を落として寸胴を運び、雲母が手際良くご飯を椀に盛って行く。大渡烏総勢で25人分。そうこうする内に陣地設営に一区切りをつけたOB連15人が集まって、計40人による朝食。給食か、というこのレベル。規模だけ見れば参加チーム中最大の人員が、一斉にご飯をかき込む様は壮観だ。雲母も大変な役回りを担っているが、家事は慣れているだけに人の捌き方が上手い。
「で、俺と平田は駐車場の片隅でパンと牛乳か?」
「脇役だからね」
「おかわり!」
と、香車と平田の居る駐車場からでも、古雅勇魚の馬鹿でかい声が聞こえてきた。
「…古雅さん、居たの?」
「うん。27日分で黒井がすっかり出番を忘れてたから、遅れてOBと一緒に来たっていう設定なのよ! それはともかく、ご飯はマンガ盛りでお願いね!」
差し出す椀を受け取って、雲母が顔を引き攣らせつつマンガ盛りに盛り付ける。マンガ盛りとは、ご飯が山盛りでオブジェの如くそそり立つ、見た目とても楽しいもので、しかし面白がって試してはいけない代物だ。間違いなく私のように後悔する。
「あ、マンガ盛りじゃなくていいから、あたしもおかわり」
「駄目」
アメリアが突き出したお碗を軽くはたき、シンシアは代わりに野菜ジュースを手渡した。
「本日は腹六分目くらいで行ってみましょう」
「エーッ!?」
「エー、じゃありませんことよ? この胃袋女アメリカン。滑空機の重要部品が、自らウェイトオーバーして何とするのです? 体力を維持する栄養分は私の方できちんと計るから。あ、水分は好きなだけ摂っても結構よ」
一呼吸置いて、シンシアは全員に聞こえるように宣告した。
「皆さんも、出来るだけ水分は小まめに摂るようにして下さい。その際はスポーツドリンクか、水と塩分系のものを一緒に含むように。本日は真夏日との事で、気温が時間帯によっては35℃を突破します。加えて湖岸沿いの暑さは、想像以上ですからね。熱射病にかからぬよう、重々注意するように。一人でもダウンすれば、チームの力もダウンするのです」
確かにシンシアの言う通りだった。既に気温はこの時間にして、30℃に迫ろうとしている。今日の天気は快晴で、本戦スタートの頃合には、直射日光が非常に厳しくなるだろう。
「風が少し出てきた…」
不図アメリアは、頬に当たる風の方角へ目を向けた。琵琶湖の北の方から吹いてくる風は穏やかなものだが、浜辺では静かでも、沖合いに出れば複雑怪奇な方向で吹いてくるという。滑空機は人力飛行機に比べれば短い距離を飛ぶのだが、推進力に関しては風の比重が極端に大きい。やおらの突風があろうものなら、ぎりぎりまで追い詰めた機体構造から言って、それまでだ。
この風があたしの良い風でありますようにと、アメリアは心の中で祈った。
<AM7:45>
初日出場選手の健康診断は既に始まり、ランドグリズの組立作業も行なわれている。レイヴンスⅡの方は機材搬入が全て終了し、逐次こちらにも人員が回される事になるだろう。要するに、非常に忙しくなってきたのだ。
そんな時でも、山根は自分のペースというものを大事に守っている。無理をして倒れてしまえば貴重な作業人員に損耗が生じてしまうのは、山根自身も重々承知しており、だから作業をさぼってフラフラと出かけた訳では決してない。のどが渇いたからジュースを買いに出向いただけだ。大渡烏の陣地にあるのはスポドリ系ばかりで、偶には炭酸系でもと思うのも、精神衛生上の兼ね合いであり、我侭を言っている訳では決してない。
「うう。暑いわ暑すぎる」
初日もそんな事を言っていたが、ペンギン皮で全身を覆っていれば当然である。三叉路付近に自動販売機があるはずだが、朝も早くからジュースやお茶が飛ぶように売れている。早めに行かねば目当てのものが無くなってしまうと思えば、山根もペンギンである我が身を叱咤し、引きずるように三叉路へと向かうのだった。
一旦浜から離れてみると、大会の開催に合わせて多くの人が集まっているのが、只中に居るよりも実感できる。手製の飛行機がずらりと並び、参加者や観客が自由に行き交うその空間は、山根にもちょっとしたパラダイスのように思えた。
「…あ、もうプラットフォームに飛行機を上げるんだ」
司会二人による収録の開始は昼の12時からだが、スケジュールの進行上、タイムトライアル部門が朝の8時に始まる運びとなっている。いよいよこれから始まる、という実感が些か薄いのは寂しいものだ。それにしても牧歌的な光景である。まるで地元のお祭りみたいではないか。
額の汗を拭き、とは言えペンギン羽ではどうにも上手く拭けず、それでも山根はどうにかお目当ての自動販売機までたどり着いた。しかして其処には、見知った顔が露店に一人。
「青空さん、何やってんです?」
「おう、よう来たなあ。そんなジュースなんて飲まんと、どや、カチワリとカキ氷は。どちらかと言えばカチワリの方が超お勧め。甲子園価格よりお買い得、一個たったの100円也!」
山根は迷う事無く120円でカナダドライを購入した。
「あーっ! またそんな甘たるいモンを! ウチの美味しい水道水をスルーしよってからに!」
「いえ、カチワリも買うので。防熱対策として」
「あ、こりゃまいど」
山根は青空からカチワリを一つもらい、首からぶら下げてペンギン皮の懐に捻じ込んだ。こうすると何となく呼吸が落ち着いて、実に気持ち良い。
「て言うか、脱げばええんとちゃう?」
「はっはっは、脱ぐなんてまたご冗談を」
等と言う傍から青空露店のカキ氷とカチワリは次々と売れて行く。まだ8時にもなっていないというのに、この暑さは何とも形容し難い。売り子の青空も全身濡れネズミ状態で、タダバイトをまんまとせしめた商店主のオバハンの笑顔が、段々と悪魔の笑い顔に思えてきた(念の為、このオバハンは実在の人物ではありません)。
「すみません、一緒に写真を撮ってもらえますか?」
と、親子連れの母親が、山根に声をかけてきた。実はここに至るまで、山根は観客達にガンガン写真を撮られている。何しろペンギンが無防備に歩いているのだからして。これにて南極人の認知度も上がろうというもの、等と山根は心中でほくそ笑み、快く変なポーズを決めてファインダーに収まった。
「つくば鳥人間の会の方ですよね? 2番目だからもうすぐですけど、頑張って下さいね!」
手を振りながら笑顔で立ち去って行く親子を眺めながら、山根は首を傾げて青空を顧みた。
「どういう事?」
「あー、ほら、つくば鳥人間の会は、トレードマークがアレやから」
青空の指差す先、応援に向かうべく隊列を組む一行のTシャツにはペンギンのトレードマーク。飛行機もペンギンの絵が描かれ、とどめにペンギンの着ぐるみが鎮座しているという有様。
「そんな! わたしの方がずっとペンギンなのに!」
きいいい、と地団駄踏んで悔しがる山根だが、残念ながら傍目には、つくばの一員としか思われていないのが実情だった。
「大体、何でペンギンなのよっ。果たしてペンギンの姿に意味があるのかしら!?」
「その言葉、そっくりそのまま自分に返ってきとるで」
「いえ、わたしは存在そのものがペンギンですから」
等と言う間にも時間は刻々と過ぎて行く。時計の針が、きっちり8時を指し示す。
『これより鳥人間コンテスト、人力プロペラ機タイムトライアル部門を開催致します。本大会はテレビ放映をされるものでありますので、ビデオカメラでの撮影は御遠慮頂けますよう、お願い申し上げます』
青空と山根、それに観客や参加者達が、一斉にプラットフォームを見上げた。遂に本戦が始まる。この時を迎える為に、自分達はここに来たのだ。
<AM8:00>
「撮れ、藤倉君。デジカムで鳥人間を撮ってしまうのだ!」
「しかしさっきビデオカメラは控えて下さいって放送されましたよ?」
前日に引き続き、今日も手合と藤倉は大会の記録撮影に勤しんでいる。さすがに今日は人手が多く、合間を縫って写真を撮るのも大変だ。各チームの偵察隊も相変わらず出張っているが、見た所藤倉の言う通り、大会の規定は何処も遵守している。
「むう、仕方ない。それではカメラで写真を撮りましょう。藤倉君、テイクオフの瞬間をばっちり収めて下さい」
「心得ました」
言って、藤倉はカメラをプラットフォームに向けた。
…一分経過。
……五分経過。
「飛びませんね」
「まあ、インタビューとか風力の測定とか、色々ありますからね」
これはその通り。プラットフォーム上に機体がたどり着いても、実際のテイクオフまではそこそこの時間を費やすものだ。仕方なく二人は、再び各チームの作業風景を撮る事にした。
「…何ですか最後の写真は」
「うちの犬です。構成上、何だか中途半端だったので」
それはさて置き、各チームとも凡そ機体は上がりつつある。ランドグリズも鋭意突貫作業中だが、矢張り他チームの方が手馴れた感があった。
プラットフォームへの搬入にもそれは言える事で、古株のチームほど搬入が上手い。大渡烏としては、参考に出来る箇所は全て盗んでしまいたい所だ。こうして二人が記録を残すのは、大会に際してのノウハウを習得するという意味合いもある。次の参加者へと繫いで行く為に。
『お待たせ致しました。人力プロペラ機タイムトライアル部門のフライトを開始致します』
来た。ようやく一番機のフライトが行なわれる。慌てて藤倉がカメラを構え、手合が固唾を呑んで成り行きを見守る。プラットフォーム上では係員が旗を振り下ろし、一番機がテイクオフの姿勢に入る、正にここぞという瞬間だった。
「すいません、手合さん」
「何ですか、大事な時に」
「電池が切れました」
「ギャーッ!?」
実は初日の写真というものを私もほとんど持っておりませんでして、理由は上記同様、電池切れ。ファインダーを開いて電源オンにしっぱなしだったという訳ですね。何だか曇り空が多いのは2日目の写真が多いからであります。前回の謎の胸ポケット写真が、初日の昼間最後の一枚というお粗末さ。何て言うか、興醒めですみません。
