<出立の前に>

 腹を蹴って、殴って、これでもかと蹴って、エルヴィ・フォン・アスピヴァーラは得体の知れない被り物男を、ようやく部屋から叩き出して扉をふさぐ事に成功した。エルヴィの背後には、言いたい事は多々あれど筆舌には尽くしがたい、という顔で成り行きを見ていた新祖ジュヌヴィエーヴが居る。更に後ろのベビーベッドには、人間の赤子の姿を取り戻したミラルカが小さくぐずっていた。

 ミラルカを養父である風間から預かったジューヌだが、その気遣いたるや中々に大変だった。まず、子育てのノウハウが全く無い彼女にとって、赤ん坊の世話などは一から十まで新鮮な経験である。夜泣き、ミルク、オムツの交換と、目の回るような忙しさだったが、自身が人として意義深い事をしているとの充足感に満たされて、それはそれで良い。問題はミラルカが人間である事だった。戦士級からは隔離する必要があり、都合この部屋には限られた者しか出入り出来ない。2人の帝級、月給取り、吸血衝動が消えたエルヴィ等。その点で言えば先の被り物も入室可能の条件に当てはまる。ただ、彼は存在そのものが教育上よろしくないとの認識で全員が一致していた。

「あら、まだぐずっていますわね」

 一息ついたエルヴィは、寂しく泣いているミラルカに注意を向けた。既にジューヌが抱き上げて、おっかなびっくりの風体であやしているものの、泣き声は少しずつ大きくなり始めている。エルヴィも参加したは良いが、矢張り経験の無さが泣き声に比例する羽目となる。二人が困り果てたところで、再び扉が開いた。マリーア・リヴァレイと、ヴラドだった。

「先刻、被り物がたそがれていたのだが、あれは?」

 と、マリーア。エルヴィが鼻を鳴らす。

「あれは感受性が欠如していますので、何れムクムクと復活します」

「まあ、そうだな。どれ、私に抱かせて貰えないか? こういうのは本職だったから」

 ジューヌからミラルカを預かり、マリーアは緩やかに、且つリズミカルに体を揺らした。ミラルカの耳元で小さく歌を歌い始めると、しばらくもせぬ内に赤ん坊はぴたりと泣き止み、深くたたえる黒目でもってマリーアを見詰めた。ジューヌがげんなりと肩を落とす。

「心のありようの問題でしょうか?」

「子供は感覚が鋭い。他人行儀にしていては、あっさりと見抜かれてしまうという事よ」

 ミラルカをマリーアから返してもらい、ジューヌは半ば必死の笑顔で同じようにあやし始めた。そして再び、小さくぐずる声が聞こえてきた。

 悪戦苦闘のその様を、ヴラドは微笑ましく眺めつつ、あまり人前では見せない笑顔のままソファに座った。コーヒーを出してくれたエルヴィに礼を述べ、彼女とマリーアにも着座を促す。

「気付いているかもしれんが、新祖殿は人格が少しずつ変わりつつある」

 コーヒーを啜りながらヴラドが言ったその言葉を受け、2人は複雑な面持ちで顔を見合わせた。確かにジューヌは、以前には無かった風格を醸し出そうとしている。人間離れしているかのような錯覚と共に。しかしそれは、恐らく錯覚ではない。

「危険な人格へと変貌する訳ではない。しかし人の領域に踏み止まろうと新祖は努力しておられる。それはとても良い事であろう。赤子の世話をするというのは、実に喜ばしい。ハンターは良い考えを持ち込んでくれた」

「でも、どうしていきなり、ジューヌはあのような雰囲気になったのですか?」

「ルスケスがかつて捨て去った善き心が、彼女に勃興しつつある、という事だ」

 ひどく普段着の調子でヴラドが言ったので、2人は遅れてその台詞の重大な意味に気が付いた。呆気に取られた顔の彼女らを前にして、ヴラドは口元を引き締め、身を乗り出してきた。

「さて、危険な偵察行の前に、少し昔の話でも語ろうか」

 

天使達の崩落

「奴は完璧だと、俺様は勘違いした訳だ」

 得体の知れない液体をなみなみと注いだグラスを傾け、真祖ルスケスは半笑いを含みつつ言った。

「兄者は親父殿からひとかどの寵愛を受けているがゆえ、他の者には許されぬ力があったのだ。御使いを生み出す力。即ち創造。そんな力、ルシファやミカエルだって持っちゃいねえ。ジル、それにヴラド。おめえらは、兄者の分け身であるという事よ。きたる大戦に向けて戦力拡充を実現すべく、人の子に分け身を宿し、俺様が呪詛を施し、先ずは人として育つを待ち、いい感じになったところで掻っ攫う。ジル、しかしおめえは出来損ないだったな。小便臭えガキにうつつをぬかし、心を移した挙句にキメエ狂い方をしやがったよな。ま、それはそれで変態吸血鬼としちゃ面白え。或る意味兄者の思惑通りと言えよう。ヴラドは違う。奴には最初から統制された狂気があった。人を律し己を律し計算を尽くし、敵も味方も殺すわ殺すわ、人の皮を被った怪物とは奴の事よ。目出度く吸血鬼へと仕上がり、期待通り恐怖の王と成り果て、これにて俺様も一旦お休み。と思っていたら、えらい事になっていやがった。ヴラドよう、おめえよう、まさか人間を愛するとか、冗談は顔だけにしやがれよう?」

 

「ルスケス一党であった頃のあなたが、狂気一心に飲まれていたというのは、間違った解釈ですね。あなたは空虚な日々を過ごして、何の為に存在するのかを自問していた。そのあなたに道筋を提示したのがアーマドの創始者、ヘルシング卿」

「まるで見てきたかのような言い方であるな?」

「実際に見ましたし、あなた御自身が語った事じゃありませんか。件の実験の最中に」

 すまし顔のエルヴィにヴラドは苦笑したが、彼女が言った内容については否定しなかった。

「私は彼の、人の心が持つ熱の力に打たれた。それは私が、魂は違えど人の肉を有する存在でもあるからだろう。結果彼らに加担し、私は反逆者と呼ばれるに至る。吸血鬼とはルスケスが人間に対して仕掛けた、血を媒介して伝染する呪いだ。この呪いを根絶するには、呪いの根本であるルスケスを打ち滅ぼす以外に無い。しかし私は、勝算も無く離反を実行した訳ではないのだ。奴を打ち滅ぼす決定的手段を携え、私はアーマドの参集に応じたのである」

 

「あ奴め、纏わりついていた俺の魂の残滓を、てめえに取り込むたぁ俺様も想像も出来なんだぜ。節制。謙譲。そしてクソの如き愛。何れも煉獄で戦い抜くには邪魔だったので、尽く叩き出してやりました。しかし消滅させるのは無理であった。何せあれらは『俺』であるゆえなぁ。しかしだ。しかしその魂、ヴラドには扱い様もあるめえ。そう思って、安心をばしておりましたという訳だが」

 

「首を刎ねてもルスケスは死なない。それは最初から分かっていた。奴はサマエルの分け身の一つだが、既に天使に似て非なる者である。煉獄で戦い抜き、数多の魂を喰らい続けたルスケスという種族を、更に喰らい尽くした怪物王なのだ。だから天使に通用する攻撃もほとんどは効かない。死に至らせるには、奴の半身をもって挑むしかない。奴が捨てた魂を継ぎ、新たな祖を作り出し、その影響下にある吸血鬼達の力を結集し、ルスケスはルスケスによって葬り去る。これを実現させるべく、私は祖の役回りを担おうと試みたが、叶わなかった」

「何故なのです?」

「私も魂をサマエルに分けられた身であるからだ。この世の精神世界を張り巡らせたるは人間。古き神々は、人間の想像力に導かれた旧種族。しかし名も無き神は、人間が形作った想像力の権化。知らぬであろう、人間は。天使、悪魔、そして名も無き神、その生殺与奪を握っているのは他でもない、人間自身であるという事を。しかし全世界の人間の意識を『名も無き神、滅びよ』と、統一する事は不可能なのだ。だから人間には手も足も出せぬ歴然たる力の差が、皮肉にも人間の想像力によって存在している。これが並の手段をもってしては、人間に天使と悪魔は殺せぬ故の道理也。それでもルスケスを抹殺するのみならば、人間の魂と奴が捨てた魂を結ばせる事で、為せるのだ」

 

「最初は笑った。凄く笑ったぞよ。物凄え無駄な所行である事よと、大いに笑ったものである。しかしてめえの血に残滓を凝縮させ、馴染むオペラリオの出現するを待ち、そいつに輸血を施すとか、どんだけ気の長えやり方なんだ。其処までして俺様を滅ぼしたいかよ。嗚呼、滅ぼしたいのかよ」

 

