諏訪湖・正パイロット最終選抜競争

 

「あのプラットフォーム、誰が作ったんだろう」

「ああ、あれは元からあるものなんだよ。関東の人力飛行機愛好家の有志で作られた代物でね。鳥人間のプラットフォームほどの規模じゃないけど、それでも10m近い高さがある。この時期は鳥人間参加チームのトライで予約が埋まっててさ。うちらなんざ随分と後回しにされたもんさ」

「でも、これって実在の諏訪湖には無いトッパチ設定なんだよね?」

「そういう事を言っちゃいけない」

 諏訪湖は湖周15.9km、面積13.3km2の、然程大きくない湖である。諏訪盆地のほぼ中心に位置し、湖の周りを街がぐるりと取り囲んでいる。御神渡りで有名な寒冷地だが、今の時期はさすがに暖かくなって、湖上ではヨットや遊覧船がそこかしこで優雅にたゆたっていた。

「…あの遊覧船さあ、白鳥型は100歩譲るとして、亀型はどうだろうね、亀型は」

100歩譲らなくていいよ、白鳥も。あのそそり立つ雁首がナニって言うか」

「女性も参加してるんだからさ、セクハラ発言はやめようね」

 等と軽口を叩き合う二人も女性なのだが。アルフェッタとリコは岡谷湖畔公園の喧騒から少し離れた場所で、何となく所在を無くしていた。所在を無くす、というのは他でもない。する事が無いのだ。勿論三人の正パイロット候補は空を飛ぶという大事な仕事が控えているのだが、他のメンバーは見ているだけ。と言うのも、人力飛行機を滑空させる為に随走する役回りは、鶺鴒皐月を始めとした旧人力飛行機部員が担うからだ。おまけに、これから行なわれる八十神学院「大渡鴉」チームのパイロット選抜戦に、結構なギャラリーが出来上がってしまったのだ。着々と組み上げられた三機の人力飛行機が出現すれば、何事かと人が集まるのは自然の成り行きである。

 無論本番では大渡鴉から選抜したメンバーを随走班に投入するのだが、今回三人を同じ条件で飛ばすにしては、何分彼らの経験が浅い。よって旧人力飛行機部員達が役回りを買って出てくれた訳だ。恐らくその後は、彼らの指導の下で発進訓練が行なわれる事だろう。

「…あの遊覧船から見る人力飛行機ってのは、どんなもんだろうね?」

「何、まだパイロットの未練あるの?」

「無いという事は無いさ。でも、こうして第三者的に状況を俯瞰するのもオツなもんでさ。いいね。今は結構楽しい事をしてきたんだと思えるね」

「うん。人力飛行機に絡んで、色んな湖を回って、空を飛んで、なかなか経験出来る事じゃない。後はあの三人に、悔いが残らなきゃいいんだけど」

「残らないさ、そんなもん。彼らだって、力を出し尽くしてここまで来たんだから」

 

 かつての仲間達によって三号型がプラットフォーム上に引き上げられる様を、鶺鴒弥生は色々の感情が入り混じった、複雑な面持ちで眺めていた。

 弥生は皐月によって半ば引っ張り出されるような形で諏訪湖に連れられて来た。彼女の斜め後ろに立って背中を見詰める燕子花満月は、弥生の諏訪湖行きが全く本意ではない事を、彼女の振る舞いを見て重々に承知している。それでも、昔の弥生が携わった人力飛行機が空を飛ぶ様を見て、何か感じる所を抱いてくれればとの、淡い期待もあった。

「翼長18m。剥き出しのアップライト。取り敢えず飛べるものをと考えて作って、本当に飛ぶだけの代物になってしまったわ。それでも私は、何とか120m飛ばして見せたけど」

「へえ、あれの最高記録を出したのって、弥生さんなんだね」

「まあね。でも、誰もが安定した飛行を出来なければ意味が無いじゃない。だから私はレイヴンスを作ったのよ。少なくとも500mを越える自信があったわ。そして最初のフライトを諏訪湖でトライして、見事に失敗したってわけ。私は半死半生。人力飛行機部は私のせいで空中分解。こんな所、本当は来たくなかった」

 寂しく肩を落とす弥生の姿に、燕子花はかける言葉が無い。

 こうして諏訪湖までOB連を連れ出せたのは燕子花の広報活動による手柄だったが、鶺鴒弥生は想定の外だった。皐月も思い切った事をしてくれたものだが、時期尚早じゃないのかと、妙な気苦労を感じてしまうのが何とも理不尽である。そもそも燕子花は、「烏丸弥生」の方を連れ出すはずだったのだ。

 当の烏丸を諏訪湖行きに誘った時は、実に妙な出来事が展開されたものだ。「はい、喜んで!」と元気良く返事をして、しかしコクピットから降り立って歩き出した途端、烏丸の姿は雪のように消えてしまった。そしてしばらくしてから再びコクピットにちょこんと座り、その時点では自分が諏訪湖行きに誘われた事などすっかり忘れてしまっているのだ。以降は何度誘っても、切れたフィルムの如く同じ事を繰り返すのみ。

 考えてみれば、烏丸弥生は本当に動かなくなった。最初の頃は、皆の居る色んな所に現れていたはずだが、今はコクピット以外の場所から他所に行った試しが無い。それにしても、何故コクピットなのだろうと燕子花は首を傾げた。思い当たる節があるとすれば、鶺鴒弥生が生死の境をさ迷ったパーツで、それだけに心残りがあるからだろうか。

(そう言えば、一番開発が進んでいないパーツでもあるかなあ…)

「そろそろ飛ぶわね」

 鶺鴒弥生の独り言に、燕子花はハタと顔を上げた。プラットフォーム上では旧式然とした人力飛行機が、両翼を支えられながら身構えていた。如何にも頼りない姿形ではあるものの、痩せたカラスの執念めいた威容すら感じられる。パイロットは双月響。彼の静謐さが、機体に勇気を与えているかのようだった。

 

<1.双月響>

「落下する時は決してハンドルを離さないように。風防も何も無い分、落水してからの脱出は容易だから。中途半端に機体から離脱しようとするのが、却って危ないんだ。落水したら僕の仲間が直ぐに水上バイクで駆けつけるから、泳いで帰ろうとしないようにね。それじゃ、そろそろ始めようか。ペダルを始動させて、十分に推進力を得たと思ったら、号令をかけてくれ。それに合わせて、滑空をスタートさせる」

 一通りの注意事項を述べて皐月が後ろに退くまで、双月は目を閉じて瞑想に耽っていた。話の内容は頭に入っているのだが、心は何処か別の所にある。双月はかつて第一次選抜の際に引き出した集中力の窮みの領域、ゾーンの入り口を探ろうとしていた。

