<虎穴入らずんば虎児を得ず>
ヴラドを筆頭とするノブレムとハンターの小部隊は、ジャパンタウンを大きく南下してから西部アウター・サンセットに直進する、最大限の迂回ルートを取った。ノブレム本部目掛けて進出するルスケス一党と極力遭遇しない為だ。
とは言え当初の想定通り、この逆侵攻が大方ルスケスの側に露呈しているものと全員が承知している。全ての模造吸血鬼が出払ったとは言え、ルスケスただ一人でアウター・サンセットの全てを守備的に網羅出来る。領域に一歩でも侵入すれば、其処は直ちに戦場である。
果たしてルスケスは、どう出て来るか。
エルヴィはその難題にひたすら思索を巡らせていた。何しろ敵は気まぐれと思いつきだけで行動力の根幹を成している。例えば地区に囚われている市民達を人質に取るというのも、戯れとして仕掛けてくるかもしれない。先にエルヴィは、状況に応じて市民達を見切る旨をハンターのドグに宣言していたが、実際にその場面を想像すると心が痛む。しかしながら今のエルヴィが、痛みを表に出す事は無い。この戦いは、是が非でも勝たねばならないからだ。
「ヴラド公」
助言を得ようとヴラドに話しかけると、当の彼は十字架を握り締めて祈りを捧げていた。
「…Per Christum Dominum
Nostrum. Amen. エルヴィ、何か」
「いや、何かも何も、ジーザスに祈るのですか」
「私も元は正教会の信者である」
「十字架が弱点というファンタジーが損なわれます」
「因みに私は昔からニンニクを好かぬ」
ヴラドは苦笑し、歩を緩めずに多少気を抜いて彼女に語った。
「吸血鬼の血が騒いで以降、私も一時信仰を捨てた。存在自体が、かの御方の導きに叛いていたからな。しかし今は、こうして祈祷する事が出来る」
「そう言えば卿、レノーラが偶に祈る姿を私も見掛けます。察するに、前の血の舞踏会が終結して以降、改めて信仰を回復させたというところですか?」
興味深く聞いてきたロティエルに、ヴラドは軽く頷いた。
「あの時から、吸血鬼が人に立ち返る道を模索するという新たな戦いが始まった。概ね吸血鬼というものは本能で動くのだが、信仰は本能を抑える理性の象徴と私は捉えている。人間でも、吸血鬼でもそれは同じだ。だから我々は理性で踏み止まろうと誓い合い、今に至る」
ドグはノブレムの戦士達から距離を置く位置で随行している。しかしながら互いの連携は事前に準備されていた無線で把握しており、つまり彼らの会話も凡そは聞き取る事が出来た。
先の会話もドグの耳に入っていたのだが、感想としては、ドラキュラのイメージが大崩壊というところであった。十字架を握り、こんこんと理性の何たるかを説くなどと。映画のドラキュラは誇り高いが、欲望に素直で自分本位である。戦に同道するヴラドが、かような人格とは真逆であったのは無論心強い事である。
しかし一方で、よくしゃべるヴラドにドグはひとかどの覚悟を見ていた。死を受け入れて事に臨む人間は、温和で明るいものだ。
(この戦で死ぬつもりか、ヴラドさんよ)
ヴラドが最も危険な吸血鬼の1人であるからには、ハンター的感覚としてはルスケスとの共倒れが望ましいはずである。それでも人間としてのドグは、そうではないとヴラドに言いたかった。其処で役回りを終えるのは違うだろう、まだやれる事は沢山あるんじゃないか、と。
『…私の声が聞こえるか』
ドグは頭を切り替え、呼び掛けてきたヴラドに応じた。
「ああ、聞こえている」
『我々は午前零時を迎えたと同時に、アウター・サンセット域内に侵入する。そちらは手筈通り、一拍子遅れて入るが良い。件の石柱の位置を中心とし、我々は南から、汝は北からだ』
「ルスケスはどのタイミングで来るかな?」
『分からぬ。入り込んだ瞬間に彼奴は我の存在を察知するだろう。開戦の狼煙を上げる権限は彼奴が有している』
「気に入らないな。相手に先手を取らせるのが前提の戦いってのは。ハンターのセオリーに反する」
『いや、先手を取るのは我々だ。それはエルヴィやロティエルであり、ドグ、汝もだ。趨勢は諸君らの働き如何にかかっていると言って差し支えない。下手に力を持つ者は、その力に任せるような戦い方になるものだ。しかし諸君らは策を打ち、弱点を貫く為の才覚を有している。それではハンターよ、奮起を期待する』
「私達はルスケスがこのようにして来るであろう、との前提に拠って行動しております」
ヘッドセットを外し、ロティエルが思考の入り組む面持ちでエルヴィに言った。
「ヴラド公との戦に熱狂し、他への注意を損なう。その隙を私達は見出す」
「その考え方は、概ね正解なのではありませんか?」
「実際、そのような展開になるでしょうな。しかし、模造吸血鬼と帝級の全てが出撃した状況というのは、あの時と酷似しております」
「あの時?」
「真下界のティターン戦です。真の石柱に一切合財の手出しが出来ないと知ったうえで、サマエルはあのような巨人の化け物を置き土産にしましたぞ。ならば此度も、想定外の仕掛けをしてくる可能性を鑑みる必要がありますな」
と、ヴラドが手を挙げて合図を寄越してきた。ロティエルとエルヴィが会話を打ち切り、彼の袂に駆け寄る。
既に目前には、アウター・サンセットの内外を隔てる黒い壁がそびえ立っていた。この壁は奇妙な事に、一定以上の遠くから眺めると存在を視認出来ない。それが近付いて行くにつれ、壁は漆黒の度合いを増すという訳だ。よってヴラド達を睥睨する壁の色は、夜の闇よりも濃厚である。
ヴラドが掲げた掌を開く。そして一定時間毎が過ぎるにつれ一本ずつ指を折り畳んでゆく。最後の一本が折れ、ヴラドが静かに佇んだ。その両脇を固める、エルヴィとロティエル。
午前零時。
遥か後方のジャパンタウン方面から閃光が走り、直後激しい爆発音が轟いた。上空には黒い雲が立ち込め、地上には雷、それに得体の知れない槍状の代物が無数に落ちている。恐らく帝級による遠距離からの異能攻撃が始まったのだろう。エルヴィとロティエルは仲間達を想って一度だけ振り向いたが、それだけだ。ヴラドは全く興味が無いかのように、ただ正面を見据えていた。
そして三人は、ほぼ同時に進行を開始した。
ヴラドとエルヴィは、既に内部へ一度足を踏み入れている。ロティエルも中が一体どのようになっているかを、事前知識として聞かされていた。其処はルスケスの意思が反映された狂気の世界である。
物理的に存在しない幻の壁を抜ける。何ものも見えない、認識出来ない虚に身を置くのは一瞬。一行は前回の威力偵察同様、外とは相反する昼日中の世界に到着した。
消滅したアスファルト、朽ちた家屋、草木の侵略。
して、目の前にルスケスである。
「おーっ、来た来た、来たよこれ! 待っていたぜシーモンキー共!」
ルスケスは大仰に手を叩き、心底愉快だと言わんばかりに笑った。
<悪徳の栄え>
「さあどうするどうなる。死ぬか? 今死ぬか? しばらく後に死ぬか? 俺としては今少し場を楽しんでみたい気持ち多々ありだ。決めた。てめえら後で死ね。ちょっと楽しくお話でも致しましょうよクソドモが!」
ゲハアと一頻り下劣な笑い声を上げ、ルスケスは家屋を吹き飛ばしたと思しき不自然な空間に、不自然に設えられた瀟洒なテーブルまでさっさと歩いて行った。そして安楽椅子に飛び乗って腰を下ろし、幼児の如く前へ後ろへと大きく体を揺らした。得体の知れない赤黒の液体が入ったデキャンタグラスを手に取って、手のひらサイズの頭蓋骨になみなみと内容物を注ぐ。
「3才児のドクロの杯で乾杯!」
目まぐるしい躁状態のルスケスに対し、ヴラド達はその場から一歩も動かず、ただ厳しい目で彼を見据えていた。