「…つまりオペラリオ、月給取りが新たな祖になり、私が守護者になる境目は」

 空のコーヒーカップをソーサーに置き、エルヴィは慎重に言葉を選んで言った。

「血統の差に拠るという訳ですね。私とレノーラは、ジルの血統だったから。守護者があのような姿になるのもその為」

「守護者として覚醒したならば、そういう事になるだろう。少なくとも現存するオペラリオは全て我が血統。もうすぐ機は熟する」

 

「それを持って我に挑むか。面白え。かかって来いや糞虫共。俺は力と力のぶつかり合いが大好きなんだ。そして一握の希望が力で叩き潰されるのを見るのは、もっと好きなんだよおおん」

 

「ほざけ。サマエルの腰巾着めが」

 いきなり乱暴な言葉を使ったヴラドに、エルヴィとマリーアは驚いた。しかしそれは、自分達に向けられたものではないとも理解出来る。ここに居ない何者かと、ヴラドは対峙しているのだ。

 

「ゲアーッハッハ。ゲアッ、ゲアッ、ゲッゲッゲッハアッハ。おっと、中々独特の笑い方をしちまったぜ。何であるか貴様ァ。てめえも兄者と或る意味一心同体ではないか。年数を鑑みれば俺の弟である事よ。片腹痛え言い方で面白かったぜえ、僕ちゃんよう。あ、笑い過ぎて本当に痛くなってきました」

 

「私は心から愛するヘルシングと、共に行かんと決意したその時から、既に天使に纏わる尽くから独立した存在なのである。よくよく笑っているが良い。我等、汝を完全滅殺へと追い立てるもの也」

 

「つべこべ言わずにさっさと来い。ヴラド、ドラキュラ、反逆者めが。毒は一滴残らず絞り出したのであろう? 串刺し公の異名の由縁、とくと我に見せてみいッ!」

 

ハンターと吸血鬼

 夜間外出の禁止が公布されたサンフランシスコにあって、ハンターとノブレムは公権の発動からは除外されている。

 その識別にはIDカードが用いられており、何がしか武装を隠し持っていると思しき外套姿の三人は、カードの効力でもって警邏の警官から敬礼で見送られるという待遇でもって、夜の世界へと歩を進める事が出来た。

「どん底身分のハンターが警官に丁寧な御挨拶を戴けるたぁ、正に隔世の感有りってところか?」

 フードを頭から被ったフレッド・カーソンが、皮肉交じりに呟く。ドグ・メイヤーは鼻を鳴らして、フレッドの軽口に付き合った。

「その昔、俺は『向こう側』の人間だったんだぜ」

「本当かよ」

「ああ。しかしこの世ならざる者が相手では、立場もクソもあったもんじゃない。それどころか人種、性別、老いも若きも関わり無く、奴らは公平に脅威を及ぼしてくる。ルスケスってのは、その象徴的存在に思えるな。奴にとっては大統領も物乞いも、平等に『面白い死に方をする連中』なんだろうよ」

「面白えなあ、その言い方。ルスケスか。ルスケスねえ。次席帝級のジルであれだからな。その上のルスケスってのは、どんだけなんだろうな?」

「楽しみか?」

「或る意味な」

「その気概は出来れば持続させておいてくれ。この世ならざる者との対峙は、心をへし折られた時点で死あるのみだからな。ケイト、ノブレムからの人員はどうなんだ?」

「こちらと同じ。三人よ」

 相変わらず感情表現の薄い声音で、ケイト・アサヒナが事務的に答えた。

「計六人。威力偵察としては、まあ丁度良い。攻め込んで制圧する訳ではないからね」

「面子は?」

「エルヴィ、マリーア、そしてヴラド」

「守護者、魔女、反逆者」

「中々に個性的な集まりだな。それは俺達にも言えるけど」

「しかしヴラドが良く分からねえ。昔の話じゃ、奴は力の一切を喪失していたはずなんだが」

「曰く、力を落とす要因となった血は、全て抜き取ってしまったそうよ。地下室でミイラみたいになっていたのは、それが原因。ノブレムにロマネスカっていう月給取りが居たでしょ? 彼の精気を食らい尽くして、ヴラドは復活を遂げた。それが事の顛末」

「仲間を生贄にしたという訳だ」

「嫌な言い方をすれば、そうなるわね。ただ、それを承知で彼は再び現れた。失った力の全てを復元してね。今やヴラドは最も恐ろしい伝説の吸血鬼よ。と、ここまではカーラ女史から聞いた話」

「伝説の吸血鬼か。しかしドラキュラと人間が共同戦線を張って戦いを挑むとか、まるで安手のファンタジーだな」

「実も蓋も無い事は言わない。ところで来たわ。彼らが」

 通りの反対側から、こちらに向かって歩んで来る3つの人影が視認出来る。暗がりで面立ちまでは伺えなかったが、一際背の高い中央の男が発する気配は、矢張り尋常ではなかった。ジルとは似て非なる異様な存在感を示しつつ、背筋を美しく伸ばしたヴラドの立ち姿は理知的で、且つ底冷えする気迫を醸している。ジルよりも遥かに手強いと、ハンターとしての危機感が本能的に察知する。

 ヴラド達はハンターから少し距離を置いて立ち止まった。中央からヴラドが進み出、丁重に頭を下げる。

「貴公等の加勢に感謝する。心強く思う」

 短く礼を述べ、ヴラドは懐に腕を差し込んだ。思わず後退るハンター達は、次にヴラドが紙袋を差し出す様を、スローモーションで捉えた。

「熱い犬、という訳の分からぬ名前の簡易食である。食べるがよい。犬の肉を使っていない点は確証を得ている」

 三人は、ヴラドが買ってきてくれたホットドッグを黙って受け取った。間違いなく善意の差し入れであるので、『いらね』とはさすがに言えない。

 

 30cm近くあるソーセージがパンの両端を有り得ぬ程突き抜けるというアメリカンな代物は、食うには極めて難儀であったが、肉を食す事で闘争意欲の火に油を注ぐ役割は、或る程度果たしてくれたかもしれない。勿論適当に考えた理屈である。

 三人のハンターはホットドッグに齧り付きながら、ギラギラする目でもって聳え立つ黒壁を見上げた。吸血鬼達も彼らの間近に立ち、同じように異様の光景を凝視する。

 アウターサンセットでの死闘以降、この壁は地区全体の包囲を続けている。高さは凡そ15m。上部にも天井が形成されており、つまり内部の状況は全く窺えない。既に市警の封鎖は実行されていたものの、昨今の混乱状態にあっては割ける人員にも限界があった。不用意に近付いてしまった一般人も少なからず居たし、模造吸血鬼が表に出て来れば、封鎖を担う警官達では手も足も出せないうえ、返り討ちに合うのは必定である。都合この界隈は、ほぼルスケス一党の思うが侭にされている、という訳だ。

「これ以上奴等をのさばらせていては、人的被害を抑え込むのも困難である。早急に対策を打たねばならん」

 ヴラドが静かに呟いた。

「しかし今は耐える時だ。我々は状況を把握し、敵とするものの何たるかを知らねばならぬ。先ずは危険な偵察行を共にするハンター諸君に、感謝を申し上げる。ところで、一つ確認をしなければならん。他ならぬ君の事だ」

 言って、ヴラドはドグを指差した。いきなり自分を指名され、ドグが若干うろたえる。

「確認とは、どういう事だ?」

「君は禁術遣いではない。それゆえに多少の不利を強いられる可能性があると見た」

 ケイトとフレッドが遣い手として着々と歩を進めているのに対し、確かにドグは禁術を取得していない。勿論、取る取らないは選択の自由であるし、禁術を深化させる事の危険性は初手から明かされてもいる。ドグとしても信条があって取得を回避しているのだが、ヴラドの言わんとするところは極めて重要になると解釈し、彼はヴラドに先を促した。応じてヴラドが続ける。

「ルスケスの領域に入るという事だ。あ奴は人間を容易く魅了する力を有している。と言うより、ただその場に居て奴を見るだけで魅了されてしまうのだ。奴の肉と魂が合一していた場合、その力は既に復活しているはずである。禁術遣いであれば、たとえ禁術として僅かな力しか得ておらずとも、その魅了を回避する事が出来よう。汝、ルスケス出現の折には全てを差し置いても逃走すべし」

「いや、それなら俺の方にも手段がある」

 ドグはヴラドに自らの持つ力、魔術植物の調合・第四段階『無心』について語った。あらゆる種類の精神攻撃を無効化する術式の存在に、ヴラドは感心したものである。人間達の戦う手段が進化しているのは、アーマドの頃に比すれば羨むべき事であると。しかしヴラドと話しながらも、ドグは僅かに焦燥を覚えた。極度に集中を必要とする『無心』は、言い換えればそれ以外の集中を欠く事にも繋がるからだ。

(その間の頼りは、『こいつ』次第になるって事か)

 ドグは自らの胸を軽く小突き、苦い顔になった。

「禁術は確かに危険だ。ゆえに戦う術が他にもあるのならば、習得せずに居るに越した事は無いのであろう。私達の頃は、対抗手段が他に無かった。だから仲間達は退路を絶ち、行き着くところまで禁術を研ぎ上げた、という訳だ」