 とは言うものの、ゾーンは入ろうと思って自在に入れるものでもない。技術の習得に深く打ち込んだ人間が、突然運に見込まれて垣間見る事が出来る至高の世界。双月は積み重ねた研鑽に自負を抱いているが、さすがに運を動かせる術までは知らない。

 ただ、この機体と一つになってみたいと双月は願っていた。確かに機体は旧式、オンボロ人力飛行機、一番の懸案は空中分解等々、散々な言われ様のハシブトカラスであるが、飛ぶ事のみを目的に作られたという一点ではレイヴンスや他の人力飛行機と同じなのだ。機体に心があるならば、きっとハシブトカラスも空を飛びたいと望んでいるはずだ。可能な限り、遠く、高く。それは成就させてやりたいと双月は思う。

 ペダルを踏み込むと、プロペラがゆっくりと回転を始める。練習や選抜戦で繰り返し見てきた状景だが、この瞬間の緊張が一番心に迫るものだ。ペラの回転数がピッチを上げるに従い緊張感は薄れ、嫌が応にも集中力は高まって行く。レイヴンスの叩き台、旧式人力飛行機の三号型、ハシブトカラス。カラスにちなんだ名で格好いい奴をと考え、ネタ切れを起こした挙句の如何にも適当な名前だが、今は生物の躍動がこもった良い名だと双月は感じている。

(バラビェイのように羽ばたきはしないが、出来る限り向こうの方へ行こうじゃないか)

 一人ごち、双月は上半身を前傾させた。ペラが更に加速。全身が機体ごと軽くなる感覚の到来。

「発進準備良し。カウント開始します。5、4、3、2、1、GO」

 ずる、と、引き摺るようにハシブトカラスが前に押し出された。両翼で併走するOBの足音の、間隔が軽やかになるにつれて諏訪湖の湖面が迫り出してくる。自分の居る位置がとても高いのだと認識出来るが、恐怖は無かった。何しろこの機体は間違いなく飛べるのだと、双月は確信している。

「上手い。最高のスタートだわ」

 鶺鴒弥生は驚愕の目でもって、ハシブトカラスのテイクオフを追いかけた。プラットフォームの高さに比べてほぼ水平に近い発進は、あの機体の滑空性能を鑑みれば容易ではない。間違いなく、自分が出した最長飛距離を塗り替えられるだろう。そう思うと、弥生の心が針の一刺しに滑り込まれたように傷んだ。自らが見捨てた人力飛行機の限界性能を、一回り下の子供達が自分の目の前で引き出そうとしている。

 しかしハシブトカラスを操る双月の苦労は並ではなかった。出来るだけ高度を維持しようと悪戦苦闘を試みても、機体は飛距離を伸ばすにつれ、急激な高度低下を止めようとはしない。右へ左へロールする機体を立て直し、ラダーでもって水平姿勢を保つにも、ハシブトカラスの古い構造は、肝心の揚力を十分に得られない脆弱さがあり、120mをかろうじて越えた時点で、双月は限界を覚悟した。

(…いや、まだ空を飛べるはずだ)

 双月か、或いはハシブトカラスの独白なのかは分からない。しかしその言葉に一縷の望みを抱き、双月の両脚は猛然とペラの回転速度を引き上げ、ハシブトカラスの機首は蒼天を見上げ始める。

「有り得ない。この状況下で更に上昇するなんて」

 弥生は何時の間にか鉄柵に身を乗り出して、しかし現に上昇姿勢に移行した人力飛行機の懸命な姿を、食い入るように見詰めた。人力飛行機の美しさとは、人間と機械が苦しさを分かち合いながら努力をする姿そのものなのだ。高校時代の自分の繰言を思い出し、図らずも弥生は涙を流した。歪む景色の只中で、ハシブトカラスの片翼はおもちゃのようにへし折れ、腹這う格好で湖面に激突する。

 双月とハシブトカラスが湖上から救い上げられてしばらく後、記録が発表された。185m。人力飛行機部のOB達が、蒼白の面持ちで互いの顔を見合わせる。忘却の向こう側に放り出した人力飛行機を、10年後に復活させた子供達が突きつけた結果が、この尋常ではない記録なのかと。

 

<2.矢上ひめ子>

 アケガラスは同型シリーズの二号型だが、現役の人力飛行機部員である矢上にとって、双月が叩き出した記録が十二分に驚異的であると承知していた。以前の120mにしても大したものだと感心していたが、その認識は改めなければならない。でなければ、双月に勝つ事は出来ないだろう。

 重苦しく鈍重なペダルを踏み込み、矢上は再度機体構造に目を走らせた。

 18mという翼は一見それなりの規模に思えるが、計算が不十分な重量を支えるにしては脆弱と言える。スパーの強度、リブの間隔、果てはラダーの可能仰角に至るまで、矢上の視点からすれば不合格の域である。この機体を可能な限り遠くに飛ばせとは、如何にも至難であるのだが、双月はそれを実際に披露して見せた。ならば自分に出来ないはずはない。少なくとも技量的な面に関して言えば、成長著しい彼を未だ上回る自信がある。矢上は彼女らしい自負でもって、弱くなりそうな己の心を叱咤した。と、地上の公園から親友の溌剌とした声が聞こえてくる。

「ひめちゃん、頑張って! ひめちゃんなら200mだって越えられるから!」

 アメリアの激励を受けて、矢上の口元が綻んだ。200mは、ちょっと厳しいんじゃないかと返事をしたくなったが、取り敢えず矢上は意識を対岸に集中させた。むしろあの場所に辿り着こう位の心意気でなければ。

「3、2、1、スタート」

 発進を簡素に告げて数秒後、矢上の体はアケガラスと共にプラットフォームのくびきから離脱した。出来る限り水平の維持を試みようとした双月とは異なり、矢上は直後から機体をダイブの体勢に持って行く。

 アケガラスの強度が許す最大の速度を引き出し、水面ギリギリのポイントで水平飛行に移行。水面効果による浮力の恩恵を受けながら、温存した体力を一気に吐き出して限界まで直進する。矢上のフライトプランは口にすればシンプルだったが、それを実現させる技量は誰しもが持てる代物ではない。人力飛行機のパイロットとしては水準を大幅に超える矢上の能力ならば、それが出来る。

 しかしダイブを見事に成功させて機体を水平に持って行った矢上は、自らの技術にアケガラスが追いついていない現実を知り、若干の恐怖を覚えた。そこかしこから軋む音が聞こえてくる。下手を打てば、機体が空中分解を起こす。それでも人力飛行機にとって最も負荷のかかる状況を脱し、今は水平飛行を持続している。どうにかなる。恐らく。

 鍛え上げた両脚の筋肉が膨れ上がり、ペラが勇ましく回転数を上げる。前回のバラビェイで起こった筋肉疲労は、更に身体能力が上昇した矢上にとって、今は恐れるに足りない。ペラの回転数を維持したまま飛び続けるスタミナが自らに備わっている事を、矢上は自覚していた。

