<さよなら、さよなら、さよなら、あーあ。>

 積み込まれたタイヤの山という粗大ゴミと共に、廃品回収車がリヒャルト・シューベルトを置き去りにして軽快に遠のいて行く。

「ビバンダム…」

 呟くリヒャルトの目から涙が溢れた。彼の脳裏に中途半端な走馬灯がぐるんぐるんと駆け巡る。スクラップ屋で適当なタイヤを拾い集めた日。馬鹿なポーズと共に観光客の記念写真に納まった日。ゴムのくっさい臭いに囲まれて昼寝した日。そんな思い出諸々が、彼から去り行こうとしているのだ。廃品回収車に回収された粗大ゴミとして。リヒャルトは届かぬ手を伸ばし、叫んだ。

「ビバンダームー!」

「うるせえ」

 リヒャルトの脳天に、どっかと踵が落とされた。大口を開けていたので舌を噛んだが、吸血鬼なので大丈夫だ。リヒャルトは己が頭頂に見事な踵落としを決めたジェームズ・オコーナーを顧みて、言った。

「股関節が柔らかいのだね、君は」

「もう一回言う。うるせえ。とにかく叫ぶな、しゃべるな、恥ずかしい。おめえのせいで俺達の評価は駄々下がりなんだよ。お陰で吸血鬼の神秘性が脆くも崩壊した」

「はっはっは。神秘性ってそんなアナタ。アン・ライスの小説じゃあるまいし」

「俺もあの耽美系吸血鬼はどうかと思うけどな。ロックスターとか有り得ん」

 例の小説のファンが居られましたら謝ります。ごめんなさい。

 ともあれ、リヒャルトが前回に使っていた古タイヤの山が綺麗さっぱり捨てられて、皆が清々したのは事実である。カーラはイングランド人らしく、端正なガーデニングを小さな趣味にしていたのだが、その可憐な庭に高く詰まれた白ペンキタイヤは、言い方は悪いが聳え立つクソであった。困り果てるカーラを見るに見かね、レノーラはリヒャルトに説教したものである。ええ加減にせえよと。頑強に渋るリヒャルトに対して最後には暴力を振るい、結果ビバンダムは捨てられた。さよならビバンダム。もう二度と会う事はあるまい。

「ともかく、ともかくだ。俺達は次席帝級の襲撃に耐えねばならん」

 腕組み、ジェームズがベンチに座る。リヒャルトはと言えば、牛の血と「はちみつレモン」をシェイクしつつ、これ見よがしな笑顔を見せた。突っ込みはしない。突っ込んだら負けだからだ。

「で、どう思う。敵はエルジェを凌駕する代物だ。レノーラすら相手にならん。このカーラ邸にはハンターとノブレムの手練手管が集結しているが、この戦力全てと比して、ジルを上回れるか否か」

 ジェームズは背を曲げ、リヒャルトに問い掛けた。リヒャルトは牛の血とはちみつレモンをシェイクしたものをジュージューとストローで飲みながら、時にはえずきつつ答えた。

「多分無理でしょう」

「あっさりかよ」

「しかし勝ちに不思議の勝ち有り。かように野村監督は言っておりました。その通り、何の因果か勝つ事もあるさ。大丈夫、これだけの才能が揃っているんだもの。私達は全力を出し切るべきさ」

 その言い方に得体の知れない頼もしさを感じてしまうのが、ジェームズにはどうにも悔しかった。しかしながらこれまでの厳しい戦いを、自分を含めて誰1人落命せず乗り切ってきたのがノブレムであり、ハンターなのだ。過信は禁物だが、自分達の力というものは信じてもいい。それにリヒャルトは奇策の弄し方に関しては定評がある。もしかすると、何か鋭い隠し玉を持っているのかもしれない。その旨を率直に問うと、リヒャルトは晴れやかな顔で言った。

「名乗りを上げて正面からぶつかるよ!」

「冗談はよせ」

「いや、本気だけど」

「…まさかそれ以外、何も考えていないのか?」

「うん」

「本当に?」

「本当に」

 ジェームズは疲れ果てた溜息をつき、然る後に怒りの形相を露にしてリヒャルトに背負い投げを決めた。

 

<決戦の昼下がり>

 上位戦士級同士の取っ組み合い、と言うよりもジェームズがリヒャルトを一方的にボコっているという絵面であったが、窓越しにそれを見守るカーラ・ベイカー女史は、微笑ましげに口元を緩めた。

「いいわね。とても仲の良い事だわ」

「…カーラ、貴女の瞳は意外と曇りガラスですのね」

 ぬるい視線でもって外の七転八倒を見遣り、エルヴィ・フォン・アスピヴァーラは容赦なくカーテンを閉めた。

 カーラ邸の居間はそれなりに広い間取りであったが、ノブレムとハンターが結集すると、些か窮屈であるのは否めない。

 非常に珍しい、と言うよりも本来あってはならない事だが、この部屋には人間と吸血鬼が一堂に会していた。穏健派の吸血鬼達であり、かつ牛の血を事前に飲んでいるとは言え、たがが外れれば猛獣になりかねない戦士級が同席するのは、間違いなく禁忌に触れる。それを横に押しやって彼らが集まるには、勿論理由があった。

「潜入者のヴィヴィアンから連絡があった、というのは既に報告していると思うが」

 フレッド・カーソンが、ある種壮観な眺めを睥睨し、口元を不敵に歪めて言った。

「今日だ。奴が今日来る。次席帝級、ジル・ド・レエ。ふざけた事に1人だとよ」

 これまで曲がりなりにも仕える者共の襲撃を事前に対処出来ていたのは、吸血鬼であるヴィヴィアンとハンターのフレッドによる、横紙破りのホットラインが成立していたからであった。それは味方内にすら極力抑え込まれた事実であったが、フレッドがこの場でヴィヴィアンの名を口にしたのは理由がある。

「恐らく奴からのタレこみは、これが最後になるだろうぜ。どうやら翻意が露見しつつあるらしい。勘の鋭い奴の事だ、まず間違いない」

「危険な事を」

 レノーラが掌を組み、苛立たしげに言った。が、思い直し、深く息をつく。

「それでも感謝しなくてはならない。彼に救われた局面は多かったのだから」

「フレッドと言ったな。ヴィヴィアンは未だ無事のようだが、何故始末されていないのだ?」

 イーライの問いに、フレッドが肩を竦める。

「ヴィヴィアンにも分からん事を俺が知るかよ。そもそも奴らの行動方針は凡そ規定路線から外れているぜ。戦いに白黒ではなく、常にグレーの結果を恣意的に出していやがる。胸糞悪い」

「しかし、それなりに数を揃えていた前回の襲撃に比べて、今回はジル1人だ。果たしてこれも、グレーゾーンの結末になると見るべきか?」

 言いながら、ジェームズが部屋に入って来た。どうやらリヒャルトをコテンパにし終えたらしい。彼の言葉はレノーラに向けたものだったが、対してレノーラは首を横に振り、明快に否定した。

「ジルを出してきた時点で、真祖ルスケスの方針は定まっている。皆殺しよ。皆殺しにして目的を達する」

「目的とは?」

「ルスケスは恐らく、新祖の存在に勘付いている。当然新祖の抹殺。そしてもう1人、厄介な敵にもね」

「…矢張り、そうか」

 ジェームズはソファに深々と座り直し、指を目にやって目蓋を閉じた。

 この戦いの行方は新祖が鍵を握る。ここに集まった者達の思惑は、彼女を守り抜くという一点で合致していた。しかし、とジェームズは思う。自分達は、今の時点では不十分であると。生来の負けず嫌いとしては認めたくないが、ジルの侵攻を防ぎ切る事は困難であろう。そうなると、今現在の最たる希望は、レノーラの言う「厄介な敵」であった。

(早く戻ってきてくれよ。あんたが最後の砦なんだからさ)

 そう思いながら、ふと気が付く。この場にロマネスカが居ない。そう言えば新祖、ジュヌヴィエーヴも。

「ロマネスカは何処だ?」

「彼なら書斎に篭っているわ。しばらく1人にして置いてあげて」

 申し訳なさげに、そして若干寂しそうにカーラが応えた。

「じゃあ、ジューヌは?」

「彼女は地下よ」

 

 短い会合が終わった。事前情報によれば、ジルの襲撃は夜間のアウター・サンセット侵略とほぼ同時に進行する、との事だった。只今の頃合は午後5時。自由になる時間は、然程多くはない。

 ドグ・メイヤーはカーラに断りを入れ、ロマネスカの居る書斎に向かった。彼が1人で居る事には恐らく意味があるのだが、この先に時間を取ってコミュニケーションを取る暇は無くなるだろう。彼が良いと言うのなら、とのカーラの言質は取れた。ドグは書斎の部屋の前に立ち、扉を叩こうと拳を上げるも、機先を制して中から声が掛けられる。

「どうぞ。開いているよ」

「…さすがに鋭敏だな。吸血鬼って奴は」

 ドグは肩を竦め、扉を開いた。質素な椅子に座り、小さなデスクに背を持たせかけ、ロマネスカは一見漫然とした風情を醸していた。普段から穏やかな彼ではあるが、先頃より静謐な雰囲気に一層の拍車がかかっている。とは言えドグが彼と面会するのは、これが初めてだ。礼儀に則って挨拶し、ドグは空いた椅子を引っ張り出して、ロマネスカの正面に着座した。

「世間話をしている時間は無い。聞きたい事を、単刀直入に聞くぜ。一体どうやって、真祖を裏切れたんだ? 先の戦いの参考にしたい」

「裏切った、とは、反逆者の事かい?」

「俺は反逆者に聞いているつもりだぜ」

「今のところ、僕は反逆者じゃない。しかし反逆者は、確かに『ここ』に居るよ」

 言って、ロマネスカはこめかみを指で叩いた。

「反逆者の魂はここに居る。しかし今はまどろみの中だ。時折目を開けるが、概ね眠っている。魂も疲労するし、安息が必要なのさ。反逆者が目を覚ますには、『彼』の到来が必要となる」

「彼、とは、ジルの事か」

「そうだ。ジルと反逆者の関係は、どうやら特別なものらしい。さて、問いに対する答えだけど、反逆者が返事を出来ないのであれば、僕の聞き伝手で回答を出すしかないね。その問いに関しては、以前エルヴィが興味深い事を言っていたよ。真祖の呪縛から解かれる為に、彼は急激な体力の減衰を伴う月給取り、オペラリオに敢えてなったのだと。どういう手段を使ったのかは良く分からないが、その考え方は正解だ。手段が分からないのであれば、あまり戦いの参考にはならないと思うが、それでも僕の話を聞くかい?」

「構わん。続けてくれ」

「それでは。反逆者は自らが吸血鬼の新たな祖となる事を試みたけれど、これは上手くいかなかった。彼が人間を素地とした吸血鬼ではないから、という事だ」

「天使かその眷属という話は本当なのか?」

「それは彼が目を覚ました時に聞いてみるといい。ところで、現代に生きている吸血鬼は、2つの系列に分かれているんだ。あの恐ろしいジルの系列と、反逆者、ヴラド公の系列。少なくとも月給取りと呼ばれる階級は、間違いなくヴラド公の系列なんだよ。血が覚醒を起こしたか、反逆者自身の力でオペラリオ化させたか、その何れか。僕の場合は後者だった」

「…血の継承実験を月給取りに推奨していたのは、その為か」

「彼の持つ力は同系列でなければ受け入れられない。かくして彼の狙いの第一段階は達成されたという訳さ。かつてしくじった新祖への道筋を、受け継ぐ者が出現したのだから。次は真祖への反撃開始という第二段階に移行する」

「しかし敵は強い。真祖もそうだが、奴に準ずるジルが居る。ハンター仲間にアンジェロという奴が居るんだが、彼はジルに対して精神的な攻撃を狙っている」

「と言うと?」

「奴が歴史上に残る英雄だった頃の、盟友の話だ。ジャンヌ・ダルク。彼女の魂が、現代のサンフランシスコに居る。別方面のハンターが彼女絡みで動いてんだよ」

「驚いたな。本当かい」

「その魂の宿主が誰なのかも、アンジェロ達は既に特定している。差し当たってラ・ピュセルの存在は、ジルに揺さ振りをかけられるか否か、どう思う?」

「成る程」

 ロマネスカは腕組み、短く考え込んだ。そして顔を上げる。

「動揺するだろうね。間違いなく」

 ロマネスカが言った。

「何故なら、彼は不完全だからだ。色々な意味で。実はこれも、エルヴィが僕に話した想定なんだけどね」

 