「私は、『ここまで』というところで留め置く事にする」

 やや寂しい顔で呟くヴラドに、ケイトが毅然として応じた。

「人間を捨てて、究極の領域に持って行き、その挙句にアーマドは勝つ事は出来なかった。だからアーマドが、貴人が示したものとは、人は人に拠って戦え、という事なのだと思う。最後に生きていなければ、この戦い、勝利で終えられはしないのだから」

「みんな、そう言っていたよ」

 自分に合わせてきたヴラドの目線に、ケイトは躊躇した。その目には、懐かしい人に会う親しみの色合いが湛えられていたからだ。

「教授も、貴人も。猟犬。神父。道化。詩人。漂泊者。解放奴隷。拳闘士。死んでいった数多くの仲間達。皆口々に言っていた。次の時代の人々の為にと。ケイト、君が彼らの生と死をかように受け取ったのであれば、燃え尽きた彼らの死灰すら君は糧とした、という事だ」

 しかしヴラドの柔らかな表情は、其処までだった。彼は口元を引き締めて踵を返し、1人佇むフレッドの元へと歩んで行った。棒立ちのまま一言も発しないフレッドを凝視し、ヴラドは「失敬」と断ってから、彼の顔を覆うフードを外した。

 ヴラドと共にやって来たエルヴィとマリーアが息を呑み、連れ合いのハンター2人が唇を噛む。顔を晒したフレッドは、既に人とは言い難いものになりつつあったからだ。額から角が突出し始め、顔は表情を形作る事が出来なくなっている。口から覗く歯は、牙と形容した方が近いかもしれない。よくよく見れば、フレッドの背中は不自然に盛り上がっていた。何かを背負っている訳ではない。人間には有り得ない器官が形成されていたのだ。

「シャイタン、第七段階。まるでアーマドの戦士が黄泉返りをしたかの如く」

「背中にはコウモリみてえな羽が生えている。何と、空を飛べるんだから驚きだ」

 フレッドは全く笑っていない顔のまま、くぐもった呻き声のような苦笑でもってヴラドに相対した。応じてヴラドは、フレッドの爬虫類に近い目を見据え、噛みくだくように言って聞かせた。

「このまま進めば、もう戻れはしまいぞ」

「ヴラドさんよ、あんたは人間の心がもう一つ見えていない。人間として生まれたからには、力の全てを引き出して、やれるところまでやり尽くし、散華の一つも悔いは無いと、そんな境地に行きたい奴も居る。ここまで禁術を高めた俺は、アーマドにも似た感性の奴が居たんだろうと、ある種の共鳴を覚える事が出来る。俺はこの手段で戦う。ルスケス一党は取り除いてみせる。強者の後ろで安全にやり過ごすのは、俺の性に合わないものでね」

 成り行きを見ていたエルヴィは、小さく溜息をついた。成る程、まだ心までは蝕まれていないものだと。フレッドの台詞は正に人間の感性が言わしめる内容だった。ただ、そんな彼も禁術の深化を進めるにつれ、どのような心の変化を遂げるのかは分からない。エルヴィは己が小さな胸に手を当てた。自分も、守護者という称号の元にルスケス化が進行している。何時かルスケスに戦いを挑むその時、自分は自分として在るのだろうか?

「…そろそろ参りましょう。あの中へ行かねばなりません」

 エルヴィは頭を振って、改めて黒壁を見上げた。隣にマリーアが立ち、不審の面持ちでヴラドに問う。

「何と面妖な代物だ。そもそもあれは何で出来ている? どうやって中に入る?」

「あれは物理的な形を有するものではない。ただの幻だ」

 対してヴラドの回答は、実に素っ気無かった。

「それ故、中に入るのは実に易い。ただ、通り過ぎれば良いだけの事だ。その易さが人間の犠牲を増やしているとも言い換えられるであろう。ともあれ、これは幻だ。区切りと言っても良い。こちらの世界と、向こうの世界を区切る境界線」

 ヴラドは『世界』という大仰な言葉を使った。しかし、それが芝居めいた比喩表現ではない事を、少し後に彼らは知る事となる。

「覚悟せよ。心を滅せよ。何を見ようと起ころうと、気を殺して進むがいい」

 そう言い切って、ヴラドは第一歩を踏み出した。

 

ルスケスの街

 光源の一切が絶たれた暗闇を抜けるのは、ほんの一瞬である。一行は今まで居たアウターサンセット周辺域とは全く異なる風景を、アウターサンセット域内で目の当たりにした。

「昼…なのか?」

 マリーアは躊躇と共に呟いた。ノブレムの全人員が、アウターサンセットとその周辺域へ同時に進出したのが夜半近く。今はまだ日が変わった頃合であり、当然夜は深いままのはずだ。ところがアウターサンセット内部の状景は、空に青空が広がる有様である。

 そして不思議な事に、青空がその色合いを見せる為に必要不可欠な光源、太陽は何処にも見当たらなかった。それゆえ空の青みは何処かぼんやりとしてくすみがかかっており、晴れやかな印象は全く感じられない。

 肝心の居住区は、数千単位の人々が住んでいた家々は、一応存在していた。一応とは、つまり以前の姿を呈していない、という意味である。

 アスファルトやコンクリートは全て消え去り、未舗装の道路上には芝生が整然と敷き詰められている。区画毎に建ち並んでいる家屋は、目に見える限り全て朽ち果てていた。まるで数十年を経ているかのように草木に覆われ、中には木が屋根を突き抜けた家もある。

 早い話が、アウターサンセットは地区全体が緑で覆われていたのだ。文明が潰え、草木に浸食され、遺跡としての佇まいを維持し、やがて消える。その途上の姿を一行は目の当たりにしていた。

「記録を撮ろう」

「ええ、お願いしますわ」

 エルヴィの混濁した思考が、マリーアの一言で正常に戻った。マクベティ警部補を通じて市当局より借り受けたビデオカメラを、マリーアが小刻みに震える手で準備する。実際に見たものを記録として残すのは、異常状況を可視化して認識を共有する点で意味がある。恐らくここには次にも来る事があろうから、地理を把握しておく必要もあった。しかし。

「駄目だ」

 マリーアは頭を振って、ビデオカメラを指差した。

「ノイズが凄まじい。電磁場異常の塊みたいな場所だ、ここは」

「『新祖』か『恋人』が居れば、多少はましな撮影も可能であったかもしれぬ」

 労うようにヴラドがマリーアの肩に手を置く。マリーアはヴラドの言った言葉の意味を捉えられず、首を傾げた。

「それはどういう?」

「プラスとマイナスの関係だ。乗じてゼロになる。あの二方はルスケスと完全に相反する位置に立っている故に、異常なるものを異常として諾々と受け入れる事が無い。ただそれは君達、『新祖の系列』も引き継いでいる才能なのだ。だからマリーアが持つその撮影機械、本来であれば起動すらしないはずである。ハンターよ、どうであろうか?」

 ヴラドに水を向けられ、ドグは苦笑気味に自らのカメラのスイッチを切った。彼の言う通り、カメラは全く作動しなかったのだ。

「仕方ない。見辛くとも、記録はマリーアのカメラに頼る他無いやな。しかし、とすると、そいつぁ『新祖の系列』がルスケスと戦える根拠を見せているって事か?」

「左様。今はまだ完全ではないが。先を進もう」

 ヴラドに促され、一行は奇妙な緑の街を歩み始めた。

 先頭をヴラドが行き、左右両端をケイトとフレッドが固める。中央のマリーアの盾となる位置にドグが付き、しんがりはエルヴィの役回りとなった。この面々の中では直接的戦闘能力で劣る点を自覚しつつ、マリーアは乱れる画像を丹念に収めた。

 考え得る限り、最高度の戦力に守られているとマリーアは思った。ドグとフレッドの力の程は弁えているし、ケイトはあのおぞましいエルジェを抹殺した面々の1人である。背中には小柄なれど強大な『守護者』、エルヴィが居て、この全員の先頭に立つのは次席帝級のヴラドなのだ。

(しかし、そのヴラドをして「勝てない」という輩が、この区画の何処かに居る)

 そう考えると、マリーアの背筋が凍る。

 元々自分の役回りは、この面々が速やかに撤収する一助であると、マリーアは固く認識していた。「魔女」という力には、それを成し得る才覚があるはずだ、とも。しかしルスケスの縄張りの中にあって、相手がどれだけの戦力を貯め込んでいるかは窺い知れない。三席帝級は、本当にエルジェとミラルカだけだったのだろうか? そのうえルスケスと、あまつさえジルが同時に襲ってきたら? だからマリーアがひたすら願うのは、この精強な一行が理性を併せ持っているという、ただそれだけであった。