 アケガラスは水平飛行を維持している。滑空性能の低いこの機体を、水面効果を利用して、矢上はよくも堪えさせていた。掛け値なしに、トップクラスの技術である。しかしながら、アケガラスは矢張りアケガラスだった。機体そのもののスタミナが、最早限界を突破していた。

 ガン、と歪な音と共に機体が傾ぐ。その瞬間、矢上はアケガラスが数秒と持たずに崩壊する事を冷静に判断した。

(残念だわ。とても残念だけど、私もアケガラスも、出来る限りの仕事をしたのよ)

 機体と、自分とを労い、矢上は崩落する機体に体を密着させ、諏訪湖の水面の身に染みる冷たさに耐える準備を開始する。

 結局双月同様、矢上も機体の分解によってフライトが終了した。記録は179m。後一歩が及ばなかった。

 この時点をもって、双月はタンデム化が正式決定したレイヴンスⅡの、正パイロットとなる権利を獲得した。

 

<3.神代神楽>

「ほれ、神楽。妹よ。諏訪大社の御守を貰ってきたので受け取りなさい」

「ありがとう、妹。って、あたし、もう御参りして買ってきてるんだけど」

「上社の方でしょ? 私のは下社。二つ揃って合体神社諏訪大社。私の心配りに意気を感じたなら、精々面白い落ち方で楽しませて頂戴」

 言うだけ言って、風霞はとっととプラットフォームから下がって行った。懐に入れた自分の御守と見比べながら、神楽は苦笑を禁じ得ない。ああして憎まれ口を叩いて相手の反発を起こし、やる気を引き出そうとする風霞のやり方は承知の上だが、わざわざ下社に行ってまで御守を貰ってくる所を鑑みれば、心配の度合いも知れようというものだ。神楽は二つの御守を大事そうにしまい、視界を前方へと集中させた。

 前回トップの神楽がとりを締めて、正パイロット選抜戦は終了する。思えば紆余曲折の道程だった。ほとんど経験値ゼロだった自分が、今やトップを競うにまで実力を向上させ、琵琶湖の空を舞う直前に辿り着いている。自らが深く学ぶ刀の道のように、習得した技術が素直に返ってくる充実感は、神楽にとって貴重な宝である。後はその集大成を、自分自身のラストダンスを披露するだけだ。

 フライトの手前で行なった型稽古のお陰で、ウォーミングアップは十分。そのせいか集中力も良い具合に纏まっている。神鳥の名を冠する一号型、ヤタガラスの力を存分に発揮させる準備は整った。後は運が味方についてくれれば、自分は滞りなくトップに立てるだろうと、神楽は心のイメージを増幅させた。プロペラ回転。更に回転。二度三度かぶりを振って、前傾姿勢。

「発進用意。5、4、3、2、1、テイクオフ」

 重々しくヤタガラスが宙に押し出され、神楽は己の体力が出せる限界の力で、ペラを高速回転させた。

 双月の感覚、矢上の技能。それに対して神楽が挑んだプランは、圧倒的優位を保つ体力を駆使した勝負だった。滑空させるには貧弱な機体構造をものともせず、神楽の脚力は猛然の推進力をヤタガラスに与えている。失われそうな揚力をペラの力で強引に維持するやり方は、前回の体力を温存するプランとは正反対のものだ。神楽はこの戦いが短期決戦になる腹を初手から括っており、むしろ本番で自分が何処までの底力を発揮出来るか、今からシミュレートしようとしていた。

(正直しんどいわね。でも、落水する直前の馬力なんて、こんなもんじゃ済まされないはずだ)

 神楽は諏訪湖ではなく、琵琶湖を見据えている。勝つ負けるではなく、自分がパイロットになるのは決定事項なのだと確信していた。だから徐々に下がって行く機体の高度にも、全く恐れを感じていない。ラストダンスが終わっても、自分には第二幕が控えている。

 神楽は果敢に突進し、高速度でヤタガラスのフライトを維持し続ける。だから浮遊する事で機体にかかる荷重も最小に抑え込めて、着水したヤタガラスは前者二人とは異なり、空中分解する事無く綺麗に纏められた。これにて正パイロット選抜戦の、全行程が終了する。

 走り寄って来た水上バイクから差し出された手を遮り、神楽はヤタガラスにもたれかかる格好で、湖面に浮いたまま結果報告を待った。公園の岸壁で飛距離を計算していた皐月が、拡声器を手にする。

『只今の神代神楽君の記録は、181mです』

 大きく息つき、神楽は次に飛ぶ機会も無いであろう、ヤタガラスの主翼に頬を当てた。

 矢上ひめ子は頭をかいて、少しだけ寂しい苦笑いをした。

 双月響は仲間達の賞賛を遠くに聞いて、体を芝生の上で深く横たえる。

 

 結果は以下の通り。

・第一パイロット:双月響

・第二パイロット:神代神楽

・ナビゲーター:矢上ひめ子

 選抜された三人は、どのチームに比しても遅れを取らない、最高レベルのフライヤーになるだろう。

 大渡鴉と人力飛行機部OBの面々は、言葉に出さずともそれを確信していた。

 

公界往来実践塾・開発行動

 

<取り敢えず、前祝い>

「双月君と、神代さん、矢上さんの健闘を祝して!」

 乾杯の音頭が其処かしこでこだまする。とは言え掲げられたのはジョッキではなくティーカップで、それも中身をこぼさぬ様に控え目な音頭であったが。

 長きに渡って続けられたパイロット選抜競争の終結を肴に、大渡鴉全員参加の宴会は恙無く進んで行く。上座に座らされた三人は、皆から労いの言葉を貰いつつ、その都度カップにお茶をなみなみと注がれ、愛想笑いを浮かべつつも閉口せざるを得なかった。それでも矢上や神楽は盛り上がる場を楽しむ気性はあったが、このような席が苦手な双月は、ひたすら黙って紅茶を飲んで行く羽目となる。

「納得がいかーん!」

 紅茶にブランデーを放り込み、既に赤ら顔の青空つばめが、悲嘆に暮れた声を上げる。一応は大学生なので、この場の飲酒もOKだ。学校に酒を持ち込む可否については別の話だが。

「紅茶は、まあ、ええわ。持参品やし。柿の葉茶と違うて酒も合うさかいな。でも、この瀟洒なお菓子はどういう事じゃ、おんどりゃあ」

 ピッと指差す先には、大皿に盛られたクッキー、ババロア、チョコレート、タルト、プディング、スフレ、カトルカール等々が所狭しと並べられている。前回の見るも無残な、パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものに比べれば、段違いの壮麗さ。

