学院寮よもやま荘

 

『外出でありますか? 私を虐待児童の如く置き去りにして昼日中を歩くなんて、あらあらいやだヤスオの分際で、まるでヤスオのようではありませんか。私も夜ならば私は私ならば私もまさしく蝶、蝶のように舞い蜂のように刺す! そしてフンコロガシのように! フンコロガシの後にイカス決め台詞が思いつきませんので、ヤスオは何か良い言霊をイタコの如く、答えにくい質問をされた時は「うう、苦しい、水を飲ませてくれ!」と悶えるので御馴染みのイタコの如くの捻りの出すべきですの』

 俺は黙って扉を閉め、表から南京錠を五個くらいかけてやった。ちなみに今の変な生きものは俺の相棒だ。どういう素性の奴かは言わない。言うと前置きが更に駄々長くなるから。

 俺は平田だ。誰だ? そりゃご尤も。トラック転がして伊賀くんだりまで、おめぇらを連れて行ったチンピラ風の男と言やぁ分かるか? 分からんか。そうか。

 そりゃまあさて置き、実は俺、航空宇宙産業+αで世界に打って出た新興企業、某K社の調査員なんだぜ。で、俺は専ら表に出しちゃまずい+αの方を担当している。調査対象は他でもない。城輪町だ。ここは色んな所から目ぇつけられた町だが、俺等側の目的はただ一つ。干渉せずとも事実は知るべし。以上。そんな訳で俺は、弊社代表の知り合いを通して紹介された「よもやま荘」を根城にして、この町を毎日クラゲのように浮遊しつつ、些細な事象もつぶさにチェックしている。その過程でまあ、なんだ、鳥人間コンテストだかに参加しようって学生の動向も、自然目に入っちまうのな。正直なとこ、彼らは調査対象としては意味が無いんだが、そう言や俺、こういう学生時代って無かったよな、なあんて思うと、ついつい首を突っ込んで観察したくなっちまうのな。嗚呼、青春だねぇ。

 今日も今日とて、連中は開発だ特訓だと忙しい時間を過ごしているはずだ。俺もよもやま荘の暗い暗い地下室から抜け出して、調査活動はさて置いて、今日は一つ彼らの悪戦苦闘振りでも見てやろうじゃないか。等と鼻歌交じりで思いながら、俺は階段を駆け上がって1階の表玄関の扉を開き、そうしてイの一番に見たものは、ランニングと短パンが汗でドロドロにずぶ濡れた小娘が、2月のクソ寒い朝っぱらから肩を大きく上下させてぶっ倒れている有様だった。

 

二次選抜へ向けて猛特訓!

 

「うう、苦しい、水を飲ませてくれ…」

 俺は黙ってナップサックから水道水充填済みのペットボトルを取り出してやった。娘は半ばひったくるようにしてキャップを開け、勢い盛大に喉を鳴らして嚥下するも、大体五口目くらいで鉄砲水の如く全部吐き出し、背中を丸めてケホケホむせ返る、ってそりゃ当たり前だ。ヒリヒリに乾いた喉に物が通りゃあ、反射的に人間てのは嘔吐しちゃうもんなのよ。俺は少しずつ、舐めるようにして飲め、と言ってもう一本手渡す。娘は今度こそ落ち着いて飲み下し、ようやく開き切った瞳孔が収まった。ありがとう、とペットボトルを俺に返し、しかし娘は眉間にしわ寄せ首を傾げる。

「誰?」

 平田だ。失礼な奴め。俺はこの娘の名をちゃんと知っていると言うのに。

 矢上ひめ子。金髪のちっこいアメリカ人とルームシェアをしている。確か彼女は、鳥人間コンテストの正パイロット候補の一人だ。今は二次選抜に向けて、パイロット候補達は特訓の日々と聞く。つまりは矢上も半死半生になりつつ猛特訓の真っ只中って訳だったんだろうが、こんなになるまで、一体何やってたんだ?

「ロードワークよ。ロードサイクルと言うべきかな」

 言って、矢上は門の傍らに停めてある、一風変わった乗り物を指し示した。見た目物凄く華奢なゴーカートといった風情だが、どうやらあれは自転車らしい。

「リカンベントバイクっていうのよ。人力飛行機のコクピットもリカンベントだからね。使用する筋肉を十分に鍛えたいなら、同じリカンベントタイプを漕ぐのが一番って訳。これで足腰、腹筋、筋持久力を高いレベルまで持って行く!」

 息も絶え絶えの様子は何処へやら、矢上は拳を握り締めてすっくと立ち上がった。が、途端にへなへなとその場にしゃがみ込んだ。一拍子置いて、膝がけたたましく笑い出しやがった。一体何キロ走ったんだお前。

30キロ」

 30キロ!?

「後20キロ走らなきゃならないのよ。実際、ロードサイクルで50キロは割とありがちな距離なんだけど、城輪町は山ひとつが町だから、アップダウンがきつくって…。足腰鍛えるにはいい環境だわ本当」

 言って、矢上はふらつく体を引き摺って、再びリカンベントバイクの元へ向かう。いやいや、その体で無理繰りに走るのは無茶だろう。そもそも体の作りが全然なっちゃいねぇ。少しずつ距離を延ばさなきゃ下手打ちゃブッ壊れちまうぜ?

「駄目なのよ! 体力も筋力もイマイチなのは十分分かってる。だから普通の練習じゃ、あの娘達に追いつけない!」

 矢上がピッと指差した先には、ゲラゲラ笑いながら坂道を駆け上がって行く褐色の外人女。猛スピードで視界から消えて行ったが、何だあれは。妖怪? 都市伝説風の幽霊?