 不意にヴラドが歩みを止めた。合わせて後続も立ち止まる。がしゃ、と、銃を起こす音が複数。

「何だ?」

「聞こえるか?」

 ヴラドの簡潔な一言を受け、全員が耳を澄ませた。

 トップクラスのハンターと強力な吸血鬼という組み合わせは、当然のように鋭敏な感覚を所持する集団である。その感覚が、微かに聞こえる音を捉えた。音、と言うより、音色の方が表現としては正しい。音色と聞こえるものが何なのかを慎重に吟味し、次第に彼らは音源の正体を察知し始め、あまりの奇妙さに訝しい表情を露わとした。

「歌だ」

「歌だと?」

「それもかなり楽しげな」

「複数ですわ。十人、二十人、いや、もっと沢山」

「どういう事だ? これはその、『オクラホマミキサー』ではないのか?」

「何で? 何でオクラホマミキサー?」

 口々に言って顔を見合わせる一行に、ヴラドは挙手でもって静粛を求めた。

「歌の元に向かおう。ただし気取られぬようにせよ。恐らくだが、恐らく」

 ヴラドは背中を若干折り曲げ、再び静かに歩き始めた。そして唾棄するように曰く。

「げに、おぞましきものを見る事となろう」

 

 区画の二つが完璧に薙ぎ倒され、その広々とした空間の中央部分、聳える石柱を中心とし、推定500人超が参加する大規模なオクラホマミキサーは、巨大な円を形成して和やかにダンスを紡いでいる。

 フォークダンスに参加する一同は皆が皆、心からの喜びに浸っていた。ああ楽しい。ああああ楽しい、と。

 彼らは逃げ遅れた地区の住人であり、仕える者共の一党が拉致してきた人間である。本来であれば吸血鬼の贄となる身であり、その境遇たるや自らが食われる事を知った家畜の目で怯える事必定であるはずだ。しかし人間達は、かような恐怖をおくびにも出さず、心からフォークダンスを堪能する風であった。

 そして踊りの輪の中に、何人か人間ではないものが居た。見れば一目で分かる。それらは吸血鬼特有の、顎部を大きく開いて無数の牙を丸出しにした顔をしていた。吸血鬼もそんな顔でありながら、人間と手を繋いで心地良くダンスを踊っている。オクラホマミキサーは、ミキサーという名が表すように、踊り手のペア同士が次々と変わって行くものだ。人間、人間、吸血鬼、人間、人間。人間と吸血鬼の混合ダンスが、周囲から囃される歌と共に延々と繰り広げられて行く。

 

『さあ大変だ さあ大変だ

七面鳥が 逃げて行く

さあみんなで さあつかまえろ

池のまわりを 追いかけろ』

 

 歌っているのは、全員吸血鬼だった。巨大な踊りの輪を囲むように点在し、手拍子などを送っている。そして歌が次の段に入ると、その歌声に奇矯な高揚が上乗せられ、一層の狂喜を露骨にし始めた。

 

『ラランラランラン ラランララン』

ラランラランラン ラランララン

一生懸命 逃げて行き

そら かくれたところは わらの中!』

 

 その途端、パッと踊りの輪が弾けた。人間達がキャアキャアと面白そうな悲鳴を上げながら我先に逃げ、吸血鬼がその後を追う。逃げる方も追いかける側も、揃いも揃って途轍もなく嬉しそうに。其処彼処で人間が捕まり、首をもぎ取られ手足を引き千切られ、噴出する血を吸血鬼が貪り喰らう。

 喰う方も喰われる方も心から笑っていた。アハハ。アハハハハ。アハアハアハ。手足が飛び交い、腸を引き摺り出され、投げ飛ばされた首はさぞや苦悶の表情を浮かべているかと思いきや、然に非ず。首だけのまま、けたたましく哄笑を放つ体たらく。アハハハア。

 一頻り吸血鬼の捕食が済んだ後、彼らは散らかした人間の手足を、内臓を、抉り出した眼球を、いそいそと丁寧に集め始めた。そして原型を留めぬ程ズタズタに裂かれた死体を、まるで模型でも組み立てるように詰め込み、不格好ながら元へと戻して行く。

 しばらくもすると死肉は接続を始め、やがて緩やかに人間の形を取り戻した。すはあ、と、死体が大きく呼吸を再開する。そして死体は、バネ人形の如くぴしゃりと跳ね起きた。吸血鬼達、拍手喝采。

 何時の間にやら、逃げていた人間達が戻っていた。またぞろ大きなフォークダンスの輪が形成され、周囲に吸血鬼が点在し始めた。そして手拍子と共に、オクラホマミキサーが歌われる。

 

『さあ大変だ さあ大変だ

七面鳥が また逃げた』

 

 同じ吸血鬼でありながら、エルヴィとマリーアは催す吐き気を堪え切れず、揃って口元を覆った。

 一行は家屋の陰に潜んで、その地獄のような一部始終を目の当たりにしていた。皆、一様に無言である。かような裏街道を歩くがゆえ、人の悲惨な末路は幾度となく見てきたものの、ゲタゲタと笑いつつ喰い殺される人間などというものを見た記憶は無い。しかも、死体は生を再び受けて蘇り、恐らくはまた面白く喰い殺されるのだ。其処に展開されていたのは、錯乱した笑いと徹底した敬意の無さであった。

「私は一時王座に就いた時、これを止めさせた」

 感情を極度に排した声で、ヴラドが言う。

「吸血鬼の素体は人間。人間が人間を喰らい続ければ、容易く狂気を誘発する。みだりに殺しを楽しみ始める。私も仮初の人である時分、膨大な殺戮を躊躇なく実行した。しかし楽しいと思った事は一度とて無い。踏み止まらねばならぬ。殺戮者であっても。或いはそうであるからこそ。未曾有の錯乱へと堕ちぬ為。故に、人よ、耐えよ」

 ヴラドは勢い込む姿勢のフレッドを制止すべく手で遮った。阻まれた格好のフレッドは、爪をギリギリと擦り合わせ、呼吸を浅く早く繰り返し、激怒の眼をヴラドに向けた。

「やらせろ。皆殺しだ。あいつら、皆殺しだあ」

「繰り返す。耐えよ。まだその時ではない」

「あ…」

 マリーアが小さく声を上げた。曲目が終盤に入りかけ、再び地獄の鬼ごっこが始まろうとしている。フォークダンスの輪の中に紛れ込んだ吸血鬼の1人が、子供とペアを組んでいる事にマリーアは気が付いたのだ。まだエレメンタリーくらいと見えたが、このような滅茶苦茶な催しである。あの吸血鬼達が子供とて見逃すはずはない。マリーアは縋る目でヴラドを見上げ、しかしヴラドは、小さく首を横に振った。

「惨い」

 マリーアが拳を握り締める。

「何と惨い事を。吸血鬼が人を食う種であるとしても、こんな、残虐な、楽しむようなやり方は許せない」

『…そおけえ?』

 と、頭に響くその声と共に、踊りの輪がポーズをかけられたようにピタリと止まった。

『そりゃおかしな理屈じゃねえ? 喰うは娯楽よ。楽しき事よ。おめえ、子豚の丸焼きの両目に電球刺してピカピカーッと光らせる、ありゃ何であるか? 魚掻っ捌いてヒクヒクさせたまま醤油に浸けて召し上がれ、とは何であるか? 生きるに不必要な分まで大食いチャレンジ一等賞とか、ありゃ何であるか? 喰うという行為は実に小っ恥ずかしい。そりゃ認める。どんなに辛く悲しい出来事があっても、人間腹を空かせばクソも垂れる。何とも愚かで浅ましい生き物である事よ。そんな情けない『喰う』を少しでも面白くすりゃ、その間抜け具合も多少は隠せるのではないかえ? あ奴らにも、それを許しただけの事よ。喰う即ち喜び。次いで喰われる方も喜びとすれば万事恙無し。俺、頭いいなあ。そして喰われても復活してまた喰われて復活する無限のサイクルときたもんだああ、楽しい。楽しいなあこん畜生があ』

「出て来い」

 一行の脳裏に響き渡る、聞くに耐えない狂い声の、その主が何であるか、彼らは即座に理解した。ヴラドが皆に代わり、ルスケスに宣する。

「かような言葉遊びには付き合わぬ。我らを把握しているならば、別段隠れる必要もなくなった。出るがいい」

「了承」

 最後尾のエルヴィが、考えるよりも早くその場を大きく跳躍して退いた。既にルスケスは一行の背後を取り、下種な台詞に似合わぬ美しい立ち姿を晒していた。

 

ルスケスの間合

 ルスケスの姿を実際に目にした人間は限られている。ルスケスの再封印を実行した『ファブ・ファイブ』と、偶然浮遊する姿を目にしたアンジェロ・フィオレンティーノ、計6人である。しかし、何れの場合もルスケスは完璧な復活を遂げてはいない。