「納得がいかんというのに納得が行きません!」

 負けじと声を張り上げたのは、青空の隣に座ったシャーリー・エルウィング。赤ら顔も負けていない。青空にブランデーを注ぎ込まれた所以だが、当然ながらシャーリーの年齢ではダウトである。

「タダですから。これみんな、タダですから。御親切なOBからの頂き物ですから! 雪月花軽井沢支店のスイーツ詰め合わせセット。御贈答用に如何でしょうか。嗚呼、何て幸せなんでしょう。お値段も張った事でしょうに」

「ケッ。猫も杓子もスイーツスイーツスイーツかい。洋菓子でええやんけ洋菓子で! 大体ウチのパンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものは何処へ行った!」

「パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものでしたら、平田さんにあげました」

「何やとコラあ!? 折角のパンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものが、よりにもよって平田のとっちゃん坊やなどに!?」

「パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものは、見た目も味も単調です。このお菓子達の中に紛れ込んだら、逆に可哀相じゃないですか!」

「ああ、それはそうかもしれへんな。ところでウチは、このスフレってのが結構好きやな」

「私は甘さ控え目のババロアが大変好みなんです」

 そんなこんなで宴もたけなわといった頃合、やおら壇上に風間先生が上がった。マイクを手に持ち、スイッチを入れるも、誰にも注意を向けられていない。

「あー、取り敢えず一区切りついたという事で、お疲れさん。誰も聞いちゃいねえな。まあいいいや。この席を借りて、今回から新しく大渡鴉の仲間になった二人を紹介しておく。それでは一人目。カモン、マイハニー」

 言い終えた途端、風間の脳天目掛けて拳骨がゴツンと振り下ろされた。崩れ落ちる風間の背後から出現したのは、葵 セノー・ミケルス。風間と同じく、学院教諭の身である。

「風間先生に助っ人として呼ばれた、ミケルス教諭じゃ。葵先生と呼ぶがよい。そなた等とは少々毛色の異なる仕事を担当する。短い間であるが、わらわも皆と共に励んで行こう。矢張り誰も聞いておらぬな。それでは次」

「自分の事をわらわって言う人、初めて見ましたよ」

 葵先生からマイクを手渡された青年が、入れ替わって壇上に立つ。知的で涼しげな面立ちが、如何にも大学生らしかった。その点で同じ大学生の青空とは、ちょっと違う。

「手合芥です。あいのて・かいと呼びます。漢字が簡単な割には読み方が分かりにくい男です。わたしも葵先生同様、別系統の仕事をする事になります。とは言えチームワークの重要性は承知しておりますので、皆さんと連携して頑張ろうと思います。はい、誰も聞いていませんね」

 手合はマイクを次の少年、水城・アースグリム・臨に手渡した。空手部所属の縁で、双月とは既知の間柄である。控え目に手を挙げて挨拶を寄越す双月に頷いて、水城はマイクを口元に当てた。

「水城です。よろしく。まずは友人として、響におめでとうと言っておくよ。本大会の結果に期待する。ちなみに俺の仕事も皆とは方向性が異なるものなんだ。どういうものかは、取り敢えず結果を見て欲しいってとこかな。うん、誰も聞いてないや。ところで前回と前々回から参加のお三方も、この際だから自己紹介しておくかい? こういう席、設けられなかったって聞いたからさ」

 水城から話を振られたのは、藤倉辰巳、ゲルトルード・ベーベル、神代雲母の計三人。揃って首を、扇風機の様に横へ振る。

「私は結構です。だって誰も聞いていませんし」

「それよりお菓子、食べていたいし」

「そもそもおれは、第二リアクション中で初参加という事実に触れられませんでしたし」

 

<主翼:神代雲母>

 そういう訳で何となく忘れられがちだが、雲母は人知れず重要な仕事をこなす事を好む気性である。だから今回も、人力飛行機の魂たる主翼の開発に関ったのは、誰あろう彼一人だけだった。前回は一応、姉の風霞がサポート役に回ったが、今回は純粋に一人。これでは開発の速度も進みようが無い。

 それでも雲母は、此度の主眼であるタンデム化したレイヴンスⅡの、主翼を延長させる貴重な仕事はクリア出来た。何しろ主翼長は以前の約1.3倍、全長35m。これをそれなりの剛性でもって仕上げにかかるのは難であったが、雲母は持ち前の几帳面さでこれに挑んだ。リブの再加工、適正な径を維持してのスパーの延長。全て一人でやるには大仕事となる。

「取り敢えずは、ひと段落かなあ…」

 独力の作業を続けていれば、自然独り言も多くなる。雲母は素材の塊にしか見えない主翼部品の合間で、体を横臥させて一休みを取った。

「雲母さーん! 寂しいですかー!」

 相変わらずコクピットに鎮座する烏丸弥生が、余計な台詞を絶叫する。

「こういうのは慣れてますんで、すいませんが放っておいて下さい」

 掌をヒラヒラさせて合図を送る雲母の言を、聞いていないのか無視しているのか、続けて弥生が話しかけてきた。空気を読まない幽霊である。

「いやー、お一人でされたにしては150%でしたよ。曲がれる翼っていうコンセプトを守りながら、35mにまで翼長を仕上げられたんですから」

「今の所は、長くしただけって感じですかね」

「強度の事ですか?」

「そう、強度です。このままでは、普通に折れますね、この主翼は。しかし主翼の骨組みそのものへの加工は、多分行き着く所まで行っている」

 そうなれば、残るはもっと外的な要因から攻め込むべきなのだろう。ワイヤー。スキン素材。或いはもっと意外性のある何か。

 ともあれ、雲母は然程心配していない。と言うのも、元々主翼開発については、今回一人になる事が計算済みだったからだ。中途半端に人員を揃えて、満足の出来ない形で開発達成に持って行くよりは、ラストスパートで多彩な才能を一気に投入した方が良い結果に繋がるはずだ。無論、それがどのように転んで行くかは次回次第という事になるだろうが。

 

<尾翼:音羽仁壬>

 なんでんプラス・城輪店で、音羽と藤林源治はごった返す夕飯時、二人席に向かい合って静かに着座していた。

「はいっ、お待たせしました! 顎人ラーメン二人前になります!」

 語尾にやたら「!」がつく店員の運んできた、具材の塊にしか見えないラーメン鉢を互いが手に持ち、鉢同士をチンと軽く合わせる。

「祝・尾翼開発達成」

「おめでとうございます」

 音羽は具材に埋もれて見えない麺を引き摺り出し、藤林はと言えばいきなりチャーシューから手をつけるという格好で、二人によるささやかな祝宴が始まった。

 尾翼開発は藤林とのコンビネーションによる地味な努力を継続し、本日、二番目の完成パートと相成った。前回で見つけた不具合、リブ加工の甘さについては既に克服し、実に完成度の高い表面加工が仕上げられている。最近とみに技能を引き上げている音羽が加工作業に回り、藤林が仕上がりをチェックするというスタイルは、元々親友の間柄である故、作業の効率化に大きな寄与をする結果となった。