察するに、少し話をしようという事なのだろう。一行は戦う為に来たのであって、あのようなルスケスと会話を成立させるつもりは金輪際無い。しかしながら、この場の対処を慎重に考えねばならないのは明白である。エルヴィとロティエルは、揃って主軸のヴラドを見詰めた。
「どうなさるのです?」
「奴の勢いに巻き込まれるのは、正直気が進みませんな」
「…双方、私から少し距離を置いて控えておれ」
ヴラドは溜息をつき、歩を進めた。
「少なくとも今、入った瞬間から先手を取るという好機を、奴は自ら放棄した。何をしてこようが、どうという事もないと考えているのだろうが」
「機を伺う、という訳ですな」
「全く気は進みませんが」
ヴラドはルスケスの正面に回り、テーブルから椅子を引いて着座した。言われた通り、エルヴィとロティエルが少し距離を置いて両端に控える。ルスケスは満足気に彼らをねめつけ、デキャンタを掲げて言った。
「飲むかい?」
「要らぬ」
「何だ、つまらぬ奴である事よ。折角搾り立てを用意したというのにさーん」
ルスケスはふんぞり返り、またぞろ安楽椅子で激しく遊んでいる。その様は隙が形を成しているような有様だったが、当然ながら見せかけだけだ。ルスケスは全方位でこの三人に対処出来る。
おもむろに椅子の揺れをぴたりと止め、ルスケスが言った。
「ヴラド、それに守護者。あともう一人、誰かね君は。計3人かよ。少なっ。数少なっ。もしかしてだが、てめえら、俺様を舐めておるのか?」
「何れ軍勢が貴様を打ち破るであろう」
ルスケスの挑発に乗らず、ヴラドは平然と言った。対してルスケスが目を細める。
「ホウ、それでは此度は何しに来たんでちゅか? 石柱を破壊しにいらっしゃったの?」
「破壊する」
「俺様が居るのに?」
「そうだ」
「左様であるか。中々良好な度胸である事よ。馬鹿が。アホが。ウスノロが。はいそうですかと石柱粉砕を見守るほど、俺も牧歌的世界観を有しておらぬ。手段は準備致したよ。なあ、てめえら、他の場所からハンターが一匹潜入したんじゃねえ?」
ルスケスの言葉に一行は無表情を貫いたが、心中で舌を打った。予想出来た事だが、アウター・サンセット圏内においてルスケスの認識能力は度を越えている。ドグによる他方面からの潜入は、やはり把握されていたのだ。
反応の無い彼らを面白そうに凝視し、ルスケスは再び調子良く喋り出した。
「さすがに俺も、ちょっとの間はヴラドにかかりきりになるであろうよ。その隙に石柱破壊ガンホー! ってのは実に分かり易い事よなあ。で、面白い対処策を考えた。カースド・マペットって御存知?」
ヴラドが分からない顔になり、エルヴィとロティエルも首を傾げた。しかしその単語は、ハンター経由で聞いた事がある。
「そいつを俺様も作ってみたのである。この間さあ、いい具合に中途半端な重犯罪者がこっちに迷い込んで来てさあ。まあ分かってくれるだろうけど、細かく刻んだのよ。で、肉の切れ端を見て思いついたのだ。これらは結構使えると。恐怖と狂気が細胞まで染み込んだ死肉は、面白え粘土細工の素材になる。プラスチックモデルのようにパーツをツギハギツギハギして、上手い具合に2体分が仕上がったのサ。それがカースド・マペットである。普通は一匹あたり悪魔1人が超集中して操作するもんらしいが、俺くらいになればかような儀式は要らぬ。鼻かっぽじってりゃ勝手に動いて走り回って敵を滅多くそにぶち壊すであろうよ。名前もつけてみました。重犯罪者壱号と重犯罪者弐号だ。そのハンターよお、壱号弐号によお、今頃とっぷりと追い回されるか喰われるかしてんじゃねえ?」
今日のルスケスはよく笑う。しかし今の笑いは一際陰湿だった。
破滅的で、自己顕示欲の塊で、欲望を最優先にして行動する。そのうえ残虐非道。と言えば人間の世界にもかような人材が、残念ながら数多く居る。ルスケスとそれらとの違いは、腕力だけで国一つを叩き潰せる実力の有無というところだ。
しかしながら、そんなルスケスもかつてはサマエルによって生み出された天使であった。善性を捨てて発狂し、永きに渡って修羅の世界で戦い抜き、膨大な敵を食い殺し、結果あのような有様に成り果てた今も、奇妙な部分で天使の名残を示す事がある。悪人に徹底した裁きを下すという、人間の側から見れば冗談のような癖だ。
概ねルスケスは老若男女を差別する事無く殺戮するが、殊に残酷な悪事を犯した者に対しては、嬉々として惨たらしい死を与える。先のアウター・サンセットに紛れ込んだ犯罪者達に対する処遇は、その性癖を端的に表していた。
死して尚、許さぬよ。
かような意図を無意識に発揮して、ルスケスは件の者達を死んだ後も徹底して利用し尽くした。呪いの肉人形、カースド・マペットへの転生である。魂の安息を許されず、苦痛と恐怖を維持したまま稼動させられる。それは常軌を逸する拷問だ。
カースド・マペット、ルスケス言うところの重犯罪者壱号・弐号は、人間的な感性を完璧に喪失し、盛大に狂った化け物と成り果てていた。そんなものが、単独行動のドグに差し向けられたという訳だ。
朽ちかけた家屋の一つに体を滑り込ませ、ドグは荒げる息を宥めつつ、窓枠にハンドミラーをかざして外の様子を窺った。続けてEMF探知機を消音状態でON。電磁場異常の波形が激しく上下している。相変わらず敵は間近だ。
「ど畜生」
小さく呟いてみる。
単独でアウター・サンセットに潜入してから1分もしない内に、ドグは2匹の見た目無様な化け物に追いかけられる羽目に陥っていた。銀化した散弾銃で足止めし、聖界煙幕とソロモンの環を駆使して逃げ切ったものの、敵はそれらの攻撃がほとんど気休め程度にしか効かず、脚力と腕力も尋常ではない。恐らくウェンディゴを大幅に凌駕しているとドグは見た。
その敵の名を、ドグは知識として知っている。新種のこの世ならざる者、カースド・マペットだ。倒すにはマペットの操り手を仕留める以外に他は無い。が、その操り手が何者かを想像し、ドグは額に手をやった。今のルスケスを、一体どうやって仕留めるというのか。忌々しさが頂点に達しかけたゆえ、ドグは先の怪物の姿を何かに例える事にした。
…ロボコップに出て来たあれだ。終盤の戦いで毒液を被って、全身どろどろになった悪党だよ。見ている側をひたすら嫌な気持ちにさせるところなんかそっくりだ。尤も出来損ないのゾンビみたくトロかったあいつと違って、マペット、チーター並に早え。クソが。死ね。ロボコップのあれみたく液状化して死ね。しかし毒液被ったくらいで、風船みたいに弾ける事は無いよな。グチョグチョの血肉をワイパーで拭き取るとか、何処まで悪趣味なんだバーホーベン。
嫌気の差す現実からの逃避が若干逸脱しかけた頃合、ドグは反射的にミラーを仕舞って体を縮めた。2人分の足音が聞こえてきたのだ。
足音は規則的且つ次第に大きくなり、ドグが隠れる家屋前の通りを一目散に駆け抜ける。その時、壱号弐号が何やらブツブツと呟く声が、聞きたくも無かったがはっきりと聞こえた。
ああ嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。ああああ、嫌だ嫌だ。
(キメエ、くっそキメエ)
思わず内心毒づくも、自分の存在に気付かずに壱号弐号が通り過ぎて行ったのを確認し、ドグは取り敢えず安堵した。しかし、あの腐れ肉人形がドグを探し、界隈を走り回っているのは間違いない。ここから出て、行動を起こそうものなら必ず捕捉される。その際、再び逃げ切る自信はドグには無かった。そうなると、どうやってもカースド・マペットに対抗する手段が必要になる訳だ。
(…待てよ)