 ドグ、フレッド、そしてケイト。三人は、完全状態のルスケスを見た200年振りの人間となった。

 真っ白な一枚布をトガ(古代ローマの上着)の要領で巻き付け、その白色以上にルスケスの肌は肌理細やかな純白で輝いている。肌だけでなく、髪もだ。そして白一色であるがゆえに、瞳の深い赤みが浮き立って見えた。面立ちはこの世のものではない。性差の曖昧な顔形は涼しい笑みを作り、悪徳の一切を見い出す事が出来なかった。端的に言えば、至高の美が形を成して存在している。元は天使、との話は的を射ているとケイトは思った。しかし。

「直視出来る。という事は、やっぱり天使ではない。それ以下の下等なこの世ならざる者」

 言いながら、ケイトの額に脂汗が滲む。裏を取られた時点で、皆殺しにされてもおかしくない状況である。そしてこの只中にあっても。それをしないでいるのは、ヴラドが居るからだろうか。ともあれ、この場で挑発的な言動は控えるべきであったが、先の凄まじい場を見たからには、毒の一つも吐かねば気が済まないのが、ケイトというハンターの性質である。

 ルスケスは小首を傾げ、にっこりと笑い、その表情と全く合致しない、得体の知れない口調で返してきた。

「ああ、エルジェの首をかっ飛ばした♀かあ。エルジェをチョンパしただけあって、やる気、元気、如何です!? って感じだネ。しかし一つ訂正せねばならぬよの。俺は余程の化け物でもない限り、割と天使でもブっ殺せるぜえ」

 対してケイトは、何も答えなかった。ルスケスは今の時点で、「可愛い微生物が熱弁振るってます」程度の認識しかしていない。これ以上のやり取りで、ルスケスの『その気』を引き出すのは下策だと、ケイトは冷静に判断した。『その気』になれば最期、死ぬだけで済めば幸運である。

 ルスケスは全く気に留めた様子もなく、次いで興味を2人のハンターに傾けた。フレッドには『お?』という顔を見せ、次に視線がドグに固定される。

 ドグは前もって想定していた通りに、『無心』を発動させていた。そのおかげで、押し寄せる魅惑の強制を跳ね除ける事が出来た。ドグの準備は万端であったと言って良い。完全体となったルスケスの魅了から逃れる術は、『無心』か、禁術の取得しかない。これはハンターの側にとって、今後ルスケスと相対する際の重要な教訓となった。

「色々思いつくもんだあねえ、二本足のけだものも」

 ルスケスは肩を竦め、ようやくヴラドと対峙した。

「つい最近お会いしましたか?」

「200年超は貴様にとって瞬きに等しかろう」

 ルスケスとヴラドは、ひくりとも動かなかった。不倶戴天の敵同士であるにも関わらず、この向き合いには不思議と戦意が感じられない。ヴラドはルスケスと事を構える重大さを認識しており、ルスケスもまたヴラドが容易く制圧出来る手合いではないと考えているからだ。その点で双方の認識は一致していた。まだ、その時ではないと。

「で、皆しゃん何しに来たんでちゅか?」

「様子を見に来た。攻め滅ぼす前に」

「げに面白き哉、げに面白き哉。で、感想を一言どうぞ」

「貴様の性根に相応しい、腐れた箱庭である」

「あはあは。あーっはっははあ。腐れ箱庭とは言い得て妙。ヴラドちゃんは実に面白い表現をする事よなあ。で、その箱庭にわざわざおいで下さったからには、ただで帰しは済むまいぞ。俺様は娯楽が足りぬ。せいぜい楽しませておくれでないかえ?」

 言って、ルスケスはストップウォッチを取り出した。

「1分間を供する。その間、俺はここをビタ一文動かない。ただし向こうの吸血鬼共は襲いかかってくるから、ちょっと大変。逃げるなり戦うなり、好きにせえよ。勿論俺様相手に攻撃し放題である事よ。ただし、1分を過ぎれば、俺動く。動くと、死ぬより悲惨な目に合うかも。かもである! 分かった? 分かったらゲームスタートである」

 ルスケスがストップウォッチのスイッチを押す。同時に、固定されたように留まっていた吸血鬼達が、こちらを目掛けて一斉に顔を向けてきた。

 

ルスケスの攻勢

 現状における最善手は、ともかく逃げる事であった。

 この集団は精強な闘士が揃っており、押し寄せる吸血鬼を迎え撃つだけの実力は有している。しかしそれらを相手にして時間を浪費し、1分が過ぎればルスケスが出て来る。ルスケスはアウターサンセット全域を己が掌に納めており、距離を置く事には全く意味が無い。この領域を離脱出来なければ、瞬く間にルスケスに詰められる。詰められれば、終わりだ。今のところ、ルスケスと或る程度の勝負が出来るのは、ヴラドだけである。

 しかし、案の定とも言うべきか、引き波のように撤収する事は叶わなかった。理由は二つ。

 一つは、模造吸血鬼の中に別格が紛れ込んでいた故。

 もう一つは、他ならぬヴラドが離脱出来ず、ルスケスとの対峙を続けていた故。

 

(卑怯な)

(卑怯とは何だ。美味しいのかそれ。いやはや俺は思ったのよ。おめえは別だ。おめえが一緒くたに逃げりゃ、そりゃ皆で仲良く遁走も出来ようさ。それはつまらぬ。全くもってつまらぬ。汝、我の覚醒成就を祝賀せい。我が全力をもって対するに敵う程の力を見せよ。然らずんば、唯々諾々とおめえを引き入れた意味が無えという次第)

 

 ルスケスの目前で全く動かなくなったヴラドの置かれた状況を、ハンターとノブレムは瞬時に悟った。

 ルスケスはヴラドのみを例外に指定したのだ。お前が動けば即座に行動すると。ルスケスを交えた全面攻勢が始まれば敗北は決定的だ。

 制限時間までルスケスに攻撃を集中させるか? 無駄だ。相手は首を刎ねても死なない化け物だ。

 ならばヴラド単独の撤収成功を信じ、彼を置いて全員が離脱を試みるか? それも厳しい。恐らく有象無象の吸血鬼をヴラドはものともしないだろうが、ルスケスへの集中を欠くに繋がる。強大な戦力を初手で失う可能性が発生する。そしてハンターとノブレムも、1分以内に圏外離脱を成し得るとは限らない。

 ならば寄せて来る吸血鬼の一群を迎撃し、ヴラドに近付けぬよう出来るだけ頭数を減らし、制限時間後はルスケスの攻勢からの防戦に集中するヴラドと共に全力撤退。誰も口には出さなかったが、意識は其処で統一された。

 一斉射の如く跳ね飛んできた模造吸血鬼に対し、ノブレムとハンターは退かなかった。むしろ応じて激突の寄せを敢行した。

 瞬時に『守護者』と化したエルヴィと、外套を毟り取ったフレッドが、飛行能力を存分に発揮して集団の只中に殴り込む。2人が縦横無尽に走り回るその都度に、血飛沫が一筆書きのように尾を引いて噴出する。短時間に10近い模造吸血鬼の首が宙を舞う。エルヴィとフレッドの戦闘能力は三席帝級に伍するかそれ以上であり、平均的戦士級で頭数を揃えた模造吸血鬼とは、速度と胆力が別の段階にあった。

『制限時間終了まで一分!』

 自分とフレッドを包み込むように襲い掛かる模造吸血鬼を蹴散らしつつ、エルヴィは極力フレッドから距離を置かないように注意を払い、大声で呼び掛けた。

『それまで貴方、正気を保てますか!?』

「俺は元から正気の沙汰じゃねえよ」

 言い返し、フレッドは自らの腕を5m程も射出兵器のように突出させ、離れた間合いの吸血鬼の首元を捉えた。硬化した爪でもって引き千切る。飛び掛る寄せ手の合間をすり抜け、踊るように両腕を振り回す。また2体の首が飛ぶ。その挙動は傍目には出鱈目であったが、時折交差する目には未だ意思の光があるとエルヴィは見た。

 一応安堵はしたものの、人間の許容限界を凌駕するフレッドの動作にエルヴィは焦燥も覚えた。以前よりも彼は格段に強くなっている。恐らく次には更なる限界の扉をこじ開けてくるだろう。禁術の深化は人間性の崩落を伴う事をエルヴィは承知している。果たして彼は、何時まで味方の側に居てくれるのだろうか?