「リコ・ロドリゲス・ハナムラ。ただでさえ腕力系の人なのに、あんな物凄い特訓を積んでいるなんて!」

 いや、ただ走っているだけだが。等と言うてる内に、ちっこい金髪の外人の小娘が右へ左へよろめきながら、先程のリコを追って御登場だ。こいつはやたらトロくさく走っているので視認出来た。アメリア・リンドバーグだ。

「待ってえ。リコちゃん、待ってええぇぇ」

「ああ、アメリアまで必死過ぎる! あんな独特の特訓で一生懸命になって、ううん、可愛い!」

 だから走っているだけだが。俺の突っ込みは間違いなく聞いちゃいないんだろうが、矢上は『負けないわよ、ヒャッホウ』との言葉を残し、恐るべき速度でリカンベントバイクを駆り、坂道を下っていった。多分、上り坂の段になってから「うう、苦しい、水を飲ませてくれ」を繰り返すんだろう。

 

 俺が何処に向かっているかと言えば八十神学院なんだが、そこは城輪町のてっぺんにある。しかも山を何周もしないと辿り着けず、面倒くさい事この上ない。俺は姫路城の中を歩き回った事があるんだが、天守閣に到着するまで散々に右往左往させられたのを覚えている。城の攻め手を撹乱する為の構造だが、案外城輪町もそういう事なんだろうな。

 こんな風にアップダウンが激しいおかげで、アメリアとリコは二人揃って猛特訓を積めるって訳だ。ただ走ってるだけだが。

やあ、ドン・平田、今日もお出かけ? 相変わらず何してんのか分かんない人だよねえええ

 と、リコが坂の上から走って来て俺とすれ違って行く様をドップラー的字面で表現してみた。

早い、早いよリコちゃん。もう何回追い抜かれたのか分かんないよお

 これまた前方で地獄の亡者の如く這い上がっているアメリアを表現してみた訳だが、か細いうめき声が前から聞こえ続けるのはとても不気味なので、俺は取り敢えずアメリアと並んでみる事にした。

 アメリアが汗だくずぶ濡れなのは、先の矢上とどっこいって感じだ。次いで言えば半死半生の悲惨な体もどっこいだが。間近までやって来て、初めてアメリアは俺の存在に気がついたらしい。この世の苦しみを一身に背負ったような顔から、無理やり破顔大笑を試みる。愛想のいい彼女らしいが、口から涎が出てるぜアメリア。

「こ゛ん゛に゛ち゛は、ひら゛た゛さ゛ん゛」

 スケキヨかお前は。

「み、水を」

 そのネタはもういいから。とも言っていられないので、俺はペットボトル(水道水)を取り出してやった。アメリアは半ばひったくるようにしてキャップを開け、勢い盛大に喉を鳴らして嚥下するも、大体五口目くらいで鉄砲水の如く全部吐き出し、すいません、もう手抜きは止めます

 ようやく一息ついても、アメリアは走るのをやめなかった。歩いている俺と同じくらいの速度だが。

 走りながらアメリアは、今年の7月に行なわれる琵琶湖での大会の事を俺に話してくれた。数十機の滑空機と人力飛行機が湖上を飛ぶ状景を、アメリアは夢見心地で俺に語り続ける。そんな事してたら、また息が切れちまうだろうと危惧しながら、ついつい俺も聞き入ってしまう。何かが目茶苦茶好きな奴が、その目茶苦茶好きなものの事を話すのは、見ているだけで面白いもんだ。

「でね、わたしはそのパイロットになるの!」

 言い切ったなアメリア。でも、まだ誰が選ばれるのかは決まってないんだろう。

「いいじゃない。言うだけならタダなんだから。宝くじを外れると思って買う人なんて誰も居ないもの。信じていれば、きっと願いは叶う!」

 さすがアメリカ人。ポジティブシンキング。しかし宝くじを例えに出すのはまずかった。当たるも外れるも運次第って事になるからな。しかも確率は、物凄く低い。

遅い。遅いよアメリア。そんな事じゃ一生アタシについて来れないよおお

 何時の間にかリコが猛然と追い上げており、再びドップラー的にアメリアを抜き去って行った。つうか凄ぇ早えぇ。と、リコはピタリと止まって俺達の方へと振り返った。その顔は如何にも自信満々で、不敵な笑みに彩られていて、何というか、一回り捻った笑い顔が似あう女だ。

「アタシも狙ってる事を忘れないように。ここまで来たら、一丁本気出すからさ。マジなアタシって、結構危ないよ?」

「へへ、わたしも負けないもん。体力さえカバーすれば、候補全員敵に回しても、絶対勝ってみせるから!」

 力強く台詞を吐き、アメリアは力を振り絞って走り出した。既に駆け上っていくリコを必死に追う様は何ともいじましい。そんなにピッチを上げて大丈夫かアメリア。と思ったら案の定、100mも行かない内にパッタリ倒れやがったアメリア。

 

 着いたよ。八十神学院に。目ぇ回したアメリアを背負ってさ。

 しっかしデケエ学校だぜ。小・中・高と大学まで、エレベータ式に一貫した規模も然る事ながら、この中に特設校とかいう半独立学校までありやがる。当然敷地面積もクソでかい。敷地の中に森とか谷とかあるってのはどうだ。

「ほら、平田さん。あのプールを見なよ。あそこでも候補の一人が特訓してるからさ」

 そりゃあプールだってあるだろうさ。それはさて置き、特訓を中途で打ち切ってアメリアに付き添うリコが示す先、確かに背の高い女と超背の高い女が延々と泳ぎ続けている。今、2月なんですけど。

 候補の一人は、背の高い女の方だ。名前は確か、神代神楽だっけか。中々に美しいフォームのクロールだ。息継ぎで顔が上がる度、眼帯をつけたままなのがとても気になるけれど。つうか外せよ。

「いいよ、神楽さん、その調子! 後25m泳いだらスローでもう100m!」

 超背の高い方が、泳ぎながら器用に話しかけている。古雅勇魚。勇魚というのはクジラの事だが、親もきっと身長が196cmになる事を予測して、そんな名前にしたに違いない。こちらは平泳ぎだが、クロールの神楽よりも数段早かった。なるほど、神代神楽は古雅にスイミングコーチを頼んだってとこなんだろう。

 アメリアをリコに預け、俺は面白いのでもう少し彼女らを観察する事にした。ゆっくりと残り100mを泳ぎきり、神楽が全身から湯気を立ち上らせてプールの縁に両手をついた。