顎に手を当て、初心に戻って思案する。あのカースド・マペットも、とどのつまり件の石柱による産物の一つではないかとドグは気が付いた。であれば、マペットを一時的にでも抑え込み、石柱破壊に注力すれば、目的を果たせるうえに危地を脱する一石二鳥だ。
その時、ドグの心臓が大きく脈打った。
(御主人さまぁ)
脳裏に甘ったるい、それでいて悪辣な女の声が響いてくる。それは彼の身の内に巣食う化け物の呼び声だ。
(今、あたしを気に掛けたでしょう? いいよ、頼ってぇ。あたしだったらあんな化け物、ジグソーパズルのようにバラバラに出来るわぁ)
(しゃべるな、ルクス。気が散る。必要な時に呼び出すから、大人しくしていやがれ)
と、ドグは意識を集中してルクスを黙らせた。家屋の何処かから、微かな物音を耳にしたからだ。EMF探知機を確認。近場に壱号弐号は居るものの、少なくとも家屋の範囲内ではない。ドグは慎重に音がした方角へと忍び、程なく寝室らしき部屋へと辿り着いた。ハンターとしての感覚が、人の気配を察知する。
床に手をつき、下からベッドの隙間を覗く。其処には、震え慄きながらドグを凝視する、初老の夫婦が居た。ドグは唇に指を当て、小さな声で話しかける。
「人間か?」
2人が恐々と頷く。ドグは自身の肩の力を抜き、努めて穏やかな声音で語りを続けた。
「大丈夫だ。俺も人間だ。市当局に関わっている」
「ここから逃げた方がいい」
男の方が、絞り出すように言った。
2人の話によると、白い男(ルスケス)の気紛れ一つで、彼らは強力な催眠術を掛けられた状態になるとの事だった。その間は吸血鬼達によって、好き放題に食われたり殺されたり、また生き返らされたりする。そんな日常を、彼らを含めた他の人々は延々と繰り返しているらしい。
ただ、こうして正気に戻るのが一番辛いと、夫婦は揃ってこぼしていた。催眠状態にあっても、首に食らいつかれ全身を切り裂かれる記憶は克明に残るのだ。無残な記憶に苛まれたまま、家屋で一時の休眠を人々は取る。そして無造作に呼び出されては、悲惨なおもちゃとして弄ばれる。逃げる事も、いっそ狂ってしまう事も、ルスケスは決して許さない。
「じゃあ、他の家にもあんた達みたいな人が潜んでいるんだな?」
「…もう、みんな諦めています。何度もあいつから逃げようとしたけれど、駄目でした。今の私達は戯れに生かされているだけなんです」
さめざめと泣き伏す妻の肩を、夫が力なく抱き寄せる。ドグは2人の手を取って、その目を見ながら力強く言った。
「もう少し耐えてくれ。必ず何とかしてみせる」
あの石柱さえ破壊すれば。
ドグは意を決し、身を起こした。
<ノブレムと破綻の男との対話>
「ま、そのハンターを食い散らかしたらば、重犯罪者コンビもおめえら目掛けてこちらにやって来るのであろうが、とんと姿が見えぬよの。捕まりゃ即死の鬼ごっこを楽しんでいるのだろうなあ羨ましい。さて、向こうは放っておいて、もう少し俺も会話をば堪能したいものである」
「何故、私達と対話をするのです?」
極力感情を平板に抑え込み、ロティエルは淡々とルスケスに聞いた。
「ルスケス卿、ヴラド公はともかく、貴公は我々の事を瑣末な存在としか認識していないはずです。対話というのは、相手に興味がある事を前提に行われるものだと私は考えております。なればどのような点で私達に興味をお持ちになられたのですか?」
「否、別段興味は無え。俺がミジンコとの対話を望むのは、殺す時に面白えからなのよ」
ルスケスの笑顔、大輪の花咲き乱れるが如くである。
「プッチンプッチンと虫を潰しても何の感情も起きぬ。しかし想像せい。『こんにちは、あたし働き蟻のミランダ。幼い子供達の為に毎日餌を届けているのよ』なんてのたまう蟻の巣穴に大量の水を注ぎ込んで何もかんもデストロイすんのはどうよ。ケヒッ。阿鼻叫喚を想像しただけで笑えてきた。それと同じだ。殺す相手がどういう奴か事前に知っていた方が、ずっとずっと気ン持ち良く殺せるであろうがッ」
ミュージカル俳優のようにババアンと両手を広げるルスケスを前に、ロティエルはそれ以上何も言わず、隣のエルヴィと目を合わせた。実に印象的な表情である。恐らく自分も彼女と全く同じ顔をしているだろう。ルスケスと同じ目線で話す事は出来ない。相手は思考形態が全く異なる怪物である。が、ロティエルはエルヴィの形相が次第に険しくなっている事に気が付いた。いかん、と思ったその時には、エルヴィの口から怒りが堰を切って噴出していた。
「糧にするでもない人間を、何故執拗に襲うのですか。それだけの力を持ちながら、やっているのは自分よりも遥かに力の劣る者達の、その尊厳を徹底して破壊する事だけ。煉獄の修羅を勝ち抜いた怪物王であるならば、王らしく強者を相手にすれば宜しい。悪魔や天使に比肩し、凌駕するルスケス様々でしょうが!」
「はい?」
ルスケスは耳に手を当て、エルヴィの迸る憤りを侮辱した。
「何を囀っているのか良く分からぬ。小生が何故悪魔とか天使と遣り合わねばならぬのでしょうか。そりゃ向こうが喧嘩を吹っかけてきたら殺すけどネ」
「つまり喧嘩を吹っかけてきたから、人間を殺すのですか」
「否、喧嘩を吹っかけられた記憶は無いぞよ。ピーチクパーチク喚いて腕を振り回しているだけの壊れやすい玩具が、俺様に喧嘩だぁ? 奴らは精々、面白い断末魔を上げて死ぬくらいしか脳が無い。あと美味しい血の提供かな。何故執拗に襲う、等と汝宣うたな? そりゃおめえ、楽しいからに決まってんじゃねえか」
顔が赤色を通り越して黒みを帯びるまでに変色し、エルヴィは激怒に駆られて更に言い募ろうとしたものの、掌を向けてきたロティエルに制され、辛うじて言葉を飲み込んだ。代わりにロティエルが落ち着き払った、それでいて底冷えのする口調でもって後を継ぐ。
「確かに卿ほどの方にとって、人間などは些細なものでありましょうな。しかしアーマドは何とします? かの人間達、及ばずとは言え卿の一族を追い詰めましたぞ」
「アーマドを人間と申すか。中々洒落たパーティジョークじゃねえか。あんなものが人間と言えるものかよ。全く、まことに馬鹿な連中であったな」
「馬鹿、とは聞き捨てならぬ」
ヴラドが眉をひそめ、口を挟んできた。
「既に我らは新租を戴き、貴様にとどめを刺す準備を整えつつある。其処に至るはアーマドの決死行による貢献が大きい。馬鹿は貴様よ、ルスケス。全てが貴様の最期を企図する布石であったのだ」
「やっぱり馬鹿だねえ、アーマドもノブレムもおめえもよ。その所行、一切が無為であったと悔悟して死ぬるが良い」
ヴラドとルスケスは、申し合わせたように席を立った。そして双方は一切の身動きを止め、互いの目を見据えた。どちらが先に動くかを見定める為だ。
「…最後にもう一つお聞きします」
いよいよ始まる戦いを前に、平静を取り戻したエルヴィが静かに問う。
「これだけの存在でありますのに、サマエルにいいように使われて、あなたは苛立ちを覚えないのですか」
「嬢ちゃん、何か勘違いしてねえか? 俺は兄者の分け身よ。兄者にぶつくさ愚痴を言えるのも弟分だからこそよ。兄者が居らねば俺も居らぬという、その分を弁えて俺は存在し得るのだ。もしも兄者が死ねと言わば、俺は死ぬぜ」
エルヴィは面食らった。度を越えて出鱈目な精神構造のルスケスが、兄弟の結束という一点において真を示した事に。
<ソドムの街>
ドグは家屋から出て、懐から煙草を一本取り出し、火を点けて空を見上げた。この異界にはどうやら夜が訪れないらしい。爽快さの欠片も見出せない紛い物の空に、ドグは煙を吹きかけて曇らせた。
