よもやま二景  〜伊賀編・其の壱〜

 

城輪町を脱出したのは、夜の10時くらいだったと思います。

スーパーの食品搬入車に偽装した8トントラックは、私達よもやま荘の住人と鳥コン参加メンバーを荷台に隠し、一路西へ向かったという訳です。そんな、あんた、八王子を出たら別の交通手段を使えばいいんじゃん、という尤もな指摘は、かねがね金がねえんだから仕方ねえだろ、という風間先生の切り返しによって却下され、東海地方は三重県伊賀市までの道程を、あの寒くて暗くてガタガタうるさいコンテナの中で過ごす羽目になりました。最初の頃はみんな、寒い暗いうるさいを何とかの一つ覚えみたく連呼しておりましたが、1時間もすればしゃべる意欲もなくなり、2時間後には泥のようにのたくり伏した次第です。

大方は半分起きて半分まどろむといった最低の環境に喘いでいたのですが、4人程心地よく寝息を立てていた感受性の欠如した人達が居ます。藤林、燕子花、音羽、アルフェッタ。わんわん将軍の血統どもです。暗く、狭く、しかも地べたという状況は彼等の本能をいたく刺激したようで、それはもうムカつく程の寝入りの良さでした。あんまり腹が立ったので、藤林の鼻面に足裏を擦り付けてやったのですが、逆にムニャムニャと抱え込まれ、結局私は野郎に足を抱かれたまま伊賀に到着してしまいました。最悪です。

それにしても伊賀は凄い所です。見渡す限りの山と山。夏は盆地の放射熱で酷暑。冬は吹きすさぶ山風で極寒。人が生きるにはとても辛い環境であり、そこに目を付けた修験者達が、マゾヒスティックな修行に明け暮れたのも納得です。都合、彼等はそのまま居ついて山岳戦闘の技術を深め、後に忍者と呼ばれるようになりました。外界との往来も薄く、周囲から隔絶された環境を有するその地では、人も生き物も独特の進化を遂げたのです。結果人は忍者、カエルは大ガマになりましたってわけ。ほら、忍者が巻物咥えて乗ってるアイツ。

大ガマは伊賀市では、ほんの10数年前まで市民の主要な交通機関でしたが、昨今の近代化の波で効率化が図られ、専ら石炭バスに取って代わられました。しかし地元市民の保存運動によって、今は観光の目玉として大切に飼われ、家族連れを乗せて国道165号線あたりを元気よく跳ね回っています。

それにしても本当に伊賀は凄い。山と忍者とガマが特徴的な、現代日本に残る最後の秘境です。私達はここで一体、何を見て何を得られると言うのでしょうか。

 

ポンと肩を叩かれた神代風霞が振り返った途端、額に勢いよく頭突きが叩き込まれ、がはあ、と呻きつつもボイスレコーダーを手離さない風霞の面前、音羽仁壬が怒髪天を貫く顔で言ったものだ。

「お前、俺の故郷をよくも。伊賀はそんな人外魔境じゃねえ。ありふれた関西方面へのベッドタウンで、JRとか近鉄電車だって通ってんだ! ボイスレコーダーにある事無い事吹き込みやがって。そいつでお前、あのとことん物を知らない糸内先生に吹聴しようったって、そうはいかねえぞおごわあ!?」

今度は風霞のヘッドバットが音羽の脳天に決まった。

「うるせえわよオチビちゃん! 折角城輪町から出られたってのに、何なのよこれは!」

言って、風霞はぐるりと手を振り回して周囲を示した。

午前7時。ここは名阪上野ドライブイン。名阪国道の脇に設えられた私営SAの周りはポツポツと民家が点在し、囲むように田園、向こうにささやかな山脈。この時間でも比較的交通量の多い国道沿いではあるが、矢張り山間部だけあって空気は冷たく澄んでいる。何処にでもある地方のひなびた町の一つといった風情だ。

「普通じゃん! ガマは何処だガマは!」

「お前は一体伊賀に何を期待してんだよう!」

「忍者が居るのにガマは居ないなんてあんまりよお!」

何も其処までハイテンションになる事はあるまいに、と、二人による罵り合いをぼんやりと見つめる仲間達が10数人。都合9時間も辛い荷台に押し込まれていたとあっては、ある程度頭がパーになっても仕方ないかと、二人を除いて全員が溜息。

 