<AM10:00>
昨日の仮組みとは異なり、フライトを視野に入れたランドグリズの作成は、微に細を穿ちながら念入りに行なわれている。
ゲルトルートは最後の調整に余念が無い。フレームとコクピット回り、尾翼のリンケージは完了している。後は横たえられた主翼を接続すればランドグリズの完成だが、肝心の主翼部分について、ゲルトルートは入念にチェックをかけていた。
主翼はフォーミュラクラスと言えども、12m級である。しかも羽ばたき機構という凝りに凝ったカラクリが付与されており、ともすれば、この羽ばたき機構そのものが脆弱性の要因となる可能性は大だ。僅かな接続の差異や傷が命取りとなるだろう。特設校の匠学館工芸高校所属の身としては、プライドを賭けて臨まねばならない仕事だと、ゲルトルートは自負している。
「少し根を詰め過ぎではありませんか? こまめに休息を入れた方がいいですよ?」
と、シャーリーが心配げな顔でお茶とタオルを差し出した。
「ありがとう、シャーリーさん…何故タオル?」
言って、ゲルトルートは顔中から滝のような汗が滴り落ちている自分に気が付いた。手先の作業も集中を極めると、全身運動とは違う類の汗が出てくるものだ。ゲルトルートはタオルで顔を拭いながら浜の砂に腰を落とし、その瞬間目の前がグラリと傾いた。咄嗟シャーリーが手を差し伸べ、後ろに倒れる彼女の体を支えてやる。
「大丈夫ですか!?」
「ごめん、ごめん。ちょっと、立ち眩みを起こしてしまった。この場合は座り眩みとでも言うのかな」
軽口を叩きつつ、ゲルトルートは己の体が早くも音を上げ始めている事に驚いた。この時間になって照りつける太陽光線は強烈さを加速させ、しかも陽は天辺に到達していないのだ。長丁場を覚悟して、ゲルトルートは言われた通り日陰に身を避難させ、舐めるようにお茶を飲み下した。
進行しているタイムトライアル部門を初めて注視する。順番は現在名古屋大学の五番機がプラットフォーム上で待機中。矢張りテレビで観るのとは異なり、非常にゆっくりとスケジュールをこなしていた。後続の東海大学と東京理科大学は傾斜の所で機体を支えたまま順番を待ち、首都大学東京が搬入開始の途上。この「待つ」時間もさぞかし大変なのだろうと、ゲルトルートは思わず縮み上がった。軽い人力飛行機とは言え、進行の具合によっては1時間近くも直射日光にさらされるのは、大変の一語で済まされない。
「競技、どうなっているんだろう」
「今の所、完走出来たチームは無いようですね…」
名古屋大学・エアクラフト機が発進した。出だしは悪くない。が、すぐに風の煽りを受けて右方向に流され始め、スタートラインに到達するまでに揚力を喪失、落水した。二人揃って、溜息が漏れる。
「本当に難しい…。どれだけ長い時間をかけて、精魂込めて機体を作っても、ちょっとした要因で簡単に水泡に帰するんだ」
軽量化と強度のバランスを切り詰めた飛行機の危うさを思い、ゲルトルートは自らも手がけたランドグリズに情を寄せた。この機体も、恐らく200mは飛ばずに落ちてしまう。落ちてしまえば、その修復はほとんど不可能で、一から全てをやり直さねばならない。
ならば少しでも長く、飛行機としての存在意義を発揮させてあげよう。それが開発者としての責務なのだろうと。ゲルトルートは休憩を切り上げ、再び主翼のチェックに取り掛かった。
<AM10:50>
レイヴンスⅡの機体チェックについては、オフィシャルから主翼接続を行なわなくとも良いとの通達が入っている。作業量の負担を鑑みた訳ではなく、機体があまりに巨大な為、他チームの搬入・搬出に支障が生じると判断された為だ。都合、主翼部位は単独で浜辺の縁に横たえる格好になり、多少は作業負担の軽減にはなっていた。
しかし仮組みとは言え、レイヴンスⅡのそれは大作業である。コクピットから連なる駆動系は前後リカンベントという特殊な形状も相俟って、他所の機体と比すれば倍の時間を見て作業を進めなければならない。
よって人員はレイヴンスⅡの側に多くが割かれている。ランドグリズチームは風間、葵、音羽、ゲルトルート、水城、青空、シンシアという布陣で、レイヴンスⅡチームはOB連を含めて残り全員である。
「ほら見なよ、アルフェ。芝浦工大がうちらを見に来てるってば」
フレーム接続作業に従事していたリコが、隣のアルフェッタの脇腹をつつく。そちらを見れば、確かに芝浦工大の黒いTシャツが数人、腕を組んで大渡鴉の作業風景を眺めている。
「そりゃあ気にもなるよ。同じコンセプトの機体だもの」
汗を拭きながら一息ついて、アルフェッタがリコに応える。芝浦工大の機体もレイヴンスⅡと同じく、タンデム型の巨大機だった。機体の出力を上げて1秒あたりに突進する距離を、1mでも延ばして行く。しかし決定的な違いは、レイヴンスⅡが前後リカンベントという特異な形状を有している点である。前後アップライトで操縦スペースの長さを縮めている芝浦工大側としては、大渡鴉の成果に興味を抱いて当然だ。
「とは言え、タンデムの経験値に関しては芝浦の方が二回り上さ。当面のライバルは、彼らって事になるんだろうね。なあ、リコさ、レイヴンスⅡの事なんだけど」
お茶を含みつつ、アルフェッタは作業の手を休めた。
「タンデムじゃない方が、レイヴンスⅡはもっと戦える機体になってたのかね?」
「おいおい、今更そりゃないんじゃない?」
「そうなんだけど。タンデム型は本戦でも、1kmを越えた試しが無いって言うしね」
操縦士二人分の重量を支える兼ね合いで、タンデム機は乾燥重量が通常機の倍以上になってしまう。二人分の出力を持ってしても、タンデム機の揚力を支える事は困難なのだ。
「それでも芝浦がタンデムに拘るのは、やりがいのあるトライアルだと思ってるからだろう? アタシ達だってそうだよ」
リコのリアクションは簡潔で淀み無く、さっぱりとしていた。
「どだい最初ッからトライアルなのさ。人力飛行機を作って、たかだか一年生のアタシ達が競技会に参加するってのは。だったら一等賞とか、そんなの考えなくったっていいんだよ。思いつく限りのアイデアを盛り込んで、少しでも長く飛び続けたいって、レイヴンスⅡはそういう気合のこもった機体だもの。だからアタシがレイヴンスⅡにしてやれるのは唯一つ」
「唯一つ?」
「声が枯れるまで応援してやるさ。パイロットとして飛ぶ事は出来ないけれど、パイロットがペダルを踏み込む力に、一つや二つ上乗せするくらいの事はしてみせる。あたしの応援は嵐をよぶぜッ!」
「いや、本当に嵐が来たらまずいんだけど」
そう言いつつも、アルフェッタは何となく前向きな気分をリコから貰う事が出来た。明日になれば、レイヴンスⅡは湖上の空を飛んでゆく。グラウンドを使った飛翔実験は行なったものの、本格的にこれを飛ばすのは初めてとなるのだ。結果云々を今から考えても仕方ない。長いようで短い一年間の集大成を、期待をもって見守ろう、と思う。
「城輪から、たかだか直線距離で500kmの琵琶湖だけど、遠い所まで来たんだって気がするよ」
アルフェッタの感慨は、全員の気持ちでもある。
<AM11:00>
ランドグリズの基本設計は青空の原案を元にしている。
其処からパート毎に分担を決めて機体を練り上げて行く過程は、レイヴンスⅡと同じである。が、当初から振り分けられる人員はレイヴンスⅡと比すれば、ランドグリズがフォーミュラであるとしても非常に少ないものだった。それでも仕上がった機体は非常に良好なスペックを有しており、開発に携わった者達の総意としては、十分に上位を狙える機体という認識がある。
詰めの調整は慎重に行なわれた。尾翼を音羽、フレームからコクピット回りをシンシア、青空、ゲルトルートが担い、主翼は水城、風間、葵が担当。元々出来上がっているものをチェックするだけと言えばそれまでだが、輸送途中の振動による構成の狂いは、寸分であろうとも注意しなければならない。
組み上げそのものは、小規模も相俟ってチェック作業よりも気楽である。むしろ自分達のアイデアが一つの塊として形成されてゆく様は、見ているだけでも楽しい。どんな風にこれが空を飛んでくれるのかと思うだけで、目にしみる滂沱の汗も一時忘れてしまいそうだった。
そして遂にランドグリズが完成した。
組み上げられた機体は実に華奢で、何より飛行機として美しい形状をしていた。スラリと伸びたフレームの最後尾にシンプルなV尾翼が立ち、平面楕円低翼の主翼は、しなやかで女性的なフォルムを有している。風防は空力特性を鑑みてシャープに先端へと収斂しているが、決して険しい印象は無い。ランドグリズという伝説上の人の名は、この機体に言い得て妙なのだろう。
「取り敢えず、尾翼から崩壊しない事を祈るばかりだぜ」
ゲータレードで喉を鳴らし、音羽は自らの手がけた尾翼を労わるように撫でてやった。
「尤も、レイヴンスⅡの方も心配せにゃならんのだけど」
「取り敢えず、お疲れさんと言うとくわ」
青空が肩を回しながら近寄って、音羽の胸を小突いた。一定の姿勢を保ったまま作業を進めていた為、其処彼処の関節が痛む身でありながら、青空の表情は名前通り御機嫌である。
「この大きさの滑空機としては、結構なもんに仕上がっとるで。普通に飛んだら、多分100m以上は固い」
「100mぅ? また随分と小さく見積もってんのな」
「そういうナマは過去の大会実績を調べてから言いや。そんだけ飛ばすんも色んなチームが右往左往しとるんやで? 普通って言っても100mは大したもんや」
「普通に飛べばの話だろ?」
ゲルトルートが二人の会話に入って来た。普段から大して笑わない娘なのだが、ようやっとランドグリズが完成したにも関わらず、その表情は何時もに輪をかけて難しい。