 へぇ、と俺は感嘆したね。2月に屋外でスクール水着を晒す度胸にではない。神楽の全身について、だ。恐らく体脂肪は5%を切っている。無駄な肉を削ぎ落とし、骨格が筋肉を纏って綺麗に浮き出る感じだ。俺には格闘家の友達が何人か居るが、そいつらの体と似ている。連中は瞬発力と持久力、それに筋力そのものがバランス良く造られるよう訓練していて、きっと神楽が目指しているのはそういう体なんだろうな。

「…平田さん、あんまりジロジロ見ないで欲しいんだけど」

 長い髪をタオルで丁寧に拭きながら、何時の間にやら神楽が俺を胡散臭げに見上げていた。失敬な。ただ俺はお前の筋肉のつき方を、じっくり観察していただけだ。

「それが嫌だって言うんです!」

 神楽はサッとタオルで体を巻いて、ペタンとその場に座って足を伸ばし、ストレッチを開始した。向こうでは古雅が未だプールに浸かっていて、

「わあ、もう氷が張ってきてる。今日は本当に寒いわね!」

 等とでかい声で叫びながら氷をガシガシ割っている。どこからどう見ても寒がっている様には見えねえ。

「勇魚、そろそろ御願い出来る?」

「ン、分かったわ」

 うつ伏せた格好の神楽が古雅を呼んで、何やら神楽の体のあちこちを指で押し始めた。ああ、ありゃ指圧だ。しかし何故に指圧。もしかして冷え性?

「違います。こうやって指圧とか整体をやって、トレーニングのクールダウンをしているのよ。乳酸が蓄積されると怪我や疲労の原因になるし、筋肉が硬くなってしまうから。次いで言えば、これから古流柔術の練習もやりますしね。あれは足腰を鍛えるのが第一なのよ」

 なかなか上手く考えてやがんのな。うん。鍛え方は、先の3人に比べて一番バランスが取れているかもしれないぜ。

 しかしあれだな。こうして見るとパイロット候補というのは全員女性で、実に華やかだと思う。確か実際の鳥人間コンテストって奴は、人力飛行機に関して言えば上位陣はほとんど男性パイロットだったように記憶する。やっぱりあれは体力勝負だから、どうしてもそういうとこで差がついてしまうんだろう。ただ、彼女らの特訓風景を見る限り、結構ガチで遣り合えるんじゃないかって気がするぜ。無論、ライバルチームの正パイロットも体力づくりに余念が無いはずで、果たしてどういう勝負になるのか、これは結構楽しみじゃないか。

「あのう、割って入るようで申し訳ないんだけど、うちにも男性のパイロット候補が一人居ますから」

 遠慮がちに神楽が声をかけてきて、あれ、そうだっけ?

「そうだっけって。双月響君ですよ。前回の選抜戦で一等賞の。目下、あたし達全員が最大の壁だと思っているんですから」

 言って、神楽は目を細めた。げ。勝負師の顔になってやがる。そう言えば俺は、双月という少年の事をすっかり忘れていた。大体俺は彼を、ここ最近よもやま荘でも見かけてねえんだもん。そうだ、行き先は思い出した。他でもない、俺の会社、コースマスだ。

 

コースマス社・開発行動

 

 息をついてHUDを外し、双月は人力飛行機お馴染みのペダルが添えつけられたコクピットから降りた。タラップを下って、待っていてくれたミハイル技師に一礼。ミハイルは双月の要望に応じて、人力飛行機用にフライトシムのプログラムを作った男である。

「お手を煩わせて申し訳ない。一高校生のお願いに、プロの方が手を貸して下さって」

「いえ、これも業務の一環ですからね。それにそちらの方には、うちの代表が色々と御協力を頂いておりましてね。御恩返しという意味では、五分五分と思って頂ければ幸いです」

 そちらの方、御協力、とは双月の与り知らぬ話ではあったが、自分が気にしても仕方ない事なのだろうと納得する。

「しかし、シミュレータは飽く迄シミュレータですから。刻々と変わる天候、気温、湿度、風向き。どれを取っても現実の気紛れに比べれば、シミュレータで再現できる飛行状況には限界があります。実地での訓練は、仕上げに必要だと思いますよ」

「それは承知している。それでも俺に足りないのは飛行技術である事は、俺自身が一番分かってるんだ。頭の中で空想するよりも、視覚聴覚触覚をシミュレートするのは有意義だぜ。今度の特訓は、本当に感謝している。何せ自分の穴を埋める事が出来たんだからな」

「そう言ってもらえると、こちらもプログラムを組んだ甲斐があるってものですよ」

 ミハイルは双月を促して、社員食堂での小休止を誘った。K社は高技術力を誇っているが規模は小さく、航空宇宙会社を謳うにしては社員の数もそれほど多くない。よって食堂の広さもそれなりだったが、今は昼の休みをとっくに過ぎて、そろそろ夕方が気になる午後3時だ。この時間に休んでいる社員は居ないから、二人ならば十二分にくつろげるだろう。

 等と考えて食堂の扉を開くと、先客が一人だけ居た。双月とミハイルには見知った顔である。

 

主翼風間史浪

「あれ、風間先生」

「よう、双月じゃねぇか。久し振り」

 顔を上げて短い挨拶を寄越し、風間は再びテーブル上で広げた設計図に目を落とした。

「これは、主翼ですね。しかし何とも長大な」

 二人分のコーヒーを置きながら、ミハイルは風間の面前に腰を下ろした。双月はその隣。

「まあな。試行錯誤を繰り広げてきた設計だが、ここいらで落ち着きそうな感じだぜ」

 こつこつと紙面を指で叩く風間の言わんとする事が、双月にはもう一つ理解できなかった。そもそも設計の図面は門外漢で、どこがどう前回と変わったのか、見ただけではどうも分からない。しかしミハイル技師は、ホウと感嘆の声を上げた。