『1人でも大丈夫よ。私は確実に安全な場所に居る訳ですから』

「そうですか。まあ、吸血鬼は地下に行けませんから、どの道直衛は出来ないのですけれど。しかしながら心は共にあります。どうか気を楽にして下さいまし」

『ありがとうございます、エルヴィ…うっ』

「どうしたのです?」

『さすがにこの臭いは…』

「何ですって?」

『いえ、何でもありません。ともかく、無理はしないで下さい。まずいと思ったら、全員撤退すべきです。私の事はお気遣いなく。間違いなく安全ですから』

 そう言って、電話向こうのジューヌが通話を切った。携帯電話を仕舞い、エルヴィが難しい顔で皆に言う。

「ジューヌは自身の安全を繰り返されていましたが、何分相手は次席帝級ですわ。吸血鬼を寄せ付けないという地下は、本当にジルの侵攻を防ぐ事が出来るのでしょうか?」

「恐らく大丈夫よ。今のジルは昔に比べて大きく力を落としている」

 宥めるようにレノーラが言った。

「ジルの完全復活は未然に防がれたわ。少年とその家族を生贄に捧げる儀式の粉砕によってね。前に手合わせしたから、凡その推量は出来る。今のジルは、私達が総がかりで迎撃すれば討ち取れる可能性がある」

「それは希望的観測に過ぎやしないかい? レノーラ、アンタですら次席と真の意味でまともにやりあった事はないんだろ?」

 フレイアが横からクギを刺す。対してレノーラは、真面目くさった顔で答える。

「まともにやりあっていたら、私はこの場に居ない。しかしこの戦い、矢張り私は勝ちの目があると考えている。あなた達は思う以上に強くなっているわ」

「新祖の加護に拠って?」

「そうよ。私達はルスケスすら滅ぼせる新種の吸血鬼なのだから。それにもう1人の次席帝級が、近く覚醒してくれる」

「それに頼るのはどうかなあ、なんて」

 ひょいと椅子から飛び降り、カスミ・鬼島が口を挟んだ。その言い方には、この戦いそのものへの興味の薄さが感じられる。レノーラは別段気にする風でもなく、顔を傾けて次に彼女が言わんとするところを待った。カスミが寝不足の目を擦り、ふわんと欠伸をして曰く。

「恐竜対大恐竜の決着を待つってのは、らしくないんじゃありません? そんなんじゃ、ルスケスにみんな殺されちゃいますって。ドラキュラさんは、多分サポートキャラクタ以上の人でもないような気がするんですよ。あ、これは自分の勘です」

「…確かに、その通りね」

「嫌ですよ、レノーラさん。戯言ですから、戯言。さあて、見張りに行ってきまーす」

 カスミは愛想笑いを残し、部屋を辞して何時も通り屋根上へと足を運んだ。

 

 カスミが見張りの為に屋根を上ると、その頂点には既に先客が居た。

「異常は無いわ」

 キティがジッと前を見据えたまま言った。

「もう日が暮れる。夜になる。吸血鬼の時間。真祖の一党が躍動を開始する時間という訳よ」

「ここからは夜景がいいんですよねー。さすがに姿を見分けるのは吸血鬼でも苦しいかな。さて、私は反対側を見るとしますか」

 カスミはキティと背中合わせの格好で座り、瞳を爛々と輝かせて薄暗くなる景色を見詰めた。この辺りは住宅地で、今は帰宅する人々を多く目にする時間帯である。時折怪訝な顔でこちらを見上げてくる人間を見つけるのは面白い。カスミはそんな人々に軽く手を振り、はは、と笑った。

「まさか上等の吸血鬼がこの地区に攻め込んでくるとは思っていないんだろうね、あの人達。どうなっちゃうのかな。一体どうなっちゃうのかな」

「…多分、と言うより間違いなく来ませんよ、カスミの待ち人」

 溜息をついて、キティがぼやいた。

「仕える者共は全戦力がアウター・サンセットに出向いたって言うじゃない。ジルとは戦うつもりが無いんでしょ?」

「うん。正直ジル・ド・レエとか興味が無いッス」

「そもそもこの場に居るのが間違いだったわね」

「念の為ですよ、念の為。真祖も気まぐれを起こすかもしれないし。で、決め事通りにジルが単独で来たら」

「来たら?」

「速攻でカーラ邸とはおさらば。私の狙いは、シーザ・ザルカイ唯1人」

 全くもって面白い娘だと、キティは苦笑した。気紛れでありながら執念深くもある。気を悪くしまいかとも思ったが、キティは敢えて口にする事にした。

「あなた、物凄く似ていますよ。三席帝級のエルジェに」

 受けてカスミが、フッと吹き出す。そしてケラケラと笑った。

「実は自分でも、そうかもしれないなーとか思ってたんですよ。結局エルジェ、あの人の本質って、楽しい事だけが全てなんですよね。目の前で力無く、無惨に人が死んで行くのを見るのが楽しくて仕方ない。ま、私にそんな趣味はありませんけどね。でも、快楽を尊ぶ方向性には似たところを感じます」

「…カスミ、それでもね」

 キティはカスミの掌に己が手を重ね、強く言い聞かせた。

「駄目よ、エルジェは。彼女に仕える者共も。吸血鬼は確かに怪物だけど、最後の一線を残す稀有な存在でもあるわ。それを捨て去ったあいつらと、価値観を共有する事は出来ない」

「そりゃあ、吸血鬼として仰るんで?」

「そうよ。人間ではなく、吸血鬼として。彼らには無く、ノブレムにはあるものを、私は大事にしたい」

「何を?」

「尊厳を」

 

 情報統括用のコンソールの電源をONにすると、モニタに10分割の画面が表示された。リヒャルトがカーラ邸周辺域の各所に隠匿状態で設置した監視カメラの映像だ。カメラはカーラ邸に至る筋道の、ほぼ全てをカバーしている。微に入り細を穿つ監視網の構築に、フレッドは舌を巻いた。

「大したもんだぜ。と言うより、よくもまあこんな代物を準備する資金があったもんだな」

「いやいや、これは我が友、風間殿に提供して頂いたものだ。何かひと山当てたとの事だよ。そんな金が私の手許にあったら、間違いなく物凄く無駄なものに使うであろう」

「そいつは想像出来るような気がする」

「ともあれ、これはアウター・サンセット防衛戦に使用するコンソールと同等品なのだ。ハンターとの共闘の道を選択したのはつくづく正解であった。彼には感謝しても仕切れぬ。なんまいだなんまいだ。アーメン」

 言って、リヒャルトは仏具の鈴棒(りんぼう)で鈴(りん)をカーンと鳴らし、十字を切った。最早突っ込みを入れる気にもなれないが、リヒャルトは如何にもお気に入りとでも言う風に鈴を撫で回しており、成る程、金を持たせれば無駄使いというのは本当かもしれない。

「ふむ、良い音だ。とても良い音だ」

 興味丸出しで鈴を鳴らし続けるリヒャルトはさて置き、フレッドは改めてモニタを眺めた。日が暮れたばかりの時間帯は人通りもそれなりだった。一見、10分割からの見分けは苦労に思えるが、相手が強力な吸血鬼であれば直ぐに異変を察知する事が出来る。電磁場異常で画面の映りにノイズが発生するのだ。

「敵はこの世ならざる者の中でも上位階級だ。電磁場異常をコントロールする能力を持ち合わせている」

 フレッドとよく組んでいるダニエルが、彼の隣でモニタに見入りながら言った。ダニエルは吸血本能が希薄化した月給取り階級であり、吸血鬼と人間の間を繋ぐ橋渡し役のような存在だ。同様の月給取り、マリーア・リヴァレイも同席しており、監視網についての意見を述べた。

「加えて、例の黒い外套にも注意する必要がある。電磁場異常の『漏れ』を抑え込むものだ。奴等は徹頭徹尾、人間との戦い方に工夫を凝らしてくる」

「…俺は、ジルのヤローは気を使わないんじゃねえかと思うぜ」

 フレッドの言い方に、ダニエルとマリーアが顔を見合わせた。フレッドが続ける。

「奴は言ってみりゃハリケーンだ。ハリケーンは気象衛星から身を隠し、襲い掛かるような真似はしない」

「それはつまり、私達の抵抗などは気にも留めないという事か?」

 露骨に気を害した様子のマリーアに、しかしフレッドは不敵な笑みを口元に浮かべた。

「奴が強大である事は承知の上だ。しかし真正面から力頼みでかかって来るのはウェルカムだ。そういう奴は、何処かしらに隙を見せる。ジルが小細工抜きの鳥頭野郎である事を俺は祈るぜ」

「勝つ気満々だね」

 と、ダニエル。

「当たり前だ。誰が負ける為の戦いなんかするものかよ」

「尤もだ。この戦い、新祖を守り抜ければそれでいい。極力ダメージを減らそうじゃないか」

 拳を合わせるダニエルとフレッドを、マリーアは不思議そうに眺めた。ノブレムとハンターの関わりは、当初互いの出方を探り合う慎重さを維持していたが、この2人はまるで息の合った長らくの戦友同士である。ノブレムがかような方向へと舵を切る事を、確かにノブレム以外の吸血鬼達は脅威に思うだろう。吸血鬼としては異常な存在として。しかしマリーアは、自分が狂ってしまっているとは思わない。無為に殺されたあの家族に憐憫の情を抱くのも、この危機的状況において共闘の道を模索するのも、感性としては正しいはずだ。人間だから、吸血鬼だからという、それ以前の話である。

「ここに居たのね」

 と、レノーラが扉を開いて部屋に入ってきた。そして先程からキッパリ無視されていた、鈴鳴らしに没入するリヒャルトの前に立つ。

「リヒャルト」

 カーン。

「リヒャルト」

 ガスッ。

 レノーラの手刀がリヒャルトの頭にめり込む。げあ、と呻き、リヒャルトが頭を抱えて仰け反った。涙目の彼を意に介さず、レノーラは穏やかな笑みすら浮かべて語り掛けた。

「この戦いに関しては、まず私が前面に出なければならないと思っているわ」

 リヒャルトが顔に「?」を貼り付け、ダニエルとマリーアもその言い方に違和感を覚えた。レノーラは用向きの際、早々と要件を切り出す性質である。このように前置きをするのは珍しい。

「まだ先は長い。私に出来る事は山のようにあると思う。でも、相手がジルであるからには、ここで私が斃れる事も想定の範囲内として把握しなければならない。つまりノブレムを率いる者が居なくなる。率直に言うけど、私の代わりにリーダーになる気はない?」

 リヒャルトは難しい顔でモニタ前の一同を顧み、そしてレノーラに目線を合わせた。彼女の漆黒の瞳には強い意思の力が感じられる。つまり彼女は本気で言っているのだ。しかしながらこんな時に意図して話の腰を折ってしまうのは、彼の悪癖としか言いようが無い。

「リーダーになるとは、何を読むのですか? PDFファイル?」

「それはアクロバットリーダー。次に馬鹿を言ったら残酷な折檻が待っているわよ。私があなたをリーダーにしたいと思った理由は2つある。1つは、あなたは新祖が崩御されない限り、ルスケスに匹敵する不死者であるから。もう1つは、あなたは私よりも、ずっと先を見ているから」

 レノーラは傍に居るダニエルとマリーアにも目を向けた。彼らもリヒャルト同様、人間との関わりを積極的に推進し、多様な難題に向き合ってきた者達である。言ってみれば、ノブレムの変容を象徴するような存在だ。この場にそういう者達が集っているのは僥倖であったとレノーラは思い、更に語り続けた。

「私はどうやっても吸血鬼としての仲間内にしか目を向けていない。しかしあなたは違う。あなたは人間と吸血鬼、両方の未来を考えているわ。その見方は私には無い。もしも私が死んだらあなたに立ち上がって欲しいし、その気があるならば今の内に交代しても構わない。直ぐでなくてもいいから、あなたの考えを聞かせて欲しい」

 つまりレノーラは、自身が先頭を切る事によって死に至る腹を括った、というところだろう。それは強固な連帯を形成するノブレムのメンバーにとって、受け入れられるものではない。

「そんな」

 と、マリーアは言った。

「死を前提にした話などは有り得ない。其処まで気を弱くする事は無いだろう」

「彼女の言う通りだよ、レノーラ。僕らは死んではならないし、レノーラだってそうだ。君は今迄散々苦労を背負ってきたじゃないか。君は幸せになるべきだし、僕もそうしたい」

 矢継ぎ早にダニエルが語り掛ける。レノーラは目蓋を伏せて、一言小さく「ありがとう」と言い、再びリヒャルトを凝視した。こうなるとリヒャルトの側からリアクションを返さねば、レノーラは頑として動かなくなる。唐突な申し出に混乱をきたしかけたものの、リヒャルトは取り敢えず深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとした。コンセントレーションである。