「羽ばたきという機能を、どのタイミングで使うかが肝になるね。あれは羽ばたきを開始する瞬間に、機体の揚力が一気に下落する。それを補って余りある揚力を羽ばたきで引き出せるか否かってのも問題だけど、もし後ちょっとで落水、ってタイミングだったら最悪。バラッと主翼が折れ曲がった瞬間、一気にドボン」
「その点はアメリアに任せるしかねぇな。あの天才少女の野性のカンが、ここぞって使用時を判断してくれるだろうさ」
「そんな野良の生き物みたいな言い方せんでも。大丈夫、ちゃんとあの娘なりにフライトプランは用意しとるんやから」
と、葵先生が三人を手招きした。今から手合のカメラで、完成したランドグリズを前に記念撮影を行なうのだという。
「レイヴンスⅡ同様、ランドグリズも短いながら思い入れの深い機体じゃ。こうしてランドグリズと共にあった記憶を形として残しておくのも良いであろう」
彼女の言う通り、ランドグリズと間近にあった記念を残せる機会は、恐らくこれが最後だ。どうやっても落水してしまえば、滑空機として使い物にならなくなってしまう。次の機体の為に部品の流用が出来ようと、それは元のランドグリズではない。この時、この仲間達で作ったからこそのランドグリズなのだ。
レイヴンスⅡの陣地からも全員集まって、記念写真の準備は整った。真ん中にパイロットのアメリア、周囲をランドグリズチームで固め、手合の合図に合わせて笑顔を作る。
音羽は不図、己の背後に鎮座するランドグリズを見遣った。ランドグリズと同じようにレイヴンスⅡが落水した時、烏丸弥生とも本当の意味でのお別れになるのかもしれないな、と。
そして記念写真は、音羽だけが後ろを向いている物が仕上がった。
<AM11:30>
昼食は雑炊である。
「雑炊ぃ~?」
「雑炊はいいんですよ。消化もいいし、きっちり野菜を煮込んでやれば、優れた栄養バランスを摂取できますからね」
「…肉は入っていないんですか?」
「鶏肉ならば、よく探せば見つかります」
肩を落として雑炊の椀を受け取る藤林の寂しい姿も、そろそろ毎度の恒例となりつつある。それはさて置き、毎回手を変え品を変えでメニューを考えてくる雲母の創意工夫は、チームに良い方向の活力を与えていた。高カロリーの出来合いばかりを食べていると、集中力が散漫になる上、酷暑の環境下では体調を崩し易くなっていただろう。勿論、雲母一人で料理を切り盛りしていた訳ではなく、住環境に配慮を続ける葵先生やシャーリーの助力も拠るところが大きい。
「待って。アメリアさんのは別メニューになっています」
自分の椀を差し出すアメリアの手を優しく横に退かせて、シャーリーはにっこり笑って弁当を手渡した。
「あ、トンカツ弁当!」
「風間先生からですよ。ゲンを担ぐ定番メニューだそうです」
少し離れた場所から、風間先生が軽く手を振って挨拶を寄越す。弁当はまだ温かく、偏りがちなコンビニ弁当とは違って、内容がきちんとしていた。アメリアの為に、わざわざ真っ当な弁当屋へ買いに走ったという所だろう。アメリアは風間先生の配慮に感謝しつつ、弁当の蓋を開いた。その途端、横から伸びてくる二本の箸。
「御飯は1/3カット。トンカツは1/2カット。スパゲティは炭水化物過多だからオールカット。生野菜はよく噛んで全部食べる事」
「え? え?」
と言う間にヒョイヒョイと弁当が削られて行く。結果シンシアの手によって、弁当の中身は随分と隙間が生じてしまった。アメリアは、凹んだ。
「こんなんじゃお腹が空いて飛ぶ事が出来ないよう!」
「咄! 羽ばたき機構をフルパワーで発揮出来る、最低限の栄養があれば良いのですわ。それ以外の食事は自重を増やすのみ!」
「すいません。余ったトンカツの処分については僕にお任せを願いたいのですが」
「何が?」
言って、トンカツを次から次へと咀嚼して嚥下するシンシアの手前で、藤林が轟沈する。
「おー、ここやわ。高校生主体の大渡鴉チーム」
「すんません、ちょっと本番の収録前に話をさせてもらえますか?」
昼時もたけなわの頃合、見慣れぬ二人の青年が大渡鴉の陣地にやってきた。見ればオフィシャルのTシャツを着ており、しかし何処となくスタッフという雰囲気でもない。一同顔を見合わせ、また二人の顔を凝視する。そして申し合わせたように揃いの一言。
『誰?』
「って知らんのかい! ブラックマヨネーズ! 略してブヨ」
「わしらは害虫か!」
「2005年M1グランプリ優勝、紳助兄さん曰く『4分間の使い方、抜群やね(紳助風)』」
「過去の栄光を引っ張り続けて早2年」
遂に来た。チームリポート担当、鳥人間コンテスト恒例の賑やか師、今年は漫才コンビのブラックマヨネーズがその役回りを担っている。本番収録にて各チームの応援風景をリポートする際、事前にチームを回ってネタを拾い集めるのだが、その順番が巡り巡って大渡鴉にも回ってきた、という次第。
「しかしホンマわしら知りはらへんわ。はぁ。全国区は程遠いで。お前の頭頂前部にその秘密があるんとちゃうか」
「秘密?」
「照明が一つ余計やから」
「ハゲやない! まだ其処までハゲやない! それはともかく、こんだけ外国の子等が居ったら、ただでさえ関西芸人やのに知らんで当然やな」
「ホンマやな。てか、ちょっと比率が凄いなあ…。なあなあ、何でこんなに外国の子らが多いん?」
と、いきなりブラマヨのハゲていない方、吉田が赤城に話を振ってきた。軽く咳き込みながら、ほんの僅か赤城が言葉を詰まらせる。書記達の攻撃に対して身を守る為、全世界から一箇所に集まってきた輪楔者だからです、等とは口が裂けても言えない。
「八十神学院は創立からこの方、留学生の受け入れに積極的なんだ。多様な国籍の人々との交流を通じて、国際社会に通用する人格を形成する、ってのが八十神の理念」
気を取り直し、赤城が淀み無く偽装模範解答を述べる。ありがちながら分かり易い理屈であり、ブラマヨの二人もあっさりと納得してくれた。
「そう言や、御家族は来てへんの? 外国の子らはしょうがないけど、君らの親御さんは誰も居らんように思うんやけど…」
ハゲている方、小杉の尤もな観察眼に、今度こそ赤城は絶句した。ほとんどの場合、輪楔者の異能はふた親に関係なく、突発的に出現する。だから八十神学院に生徒達を招聘する際も、一般人である両親に対して学院の内情が明かされる事は無い。都合学校での活動は家族にすらほとんど伏せられ、そんな状態に慣れきってしまった結果、此度の鳥人間参加も生徒自身、誰一人として親に報告をする者が居なかった。
「それについては、敢えてわらわの側から緘口令を敷いておるのじゃ」
困り果てた赤城に代わり、葵先生が横合いから助け舟を出す。
「この学校は全寮制で、皆が親元には滅多と帰らん。親御殿も寂しかろうとは重々承知しておる。であるから、子供達の晴れ舞台を前振り無しにTVでお見せし、サプライズをプレゼントして差し上げようという趣向じゃ。何せこういう形で学校の名前が全国に出るのも初めてであるからな。無論、また来年の参加が成れば正式に学校として、わらわが御家族を招待するものである」
苦しい。かなり苦しいよ先生。赤城は思った。その苦しさは、口元を引き攣らせる葵先生の様を見ればよくよく分かる。とっぱちアドリブの理屈に対し「いや、一緒に見てもらった方がサプライズをプレゼントちゃいますのん?」との突っ込みは容易く有り得たのだが、如何せんブラックマヨネーズは違う所に食いついてくれた。
「わらわ!?」
「わらわ、って素で言うてはるわ。しかも目茶目茶自然に」
「わらわはわらわで、わらわとしか言い様が無いとわらわは思うのだが」
「貴族ですか」
「武家ですか」
「いや、まあ、わらわというのは武家女性の謙遜自称でしてね…」
風間先生が更に訳の分からないフォローに回り、上手く話題が明後日の方向に逸らされて行く。赤城は安堵して、少し冷めた雑炊を啜った。
一般社会との関わり合いを前にして、こんな形の齟齬が生じる等とは予想していなかった。運命という名の異能持ちである以外、自らは普通の人間だと思っていても、閉鎖された環境に浸かってみれば、感覚の落差というものが鋭く自覚できる。だから自分達は、鳥人間コンテスト参加を一つのきっかけにして、もっと外の世界を知るべきなのだろうと、赤城は思う。そして外へと向かって行く八十神の、その先端に自分達が位置しているのだとすれば、実に痛快な気持ちにもなれる。
<PM12:00>
タイムトライアル部門は出場9チーム中8チームが記録無しという困難な状況に陥ったものの、最後の9チーム目、堺・風車の会が規定ルートを飛び切って優勝を果たした。前回でのゴールに辿り着く寸前に落水という失敗を、実力で覆した彼らに惜しみない賞賛の拍手が送られる。
そして第二ステージが始まった。3つのカテゴリィ中、最も参加チームの多い滑空機部門。大渡鴉が10番目のフライトに送り込むランドグリズは、既に完成された機体を浜辺に定置され、機首を琵琶湖の対岸に向けている。遥か遠くを見据えるその姿は、さながら両翼を広げて立とうとする水鳥のようだった。
『今年も夏の琵琶湖に鳥人間達が帰ってきました。今年で31回目の鳥人間コンテスト。司会を勤めさせて頂きます、今田耕司です!』
『…』
『あれ?』
『え? あ、すいません。東原亜希です!』
『はい、もう一回録り直しやね。まあ、テレビはこんなもんなんですよ皆さん』
『ごめんなさい~』
と、今田、東原、荻原次晴の三人による開会宣言は、初っ端の駄目出しから始まった。ちなみに本放送時、今田氏が笑いを噛み殺しながら台詞を述べているのは、その前のNGを引っ張っているからですね。
そんな膝カックンをくらうような始まり方にもめげず、大渡鴉はこれをもって本戦モードへのスイッチが入った。既に現場は白熱した雰囲気に包まれており、頂点を過ぎ行く太陽の苛烈な日差しの下、蒸発する汗と熱気で景色が揺らぐかのようだ。初出場する滑空機部門の開催を目の当たりにして、各々が役割を果たすべく、闊達に行動を開始する。