「スパーに沿ったリブの間隔が若干広くなっていますね。しかしリブの数自体は変わっていない」

「そうだ。翼面積が拡大すれば単純に浮揚効果も上がる。しかしこの設計の主題はそれじゃない。この間隔だと、翼がたわみ易くなる」

「先生、それだと翼が折れてしまうんじゃねえのか?」

 と、双月。しかし風間にとって、呈されたその疑問は予想の範囲内だった。

「ま、強度の話は後にしよう。こうしてたわむ翼は、実は旋回にも使えるんだ。言ってみれば、翼それそのものに舵の役割をも持たせる。航空機の勃興時代は試行錯誤の連続でさ、金属固定翼が定着するまでは、こういうアイデアも出ていたって訳だ」

 言われてみて、双月にも理解出来た。確かにこの種の人力飛行機は、風の影響を大きく受けてしまう。特に琵琶湖は湖上の風向きが複雑で、TVで見た時の航路によれば、何れのチームも細かにターンを行なっているのが分かる。加えて、トリコンには18km地点での大旋回が待ち構えているのだ。なるべく短時間でターンする能力は、高いに越した事はない。

 それでも疑問に思うのは、強度の問題だった。たわむという事は負荷が重くかかるのと同義で、歴代の大会参加人力飛行機の多くが、長大な主翼部分の崩壊で墜落している点を鑑みれば、風間のアイデアは些か博打めいたものに感じられる。それでも風間は、自信満々の顔を崩さなかった。

「で、先程の強度の問題だが、主翼のみならず全機体を構成する素材をCFRPに全面移行する」

 これには双月とミハイルが目を丸くした。

 カーボンファイバー・レインフォースド・プラスチック。炭素繊維強化合成樹脂。超軽量かつ高剛性、おまけに加工が容易。人力飛行機の素材としては打ってつけの代物で、実際出場チームのほとんどがCFRPを採用しており、八十神のチームでも部分的には使っていた。実際、双月も調達してきた内の一人だ。

「しかし先生、確かに全ての素材を統一すれば、所謂構成上のひずみみたいなもんは無くなるかもしれねえけど、第一ありゃ値段が張り過ぎるぜ」

「その点も大丈夫だ。ちゃんとアイデアを出してきた奴が居るんだ、これが」

 

公界往来実践塾・開発行動

 

<全体方針:青空つばめ>

「じゃじゃじゃじゃーん! これがCFRP生成オートクレーブ、その名も『オートクレーブくん』!」

 ネーミングセンスは悲惨のレベルだと俺は思ったね。

 ここは何々実践塾とかいう特設校の工作室だ。邪魔はしないから見学させてくれと頼んで、俺も彼らと一緒に久々の学校椅子に腰を下ろしている。さすがに人力飛行機の部品を作るだけあって、工作室、結構広めに面積を取ってあるぜ。と思ったら、遮蔽する壁をブチ壊した跡が残っているので、二部屋を強引に纏めたってとこなんだろうな。

 雁首揃えた開発メンバーを前にして、何だか分からんがものごっつい機械をバンバン叩き、教壇で熱弁を振るうのは青空つばめ。大学生なんだとさ。正直、他の高校生達に紛れていたら違いが分からん容姿をしている。

「えー、CFRPいうんは、炭素繊維の束にエポキシ樹脂を染み込ました素材、これはプリプレグシートっていうんやけど、これに熱と圧力を思いっくそかけてガーッと固めたもんなんや」

 何とも分かり易い説明だなオイ。

「もっと簡単に言うと、粘土に藁を混ぜて作った日本の土壁と同じ理屈やな」

 あ、それは更に分かり易い。青空って女、結構講釈が上手えな。案外学校の先生とか、向いているかもしれん。等と思う間にも続く青空の弁。

「本当はプリプレグシートを購入してからオートクレーブにかけるのが普通やけど、ウチらはその手前、当のプリプレグシートを作るとこから始めるで! 何故そんな工業世界のプロみたいな芸当が出来るかって? それは運命『発明家の思い出』を使用したからや!」

 身も蓋も無え。

「このオートクレーブかって、大学の研究室に落ちていたものを寄せ集めて、ええと、まあ、色々加えて一丁デッチ上げたんやで!」

 何気にまずい事言ってないかコイツ。それとは別に、今何やら口ごもったな青空。

「これにて今回の開発より、各パーツに対してCFRPの全面供給を開始します! 容赦なく使い倒して、最強の人力飛行機をブチかまそうやないですくわッ!」

 青空の号令一下、開発メンバーが自身の担当するパーツに小気味よく散っていった。バラバラな個性の寄せ集めって感じの連中だが、やはり目的は一つなんだ。傍目から見ても纏まりがいい。まあ、頑張れよと、俺は口には出さなかったが心の中で呟いた。

 

<尾翼:音羽仁壬 神代風霞 山根まどか

 体育座りをしつつ、くかーと安らかな寝息を立てる神代風霞、あの神楽とは姉だか妹だかよく分かんない片割れのドタマ目掛け、小柄な少年である所の音羽仁壬が盛大に頭突きを見舞った。げあ、とあんまり聞いた事の無い呻き声と共に風霞は目覚め、即座に反撃の頭突きを音羽に決める。何つーか、大雑把なコミュニケーションならば息が合いますって感じ。

「…ってえなこのチビっ子があ! 女の子の頭にたんこぶ作りたい性癖でもあるんじゃないの、このヘンタイ!」

「うるせえ、俺も痛えよ馬鹿先輩! さあ始まりますよって頃合に昏睡しやがって、ちったあやる気を見せて下さいよお願いですから!」

 すまん。さっき「纏まりがいい」って言ったの取り消し。開始数分で喧嘩をおっ始めてやがんの。他のパートの連中も分かっているようで、放っておけば疲れ果てて自然に収まるだろうってなもんだ。誰も止めに入らねえよ。大体、この場で一番止めに入らにゃならん、本パートを担当する三人目はベタッと尻から座り込んで、俺が差し入れに持参したシャトレーゼのシューアイスをいきなり食ってやがる。しかもペンギンの格好をして。何故にペンギンの着ぐるみ。俺がそう聞くと『これは地肌ですよ!』と強硬に主張していた。私の名前はペンギンマスク。本人がそう言うんだから、山根まどかって名前は意地でも言わん。お前なんかペンギンだ。はいそうですが何か。いえ何でもございません。