先の家屋の夫婦から言われ、改めて気付く。朽ちた家々の幾つかから、確かに人の気配らしきものが察知出来る。街の住人達だ。ルスケスが戯れを起こさない間、彼らはこうして家々で怯えながら惨い時を過ごさねばならない。
其処彼処から向けられる視線をドグは感じ取った。街の異邦者である自分は、様々な意味で彼らに注目されているだろう。ただ、自分が彼らを救う英雄であるとは誰も思っていない事を、ドグは承知していた。むしろこのアウター・サンセットを、自由意思で歩き回る自分は、吸血鬼達に近い者と見られているはずだ。
(ある意味それは、当を得ているかもしれん)
ドグは自嘲気味に笑い、己が胸を軽く小突いた。そして煙草を捨て、足で揉み消す。足を上げると同時に、遠くから足音が聞こえて来た。通りの左右から各々一体ずつ。足音の目的地は明白。ここである。
散弾銃のハンドグリップをスライドさせてから、聖界煙幕を封じたグレネードを片手に持ち、ドグは上着のジッパーを下に下ろして胸部を半分露出させた。肌に浮かぶペンタグラムの刻印が、脈を打つ錯覚を覚える。
重犯罪者壱号と弐号は、ほとんど同時に通りの両端から飛び出してきた。勢い余って横転するのも御丁寧に一緒である。ごろごろと地面を回りながら立ち直り、マペット達は綺麗なストライドフォームでもってダッシュを敢行した。
人間のパーツを適当に組み合わせた不恰好な怪物が、やたらかっちりした走り方をして来るのには、生理的嫌悪感を催される。とは言ってもストライドが叩き出す速度は尋常ではない。ドグは落ち着いてルクスに声を掛けた。
「出て来い」
ドグの胸のペンタグラムから、女の白い腕が飛び出した。続いて濃いブルネットの頭髪と白い顔がドグを見上げつつ現れる。卑猥で下劣で冷酷なその目が、ずるずると体を這い出させる間もドグの顔を追いかける。ルクスは尻から地面に落ち、スイと立ち上がってドグの間近に顔を寄せた。正面から彼を見据え、血のように赤い舌で己が唇を舐め、ルクスが言う。
「御主人様、相変わらず美味しそう」
「このままだとあいつらに先を越されるぜ?」
「勿論そんな事はさせないわ」
ドグが踵で地面を蹴り、後ろに跳躍。直後、ルクスの両腕が水平に上げられ、その両腕で突っ込んで来たマペットの顔を受け止めた。突撃の勢いを一瞬で抑えられ、遠心力で浮いた体がルクスによって地面に叩き付けられる。
その際ルクスは、壱号弐号の首を易々と引き千切ってみせた。続けて壱号の生首に牙を突き立て齧り取る。肉片をベッと吐き出して一言。
「苦い」
むくりと2体のマペットの胴体が身を起こし、首元から触手のように血肉を伸ばし、瞬く間に首と結合する。しかし頭部はルクスによって相変わらず抑えられたままだ。マペットの胴体目掛け、ドグは至近距離から交互にスラッグ弾を見舞った。体中に穴を空けられて打ち震えるマペットを、ルクスが手玉のように宙へ放り上げる。竜巻のように一回転し、落下に合わせて蹴りと裏拳を叩き込み、壱号と弐号をとんでもない距離まで弾き飛ばす。其処を狙って、ドグが聖界煙幕を投擲した。炸裂と同時に吹き上がる白煙が、マペット達の姿を覆い隠す。
矢張りルクスの力は箍が外れている。今まで相手にしたのがジルやルスケスであった為、その力の程は控えめに見えたものだ。が、その2人を除きドグの知る限りで、ルクスは最も強大なこの世ならざる者である。こんな代物が身の内に巣食い、虎視眈々と体を尽くす機会を待ち望んでいる訳だ。
それでも今は恐ろしく頼りになる戦力であるには相違ない。ドグは休む暇なく策を繰り出した。
「ルクス、頼む」
「いよいよ始まるのね、この時が!」
ルクスのその言い方に、ドグは若干の違和感を覚えた。彼の見る前でルクスは体を前屈みにし、がくがくと変形して一匹の白馬と化す。ドグは頭を振って、ルクスの背中に飛び乗った。
「行け!」
『分かったわ』
ルクスはいななき、猛然と四肢で地を蹴り疾走した。ルクスの力でマペットを捻じ伏せ、その後聖界煙幕でしばらく身動きを封じる。その手段は功を奏し、ドグは壱号弐号を一時的に引き離す事に成功した。
しかし、あの2体に追われた為、石柱の位置からは随分遠ざかってしまった。勿論挽回出来る距離ではあるが、いよいよ始まるだろうルスケスとノブレム一党の戦いが決着するまでに、事を終えてしまうのが望ましい。中途で放棄したカールグスタフを拾い上げ、装填を確認したその時、ドグは眩んでルクスの首筋に手を付いた。
「何だ!?」
『始まったあ』
ルクスの狂喜が脳に響く。そしてドグは自分の腰から下が、ルクスの背と同化しつつある事に気が付いた。
事前の打ち合わせは念入りに行っていたが、それでもエルヴィとロティエルはアイコンタクトを繰り返しつつヴラドとルスケスの対峙を注視した。
元から最大目標は石柱の破壊だ。今の時点での2人の役割は、ヴラドのサポートという設定である。立てた策は一から十までぎりぎりのところで構成されていた。段取りに然程ゆとりが無いという事だ。
先ず、ヴラドが敗北を喫したように見せ掛け、其処へエルヴィが援護の為に割り込む。同時にロティエルが『韋駄天』でもって石柱方面にジャンプ。瞬間移動を実現するロティエルに対してルスケスは先手を取る事が出来ないし、間違いなくロティエルの阻止へと転ずるはずだ。直後にエルヴィ、ヴラドも石柱破壊に臨み、都合三方向からの撃破を狙う。3人の内の何れかが事を成し遂げれば良い。言葉にすれば短く、更に行動そのものは10秒とかからないだろう。
それでも、敵がルスケスである事の本質的な恐ろしさを、自分達は理解しきれているのかとエルヴィは懸念した。前回にしてもルスケスは本気を出したというには程遠く、しかし確実に此度は危険度を高めてくる。翻ってノブレムの隊は客観的に見ても精強だが、断じて1人も欠けてはならない最小限の戦力でもある。何処まで自分達は、ルスケスの本気をいなせるのだろうか。
「おう、件のハンター、何かけったいなもんを繰り出して来やがったぜ。あーあ、石柱に向かわれておるわ。ダセエなあ、おい」
不意にルスケスが声を上げ、応じてエルヴィとロティエルは気を入れ直して敵を見据えた。この場で嘘を口にする必然性が無いゆえ、どうやらドグは本当に生き抜いているらしかった。ルスケスが言っていたのは、ルクスという怪物の事だ。ドグはルクスと共にカースド・マペットとの戦いを成立させているのだろう。
続けてルスケスが暢気な口調で述べる。
「どうしたものか。しばらくは全く問題無いであろうが。さすがにヴラド相手では今すぐ向かうは無理だものな。まあ良い。後だ後」
ロティエルが気付く。問題無い、とは? ドグはマペットの攻撃から離脱して石柱に向かっているというのに、ルスケスは奇妙な余裕を見せている。という事は、破壊が困難な何らかの理由があるのだ。
何にしても急ぐ必要があるとロティエルは思った。ドグだけに石柱破壊を託すのは、不利を被る可能性がある。と、ヴラドが背を見せたまま一顧だにせず2人に言った。
「エルヴィ、ロティエルを護れ」
その言葉に頷き、エルヴィは『守護者』へと姿を変えた。煉獄由来の怪物じみたその姿を、今のエルヴィは丸一日維持する事が出来る。守護者としての段階はレノーラを上回っており、格で言えば次席帝級に狙いを定めるところまでの到達度だ。エルヴィは畳んだ蝙蝠の翼の後ろでロティエルを隠すように立ち、自らも即応出来るように構える。彼女の後ろでロティエルがクラシカルな拳銃を取り出し、銃口の狙いをルスケスに合わせる。その挙動を終えると同時に、ルスケスとヴラドが揃って掻き消えた。
「…始まりましたな」
『ええ、始まりましたね』