彼等は三重県伊賀市にやって来た。

全員が城輪町の住人。大半が八十神学院の生徒達とその関係者。そして輪楔者。迂闊な外出を禁じられている彼らが、わざわざ策を講じてここまで来たのには理由がある。

鳥人間コンテストに自らの人力飛行機で打って出ようと志す彼らだが、人力飛行機そのものに携わった経験が無い者も多い。まずはコンパクトサイズなウルトラライトプレーンで、全員が飛ぶ事を楽しんでみようというのが今回の趣旨である。それが何故に伊賀市かと言えば、風間先生にツテがあったというのは建前で、書いている私が地理に明るいからだった。加えてもう一つ、彼らにとっては非常に重要なイベントが催される。風間史浪は軽く咳払いし、寝ぼけ眼の生徒達に告げた。

「肝心の正パイロット選抜競争は、明日行なう事とする。今日は地元の有志の方についてもらって、一丁みんなで空の散歩と洒落込もうぜ。取り敢えず、長旅御苦労だった。ここで1時間の休憩を取るので、各自朝食を取っておくように」

 言うだけ言って、風間は運転手に挨拶すべく、スタスタと歩み去って行った。平田と名乗る運転手は、何でも風間の昔馴染みに紹介されて来たと言う事だった。やさぐれた風貌は見るからに裏街道の雰囲気を醸しており、成る程、風間の知り合いと言われれば納得出来る。あんまり立ち入りはすまいと一行は暗黙の了解をして、取り敢えずドライブインの開いている店を物色する。

「やったあ、マックがあるよ」 「マックぅ?」 「何処にでもあるね、マック」 「そりゃアメリアは喜ぶだろう」 「朝からビッグマックですか?」 「メガマックがあるじゃん」 「あれ、何か食べるのが修行みたいでね」 「私、グリドルっての食べたい」 「神田うのが旨いって言ったんだぜ」 「じゃ期待出来ねえ」 「でしたら端っこの方に24hの中華屋さんがあります」 「そいつは朝から食えねえ」

 そろそろだるさから頭が覚め、皆が和気藹々とマックへ向かう道すがら、不図神代神楽は立ち止まって空を見上げた。空気に湿った匂いが感じられる。雨、とまでいかないが、昼からは曇るかもしれないし、明日も鈍い天気になりそうだ。

「風が出ているかな。西から北東へ。明日はちょっと強いかもね」

「何だ? 神楽、今から明日の作戦への算段か?」

 と、神楽の独り言を聞き耳洩らさず拾ったのは赤城烈人。なびく赤毛の鋭い風貌は口元を緩ませていたものの、目はそれ程に笑っていない。返す神楽も鼻を鳴らして曰く。

「さあ、どうでしょう。あたし、まだパイロット候補になるとは言ってないんだけど」

「へえ、そうか。てっきり俺のライバルになるのかと思ったんだけどな」

 普段は仲間として軽口を叩き合う間柄だが、少なくとも明日までは微妙な腹の探りあいになるだろうと、二人は思う。既に前哨戦は始まっているのだと、パイロット候補達は大なり小なり覚悟していた。

 

 ※以下に出てくる施設とサークル名はフィクションです。現実には存在しておりませんので、その点どうか御留意下さい。

 

 滋賀との県境には、伊賀フライングサークルという有志によって作られた余野飛行場がある。この地方で唯一のウルトラライトプレーン(以下ULP)飛行場だが、活発なサークル活動の甲斐あって、東海におけるULPのメッカでもある。

「どうも、サークル代表の士渡素久と申します。今日はULPの試乗をされるとの事で、初めて搭乗するという人も多いんじゃないかと思います。ULPは普通の飛行機に比べれば随分華奢な乗り物ですが、きちんと決め事を守っていればとても安全で楽しいものなんです。取り敢えず皆さんには、訓練飛行の形式で試乗を楽しんでもらって、一通りの操縦方法を覚えてもらおうと考えています。明日の競技飛行の為にね。法に触れてしまうから、実はそういうのはやっちゃいけないんですが」

 苦笑する士渡の目を受け、風間が肩をすくめる。本当の発案者は俺じゃないんだけどね、と風間。

「あれ、そう言えば言いだしっぺの烏丸ちゃんがいないじゃない」

 山根まどかがきょろきょろと周囲を見回した。8トントラックの荷台に乗り込む寸前まで、烏丸弥生は確かに側に居た事は覚えているのだが。ちなみに山根は合いも変わらずペンギンマスクであり、さすがにこの格好ではULPに乗り込む事は許されず、この後、嫌がる彼女の着ぐるみを無理矢理脱がすというひと悶着が起こるのだった。