「取り敢えず、この一戦を終わらせよう。結構なハッピーエンドを迎える為の布石として。1人として損耗しないよう、私達は心を砕くべきなのだ。今はそれに集中する必要があるのだ。次いで言えばレノーラ、もしも私がリーダーになったとして、こう言っては何だが、誰も小生の言う事を聞いちゃくれないような気がしますよ」

「そ」

 そんな事はない、と言いかけて、結局レノーラは二の句を継げなかった。確かにそうかもしれないと、申し訳ないながらレノーラは思った。鈴棒を握り締めて熱くネガティブな事を語るリヒャルトを見ていると。

 

<鬼が来る>

「ちょっとすみませんが、もう少し音を小さくして頂けません?」

 居間で大音量のFMを聞いていたドグに対し、エルヴィが顔をしかめつつボリュームを下げた。ソファに寝転がって新聞を読んでいたドグが、不服そうに身を起こす。

「何だよ。磁場の異常を察知する為なんだぞ」

「だからって、ここまで大きな音で聞く必要はないと思いますが」

 フンと鼻を鳴らし、エルヴィも椅子に座る。都合向かい合わせの状態だが、エルヴィは戦士階級であり、ドグも強力な点取り屋である。共同作戦だとしても、本来ここまで接近してはいけないのだが、エルヴィは先頃終了した継承実験の結果、吸血本能がほとんど消失していた。自身の変貌に戸惑いが無い訳ではないが、戦闘に際しては色々と捗るはずだと、半ばエルヴィは開き直っている。

 最早癖となりつつあるが、彼女は自身の掌の黒円を見詰めた。ここから噴出するものに全身を包まれ、自分は全く異なる姿のものへと変化する。カーラ曰く、これはルスケス化である、との事だった。随分不穏当な表現だが、カーラの言わんとするところは少し違っていた。

(仮定だけれど、ルスケスというのは本来固体識別名称ではないような気がするの。それを自称した真祖の言を探るとね。つまり、そのような種族を意味する言葉じゃないかしら)

 俺はルスケスであり、ルスケスとは俺の事だ。真祖はそのように言ったらしい。真祖が居た世界のルスケスは、ここで言う吸血鬼に相当するとの意味を持つのかもしれない。

(真祖はルスケスそのもの。それ以外はルスケスのようなもの。それでは私のルスケス化は、真のそれに変わる前段階という訳?)

 なかなかゾッとする思いつきである。エルヴィは頭を振って不安を払い除けた。そして、落ち着いた思考で途或る変化に気が付く。首を傾げ、エルヴィはドグに言った。

「別にラジオを消す事はありませんのよ?」

「…いや、俺はボリュームに触っちゃいない」

 ドグの目が、徐々に見開いて行く。そして次の瞬間、胸から女の頭が出現した。その異様な有様を前に、エルヴィが後ずさる。女はたちまちドグの胸から這い出し、四つん這いの格好で床に着地した。ドグは苦しげに胸を押さえ、それでも声を荒げた。

「おい、ルクス、許可無く出て来るんじゃねえよ!」

 ドグの叱責にも怯えず、ルクスは周囲を間断なく警戒していた。そして振り返る。顔に張り付いた髪の隙間から覗く目は、驚愕の様を物語っている。かような目付きを見るのは初めての事だった。

「来るよ、御主人様」

 ルクスが喉を震わせ、言った。

「何だか分かんないけど、すっごいのが来るわ!」

 

 カスミとキティは、その変化に逸早く気が付いた。景色はつい先程と全く同じで、特に異常状況が発生した訳でもない。だから2人が感じたのは、この世ならざる者だからこそ察知出来る、決定的な気配の差だった。

「すげえ」

 喜色満面のカスミが呟く。

「まるで空気が震えているみたい。これが『その気になった』次席階級の吸血鬼かあ」

 暢気に言うカスミをキティが恨めしげに見る。こちらはこめかみを押さえ、圧迫感から来る眩暈に耐えていた。

「冗談じゃないわ。存在感が広範囲過ぎて、何処から来るのかさっぱり分からないじゃない」

「人間の使っている監視網がいいんじゃないかな? あれならプレッシャーとか関係なく事実だけを映すから」

「電磁場異常で駄目になっていなければいいけどね」

 それを合図にキティとカスミが屋根から飛び降り、屋敷の中へと駆け込んだ。

 コンソールを設置した部屋には、既に全員が集結していた。ハンター達が使用するEMF探知機も、当然ながらジルの到来を察知していたのだが、南部域全体に波形異常が表示される有様だった。これでは「凡そ南の方角」と分かるだけで、使い物になりはしない。頼みの綱はカメラを使った監視網であったが、これもカスミの言う通り、南部方面を映す分割画面の全てにノイズが大発生している。結果、どのタイミングで、何処から来るのか、今の段階では判然としなかった。

「既にジルの掌の中よ」

 レノーラが言った。

「この距離間は奴にとって無いに等しい。でも、おかしい。以前の手合わせではここまで異様な気配を発していなかった」

「つまり、折角の監視網も台無しか」

 突撃銃を引き起こし、フレッドが言う。

「行くぜ、ダニエル。配置に付こう。数秒後にドンパチやらかしてもおかしくねえんだ」

「分かった、行こう…いや、ちょっと待った!」

 出て行こうとするフレッドを呼び止め、ダニエルが正常な画面を指差した。先程まで歪みきっていた画面の一つだ。全員の目線が小さな画面に集中する。そして、誰も居ない夜の通りの向こうから、闇夜よりも深い影がゆっくりと歩んで来た。

「ジルだ」

 誰かが呻いた。しかし、と誰もが思う。ジルが最も接近しているその画面だけが何故正常に映るのだろうと。画面は小さいながら、鮮明にその姿を曝け出している。レノーラは驚愕も露に言った。

「皮膚が元に戻っている。あれは私が知っているジルの顔だわ。一体何があったの!?」

 そして手前から、また何かが現れた。あろう事か、スキップしながら。

「リヒャルトかよ」

「また何時の間にか居ねえよ」

「何故ピンポイントでジルを待ち構えられたの?」

 画面の中のリヒャルトが、盛大に片手を挙げた。挨拶らしい。合わせてジルも立ち止まる。リヒャルトは大げさな身振り手振りで何事かを話しかけ、鈴と鈴棒を両手で取り出した。そしてどうやら、打ち鳴らした。ジルの右手らしきものが、首を掻き切るジェスチャーを見せる。同時にリヒャルトの首が落ち、バタリと倒れ伏した。

 一同、しばし無言。

「…あの馬鹿、本当に名乗りを上げて正面から行きやがった」

 ジェームズは、もう何と言っていいのか分からないという複雑な面持ちで呟いた。彼があれでは死なない事は分かりきっているが、それにしてもである。しかし、真に異様な展開は其処から始まった。

 リヒャルトの遺骸を踏み越えてこちらに歩んで来るジルが、いきなり転んだ。否、正確には崩れ落ちた。最強クラスの吸血鬼にしては有り得ない慌て振りで、ジルが上体を起こして下半身を見る。しかし下半身は、何処にも無かった。綺麗さっぱり消失していたのだ。

『何秒で回復する?』

 画面に素早く文字が表示される。リヒャルトが右手を懐に突っ込んでいる。首を落とされても携帯電話で文字を打てるらしい。コンソールは彼の携帯電話とも接続されていたのだ。

 きっかり5秒でジルの下半身が衣服諸共復元した。ジルは周囲を間断なく見回している。今の攻撃が、首を切り落としたリヒャルトによるものとは思わなかったらしい。また文字が表示された。

『これで奴は反逆者に集中する』

 

 ジルは昔ながらの癖で髭を撫で、青白い顔を怪しく歪めた。

 彼はルスケスから、カーラ邸に吸血鬼の新しい『祖』と、それを守護する『反逆者』が存在する可能性について示唆されていた。詰まるところルスケスの命とは両者の抹殺である。

 楽な仕事だとジルは考えていた。かねてからノブレムとハンターが共同で護衛に就いていたものの、レノーラを含めて尽く蹴散らす自信が彼にはある。先の意味不明の言葉を喚いていた吸血鬼を一瞬で屠ったように。なり立ての『祖』とやらも、今の自分ならば消し炭に出来るだろう。それは過剰な思い込みではなく、冷静に能力を鑑みたうえでの結論だ。

 問題は反逆者、ヴラドだ。確かに一時頂点に立ったかの男は、ルスケスを除けば知る限りにおいて最強の生物だった。同級の自分を傅かせる程の。しかしそれも今は昔で、目覚めたばかりのヴラドを叩き潰す事も出来よう。と、彼は思っていた。先程までは。

 ジルは慎重に周囲の状況を確認した。ヴラドの気配は何処にも無い。自分に全く気取られる事無く、彼は下半身を削ぎ落としたという訳だ。咄嗟に気を向けねば、下半身はおろか全身が吹き飛んでいたかもしれない。ジルが笑う。呵呵と笑う。矢張りヴラドは復活していたのだと。かつての兄弟、今や仇敵となった古つわものが。

「宜しい。矢張りお前はお前だ」

 ジルが言った。

「受けて立つ。貴様を八つ裂きにしてやる!」

 

 ジルの言葉は全て画面に表示されていた。リヒャルトが逐一送ってきた内容である。その言葉から類推出来るのは彼の言う通り、ジルの興味が反逆者に一点集中したという事だ。

「つまり俺達の事は、最早どうでもいいという訳か」

 ドグが快哉を上げる。

「奴は集中する余り、逆にそれ以外の集中を欠くぞ。仕掛ける機会が生まれる」

 続々と迎撃の準備に取り掛かる一同を横目に、レノーラは額に浮き出た脂汗を拭い、絞り出すように言った。

「何て人なの。まさかあのジルに、心理戦を仕掛けるなんて」

 

<次席帝級>

 敵は前面から来る。

 ジルはつまり、カーラ邸を攻めるにあたって、戦術というものを一切立てずに向かってくる訳だ。己が力の程を容赦なく振るわんとする彼の頭には、正面突破以外の考えが無い。ハンターとノブレムにとっては自尊心をいたく傷付けられる話だが、次席帝級に狡猾な戦術を使われるよりは随分ましであるのも事実だった。念入りに迎撃の手段を整えられるだけ、カーラ邸側にはアドバンテージがあると言って良い。

 エルヴィがカーラの手を引いて地下室への道に押し込む様を一瞥し、ジェームズは玄関口に出て身構えた。嫌な気配が、刻一刻と接近して来るのが肌身で分かる。敵は、あまりにも近くに居た。

 自分を含めてノブレムに属する全ての吸血鬼が、何らかの異能を授かるという恩恵を受けている。最早自分達は、並の吸血鬼集団を遥かに凌駕する存在なのだ。加えてハンター側にも、禁術使いと強大な怪物を使役する人材が揃っている。そして第三席女帝級のレノーラが、満を持して参戦した。仕える者共を相手にして、苦戦を重ねていた頃とは総戦力の次元が違う。

 それでも相手は次席皇帝級、今や伝説上の人物である、ジル・ド・レエ。

 ジェームズは自身の呼吸が浅く、早くなっている事に気が付いた。それが不安から来るものだとは認めず、彼は何となくレノーラの姿を目で追った。直ぐ近くに彼女は居た。フレイアとイーライを前に、ロザリオを握って素早く口を動かしている。どうやら福音を唱えているらしい。レノーラは十字を切り、ロザリオに接吻し、据わり切った目でもってジルが来る方角を睨んだ。

(吸血鬼が神様に祈るのかよ)

 そう思い、ジェームズは苦笑しようと試みるも、矢張りそれは出来なかった。

「…ジルが使ってくる異能力だけど」

 カーラを送って来たエルヴィが、ジェームズと肩を並べて言った。

「レノーラやロマネスカにも聞いたのですよ。かつてどのような力を使っていたのかと」

「どういうんだ?」

「一つしか分からないとの事でした」

「一つ?」

「彼がまともに戦う姿を、見た者はほとんど居ないらしいですわ。何分、実働部隊は三席帝級以下だったとの事ですから。それでも彼は、数万規模の人間の街を、ほとんど一瞬で灰燼に変えたとの事です。その時使った異能というのが『空から大量の石を街に落とす』、らしいですわ」

「…そりゃつまり、隕石落としをやらかしたって事か?」

「そうなりますわね。私、聞かなきゃ良かったと思いました」

「俺もだよ」

 とは言え、そういう周辺域を大量破壊する手段は行使しないだろうとジェームズは思った。それは恐らく、真祖と手を組む最大の存在が許すやり方ではない。

 