大きく開けた空間の只中に取り残された格好で、ロティエルとエルヴィは短く言葉を交わした。
ヴラドとルスケスはこの場から消えたようにも見えるが、そうではない。彼らは2人の間近に居るのだ。間近に居て、前回よりも更に速度を増した格闘戦を繰り広げている。無数の風切る音が遠くと近くに絶え間なく聞こえ、その音の至近に居れば誰あろうと生きてはいられない。
ヴラドは異能合戦に持ち込まれぬよう心掛け、しかし拳の応酬に応じるのはルスケスの気紛れであった。この地域全体を業火に包むなど、2人にとって容易い。が、それでは石柱の破壊に支障を来たす。出来れば救いたい市井の人々も最終的に助からなくなる可能性がある。それを踏まえ、ヴラドは選択肢の幅を極端に狭める不利を承知で肉弾戦に特化している。エルヴィは気高く慈悲深いドラキュラに、心の中で謝意を述べた。
と、ロティエルが唐突に拳銃で撃った。驚くべき事に、その銃弾は違わずルスケスを撃ち抜いてみせた。
「おっと」
胸元を押さえたルスケスが一瞬姿を見せ、ヴラドの掌低が狙い違わず咽喉に叩き込まれた。ルスケスの体が何度も回転し、地面を削りながら吹き飛んで行く。追い討つ為にヴラドが軽く地を蹴る。また彼らは視界から消えた。
『よく当てましたね』
「正直偶然に等しいですよ」
驚嘆するエルヴィに、間断無く拳銃を構えたままロティエルが答える。
「ルスケスはヴラド公に集中しております。よってあれだけの速度でも、散漫な注意力を捉える事は出来ます。尤も実力五分、勘が九割五分といったところ」
『痛えじゃねえか、クソボケが』
言い終える前に、ルスケスの声が2人の間近に響いて来た。ロティエルの側面に陽炎の如くルスケスが出現する。銃を向ける前にルスケスの指先がロティエルの首元に伸び、しかしヴラドが体ごと突貫して斬首を防いだ。
ルスケスとヴラドが組み合いながら一直線に跳躍し、地面に一度二度とバウンドする。しかし直後、ロティエルとエルヴィの間近に、体をくの字に折り曲げたヴラドが弧を描いて弾き飛ばされてきた。即座にヴラドが立つ。しかし上体がふらつく。彼の胴体には大きな穴が空いていた。
「えへ。えへへへへ」
体にまとわりついた埃を払い、ルスケスが哂う。心底嬉しそうに哂う。分かっていた事だが、正面から遣り合ってヴラドに勝ち目は無い。決死の覚悟のこちら側に対して、ルスケスは間違いなく遊んでいる。それなりについて来られる手合との戦いを、ルスケスは堪能しているに過ぎない。しかしながら、それがエルヴィ達の狙い目だった。ルスケスの慢心は今や頂点だ。
ヴラドは回復途上の体を震わせ、聞いた事も無いような獣の絶叫を放った。それは始まりの合図である。
『よくもヴラド公を!』
エルヴィがロティエルの前面に出て翼を広げた。隣にヴラドが進み出る。ロティエルは銃を仕舞い、代わりにミニチュアの剣を握り締めた。タロスの剣だ。
『ルスケス!』
エルヴィとヴラドが同時に地を蹴る。守護者とドラキュラが一斉に襲い掛かるその裏で、ロティエルは静かに姿を消した。彼が持つ異能、『韋駄天』の発動。
消えたと同時に、ロティエルは別の場所に居た。既に石柱は攻撃可能範囲内にある。出現と同時にタロスの剣の真の姿は露出させている。ティターンすら叩き切る巨大な異形の剣を。
体を捻らせて刃を石柱に叩きつける。ただそれだけの動作をロティエルは捨てた。それでは遅い。遅過ぎる。代わりに彼は、真正面へとタロスの剣を振り下ろした。その挙動の方が僅かに速い。僅かな時間差が、結果ロティエルの命を救った。
斬撃が中途半端に食い止り、衝撃がロティエルの腕から足先へと伝播する。少し離れた先にルスケスが居た。生存本能に駆られて放った面打ちを、ルスケスは掴み止めている。物理的重量10トン超、加速が上乗り破滅的な運動エネルギーを叩き出したタロスの剣を、ルスケスは片手で抑え込んでいた。
「うへ、吃驚仰天であるぞよ。防御もせずにこんなもんを貰ったら、さすがの俺様も真っ向唐竹割り」
言いながら、ルスケスは空いた掌から鈍く光る槍を出現させ、無造作に突き上げた。
「あらよっと」
上空から襲撃せんとしていたヴラドを槍が撃ち貫く。
「ほいさっと」
片足で蹴り上げる格好の遥か先で、横合いから突撃したはずのエルヴィが家屋の壁を突き破りながら弾かれていた。
タロスの剣を元に戻し、ロティエルが飛び退って身構える。すぐさま立ち直ったヴラドがロティエルの傍に立ち、ルスケスを挟んで反対側にエルヴィが回る。
対してルスケスは掌をはたきつつ、特に反撃する様子も見せなかった。ただただ困ったような顔で曰く。
「もう一度言うぜ。汝ら、俺を舐めてんのか?」
襲撃の初手は防がれた。
しかし状況は絶望的ではない。既に石柱の間合いを捉え、必ずや空隙を狙う機会を窺えるはず。エルヴィとロティエルはそのように信じた。ヴラドは彼らの思いに命を賭けて殉じようとしていた。しかしルスケスは、鼻で笑った。
「そろそろ面倒臭くなって来たわ。もういい。死ね。特に娯楽的要素も無く死ね。…ん?」
ルスケスがツイと顔を石柱の方へ向ける。直後、石柱に榴弾が激突し、炸裂音と爆風が広がった。
『ドグですか!?』
エルヴィが喜色満面で射撃の元を視線で辿る。が、その顔は徐々に怪訝なものとなった。ロティエル、ヴラドも然り。あまつさえルスケスまでも。
「おい」
ルスケスがヴラド達に問う。
「何ぞや、あの奇怪なる生物は」
<悲惨物語>
『けっ、一撃では壊れんのか』
カースグスタフを縦に構え直し、ドグは一旦迂回して石柱から距離を置いた。石柱の近辺にはノブレムの面々とルスケスが居る。ルスケスの注意がこちらに向かうのは好ましい状況ではない。
手応えは確かにあった。石柱が物理的に破壊出来る代物である事を、実際に榴弾を命中させたドグは理解している。
ただ固い。恐ろしく固い。過剰なまでに固い。あれを破壊する為に、どれだけ榴弾をぶち込まねばならないかと思うと、ドグの意識は危うく遠のきかけた。そうは言ってもカールグスタフに装填して射撃という一連の動作を延々繰り返していては日が暮れる。それ以前にルスケスに八つ裂きにされてしまう。もしかしたら石柱には、もっと効果的に打撃を与える手段があるのかもしれない。ドグはそのように予想した。
(御主人様)
『何だ』
(だっせえ肉の塊が追いついてきたわ)
ルクスの忠告に従い周囲を見渡すと、確かに両脇から挟み込むようにして重犯罪者壱号・弐号が距離を詰めて来ている。ルクスの脚力も大概だが、連中の速度はその少し上だ。
『全く、性懲りも無え』
ほとほと嫌気が差しました。かような溜息を伴う呟きと共にドグは反転し、一先ず壱号の真正面に向けて突撃した。
嫌気が差したと言えば、それは今の自分の姿である。ドグは相対速度も相俟って、凄まじい速さで迫り来るマペットを睥睨しつつ、己が顔をペチペチと叩いた。
見た目で言えば下半身が馬、上半身が人間のケンタウロスであった。人馬とも言う。ルクスはドグを自らの背に乗せる事に喜びを表現していたが、詰まるところその理由がこれだった。ルクスという水妖は、主が騎乗する事によって最大の真価を発揮出来る。胆力と脚力は並大抵ではなく、その姿も大きくバランスを欠いていた。
下半身が馬。胴体は人間。どういう訳か、頭が再び馬。
『俺の顔を返せよ!』
(御主人様、凄く格好いいよ)
怒鳴り声を上げつつ前脚を上げ、ドグは走り込んで来た壱号を踏み潰した。
『俺の顔を返せーッ!』
(肉片、肉片、肉片)
木っ端微塵になるまで壱号をガスガスと踏みならし、おもむろにドグは後脚で寄せてきた弐号を跳ね上げた。バラバラになった五体と共に弐号が吹き飛ぶ。