「烏丸ちゃんなら城輪町に残ったよ。人力飛行機のある場所から、遠くには離れられません、だって」

 燕子花満月が応じるも、彼自身自らの物言いに僅か首を捻った。彼女が残念しているのは鳥人間コンテストであって、人力飛行機そのものとは違うんじゃないかなあ、と。これじゃ幽霊と言うよりも、むしろ。

「はい、それじゃ男性陣はダンナの所に行ってもらって、女の子はあたしとタンデムで行きましょうか。取り敢えず一人ずつ、くるっと回ってみましょうね」

 パンパンと拍手が打たれ、一行は二班に分かれた。女子一同は士渡の奥さんと思しきスラリとした飛行服の女性に招かれ、一機のULPを前にする。

「あ、ドリフターXP503。複座型かぁ。これって、500ccバイクで空に引っ張り上がるような感じなのよね」

 早速ULPのチェックを始めたのは、矢上ひめ子。彼女とアメリアは正統人力飛行機部だけあって、他の仲間達よりも飛行機への興味や知識は一際深い。

「あら、詳しいのね。て事は、もしかして技量認定証所持者?」

「ええ、あたしとアメリアは持ってます」

「そう。だったらタンデムも問題無いわね。他の子は訓練飛行の名目で、教官と搭乗する訓練者という事になっているから、その点自覚しておいてね。それでは論より証拠。早速フライトをやってみましょうか」

「はい! あたし一番! あたし乗ります! ウェストコーストでさんざん乗ってきたから、何でしたら一人でも可!」

 イの一でアメリア・リンドバーグがブンブンと腕を振り回してアピールする。こういう時は何事も積極的なアメリアが場の華になるのだが、意外にも士渡の奥さんは首を横に振った。

「駄目。あなたは一番最後」

「ラストっ!?」

「ラスト。一番技量のある子は、みんなのフライトを最後まで見てなきゃ駄目でしょ? という訳で、誰と一番目に飛びましょうか」

 言って、彼女の目は同様の理由で矢上をスライドし、ペンギンマスクを見て吐息を漏らし、東田小百合とアルフェッタ・レオーネ、それにリコ・ロドリゲス・ハナムラと神代神楽を見比べた。

「なんて言うか、あなた達、多少高い所から落ちても死なない気がするわ」

「いえ、飛行機から落ちたら普通に死ぬし」

「あんた、あたしらバケモノじゃないんだから」

「こんなセントマッスル達とアタシを一緒にしないでもらいたいんだけど」

「誰がマッスルよ誰が」

 四人四様、気の強さは言い返し方を聞けば分かる。これなら呑込みも早そうだ、と、今度はシャーリー・エルウィングと神代風霞に目線を止めた。しかし一つだけ頷いて顔を逸らす。

「どういう事でしょうか?」

 シャーリーが小声で風霞に曰く。

「大体思考が読めたわ。この期に及んで一番肝の据わっていない人を、最初に乗らせるつもりなんでしょ。全く、荒療治なんだから」

「そんな、私、肝なんて据わってません」

「据わってるわよ。自覚無いの?」

「…でも、そうなると一番目に乗る人って」

 ポンと肩を叩かれ、ビクリと体を震わせたのは。

 

「スロットルと操縦桿、それにラダーペダルなんかは、あたしが乗る後部座席に連動しているから、離陸の時は手足をかけないように。中途から操縦を預けるけど、大丈夫、ちょっと操作が増えたゴーカートみたいなものよ。ベルトはしっかり固定してね。高度は100mも行かないようにするけど、落ちたら只事じゃないから。こういうものだから風防は無いも同然だし、別に風圧は耐えられるくらいだと思うけど、取り敢えずあたしのゴーグルを貸しておくわね。で、あたしの話はちゃんと聞いてる? 大鳥雷華さん?」

「はい、大丈夫です。聞いています。緊張はしていますけど。物凄く」

 小刻みに震える手でゴーグルを受け取り、大鳥は慣れぬ手つきで装着した。一番気乗りしない態度をあっさり見抜かれ、こうしてトップバッターの役回りを担う羽目になる。何時も何時も幸薄過ぎです、とは大鳥の心の嘆き。仲間の女の子達は嬌声でもって自分に声援などを送っているが、今の状況では苦痛である。