「前衛は君で、後衛は僕だ。とてもシンプルだね」

「まあな。しかしそれがいい。言い換えれば如何なる場面でも通用する組み合わせって事だ」

 息を潜めて敷地の壁に身を隠し、ダニエルとフレッドが軽口を交し合った。ジルの侵攻を前にして気のおけないやり取りが出来るのは、心理的に良い傾向だとダニエルは考えている。この場において最も警戒すべきは、心に芽生える恐怖である。その意味でダニエルは、リヒャルトの珍妙な行動の数々に少し感心した。つまり如何なる状況下にあっても、決して自分のペースを崩さない、というのが彼のポリシーなのだろう。

「何だ、何を笑ってんだ?」

 フレッドが声をかけてきた。ダニエルは何時の間にか口元が綻んでいると気付き、かく言うフレッドも笑っているのだと知る。ダニエルは頭を掻いた。

「いや、結局は何時も通りなんだよね、僕達は。フレッド、君とは友達になれて良かったよ」

「よせよ。そういうのは戦い終わってから言ってくれ。ま、俺も吸血鬼とつるむなんざ、この街に来るまでは考えた事も無かったが」

「僕はノブレムとハンターの関わり合いに未来があると信じている。だからフレッド、ここで負ける訳にはいかない。未来を見るんだ」

「いい戦いをしようぜ、相棒。ここで肉迫出来なけりゃ、その上の真祖に勝つなんざ出来ねえんだからよ」

 

 わざわざ水溜りを作って何をするつもりなのかと、マリーアは庭の一箇所に放水を終えたドグの行動を興味深く眺め、そして後悔した。庭の影からいそいそと、おぞましいものが這い出てくる様を見てしまったからだ。

 ドグはルクスを指差し、次いで水溜りを示した。そして短く命令する。

「その中でしばらく待ってろ。俺がいいと言うまで」

「わあ、味わい深い水溜り。ご主人様、一緒に入らない?」

「御免被るぜ。引き摺り込まれて溺死させられのは嫌だ」

 ケラケラと笑い、ルクスは浅いはずの水溜りに、その身をずぶずぶと沈めて行った。

「…どうするつもりなんだ?」

「トラップだよ。トラップ」

 マリーアの問いに、ドグはしかめ面で答えた。

「あんな奴でも身体能力は桁が外れているからな。幾らかは抑え込む事が出来るかもしれん。何せカスパールってYclassisが配下にしようとした化け物だ」

「それがあなたの切り札という訳か」

「いや、こいつぁ飽く迄、保険に過ぎんよ。真の切り札は別にある」

「どういう事?」

「お前のお仲間さんのリヒャルトが心理戦を挑んだが、俺もそのやり方を考えてるって事だよ。先の言い回しを鑑みるに、相当な直情径行と俺は見た。『彼女』の実在は動揺を与えるだろうぜ」

 

 道路に飛び出し壁を伝い、カスミは軽やかにカーラ邸を離脱した。

 臆して逃げ出した訳ではない。矢張り目当ての者がここには来ないと知ったからだ。そうなれば邸宅に居る意味は無い。カスミは急ぎアウター・サンセットへと走り、ふと後方に目をやった。

「別に一緒に来なくてもいいんスよ?」

「放っておいたら、死んでしまいそうな気がしたのでね」

 キティが絶妙な距離を空けて、カスミに追随していた。此度は彼女をサポートすると予め決めていただけに、それを放り出す訳にはいかない。それに彼女が向かうアウター・サンセットも、危険の度合いではカーラ邸を上回るかもしれなかった。ハンターと仕える者共の混戦に巻き込まれるのは、余りにも危険に思える。

 しかし、矢張り後ろ髪引かれる思いはあった。あの次席帝級を相手に、ハンターとノブレムの仲間達は何処まで立ち回れるのだろうか?

「心配ッスか?」

 と、カスミが見透かしたように、飄々と言った。如何にも心外という風にキティが応える。

「当たり前よ。何せノブレム存続の瀬戸際なんだから」

「大丈夫よー。大丈夫。特に根拠は無いけれど。確かに敵は最強だけど、ノブレムだってサイコーなんですから。絶対大丈夫」

「その慰めは確かに根拠が薄いわね…」

 深々と溜息をつき、しかしキティは驚愕の目を左にやった。

 一区画離れた道路を、歩いていたのだ。ジル・ド・レエが。

 交差はほとんど一瞬だったが、キティはジルがこちらに僅かな注意を向けていたと気付き、ゾッとした。気を変えてこちらに向かわれたら、只事では済まなかったはずだ。胸を撫で下ろすキティに、相も変らぬ調子でカスミが言う。

「何で見逃してくれたんですかね?」

 カスミも気付いていたらしい。キティは忸怩たる思いで、それを言わねばならなかった。

「多分、どうでもいいと思ったんでしょ。真の敵以外の者など、どうでもいいって」

「そいつぁ私も同感です。ジルなんか本当、どうでもいいですから」

 笑うカスミに半ば呆れ、半ば感心し、キティは目線を何となく右に回した。そして形のいい眉をひそめる。

 今度はリヒャルトが居た。しかも己が生首を抱え、意気揚々と道路を闊歩している。一体ノブレムというのは、どれだけ変人が揃っているのかと。

 

『気をつけて』

 

 その言葉は、カーラ邸を守護する皆々の耳に届いた。

「ジューヌか!?」

 フレイアが驚き、周囲を見回した。当然ながら、これから戦場となるこの場所に、彼女の姿は無い。

『退却を念頭に置くべきです。だから自分の命を大切にして』

 また聞こえた。彼女の声は、直接脳裏に響いてくる。恐らく新祖たる力の一端を彼女は示しているのだろう。しかしながらフレイアは、彼女の言い方に若干の苛立ちを覚えた。

「くそっ。一体誰の為にジルなんかと戦うと思ってんだ。スタコラ逃げる訳にゃいかないってのにさ」

「落ち着きなさい、フレイア。あの方は、ただ純粋に私達の事を思って下さっているだけなのよ」

 宥めるレノーラに対しても、フレイアは益々訝しい顔を向けた。

「前から思ってたんだけどさ、アンタ、ジューヌに対していきなり態度を変え過ぎじゃないかい? 別に真祖みたく下僕を支配している訳でもないのにさ」

「まだ若いあなた達には理解し辛いかもしれないけれど、あの方の生誕を迎える為に、私という者は生きて来られたのよ」

「2人共、そろそろ無駄話は止めておけ」

 イーライが手を挙げて2人に注意を促した。そして掲げた手のまま、指先をカーラ邸前の通りに向ける。そのジェスチャーの意味するところを知り、レノーラとフレイアは揃って腰を落とした。

「何だ?」

「おかしな感じがする」

 吸血鬼達の挙動の変化に気付いたフレッドに、ダニエルが応える。

「上手く言えないけれど、流れが止まった、みたいな」

「何だそりゃ」

「僕らには何となく分かっていたんだよ。ジルの怒気がこちらに向かって流れ込んでいるような、嫌な感じがね。それがいきなり止まったんだ」

「そりゃつまり」

 フレッドが言う。

「何かを思いついたって事じゃねえのか。それで意識をそちらに向けた」

「…おい、それが『あれ』なのか!?」

 ドグが虚空を見上げ、放心したように言った。

 夜空で何かがゆったりと回転している。それは次第に形を大きくしてこちらに向かっていた。月明かりにあって、それが何なのかは既に目視出来る。ハマーだ。巨大な四輪駆動車。ジルはハマーを、カーラ邸に向けて投擲してきたのだ。

「伏せろ!」

 ジェームズが怒鳴った直後、ハマーは地響きを上げてカーラ邸に突き立った。そして一瞬で家屋を真っ二つに叩き割る。その非常識な一撃で、端正なカーラの邸宅は見る影も無く全壊した。

 

 カーラ邸から発せられた地響きは、そろそろ就寝につこうとしていた地域住民を問答無用で叩き起こした。

「あなた!? 今の音は何!?」

「分からん。どうもベイカーさんのお宅からだったような。ちょっと外を見てくるよ」

「私も行くわ」

 とある一軒家の老夫婦が、寝間着のまま寝室から出る。一階へと駆け下り、玄関の扉に手をかけようとしたその時、鍵がかかっているはずの扉が外から開かれた。と言うより、蹴破られた。夫妻が揃って腰を抜かし、ヘナヘナとその場に座り込む。玄関に乗り込んで来たのが、頭を小脇に抱えた首なしの男だったからだ。男の頭が、どう考えてもそれは無いだろう、的な台詞を発する。

「怪しい者ではありません」

 そんなはずがあるか。

「これから大規模な騒動が始まります。この周辺は非常に危険な状況です。今すべきは、一刻も早く避難する事なのです。どうか急いで、海沿いの方へ逃げて下さい」

 夫妻は顔を見合わせた。首なし男は確かに常識はずれの風体であったが、その物腰は意外に紳士的である。そのギャップが、恐怖心一点のみであった夫妻の心をほんの僅かに緩めた。夫が恐る恐る男に問う。

「一体何を言っているんだ」

「如何にも異常な体でしょう。私という奴は。どう考えても首と体が離れて生きていられるのはおかしい。想像を超えた事態が起こりつつある事は、これで御理解頂けたはずです。その事態は早晩この地区を覆います。取り返しのつかない事態になる前に、お願いですから逃げて下さい」

 言って、男は膝をつき、深々と頭を垂れた。実際頭は無かったが。しかしながら、首なし男が捲くし立てる言葉の数々に必死の思いと気遣いが含まれているのは、人生経験を長く経て来た老夫妻に伝わった。相変わらず気は動転していたが、夫の方が妻の手を取り、2人はしっかりと立ち上がった。

「分かった。逃げればいいんだな?」

「訳が分からないけれど、あなたの言う通りにした方がよさそうね」

「ありがとう!」

 バタバタと着替えに走る夫妻を見送り、リヒャルトが身を起こす。ジルの到来はアウター・サンセット同様に、一般市民への被害を甚大なものとするだろう。とは、リヒャルトの予想である。つまり周辺住民への避難勧告こそが、此度の戦いにおける彼の主眼であった訳だ。首と胴体が泣き別れた姿を晒すというのは、些か強引な手段であったが。

 それにしても、とリヒャルトは思う。この夫妻は非常に物分りが良い特例であって、他の人々が容易く信用してくれる訳は無い。常識的に考えれば、「逃げろ」「逃げます」等という交渉が、普通は成立するはずもない。加えて、首無し死体の言う事だ。

 次席帝級の攻撃は、想像するに並大抵のものではない。無関係な人間の膨れ上がる死体の山を思い、リヒャルトは己の無力を痛感した。しかし、1人でも多くの人間が逃れられるならばと、リヒャルトは意を決し扉を開いた。そして呆気に取られて立ち尽くす。

 大勢の人間達が着の身着のまま外に出ていた。彼らはリヒャルトの姿を認め、一斉に視線を彼に集中させた。首なしの彼を見ても全く動揺しない彼らが、目線でもって言外に言っている。

『どうすればいい?』と。

 リヒャルトの意思にこれだけの人間達が呼応する様は、リヒャルトの想定外である。新祖が助けてくれたのか、との思いが頭を過ぎったものの、それは違うとリヒャルトは判断した。

「そうか」

 リヒャルトが呟く。

「これはサマエルが引き起こしたのだな?」

 多数の人間の意識に介入出来る力を持った存在など、この街では限られてくる。その読みは概ね正解だとリヒャルトは解釈した。恐らくサマエル自身も、マリーナ地区の人々が無為の死に至る事態は望まなかった、というところだろう。

 しかし、とリヒャルトは思う。だからと言って、サマエルは人間を救う者ではない、と。現にサマエルは、アウター・サンセットを真祖の贄として供する旨を認めているではないか。

 

 ハマーの隣に停めてあったコルベットをPKで持ち上げ、しかしジルは思い直して力を解除した。高さ2mほどから車体が地面に落下し、ウィンドウが砕け散る。防犯ブザーが悲鳴のように響き渡る中、ジルは身を翻して駐車場から足早く出て行った。

 意趣返しは四輪駆動車の投擲で十分だろうとジルは判断した。カーラ邸は容易く押し潰され、目当ての者の居場所も無くなった、という訳だ。ジルは自らの仇敵、ヴラドがどのように出て来るかを想像し、唇を薄暗く曲げた。

 もう直ぐ目的の邸宅に到着する。既に邸宅の体を成していないであろうが。ジルに取ってみれば、その気になれば瞬く間に詰められる距離であるものの、彼は未だ感じ取れないヴラドの気配を警戒している。何処だ、かつての兄弟。何処に居る、と。