ドグにとっては不幸かもしれないが、この展開はアウター・サンセット襲撃に際して功を奏した。
本来カースド・マペット2体の出現は、ルスケスと同時の対応を迫られるという意味で脅威となっていたはずだ。マペットは決して雑魚ではない。むしろ恐ろしく強い。石柱を破壊すれば消失するだろうが、それまでは幾ら切り刻もうが何度でも復活してくる、非常識なこの世ならざる者だ。
しかしドグとルクスの方が、それ以上に非常識だった。エセケンタウロス化した2人の組み合わせは、殺せはしないまでもマペットを容易く蹂躙出来るほどの力を有している。かつてカースド・マペットを倒す為に苦心惨憺を強いられたハンター達が、この状景を見た暁には何と思うだろうか。
一頻りマペットを捻り潰し、ドグはその場を離脱した。そして遠くのノブレム隊に聞こえるよう、腹の底から声を張り上げた。
『マペットどもを蹴散らしながら、石柱を狙う! 何とか場を持ち堪えてくれ!』
「ヒヒーン! ヒヒヒーン! ヒヒヒヒヒーン!」
「何言ってんの、あの変な馬」
ルスケスが再びヴラド達に問うた。
その途端、ヴラドの肘とエルヴィの足裏が同時にルスケスの胴体を抉る。ルスケスを地区西端に程近い場所まで紙屑の如く弾き飛ばし、2人は機を逃さず追撃を仕掛けた。
残るロティエルもすぐさま行動を開始する。今は正しく千載一遇の好機だ。再度タロスの剣を伸長させ、後背に置いて構える。狙うは石柱。
タロスの剣が百八十度の弧を描く。その剣尖は狙い違わず石柱へと振り下ろされた。周辺から巻き上がる土煙が、衝撃の凄まじさを物語る。しかし石柱は全く損壊する事無く、同じ場所で屹立していた。
「馬鹿な!?」
図らず怒鳴り声を上げ、ロティエルは水平に構え直して横薙ぎを見舞った。結果は同じだ。
タロスの剣を収縮させ、気ばかりが焦る面持ちでロティエルは拳銃を取り出し、石柱へと歩みながらひたすら弾を撃ち込んだ。別方向からドグが放った榴弾が再度炸裂する。身を翻して破片を避け、ロティエルは顔を上げた。石柱は、嘲笑うかのように聳え立っていた。
「ロティエル!」
石柱の間近で忌々しくそれを睨むロティエルの元へ、ドグが勢い良く駆け込んで来た。忸怩たる面持ちのままドグと目を合わせ、ロティエルが言う。
「馬はどうされたのですか」
「あまり突っ込まんでくれ。マペット共はルクスに任せておいたぜ。しかしこりゃ、どういうんだ?」
ナイフを取り出し、ドグが石柱に突き立てる。当然の如く弾かれ、先端が折れ飛ぶ。クソが、と呻き、足裏で蹴りを見舞う。
「シューティングゲームのボスキャラよりも固えな、おい」
「破壊出来ないのでしょうか」
「いや、出来る。通用はしている」
「分かるのですか?」
「分かる。何でか知らんが分かるんだ。しかし耐久値が半端無え。ああもう、ゲームだったら何か抜け道が用意されているもんだけどなあッ!」
「こんな地獄直結のゲームは御免ですよ」
敢えて気抜きの台詞で応じつつ、ロティエルは思考を廻らせた。
事の前に懸念はしていた。地下真下界の「真の石柱」と、アウター・サンセットのそれは対になっているのではないかと。真下界の方をどうにかしなければ破壊が出来ないのであれば最悪だ。そうこうする間に自分達はルスケスによる「面白い死に方」の実験台となるだろう。ドグの言っていた通り、何か抜け道があるはずだ。何か。
ふと、ロティエルは堂々巡りを止めた。真下界の石柱は、どのようにすれば破壊出来るかに思い至る。あれはサマエルとの思想合戦を制する必要があり、物理的に破壊出来るというアウター・サンセットの石柱とは著しく趣が異なる。しかし石柱は似たもの同士だ。ならば何処かで破壊に至る解に共通要素が存在するはずである。
「真下界の石柱は、人間でなければ対処出来ない」
ロティエルはドグを見た。無骨な彼の顔が、今は救世主の如く輝いている。ドグには破壊可能の感触があり、自分には手応えが感じられなかった。ドグは人間で、自分は吸血鬼だ。
「メイヤー卿、取り敢えず素手で殴ってみて下さい」
「榴弾でピンピンしているこいつをか?」
「いいから、早く」
ロティエルにせっつかれ、ドグは拳を不承不承構えた。そして渾身のストレートを放つ。
ゴン。
「痛えよ畜生!」
飛び上がって踊り回るドグをさて置き、ロティエルは石柱を凝視した。ドグの拳は血が滲み、石柱の方にもそれが張り付いている。目を凝らせば、其処に僅かな亀裂が見て取れた。ロティエルが掌でその箇所を叩く。今までビクともしなかった石柱が拳大の破片を散らし、僅かだが砕けた。
「そうか…人間の血が抜け道という事ですか。メイヤー卿!」
まだ飛び跳ねているドグに、ロティエルが力強く言った。
「出来るだけ沢山の血を石柱にぶっかけて頂きたい」
「鬼かよ」
<美徳の不幸>
※ヘンリー・ジョーンズ博士の手記より
次席や三席といった帝級達、かつての仕える者共に新租系列のノブレムの面々。彼らに様々な異能が備わっているのは、とどのつまり奇跡を顕現する天使の残滓に因っている、という訳だ。吸血鬼のルーツが天使を祖とするのは、相当に皮肉の効いた話である。
吸血鬼という存在を世に放ったのはサマエルの意図するところだが、何故そうしたかについては、サマエル特有の思想と倫理が理解の邪魔になっている。ただ、もしかすると吸血鬼とは、悪魔をサマエルなりに再構築したものではないのだろうか。
何故悪魔(勿論「名も無き神」の教義において)が存在を許されているのかを、時に人々は考える。あれだけ猛威を振るうルシファやサマエルを、思惑一つで粉微塵に消し去るほどの神が何故? 隠遁する今とは異なり、悪徳一切に死の制裁を課していた苛烈極まりない頃であっても、矢張り悪魔が同時平行して存在している。
ここで私はアンラ・マンユを思い出す。悪という役割を敢えて担っていたゾロアスター神の事だ。制御出来ない災害疾病、そして悪が、超常的象徴となるよう人々が願った結果、ダエヴァはそれに応じて悪神になったと、かの神は言っていた。悪魔が人間の悪徳を凝縮した形である事の意味が、それで伺える。つまり名も無き神は悪魔を許容しているのではない。人間が悪魔の存在を望み、名も無き神はそれに従っているに過ぎないのだ。
悪魔とは人間の事でもある。人間は身の内の悪魔と戦い、乗り越える必要がある。それが出来ない者は容易く悪魔そのものに成り果てる。それが悪徳を抱えつつ善なるところを目指そうとする、人の葛藤である。悪魔は言ってみれば乗り越えるべき壁だ。
サマエルは自らの閉じた世界を構築するにあたり、これを独自解釈したのかもしれない。彼も事を起こした際には悪魔を存分に利用していたが、その立ち位置を何れ吸血鬼に成り代わらせる。カスパール亡き今、それは現実のものとなりつつあるようだ。 (注:つまりカスパールの消滅もサマエルの規定路線だったのか? それを承知していた気配がカスパールにはあった)
それでもサマエルにとって、吸血鬼の人としての部分が死力を尽くし、ここまでの抵抗を仕掛けてくるのは想定外であっただろう。
撃ち込んではやり返され、また飽く事無く攻めて弾き飛ばされる。ルスケスとの戦いは、その繰り返しである。エルヴィは何度でも立ち上がるヴラドを目の端に置き、次いで首を鳴らしつつ余裕の表情を見せるルスケスを睨んだ。
実際にルスケスと交戦して分かったのだが、攻める際の彼の引き出しは然程多くない。配下のジルや仕える者達が、天使由来の劣化した奇跡を起こしてくるに比して、ルスケスの場合は基本的に格闘戦を好むきらいがある。勿論、他の手数も残しているだろう事は、先にヴラドを串刺しとした『槍』の件でも明白である。