「ともかく、尾翼に関しては設計を見直す事にした。スケールダウンした模型があるから、こいつを元にCFRPを加工してみようぜ」

 強引に話を戻したな、音羽。苦労性なヤツ。音羽は傍らのバッグから、小さな尾翼の模型を大事に取り出した。へえ、変わった形だな。

「何これ。今までとは全然違う形じゃない」

「V字尾翼だ。俺が図面を描いたんだぜ。弥生の指導もアリだったけど、我ながら今更心配になっちまうな」

「だいじょうV」

「縦と横の組み合わせじゃなくて、斜め同士の二枚翼かあ」

「どういうメリットがあるかって言うと」

 誰かペンギンマスクを拾ってやれよ。

「機体の安定性がいいんだってさ。だからグライダーではポピュラーなんだ。風を捉えて長距離を飛行するには具合がとてもいい。でも、こういう形だから、舵が風に向かって垂直に立たない訳で、旋回性能の効きは悪くなってしまう」

「じゃあ、痛し痒しじゃない」

「其処で風間先生の案が効いてくる。主翼のたわみで舵の機能も持たせようってさ。これでV字尾翼のデメリットが薄まって、メリットが際立つ。まあ、実際の話、形を作ってみないと少々心許なかったが、今回は山根先輩が模型を作ってくれたしな」

 え、と風霞が呆気に取られた顔になる。多分俺の顔もそう。尾翼の模型は、かなり緻密に作られていて、多分俺と風霞が疑問を共有したのは、あのペンギン羽で一体どうやって組み立てたってとこだ。シューアイスを食い終わったペンギンマスクは、ペチペチと二枚羽をはたき、俺等に向かって偉そうにふんぞり返った。無性に可愛がってやりたくなるキャラクターである。

「本当はパイロットになりたかったわ。不測の事態で断念せざるを得なかったけれど。でも、開発だってとても重要な仕事だし、裏方の役回りは誰かが担わなきゃね。何と言ってもチームなんだし。取り敢えず今回は、新機軸を打ち出そうとしている音羽君をサポートしてあげるからね。それにしても、我ながら上出来な模型じゃない」

 おお、ペンギンの格好で模範的女子高生みたいな言い草を。まるで評判の悪い猫が不良を拾って育てているような意外性。ペンギンには後で俺の分のシューアイスをくれてやろう。

 そして彼らは、先程とは打って変わって開発の段取りに動き出した。実物の加工は音羽とペンギンマスク。形状の洗練は風霞。各々得意の分野をてきぱきと割り振る様は一端の職人っぽく感じられ、見ていて中々気持ちがいい。やっぱ人間、目的と信念を持つのが肝要なんだろうな。一回り年下のこいつらを見ていると、恥ずかしながら改めて思わされるぜ。ベキ。何だ今の音は。

『あ』

 と、間の抜けた音声が唱和する。尾翼模型を弄り回していたペンギンマスク、その手には二枚羽じゃなく、一枚羽が一つずつ乗っかっていた。

 

<プロペラ:シャーリー・エルウィング アルフェッタ・レオーネ>

 打って変わって、ここは随分と静かだな、おい。

 シャーリーとアルフェッタという、これまた外国人コンビが、各々ペラのブレードを一本ずつ持って、加工の最後の仕上げをチェックしている。しかしあれだ、このプロジェクトに参加している面子ときたら、アメリカベネズエライギリスイタリアと、えらく国際色豊かな上に全員女の子だ。こりゃ絶対テレビ映えすると思う。うちの会社も大概外国人が多いが、成り立ちが成り立ちなのでロシア人がやたら多い。ちなみに先に出てきた俺の相棒も、元々はロシア出身の「人間」だった。

「ええ、これでいいでしょう。ブレード自体の加工は、もう必要無いところまで綺麗に仕上がっています」

「本番機と予備機が2機分、合わせて9枚かぁ。最高に手間暇かけてやすりがけしたんだから、これで不十分だったらヘコむよマジで」

 お互いしゃべっているのは日本語丸出しなのな。

「残る作業は、ピッチの可変ですね。今現在2段階まで対応するよう準備をしていますけど、これでは初速時と巡航時にしか対応していません」

「自転車の変速ギアだって、五段変速くらい当たり前だよね」

「この前十五段変速という自転車を見ました」

「近所に買い物に行くには使えないなあ、それ」

「まあ、私達の機体も実使用においては五段変速程度が適当でしょう。逆にそれ以上変速を増やされては、ピッチの可変機構作成が困難になります」

「それに乗り手だって、そんな沢山の変速があったら、飛行に応じての変速ってやつに頭が回らなくなってしまうよね。ただでさえペダルと舵の操作に意識が奪われる状況なのにさ」

「そういう事です。次回以降の作業は、多段階に対応する可変機構の作成という事で、今回のプロペラ開発はお開きにしましょう。こういうのは、焦らずに他のパーツの作業状況も鑑みて、じっくりやった方がいいですしね」

「そうだね。コクピットが変速機構導入の作業に移らない限りは、可変ピッチも机上の空論になってしまうもの」

 言って、二人はちゃっちゃと工具類をしまい、技術書を開いて目を落とす、って、もう終わりかよ!?

「いえ、私達、先んじてブレードの研磨作業を進めていましたので」

「さっきも言った通り、変速機構の作成って仕事もあるんだけどさ。こればっかりはコクピットがソレに応じた仕事をしてくれないと、こちらとしても進める訳にはいかないんだよね。なあ、弥生」

