燕子花は走っていた。別に逃げるものを見ると追い駆けてしまう本能にかられた訳ではない。
否、逃げている人を追い駆ける状況は確かにその通り。燕子花は例のパトロンさんに会うべく網を張り、よもやま荘に例の如くコソコソとやって来た彼女に声をかけた瞬間に逃走され、致し方なく後を追う、という次第。大体彼女も間抜けだ。一般社会における給料日の翌日に、必ず封筒が郵便受けに入れられるなどと、毎度毎度混雑すると分かっていながら、給料日の当日か翌日に銀行のCDで並んでいる人の如く学習能力がアレだ。わんわん将軍の血統に尻尾を掴まれても無理はない。
それにしても彼女は早かった。下り坂を、宅地の合間を、商店街を、滑るように走り抜ける。さして全力疾走の風も見せないで、燕子花が全く追いつけない。そうこうする内に、とある宅地の三叉路で、完全に見失ってしまった。息を切らせて燕子花は周囲を見回した。人気は無いが、彼女はどうも近い気がする。気がするだけで、気配が全然感じ取れないのは実に不思議だった。
「…もう、何で逃げるんだよう…」
「あんな全力疾走でワーって来られたら、誰だって逃げるわよ」
燕子花は肩を跳ね上げ、飛び退りつつ振り返った。其処には自分が追い駆けていた、当の彼女が両手を腰に当ててため息をついていた。
似ている。
以前、彼女と偶然すれ違った時に感じた違和感を、燕子花は彼女を前にして、改めて確信した。地味で少々丸っこい顔が、すっきりと細くなって化粧を施されれば、それは紛れも無く烏丸弥生の顔なのだ。
彼女は背後の家を指し示し、燕子花に「取り敢えず、お茶でも上がっていきなさいな」と促した。表札を見てみると、石彫りに「鶺鴒(せきれい)」との苗字がある。
「何でこっそり、僕等にお金を届けてくれるの? 堂々と来てくれたら、みんなで大歓迎なのに」
質素な割に心地の良いソファにちょこんと座り込み、燕子花は出された緑茶を啜りながら彼女に問うた。対する彼女は僅かに顔をしかめてそれでも頷きながら言う。
「話せば長くなるけどね」
それは本当に長い話だったが、省略するとこんな感じだ。
彼女はかつて、人力飛行機部に所属していた。熱心な部員であったが、ある時飛行実験に失敗し、湖に落下。脱出に失敗して溺れ、昏睡状態に陥り、一ヶ月ほど入院する羽目になった。それ以来、彼女は人力飛行機に関わる事を極端に恐れ、部員としての痕跡を跡形も無く消し去り、寮も引き払ってしまう。今は元人力飛行機部員の鶺鴒皐月(せきれいさつき)と結婚し、城輪町でひっそりと暮らしている、と。
似ている。特に前半部分。滅茶苦茶何処かで聞いた事がありますよ。と喉から声が出掛かるのだが、発した言葉は正に本質を突いてしまった。
「あなたは、烏丸弥生ちゃん?」
「誰が『ちゃん』よ。って、何で知ってるの? それ、昔の私の苗字なんだけど」
「よもやま荘では、死んだっていう風に聞かされているんだよ?」
「ああ…。事故が事故だったからね。OB会から名前も消してしまったし。そんな噂が出ても仕方ないか」
ずうとお茶を飲み干し、鶺鴒弥生は真面目な顔で向き直った。
「夫宛に資金カンパの手紙が届いた時、どうしようかと思ったのよ。私としてはキッパリ足を洗ったつもりだけど、本気で鳥人間コンテストを狙っている子達に、何かしてあげなきゃってね。他のOBは私のこともあって腰が引けたのかもね。でも、私達はこれからもカンパを続けるから、頑張ってね」
何とも不思議な話だった。ぐらぐらする頭のままで鶺鴒家を辞する直前、弥生は念を押すようにこう言った。
「出来るだけ、私の事は内緒にして頂戴。他のOBの手前もあってね…。辞める時に引き止めるみんなの前で、半狂乱で啖呵切った分際だもの。今更なのよ、本当に」
弥生の言う事は耳に入ったが、燕子花は頭の中で咀嚼する事が出来なかった。一つの疑問が駆け巡って、それどころではなかったのだ。
今、自分達が仲間として組んでいる烏丸弥生は、一体誰なんだ?
『という訳で、隠しリアクションです。この内容は鶺鴒弥生が秘密にしてくれと言っているので、秘密のリアクションという趣向になりました。この話は飽く迄番外ですので、追及しても全体の話が動くものではありません。
扱いは秘密となっておりますが、燕子花さんはこの内容を掲示板などで他の人に教えても構いません。御裁量にお任せします。
他の方が独力で見つけた場合は、その方に燕子花君がしゃべってしまった、という事にしてしまいましょう』
第三回:隠しリアクション:『セキレイさん』