ただ、その格闘戦が極めて厄介だった。確かにヴラドとルスケスの実力差は大きく離れているものの、有効打は皆無でなかったはずだ。それでもルスケスに根本的な打撃が通っているようには見受けられない。こうして時間を保たせていられるのはヴラドが居り、且つ守護者として彼らに追随する自分が居るからだが、それも既に限界である。
(矢張り石柱をどうにかしなければならないと…)
それまでは敵をこの場に釘づける必要がある。エルヴィは唇を噛み、腹を括り、己が心に呼び掛けた。
ラナ、猟犬、聞こえていますか? と。
かつてのアーマドの面々は、尽く今のヴラドが再起する為の糧となっていた。が、それに同調出来なかった3人の魂が、大なり小なり新租の系列達に影響を与えている。猟犬はその1人であり、エルヴィは「猟犬」と「神父」を身の内に憑依させていた。ノブレムの幾人かはエルヴィ同様、アーマドの残留意識との共闘を此度に試みている。尤も、その呼びかけに応じる効果の大小は不確定だった。相乗を発揮出来るか、或いは無いよりはマシな程度なのか。
どちらでも良い、とエルヴィは思った。あんなルスケスと戦う為に、助力を得られるならば何にでも縋ろうと。少しでも時間を稼ぐ為、ほんの僅かでも力を。
ネイルチップを擦り合わせ、エルヴィが前傾姿勢を取る。ヴラドが目を剥いてエルヴィを凝視し、ルスケスもまた「ほう」と感心したように声を上げた。
「知っているぞえ、てめえの事をさ」
駆け出す、というよりは発射の勢いでエルヴィが突撃し、無数の手数をルスケス目掛けて繰り出した。腕がゴムのようにしなり、一撃が鉄槌の衝突を上回り、それらが不確定な軌道でもってルスケスの首を狙う。対してルスケスは冷静に、尽く払い除ける。しかしその顔に然程の余裕は窺えない。それでもルスケスは、普段の癖の通りに軽口を叩いた。
「妙な馬力を出してきやがったな。ええ、嬢ちゃんよ」
エルヴィは応えず、上体を横にずらした。その空間から黒い塊が迫る。ヴラドがルスケスの喉もとを手刀で打ち抜く。戦いを開始して以降、ルスケスの顔が歪むところを2人は初めて見た。
が、ルスケスは指一本触れずにヴラドの手首から先を消失させ、傷痕もほぼ一瞬で掻き消した。尚も追撃するエルヴィとヴラドに、ルスケスが掌を向ける。透明な壁にぶつかったように、2人の突撃が食い止められる。ルスケスは彼らから顔を逸らした。戦いにおいて絶対やってはいけない挙動であるにも関わらず。ルスケスは下卑た笑みを浮かべ、別方向、石柱の方角へと語り掛けた。
「解を見つけたのかよ。参ったねこりゃどうも」
えへらえへらと笑うルスケスに、ヴラドが顔をしかめて怒声を放つ。
「何を言っているのか、貴様は」
「ドラ公うぜえ。黙らぬと首でお手玉であるぞ。おいてめえら。石柱で遊んでいるてめえらだ。いいのか? そいつを壊しても」
ルスケスの言葉を受け、エルヴィとヴラドが目を合わせた。
どうやらロティエルとドグが、石柱の破壊に成功しつつあるらしい。それは最大目標の達成が近い事を意味し、この局面での勝利という事でもある。にも関わらず、ヴラドとエルヴィは焦燥を露としていた。ルスケスの言わんとするところに、何らかの裏があると見たからだ。
ナイフで掌に切れ目を入れ、溢れる血を石柱に塗りたくり、ドグはその箇所をひたすら破壊するロティエルを半ば恨めしげに見た。
石柱は人であるドグの血によって素早い粉砕が可能になった。しかし石柱がまたそれなりに太い。血を塗っては少しずつ壊すという作業を繰り返したが最期、自分の血は底を尽くのではないかとドグは思った。
「牛の血、飲みますか?」
「勘弁して下さい」
ロティエルの親切心による提案をきっぱり断り、ドグは再び掌をナイフで切り裂いた。最早痛いなどという生易しい感覚も失せている。と、脳裏にルクスの声が響いてきた。
(御主人、御主人さまーん)
「うるせえルクス。語尾を延ばすな」
(そんな事より、一匹そっちに行ったわよ)
「何!?」
顔を上げれば、奇怪な肉塊が一匹、美しいストライドで走って来る様が見えた。思わずドグが喚く。
「この役立たずがぁ!」
「いえ、大丈夫ですぞ」
ロティエルは冷静に空いた左手をマペットの方へ向け、タロスの剣を開放した。砲弾の如く射出した剣尖がマペットに衝突し、勢い遥か彼方へと吹き飛ばして行く。その方角から、ポンポンと手足が放り上げられる様が見えた。恐らくルクスが嬌声上げつつマペットを八つ裂きにしているのだろう。ドグは息つき、その後怪訝な目でロティエルを見た。ロティエルも同じ顔でドグを見ている。
「聞こえたか?」
「ええ、確かに」
『いいのか? そいつを壊しても』
今度は確実に第三者の声を2人は聞いた。声の主は分からぬはずもない。ルスケスだ。
『確かにそいつを壊されるのは痛えよお。痛過ぎなんだよお。だがしかしだ。そいつぁ俺の体を完全不滅にすると同時に、こちとらに繋ぎ止めておく縛めでもあるのだよ。思考する天然災害だぜえ、俺様は。こんなちんけな街、灰燼にしちまうぜえ?』
ロティエルの破壊の手が止まる。ドグもだ。2人はルスケスの台詞がはったりではない事を直感的に察した。しかし逡巡で浪費する時間は無い。やるか、止めるか。ドグが唾棄と共に言った。
「灰燼にされるよりも前にブッコロだぜ」
「左様、ルスケスはブッコロですな」
ドグとロティエルが容赦なく破壊を再開する。そして僅かな間を置いて、鼻で笑うような声を2人は聞いた。立て続けて彼らは、突如聳え立った炎の壁を遠くに見た。
「どうも壁が迫っているかのような」
「やべえ」
2人の懸念の通り、炎の壁は津波の如く石柱に向けて押し寄せてきた。が、彼らの前を痩身長躯の人影が遮る。ヴラドだ。
数秒で石柱の場を炎の壁が押し切り、消滅する。炎はドグとロティエルに到達しなかったが、全身で受けたヴラドは様相が異なる。彼の体は粗方炭化し、四肢がバラバラに砕けて地面に落ちた。
「ヴラド公!」
『手を止めては駄目!』
声と同時に、組み合い縺れるルスケスとエルヴィが地面を削って突出した。しかし叩き伏せてから起き上がるルスケスにエルヴィがしがみつき、また叩き伏せられている。彼女は健闘しているが、もうルスケスを抑え込めはしまい。ドグの判断と割り切りは早かった。
「ロティエル、これを」
ドグは水筒から先端を尖らせた赤黒い氷をロティエルに手渡した。
「手順は変わっちまったが、お前さんなら奴の心臓にぶち込める」
「なるほど、これは!」
頷き、ロティエルは『韋駄天』を発動した。
そして同時にルスケスの真正面に立ち、体ごとぶつかって氷のナイフを心臓目掛けて捻じ込む。ルスケスの膝が曲がり、地に付いた。
「何だこりゃあ!?」
答えず、ロティエルが即座に姿を消す。それはルクスの血で作られた氷だった。カスパールによって召喚された吸血鬼の天敵の、その血はルスケスにすらも通用する麻痺毒となる。ルスケスは息を喘がせ、ケッ、と呻いた。必死に体を起こそうとするエルヴィを顧み、次いで手首を切り裂こうとするドグ、四肢を復活させたヴラドを見る。
「全く、最低だぜ」
ルスケスは笑った。
動脈を切って大量の血を噴出させ、ドグが夥しい血痕を石柱に浴びせる。ヴラドはよろめきながらも拳を引き、死力を振り絞って石柱を撃ち抜いた。
石柱が遂に折れ曲がる。ゆっくりとその身を倒れ込ませるその途上、石柱はぼんやりと輪郭を揺らし、地面に落着する直前、嘘のように消滅した。
「お、崩れた」
2体まとめて馬乗りの格好で殴りつけていたマペットが、ぐずぐずと肉体を崩壊させて行く。ルクスは終焉を理解し、薄笑いを浮かべてその身を主の中へと戻した。