「そうですよ。何かが突出した才能を持った人が居るとして、それをサポートする人は同じように匹敵する何かを持っていなければ、真の相乗効果は起こりませんから」

「弥生さんの仰る通りですね。全ては全体のバランスが肝要になります。2と1の組み合わせは、恐らく1と1の組み合わせに劣ります」

「取り敢えず、変速機構の図面に関しては、私が出来る限りアドバイスしますね。準備だけはしておかないと」

「それは、有難いです。元々機械構造は門外漢ですし、むしろこの辺りのサポートは弥生さんにお願いしないと」

「ま、頼りにしてるから、弥生ちゃん」

「でへへ。照れますね」

 …いやいや、ちょっと待った。さっきから目を明後日に向けて、何なんだ、その会話めいた独り言は。

「独り言って、烏丸弥生としゃべっているんだけど」

「ええ、あなたの左隣で、ずっと正座されていますが」

 俺はゆっくりと目線を言われた方に傾けたが、そんなもんは居ねえ。かついでんのかと思ったが、そういう凝った冗談は、この二人は言いそうにない。

「もしもーし。平田さーん。聞こえますか、平田さーん」

「ほら、手を振ってあんたに呼びかけているじゃないか」

 そんな真顔で言われても、見えねえもんは見えねえよアルフェッタ。と、シャーリーの整った顔が僅かに口元を緩ませ、旺盛な好奇心を目元に湛えた。あ、こういう顔もするんだな、こいつ。

「私の祖国は古代から幽霊と妖精の国なんですよ。平田さん、あなたは幽霊が居ると思いますか?」

 居るよ。そう答えると、思っていたのと違う反応だったらしく、シャーリーの目が丸くなった。そりゃあ、居るよ。動く死体や吸血鬼だって、この世には居るんだからさ。

 

<フレーム:大鳥雷華>

 等と言ったものの、俺には見えないのにみんなには見えているという状況は、やはり多少背筋がゾクッとする感じはある。去り際にアルフェッタとシャーリーが言った台詞が頭から離れねえ。

「じゃあね、平田。弥生も後でもう一回こっち来てよ」「うふふ。何だか平田さんが気に入られたようですね」

 ッて俺について来てんのかよう!? まあ、気にしたって気にしようがないけどな。だって見えないんだもの

「でも、何故なんでしょうね? 私だって犬に吠えられるし、皆さんとはきちんと最初からお会いできましたし」

 で、ここはフレームパートだ。寂しいぜ、ここは。居るのは大鳥雷華って、如何にも大人しそうな女の子が一人。まあ、その理由は分からんでもない。他と比べて、ここは結構地味なんだよね。しかしながら、他に負けず劣らずの重要パートって事くらい俺にも分かる。どれだけ高性能のパーツを作ろうが、そいつら全てを繋ぐフレームがヤワだったら、なーんにもなりゃしねえもんな。

 大鳥がやっている作業というのは、フレーム接続面なんかの再調整らしい。如何にも見た目「私たち、くっついています!」感丸出しの接続を、一つの長大な棒のように滑らかにし、接着剤の使い方なんかも結構玄人はだしで綺麗にやっている。件のCFRP全面移行だかで、剛性そのものは構成材違いによるひずみも無くなったはずだ。

 地味だが、丹念に仕事をするってのは、いいね。日本人の美徳だぜ。きっと大鳥も大和撫子の典型みたいな性格なんだろう。真面目で控えめな仕事振りを見てりゃ分かる。例えば神代風霞なんて娘の人柄は、三十代と言い切っても然程不思議は無いスレッぷりだが、大鳥は何て言えばいいかな。小梅ちゃん? ほれ、ロッテの飴玉にそんなイメージキャラクタが居るだろう? きっとエンコーとか、そういうもんの極北に居る少女に違いない。

「これで、フレーム同士の接続に関する手入れは、ほとんど必要なくなりましたね」

「はい。こうなるとフレームの工程は完了と考えた方がいいのでしょうか」

「うーん。どうですかね。フレームの重要なポイントは、各パーツとのリンケージにあります。正直言いますと、リンケージそのものは初期レイヴンスから大して変わりが無いのですよ。パーツ接続の補強というのはどうでしょう。それ以外は、余程の新機軸が機体に盛り込まれない限り大丈夫です」

「今少し、改良の余地はあるのですね。それでも、やっとここまで辿り着きました。烏丸さん、御指導ありがとうございます」

 …まただよ。俺はおいてけ堀か。俺が見えないものに向かって、顔を綻ばせながらしゃべる大鳥を見ていると、何か居心地が悪いっつうか、むしろ怖い。携帯電話でしゃべってんのかと思ったら、よく見ると携帯を握ったフリをしている奴を見ちまったような。ひょっとすると、おかしいのは俺の方じゃないのだろうか。なんてな。ありがちな自己喪失の罠に陥る程、俺はヤワじゃねえ。目に見えたものだけを信じるっつうのは愚昧さの象徴みたいに言われる事もあるが、真実を断固信じると言い換える事も出来る。

 とまあ、俺様がナルシスティックな考えに浸る傍ら、実は少々気になる事があった。少し離れた所で、コクピットのパートを担当している奴。何故にあいつはドライバーではなくティーポットを携え、ネジ類ではなくティーカップを並べているのか。

 

<コクピット:藤倉辰巳>

 おい。

「はい?」

 何をやっているのかね君は。

「何って、お茶の準備ですが。平田さんが持ってこられたシューアイスをお茶請けに、昼食前の優雅な安息のひと時を演出しようと、かように私は思っているわけですね」

 俺は天井から吊り下げられている「コクピット作業場」と大書された看板と、ポットからカップへと丹念にお茶を流し込む藤倉を見比べ、次いで何となく居心地が悪そうに鎮座する、作業途上のコクピットを凝視した。藤倉はこうしてお茶を淹れるのがさも当然のような物腰だから、果たしてそういうもんなのかと、ついつい俺の頭もぼんやりしてしまうのだが、いやいや、待て待て、どう考えてもおかしいだろう。俺は問うぜ。コクピット開発作業はどうなってんだと。

「勿論、色々とチェックしました。油を差したりペダルの作動に支障は生じていないか、あろうことか錆など出来ていまいかと」

 はあ。

「つまりは現状維持です」

 藤倉による「お茶が入りました」の拍手と共に、三々五々と開発メンバーが集まってきて、今から一時のティータイム。って藤倉、お前、現状維持って、何にもしてねえって事じゃねえか。いいのか? ペラのパートはコクピットとの連動とか何とか言っていたし、素材の全面見直しに乗っかれていないのはコクピットだけだぞ? いやいいんだけどさ。俺は門外漢だし。