「こうしてみると、色んな国籍の人が居るものね。アメリカにイタリア、ベネズエラとイギリスかあ」

「もう一人、南極人が居ます」

「聞かなかったことにするわ」

「あの、あなたも日本の出じゃないですよね?」

「あらら、イントネーションで分かったかしら。元中国人でね。あたしの事は紅玉と呼んで頂戴。本当の読みはホンユゥだけど、コウギョクでいいわ。さ、おしゃべりはおしまい。乗った乗った」

 観念して大鳥は、複座の前部座席に体を沈めた。ベルトで体を固定し、背もたれに深く背を預ける間にも、操縦桿とラダーペダルが勝手に動いている。後部についた紅玉のチェックが始まって、いよいよ離陸が開始されるのだ。

 ドウン、と、2サイクル2気筒のエンジンが、鈍い唸り声を放った。同時にペラが回転を上げ始め、ULPはガタガタと滑走路の発進地点に移動。芝が綺麗に敷かれているとは言え、座席に振動がダイレクトに伝わり、まるでULPの荒い息遣いのようだと大鳥は思う。

 前方に滑走路の遥か終点を見据える角度になった所で、スロットルがキリキリと後ろに倒れ、合わせてULPが待っていましたとばかりに地を蹴りだした。加速は緩やかではない。のんびりした外観からは想像も付かない程の獰猛な速度に、大鳥は思わず目を瞑った。

「駄目。離陸の時は絶対に目を閉じてはいけない」

 見えない位置のはずの紅玉が的確に大鳥を叱咤する。従って目を開いた大鳥の眼前で、地面の位置が突如失われた。操縦桿が後ろに倒れて行く。ULPが頭を上向ける。エンジンが更に咆哮。自分の座る角度が直角になったような気がする。速度は既に100km超。雲間に見える青空がしばらく続き、不意に青色が途切れ、ULPの主翼が目に映る。機体がホリゾンタルに移行した時、大鳥は既に空の人だった。

 生唾を飲み込み、大鳥は下界に目線を落とした。既に家々や道路、綺麗に区画された田んぼや偶に走る自動車などが、まるで箱庭のように見える。高度計の針が指し示す位置は300ft(91.44m)。とても高い所に居るのだが、さりとて物が芥子粒という事もなく、リアルな状景である。遠くに自分達がやって来た名阪国道。その向こうに青山の山地。右に視界をずらせば続く道の先に伊賀市の市街。強く目を凝らせば、上野の城も収める事が出来る。

「最高」

 それが大鳥の率直な感想だった。

「操縦桿の先に白いボタンが付いているでしょ」

「え、はい」

「押し放しにしてみて」

 言われるままにボタンを押すと、天井に据えられた無線機が音を鳴らした。無線機の作動スイッチであるようだ。

「素久、そっちの具合はどうなの!」

 紅玉の大声に応じ、すぐさま士渡の反応が返ってきた。

『こっちも快調に後ろをついている! 俺がタンデムしてるのは双月響君だ! 彼は中々筋が良い!』

『大鳥、俺の声が聞こえるか!?』

「双月さんですか!? どうです、空を飛ぶのは!」

『いいぜ、予想を遥かに超えてやがる。はは、こんなに面白ぇとはなあ! 今、士渡さんから俺に操縦を預けてもらっているんだ。これから追い越してみる!』

 同型機が右下から猛然とダッシュを仕掛け、大鳥達の前に付いた。少し体を揺らして、右に旋回。さすがに人力飛行機部。双月が手馴れた操縦を披露する。

「これは、負けられないわね。今から操縦を預けるから、大鳥さん、彼に追いついてみなさい」

「ええーっ!?」

「スロットルを若干前に倒す。操縦桿を右に傾けてからほんの少し後で右のラダーペダルを踏み込む! 姿勢を元に戻したらスロットル全開でGO!」

 いや、そう言われても。と言いたかったが、大鳥の手足は紅玉の言葉に勝手に反応していた。まるで素人だったはずの自分が、空に上がれば空の生き物になったかのように。

 

 結局全員がULPを試乗し、一通り操縦方法を覚え込むまで、日暮れ近くまでフライトは続いた。おかげで登場経験の無い者も、終わる頃には一番難しい着陸が出来るようになっていた。相当の突貫訓練であったが、これも明日の競技飛行の為。誰がパイロット候補として出てくるのかは、今もって明かされていない。しかし誰が出場しても競った戦いになろうとは、全員の共通認識である。

 

 

筆:黒井秋彦

 

 

戻る