 と、背後の気配に反応し、エルヴィは高速の左の裏拳を半回転しつつ見舞った。その肘が、掌で止められる。エルヴィは驚愕した。防いだ腕ごと相手の頭を粉砕するイメージが反故にされた事に。拳を引くと同時に釣瓶の要領で右のストレートを撃ち込む。それも止められた。お返しに放たれた重いフックを掌で受け止め、都合組み合う格好となった時点でエルヴィは相手の顔を真正面から見た。

 それは模造吸血鬼の男であった。しかし普通の手合いではない。瞳に明確な殺気がある。並の連中は目が半ば死んでいるのだ。男は顎を外し、無数の牙を剥き出して笑った。

「強いなぁ、君は。僕よりもちょっと強い」

 エルヴィの背筋が凍る。

『フレッド、三席が紛れている!』

 絶叫と同時にフレッドの体が地面に叩き伏せられた。即座に跳ね起きるも、明らかに動きが違う男と女がフレッドの前後を取る。吼え声と共に首を掻き獲らんと双方向へ手刀を振り切る。しかし2体は、余裕をもってそれを避けた。

「何だぁ? 随分歯ごたえがあるじゃねえか」

 フレッドはひどく嬉しそうに笑い、2体も陰湿な笑みを寄越してきた。

 

 ハンターが2人、月給取りが1人。ケイトとドグ、そしてマリーア。

 遮蔽の無い状況で一挙に襲い掛かられれば、如何な練度の高い彼らとは言え、ひとたまりもないはずだった。前回のアウターサンセット防衛戦は強固な陣地を築き、少なくとも模造吸血鬼の接近を尽く阻止している。この場においては、そういった準備万端とは程遠い。そのうえ数が少なかった。ヴラドのみを頼りにしていればこの戦いはあっさりと敗北していた事だろう。

 しかし、そうはならなかった。そうならなかったのは、ひとえに彼女の異能によるものである。

 突進してきた模造吸血鬼の数体が、あろう事か棒立ちの無防備な姿を晒す。それを見過ごすほどにハンター達は甘くない。ドグとケイトは各々散弾銃と突撃銃でもって、次々と吸血鬼の頭部を吹き飛ばして行った。

 模造吸血鬼も仲間が殺されれば無反応という訳ではない。我に返って攻撃姿勢に続々と移るも、しかしまた立ち止まって一点に視線を集中させる。そして、また首を刈り獲られた。

 戦いは概ね、このように進んでいた。フレッドとエルヴィという帝級に伍する2人が前に出て暴れ回るお陰で、敵の相当数が向こう側に群がり、ドグ達の方への圧力は随分と軽くなっている。しかしながら、それでも敵の数は多過ぎる。模造吸血鬼をこれでもかと吐き出してくるアウターサンセット域内は、兵力の減衰が窺える状況ではない。減った分が即座に継ぎ足されているのではないかとすら思えるほどだった。

 それでもたった3人の防衛戦は、模造吸血鬼を尽く跳ね返し続けていた。使い切った弾倉を再装填すべく、ケイトがマリーアの傍まで下がる。死角を消すべくドグも彼女らの背後に回る。忙しく弾を詰め直しながら、ケイトはマリーアを横目で見上げた。大したものだ、と内心思う。マリーアの異能、『魔女』の持つ力は。

 『魔女』は敵性の吸血鬼に対し、自分自身を味方だと思わせる。それも単独が対象ではなく、周辺範囲内の複数に対してだ。吸血鬼の持つ異能を除外すれば、その脅威とは速度であり、力である。『魔女』は精神攻撃でそれらを無効化する、凄まじい異能であった。ただ、敵が仲間と認識するのは飽く迄マリーアのみであり、2人のハンターは範疇外であるには変わりないが。

「助かる。本当に」

 自身に飛び掛ってきた吸血鬼をボブゲルトの第三段階で弾き飛ばし、更に銃弾を捩じ込んで頭部を破壊する。ケイトは細かく引き金を絞りながら、マリーアに声を掛けた。

「アウターサンセット戦にあなたが居たら、もう少し楽にエルジェを潰せたかもしれない。ありがとう」

「礼はいい。私も死ぬ訳にはいかないから」

 マリーアは拳銃を抜き、自分を取り戻しかけた模造吸血鬼を撃ち倒した。ドグによる止めの散弾銃が敵の首から上を粉砕する様を見、しかしマリーアは顔をしかめた。

「確かに量産品で心が無い。あんな非道に手を染めるのは許し難い。それでも」

「それでも?」

「同じ吸血鬼なんだ。一方的に人間に殺されるのは複雑だ」

「立場が逆なら、その気持ちは理解出来る。しかし今しばらく手を貸して欲しい。本当の敵はルスケスなんだ」

 それはマリーアも重々理解している。小さく頷き、マリーアはエルヴィ達を見た。

 向こうは向こうで、厳しい戦いになっている。2人に匹敵する速度の者が模造吸血鬼達の中に紛れているらしい。それは驚くべき事であったが、矢張り最大級の存在はルスケスである。この威力偵察に参加したマリーアの最たる目的は、全員無事に帰還する力となる事だった。マリーアは意を決して叫んだ。

「もうすぐ時間切れになる! ヴラドの元に集まれ!」

『ルスケスの間合いに寄れと仰るの!?』

 エルヴィが叫び返すも、彼女はマリーアの言に従って防戦しつつヴラドの方へと接近を始めた。我を忘れているかに見えたフレッドもだった。彼は未だ頭に冷静な箇所を残し続けている。

 マリーア達もヴラドの背後へと移動を始めた。彼女には一応の算段がある。『魔女』は以前の次席帝級戦において、ほぼ完璧に効力を発揮したのだ。真祖に通用する可能性は多少なりともある。自身が作り出す空隙はほんの僅かかもしれないが、ヴラドが居る今ならば宝のような隙に成り得るだろう。

 追随する模造吸血鬼を銃でもって阻み続ける道すがら、ドグは猟銃を選択してルスケスに狙いを定めた。

「何やってんの!」

 弾幕を張りつつ、ケイトが怒鳴る。

「無駄な事をするな!」

「無駄じゃないぜ。特殊弾だ。やってみる価値はある」

 逸早くヴラドの元に辿り着き、ケイト達は彼の背中を守るようにして銃を撃ち続けた。さすがに模造吸血鬼も数を減らし、初手の圧迫から比べれば相当楽にはなっている。フレッドとエルヴィも2対3の後退戦を上手く凌ぎつつあった。

「10」

 やおらルスケスが呟いた。9、8とカウントダウンを開始。対峙するヴラドの指の骨が、へし折れるような音を立てて鈎爪を作り出す。

「6、5」

 ドグが銃口を翻し、ルスケスの頭部に狙いを定めた。その猟銃の銃弾には、彼の身の内に巣食う怪物、ルクスの血液や唾液といった体液が弾頭に封入されている。ジルをも侵した猛毒をルスケスの体内に捩じ込もうとドグは考えたのだ。カスパールがルスケス麾下の吸血鬼陣営とのバランスを取る為に作り出したのがルクスであれば、筆頭のルスケスにも通用するかもしれない。

「4、3」

「ルスケス殿!」

 マリーアが絶叫を放つ。ルスケスの眉根が動く。合わせてドグが引き金を絞る。猟銃から射出された特殊弾は、狙い違わずルスケスの額を撃ち抜いた。頭が破裂する事も仰け反る事もしなかったが、ルスケスは「おろ?」と一言を残し、片膝を地に付けた。その瞬間にカウントゼロ。

 ヴラドの拳がルスケスの鳩尾辺りにめり込み、都合新祖の体が宙に浮く。追い討ちの足裏を胸に叩き込まれ、くの字に折れ曲がったルスケスが呆れるほどの飛距離でもって吹き飛ばされる。ヴラドは二本指で素早く何事かを宙に描き、くいと指先を地面に向けた。

 その途端、ルスケスを中心にして閃光が八方に広がり、耳をつんざく炸裂音と共に爆風が押し寄せる。集まっていた模造吸血鬼は五肢をバラバラに引き裂かれ、しかし外套を翻したヴラドが守るハンターとノブレムの者達は、その破壊の波から身を外に置く事が出来た。

「ヴラド、てめえはッ!」

 キノコ雲が立ち昇る様を横目に、フレッドが激怒の感情を露にする。

「人間を丸込め殺りやがったな!?」

 フレッドの言う通り、ヴラドが引き起こした爆発の威力はアウターサンセットの中心部分を更地に変えてしまうほどであった。模造吸血鬼も、その餌にされていた人々も、見渡す限り何処にも見当たらない。対してヴラドは、恐るべき威圧を伴って全員に命令を下した。

「全力で退けい!」

 その一言で皆が我に返った。憤り、戸惑い、安堵、僅かな勝利への酔い、それら全てが霧消した。元来た道を全員で転進開始。ヴラドはマリーアとドグ、それにケイトを無言で小脇に抱えた。

「ちょっ!?」

「何を!?」

「汝らは遅い!」

 確かにフレッドやエルヴィといった面々に比べれば、3人は速度の面で見劣りする。オフロードバイクでも持ち込めば良かったかと、ドグは舌を打った。この歳になって子猫の如く抱えられるのは些か屈辱的である。と、彼の目の端に異物が映る。綺麗に空き地となったアウターサンセットの一箇所に、石柱がポツンと立っている。先の攻撃を受けても平然と聳える様は、余りにも異様であった。しかし、かような思考のゆとりも直ぐに立ち消えた。