 形状は非常に特徴的なV字尾翼。水平飛行の安定性を保ち、旋回能力の低さについては主翼の特性でカバーも出来ている。開発規模が小さめなパーツとは言え、音羽は非常に確度の高い仕事をやってのけていた。その出来栄えを考えれば、こうして祝宴を開いても当たり前と言えば当たり前なのだが。

「あり得ねえ。この祝宴はあり得ねえ」

 こぼす音羽は半分涙目だ。

「たった二人で、しかも野郎同士で、なんでんプラスのラーメンを啜るなんてのは、祝宴じゃないだろ普通」

「ここのラーメン、味が濃いですからね」

「何が『ですからね』だド阿呆。大体、祝宴を開くって言ったら皆参加するもんだろが。それを二人だけでラーメンてのは、どんなリアクトだ畜生」

「仕方ないですよ。トッパチから選抜戦終了記念なんてパーティーを派手にやらかされてしまっては」

「それを上手く一つに纏めるのもリアクトだろうが。嗚呼、こんな事なら馬鹿うるさい風霞先輩でも居た方がマシじゃねえか」

「神代先輩は居ませんが、百々目葵なら居ますよ」

「何処に」

「カウンターで、一人で食ってます」

 藤林の指差す方向、確かにカウンターでは彼らの忍者友達、百々目がねぎラーメンを啜り込みながら、珍獣を見るような目つきでこちらを見ている。しばらく音羽は百々目とガンを飛ばしあっていたが、百々目の方は一向に意に介さず、ただこちらを凝視するだけ。

「俺の知り合いは、何であんなのばっかりなんだ」

 根負けした音羽が顎人ラーメンを盛大に食べ始めた。こうしている間にも百々目に見られているのだと思うと、非常に居心地が悪い。

「それでも替え玉は行っとくんだけどね」

「僕はチャーシューだけ食べたいな。肉好きだから」

 二人とも、おめでとう。

 

<フレーム:アルフェッタ・レオーネ 山根まどか>

 親友同士と言えばこの二人もそうなのだが、こうしてコンビを組んでの仕事というのも久方である。

 このパートもレイヴンスⅡタンデム移行のあおりを受け、更なる大型化と剛性の見直しが図られる事となった。何分、体の頑丈さには定評のあるアルフェッタと山根だけに、機体の剛性に関する作業については適正な能力を持っている。体が頑丈なら機体も頑丈というのは変な理屈であるが、判定がそういう事になっているから仕方ない。等と開き直ってみる。

「すいません、どうも二人だけでは心配なんで、僕も技術面でサポートします」

 何処と無く申し訳無さげに藤林が登場すると、二人は拍手でもって彼を出迎えた。連れ出したのは山根まどか。前回も彼と組んでのフレーム開発作業に従事していたのだが、仕切り直しとあっては再度藤林の助力が必要と判断した訳だ。大きな図体に似合わず、藤林は器用な手先をしている。機械技術的な面でのサポートは、きっと二人の仕事の手助けになるだろう。山根の判断は実に的を射ている。

「という訳で一件落着。一休み一休み」

 言って山根はペタンと尻から座り、パーティーの際に取っておいたタルトを食べ始めた。すかさずアルフェッタがモンゴリアンチョップ。

「ごめん。ドツキ漫才で時間を潰す暇が無いから。サクサクと作業を進めるから」

「はい、分かりました」

 通例の前置きも難なく流し、兎にも角にも三人は作業に取り掛かった。

 まずは各パーツとのリンケージについては、固定具取り付けの見直しから始まる。この辺りは開発初期からの課題だったが、藤林の助言を受けつつ、無駄の多かった接続を減らし、逆に取り付け強度の向上を狙う。滞りなく、これはクリア。

 続けてフレームそのものの長大化。何しろ新しいコクピットがもう一つ追加されるだけあって、居住スペースと重量、強度の兼ね合いを考慮せねばならず、ただ長くする訳にはいかない。加えてCFRP素材の一本化も念頭に置き、コクピットパートとの連携も踏まえて、荷重計算が行なわれた。実の所、一番手間隙のかかる作業となってしまったが、それでも人力飛行機の屋台骨、一切手を抜いてはならない。悪戦苦闘しつつ、これも何とかクリア。

 そうして仕上がったフレームは、一通り接続すると廊下に横たえねば収まりきらない代物となった。しかし彼らにはベストの長さを選択した自負がある。素材的な部分も、リンケージも、全て理想の数値を実現している。アルフェッタと山根は正直な話、これ以上何処に手を加えるのか皆目見当が付かなかった。

 再びフレームを分解して作業場に戻すと、山根は待っていましたとばかりに大の字になって床に転がった。今回ばかりはアルフェッタも見咎めず、揃って同じ格好のまま引っ繰り返った。

「ああ、一仕事終えたこの快感。ビールでも飲んで生き返りたいわあ」

「あたしは熱燗あたりをキュッとやりたいねえ」

 高校生同士の会話ではないが、彼女らを横目に藤林が、深々と溜息を一つ。

「せめて足を閉じて頂けませんか。一応女の子なんですから」

「一応ってアンタ」

「エロティーシズムでも感じているのですか藤林くん」

「エロティーシズムは感じませんが、悲しい気持ちは感じています」

 心其処に在らずの風情で藤林が返事し、再び視線をフレームに戻す。その態度に、山根の背筋が凍る。これはアレだ。仕事に満足出来ていない時の仕草だ。

「まさか、まだ強度が足りないの!?」

「そのまさかです」

「何だってぇ!?」

 今度はアルフェッタも跳ね起きた。藤林曰く、矢張り二人分の荷重を支えるとなると、骨組みの強度だけでは心許ないとの事だった。何分、本番でのアクシデントはこちらの想定外の事態が十二分に有り得、それに対抗出来るだけの強度は、どんな一工夫でも良いから必要になってくる。

「しかしそうなったら、どういう加工が必要になってくるのかねえ…」

 アルフェッタが腕組み、頭を捻る。現状、フレーム素材そのものへの仕事は、最早やり尽くしたと言って良い。その上で更に強度を引き上げるならば、何をすればよいのだろう。悩みながらアルフェッタは、不図剥き出しのフレームに目が留まった。積まれた荷物を崩さぬようにするには、荷物を綺麗に積んだだけでは、崩落してしまう可能性がある。その場合、荷崩れを起こさぬようにするにはどうすればいい?