 とは言ったものの、矢張り腰が落ち着かない感触は拭えず、俺は一応連中に断りを入れてから、何となく件のコクピットに座ってみた。狭え。こんなんに乗って何分、何十分とペダルをこぎ続けると思うとウンザリだな。そのウンザリするような行程に、コイツらは、鳥人間に参加している連中は、真っ向ガチで戦いを挑もうって事か。しかも落水したら、今までさんざ苦労してこさえてきた機体が、確実に破壊されるのが分かっていながら。末路の塵芥を目指して七転八倒する、俺ら人間の人生みたいなもんだね。そういう意味じゃ人力飛行機は、こいつらが何を刻んできたかを表現する証なんだろうな。

 俺はちょっと目を閉じる事にした。こいつが琵琶湖の空に押し出される姿を想像するのだ。プラットフォームが足元から消えた途端、湖面へ真っさかさまに急降下。すまん。今の無し。押し出された機体は緩やかに高度を維持する。右手に観覧席。その向こうに琵琶湖プリンスホテル。左手に多景島。そして正面には、朝の霞がかった対岸が、陽炎のように浮かんでは消える。じりじりと移ろう景色。日輪直下の熱気。いいな。人力飛行機。飽く迄イメージ映像ですが。俺も乗ってみたい。何かそんな風に思えるようになったのは、こいつらの毒気に当てられたからか。上からニュウと俺の顔を覗き込む女。今のも毒気によるイメージ映像か? いや違う。開発メンバーの誰でもない。何かこう、ひどく地味な印象のお前は一体誰だ!?

「ありがとうございます! 少しでも愛して下さって!」

 烏丸弥生だあ。直感的に分かっちまった。ついに、俺にもソイツが見えるようになっちまったああ。

 

<広報活動:燕子花満月>

『次回、いよいよ第二次正パイロット選抜戦スタート!』のタイトルが踊る手製の広報誌を片手に、燕子花はげんなりと空を見上げ、ペットボトルに残った僅かなコーラを飲み干した。昼下がりの公園は妙に静まり返って、ベンチに座る燕子花の徒労感を一層際立たせる。

 以前、音羽が集めた人力飛行機部のOB名簿を元に、燕子花は彼らの家々を回って広報誌を配るという、実に地道なPR活動に従事していた。が、受け取った彼らの反応は、お世辞にも芳しいものとは言えなかった。特に烏丸弥生が事故に遭って以降のOB連は、人力飛行機部の活動自体が脆弱になっていた事もあって、けんもほろろの体たらくである。

 特にへこまされたのは鶺鴒弥生、旧姓烏丸弥生の対応だった。広報誌を見た途端、顔をしかめ目を背け、「金輪際ここには来ないで」とまで言い切られてしまった。今、手に持っている広報誌は、鶺鴒宅で受け取ってもらえなかった代物である。

「悪いことをしちゃったのかなあ」

 何となく呟いてみる。自分達の今を、かつての先輩達に知ってもらいたいと、ただそれだけの気持ちだったのだが。可能ならば、彼らにも昔の情熱をもって自分達を見守って欲しい、とも。大人達のかたくなな心は、小さな燕子花には壁の如くそびえ立つように感じられた。

 と、自分の座っているベンチに、誰かが腰を下ろす。慌てて半身を起こす燕子花に、ひどく穏やかな調子の言葉がかけられる。

「君、すまないが、その冊子を読ませてくれないか?」

「え。いいけど。おじさん、誰?」

「いや、まだかろうじて二十代なんだが。先程の玄関でのやりとりは、奥の部屋で聞いていたよ。妻が君の事を邪険に扱って申し訳ない」

 受け取った広報誌を興味深く眺める、如何にも真面目な月給取り風の男をぼんやりと眺め、はたと燕子花は気がついた。

「鶺鴒皐月さん!」

「ああ、妻は僕の事も話していたのか。その通り、僕もかつて人力飛行機部に所属していたよ」

 それから二人は、鶺鴒弥生が燕子花達の元にこっそりとお金を届けるようになって以降の事を話し合った。事故から十年、あれだけ見向きもしなかった人力飛行機に、形はどうあれ関わるようになったのだ。心境の変化はあるに違いないのだが、相変わらず家ではその話題を振ると不機嫌な態度を隠しもしない、という。

「死ぬような目にあったとは簡単に言えるけど、その恐ろしさを僕は想像できないから、彼女にどうこう言うつもりはない。ただ、僕らも相応に歳を取った。そろそろ向き合ってみても、いいんじゃないかと思うのだけどね」

 皐月は重く溜息をついた。それから、OB達の間で燕子花達の事はかなり話題になっている、とも言った。どうにも部が一度空中分解した気まずさがあって、彼らも表立って君等を応援し辛いのだろうと。皐月はそれでも、自分がOB達に話して何らかの協力をしてあげられるように仲立ちすると約束してくれた。

「皐月さん! ぼくらの作業場に行ってみようよ!」

 打って変わって明るさを取り戻した燕子花が、皐月の手を取って立ち上がる。面食らった皐月に二の句を継がせず、燕子花は更に畳み掛けた。

「ぼくらの成果を見て欲しいんだ。寄せ集めだった集団が、どれだけの仕事をやっているのか。それに、きっと皐月さんが驚くような人も居るよ!」

 燕子花は皐月を急かせ、自分の活動がOBの心にそれなりの波紋を起こした事を、素直に喜んだ。後もう少し頑張れば、自分達を応援する心強い味方が一人二人と現れるだろう。そう思うと、皐月の手をひく燕子花の足取りも軽い。

 

「はいっ、ここがぼくらの作業スペースです。そしてコクピットの傍に立つのは、何と、烏丸弥生さんです!」

 人気の失せた、公界往来実践塾の一室。何時もなら誰かが何がしかの作業をしているこの時間帯、どういう訳か居るのは弥生ただ一人。

「あら、燕子花さん…あれ? その人、鶺鴒君じゃあないですかっ! うわあ、超久し振りー!」

 弥生が駆け寄り、皐月の腕から肩からバシバシと叩いて喜ぶも、当の皐月は、ただ首を傾げただけだった。

「弥生って君、変な冗談はよしてくれよ。彼女がここに来る訳ないって」

 言って、皐月はさっさとコクピットに向かって歩き始めた。無視したのではなく、元から皐月には弥生が見えていない。顔を見合わせる燕子花と弥生の手前、皐月は両手を腰に当てて未完成のそれを見下ろしていた。