「出でよ、同胞!」

 知らぬ内に、ジルは雄叫びを上げていた。

「来たれ、我が兄弟! 何れが秀でた者であったか、決着をつけようではないか!」

 両手を広げて言い放ったジルに対し、一発の銃弾が返された。

 銃弾は狙い違わず額を撃ち抜く。ジルは若干膝を曲げたものの、何でもないように姿勢を正した。銃創の痕跡すら早々と見当たらない。ジルは自身に対して銃撃を加えた愚か者の姿を、遠く離れた位置にありながら一瞬で見極めた。

「うるせえよ、馬鹿」

 壁の遮蔽越しに突撃銃を構えたフレッドが、吐き捨てるように呟く。

「今は夜中だ。近所迷惑だろうが」

 

<開戦>

 ジルは額に手をやり、フンと鼻を鳴らした。その表情に怒りも驚きも無い。あるのは侮蔑だった。何と些細な所行よ。この俺に対して何か出来るとでも思うたか、と。

 彼の意識は徹頭徹尾、反逆者にのみ集中している。ジルはカーラ邸側の初撃に対して反撃の意図すらみせず、ただ黙々と歩行を再開した。応じて3点バーストで銃弾がジルの胴体を抉り続ける。が、ジルの歩く速度に陰りは全く見当たらない。着実にこちらへ向かって接近する様を見、フレッドは舌を打って銃を引き起こした。

「引き摺り込んで、ぶちのめすしかねえやな」

 言って、フレッドは配置についている仲間達を顧みた。一様に頷く彼らの目は据わり切っている。この場の戦える者達は、全員が最接近戦闘の腹を括っていた。

 ハマーを邸宅にぶち込むという馬鹿げた攻撃で、怪我をした者は居ない。見るも無惨にカーラ邸は全壊したが、当のカーラが避難した地下室は健在である。ロマネスカも逸早く難を逃れ、ジェームズの誘導で庭の隅に身を潜めている。

「いいか、ここから動くな。ありゃ野生動物も同然だ。下手に動いたら目をつけられかねん」

 言い聞かせるジェームズに対し、ロマネスカはぼんやりした顔で小さく「分かった」と答えた。この場にあって緊張感が欠如した反応は異常であったが、その異常さが変異の始まりである事をジェームズは予感した。

 ロマネスカが言っていた通り、ジルの接近によって何かが起ころうとしている。しかしながら、その変異による事態の解決を期待する程、ジェームズも楽観主義的ではない。神は自ら助くる者を助く、と言うではないか。ジェームズは柄にもなく祈りの言葉を小さく口にし、戦野へと身を翻した。

「…素の状態で戦いが多少でも成立するのは、この場には私しか居ない」

 レノーラが敷地に点在する皆に向けて言った。

「それでもあなた達は、ほとんど全員が強力な異能持ちよ。全く通用しない、とは思わない。まずは私が出る。イーライとフレイアは私の援護。その後範囲内に引き入れて一斉攻撃。創意工夫と己の力を全て振るう事。間隙を突く機会はある」

 レノーラは片方の掌をおもむろに掲げた。そしてゆっくりと折り曲げて行く。カウントダウン、スタート。

 3。

 2。

 1。

 レノーラが壁を乗り越える。左右からイーライとフレイアが回り込みを開始。正面には既にジル・ド・レエ。レノーラがほとんど一瞬で距離を詰め、ジルの鳩尾にフックを叩き込む。ジルは全く動じる事無く言った。

「何だ、カーミラか」

「もう一度死ね」

 レノーラが拳をめり込ませたまま、掌を開く。五指から突出した爪がジルの体を撃ち抜き、高速振動を開始。ジルの胴体をズタズタに引き裂き、即座にレノーラが身を引く。同時にイーライがジルの脳天に過重圧を仕掛け、動作を封じる。フレイアが発した火球がジルの周囲に幾つも纏わり、次の瞬間、それら全てが破裂して大爆発を引き起こした。

「やった!」

「畳み掛けるぞ!」

「いけない、引いて!」

 一気呵成を試みる2人を言葉で食い止め、レノーラは消えた右腕の肩口を押さえて飛び退った。

 ジルが進み出た。何事も無く。ズタボロにしたはずの衣服もそのままに。ジルはただ、面倒臭そうに左右の手を真横に振った。しつこい蚊を追い払うように。

 ただそれだけで、3人はかまいたちの如く切り裂かれた。首が飛ばなかったのは単なる不幸中の幸いである。もしもジルの興味が反逆者に集中していなければ、彼らは丹念に八つ裂きとされていただろう。

 イーライとフレイアが四肢を吹き飛ばされ、筋肉の裂断でレノーラの動作が完全に鈍る。ジルは自身を睨み上げるレノーラの傍を通り過ぎる際、彼女の頭をポンと叩いた。御苦労であった、とでも言うかのように。

「今日は機嫌がいい」

 カーラ邸の正門前に仁王立ちし、ジルは言い放った。中に複数の吸血鬼とハンターが潜んでいるのは了承済みである。

「何しろ奴に会えるのだからな。俺も心から残虐非道という訳ではない。蝿の如き貴様らが邪魔立てせず立ち去るならば、今少し生存する機会をくれてやる」

 ジルは腕を組み、返事を待った。当然ながら、はいそうですかと退却する者はこの場に居ない。ジルは乾いた笑い声を漏らした。

「左様か。宜しい。ならば前進あるのみ。しかしながら俺の情けを無為にした罰は受けて貰う。貴様ら、特にハンター、無辜の民をただ守るが為の者よ。意味も無く、無惨に、何も理解出来ずに人が死ぬ様を見たくはないか?」

 言って、ジルは離れた区画の住宅地を指差した。その様を見て、ドグの顔から血の気が失せた。

「やめろ!」

 ドグの叫ぶ声と同時に、地面から吹き上がる無形の力が、家屋を二十程噴き上げた。木っ端微塵に砕け散る家々に、果たしてどれだけの人々が居たのだろう。ドグは言葉を失い、しかしすぐさま熱い塊が腹の底から突き上げる感覚に思考を囚われた。

「殺してやる」

 ドグが第一歩を踏みしめる。

 

 閑話休題。

 いきなり話の腰を折って申し訳ありませんが。実は誰も死んでおりません。こんな事がありました。

「ハイホー、ハイホー」

『ハイホー、ハイホー』

 等と声を合わせつつ、首なし男を先頭にして隊列を組んだ大集団が、海沿いに向かって行進して行く。状況が分からない者には余りにも奇異な眺めであったし、仮に分かっていても矢張り奇異な有様であった。遥か後方で家々が吹き飛んでも、隊列は止まる事無く目指す場所へ向かうのだった。首なし男を先頭にして。まるでハーメルンの笛吹き男である。

 

「さて、奴は何処だ。その無様な屋敷の真下か?」

 言って、ジルは潰された家屋を指差した。歩みを進め、遂に敷地内に至る。

 相変わらず取り囲まれた格好であるものの、ジルは徹頭徹尾彼らの存在を度外視していた。何する程のものではない、という訳だ。その行動様式は、例えばスズメバチに似ている。獰猛で攻撃的な気性を持つその虫は、何かの作業に夢中になると、それしか目に入らなくなる。体を触られても無関心を貫く。今のジルもそれに近い。主敵と見定めた反逆者以外に積極的な攻撃行動を取らない姿勢は、人の感性としては常軌を逸していた。とは言え、ジルという次席帝級は確かに人間ではなく、この世ならざる者の権化である。

 しかしそれも長くは続かなかった。つまり彼を迎え撃たんとする者達も、尽く尋常の存在ではなかったからだ。

 悠々と歩んでいたジルが、不意に足を止めた。

 背後から、音も無く、全身ずぶ濡れの白い服の女が這い上がって来る。女のように見える化け物、ルクスは目を見開き、口腔から真っ赤な舌と牙を覗かせ、完全にジルの背後を取っていた。その存在をジルは既に承知している。応じて彼は、小さく舌を打った。この世ならざる者だからこそ感じ取れる、鼻の曲がりそうな臭気に対して。

 直後、超高速の裏拳が振り抜かれる。しかしルクスは避けた。恐るべき早さで身を沈め、振り返ったジルの首元に食らい付く。その牙には死人の血が塗られていた。ドグがルクスに仕込んだものだ。その程度で揺らぐジルではなかったが、彼は初めて唇を歪めた。

「こ奴!」

 ルクスを引き剥がし、その頭部を掴み、ジルは地面に勢い良く叩き付けた。通常ならば木っ端微塵に頭蓋が砕け散るところであったが、ルクスも頑強なこの世ならざる者である。一度バウンドしてから一挙に身を引き、ルクスはゲタゲタと笑いながら、複数用意された水溜りの一つにその身を沈めた。

 むう、と呻き、ジルが片膝をつく。それは死人の血の効力と言うより、ルクスの捻じ込んだ毒に拠るものだ。次席帝級にすら通用する猛毒。ドグが気付く。かつてカスパールがルクスを配下にしようとしたのは、吸血鬼の天敵を傍に置く為であったのかと。

 カーラ邸の面々は、その一撃で千載一遇の機会を手にした。危険極まりない次席帝級の挙動が鈍るという、これ以上は無い機会を。

 

<死闘>

 カーラ邸を護衛する面々の敵は、今この場でジル一体のみである。もしも仕える者共や模造吸血鬼が多少なりとも参加していれば、戦の様相は段違いに厄介なものとなっていただろう。集団と集団の戦いは、個人戦闘能力よりも連携がものを言うからだ。

 敵は絶大ながら、一体のみ。個別の能力と創意工夫を惜しみなく使う事が出来る。ノブレムとハンターの一斉攻撃は、奇妙な纏まりを見せつつ強力な暴風雨と化してジルに襲い掛かった。

 

 片やシャイタン系列第四段階の禁術持ち。片や高位戦士級の吸血鬼。初撃は距離を詰めたフレッドとジェームズによる格闘戦から始まった。

 バタフライナイフを不正確な挙動で右から繰り出し、ジェームズがジルの素っ首を狙う。タイミングをずらしたフレッドの刀剣が左から肩口目掛けて斬撃を繰り出す。対してジルは、膝をつきながらも冷静にそれらの挙動を見極め、振り切ってくる刃を素手で止めた。が、立てていたもう片方の足が更に崩れ落ちた。

 フレッドの背後から回り込みをかけつつ、ダニエルが拳銃による射撃を正確に当てて行く。元来銃砲類を不得手とする吸血鬼でも、レノーラの祝福を受けた拳銃は例外だった。ダニエルはジルの関節という関節に弾丸を捻じ込み続け、遂に両腕までがだらりと落ちた。ジルの防御がガラ空きとなる

 一旦得物を引き、フレッドとジェームズが一気に掻き取らんと首筋に刃を食い込ませた。が、刃は薄皮一枚で寸止まる。固い。

「がっかりだったな」

 ジルが呟く。

 そして即座に立ち上がる。ダニエルに破壊された関節は元に戻っていた。尋常の回復速度ではなかったが、これでも次席帝級にしてはまだ遅い。毒は未だジルの全身に回っているのだ。2人がかりのラッシュは怯む事無く再開される。

 果敢な撃ち込みの全てをジルは容易く弾き続けた。逆に一瞬の隙を突き、ジルが掌底をフレッドに当てた。ただ当てたかに見えたその一撃は、人間を木っ端微塵に打ち砕く威力を有している。フレッドの身体能力は高位戦士級に伍するものの、その体は軽々と一回転し、地面に受身も取れずに激突した。今度はジルの目がジェームズに向く。

 がん、と鈍い音と共にジルが顎を仰け反らせる。高々と踵で蹴り上げた格好を即座に戻し、今度はエルヴィがネイルチップを閃かせ、踊るように拳闘を挑む。更に脇腹目掛けて刀剣が突き立てられた。

離れた位置から苦しげに立ち上がるフレッドが、その腕を有り得ぬ長さまで伸ばし、間隙を縫って剣を刺し込んだのだ。禁術の上位段階に足を踏み入れた者の異能。苦痛に堪らず呻く。

 呻く、という展開事態がジルには信じられなかった。まさか、かような奴原に、と。若干の苛立ちを覚えるも、毒が抜けるには今少しの時間を要するとジルは判断した。ふっ、と息を小さく吐き、ジルが一同の前から姿を消す。瞬く間に庭の端へと姿を現す。

 其処へ狙い澄ました銃弾の雨霰が襲いかかった。拳銃、突撃銃、散弾銃を、ノブレムとハンターがこれでもかと撃ち続ける。しかし銃弾は全て到達する事無く止められた。ジルがPKを行使したのだ。バラバラと地面に落ち続ける銃弾を見遣り、ジルが唇を曲げた。そして素っ飛んで来たナイフの切っ先を親指と人差し指で摘み、言う。