 

<コクピット:青空つばめ シャーリー・エルウィング ゲルトルード・ベーベル リコ・ロドリゲス・ハナムラ>

 確かにコクピットパートは、現状最大の問題を抱えていた。ただでさえ進んでいなかった開発進行度に加え、タンデム移行による作業量増大の影響を最も受ける部署である。漫然としていれば、著しく完成度の低いコクピットで本番に挑まねばならなかったはずだ。

 この状況を受けて、さすがに危機感が伝播したか、結果コクピットの開発には多才な顔ぶれが揃う事となった。

「…こんなもんで、ええやろか」

 呟く青空の声音は、精も根も尽き果てた按配ではあったが、深い安堵の色がある。傍らでは作業を見学していた烏丸が、目の前に鎮座する無段変速機を感心しながら見詰めていた。

「オートマチックの変速機構ですか。正味の話、凄いですね。凄過ぎです」

「いやあ、言うてもアイデアそのものはVベルトオートマの丸パクリなんやけどな。これを最初に思いついたオッサンこそモンスターやわ」

「どういうシステムになってるんですか?」

「えーっとやなあ」

 青空は手早く変速機を分解し、二つのプーリーを手にとってみせた。

「このエンジン側、まあ人力駆動側のプーリーが、ペラ駆動側のプーリーとVベルトで繋がってんのな。で、速度の加減でプーリー同士の直径が可変するわけ。低速時は人力駆動側大:ペラ駆動側小、速度が上がるに従って人力駆動側大:ペラ駆動側小とな。速度の上昇によって発生する遠心力を利用して、ウエイトローラーが径を変えてくれるんやけど、何しか人力やからなぁ。些か遠心力の発生に難ありやってんけど、部材全体がめっさ軽量化してるから、その辺は割とダイレクトに力が伝わってくれたんやな。Vベルトなんか、ペラッペラのケブラー繊維やもんな。スクーターでこれやったら、あっと言う間にボロボロやわ」

「つまり、長持ちはしないと。トリコン一回こっきりの機構なんですね」

「そや。普通のバイクやったら耐久性が一番重視されるとこなんやけど、トリコンはどう頑張っても四十数キロしか飛ばへん規則やさかい、それぐらいは持つ程度の強度と割り切って軽量化したんよ。で、ペラ駆動プーリーの直径比に合わせてペラのピッチが三段階に可変する、二段構えの可変システム」

「パイロットが可変操作に、てこずらなくて済みますね。もう、駆動系に関しては行き着くところまで行ったんじゃないですか」

「そう願いたいわ。これ以上の細かい作業は、機体構成の脆弱性アップに益々寄与してしまうからなぁ」

 一方、新たに設置される後部コクピットは、シャーリーとゲルトルードが担当している。既に形状が確立されている前部コクピットと、如何に組み合わせるかがポイントとなった。前方リカンベント、後方アップライトという極めて特異なフォルムは、空力性能の維持を考慮して、上手く流線型のフォルムに仕立て上げねばならない。

「だから、リカンベントとアップライトの下部が段違いになってしまうのは、どうしても避けられないんだよね。この辺りを流れるように外装加工するってのは、次回の作業に取っておこう。取り敢えず、この段差を出来る限り小さくするべく考えたフォルムがこれ」

 ゲルトルードが埃除けの敷布を無造作に引っ張ると、通常よりかなり前傾したアップライトのコクピットが出現した。説明を聞いていたリコが思わず呻き声を上げる。ぐあ。

「なんだいこりゃ。こんなの本当にペダルを回せんのかい?」

「理屈上、自転車のパワーを上げる時は、人は自然と前傾姿勢を取るでしょ? アップライトがリカンベントに比べて、足に力を乗せやすいってのがあるってわけよ。そいつを利用しない手は無い」

「だからって、こいつァ乗り難いんじゃないかねぇ…」

 言って、リコはコクピットに恐る恐る試乗した。こうしてコクピット製作の二人にアドバイスしながら、リコは最適の形状を導き出せるべく四苦八苦していた。何しろ元パイロット候補の一人であり、実際に人力飛行機を飛ばす立場だった彼女の意見は、大きな意味を持っている。

「何か、前に倒れそう」

「大丈夫、手でハンドルを支えているんだから。しかし第二パイロットの神楽さんは、多分双月さんの脳天を四六時中見下ろす格好になるんだろうな」

「どうコメントしていいか分かんない状況だよ。次いで言えば、腰をいわす。前にズレないように、常に踏ん張るってのはあんまりじゃないかえ?」

「それにつきましては、勿論手を考えています」

 やおらシャーリーが、腰部固定具を本体に装着した。確かにリコが言う腰への負担は、これで相当に軽減された。軽くペダルを回してみるが、むしろ普通の自転車よりも楽に扱える感覚である。

「お。サドルもカスタマイズされてるね。硬すぎず柔らか過ぎずで、いい座り心地じゃない」

 こういう所は、シャーリーの気配りである。幸いにリコの体格は神楽と酷似しており、彼女のサイズはコクピット全体のフォルムを考案する際にも、大いに役立っていた。しかし、リコの台詞を聞いた途端、シャーリーの表情が曇る。

「まずいですね。サドルのサイズを調整しなければなりません。私、ヒップサイズまでリコさんに合わせてしまいました。神楽さんのは、もっと小さいはずです」

「…けつでか?」

「けつでか言うなゲルトルード。しかしそうなると、そろそろ神楽嬢にも御協力頂かにゃなりますまい」

 リコは腕時計に、ちらりと目をやった。PM19:45。リコの口の端が、まずい形でめくれ上がる。

「筋トレが終わって15分。クールダウンを済ませたら、その次は風呂」

 …10分後、よもやま荘の女湯から、七転八倒阿鼻叫喚が響き渡る事となる。

 

<全体方針:藤倉辰巳>

 書き留めたファイルの束を机上に放り出し、藤倉は引っ繰り返らんばかりに背中を椅子に預けた。

 全体の進行を確認し、各パーツのバランスを調整する役割というものは、よくよく考えてみれば今までに無かった仕事である。その類は全体会議による意思疎通で補っていた訳だが、基本的には独立独歩の開発進行だった。藤倉は良い所に目を付けたと言えよう。

 それにしても、所謂制作進行がこれほど重労働になるとは藤倉も思っていなかった。各部署は様々なアイデアの投入によって開発作業が成立しているのだが、何分アイデアというものは実に個性的で、その自己主張する個性は下手を打てば機体のバランスを大きく損なう結果になりかねない。例えば開発中期の頃、駆動系が密接に関連しているコクピットとプロペラは、ほとんどリンケージを喪失していた。屹立する個性達を如何に整列させるかは、ひどく至難の技とも言えるが、苦労を背負い込む事に慣れている藤倉は、正に打ってつけの人材である。

 藤倉は思い出したようにファイルを手にとって、パラパラとめくり始めた。ファイルには各パートの進捗状況が、詳細に記されている。夜も11時近くになり、作業場に残っているのは藤倉一人のみ。僅かな音も吸い込まれるような静かさで、考え事に耽溺するには十分な環境である。

「これで達成パートは二つ。残りも進捗状況はほとんど9割方って感じですかね…」 コクピットはどうです? 目算は立ちましたか?