「…懐かしいって気持ちには、あまりならないかな…」

 と、廊下からドタドタと駆け込む音が聞こえ、作業場の引き戸が盛大に開かれた。

「みんな、ちょっと謝らなあかん事がある! って、誰もおらへんやないくあっ」

 ギャオウ、と頭を抱えているのは、チームで一番の賑やか師、青空つばめ、その人だった。

「いや、ぼくも弥生ちゃんも居るんだけど。謝るって、何を?」

「おお、カキやん。それに弥生はん。それと向こうの物寂しい青年はどなたはん? まあこの際、ボンと幽霊でもええわ。よく聞きや、大変な事になったで。何と、CFRPの素材である炭素繊維の単価が来月から20%~30%アップするんや!」

 事の大きさは、さすがに燕子花と弥生にも理解出来、二人揃って飛び上がった。基幹部材であるCFRPが、これでは供給困難に陥ってしまう。余談ですが、この時期に炭素繊維の価格が跳ね上がったというのは、現実世界でも本当の話です。

「でも、安心しいや。ウチがそれを見越して、可能な限り底値で買い叩いたったわ! レイヴンスクラスなら、あと二機くらい余裕で作れる量も大確保や。ウチの闇ルートを舐めたらアカンで!」

「さすがつばめさん!」

「でも、どうしてそれが大変な事なの?」

「うん。そういう訳で、ウチらの資金が十万を切りました」

 沈黙。

 数秒後、三人は揃って走り回った。人間、何をどうすればいいのか分からない時は、取り敢えず走ってみるものだ。基幹部材である炭素繊維は、今後の開発において買い足す必要が無い程の量を得られ、時期を間違えれば高い買い物をするのはおろか、供給不足の煽りを食う羽目になっていた。間違いなく青空の判断は大殊勲と言えるものの、それ以外にお金は入用であるのは自明の理。どうしようどうしよう。そうこうする内に、青空の携帯が着信音を鳴らした。本当に忙しない。

『青空! お前、携帯を携帯しないとはどういう事だ! 全然連絡が取れなかったじゃねえか!』

 風間先生である。

『燕子花にも、いい加減携帯持つよう言え! 電波で体調が崩れるなんて事ぁないんだから。まあいい、取り敢えず燕子花を呼んで、一緒に霞ヶ浦へ来い!』

「かすみがうらあ?」 「あ、皆さん霞ヶ浦へ行かれたんですよ。第二次正パイロット選抜戦の為に」 「そんな、誰も教えてくれへんなんて御無体な」 「携帯を携帯しなかったのが悪いんだよ」 「ケッ、今時携帯を持ってへんボンが小生意気な」 「それより、早く出かけられた方が」 「おお、そうやった。行くで、カキやん。ウチの愛車で茨城までレッツらGO!」 「あ、そうだ。皐月さん! ぼくらと一緒に行こうよ!」 「ちょっと、霞ヶ浦って、一体どういう事だい?」 「誰この人」

 ハリケーン。彼らが大騒ぎを始めてから出て行く迄を一言で表せばそんな感じだろう。残されたのは一人、烏丸弥生のみ。手を振って彼らを見送っていた弥生は、三人の姿が見えなくなると不意に無表情になって、溶けるように消えた。

 

霞ヶ浦・第二次選抜戦前日

 

 俺はまたもや輸送要員として駆り出され、今、準決勝の地、霞ヶ浦に居る。

 今回の試合、実は使用される機体から何から、うちの会社の全面バックアップなんだよな。機体を吊り下げるクレーンから湖面に待機する水上バイクから、全部ウチ持ちの太っ腹だ。えらく大掛かりな展開になって、トリコンメンバーの少年少女も所在無さげって雰囲気だが、案ずる事はない。これもうちの新製品候補の、データ取りと広報を兼ねているんだから。

 その新製品は、うちの虎の子技術主幹、マカロフ博士が考案したものだ。何でもセグウェイとやらをテレビで見て、「あんなものが革命的交通手段とは片腹痛い。我が永遠の宿敵、米帝の名折れである!」と叫ぶや否や小一時間で設計を書き下ろしたという噂が俺の社に流れているが、多分本当の話だ。手軽に、ちょこっと、空の人。そんなコンセプトで作られた、我がコースマスの新鋭機。君等は初の社外搭乗者に選ばれたのだよ。何て言うか、申し訳ない気持ちで一杯だ。

 クレーンを使って、コンテナからソイツが引き揚げられる。みんな、相当驚いた風だった。一見すると、何かもう鳥にしか見えねえもんな。で、そいつは羽ばたいた。バタバタ。バタバタバタ。バタタタタ。主翼が力一杯羽ばたく様を見て、みんなの腰が砕けていくのが手に取るように分かるよ。何じゃありゃ。きっとお前らそう思ってんだろ。俺もそうだ。何じゃありゃ。

 と、アレは羽ばたくのをやめ、ハッチがパカッと開いた。出て来たのは、拳を突き上げて「これぞ笑顔」って愛想を振りまく、飛行服の小柄な女。屠龍っていうテストパイロットだ。

「皆さん、初めまして! テストパイ兼司会進行の屠龍隼です! 皆さんには我が社が世界に先駆けて開発に成功した人力羽ばたき機、オーニソプター『バラビェイ』に乗って頂き、ここに鳥人間コンテストの第二次正パイロット選抜競争を開催致します! まずは皆さんに試乗を兼ねて一通り練習してもらって、その後本番の競争としゃれ込みましょう! て言うか、オーニソプターとオーソニプターってよく似てるけど、正しいのは『オーニソプター』だから間違えないようにね!」

 次回、第五回リアクションの前に、性懲りもなく練習風景の話を書くんだとよ、黒井は。

 

 

<つづく>

 






今月のアクト補足




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第四回:第2リアクション:『それにつけても金の欲しさよ』