「何がしたい」

「こうしたいんだよ」

 ドグが地面を爪先で蹴った。途端に水溜りから腕だけが伸び、ジルの両足を握り潰す勢いで掴む。庭の各所に仕掛けた水溜りはルクスの格好の隠れ場と化していた。この敷地内にある限り、ジルはルクスの不意打ちを受け続ける羽目になる。

「こ奴!?」

 拘束を無理繰りに引き千切る。しかし決定的な隙が生まれた。ドグが小気味良く散弾を浴びせ、合わせて銃弾が雪崩を打って突進する。猛射を全身に受けながら、それでもジルは倒れない。少なからぬ死人の血が含まれているにも関わらず。

 しかし、ほんの僅かであるものの、攻勢に空隙が生まれた。攻め手が弾倉を次々と再装填するという、決定的な空隙が。

 ジルが目にも留まらぬ速さで足元を掬い上げる。水溜りからルクスを軽々と引き摺り出し、ジルは牙剥く化け物の顔を、己が目でまじまじと睨んだ。

「醜悪の極みだな」

「あんたも」

 最後まで言い返す暇を与えず、ジルがルクスの体を首元から真っ二つに裂いた。だくだくと黒い血を溢れ返らせ、両断されたルクスが崩れ落ち、その身は黒い泡となって庭に溶け込み、消えた。その有様を見、ドグの思考が一瞬止まる。

「死んだのか、ルクス」

(私は不死身ですよーん)

 と、ドグの脳裏にルクスの言葉が流れ込んだ。どうやらドグの『中』に戻ってしまったらしい。

(しかし今しばらく再起不能だわ。ごめんねごめんね御主人様)

 そのまま出て来なくて結構。と、思わぬ向きが無いでもない。ドグは頭を振り、膠着した戦闘の只中で散弾銃の再装填を終えた。

 

 銃火器攻撃が一旦の間を置いた。闇雲に撃ち続けても無駄弾を消費するのみと悟ったからだ。ジルはと言えば、掌にこびり付いたルクスの血肉を払い落とし、その表情に到来時との変化はほとんど無い。

 戦いの一部始終を、マリーアは固唾を呑んで見守っていた。最早月給取りの身体能力でどうこう出来る手合いではない。その事実が彼女の両肩に重くのしかかる。

 ハンターとノブレムは、誰1人として死人どころか大した手傷も被っていない。強力なジョーカーに成り得たルクスの喪失が痛みではあったが。ここまで勝負が成立していたのは、ジルがルクスの毒でもって、その速度を大幅に減じていた面が大きい。

 しかしながら、マリーアの心は焦燥にかられる一方だった。ジルの動きが戦うにつれ、目に見えて良くなっていたからだ。恐らく今は全快である。加えて全くと言って良い程、自身の全容を見せていない。それを意識的に、或いは無意識の内に悟り、ハンターとノブレムは次の一手を出しあぐねているのだ。ここまでのジルは反逆者への興味一心で、雑な反応しか示して来なかった。が、そろそろ本格的な排除に打って出るであろう事は想像に難くない。

 ただ、マリーアにはマリーアなりの考えがあった。彼女も新祖ジューヌより授かった異能がある。果たして次席帝級程の手合いに通用するか否かは、やってみなければ分からない。成功すれば、貴重な隙を作り出せるはずだ。しかしそれは同時に、ジルの注意が全てこちらに向かう事も意味している。マリーアはひと呼吸空けてから、ジルに対して言った。異能力、『魔女』を発動。

「ジル殿、素晴らしい戦い振りです。ルスケス様も、さぞやお喜びになる事でしょう」

 その言葉を受け、ジルは青白い顔をゆっくりとマリーアに傾けて来た。そして曰く。

「お前の名は、何であったか?」

「M、でございます」

「否、Mとはミラルカの事である。故にお前はM2だ。M2、これが素晴らしいと申すか? くだらぬ茶番だ。ルスケス様の御前ではせいぜい口を塞いでおれ」

 かかった。マリーアが安堵と快哉を心中で連呼する。敵味方の区別なしに自身を時間限定で『味方』と認識させる異能は、次席帝級にも通用する。おまけにジルは、蠢き始めたノブレムとハンターの動向に気を向けていない。おまけにレノーラ、イーライ、それにフレイアも、着々と打撃から立ち直る気配が感じ取れる。時間を更に稼ぐべく、マリーアは続けた。

「しかしジル殿のお顔、生前の精強振りがお戻りの御様子。素晴らしき事でございますが、果たして如何なされたのですか?」

「食ったのだ。魂を」

「魂を?」

「例の地下でな。しかしながら、所詮は死に人の彷徨う魂。儀式を施した子供と血族のそれに比ぶればか弱い。この力を取り戻すべく、些か俺は食い過ぎてしまった。ふふ、口からおぞましい者共が溢れ返らんとしておる」

「あの地下とは…一体何なのです?」

「あれは逝く当て無き魂の倉庫よ。あれがある限り、俺達は無尽蔵という訳だ。さて、長話も飽いた。下がれM2。こやつ等を追い払い、奴を引き摺り出してやる」

 ジルが顔を正面に戻す。そして彼が見たものは、真正面から飛び込んでくる膝頭だった。

 僅か数歩の跳躍で、フレッドが膝蹴りをジルの顔面に衝突させる。高位戦士級に比する破壊力に容赦なく抉られ、ジルがその身を仰け反らせた。が、着地したフレッドの腕が掴まれる。空いた掌が手刀を作る。手刀が霞のように揺らぎ、振動を発する。

 その手をジェームズが巻き取り、抑え込んだ。ジルが少し驚いた顔を向けてくる。それは振動で物理的対象を粉砕する強力な異能であり、掴んだジェームズの手は吹き飛んでいるはずだからだ。それでもジェームズはその力を、異能力の類を度外視して戦う事が出来る。『蛮族』という力はそういうものだ。ジェームズは今度こそナイフを首筋に突き立てた。筋繊維の隙間を上手く抉り、それを参考にフレッドも刀剣の切っ先を捩じ込む。相手が三席帝級であれば首を掻き獲れたかもしれない。しかし相手は、ジルだった。ジェームズとフレッドがその身を浮かし、左右両端に吹き飛ばされたのは一瞬。

 首に刺さった得物を投げ捨てるジルに、復帰相成ったレノーラが打撃戦を仕掛ける。遅れてイーライとフレイア。更にエルヴィも加わり、身を起こしたジェームズとフレッドも参戦する。一斉攻撃を一身に浴び、ジルが防戦一方となった。

無数に繰り出される拳と刀剣の猛攻を、ジルは避け、弾き、或いは被る打撃に任せ、反撃に転じる事が出来ない。これを機会と見、攻撃の手を加速させる面々の背後から、冷淡な声が掛けられた。

「一体何を遊んでいるんだ?」

 咄嗟、全員が振り返る。ジルが少し離れて、真後ろに立っていた。彼らは物理的感触を伴う幻を相手に戦っていたのだ。誰にも、レノーラにすらも気取られる事無く、ジルはあっさりと彼らの背後を取った。ジルが掌を向ける。掌の周囲に針のような物体が浮かび上がる。その矛先はレノーラ達に向けられていた。諸共串刺しにせんとしていた針の群れが、しかし微妙な揺らぎを見せ始める。射出がままならない。

 ジルは己が背中に手を当てられているのだと気付き、顧みた。真っ青な顔のダニエルが、それでも勇気を振り絞る眼でジルを見据える。

「『御破算』は、次席帝級相手にはここまでか」

「奇妙な真似を」

「ジル殿、お待ちを!」

 マリーアが叫ぶ。『魔女』の効力は未だ有効。さもなくばダニエルは上半身ごと跡形もなく消えていた。ジルの動作が僅かに食い止る。その隙を突き、レノーラが叫ぶ。

「ダニエル、逃げて!」

 その声で、金縛りのように竦んでいたダニエルの体が解放され、彼は脱兎の如くその身を引いた。ジルの頭上に黒い槍が浮かび上がり、静かに降り注ぐ。夜よりも深い闇にジルの姿が遮断され、その間も銃器持ちが暗黒目掛けてひたすら発砲を繰り返す。イーライの『過重力』が抑え込みにかかり、フレイアの『火球』が再度炸裂する。

 波状攻撃に継ぐ波状攻撃が終息し、ノブレムとハンターは、危うく絶望しかけた。

 其処には異形が立っている。蝙蝠のような羽を背中に形成し、頭部の髪は硬質化して無数の棘の如き有様を為し、手足の先端からは猛禽類の長く鋭い爪。

「ルスケス化」

 エルヴィが呟く。矢張りジルも吸血鬼元来の姿になれたのだ。

 彼女は躊躇なく『守護者』の力をその身に降ろした。瞬く間に目の前の異形と同じ者となる。そしてそれは、エルヴィの隣からも進み出て来た。

『レノーラ!?』

『私もあなたと同じく、守護者なのよ』

 短く言葉を交わし、ルスケス化したエルヴィとレノーラが突進した。応じてジルが、タン、と軽く宙に飛ぶ。2人の『守護者』も飛翔して追い縋り、戦いの場は地上を離れて空のものとなった。

 まるで流星が激しくぶつかり合うような戦闘を見上げ、フレッドは突撃銃でジルに狙いを定めようと試みたものの、直ぐに諦めて頭を振った。

「やめた。高位戦士級並の俺でも目視が効かねえ」

 フレッドが溜息をつき、空を見上げながら誰にともなく言う。

「どうすりゃいい。どうすれば、あんなものに勝てるんだ」

『まず戦い方を再考せよ』

 突如頭に響いてきたその声に、フレッドは困惑して周囲を見回した。自分と同じく、他の仲間達も狼狽を隠していない。つまりこの場以外の誰かが、全員に向けて話し掛けているのだ。『声』は、落ち着いた口調で続ける。

『汝等の攻勢は良好であった。しかし守備はどうか。彼奴の注意が私に向いていなければ、今の段階で壊滅していた可能性がある。ジルの挙動を緩める工夫は他に無かったか。彼奴には莫大な死人の血を捩じ込まねばならぬ。それでも、汝等に敬意を表する。貴重な時間を、汝等は私にくれたのだからな』

「遂に来るのか」

 ジェームズが呻く。

「ヴラド公、遂にか」

『今しばらくかかる』

 と、庭先に轟音を立ててジルが着地した。両手でエルヴィとレノーラの首根を掴み、地面に叩き付けている。ジルが吼える。声の限りに吼える。

『俺にも聞こえたぞ、ヴラド!』

 ジルは2人の『守護者』を乱暴に放り投げ、大股で崩れ去ったカーラ邸へと歩んだ。そして邪魔な瓦礫をPKで根こそぎ吹き飛ばし、地下への入り口を露出させた。が、その進撃が中途で食い止る。吸血鬼避けの無形障壁が行く手を阻んだのだ。ジル、呵呵大笑。

『この程度と申すか、お前が! かような代物で、今の俺を阻めると思うたか!』

 その言葉に嘘は無い。ジルは確実に前進を続け、障壁の突破を現実のものにしようとしている。

(まずい)

 ドグが危急を覚える。もう少しでヴラドの再臨を迎えられるというところで、ジルの突破を許せば全てが無為になるのだ。最早これまでとドグは腹を括り、彼は最後のカードを切った。

「ラ・ピュセルが何処にいるか、お前は知っているか?」

 たったその一言で、ジルが発していた猛り狂う戦意が嘘のように消えた。思った通り、ジルのピュセルへの思い入れは、吸血鬼に成り果てた今でも底無しに深いのだ。ドグは間を置かず捲くし立てた。

「彼女の確保はならなかったが、その魂の在り処は分かっている。いいのか? 彼女を放っておいても。彼女を守る騎士だったんだろう? また悲劇を繰り返すつもりか? 国に散々利用され、ボロクズみたいに捨てられた彼女の悲劇を。また利用されるんだぜ? 今度はルスケスのお友達の、サマエル様によ」

『貴様…』

 向きを変え、ジルがドグの元へと肩を怒らせて歩んで来る。ドグは落ち着いて、冷静に、携帯電話の画像をジルに見せた。写っているのは、エリニス・リリー。サマエルの袂に置かれた、ジャンヌ・ダルクの魂を宿す者。ジルは画像のみで、それが真実である事を見抜いた。