「さあ、始まった!」
軽く拳を打ち鳴らし、アメリアは取り敢えず腰回りと足首の筋肉をストレッチで解し始めた。しかしフライトは10番目という事もあって、順番が回ってくるのは随分と先になる。それまでパイロットのやれる事と言えば、自らの体調に重々気を配る以外に、実の所無い。アメリアにとってはある意味一番緊張を強いられる時間かもしれない。
「あ、ストレッチは二人でやった方が効率はいいわよ?」
言いつつ矢上がアメリアと背中合わせになって、互いを背負い合いながら胸筋とアキレスを伸ばして行く。背格好の似たもの同士である為、何をするにしても二人のコンビは良い取り合わせである。
「出来れば上半身の方に比重を置いて下さいな。腹這いの格好で両手に気を入れると、側横筋から引き攣りを起こしますからね」
ストレッチの様子を右から左からチェックしつつ、シンシアが的確にアドバイスを送る。受けて矢上も、横からアメリアの腕を取って、最深層の腹横筋まで刺激を及ぼせるように引っ張った。柔軟な身体構造のアメリアが、若干眉間に皴を寄せる。
「あいたた。ひめちゃん、ちょっと痛い」
「ちょっと痛いぐらいが丁度いいのよ。筋肉の奥の方は、負荷への耐性が弱いからね」
「そう。特に羽ばたきなんて代物をあの格好で始動させるとなると、足の踏ん張り無しでは凄い負荷が上半身にかかってくるはずよ」
矢上とシンシアの意見は一致している。本来、重心移動と手元の操作がメインの滑空機とは異なり、ランドグリズは或る意味人力飛行機以上に過酷な羽ばたき機構があるのだ。だから可能な限り体を慣らしておく事が望ましい。と言うより、最低限の必須項目である。
「あら。あの二人、喧嘩もせずに随分と息が合っているじゃない」
「もう試合は始まっている。あいつらも分は弁えているって事だろ」
神楽と双月が浜辺の三人を眺めつつ苦笑した。二人はランドグリズ陣地の撤収作業を手伝っていた。未だ機体は待機させたままなのだが、レイヴンスⅡの作業に注力しなければならない都合上、所謂雑事は手早く片付けておくに限る。
「あ、いたいた」
「二人とも、久し振り」
と、声をかけられた方を振り返ってみれば、其処にはちょっと懐かしい顔が居た。第一回目のパイロット選抜戦の折、自分達にウルトラライトプレーンを提供してくれた、伊賀フライングサークルの代表が二人。
「え? 士渡さん!?」
「こりゃ、びっくりだな。どうしてここに?」
「どうしてって、そんなツレない事を。風間先生とは事後の連絡を取り合っていたからさ」
「2種目エントリーですって? 豪気じゃない。競技は始めから終わりまで、きっちり見届けさせてもらいますからね」
言って、士渡紅玉は目を輝かせてランドグリズに見入った。レイヴンスⅡは後からじっくり見られるとしても、これから本戦に向かうランドグリズを観察出来るのは、恐らく後2時間と無いだろう。
「よく出来てるわ。表面の仕上げも凄く丁寧」
「数字上のスペックに関る部分は設計と工作で担う箇所やけど、仕上げはそうやないからね。言わば愛。飛行機への揺ぎ無き愛」
「全く持ってその通り」
ランドグリズの駆動伝達系をチェックする青空と、主翼の周囲を歩いて回る紅玉が、ひょいと顔を合わせた。互いに笑顔で向き合うも、直後に首を傾げてしまう。
「どちらはんでしたっけ?」
「前の選抜戦の時には居なかったよね?」
「つばめ、誰この人」
青空を手伝っていたゲルトルートが間に入るに至って、話は更にややこしくなった。青空が大渡鴉に加入したのは一次選抜直後、ゲルトルートはつい最近なのだから、互いを知らなくとも当然である。
「俺達が見ていない間に、彼らも進歩したって事だろう?」
「そうね。一つの目標に向けて人が集まって、研鑽と努力を積み重ねて行く。人生に通じる話だわ。それじゃ改めて自己紹介」
打ち解けた感じで話し込む彼等を横目に、神楽と双月は撤収作業を再開した。士渡夫妻とは積もる話題もあるのだが、今は為すべき仕事を優先しなければならない。全てが終われば、このプロジェクトに力を貸してくれた人々とゆっくり話をしたい所だ。不図、神楽が頭を振って笑いを堪える。
「出演キャラクター総登場じゃない。まるで最終回ね」
「俺達のトライアルの区切りとしては、な。しかしこうして色々な人達と紡がれた絆は、終わりなんかじゃねぇさ」
「そうかもね。あたし達は終わりと始まりを繰り返しながら、変わらないものを育てるのよ」
それは志や友情、愛といったものなのだろうと神楽は思う。言葉にすると気恥ずかしいが、とても大切で代え難いものだ。このトライアルが終わって、出会えた少なからぬ人々が再び散り散りになるのは寂しい事だが、心の奥底で繋がった絆はバラバラにならないのだと、神楽は信じていた。
(ほう、あの二人、ここに至って息を完璧に合わせてきたか)
風間は機材を抱えて歩いて行く神楽と双月の後姿を見送り、そんな事を思う。何らの作業をするにも阿吽の呼吸でまとまり、御丁寧に歩幅まで一緒だ。選抜戦の際のライバル意識を既に過去とし、今やタンデムのパイロットとしては理想の同士と見受けられる。別に風間の方から指導を加えるでもなく、彼らがそう成るべきとして成った結果だった。生徒達の成長振りに舌を巻きつつ、風間は携帯電話の相手に気を傾けた。
「コースマスの社長さんが、わざわざ琵琶湖まで応援に来て下さるとは、大変光栄でありますな」
『社長じゃねーよ。代表だ。ま、こちとら色々応援もして来た事だし、運転手二人の仕事振りも確かめておきたい』
「どうせ他にも、何か考えがあるんだろう」
『やだねえ、大人は。勘繰り深くってさ。少年少女の挑戦って奴を、お互い素直に楽しみましょうや。それはともかく、トラックはそっちに回さなくてもいいのか?』
「他の搬入車の邪魔になる。撤収の第一弾がもうすぐそっちに行くから、ウィングを開放しといてくれ」
『了解』
携帯を切って、風間は撤収作業に従事するOBに声をかけた。
「ちょっと遠いですが、テント回りの機材はパーキングまで運んで下さい。工具類はレイヴンスⅡの陣地へ。すいませんね、色々手伝わせてしまって」
「元々こういう仕事をする為にここまで来たんですから、いいんですよ。弥生、工具の搬送は君に頼む」
「分かったわ」
皐月の言に頷いて、弥生はランドグリズの組み立てに使用した工具類を手に、レイヴンスⅡの陣地へと歩いた。其処は明日のフライトのトップバッターという事もあって、プラットフォームに最も近い場所にある。プラットフォーム上では滑空機部門の一番機が既に待機し、後続の機体もずらりと並んで順番待ちをしていた。工具を持って短い距離を歩いただけで汗が吹き出る陽気の下、機体を支えて直射日光に晒され続ける彼らの苦労は如何ばかりだろう。正に好きでなければ出来ない仕事だ。
好きだからこそ、どんな苦労にも耐えられる。そう思って高校時代、人力飛行機の開発に取り組んできた自分だったが、死を垣間見る経験を経て、その気持ちは木っ端微塵に打ち砕かれてしまった。かつての宿願だったバードマン・ラリーの場に立ち、レイヴンスⅡのフライトを見られるという僥倖を得た今でも、心が修復されたとは思っていない。年を取るとは厄介なものだと弥生は思う。
レイヴンスⅡは総がかりで仮組みが行なわれていた。多少の時間を費やしたが、もうすぐ機体は取り敢えず形になるだろう。そしてオフィシャルのチェックが終われば分解され、各パーツの点検を経て、本番直前までに最終の組み立てが行なわれる。あのプラットフォームから飛び立って、数十秒、数分、願わくば数十分の後、レイヴンスⅡは役割を終えるのだ。飛行機としての確実な死を前提にして明日の空を飛ぶ、という事だ。しかしながら次第に形作られるレイヴンスⅡの姿は、希望が具現化するかのようだった。
弥生は工具を生徒達の邪魔にならない所に置いて、プラットフォーム上をもう一度眺めた。丁度ゲートオープンを告知する白旗が掲げられる瞬間で、応援席の実況が忙しくしゃべり始めている。一番手、首都大学機。滑空機部門の強豪チームのフライトスタートを見守るべく、観衆の目線が一点に集中する。その機体は軽く体を前傾にして身構え、僅かな溜めを置いてから、猛然とプラットフォームを蹴り出した。
<PM13:00>
「…暑いですね、本当に」
「暑いって言葉、人生の中で一番多くしゃべってますよね」
テントの陰で腰を下ろしていても、何しろ空気自体が湿り気を多く含んでいて、粘っこく肌に張り付いてくる感触が大層気持ち悪い。シャーリーと大鳥は野垂れ死んだように身を横たえる仲間達と共に、進行する滑空機部門をぼんやりと眺めていた。
こうして見た目気の抜けた時間を過ごしているのも、レイヴンスⅡがようやく形を整えたからだ。今は何人かが軽くチェックを入れている程度で、後はオフィシャルによる機体点検の順番を待つばかりである。
「そして機体をバラして、パーツの不具合が無いかを延々凝視して、また組み立てて、湖にドボン」
「大鳥さん、今日は何時にも増してネガティブですね」
えへ、えへへ、と、二人の口から危険な薄笑いが漏れ始めた。炎天下で重労働をこなすのも苦労だが、まだ思い切り汗を流せる爽快さはある。ほとんど手先の作業だけで浜辺に座り込み続けるのは、精神衛生上非常によろしくない。滲み出る大量の汗が肌をゆっくり滴り落ちる不快感に慣れてしまえば、人の心はとても面白い状態に陥ってしまうとの見本である。
しかし、昼食が雑炊で良かった。大鳥は思う。油物を食べていた日には、やばいものをぶちまけていたかもしれない。油物という単語を思い浮かべただけで大鳥の咽喉から酸っぱいものがせり上がり、慌ててシャーリーのお茶を飲み下して事無きを得る。そう言えば油物を食べていたアメリアはどうなのだろうと見遣ってみれば、シンシア、矢上と一緒に元気良く整体に勤しんでいたりする。
