夜の10時ともなると八十神学院もすっかり静まり返って、近寄り難い闇に包まれている。それでも人気のある教職員棟の明かりを心の頼りに、燕子花は公界往来実践塾へと走らなければならなかった。まだ仕上がっていない三月烏最新号の原版ディスクを、工作室に置き忘れてしまったからだ。

 やっと玄関に到着して、鍵を開け、教室へと向かう道すがら、不図燕子花は違和感を覚えた。何となく、人の気配を感じる。校舎の何処にも明かりは点いていないのだが、間違いない。人が居る。それも恐らく工作室に。

 燕子花の背中がゾッと怖気に震えたが、見逃すわけにはいかない状況でもある。希少価値の高い工作器具が置いてある点を鑑みれば、泥棒の可能性も十分に考えられる。しかしそれよりも、下手に動かれて人力飛行機のパーツを壊されてはたまらない。中には烏丸弥生が居るはずだが、所詮は実体の無い存在、泥棒相手に何が出来るという訳でもないだろう。そうなると、ここで頼れるのは自分だけだ。

 燕子花は足音を消し、慎重に歩みを進めた。工作室からは、確かに話し声が聞こえてくる。落ち着いた声だと思い、燕子花は首を傾げる。闖入者であれば、幾らなんでも烏丸が騒ぐだろうに、そういう喧騒は一切無い。

 引き戸の間近で腰を屈める。燕子花はじりじりと引き戸のガラスへと顔を上げて行き、中の様子を探ろうと試みた。そうして横目で室内を確かめた燕子花の目が、ガラス越しの至近距離からこちらを見詰めてくる紅い瞳と絡み合う。結果燕子花は、膝を脱力させて失神する羽目に陥った。

 

 とは言え、気を失っていたのはごく僅かの間だったのだろう。自分の体がテーブル上に横たえられる感覚でもって、燕子花は目を覚ました。

「おう、気が付いたか。悪ぃな。そりゃ夜の死体女と目を合わせりゃあ、気絶するよ普通」

 ばつが悪そうに頭を下げるのは、見知った顔である。

「平田さん?」

 体を起こした燕子花の面前では、コクピットに座って笑顔で手を振っている烏丸が居り、その傍らにもう一人、これは全く知らない顔だった。月明かりの下で、その女の顔色は白かった。透き通る色では全く無く、例えれば、血液を全て抜かれたような彫刻まがいの白さである。烏丸とは違った意味で浮世離れを感じさせるその女は、開いた口から駄々漏れた言葉も浮世から全力逃走していた。

「ボルカです満月さんわんばんこ。初めまして、と言うより初めまして。私の名前はボルカ・ボストーカであります。ボボと略すのはお勧め出来ません。九州方面からお叱りを受けるです。おはこんばんちわ満月さん。どうかボーリャと呼んで下さいまし。何ならボルカ様でも小生一向に構いませんですよ。それにしてもそれならば、ボボ・ブラジルは九州ならば、単にブラジル呼ばわりで大変な事になりましょうぞ!」

「うるせえ黙れ。口縫い付けるぞド阿呆。まあ、こいつの事は不条理な台詞を覚えたオウム位に考えりゃいい。一応は俺の相棒なんだが」

「ごめんね。状況にまるで付いていけないよ。でも、平田さんと、その」

「人造人間死体女であります」

「死体女さんは何で校舎に居るの?」

「これまた、悪ぃ。実は、夜の仕事の拠点として、勝手に使わせてもらっている」

「仕事?」

「ちょっとした調査さ」

 これ以上は話せないとの意思を露に、平田は顔を明後日に向けた。代わって烏丸が語りかけてくる。

「時々こうして、お二人はやって来られるのですよ。その都度話し相手になって頂いて、私も退屈せずに済んでいるという次第です」

「肉の話は傑作でありました」

「肉の話は傑作でしたねぇ」

 微妙に的の外れたボルカの言を平然と受け流す烏丸を、不思議な思いで燕子花は見詰めた。彼女の姿は、恐らく人力飛行機、レイヴンスに愛着のある人間にしか見えないのだろうと予想していたのだが、ボルカはそうでなくとも彼女の事が分かるらしい。もしかすると、ボルカは所謂人間ではないのかもしれないと考えて、燕子花は何だか怖くなってしまった。

「ところで、燕子花さん。お二人には前から話していたのですが」

 烏丸が目を爛々と輝かせ、再び燕子花に話しかけてきた。

「私、皆さんとこうしてお話したり、姿を見せたりする事が、もうすぐ出来なくなるんです」

 燕子花は、彼女が何を言っているのか一瞬理解出来なかったが、意味する所を反芻し、飛び上がらんばかりに驚いた。

「弥生ちゃん、消えてしまうって言うの!?」

「消える、と言うより。単にこうした形の意思疎通が出来なくなると言う方が正解なんでしょうね」

「そんな、何で」

「さあ…。私にも分かりませんが、その時は以前から確実に近付いておりました。今はもう、寸でという実感があります。でも、決して悲しい事ではありませんよ? 私がこれからも皆さんと共に居られるのも、また実感出来るのですから」

 烏丸は己が唇に指を当て、取り敢えず皆さんには内緒ですよ、と言った。

 燕子花はすっかり混乱してしまったのだが、さりとて今、どうこう出来る話でもない事は重々承知している。帰りは送ってやろう、との平田の気遣いを受け、ともかく家で頭を冷やしたいと燕子花は思った。

「さてと。飛んで行くか」

 燕子花の肩が平田にガッシと掴まれ、彼の背中にボルカがヒョイと飛び乗った。窓枠から外に出ようと足を掛けるに至り、どうやら真っ当な帰り方をするつもりが無いのを察し、燕子花の顔面が蒼白となる。

「さようなら、また明日の作業で会いましょうね」

 烏丸の挨拶は何処までも暢気だ。ガラス窓が独りでに閉まり、がちゃりと内側から鍵が掛けられる。平田達はこうして校舎の中に入っていたのかと感心するも、燕子花は感心している場合ではない。

「二人とも、一体何者!?」

「お花畑でピーヒャラチックな妖精さんでありますか?」

「黙れ死体女。まあ、何だ、空気を操る者ってとこだ」

 言うが早いか、三人の体が一気に夜の空を翔け上がって行く。本日二度目の失神を燕子花が被るのも、これはこれで仕方が無い。

 

 

『という訳で、また隠しリアクションです。前回同様、今度は烏丸弥生が内緒にしてくれと言っているので、秘密のリアクションという趣向になりました。繰り返しますが、この話は飽く迄番外です。本編におけるエッセンス程度に解釈を頂ければ幸いです。

扱いは秘密となっておりますが、燕子花さんはこの内容を掲示板などで他の人に教えても構いません。御裁量にお任せします。

今になって第一リアクションに隠しリンクをつけておりますので、他の方が偶然にこのリアクションを見つける可能性は、著しく低いでしょう』






今月のアクト補足




第3回アクトフォーム




TOPへ







 

第六回:隠しリアクション:『ヤスオとボルカと烏丸弥生』