「彼女は多分、ル・マーサの本拠地に居る」

 ドグのその言葉は、ジルにとって止めの一言だった。ジルはこの世ならざる悲鳴のような大音声を発し、その姿を一瞬で消す。

 次席帝級の侵攻は、彼自らの心変わりという、異様な形でもって幕切れと相成った。蓄積する打撃と疲労、そして何より極度の緊張感からの解放によって、ノブレムとハンターの面々がバタバタと庭に倒れ伏して行く。ドグも膝が崩れた1人であった。そして小さく詫びを口にした。

「すまねえ、エリニス。間違いなく殺される事はないから」

 

<再臨>

「くっ…滅茶苦茶な真似をしてくれますわね」

 身を元の姿に戻したエルヴィが、痛む節々を擦りながら立ち上がった。正反対の側では、レノーラも同じくその身を起こしている。エルヴィが声を掛けた。

「大丈夫ですか!」

「何とかね。みんなも。誰1人死んでいない。これは奇跡的な事だわ」

 等と言う間にジェームズの片腕が爆散した。

「のわあ!?」

「…今更ジルの異能の効力が発揮されたみたいね」

 レノーラが近寄り、心底同情を向けて曰く。

「でも大丈夫。吸血鬼だから、もう少ししたら生えるわよ」

「有難くねえ。しかしダメージが後から来るのか。使い勝手が難し過ぎだろ、『蛮族』」

 肩口を押さえつつ、ジェームズがはたと顔を上げる。

「しまった、あいつの事をすっかり忘れてた!」

 ジェームズが慌ててロマネスカの姿を追い求める。と、地下入り口からジェームズ以上に焦った様子のカーラが出て来た。あれだけの破壊を受けても、地下は磐石ない堅牢さであったらしい。カーラは普段の冷静さを大きく欠き、庭の隅に走り寄って、ペタンと腰を落とし、顔を覆って嗚咽を漏らした。何事かと一同が彼女の元に赴く。

 其処には、白骨化した遺骸が横たわっていた。それがロマネスカのものである事は、変わり果てた姿と言えど、誰にも理解出来る。遺骸の傍の庭土に、指でなぞったと思しき文字が書かれていた。

『謝りに行くよ』

 と。

「ありがとう、ロマネスカ。今まで私を、一族を、ずっと守ってくれてありがとう」

 遺骸に縋り付き、子供のように泣き伏すカーラに、かける言葉は誰にも無かった。彼女とロマネスカが過ごした時間の深さを、計り知れる者が居ない故。

 さくりと、彼らの背後から土を踏みしめる音が聞こえた。地下入り口からもう1人が姿を現し、ゆっくりと、しかし躊躇なく歩んで来る。

 その者は重厚な西洋甲冑に身を包み、外套を翻し、蓄えた髭と虎のように精悍な顔つきを皆の前に晒していた。しかしながら、纏う鋭い気配には似合わぬ涙を流してもいた。男、ヴラディスラウス・ドラクリヤは言った。

「ロマネスカは私が預けた魂を返し、そのうえで命を捧げてくれた。その命を食らい、私は再び這い上がってきた」

 吸血鬼と人間が、彼の為に道を作る。その間を進み、ヴラドはロマネスカの遺骸の傍にしゃがみ込み、カーラの肩を抱いた。

「こうして友の死を食らい続け、私という者は存在する。この命、欠片も無駄にはせぬ。我が全てを焼き尽くす。真祖を必ず滅ぼす。ハーカー家の者、苦難を味あわせ、すまなかった」

 ヴラドは顔を上げ、一同にも丁寧に頭を下げた。

「皆にも感謝する。如何な形であれ、汝等はあのジルを追い返したのだ。復帰直後の私では、恐らくあの者に勝てなかったであろう。そして我が友、ロマネスカを除き、誰1人として落命しなかった。健闘であったと思う」

「…いや、ヴラド公。結局市井の人々には、かなりの死者を出したはずだ」

 ジルによって吹き飛ばされた家屋の状景を思い出し、マリーアが唇を噛み締めて言った。しかしヴラドは、複雑な苦笑を口元に浮かべ、「案ずるでない」と答える。

「凄まじい戦いでありながら、死人は1人も出なかった。あの介入は率直に喜べるものではなかったかもしれぬが」

「どういう意味だ?」

 しかしヴラドは曖昧に答えを濁し、すくと立ち上がった。そしてレノーラと目線を合わせ、互いに頷き合う。

『新祖殿は御無事か』

『はい。安全な場所に逃れております』

 2人は聞き覚えの無い、重低音の振動のような言語を使っていた。その言葉を理解出来るのは、この場ではエルヴィのみである。エルヴィは、それが帝級以上の吸血鬼が使う古吸血鬼語だと気が付いた。

『恙無き事である。汝もよく守り抜いてくれた。聞けば「恋人」も出現したとか。可能性の想定はしていたが、実際の出現は想定外である。その者は何処か?』

『その者は…あちらから戻って参りましたね』

 ヴラドとレノーラが揃って顔を正門に向ける。つられてそちらを向いた一同が、手をブンブンと振り回しつつ自身の生首を抱えて駆け戻ってくるリヒャルトの姿を認めた。

「うわ、まだ生首を持ってやがる」

「開始早々速攻で消えた分際で、何であんなに堂々としてるワケ?」

『あれ、であるか』

『そうであります』

 リヒャルトは微妙な目で睨んでくる皆々を前にしてやけにサッパリとした笑顔を見せた。そして首を面前(という表現は正確ではない)に差し出し、おもむろに頭上に掲げて開口一番。

「パイルダー・オン!」

 首と頭をくっつけるも、パイルダー・オン大失敗。

「ギャーッ!? 位置がずれたあああ!?」

「あ、皮膚がどんどん癒着している」

「誰か、誰かハサミを貸して下さい!」

「死ね、お前。ほんと死ね。静謐な雰囲気ぶち壊しじゃねえか」

 馬鹿騒ぎを始めた「首と頭がずれた男」を前に、ヴラドは無表情を崩さず言った。

『…これ、であるか』

『そうであります…』

 

<総括>

 実はあの戦いの手前、既に新祖ジューヌは別の隠れ家に移されていたのだった。事もあろうにビバンダムの中に詰められて。ビバンダムを運んだ廃品回収車は、ハンターが偽装したものである。つまりジルの攻撃は、彼の所期の目的である新祖抹殺が梯子を外されていた時点で、開始直後から敗北が決定していた、という訳だ。

 その隠れ家は一部のハンター、風間と城が手配したものである。その場所は巧妙かつ狡猾に隠蔽され、場所を明かされたのはノブレムの吸血鬼以外に居ない。ハンターですら、知っているのはごく僅かだった。長らく使っていたアパルトメントの所在地が公然の秘密と化している以上、ここを新たな本拠地とするのは必然である。現時点で、真祖一党にも所在は知られておらず、当面の安全は約束されていた。

 アウター・サンセットとマリーナ地区・カーラ邸に対する大規模な侵攻以降、仕える者共のノブレムに対する干渉は終息していた。主だったメンバーが次々と死に、エルジェ殺害すらも成功した以上、その圧力が弱まるのは当然である。

 しかしながら、真祖一党に強力な吸血鬼は未だ残っていた。その頭領である真祖ルスケスは、地下を離れて占領したアウター・サンセットに居座っているものと思われる。そのアウター・サンセットが黒い障壁で途絶された状況は、今もまだ続いていた。そしてその周辺では行方不明者が続発するという、犯人が何者かを容易く想像出来る事件が発生している。

 これは明確な侵略だった。

 アウター・サンセット地区の住民は避難生活を余儀なくされ、大規模な勢力が地区住民の生活圏を奪い、犯罪行為を思うがままに繰り広げている。最早市警単独で対処出来る段階に非ず、国家的な介入が為されるべき事態だ。つまり軍部の投入とアメリカ政府の全面的な支援が必要である。そのはずだった。しかしそれは叶わなかった。

 サンフランシスコという街は、外部との繋がりを完全に途絶されてしまったのだ。

 ほぼヘイト・アシュベリを中心として10~15km圏を、円形で包み込むように分厚い白い壁のような霧が発生した。その発生直後、サンフランシスコ外部連絡手段、電話、ネットワーク、電波網、ありとあらゆる通信形態が、市内で通じる以外は全て不通状態に陥った。霧は本当の壁のように人や車両の出入りを遮りはしなかったものの、入り込めばしばらくしてから元の場所に戻ってしまうか、或いは全く別の場所に出現してしまう。とどのつまり、ありとあらゆるものが市外へ出る事が出来なくなってしまったのだ。

 未曾有の混乱状態が始まる前に、サンフランシスコ市長は市民の前へ姿を現した。そして夜間外出禁止と強制移動執行の権限を伴う、非常事態宣言を発令する。そのうえで言った。

「私達は打ち勝つ」

 と。

 

 ジェイス・ゲストハウスの扉が開かれ、ジェイコブ・ニールセンはままならないインターネットへの接続相手に四苦八苦する手を止めた。入って来たのは、些かやつれた雰囲気のマクベティ警部補。それに後から、もう1人が姿を現す。その者の顔を見て、ジェイコブは慌てて立ち上がり、危うく椅子から転げ落ちそうになった。

「ニューサム市長!?」

「やあ、初めまして」

「TVでしか見た事がない」

「一応、本物ではあるよ」

 市長は警部補に薦められた椅子に腰掛け、多少心ここにあらずの面持ちで店内の風景を眺めた。取り敢えずジェイコブはミネラルウォーターの瓶を空け、2人が腰掛けるテーブルへと歩んだ。

「しかし、ゲストハウスが立ち入る事をよく許可したな」

「市長の招待は、俺とジョーンズ博士、それにキューの会合で決めた事だ」

『そういう事です。それでは市長、瀟洒なバーのひと時を楽しんでいって下さい』

 キューの声が店内に響き渡り、市長が肩を大きく揺らした。が、直ぐに気を取り直す。

「いけない、いけない。市長たるもの、この程度で取り乱してはならん」

「…市長さんは、一体何処までを知っているんだ?」

 ジェイコブも椅子を引いて座り、警部補に問うた。対して警部補が答える。「全部だ」と。

「市長には全て話した。この店の事。この世ならざる者の実在。ハンターが一体どういうものなのか。サンフランシスコで何が進行しているのか。そのうえで、サンフランシスコ市とハンターは全面共闘態勢に入る」

「何だって」

 ジェイコブは息を呑んだ。過去に類例のない事態が、今この場で進行している。かつてハンターがハンターと呼称される前から、ハンターは公的機関に頼らず、有志独自で戦いを繰り広げた歴史を経ている。大いに狼狽しつつ、ジェイコブは言った。

「ハンターが公的機関から実在を隠し続けたのは、社会的混乱状態を招かない為だぞ」

「サンフランシスコは、その社会的混乱の只中にある。敵は圧倒的だ。ジェイ、圧倒的過ぎるんだよ」

「だから超法規的措置をハンター達に適用する事とした」

 ニューサム市長が話を繋げる。

「警部補の言う通り、敵は巨大だ。それは超常現象に閉じ込められたこの街の有様を見れば、私みたいな素人でも理解出来る。故に市当局としては、総力戦へのバックアップ態勢に入る。本来はハンター諸君の前で私が説明をする義務があるはずだが、彼らもこの状況ではろくすっぽ帰る事も出来ないだろう。故にジェイコブ・ニールセン、君に当局の対応について説明を行なう。君はこの街のハンター達の、取りまとめ的な役割を担っていると聞いたからね」

 ニューサム市長は書類を机上に広げ、ジェイコブに素早い説明を始めた。

 前提条件として、現在でもハンターの実在を認識しているのはごく一部である。その他大勢の当局の人間達には、ハンターの事を事態解決の為に派遣された政府の特務機関員と説明している。

 市全域に発令した夜間外出禁止令は、ハンターとその関係者、そしてノブレムの人員には適用されない。銃火器の使用も許可。その代わりとして、24時間態勢で警邏する警官達が識別する為に、IDカードの装着をハンター、ノブレムの両方に義務付けて貰う。カードで識別出来ない手合いは、基本的に敵性存在という訳だ。ハンター、ないしはノブレムが、それに属さない者に対するカード配布を依頼した場合、マクベティ警部補が適正と認識した場合には許可を出す。

 次いで、チャイナタウンのマフィア、庸については、この世ならざる者との戦闘に限り、銃火器使用を超法規的に認める。ただし事態が解決に向かった暁には、全ての銃火器の提供を庸に義務付ける。

 市警当局は、この世ならざる者との戦闘は積極的に行なわない。現状では治安維持と避難民への対応で手一杯の状態であり、事態そのものへの対処はハンターの手におもねる事とする。その代わり、各種公共サービスの優先的使用、ないしは必要物資提供について全面的にバックアップする。