(恐るべし、航空元気食)
件の丸薬が無ければ、如何なアメリアとて日本の夏、湿気の夏の粘着性に、身も心も絡め取られていただろう。そのように大鳥は確信しているのだが、如何せん航空元気食に頼らずとも、ボルテージ上昇途上の女が居た事はすっかり失念していた。
「はいっ、それでは応援団全員集合!」
リコだ。応援団長だ。出身国はベネズエラ。日本以上の酷暑の国からやって来た彼女には、夏の女の二つ名を進呈せねばならない。のろくさと這いずって来る応援団員を睥睨し、不敵の笑みを浮かべた。
「現在、フライトは4番手が準備中。そろそろアタシ等、大渡鴉もプラットフォームに出向く頃合さね。スケジュールの進行は不規則だから、早い目にアタシ等も準備にかかろうじゃないか」
「準備って」
「水着に着替えた後、着ぐるみ装着!」
「どうしても水着なんですね」
<PM13:45>
オフィシャルから、ランドグリズ搬入開始の通達が入った。いよいよ大渡鴉は、本戦の初回飛行に向けて第一歩を踏み出す事になる。
パイロットはアメリア。随走者は手合、雲母、藤林の3人。プラットフォームへの搬送者は先の4人も含め、皐月と弥生を始めとするOBから何人かが出向く手筈だ。
「シンシア、ありがとう。あなたはあたしを良く調整してくれたわ」
「今のあなたは最高の部品に仕上がっていると思いますわ。自信をもって、行ってらっしゃいな」
シンシアと固く握手を交わし、アメリアは青と白のパイロットスーツに包まれた体を翻し、ランドグリズの元に立った。
「アメリア、どんな形でもいいから、あなたの全力を出し切って」「月並みだけど、頑張って」「期待している」「結果は気にすんな」「わらわ自身は気にする」
かけられる応援の言葉に頷き、アメリアはプラットフォームを見上げた。今は7番目、東京理科大学機が頂上に進入する所だ。待機する8番機、9番機が前に進み、最後尾にランドグリズのスペースが出来上がる。オフィシャルに出立を促され、アメリアは目を閉じ、また大きく見開いた。
「さあ、行こう!」
「行くか」
「緊張するなァ」
「おれ達も発進の訓練を受けたんだから、大丈夫」
ランドグリズの軽い機体を担ぎ上げ、いよいよ出発しようかという直前、ドッと拍手が鳴り響いた。そして其処彼処からチョコぐるみが十数体、わらわらと駆け寄ってランドグリズの周囲を囲む。輪の中から大柄な着ぐるみが一体進み出て、サッと片手の羽を上げた。
「アメリアーッ! ファイッ」
『オーッ!!』
一斉に突き上がる拳、否、羽の先がプラットフォームを指し示す。まるで私たちの心も連れて行け、と言うように。アメリアは破顔して、同じように高々と拳を突き上げた。
「飛んでくる! あたし、琵琶湖の対岸まで!」
『それは無理無理』
着ぐるみ達が一斉に羽を横に振った。
<PM14:15>
「…暑いですね、本当に」
「暑いって言葉、もう言い飽きてしまいましたね」
シャーリーと大鳥は着ぐるみに身を包んでも、先程と同じようにテントの陰で座り込んでいたりする。仲間達は思い思いの格好でブルーシートをゴロゴロと転げ回り、都合黒いカラスの着ぐるみ達が、群れを成してへたり込む様が展開していた。今更着ぐるみを脱ぐのも面倒であるので、出番が来るまでこのまま待機という次第。太陽熱を吸収し易い黒色が、暑苦しさに磨きをかける。
「私、自分の体がこんなに汗臭いって思ったの、初めてです」
「汗臭いイメージ、無いですもんね。この格好のまま湖に飛び込んだら、気持ち良くなるでしょうか」
「多分後悔します」
「そうですね。今も何となく後悔していますけど。来年大渡鴉に参加する子達には、何としてもこの着ぐるみを受け継いでもらわないと」
「私達の味わった暑苦しさを、次の子達にも伝えていかなければ」
伝統といったものは、案外こうして引き継がれて行くのだという、或る意味典型かもしれない。
<PM14:30>
「…長いですね、本当に」
「テレビだとサクサク飛行機が飛んで行くんですけどね」
プラットフォームへと至る斜面上では、フライトの順番待ちの為、既に40分以上も並んでいる。9番機がテイクオフの準備にかかるという頃合で、後一機を待てば遂にランドグリズの順番が巡ってくる。しかし、この一機の待ち時間が非常に長い。フライトを敢行して落水し、その後湖面に浮かぶ破損した機体や落下物を回収、十分安全を見てからGOサインを出し、次のフライトへと移行。言葉にするとこれだけだが、参加チームの安全と環境保全を最優先としている以上、湖には塵一つ残さない徹底振りで清掃が都度行なわれる。フライトは、特に滑空機は極僅かな時間しか費やさないが、其処に至るまでの時間に数倍、場合によっては数十倍の時間を費やすのが鳥人間コンテストなのだ。
「まるで10時間かけて煮込んだビーフシチューを、1分でたいらげられた気分ですね」
雲母が実感の伴う溜息をこぼし、藤林の背中がすくみ上がる。
それにしても待ち時間の苦痛とは、暑さも然る事ながら出番を待たされる焦燥感を煽られる所かもしれない。搬入開始時の腹を括った心意気が、ゆっくりと流れる時間によって集中力を乱される。
それでもアメリアは、静かに佇んでいる。先頭に立つ彼女の後姿からは、彼女の意識が想像の域を超える集中力の世界にあると、サポーター一同は伺い知る事が出来た。
<PM15:00>
9番機がテイクオフ。合わせてランドグリズがプラットフォームに進入。
「入った」
「いよいよね」
「アメリア、頑張って」
明日のフライトを担うパイロットチームが一斉に立ち上がり、埠頭の観客席へと赴いた。
「行くぜ、野郎ども!」
『おう!』
「いや、女の子の方が多いんですけど」
リコの号令一下、応援団一同が着ぐるみを引き摺りながら駆け足で移動を開始。何故駆け足なのかは分からない。取り敢えず走ってみたくなる、そんな気持ちの時ってあるでしょう?
「いや、少なくとも今は無いです」
百々目は冷静に己が心の声に突っ込んだ。何分着ぐるみである。じっとしていても蒸し風呂状態、走れば健康サウナである。否、健康サウナから「健康」を取り除いたサウナだ。何故にこれ程まで暑苦しいのかは分かっている。製作者の風霞が「防寒対策」をバッチリにしたからだ。書いている人の世界では冬真っ只中ですからね。百々目は言ってやった。馬鹿ですか、と。
異形の集団が続々と追い越して行く様を、先行の三人は為す術も無く見送った。相当の数の観衆が往来しているにも関わらず、彼らが突進する端から人波が綺麗に分離する。モーゼか。
「良かった。アクトに着ぐるみを着るとか書かなくて良かった」
心底安堵の顔で胸をなでおろす双月の傍らで、神楽は逆の台詞を口走った。
「あたしは書いておけば良かったかな」
「何で」
「水着の描写が貰えるじゃない」
「着たかったのか、水着」
青空は駆け抜ける応援団一同に声援を送りつつ、間隙を縫ってのカチワリ売りに精を出している。昼に使える時間は稼ぎ時であり、皆と一緒になっての応援に参加はしないのだが、それでも彼女には自らのスキルを活かした秘策があった。
(みんな、頑張りや。絶対サポーター賞をゲットさせたるさかいな)
眼鏡の奥が怪しく光る。
「リコ、ファウレッドは駄目なのか!? ファウレッドはまだ駄目なのかあ!?」
「まだ駄目だっつってんだろコンニャロー! 今日は飽く迄序の口、着ぐるみの中身を晒す万国ビックリショーは明日まで取っとくんだよ!」
「でも今日だって心臓発作一歩手前まで応援するんだろう!?」
「あたぼうよ畜生奴!」
ヒャッホウ、と嬌声を発しつつ一行のトップを走る赤城とリコだが、普段の性格はまるで異なるこの二人、応援直前になって俄然似たテンションを発揮するようになってきた。そのベクトル同一具合は、むしろ明日の応援の方で発揮される事になるのだが。
「それでは、大渡鴉さんは今しばらく待機していて下さい。後15分程で収録を開始しますので、パイロットの方は前に出て準備をお願いします」
プラットフォーム上では湘南工科大のフライトが終了し、ランドグリズの出番は分刻みに迫っていた。アメリアは一息深く呼吸し、オフィシャルスタッフに従って機体の前に出た。風は、若干あるように感じられる。風速は1mといったところか。向きは右斜め向かい、その方角には竹生島がある。ポケットに忍ばせた神社の御守を軽く握る。
少々変則気味の向かい風ではあるが、離陸の際には空気との相対速度が速くなって、揚力は得やすいはずだ。つまり離陸は楽になるはずなのだが、余計な揚力に機体を持っていかれないよう、注意せねばならない。
「えーと、アメリア・リンドバーグさんでしたっけ。司会の今田です。宜しくね」
「アシスタントの東原です。宜しくお願いしますね」
と、司会陣二人がアメリアに挨拶を寄越してきた。風の流れに没頭していたアメリアが、慌てて会釈を返す。
「しかしアレやわ、外国人の女性パイロットっていうのは、司会をやらせてもらってから初めてやわ」
「え、そうなんですか?」
「滑空機の方は小柄で体重が軽い方が有利やから、女性パイロットも最近は多いんやけどね」
「綺麗な金色の髪ですよねぇ。お人形さんみたいですよ」
「お人形って、はは、照れますね、どうも」
「君、日本語上手いなあ。普通のしゃべり言葉も完璧に馴染んでるやん」
「うちの学校、留学生が凄く多いですけど、このくらいはみんな普通にしゃべりますよ?」
「…日本もどんどんグローバル化しとるっちゅう事やろな」
こうして、収録の際のネタ振りも兼ねて、今田・東原とアメリアの世間話はとりとめもなく続いて行く。アメリアとしては、何にせよ有難い配慮だった。こうして入れ過ぎた気を抜かしてもらう方が、本番の集中力を高める事が出来るからだ。