アウター・サンセットの状景も大きく入れ替わる。
終らない昼は夜の帳に追いやられ、溢れ返る緑はコンクリートとアスファルトに再び呑まれた。残されたのは、破壊の痕跡の数々である。ルスケスによって蹂躙された住宅街は、月夜の下で痛々しい姿を晒している。それでも、アウター・サンセットは再び人間の領域へと立ち返ったのだ。
「ロティエル!」
ヴラドが大声を発し、応じてロティエルが傍に控える。
「彼にもう一仕事をして頂く。ロティエルは助力をせよ。この街の住人を救うのだ」
「分かりました」
「全く…情容赦が有るのか無いのか」
白い悲壮な顔でありながら、ドグは軽口を叩いてみせた。止血はしていたものの半死半生のドグをヴラドから託され、ロティエルが彼を背負って閉目する。
「今ならば、人一人を抱えても跳躍出来ます」
ロティエルは単独行使しか出来なかった『韋駄天』を進化させていた。2人の姿が目の前から消えると、ヴラドは静かに呟いた。
「これで準備は整った」
ヴラドの後方から発せられた無数の光弾が、彼の体を打ち貫く。またも四肢が欠損し、胴体を穴だらけにされ、しかし首は皮一枚で繋がるという姿にまで追い込まれる。次いで彼の隣に、両足をへし折られたエルヴィが投げ込まれた。
「ヴラド公」
力無くエルヴィが言う。
「済まぬ」
と、ヴラドは言った。
「よくもやってくれたなあ、ええ?」
何時に無く落ち着いた声音と共に、ルスケスがゆったりとした足取りで歩んできた。
『逃げろ』
ドグのその一声で、アウター・サンセットの虜囚達には充分意思が伝わった。
家屋から必死の形相の市民達が、慌てつつも整然と区域から離脱して行く。その中に、最初に出会った初老の夫婦の姿を認め、ドグは安堵の息をついた。自分に肩を貸してくれているロティエルに謝意を述べ、それでもドグは念の為に一言を付け加えた。
「今、あんたに吸血本能を発揮されたらイチコロだな」
「大丈夫ですよ。かように不条理な終わり方など私は認めません」
2人はからからと笑って、やがて沈黙した。
この終わり方は十分以上である。目標である石柱を破壊し、長らく囚われていた市民達も解放する事が出来た。模造吸血鬼を新たに作り出す術は失われ、ルスケスの不死性も意味を無くした。後は真租ルスケスの抹殺という大仕事を残すのみだ。たとえどれだけの犠牲を払おうとも。
「例の札をくれた娘は、エルヴィって子はどうなる?」
ぽつりとドグが問う。
「ヴラドは一体どうなっちまうんだ」
「両名生きては帰れますまい」
声から極力感情を排し、それでも断腸極まる思いでロティエルは答えた。
<精神の怪物>
ルスケスの考えている事は、かつて最も近しい場所に居たヴラドでさえもよく分かっていない。
アウター・サンセットのシステムを石柱破壊によって反故とされ、模造吸血鬼も作り出せず、自らの不死も損ない、且つ住民達が全て逃げ去るという凄まじい敗北を目の当たりにしながら、ルスケスは全く屈辱らしいものを感じていないようだった。理解の困難な精神性である。
ルスケスは、特にどうとも思わぬ、とでも言うかのような目線でもって、横たわる守護者と反逆者を見下ろした。最早彼らに反撃する力は残されていない。対してルスケスは、真の姿を露出する事無く彼らを粉砕した。その結末が如何なるものかを、この場の3人は知っている。
「全く、馬鹿な連中である事よ」
肩を竦め、ルスケスは言った。
「これで俺は外に解き放たれたのだ。汝らは俺を抹殺する術を得られたかもしれんが、街全域を戦場にするくらい俺にゃ訳ないんだぜぇ? 先ほどから兄者に呼び掛けておるのだが、返事が無い。さすれば好きにせいと俺は解釈せざるを得ぬ。これより大破壊だ。大虐殺だ。最低でも一万人くらいは迷える子羊を殺してやるぜ。ご苦労さんであったな、愚か者共よ」
「…そうはならぬ」
ヴラドが不自由な身を起こす。
「そうなる前に、必ずや貴様は討ち果たされる。彼ら精強且つ勇猛也。積年の憤りと悲しみを一身に受けて審判を下されよ。滅びよ、ルスケス」
「おお、そうだった。俺は滅びる者になったという訳だ。しかしながら、俺に死を与え得るは新租の系列のみ。であるなら、彼奴の首を飛ばせばシメエじゃねえか。結局万事元通りよ。ついでに言えば、俺より先に滅びるのはおめえらの方だろうが、ボケナス」
ルスケスはバタフライナイフを取り出し、刃を剥いた。人間が扱う卑小な刃物で、2人を切り刻もうというのだ。ルスケス自身は凡そ平板な精神状態と言えたが、最期まで歯向かった彼らに対し相応の報復をすべきと、それは本能に拠る行動だった。
が、ルスケスは片目を細めた。守護者のエルヴィが、ウラドににじり寄って何かを囁いたからだ。この期に及んで逃げる算段かとルスケスは白けたが、戸惑うヴラドの顔を見て、それはどうやら違うらしいと感付いた。
ヴラドは困惑しつつもエルヴィの肩に手を置き、言った。
「それには応えられぬ。しかしせめて、苦しみと恐怖から汝を護ろう。情けない事にそれが私の、君に報いる精一杯だ」
ヴラドがエルヴィを懐に寄せ、ルスケスから隠すように覆い被さった。ハン、と小馬鹿にした息を吐き、ルスケスがバタフライナイフを仕舞う。そして掌を2人に向ける。一撃で殺すのがせめてもの情けだと、彼は考えを改めたのだ。
(ほう、せめてもの情けとな?)
自身の考え方の変化を楽しみ、ルスケスが呵呵と声を漏らす。しかしルスケスは、何故そのような心理的変化が発生したのかについて、注意を払う事はしなかった。
終わりだ。
いいや、終わりではない。
ルスケスは掌を下ろし、眉をひそめた。
彼奴らを断ち切る。
いいや、まだ続く。
ルスケスから一切の表情が消えた。そして先ほどから声を届ける些細な、且つ異様なものの根源を目で辿る。その先には、夜闇で佇む人の影があった。
影が闇に映える白い牙を剥く。笑ったのだ。そして何かを頭上に掲げた。鋭敏なルスケスの視力がそのものを捉えると、彼は顎を外さんばかりに驚愕した。人の首である。その首は、か細く、それでいてしかと届く声で呟いた。
「ル、ルスケスサマ…」
「おおう、おおお、おおおお!?」
ギヒャアと嬌声を残し、影は首を力任せに放り投げ、姿を消した。狂わんばかりの悲鳴を上げ、ルスケスはアスファルトを転々とする首に追い縋る。
それは常軌を逸した光景だった。突如割り込んだ第三者は、ルスケスがこれまで見せた事の無い感情表現を引き摺り出し、当のルスケスも状況を一切慮る事無く「恋人」とやらの元へと走り去ってしまった。
しかしエルヴィは、訳が分からないなりに好機を見出した。厳しい顔で成り行きを見ているヴラドの肩を揺する。
「何故そのような顔を。いや、それどころではない。脱出しましょう!」
「…そうだな」
2人は即座に場を離れた。横目に首を掻き抱くルスケスの姿が一瞬映ったものの、攻撃を仕掛ける頭は2人には無い。
「教授」
離脱の途上、小さくヴラドが呟くのを、エルヴィは聞き逃さなかった。
「まだ生きて成すべきがあると申すか」
ヴラドは自嘲気味ながらも、先よりは晴れた顔になっていた。が、それも長くは続かない。
先のクロスロードで、手を振って合図を寄越す者が3人居た。生還を祝って喜色満面のドグとロティエル。そして屈託無く笑う、もう1人。
<VH2-7:終 H7終了時以降、最終のVH3に他シナリオと合流します>
○登場PC
・エルヴィ・フォン・アスピヴァーラ : 戦士
PL名 : 朔月様
・ドグ・メイヤー : ポイントゲッター
PL名 : イトシン様
・ロティエル・ジェヴァンニ : 戦士
PL名 : Yokoyama様
ルシファ・ライジング VH2-7【精神の怪物】