 

「相変わらずコクピットは一番遅れていますけどね。でも、多分大丈夫。ギリギリでしたが、余程でない限り全部署が終了の目途です」 よかった。これで私も、ようやく私になるのですね。

 

 不図、藤倉の目が冴える。ファイルを読み込んでいる内に、独り言を呟いていたらしい。藤倉は大きく伸びをして、教室の照明を落とすべく立ち上がった。

 

<フォーミュラ機製作:風間史浪 手合芥 アメリア・リンドバーグ 水城・アースグリム・臨 葵 セノー・ミケルス>

 現実世界でこの時期にトリコン新規参加登録を行なう事は不可能ですが、本妄想世界においてフォーミュラ機開発がスタートしてしまうのは、全てに対して面白さが最優先される判定者の価値観によるものだと、諦めて頂ければ幸いです。

「そうだ。面白い事も教育の一環なのだあ!」

 風間先生によるそういうノリで、フォーミュラ機製作は開始の運びと相成った。

 題目として生徒主体が掲げられる人力飛行機製作については、元々教諭の立場である風間は積極的に前面に出る事を控えていた。しかしここに至って各部署の進行も相当に進み、ならば新しいトライを生徒に提示してみせるのも、これ即ち教育である。

 そんな訳で他部署開発に影響を及ぼさないように、元パイロット候補のアメリアを除いて、作業場の一角にはほとんど新顔の面子が集められていた。先生、先生、大学生、生徒、生徒、計五人。最終回が押し迫ったこの時期に、各人の人となりを把握するのも大変だ。

「えー、滑空機部門フォーミュラクラスっていうのは、主翼長が12m以内の滑空機で参加するクラス。製作規模が比較的小さいから、一般参加の門戸が大きく開かれたんだよ。でも、状況次第では小型機で大型滑空機と勝負出来る事もあるから、俄然やる気が出てくるよね! こういうの、日本語で何て言うんだっけ。山椒は小粒でぴりりと辛い?」

 恐らくそれは違うが、司会進行を任されたアメリアの機嫌はすこぶる良い。熱戦の末に退く結果となった正パイロット選抜戦以降、明るく振舞っているものの気が付けば目が遠くなる日が続いていた近頃、此度のフォーミュラ参戦案は、アメリアにとって正に追い風のツバメである。

 アメリアはいそいそと前年の鳥人間コンテストを録画したDVDを取り出し、プロジェクターで再生した。

「画面に映っているのは滑空機部門の強豪、みたか+もばらアドベンチャーグループの機体と大木パイロット。機体構成云々よりも、パイロットの技量に要注目ね!」

 アメリアの言う通り、パイロットの技量は瞠目に値するものだった。離陸直後、あわや墜落かと思わせる急降下を行ない、しかし機体は水面上ギリギリで水平飛行を持続する。素人目には、何時水面と接触してもおかしくないように思えるのだが、その状態を維持したまま延々と飛行は続き、結局その機体は250mを軽々と越える飛距離を叩き出して見せた。しかし、みたか+もばらは400m近くまで飛ぶのが通例のチームであり、これでも過去に比すれば失敗のフライトなのだ。

「あたし達は、この飛び方で戦いを挑みます」

 勇ましく胸を張り、アメリアが断言する。

「急降下で速度を稼ぎ、発生する水面効果で距離を伸ばす。この状況の滑空機としてはベストのフライトでね。これに対応できるだけの機体作成を、僅かな期間で作り上げちゃうのよ! くーっ、燃えるシチュエーション!」

「盛り上がっている所で申し訳ないのだが」

 身悶えするアメリアを他所に、葵先生が挙手をする。

「フォーミュラクラス、優勝賞金はどのくらいになるのであろう?」

 焼け石にドライアイス。膝から崩れ落ち行くアメリアに代わって、風間が咳払いをしつつ返答。

30万円だ。2位で20万円、3位で10万円。このクラスは毎年混戦が続いているから、俺らにも目は十分にある」

「それはつまり、優勝した暁には」

 腕組みながら、手合が真面目くさった顔で曰く。

「吉牛の並を789杯食べて180円のお釣りという訳ですね」

「何がという訳なのかは知らんが、うるせえぞ手合。何位だろうと賞金は、レイヴンスⅡの方も含めて全額来年度の製作資金に回す」

「私利私欲の為に賞金を使えないとなれば、みんな何の為に鳥人間コンテストに参加しているのですか?」

「少なくとも吉牛の並を789杯食う為でないのは確かだ」

「え。ちょっと待って。このプロジェクトって、来年もあるのかい?」

 水城が意外な顔になる。確かに仲間内の双月に誘われて、助っ人として参加した水城だが、本戦参加後もこのチームが継続するとは聞いていない。対して風間は、何を今更、と肩を竦めた。

「これだけ蓄積した技術と経験を、一回こっきりでポイする訳無えだろ。無論、引き続き参加するしないは別にして、大渡鴉は有志が居る限り延々と続いて行くだろう」

「知恵と勇気と努力で外の世界の才能達に挑戦するというスタンスは、これより外に目を向けるであろう八十神学院の象徴にもなれよう。教育者としては、こういうものに関れるのは幸いである。だから、わらわは参加するのじゃ」

 風間の後を受けた葵の言に、水城は居住まいを改めた。確かに友人の助けとなればと思っての参加であったが、このプロジェクトは様々な思いを込めて、大きく羽ばたこうとしているのだと理解する。一朝一夕で自分が其処までの思い入れを抱けるか否か、正直な所自信は無いが、それでも敢えて我に問おうと水城は思う。やるか、やらないか。

「やるさ。俺も」

 こうして大渡鴉のプラスワンとも言うべき、フォーミュラクラスの製作が始まった。

 水面効果を存分に活用できる主翼を開発し、尾翼はレイヴンスⅡのダウンスケールであるV字尾翼を採用。主翼にはバラビェイを参考に、限定的な羽ばたき機構を取り入れる。小規模ながら極めてトライアルな機体となるだろう。

 しかし、設計の青写真は準備された。実機製作も着々と進行する。残された懸案は、機体名とパイロットの決定だけだ。

 て言うか、お願いですから早い所決めて下さい。

 

<広報活動:大鳥雷華>

 大鳥による地道な広報活動は、今日も引き続き行なわれている。広報誌「三月烏」を商店街で配り歩き、カンパを寄せてくれた人に御礼の手紙を書く。裏方向きな大鳥ならでは細やかな仕事は、芳しくなかった一般層への受け入れを、徐々にであるが実現していた。次いで、彼女のアクションが起こした波紋は、人力飛行機部のOB達にも確実に広がりつつあった。