『びっくりしたなー。嗚呼びっくりしたなー、っと』

 ルスケスの声が直接脳に飛び込んで来た。一行の背筋が震え上がる。

『カスだカスだとは思っていたが、考えを改めるぜえ。てめえら、中々のカスである事よ。変な毒も効いたし、俺様の認識を欺く精神攻撃とは、やるじゃんカス共。でも、まあ、こんなもんであろ。大して苦も無く、死ぬよ新祖様々は。この程度じゃあねえ。捨てた我が半身、肉を伴いて顕実し、これにて我、半身の抹殺を可とするもの也。俺を殺せるようにしたつもりであろうが、逆に邪魔な半身を消し去れるようにもなったという訳だ。ありがとう、ドラキュラ。ありがとう、微生物共。今度はこっちの番である事よ』

 あれだけの破壊の中心軸にあっても、ルスケスは相も変らぬ調子でベラベラとよくしゃべる。一行は一切の反応を返さず、ひたすら撤収に集中した。そしてもう少しで域内と向こう側を区切る黒壁に到達するというところで、壁の上に腰掛ける真っ白な人間状のものの姿を彼らは見た。

「残念でした。ハイ、残念でした」

 乾いた拍手を皆に送り、ルスケスは口元に虚ろな笑みを浮かべた。

 

発狂する街

 半壊した壁に腰掛けたまま、ルスケスはその場から動こうとはしない。ただ曖昧な笑みを形作りながら、ルスケスは一言呟いた。

「再生せよ」

 言い終えた途端、周囲の状景が一変した。否、一行が進入した時と全く変わらない光景が出現した。緑によって朽ちた家々。敷き詰められた芝生。そして遠くに聞こえる歌声。

『さあ大変だ さあ大変だ

七面鳥が また逃げた』

 ヴラドを除いて、一行は呆気に取られた。先のヴラドによる攻撃は模造吸血鬼や囚われの人間達を、状景諸共消し飛ばしてしまったはずだ。余りにも過大であった破壊の痕跡を、しかしルスケスはたった一言で、人の命を含めて全て元通りにしてしまったのだ。それは最早、神の類が起こす奇跡の所行と等価である。

 桁外れの様を見せられて腰砕けになりかけた一行ではあったが、ヴラドの嘲るような、鼻を鳴らす笑いが彼らの正気を取り戻してくれた。

「貴様の力ではあるまいな? 借り物の奇跡を披露した気分はどうだ?」

「まあ、悪くないというところよ」

 ルスケスも冷笑で応じる。

「ヴラド、てめえ、『これ』を予想していやがったな? 躊躇無く人間を皆殺しにしたのは、これを踏まえての事であろう。嫌な性根だねえ、本当に嫌だねえ」

 と、周囲をざわりと気配が取り囲む。姿は見せないが、それらが何であるかは分かった。模造吸血鬼達だ。散々数を削った一般兵達が、1人も余さず復活してきたという訳だ。しかしルスケスは、想定外の行動に出る。

 壁をひょいと飛び降り、ルスケスは面倒くさそうに手を振り、命じる。

「行け。邪魔だ。人間共と楽しくフォークダンスでも踊っていろや」

 命令は絶対的な効力をもって浸透し、包囲を狭めていた模造吸血鬼達は、潮が引くように濃厚な気配を消した。恐らくその中には、帝級と思しき者達も居たはずである。それら大戦力を敢えて下がらせた、ルスケスの思惑は明白だ。即ち、存分に遊びたい。

「ともかく完全に復活と相成った訳だ。いいぜえ、実に心地いいぜえ。本来であれば今少し早く君臨するはずであったのだが。おや、あの忌々しい再封印を敢行した面々が居らぬよの。楽しく弄り回してやろうと思うておったのに、残念至極。しかし良い。ヴラドが居て、元気なその他も居るによって、ウォーミングアップには丁度良い。さあ、やろうぜえ、おめえらあ。ちなみに全力の姿は見せないから、安心してネ」

 言い終えた時には、ルスケスは一行の真横に立ち、人差し指でフレッドの胸を弾いていた。その一撃でフレッドの胸に大きな穴が穿たれる。言葉も無く、フレッドは斃れ伏した。

 ヴラドが即座に応戦し、ルスケスと共にその場から姿を消す。昼日中を白と黒の残像が幾筋も飛び交う。それがつまりルスケスとヴラドによる縦横無尽の格闘戦なのだ。

 瞬時に変貌した状況を理解出来ず、ほんの僅かの間、ハンターとノブレムの思考が停止した。しかし直後、ケイトが弾かれたように動き、フレッドを仰向けに引っ繰り返す。

「これでは即死だ」

 呆然とした顔をケイトが上げる。しかし彼女には躊躇が無かった。敵があれだけの手合いと知った時点で、ハンターとして取るべき手段を彼女は弁えている。そして言った。

「逃げよう。ヴラドが時間を稼いでくれる間に」

「私が担ぐ」

 マリーアがフレッドの遺骸を引っ張り上げる。ルスケス対ヴラドの一騎打ちは、その結末がこの場の誰にも容易に想像出来た。しかしながら、ヴラドが自分達に言外で望む行動も、また然りである。彼の意を汲まねばならないと、全員の認識が一致する。

 マリーアを中央に置いて、一行は再度の撤収を開始した。しかしあの黒壁を越えて、自分達は本当に逃げ切れるのだろうか、との焦燥が過ぎる。速く、強く、桁の外れたルスケスから自分達は。

「ゲッ」

 と、マリーアは呻く声を間近に聞いた。空耳かと思ったが、違った。

「ハッ ゲハッ グア」

 フレッドの喉が、呼気を吐き出し、また吸っていたのだ。彼は死んでいなかった。正確には死ぬ寸前であった。胸に直径20cm近い穴を開けられて生きられる人間は居ないが、彼はもう人間とそうでないものの中間地点に存在している。胸の肉が盛り上がり、空洞を塞ぐ。彼の打撃許容量には今少しの猶予があった。尤もその異常な回復力は、彼が取得した禁術の段階で許される力ではない。一時的ではあるが、フレッドは限界を突破しようとしていた。

 

 時間にして20秒も過ぎた頃、ヴラドとルスケスが唐突にその姿を出現させた。申し合わせるかのように、2人は戦いを一旦止めたのだ。それは単なる小休止の意味合いでしかない。しかし肩を大きく上下させて呼吸を荒げるヴラドに対し、ルスケスは全く変わらぬ涼しい顔でこめかみなどを掻いている。根本的な力量差は明らかだったが、ルスケスはゆったりとした拍手をヴラドに送った。

「いいねえ。ほぼ五分五分ではないの。スタミナ不足ではあるけどさーん。しかしおめえを肉塊に変えるには、もう一つ苦労が必要と見た。『この体』のままではな」

 表情には出さなかったが、ヴラドの気が焦る。ルスケスは、ルスケスという種族本来のポテンシャルを未だ発揮していない。ルスケスは『それ』を現出させる方へと気を傾けている。そうなれば、いよいよヴラドの命は厳しい。

 と、いきなり黒い塊が2人の間に飛び込んだ。それはルスケスの顎を拳で撃ち抜き、都合その姿をヴラドの前に晒す。目を見開く。

「フレッド・カーソンか!?」

「うひょお懐かしい!」

 ルスケスが奇声を上げ、人としては際どい姿となったフレッドに、雑なアッパーカットを見舞った。その一撃でフレッドの体が容易く吹き飛ばされ、芝生を削りながら馬鹿げた距離を転げ回る。しかしルスケスは、感嘆の声を漏らした。

「すっげ、壊れてねえ! おめえすっげ!」

 皆まで言わせず、今度は上空からルスケス化したエルヴィが高速回転しつつ落下し、ネイルチップでルスケスの頭をもぎ取って地面に激突させた。げは、と、首だけになったルスケスが大きく笑う。そして目前の敵を不可視の圧力でもって弾く。エルヴィ、ヴラド、それにフレッドも、巻き上げられる砂塵の如く高々と放り上げられ、遥か遠くまで飛ばされた。削げ落ちた首を拾い上げて無造作にくっつけ、かんらからからと笑いながら、ルスケスが地を蹴る。一息で追い縋る。其処へ銃弾の連射が浴びせられた。銀の祝福による僅かな痛みと、射手であるケイトにルスケスの注意が向く。一瞬の隙が生まれる。

 ルスケスの目前に白い装束の女が幽鬼の如く出現した。ルクスだった。人食いの怪物、吸血鬼の天敵が。ルクスは牙を剥き出してルスケスの喉元に喰らいつこうとする。が、その寸前で彼女の体が爆散した。

「む?」

 ルスケスの膝が、またも折れる。四散したルクスの発した毒が空気に拡散し、都合ルスケスはそれを吸い込んでしまったのだ。大きく跳躍して距離を取り、ルスケスが体内の毒気を全身から吐き出すようにして放出した。