「つまり分かり易く言えば、今まで隠れ潜みながら活動していた君達が、大手を振って敵と遣り合えるという訳だ」

「本当に分かり易いな」

 市長はミネラルウォーターで喉を湿らせ、話を続けた。

「ともかく、君が懸念しているのは戦後処理についてではないかと想像するが、どうだい?」

「心が読めるのか、市長は」

「それはそうだろう。元来ハンターには、君が言う通り社会的不安を煽らないよう、自身の存在を秘匿し続ける不文律がある。それについては私も賛成だ。君達は、不本意であるかもしれないが、決して公の元に晒されてはならない。仮に全てが終息した時、君達がこの街を救ったという事実は、私の力で抹消する。自分でも、酷い事を言っていると思ってはいるんだよ」

「理解して頂けるだけで助かる」

「全く、今ですら大変な状況なのに、戦後のビジョンも見据えねばならないとは。政治家というのも因果なものだ。市長になったのは失敗だったかな」

「今のは聞き流しておきますよ。しかし状況は非常に厳しい。外部との遮断が続けば、サンフランシスコの物資が枯渇する。早急に事態を解決しないと」

「…ああ、それなんだが」

 市長は顔をしかめ、「心配ない」と言った。心配ない、と言う割に、その表情は深刻である。どういう意味なのかとジェイコブが問うと、市長は首を傾げながら答えた。

「物資が減らない」

「は?」

「減らないんだよ、この街に流通するありとあらゆる物資が。市民生活は完全封鎖状態以前のレベルを完全に保持している。物流は圏外からの搬入が基本であって、それが寸断されれば間違いなく物資は枯渇するはずなんだ。そんな事は誰にでも分かる。しかし物資が減らない。資材を搬出した倉庫は、次の日にはまた勝手に補充が為されている。この件に関しては、民間の方が慌てふためいているよ。そいつを抑え込むのに言える言葉は唯一つ。『取り敢えず落ち着け』。これしか言えん。つまり、つまりだ。このサンフランシスコは、それ単体で独自の経済活動を、閉鎖状態で維持し続けているという訳なのだよ」

「…訳が分からん」

「私はそれを通り越して気が狂いそうだ。否、勿論狂わないがね。しかし間違いなく言えるのは、この所行は敵が行なっているって事だ。君達や私が敵と認識するものは、これだけの状況を一挙且つ一瞬で作り上げたのだ」

「まるで神だな」

「神なものか。神は私達をただ見守って下さるのみだ。苦難を乗り越えるのは、何時だって私達自身の力に拠るんだ。神ご自身もそれをお求めになっている。こんな恩着せがましく危険な箱庭を準備する輩が、神であるはずはない。とは言え、私達市当局は住民の安全確保に全力を注ぎ、ハンター達を矢面に立たせる選択を取る事になる。他力に任せるという訳だ。敵の事をとやかく言えるものでもないよ、私は。この判断に対し、君達は私をボロクソに罵る権利がある。ただ、私は切に願っている。君達にこの街を救って欲しい」

 言って、市長は立ち上がった。彼も多忙を極める身であるのだ。警部補が付き添って扉に向かう途中、市長は振り返ってジェイコブに言伝を頼んだ。

「今回、アウター・サンセット戦を指揮したクロウ・カザマに、SWATの選抜隊5人の優先指揮権を提供する。ラウーフ分隊長以下、選りすぐりの猛者が揃っている。必要の際は、要請すれば即座に傘下に入るだろう。確かにこの世ならざる者はハンターが主戦力だが、上手く立ち回れば彼らも凄まじい。特にラウーフ分隊長の経歴は驚異的だぞ。何せ元チーム6。彼はDEVGRUの出身だ」

「警部補と同じ部隊の出身か!」

 ジェイコブが驚き、警部補を凝視する。対して警部補は肩を竦め、背を向けて扉を開いた。

 

 市内の各ホテル、そして空アパルトメントが避難者向けの住まいとして提供され、どうにかアウター・サンセットの住民達の居住を維持出来たものの、街は当然の如く慌しい雰囲気に包まれていた。行方不明者が続出し、件の地区は見るからに非現実的な黒のカーテンで覆われている。市外への脱出もままならず、極度の不安に陥った市民達が暴走するのは時間の問題だったが、事前に市警と消防がくまなく配置された事もあって、どうにか抑え込みは継続している。加えて、物資の不足が全く起こっていない事も大きかった。取り敢えず衣食住さえ確保していれば、人間は頭を冷やす猶予を得る事が出来る。

 ただ、決定的に情報が無い。一体何が原因でこのような事になってしまったのか、それを知っているのは市当局の一部とハンターだけだ。先の見えない黒い不安に未来を阻まれ、取り敢えず現状維持の生活に従う市民達の、行き交う顔と顔には陰りが漂っている。

 そんな中でも飲食店は営業中だ。幾ら心配を重ねても、他に出来る事がなければ普段通りに仕事をするしかない。そんな訳で、ジャパンタウンの一角にあるデニーズは慎ましく店を開いていた。

 この騒動で近頃はめっきり客が減っていたものの、今日は珍しく団体客がやって来た。給仕が張り切って注文を取りに行くと、彼らは揃いも揃って「コーヒー」のみのオーダー。何となく肩を落として厨房に戻る給仕に同情の目を向け、レノーラは隣に座るヴラドに目線を戻した。今日は細身の体にスーツを身に着けている。始終重甲冑を纏っている訳ではない。

 ヴラドはコーヒーが配られ終えるのを待ってから、ブラックをあまり美味そうでない顔で啜り、ノブレムの面々を前にして言った。

「こうして話をするだけならば件の家でも良いのだが、我々にもゆとりの時間が必要である。よって茶を飲みながら話すも良しとしたい。諸君、心を和ませよ」

 和ませよ、と言われても。そうは思ったが、ヴラドなりに自分達を慮る心情は伝わるので、一同は黙ってコーヒーを啜った。そしてヴラド同様に美味そうでない顔になった。

「さて、これからどのように打って出るか。それについて意見を出したいと思う」

 カップをソーサーに置き、ヴラドは掌を組んで目を細めた。

「行動の指針としては、3つを提示する。1つは、『縄張りの威力偵察』。あの中に真祖が控えているのは間違いないが、今はまだ雌雄を決する時期ではない。それをするにも件の『縄張り』の内情が私にも掴めぬ。まずは状況を探り、小規模なりの戦闘を行なって敵情を知るのも手段だ」

「しかし、真祖が出張って来る可能性が高いのでは?」

「高い、と言うより、間違いなく来るであろう。しかしながら、それについては私が対処をする。つまり私が赴く、という事だ。今の私であれば、真祖とジルを同時に相手にしても、汝等を逃がす時間くらいは稼げよう。出来れば吸血鬼とハンターの混合でかの地に赴くべきだと私は判断する。ただ、危険極まりないには違いない。私と行く者は、相応の覚悟をせよ。して、もう一つは、『縄張り周辺の模造吸血鬼の駆逐』」

「やっぱり行方不明事件、模造吸血鬼の仕業なんだ」

「それ以外には考えられぬ。私は昔から、人間に対する無用な殺傷には厳罰をもって処して来た。その私の印象から察するに、あれは食料調達と言うよりも我々とハンターに対する挑発に近い。それを知りながら受けて立つのは、正しく泥の道を歩むが如しではある。が、罪無き人々への被害は捨て置けぬ。それに、あの手腕はそれなりの者が模造吸血鬼を統括しているに相違ない。対処へ回れる者には回って欲しい。そして最後の1つ。『真下界への進出』」

 ヴラドはディートハルト・ロットナーに目を合わせ、小さく頷いた。

 

 ノブレムの新しいアジトはほとんどの者が出払っており、今は4人のみが滞在している。新祖ジューヌ、リヒャルト、カーラ、そして来訪者の風間。

 風間はジューヌからの呼び掛けに応じ、ミラルカの遺灰、と言うよりも遺砂を持ち込んでいた。ジューヌはそれを受け取り、机の上に丁寧に敷き、まるで一粒一粒を観察するように眺めている。

 そうする事、小一時間が経過。全く同じ格好で砂を見詰めていたジューヌが、不意に声を発した。

「これは、1人の赤子の魂」

 心ここにあらずの顔で、ジューヌが呟く。

「吸血鬼の大量生産に向けての試験製作の為に、その魂を利用した。サマエルが何の知識も無い魂を一から育て上げ、土くれで作った仮初の体と共に真祖に提供した。真祖は、翻意を見せたカーミラ…レノーラへの意趣返しとして、その形を彼女と瓜二つに仕立て上げた。遊び心で。彼女に『自分が死ねば人間に戻れる』と言ったのも嘘。ただの遊びだった。何と惨い仕打ちを。でも、彼女には明確な心が存在していた。これはサマエルやルスケスには誤算だった。大量生産品に心は必要ないという事。だから今の模造吸血鬼に、魂はあっても心は無い。あれにとって魂とは、駆動の為の動力源に過ぎない。恐らく意識、記憶、感情、一切合財を『漂白』した邪悪な魂を利用している。しかも、その邪悪さに馴染ませる為に、土くれではなく死肉の寄せ集めを利用した。許せない。私はこの者を、何としても取り戻す。風間、お前は彼女の『心』を持っていますね。それを渡して下さい」

 言って、ジューヌは俯いたまま片手を差し出し、風間に催促した。

 風間と、それにリヒャルトは呆気に取られていた。彼女はミラルカが遺したものから、過去の出来事をすらすらと読み解いてみせたのだ。風間は遺品として取っておいた起爆スイッチを懐から取り出し、言われるままジューヌに渡した。

 ジューヌが机の中心にスイッチを置き、それから重低音の振動のような言語を詠うように紡いで行く。それに合わせて、砂が僅かずつ動き始め、徐々に紋様を形成し始めた。ヘキサグラムの完成。ジューヌは躊躇無く、その中心に両腕を突っ込んだ。

 彼女の腕が机の中に飲み込まれる。その先は間違いなく、ここではない何処かに繋がっているのだ。しばらく間を置き、ジューヌは両腕を引き上げた。その手には、生後3ヶ月くらいであろうか、健やかに眠る珠のような赤子が抱かれていた。

「やりました。ちゃんと本来あるべき体も取り戻せました!」

 小さく飛び跳ねて赤子を抱き締めるジューヌを前に、リヒャルトは後ずさり、カーラの名を呼んだ。

「…何かしら? 引越しの準備が忙しいのだけれど…」

 パタパタと足音を立てて入って来たカーラが、ジューヌと赤子の姿を見て息を呑む。枯れた声で、リヒャルトがカーラに言った。

「すみません、ゲストハウスへ居を移す前に、赤ん坊用のミルクとか、そんな感じの用品を一纏め買ってきて下さい」

「分かったわ」

 慌てて部屋を出て行くカーラを見送り、リヒャルトは驚愕の目でもってジューヌを顧みた。ジューヌはと言えば赤子を抱いたまま、立ち尽くす風間に話しかけている。

「この娘が本来のミラルカなのですよ。吸血鬼だった頃の記憶は全く残っていませんが、お前との事は僅かな残り香として心に刻まれているのです。当面この娘は、私が世話を致します。然る後に全てが落ち着いたら、お前が決めなさい。この娘を我が子として引き取るか、このまま私の元で育てるか。でもこの娘は、きっとお前と共に在る事を望むでしょう」

 そしてジューヌは、赤子をあやしながら部屋のあちこちを歩き回り、そして出て行った。

 残された風間とリヒャルトは、揃って腰を下ろした。自分達が目の当たりにしたものを、間違い無きよう頭で咀嚼しながら。風間が言う。

「彼女は、新しい『神』か?」

「いや、人間なんだよ。それでも彼女は、人間なんだよ」

 呟くリヒャルトが、初めて寂しい顔を人前に見せた。

 

 

VH3-5:終>

 

 

○登場PC

・エルヴィ・フォン・アスピヴァーラ : 戦士

 PL名 : 朔月様

・カスミ・鬼島 : 戦士

 PL名 : わんわん2号様

・キティ : 戦士

 PL名 : ウィン様

・ジェームズ・オコーナー : 戦士

 PL名 : TAK様

・ダニエル : 月給取り

 

・ドグ・メイヤー : ポイントゲッター

 PL名 : イトシン様

・フレッド・カーソン : ポイントゲッター

 PL名 : 白都様

・マリーア・リヴァレイ : 月給取り

 PL名 : 蒼夏様

・リヒャルト・シューベルト : 戦士

 PL名 : ともまつ様

 

 

 

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ルシファ・ライジング VH3-5【次席帝級の進軍歌】