「カンパ云々は抜きにして、商店街の三月烏の設置、結構反応が良くなったんじゃないかな」

「おう、立ち読みしているヤツも結構見かけるし、何より商店主の受けがダンチに良くなった。こういう事をやってんだってのが、随分好意的に見られてる感じがするよ」

 大鳥は商店街から離れた喫茶店で、鷹野、鳶塚というOBと小休止を入れていた。本日は彼等二人と外回りをしているが、現在OBは持ち回りで広報活動に協力してくれている。一人で多くを回りきるには限度があるが、こうして複数でこなすだけで行動範囲は確実に広がる。加えて学生と社会人における交流層の違いは、広報活動に弾力性を持たせる結果となった。

「本当に、ありがとうございます。皆さんの助力が無ければ、輪を広げる事も叶いませんでした」

 頭を下げる大鳥を、二人は慌てて制した。

「とんでもない。最初、燕子花君が来てくれた時の自分を思い出すと、顔から火だよ」

「俺も。扉を開けずに帰ってくれ、だったしなあ。彼には悪い事をした」

「燕子花君には、私も感謝をしないと。皆さんを諏訪湖に御連れ出来たのも、彼の行動力のお陰でしたから」

「ああ、あれは良かったな。あのフライトには血が騒いだ。昔取った杵柄って感じかな」

「ああいうものを見せられては、大人の俺らも黙って見ている訳にいかんだろう」

 と、喫茶店の扉が開き、見知った顔がひょいと現れた。景気良く挨拶を寄越してきたリコに会釈し、その背後から現れた女性を見て、大鳥が硬直する。

「烏丸弥生さん?」

 違う。鶺鴒弥生の方だ。鷹野が頭をかいて、苦笑いを浮かべる。

「私達がリコさんに頼んで呼んで貰った。何しろ人手が足りなくてね」

 リコの隣から進み出た鶺鴒弥生は、別段感情を顔に表すでもなく、テーブルに置かれた三月烏を手に取った。パラパラと捲って、目を閉じ、また見開いて、持参したバッグから取り出したのは、同じく三月烏の束である。

「今日は、ちょっと違う場所を攻めてみない?」

 氷解した。そのように大鳥は解釈する。笑顔で打ち解けあう三人のOBは、ここに至るまで10年をわだかまりで費やしてきたのだ。

 コーヒーを啜りながら、ようやく一息つけたと大鳥は思う。大渡鴉とその周囲は、着実に一致団結を目指して突き進んでいる。それは開かれ行く城輪町の息吹を、このプロジェクトに感じた所以かもしれない。しかしながらこの世界は、多くの人を巻き込んで上に上り詰めて行く話は、本戦参加という結実をもって終わるのだろうと、大鳥は一抹の寂しさを感じる。同時に、それが始まりでもあると思えば、また喜ばしい。

「大鳥、ちょっと」

 リコが気取られぬよう、そっと耳打ちをしてきた。

「烏丸の事は、未だ教えていない。これでいいんだよね?」

 大鳥は頷くも、微妙な顔になる。懸案事項でも何でもない烏丸と鶺鴒弥生の話ではあるが、一つだけ気になる事があった。心霊に詳しい友人に烏丸の話を振ってみたのだが、彼の答えは「分からない」だった。幽霊であるかも、そうでなければどういう存在なのかも、よく「分からない」のだと。

 

よもやま荘・オチ

 

「はいはいはい、皆さん、楽しい夕食を中断して、ちょっと私の方を見て下さいってんだコンニャロー!」

 よもやま荘、一階食堂、夕食時。闊達で楽しい夕餉の空気を蹴破らんばかりに神代風霞が扉を開け、馬鹿でかいズタ袋を引き摺りながら参上した。後に続くのは「これが終わったら夕飯なんだよね? そうなんだよね、風霞!」等といちいち叫びながら古雅勇魚、更に大きなズタ袋。共に今回、あまり出番無し。とは言え風霞と古雅はコクピットパートのサポートをやっていた。決して無為に過ごしていた訳ではない。単に出番を書くのが面倒くさかっただけだ。

「えー、忌々しい神楽ちゃんの依頼によりまして、本大会における応援時に着込んで頂く着ぐるみをですね、私、神代風霞と大女は、寝る間も惜しんで作っていた訳ですね。て言うかさあ、睡眠時間を削らなきゃ納期に間に合わなかったんだよ畜生があ」

 何時にも増して、風霞のテンションが高い。それもかなりまずい方向に。目の下のクマも色濃い風霞と古雅は、言うが早いか手早く一着の着ぐるみを広げて見せた。

 カラスである。結構可愛い。さすがに風霞画による悲しい絵そのものという事はなく、全身がすっぽり収まる森永チョコボールみたいな物体は、あれ、何ていう名前でしたっけ、そんな感じの生き物は、中々の愛嬌を振りまいている。しかし女と大女が運んできたズタ袋は、それ一着のみにしては過大である。

「パイロットとナビ以外の皆さんは、漏れなく全員分用意しています。着て下さい。てか、着れ」

 そういう事だ。其処へピッと挙手をする鳥の羽が一つ。

「わたし、ペンギンマスクなんでありますが」

「何を言ってるの。地肌でしょ。着ぐるみじゃないんでしょ。ペンギンでしょ。だったらペンギンからカラスにメタモルフォーゼだって無問題じゃない。何せ地肌なんだから。いや待てよ、一匹だけペンギンてのも、何故にペンギンて感じで不条理つうかオチていないつうか」

 最早風霞も、自分が何を言っているのか分からない程に寝不足である。それはさて置き、大女が食堂テレビで暢気にかかっていた『まるまるちびまる子ちゃん』を速攻で消し去り、代わってビデオテープをセッティング。

「取り敢えず着ぐるみとダンスはセットみたいなものだから、私と風霞ちんで色々考えてみたんだけど全然アイデアが摺りあわなかったのね。で、ネットで色々検索をかましましたらば、こういうもんを風霞ちんが拾ってきました。スイッチオン」

 

 

   http://jp.youtube.com/watch?v=uu43lbTrvOQ

 

 

「アイリッシュ・ジグ…」

 シャーリーが背もたれからずるずると滑り落ちる。

「はい。そうです。ハヤリものです。カラスとの関連性は全くありません。しかし皆さんから何がしかのアイデアが無い限り、本番ではこれを踊る羽目になります。お願いだから、誰か別のアイデア考えて。私、絶対こんなの嫌」

 よよと泣き崩れる古雅を見るのは、恐らく皆にとって初めてだろう。そんな訳で、アイデアは随時募集中。アクトに書かなくても結構です。掲示板の方で色々出してみて下さい。私はもう、考える事に疲れました。

 

 

<つづく>

 






今月のアクト補足



第5回アクトフォーム




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第六回:第2リアクション:『ラストダンス』