 たちまちの内に身体機能を元通りとし、改めてルスケスはヴラド達を見遣った。姿は既に無い。黒壁の向こう側へと逃げ果せたのだ。彼らによる短時間の反撃は、ルスケスに打撃らしい打撃は全く残さなかったが、それでも撤収出来るだけの十分な猶予をもたらす結果となった。ルスケスは、つまらなそうに溜息をついた。

「なんでえ。もう少しは遊べそうであったのに」

 ルスケスは首を鳴らし、一つ大きな欠伸をして、霞のように姿を消した。

 

 黒壁の向こう側、つまり本来あるべき夜のアウターサンセット域外へと転がり出、ケイトは即座に銃口を反転させた。しかし狙いを定める脱出口から、何かが出てくる気配は無い。ケイトは怪訝の面持ちを、同じく態勢を整え直した仲間達に向けた。

「どういう事?」

「あの中から、奴は出る事が出来ぬものと見た」

 着衣に纏わりつく埃を払いながら、ヴラドが言った。足元には意識が途絶したフレッドが横たわっている。ヴラドが中から連れ出したのだ。

「否。出る事は可能であるが、それを禁じられているのであろう」

「…奴よりも上の存在か。重ねて、それはどういう事?」

「先の戦い、本来であればもっと広範囲に破壊が及んでいたはずだ。しかし差し当たって外の状景に波及の爪痕は見当たらない」

「ああ、そう言えば」

「この壁は、ルスケスの破壊から街を守る為に存在している。完全に復活した状態であるからこそ、奴は未だ地上に君臨する事は許されていない、という訳だ。しかし理由は、それだけに留まっていないようにも考えられる。ともあれ、皆はよくやってくれた。普通であればこの偵察行、恐らく皆を逃して私が死ぬという結末を迎えていたはずだ」

 謝辞を述べるヴラドに対し、皆は複雑な面持ちとなった。彼の言葉を逆に言えば、ヴラド抜きであった場合は容易く壊滅していた、という意味でもある。現に、本来ならば少なくとも1人は死んでいたはずだったのだ。既に自身の姿を取り戻したエルヴィが、昏睡から覚めないフレッドを見下ろす。

「あの姿、ルスケス化の進行過程に酷似していましたね。禁術とは、つまりルスケス化を人間の体に強制的に引き起こすものだったのですか」

「彼は死線を彷徨い、頂点の姿を垣間見たのだ。限界の突破は自己犠牲を伴う強い感情が引き金となるのだが、彼の場合は人間そのものへの愛着であったのやもしれん」

「この人はどうなるのですか?」

「まだ踏み止まる事が出来る。踏み止まらずに先へ進めば、確実に死ぬ。貴人がそうであったように」

 エルヴィは小さな肩を落とし、己が掌を見詰めた。相変わらず其処に鎮座する黒円は、深い闇が向こう側に繋がっているのかとも思える。しかし、不思議とそれに呑まれるような焦燥は感じられなかった。突出したフレッドを支援する為に仕掛けたルスケスへの攻撃は、たとえ敵が不死の存在であったとしても、ルスケスの首を切断するという実力以上の成果を発揮した。それでもエルヴィは、自分自身が異様なものに取って代わるような恐怖の類を、一切感じていない。

「先の攻勢は見事である」

 今一度フレッドを抱え直し、ヴラドがエルヴィの心を見透かしたように声を掛けた。

「貴人と猟犬が合力する様を見た気がする。とても懐かしい姿であった」

「え?」

 戸惑うエルヴィにそれ以上何も言わず、ヴラドはハンター、ノブレム達と共に帰路へと足を踏み出した。

 

血の舞踏会・最終幕 (或いはV1、VH1、VH2のまとめ)

 真祖ルスケスに絡む3つの作戦進行は、様々な情報をハンターとノブレムの面々にもたらした。

 模造吸血鬼は、理屈の上ではほぼ無尽蔵の存在であり、その数は恐らくいちどきに100に迫る人員を繰り出す事が出来る。ただ、それ以上の数にはならないだろう、というのがヴラドの見解であった。この街のこの世ならざる者はサマエルを生みの親として、多種多様に出現してくる。その中でも吸血鬼はかなり上位の存在であり、つまり『生産数』にも限度がある、という訳だ。しかしながら、一度倒しても、或る程度の時間を置けば何食わぬ顔で復活してくるのが厄介に過ぎるには変わりない。

 そして更に模造吸血鬼の中でも更なる上位階級、元三席帝級を敵は繰り出してきた。彼らは四度目の血の舞踏会でアーマドに屠られた面々という事である。以下、ヴラドとレノーラが挙げた三席帝級を掲示する。

 

・アンジェラ 女 → 死亡

・ヴァーニー 男 → 死亡

・ヴァルダレク 男 → 死亡

・ウィギントン 女

・ウージューヌ 男

・ヴェルツェーニ 男

・エステリタ 女

・クラリモンド 女

・ハインガット 男

・ベルタ 女 → 死亡

・ラングレ 男 → 死亡

・ロドルフ 男 → 死亡

 

「以上、12人。彼奴らが全員往時の力を維持したまま復活していれば、ただでは済まなかっただろう」

 むう、と息つき、ヴラドが言った。

「手合わせをした感触では、相応に劣化しているものと感じられました。あれは上等な模造吸血鬼、と見て良いのでしょうか?」

 とは、レノーラ。

「その解釈で正しい。そしてほぼ間違いなく、一度殺されたものは三度の月夜は見られまい。エルジェ同様にな」

「エルジェも同じ要領で復活したと?」

「あれも模造吸血鬼だった、と見る向きが正しかろう。尤も、聞くだに以前のままの力であったようであるから、上級ではなく極上級といったところか。ともあれ、12人中6人が死んだ訳だ。本格攻勢に出る前に半減とはな。これは真祖にとって、全くの計算外であったはずだ」

「今の私であれば、同時に3人が相手でも勝負出来るものと判断します」

「君も含めて、我々には力が結集しつつある。ハンター側も然り。次はいよいよ、あれが始まる」

「あれ、ですか。新祖を抹殺すべく、敵は総力を挙げてきます。私達は如何にすれば良いのでしょう」

「答える前に、先ずはこれを見せよう」

 言って、ヴラドは一枚の写真をレノーラに見せた。それはデジタルではなくフィルムカメラで撮られたものだった。写っているのは、ぼやけているものの何らかの塔である。

「これは、件の真下界の石柱ですか」

「ああ。実はこれに似たものが、アウターサンセット域内にもあったのだ。真下界の石柱に似た役割を担い、且つ魔界の根幹を為しているのであろう。これは真下界のそれを模倣した代物だ。とは言え。真下界に存在するサマエルの権化とは比べるべくもない。物理的に破壊するも可能と見た。これを成し得れば、ルスケスに付与された再生の力を抹消出来るはずだ。それが出来なければ、新祖の加護をもってしてもルスケスを倒す事は永遠に出来まい。よって、以下の段取りを次戦にて踏まえる」

 一つ。敵は三席級も含めた模造吸血鬼の大半を繰り出し、新祖の抹殺を狙うものと考えられる。これを迎撃し、新祖を守り抜く。

 一つ。その間、別働隊は再度アウターサンセットへ侵攻。ルスケスと対峙しつつ、石柱の破壊を目指す。

 一つ。街にこの世ならざる者が出現する根源、真下界の石柱にハンターを軸とした者達が干渉を実行。精神戦を挑む。

「厳しいですね。あまりにも厳しい」

「心理的に楽な戦など無い。どのような状況であっても常に命に関わるものと心せよ」

 ヴラドは不意に口をつぐんだ。そして閉目しつつ話を聞いていたジュヌヴィエーヴに、伺う目を向ける。応じて新祖は、瞼を開いた。

「来ます」

 と、一言。

 その直後、3人の頭の中に喚き散らすような雑音が駆け抜けた。

 それは哄笑である。雄叫びである。烈火の如く怒り狂う獣の吠え声である。ルスケスによる破壊的な大音声は何時ぞやと同様、サンフランシスコ市街全域に不意打ちを浴びせた。凡そ、それは言葉の形を呈していない。しかしながら意味するところは1人も余さず平等に、明確に伝播した。宣戦布告である。

 次の満月の夜、午前零時。我ら一党、恐怖をもって再臨を果たせり。

「血の舞踏会。最終幕をルスケスが開くのです」

 痛恨の面持ちではあったが、新祖は断固たる意思を込めて言った。

 

 

VH2-6:終>

 

 

○登場PC

・エルヴィ・フォン・アスピヴァーラ : 戦士

 PL名 : 朔月様

・ケイト・アサヒナ : ポイントゲッター

 PL名 : TAK様

・ドグ・メイヤー : ポイントゲッター

 PL名 : イトシン様

・フレッド・カーソン : ポイントゲッター

 PL名 : 白都様

・マリーア・リヴァレイ : 月給取り

 PL名 : 蒼夏様

 

 

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ルシファ・ライジング VH2-6【発狂する街】