<PM15:15>
『現在、プラットフォーム上は、八十神学院・大渡鴉。パイロットは、アメリア・リンドバーグさんです』
今田:「さて、アメリアさんはアメリカ出身の留学生という事で、如何ですか、鳥人間コンテストは御存知でしたか?」
アメリア:「ええ、アマチュアの飛行機好きには有名な大会ですから。何時か自慢の自作機でトライをしようというのが郷里での合言葉でした」
今田:「後半は嘘ですね」
アメリア:「嘘ですね。でも有名なのは本当ですよ?」
東原:「アメリカンジョークを生で見たのは初めてですよ~」
今田:「とまあこんなアメリアさんですが、今回、初出場の八十神学院はメンバーの三分の一くらいが外国の留学生の方で構成されているという珍しいチームでして、観客席の方にも応援の方が一杯来てらっしゃると思うんですが」
小杉:「今田さん!」
今田:「はい、何でしょうか」
小杉:「こちら、観客席の方では大渡鴉の応援団が勢ぞろいしていますね。御覧下さい、これが三分の一は留学生の皆さんです!」
今田:「…って全員着ぐるみで分からんやんけ! しかし徹底しとるなあ。着ぐるみ全員は初めてとちゃうかあ」
神楽:「私達は着てないんだけどね」
矢上:「黙っときましょ。何か、突っ込まれたらややこしそうだし」
吉田:「お話によりますとね、この日の為に皆さん応援の特訓も積まれたそうで」
今田:「ほう!」
吉田:「大渡鴉さんは2種目エントリーなんですが、今日と明日ではダンスを変えてくるそうなんですよ。今日はアイリッシュ・ジグ。明日はチアリーディング。何なんでしょうね、アイリッシュ・ジグって。それではこれから御披露してもらいたいと思います。大渡鴉さん、やっちゃって下さい!」
大渡鴉着ぐるみ一同が拡散。一呼吸置いて一斉に両手を開いてつま先一本立ち。其処から軽やかに一回転。華麗に両足を蹴り上げつつ前後の列が入れ替わる。アイリッシュ・ジグの開始。リズムに乗ってステップ&ツイストを駆使する小気味良いダンス。全体の動きは好き放題。どのくらい好き放題かと言えば、このくらい好き放題→ http://jp.youtube.com/watch?v=wiKXMTx1erI しかし雰囲気は楽しい。こんもりしたカラスの着ぐるみと相俟って非常に楽しい。そして再び前後が入れ替わり、中央からリコぐるみが登場。羽を振り回して応援開始。
リコ:「行っけー行け行け行け行けアメリア!」
大渡烏:『行っけー行け行け行け行けアメリア!』
リコ:「飛っべー飛べ飛べ飛べ飛べアメリア!」
大渡烏:『飛っべー飛べ飛べ飛べ飛べアメリア!』
リコ:「舞い上がれ!」
大渡烏:『YEAH!』
リコ:「ランドグリズ!」
大渡烏:『FLY!』
リコ:「(アメリアの声音で)飛んでくる! あたし、琵琶湖の対岸まで!」
大渡烏:『それは無理無理』
着ぐるみ達が一斉に羽を横に振り、合わせて青空謹製チビキョロロボが10体出現。ガタガタと忙しく前衛舞踊を披露しつつ、大音量の内臓音声炸裂。
『んー、テステス、マイクテス。明日もうちょっとデジベル上げたろかな。あー、麦茶飲みたい』
青空:「しもた。前の音声データ、消さんと残っとった」
その場の全員、一時硬直。
リコ:「ら、ランドグリズGOGO!」
大渡烏:「YEAH~!」
応援終了。
吉田:「…カオスですね」
今田:「カオスやったな、ほんま。どうですか、アメリアさん。今の応援は」
アメリア:「はいっ、感動しました!」
今田:「あー、そうですか」
三浦アナ:「はい、それでは実況席に移ります。野口さん、チーム大渡烏は初出場で、しかも高校生主体で構成されているんですよ。それにしては、私も素人目なんですが、随分と飛びそうな機体ですよねぇ」
野口:「そうですね。何より丁寧に作った感じがあります。主翼面積はこのクラスでは結構大きいように見受けますね。主翼は細く長くする程揚力が得やすくなるんですが、フォーミュラはそれも制限されてますので、翼面積を楕円翼で確保するのは堅実的ですよ」
三浦アナ:「加えてこの機体は、何と羽ばたき機能も備えているそうで、これはどうなんでしょうか野口さん」
野口:「うーん。私自身は、やめた方が良かったと思うんですけどね。ただ、試せる技術は試したいというのは、技術屋として理解出来ます。さっきのロボットといい、このチームの技術力は相当のものだと思いますね」
三浦アナ:「野口さん太鼓判の技術力、初出場の大渡烏。何処まで健闘してくれるのか、期待をもって見守りましょう!」
<PM15:30>
係員が白旗を掲げ、それに合わせてアメリアは、ランドグリズのコクピットに半身を納めた。下半身は機体と共にプラットフォーム上を走り、離陸と同時に全身を前へ滑り込ませるのだが、これが一番目の勝負だと、アメリアは腹を括った。この時の勢いを乗せて機首を傾斜させ、一気に降下させねばならない。これに失敗すると、ランドグリズは急降下の格好で湖面に突っ込む羽目になる。
両翼に手合、雲母。尾翼に藤林。随走者の配置は体格と筋力のバランスが取れている。三人は鶺鴒皐月の指導の下、走り込む際の足幅から機体を押し出すタイミングと力加減まで、徹底した練習を重ねてきた。だからアメリアは彼らを信頼し、ランドグリズという機体も同じくらい信頼している。しかし何より信頼すべきは自分自身だった。今日この日まで、己の力量に逡巡を抱いた事もあったが、今はランドグリズのパイロットは自分を置いて他に居ないと確信している。
(見ていて、あたしを)
仲間、観衆、そして自分とランドグリズに宣言し、アメリアは対風に機首を引き上げられないよう、軽い前傾を取った。
「カウント入ります!」
随走者が一斉に左足を引く。
「5、4、3、2、1、GO!」
ランドグリズが助走を始める。プラットフォームの縁まで数歩。両翼の二人が奈落の間際で機体を宙に押し出し、アメリアがコクピットに潜り込んで両手を固定。直後藤林がランドグリズの尾翼から平行のベクトルで力を乗せる。抵抗を押し切って機体をプラットフォームから放出した一瞬、ランドグリズは空中で完全に平行の姿勢を取った。完璧なスタート。
アメリアが重心を前に持ち込み、瞬く間に機首が前傾する。予定通りの降下。両翼が過大な風圧を受けて弓なり、風を裂く振動音が耳に障る。危険な音ではない。ランドグリズの主翼は強固だ。
コクピット前方、迫る水面の圧迫。予想以上の速度に驚く。しかし集中力は途切れる事無く、タイミングを計る頭脳の冴えは冷徹。ライジング・ポイント。
桿を引き倒して姿勢制御開始。ランドグリズの速度が大きく鈍った。合わせて機首がせり上がる。脳から血の気が抜けそうになる。ホリゾンに移行。しかし機体は、機首の上昇を止めない。
(引き過ぎた!)
桿は手放すも、押し込みはしない。代わりにアメリアは体を気持ち前に向けてバウンドさせた。ランドグリズの全身が同じく震動。弧を描くように機体が水面を滑り込み、ランドグリズは水上約2mの位置で、完全な水平飛行を取り戻した。
観客席から、各チームの陣地から、賞賛のどよめきが上がる。ランドグリズの急降下は、ほとんど墜落寸前と見えたからだ。しかしあの機体が飛距離を出す為のパフォーマンスである事は、今や明白だった。小型機らしい高速性でもって、ランドグリズは湖上を突進し続けている。凄いものを見る事になると、その場の誰もが確信した。
アメリアの名を連呼して快哉を上げる仲間達から離れ、水城は無線をアメリアに繋いだ。
「聞こえるか、アメリア。今から5秒後を読み続ける!」
「要らない」
アメリアの返事は簡潔だった。
「要らない。あたし。分かるの。あたしの事、全部」
僅かに間を置いて、水城は無線を切った。最早アメリアは触れない世界に居る。ならば唯々彼女のフライトを見届けようと、水城は目を見開いてランドグリズの全てを凝視した。彼女は100mを既に突破していた。
ランドグリズの高度はじりじりと落ちている。このまま水面効果が続くに任せて滑空するのは良策である。恐らく、素晴らしい記録が出るだろう。しかしアメリアは、先端に配置された二つのレバーに両手をかけた。羽ばたきの決行。
この機体が10秒以内に落ちる事は、アメリアには分かりきっていた。ならばランドグリズの全てを出し切ってあがいてみたいと望むのは、持って生まれた飛行士としてのプライドでもある。アメリアに迷いは無い。あるのはタイミングを探る本能のみ。水面の一点に意識を集中し、機首がポイントに到達する寸前、アメリアはレバーを一気に押し上げた。
観衆は不思議なものを見た。ランドグリズの主翼が根元から三段階に崩れて威嚇気味に持ち上がる、不条理で美しい無機物の意思を。
ドンと、主翼が風圧を水面に叩きつけ、華奢なランドグリズのフレームがのたうつように跳ね上がった。速度が一気に下落し、瞬く間に機首が湖を覗き込む。しかし再び主翼が猛々しく羽ばたき、ランドグリズは傾斜した格好のまま前方に吹き飛んだ。更に主翼が空気を叩き、機体は尾翼から半回転する格好で背中から水面に落下し、ランドグリズの短く、激しい旅は幕を閉じた。
『お知らせ致します。只今の大渡鴉、アメリア・リンドバーグさんの記録は、172.5m』
アナウンスが告げた飛距離を受け、地鳴りのような歓声が轟いた。現時点では、フォーミュラクラスの大会新記録である。12m級の機体が200mを突破する可能性を、ランドグリズという機体はまざまざと見せ付けたのだ。
『いや、驚きましたね。初挑戦でベテラン級のフライトをしたんだと私は思います』
解説の野口が、もう笑うしかないといった面持ちで話を続けた。
