サンフランシスコにおける種種多様な怪異において、おそらくは最大のインパクトを携えて君臨したのは、あのサマエルを超えてルスケスだったのではないかと、個人的には考えている。

 ルスケスは何と言うか、存在そのものが滅茶苦茶だ。古吸血鬼特有の気高さを持つヴラド公。長く生き過ぎた者が行き着く非人間的狂気を体現したジルとエルジェ。長く生きたがゆえの寂しさを内包しつつも毅然とするカーミラ。彼らを遥かに凌駕する存在でありながら、ルスケスの気性は正にゲスの極みである。あんなみっともない性格の吸血鬼は知らん。個体として強大であればあるほど、例えば私達が路傍の蟻に気を留めぬように、弱者に対して無関心になるのが常だ。天使達には比較的そういう趣がある。ところがルスケスは蟻の巣穴に嬉々として水を注ぎ込むような代物だ。まあ、残念ながら人間にも似たような奴が居る。残虐な幼稚性を種子とし、成長するにつれて狡猾な知識を腐れた果肉の如く膨らますような連中だ。他者に及ぼす害の規模が数万倍違うというだけで、本質的にルスケスはそいつらと大して違いが無い。

 ルスケスについて書き出すと、我ながら悪口雑言が止まらない。私にはこれまで嫌いなものが3つあった。一番目にナチ、二番目にKGB、三番目に蛇である。しかし現時点ではルスケスが問答無用の一番手だ。ナチとKGBに関しては、私が関わった事で彼らが散々不幸な目に合ったという経緯があり、ちょっとだけ可哀想と思うところが無くもない。ちょっとだけだが。しかしルスケスが同じくどん底に落ちてしまえば、私の心は秋空のように晴れ晴れとなるであろう。

 と、好き放題に書いたところで状況に変化は全く無い。相も変わらずルスケスは、ある意味サマエル以上に危険な存在であり続けている。

 そんなルスケスに対して、尊敬すべきハンターとノブレムの諸君はいよいよ決着をつけようとしている訳だ。既に奴を抹殺出来る条件が揃った。各々が自身の能力と知恵と勇気と創意工夫を駆使して奴に挑む決戦を前にして、私程度が助言を出来る余地などほとんど無い。

 無いのは承知のうえで、改めてルスケスというゲス野郎について考えを巡らせてみたい。こうして駄文を書き付けて行く事によって、君達がもしかすると見落とした何かを、改めて拾う機会があるやもしれぬと期待する次第である。

 

ルスケス再考

 以前、ルスケスがサマエルから派生した天使の成れの果てと聞いた時は、正直引っ繰り返りそうになったものだ。天使という種族の奥深さには感じ入るものがある。

 冗談はさて置き、名のある数多の天使達の中で唯一天使創出を可能とするサマエルの、謹製天使の一人がルスケスという訳だ。果たして出来上がりの頃は何という名であったのか興味深いのだが、想像するに、そういうものは無かったのかもしれないと私は解釈している。

 人の伝承と実際が異なる顛末は散々出ている訳だが、それでもある程度は筋に沿う事が多い。そういったものの中に「サマエルが」「作った」「天使の名前」は一切残っていない。サマエル自身が「御名を授けられるは御父上のみ」と認識していたのかもしれないな。

 加えてサマエルが創った天使は、天使戦争の際にルスケスを除いて壊滅した可能性もある。サマエルはルシファのような大派閥を持っていなかったそうだ。よって名も無き神から許された天使創出の術を、よりにもよって名も無き神に真意を問う反抗戦に使用したのだ。なかなか皮肉な話ではないか。

 いやいや、何か奇妙だぞ?

 書いていて気付いたのだが、何故名も無き神が天使創出の許可をサマエルに与えたのか、という根本的な疑問が湧いてきた。あの全知全能は(勿論嫌味である)、かような使い方を初めから承知の上でサマエルに力を授けた、という事か? さすればその真意は一体何処にあるというのだろう。考えを巡らせば実に興味深い疑問点ではあるが、本題はルスケスなので脱線はここまでにしよう。

 サマエルが創出する天使達を、何時しか私達は新造天使と呼称するようになった。元祖新造天使(変な言い方だ)であるルスケス以降、正確に言えばサンフランシスコ事変より、新造天使は計6人出現している。ハンター達の話や記録を参考にすれば、どうも彼らは一直線横並びの存在であったように思えてならない。恐らくは依り代となった人間の性向という違いはあったはずだが、志向と能力は画一的だ。これは作為的な事象ではない。そもそもサマエルは、名も無き神の如く多種多様な位階の天使を創り出す事が出来なかったのだ。

 しかし、その画一性を破る特異例が2つあった。それはルスケスであり、ル・マーサで最期まで戦い抜いたガリンシャの事だ。

 ルスケスという無体な代物を考察する際に、ガリンシャが辿った道筋は参考になる。彼はハンター側の策略にはまって次席帝級ジルと戦う羽目に陥った訳だが、それを勝ち抜いた後、明らかに変貌した。存在そのものの変容、とでも言うべきか。ガリンシャはパシファエという同志との共闘と彼女の死を経て、明らかに力量が劣る人間達の決死戦を見、ジルの哀れな末路を目の当たりにし、何かが変わったのだ。化けたのである。2人の強力な神憑きと相対したガリンシャは、まさに想像通りの天使像を体現する、誇り高さと敬意と寛容があった。数少ない尊敬すべき手合いであったと私は思っている。

 それほど大きな変容が発生した要因とは、これはもう心理面での変化だと考えざるを得ない。あまりにも曖昧な表現だが、心一つで大きな改変が発生する、という事だろう。

 同じ定義がルスケスにも当てはめられる。奴もまた煉獄で、凄まじいものを見たに違いない。煉獄での戦いとは、情とか優しさといった穏やかなものを切り離さなければならないくらいの経験だったのだ。尤も、だからと言ってルスケスに同情などは絶対にしないがね。

 

ルスケスとの戦いについて

 心一つで。と、私は先のセンテンスで述べた。心一つで存在とは、鬼と化すか聖人に至るか、又は強大になるか弱体化を辿るか、何れか極端に変化してしまうものなのだ。

 だからルスケスがあらゆるものを捨て去って、狂気の塊と化したうえでの強さを獲得したならば、その逆もまた然りではないかと私は考えている。ルスケスは捨てた何かを拾い上げる事によって、滅びの道を歩むだろう。何か、とは何か?

 非常に小っ恥ずかしいし、何となく無責任な一言を、私はそれでも書く事にする。

 それは愛だ。愛なのだ。

 嗚呼、書いてしまった。何て事だ。

 

 

<戻る>

 

 

 

 

 

この世ならざる者達:『ルスケス再考』