総仕上げの前に

 サンフランシスコ封鎖以降、デブラ・シャロン女史から本項を引き継いだ私は、この世ならざる者への考察を私なりの解釈でもって続けてきた。続けながら、仕上げを書くとすれば最適の対象とは何かを漠然と考えていたものだ。そして私は、最後を締め括るに相応しい御題をここに提示しよう。

 即ち人類である。遂に私は、私達とは何なのかという、哲学が連綿と紡いできた問いかけに乗ってしまったという訳だ。しかし本項で行なうのは哲学的思索ではなく、私達が置かれている実情に即した、半ば切羽詰った考察である。

 この世ならざる者を定義する要項の一つに、地球上の生態系から外れた存在、というものがある。例えばウェンディゴ等という代物は元来人間から派生しているのだが、それがこの世ならざる者へと至る要因は、動植物が進化する為に必要な自然環境の変化とはまるで異なっている。シャロン女史は邪精霊の干渉と述べていたが、そんなものが地球上の進化の過程で発生する事は絶対に無い。何故なら形が無いからだ。物理的な形状を有さぬものが、自然発生的に存在する事は金輪際起こり得ないのだ。

 本来であれば存在し得ないと言いながら、実際にそれらは存在している。散々奇妙なものを見てきた私もその点は肯定しよう。ここで私は疑問を呈するのだ。何故それらは存在し得るのか?

 非常に乱暴な言い方をすれば、それらは人間が『居る』と思ったから『居る』。何だそれはと思うだろう? 私も思うよ。何だそれは。

 ただ、そうと考えるしか他に手段が無い。またもウェンディゴを例に出そう。ウェンディゴをそういう代物とならしめる邪精霊とやらは、ネイティブ・アメリカンの口伝によって存在が伝えられている。しかし、だ。例えば高度な知能を有するチンパンジーは、まあ当然の事だが邪精霊など知らん。知らなければ、彼らにとって邪精霊なぞは存在しないのである。しかし人間は、ネイティブ・アメリカンは決して必要に迫られた訳でもなく、深い森にわざわざ邪精霊を見出した。

 怖かったからだ。深い森の深遠が。目の届かぬ闇の深遠に、ネイティブ・アメリカンは恐怖を覚えた。それは恐らく、迷い込めば命の危険に関わる根源的な恐怖であるのだ。勿論人間以外の生物も、自身の命を脅かす対象に恐怖を覚えるものだが、動物と人が異なるのは、恐怖の正体に対して理論立てた考察を行なう事が出来る点だ。結果、人間の恐怖心が具体的な設定を深遠に施し、邪精霊が具現化したという訳だ。

 この世ならざる者が概ね人間に対して危険な存在となる理由がそこにある。何しろ彼らは人間の恐怖そのものなのだから。しかし、人間に友好的であったり、トリックスター的だったりするこの世ならざる者も居る。それらは恐怖とは異なる、畏敬や願望によって形を得た者達だ。

 結論から言えば、この世界に存在する全てのこの世ならざる者は、人間が創出したもの、という事になるのだ。

 

何処から来た 何者か 何処へ行くのか

 これは一体どういう事なのだろう。

 私達人間は地球上の生態系を構築する要素の一つに過ぎないはずだ。私自身も、人間が特別に自然を制御する権利がある、などという考え方は嫌いだ。私達は自然への強力な干渉を下手に行なえるだけに、可能な限り自然環境に対して謙虚になるべきだと私は思う。

 しかし、この異様なまでの想像力について言えば、やはり人間が極端な存在である事を認めざるを得ない。人間の想像力は本当に凄まじい。大量の情報とリンクする携帯端末。音速を突破する飛翔体。月に行く船。百年前には存在しなかったそれらを、しかし百年前の人間は既に想像していた。想像を形にするという突出した能力を人間は所持している。道具を使う動物は居ても、それは必然性にかられた偶発的事例であり、獲得した手段を更に発展進化させるなどという事はほとんどしない。人間だけが想像に想像を重ねて、なりふり構わず先に進む。少なくともこの地球上においては、そうなのだ。

 人間の、精神の力。

 地球や宇宙の規模に比して、私達は個体存在としては余りにもちっぽけであるものの、人間の心は恐ろしく広がりがあると私は思う。私達は個人で認識する範囲において、時間や空間を曲げ、超越する事だって可能だ。

 非常に分かり易い例で言えば、認識する時間の長さを私達は無意識の内に変更出来る。何かに没頭する間は飛ぶように時間が流れ、退屈極まりない大学の講義を聴く間は空気が止まったように感じる(だからと言って私の講義で昼寝するのは許さん)。貪欲に情報をかき込む幼少期は人生を長大に感じ、情報の吸収をひと通り終えた老年期に、人は堰を打つように迫り来る終末を意識する。尤も、それらは先に述べた通り個人の認識する範囲内であり、現実の時間までが影響を受ける訳ではない。

 しかし、数多の人間の認識がある一点に集中して同一と化した時、一体何が起こるのか? 人間が同一の意識の元で行動を開始した結果は爆発的だ。文化レベルを極度に進化させる利点もあれば、敵視する他のカテゴリーの人間を大量虐殺する汚点もある。

 で、この世ならざる者だ。

 集中した人間の意識は、恐らく何処かへ繋がったのだと私は想像している。この世界ではない何処かへ。この世ならざる者は、何処かから導かれた物理度外視の法則に取り付かれてしまったこの世界の生物、又は完全に別種の生命体であるのだろう。同じにされたくないと彼らは鼻白むかもしれないが、古い神々もそうだ。そして世界最大かつ熱狂的信仰者を擁する名も無き神は、人間の想像力の権化として形作られた、という事なんだ。多分。

 

まとめ

 最後の最後に「多分」と書いて逃げを打つのは、我ながら随分卑怯である。

 しかし「多分」と言わざるを得ないのだ。何せ、この世界ではない何処かとは一体何なのか、何をどうやっても説明が出来ん。空間3次元と時間1次元が我々の認識する世界だが、先に述べた人間の精神レベルにおける時空間歪曲能力が、4次元の物理法則では認識が困難な余剰次元の何処かとコンタクトを行なったのか…とまあ、物理学者に鼻で笑われそうなオカルト的妄想をするのが精々である。

 早い話が、分からんものは分からんという事だ。しかし、それで良いのではないかと私は思う。分かろうとする努力は大切だが、それでも分からないものはあって当然だ。いずれそれらを全て理解した時、人間は恐らく神と同じものになるだろう。そうなってしまうと、実に退屈極まりないと思うのは私だけだろうか。

 驚異的な想像能力を持つ私達は、それでも未熟である。未熟な精神性しか持たぬ人間が形作ったこの世ならざる者達は、確かに恐ろしい存在だ。しかし案ずる事は無い。傲慢な言い方をすると、彼らは人間無しでは存在する事も出来ない、ある意味はかない者達なのだ。

 それを踏まえ、たとえ相手がルシファやサタンであったとしても、必要以上にたじろぐ事はない。彼らは相容れぬ者の存在を許容しない、人間の狭量さを映し鏡にした考え方で行動している。それならば私達は人間として、彼らが存在するのを認めてやればいい、という事だ。認めた上で、彼らの思想と行動に筋道を立てた「否」を通告しよう。彼我の力の差は確かに大きいが、少なくとも人間が彼らに心で負けはしないのだ。全く気休めになっていない物の言い方で申し訳ない。

 それでは諸君、参ろうか。我は我であると言う為に。

 

 

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この世ならざる者達:『人間』