『機体とパイロットも素晴らしいんですけど、個人的にはあの羽ばたきが気に入りましたね。正直な所、あれさえ無ければもう少し先に行けたかもしれなかったんですが、恐らくは腕力だけでオーニソプター、羽ばたき機の事ですね、これを僅かの間でも実現させたんですから。今の所、人力のオーニソプターってのは世界でも一つとして成功してないんですけど、私達はそのパイオニアを目撃したのかもしれませんね』
「…あの野口さんは、バラビェイ正式発表の際にゲストとしてお招きするか」
上機嫌に口元を曲げ、K社代表・弓月はスーパードライを喉に流し込んだ。可笑しさが堪え切れない様子で、香車と平田もプルトップを開く。
「しかし面白ぇな。俺はあいつ等が益々気に入ったよ」
ビールを飲み干しながら、平田の曰く。
「どうだい、俺は相当なもんだと思うぜ。強く推すね、俺は」
「俺も賛成ですね。異論は全く無い」
二人の言い方を受け、弓月は鼻を鳴らして笑った。
「俺も同意見だな。ここまで色々ちょっかいを出した甲斐があったってもんだ」
モーターボートから降り立ち、アメリアは拍手喝采で迎えられる状況に思わず怯んだが、すぐに満面の笑みを浮かべ、手を振りながらペコリと頭を下げた。そして顔を上げると、一瞬にして視界が真っ黒いものに取り囲まれる。応援団一同が押し潰さんばかりにアメリアの元に押し寄せたのだ。
歓声と共に体をビシバシ羽で叩かれる手荒い歓迎の最中から、矢上が前に進み出た。真っ直ぐに互いの目を見据え、頷きあう。
「次は、あたし達の番ね」
「頑張って」
続けて横から風間先生が顔を出し、アメリアの頭を天辺からクシャクシャに撫で回した。
「よくやったな、お前も、ランドグリズも、立派だったぜ」
「ありがとう、先生」
不図、アメリアは、別のボートで曳航されている、大破したランドグリズを見遣る。時間にすれば僅かの間であったとしても、ランドグリズと一つの生命になれた喜びを、この先朽ち果てるまで忘れはしない。
「さあ、俺の生徒共。こういう時は胴上げと相場は決まってるよなあ!」
応!の声も勇ましく、一同が風間に同意した。
「それでは、ランドグリズの好記録樹立を祝して!」
と、自分が言うはずだったのに、何故か叫んだのはアメリアだった。何故アメリア?と思った瞬間、風間の体が高々と宙に舞った。
「万歳!」
「万歳!」
「ばんざーい!」
「何で? 何で俺は胴上げされているんだ?」
これはアメリアが初めから企図した事だった。一度は正パイロット候補から外れた自分にリトライの機会を与えてくれた牽引役を、最大限の感謝で報いる為に。
しかし勢い余って風間の体が湖に投げ込まれる所までは、アメリアも想像していなかった。
<PM16:30>
死屍累々。
そんな言葉が似合う彦根簡易保険保養センター大浴場・女湯。早い時間帯に汗を流しておこうとの、葵先生の配慮で湯に浸かったはいいが、浸かるというよりはプカプカ浮いているとでも形容すべき体たらく。女子一同、一人残らず精神的にバテ果てていた。恐らく男湯の男子一同も同じく。
「他所のチームが2種目エントリーをしない理由、今なら分かるよ」
漂う水死体、アメリアがボソボソと呟いた。
「資金面、技術力云々じゃないし、割ける時間が足りないからでもない。この『終わっちゃった』感に耐えられないからなのよ」
そうは言っても、何を今更の2種目エントリー。もう一つの大イベント、レイヴンスⅡのフライトに待ったは効かない。今は英気を養い、頭を切り替えて次のステップへと移らねばならないのだった。
<PM17:15>
滑空機部門は1日で全行程を終える事が出来ず、17:00の時点をもって一旦終了と相成った。明日はフライトNO.18、大阪工業大学からスタートするのだが、人力飛行機部門進行の中途に挟む変則スケジュールとなる。よって大渡鴉、レイヴンスⅡの一番手に変動は無い。
口々に競技の感想を述べながら、観客達が三々五々と帰宅する一方、明日の本戦を控える各チームにとっては、これからの時間が勝負になる。パーツの最終チェック、組立てを失敗すれば、フライト以前に出場辞退をする羽目になってしまうからだ(実際、今回のトリコンでも1チーム出場辞退が出ていました)。レイヴンスⅡを擁する大渡鴉も同じくであり、特に一番手というスケジュールの都合上、組立ては恐らく日付を回ってからという事になるだろう。
これより未曾有のハードワークを経験する彼らであったが、それより何より取り敢えず夕飯である。
「今晩はモツ鍋です」
「内臓鍋ですか」
「内臓鍋はいいですよ。アミノ酸やコラーゲンが豊富に含まれて、疲労回復に効果的。野菜も沢山煮込むから、栄養バランスも最高」
雲母の用意する食事は煮込み系のものが多い。キャンピングカーで確保出来る火力も理由の一つなのだが、多品目を摂取出来、消化効率に秀でているのが最たる所だ。暑気の厳しさを鑑みた雲母の配慮を、「豚バラとか食べたいな」等と呟く藤林は思い知るべきである。
それにしても日が傾いた頃合に、生温い風に吹かれながら浜辺で食べる白飯とモツ鍋は中々の気分だ。ランドグリズ好成績の余韻も相俟って、夕食は楽しいひと時となった。
アルフェッタ、赤城、そしてリコのパワー系が土台になって、組まれた腕にヒョイと山根が飛び乗った。せえので山根を中空へ放り上げる、これが明日の応援、チアリーディングの大技だ。高い高い。物凄く高いペンギンマスク。
「って高過ぎだよー!」
演技指導・燕子花の悲鳴通り、山根の体は危険なレベルまで飛んでいた。放り上げた3人が顔を青白くしつつ右往左往するも着地点は確保し、膝を抱え込んでクルクルと回りながら落ちてきた山根を事無くキャッチした。燕子花を含めた5人が一列に並び、ペコリと一礼して夕食時の余興はこれにて幕。
拍手喝采に程々の愛敬を振りまき、リコ達は暑さ半分、冷や汗半分が滴る顔を拭い、モツ鍋の椀を手に取った。
「いやー、いい汗かいた」
「サポーター賞は戴きだな」
「本番の時はもっと加減して放り投げないと駄目だよ」
「本当はキャッチ無しで着地して、『したっ』とポーズを決めてもらうはずだったんだけどねぇ」
「え」
等と言い合いながら楽しい夕げの時間は続く。
現時点、ランドグリズとアメリアはフォーミュラクラスにおいてトップの位置を走っている。滑空機部門全体でも現状での5位と好成績だ。明日にフライトを順延された滑空機チームの中で、フォーミュラ部門に残っているのは2チームのみ。最終的には確実にフォーミュラ部門3位以内に入る訳で、しかも大渡鴉が叩き出した大会新記録を破るのは難しそうだ。チームの面々の御機嫌具合は然もありなん。時折「アメリアーッ」の掛け声と拍手が巻き起こり、慌ててアメリアがいちいち立ち上がって愛想良く手を振る場面が、何度も繰り返されるという浮かれ振り。
「あ、三人だけ違うものを食べてますね」
と、百々目がレイヴンスⅡ三羽烏の弁当を覗き込む。昼時にアメリアが食べていたのと同様、大振りのカツが気前良く入ったものだった。矢上が口をもごらせながら曰く。
「これね。テキカツ弁当。風間先生がゲンを担いでくれたって訳」
「今度はテキカツですか。何の敵に勝つんでしょうね」
「敵とは即ち己自身とか、そういう事なんじゃねえか?」
「はは、そんなベタなはずがないわよ」
風間の背中がビクリと揺れる。
「アメリアーッ」
の掛け声と拍手が巻き起こり、慌ててアメリアがいちいち立ち上がって愛想良く手を振った。この脈絡の無さ加減は、最早素面の酔っ払いである。
寸胴の中身も良い加減で少なくなり、夕食の時間もそろそろ終わりに近付いた。それにつれて面々の口数も次第に少なくなり、一人二人と椀を返しに行く姿が、何処か物悲しい。
皆、分かっていた。夕食が終われば、次のフェイズが待ち構えている事を。ランドグリズなど問題にならない規模の部品点数。使われている技術は全チーム中でもトップクラスの精密さ。これからレイヴンスⅡのオールパーツを、完徹でチェックにかかるという大作業が始まるのだ。
<PM18:00>
「尤も、幾らスケジュールがキツいとは言え、徹夜などはさせぬので心に留め置くよう。生徒達の健康維持とランドグリズⅡの成績云々、何れを取るかと問われれば、わらわは躊躇無く前者である」
居並ぶ生徒達を前にして、有無を言わさぬ迫力でもって葵先生が宣告する。元より生徒達を一人残らず健康体で城輪に送り返す事が、教諭として最たる目的の葵先生である。この言い分において、彼女は決して妥協しない。
「よって睡眠時間は一人頭2時間確保!」
これも相当にキツい話だが。合わせてスケジュールは以下の通りになる。
編成は『音羽・青空・雲母・手合・シャーリー・アメリア』『大鳥・藤倉・アルフェッタ・ゲルトルート・水城・山根』『リコ・燕子花・シンシア・風霞・藤林・百々目・古雅』の3チームに分かれ、各々21:00、23:00、AM1:00に2時間の休眠を取る。部品のチェックそのものは本日中に終わらせ、組立て作業はAM0:00開始を目標とする。大型機であるレイヴンスⅡは、完成形の状態を出来る限り短時間に抑えるのが得策であるので、どうしても組立ての開始は遅らせなければならない。
現在、出場選手ミーティングに出向いている双月、神楽、矢上は、彼らから独立したスケジュールをこなす事になる。21:00に就寝して、翌日3:00に起床。最低でも6時間の睡眠を取るのだが、アメリア同様、パイロットチームというフライトの核を最上のコンディションで維持する為の措置である。
幸いであるのは、今は太陽が沈みかける頃合で、日射病にやられる心配が無いという所ぐらいだろうか。ともあれ大渡鴉の面々は気を入れ替え、各々が最も習熟しているパートに散って行った。
「ちなみに俺らは不眠不休で生徒達の見守り役って事で」
「教育者としての責務であるので、致し方無い」
風間と葵が揃って溜息をついた。と、風間の携帯電話に着信音。表示を見れば、弓月の名前。
『よう、風間。ランドグリズのフライト、堪能させて貰ったぜ。そいつを肴に飯がてら居酒屋にでも行こうと思ってなあ。お前も一緒にどうだ?と言いたいとこだが、生徒の面倒見にゃならんのじゃ仕様が無ぇやな。わっはっはっは』
風間は速攻で携帯をブチ切った。
「それじゃ、私達はこれで」
「色々と手伝って頂いて、ありがとうございました」
「やあねえ。明日もちゃんと撤収の手伝いをするんだから、これでお別れみたいな言い方は無しよ?」
頭を下げる大鳥に、弥生が苦笑いで応えた。
人力飛行機部OB一同は、これから予約した宿に帰る所だった。炊事、陣地設営、組み上げの雑事等々、地味な箇所で彼等はよく働いてくれていた。頼まれたのでもなく、自主的に助力を申し出た彼らに感謝し、大鳥はOBの滞在に一番の気を使っている。
「本当は、レイヴンスⅡの組み上げも手伝いたい所なんだけど」
少し寂しげに作業風景を眺め、弥生はポツリと呟いた。
「もう使われている技術力は私達の手を離れているわ。レイヴンスのⅡ型という言い方も適切じゃないくらい、あの機体は全く新しいものになっている。あれは既に、あなた達のレイヴンスⅡなのよね」
「いえ。伝えられてきた気持ちを受け継いで、今のレイヴンスⅡがあるのだと私は思います。あの機体に愛情を感じて頂けたのなら、あれはみんなのレイヴンスⅡなのですよ」
「そう言って貰えると嬉しいわ」
大鳥と握手を交わし、弥生はマイクロバスの元へと踵を返した。
「弥生さん!」
と、背後から大音声で呼び止められる。見ればドライバーを片手に、燕子花が千切れんばかりに手を振っていた。
「ありがとう! また明日!」
「燕子花君!」
負けじと大声で弥生が叫ぶ。
「私こそありがとう! あなたが居なかったら、多分私達、この場に居なかったわ!」
手を振り返して来る弥生の姿に、燕子花はじわじわと高揚してくるものを感じた。彼女にあの言葉を言ってもらえただけで、陰日向に働いた事々が報われる思いがする。
「さあ、頑張って飛ばそう!」
意気揚々と、燕子花はパーツのチェック作業に戻った。
<PM19:00>
矢上が講習会から戻ってきた頃には太陽が完全に沈んでいた。西の空のほの赤さが、夜の帳を際立たせるかのようだ。軽く屈伸をして、矢上は大渡鴉の陣地に向かった。
各チーム自前のライトが煌々と照らされる中、暗がりに浮かび上がる人力飛行機のパーツを横目にして歩くのは、少しばかり現実からの逸脱を感じさせる。通り過ぎて行く無数のパーツの一つ一つに、一年間の気が込められているのだと思い、自然に矢上は居住まいを正した。
中途でウィンドノーツ、マイスター、日大航空研チームの機体を見た。前年に比べて、形状的に特異な所は無い。つまりそれは、長距離を飛ぶ為の方程式を機体形状の中に確定させたに他ならず、積み上げてきた実績と経験に自信を持つ証でもあるのだろう。
大渡鴉が決定的にビハインドを背負うのは、それに尽きる。大渡鴉がこれからのチームであるのは百も承知だが、しかし矢上は未来の結果に興味は無い。欲しいのは今、仲間達と共に分かち合う歓喜だ。喜びを掴む為の努力は他所のチームに負けないくらい積んできたのだと、矢上は自身と仲間達に強い自負心を抱いている。
掛け値なしにレイヴンスⅡは良い機体だ。実機を操作する双月と神楽の能力も素晴らしい。それら全てを外から操るナビゲーションという仕事を、矢上は全く恐れていなかった。レイヴンスⅡのフライトにおける司令塔役は、自分が最も適しているからだ。
(今迄の経験を活かすだけ。そうすれば自ずと結果は出てくる)
そう思えば、明日のフライトが楽しみで仕方ない。大渡鴉の陣地では、既にチェック作業が忙しく進行している。取り敢えず就寝時間までの短い時間を、彼らへのアドバイスでもって有効に費やそうと、矢上は足を早めた。
<PM20:00>
お馴染みの保養センター大浴場で、神楽は汗を洗い落としていた。
食後に軽く気を入れておこうと木刀を振ってみたのだが、少し動いただけで汗だくになってしまった。汗臭いまま床につける程、神楽の感受性は欠如していない。葵先生に許可を貰い、これが本日二度目の入浴である。
洗い流した髪を束ね直し、神楽は湯船に浸かり込んだ。程々に疲労していた筋肉がゆっくりと弛緩し、固まった体が崩れ去るような心地だった。
外を見れば、昨日と同じようにプラットフォームがライトアップされている。大渡鴉の陣地はすぐ傍にあって、今は仲間達が疲れた体に喝を入れて、作業に従事している事だろう。その姿を探そうと神楽は目を凝らしてみたが、ここは人が視認出来るような距離ではない。
「一緒に作業出来ないのを気に病むのかー?」
竦み上がってその場から身を翻してみれば、何時の間にか風霞が湯船の中で平泳ぎをしていた。気を散漫にして、彼女に背後を取られた事に気付かなかったのだ。
「それ、迷惑だってば」
「いいじゃん。私らの他に客居ないし」
風霞は平泳ぎからクロールに切り替え、息継ぎしながら器用にしゃべり続けた。
「神楽には神楽の重要な仕事があるじゃない。体調を完璧に維持し続けるっていう」
「そりゃあ、分かっちゃいるんだけどさ」
「だったら気後れしなくたっていいじゃん。風呂に入って疲れを取るのも仕事。かっちり睡眠を取るのも仕事。第二パイロットの責務を全うする為の仕事。その為に神楽は男顔負けの体を作り上げて、女の幸せを捨てたんでしょ?」
「次にそんな言い方したら、頭突き二発だから」
お互い相変わらずの口振りだが、それでも神楽は風霞なりの配慮を感じ取り、それなりに嬉しかった。だから仲間達の期待に応えねばならない、という気負いを神楽はやめようと思う。既に自分を含めて大渡鴉チーム全員が、考え得る限りの最善を尽くしたのだ。導かれる結果は、所詮結果でしかない。明日のフライトは、レイヴンスⅡと大渡鴉が如何な過程を経てきたか、その証を立てるものとしよう。
「嗚呼、明日のフライトが楽しみ」
「あら、一皮剥けてしまったのね」
「精一杯力を出し尽くして、出し尽くして。その後は」
「その後は?」
「城輪に帰って体脂肪率を増やす」
「勿体無いなあ、いい筋肉してるのに」
ケラケラ笑いながら、風霞はクロールから背泳ぎにスイッチした。その暢気な様を面白く眺めながら、不図神楽の脳裏に疑問が過ぎる。
「ところであんた、何で風呂に入ってるの?」
「え?」
「風霞さんはどちらに行かれたんですか!?」
「あのアマ、さぼりやがった。帰ってきたら頭突き二発だ畜生!」
等と怒声が飛び交う大渡鴉陣地にて、双月は手持ち無沙汰でその様を眺めていた。
食後、自分もチェック作業を手伝おうと申し出てみたものの、開発陣一同からやんわりと断られてしまったのだ。本番の前に変な筋肉の使い方でもされたら困る、というのは建前だと双月は認識している。パイロット候補として長くトレーニングに従事してきた自分は、最早レイヴンスⅡの技術に関る作業をこなせるスキルが備わっていない。返って足手まといになりかねない、という事だ。
(そうだ。元々人力飛行機部には素人同然で入ったんだ。アメリアや矢上とは訳が違う。明後日からはまだしも、明日のフライトに間に合わせる技能など無い)
等と思ってみた所で、容易く割り切れるものでもない。
と、漫然と座していた双月の、肩が二度三度と叩かれた。
「水城か?」
「ああ、シャーリーさんからの差し入れを持ってきた。あったかハーブティー。パッションフラワーと後何かをブレンドした奴だってさ」
湯気の立つカップを受け取って、双月は小さく手を振っているシャーリーに軽い会釈をした。口に含んでみれば穏やかな味で、彼女の心遣いそのものだと思える。
「俺はお前が羨ましいよ」
出し抜けに言った水城の一言に、双月は首を傾げた。
「何がだ?」
「何って、パイロットになれた事だよ。あんなでかい人力飛行機を操作出来るなんてさ。人生でも早々経験出来る事じゃない」
「そうか。そうだな。俺はレイヴンスⅡの第一パイロットなんだよな…」
双月は烏丸弥生が居なくなった日の、レイヴンスⅡが中空に浮かんだ状景を思い浮かべた。壮大なあの機体の操縦を担うのは間違いなく自分であるにも関らず、張った気を緩ませると現実感を喪失しそうになる。双月の心境を思いやってか、水城は続けた。
「お前は凄腕揃いの候補の中から、トップで第一の座を掴んだんだ。其処は自慢してもいいんだぜ?」
「俺はアメリア程の感覚も無ければ、矢上のような理論も無い。体力は間違いなく神楽に上を行かれた。リコや赤城、山根と比べたって、俺は別段其処まで優れているとは思えない…」
「今言った事は、俺以外には言うな」
やおら水城は立ち上がり、厳しい口調の言葉を投げてきた。その憤りの理由は、問わずとも双月には分かっている。今更口に出してはならない台詞だったが、それでも相手が水城ならば、双月とてこぼしてみたい時もある。対して水城は頭を振って、続けた。
「お前は、多分その全てを持っているんだと思う。だからレイヴンスⅡを動かせるんだ。やっぱり凄いよ、お前は」
そうかもしれない、と言い置いて、双月は自らも立ち上がった。水城に片手を上げ、場を後にする。少し早いが、双月はキャンピングカーで眠る事にした。
すっかり周囲は暗くなっても、昼の暑さは居座り続けている。寝苦しい夜になりそうだが、体は休ませなければならない。
双月はアメリアのフライトを思い返していた。素晴らしく、才気に溢れた飛び方だった。勝負する場とプランは違えど、自分もあれを目指してみたいと思わせる力があった。
双月の心は凪のように静かだったが、奥底に潜む灼熱を忘れた事は無い。それは明日のフライトで開放すればいい。今は大人しく体を横たえよう。それでも双月は、一言を口にしなければ気が済まなかった。
「俺は勝つ」
と。
※おまけ
ラジコンヘリで農薬を散布するの図。会場の間近に田んぼがある、牧歌的風景。
<7月29日へ続く>
最終回:7月28日:『ランドグリズ』