<静かの街>

 何時勃発するかも分からない、アウター・サンセット地区を舞台とするであろう事件を前にして、ニューサム市長は即座に手を打った。主として夜間に交通整理を実施し、当該地区への車両流入量をコントロールする。アスファルトの老朽化を調査する、という架空の名目で役所と市警を動かしたのだが、当然ながら本来は公費の無断使用という事になる。上手く後処理が出来なければ、弾劾請求が議会に提出されるだろう。

 市長に不安が無いと言えば嘘になるが、この日の彼は趣を異にしていた。市長室に篭り、陳情書に目を通す事もせず、ただデスクに両肘を付いてその時を待つ。時計に目をやると、午後2時の凡そ10分前。其処へ、秘書が取り次いだハンディフォンを持って部屋に入って来た。電話の主は、ジョン・マクベティ警部補。市長は秘書が退出するのを見計らい、通話を繋いだ。

「そろそろ実行だな」

『地区住民は全員ゴールデンゲート・パークへ退避。人口密度万単位を一時収容出来る場所は、あそこしかありませんからね。その後のアフターケアは?』

「自然災害用備蓄物資の一部放出を準備している。それだけでも消防と市警を大規模に動員しなきゃならない。避難の誘導は言わずもがな。重ねて聞くが、誘導に関わる市警の人間は素人目にも足りていない。現状では有事ではないから、出来る動員も限られてしまったのだが。君は『彼ら』に任せろと言ったが、私には其処が最大の懸念だよ」

『大丈夫です』

 電話の向こうで警部補が断言する。

『その根拠については、納得を頂くのに時間を要するでしょう。しかし大丈夫です。必ず『彼ら』は上手くやります』

「…最早信じるしかあるまい。今日『敵』が仕掛けてくるという、君達からの情報も加えてね」

 市長は大きく溜息をつき、額に手を当てた。破壊的カルト集団が化学兵器によるテロを実行する。極めて深刻な事態であるが、それに対して市長は幾つかの疑問を抱えていた。

 これだけの状況を、SFPD、ひいては合衆国の公安が察知出来なかったのは何故か?

 カルト集団がサンフランシスコの一地区を襲う理由は? 彼らが夜にしか事を起こさない根拠とは?

 対抗しようという有志と、カルト集団の関連は? ないしは有志と警部補は何故密接に繋がっているのか?

 それらの情報の後ろ盾はローマ法王からの直接のとりなしであったが、合衆国を差し置いて直接自分に警告を発した理由は? そもそも法王は、如何にしてかような事態に関わる事となったのか?

 しかしながら市長は行動に踏み切った。一見の警部補と有志達を信用して。普通であればどうかしているが、市長はそうさせるに足る一つの情報を掴んでいた。それに事が勃発してからでは余りにも遅い。これだけの騒動を引き起こし、結局何も無かった、という展開を半ば期待している自分に苦笑する。

「もしもガセネタであったなら」

 含み笑いとともに市長は言った。

「また一からワイン売りを始めるとしよう。その時は君、マクベティ警部補、私の店で10本くらい買ってくれ。そうだ、彼らにも一本ずつ買わせてやる。とびきり高い奴をね」

『生憎、ワインはあまり好みじゃありませんのでね。それに市長の任期切れは、まだ先でしょう。最後に市長、一つ質問を宜しいですか?』

「言い給え」

『今更ですが、私達の情報をこれだけ信用するのは何故なんです?』

「本当に今更だな。しかし何時までも腹に抱えていられる話でもない。私は、とある噂話を聞いた事がある」

『噂話?』

「ああ。マーベル・コミックを地で行くような話さ。以前から奇妙だとは思っていた。痛ましいノブヒルの惨殺事件。幾つかの首切り事件。チャイナタウンのマフィア共も、何やら奇妙な動きを見せている。まるで私達は、目に見えない何かと向き合っているみたいだ。そう、この世界には人間を含めた自然の生態系に属さない、何かが実在しているらしい」

 受話器の向こうの息を呑む気配に構わず、市長は続けた。

「それは概ね、極めて危険なのだそうだ。そしてそれらに対抗する人間がいる。彼らは何処にも属さず、報酬も得ず、誰からも感謝をされず、命一つを武器にして今も戦いを続けていると。何とも英雄的な話だが、警部補、君と例の有志達がそれなのだな?」

『……』

「私は、法王にそういった人々が本当に居るのかと聞いたのだが、法王は何と答えたと思う?」

『……』

「彼らを慮る状況を、私は理解しよう。ただ、もしもそれが本当だとしたら、これは現実的な化学兵器テロとは様相が異なってくるだろう。つまりこの事件は、始まりに過ぎないという事だ」

 

 午後四時からのアウター・サンセットの眺めは圧巻だった。この地区に住むほとんどの住民が、一斉に北のGGパークへと避難を開始したのだ。しかしながらその様は、まるで花火見物にでも出かけるようで、緊張感は微塵も感じられない。住民達を誘導する為に交通整理をする警察官達は、むしろ自分達が面食らう羽目となった。

「どういうんだ、これ」

 赤色灯を手にした若い警官が、相棒に間の抜けた顔を向けた。雑談を交わしながら道路を北上する膨大な市民の行列は、一切の滞りなく粛々と進んでいる。アウター・サンセット地区を完全封鎖し、テロリストによる化学兵器敷設の可能性を拡声器で呼び掛けるという、警官達のアクションの結果がこれなのだ。普通であれば、阿鼻叫喚のパニック状態に陥ってもおかしくはない。

「この規律の正しさは何なんだ。気味悪いぞ。いや、とても良い事なんだけど」

「細けえ事ぁいいんだよ、真っ当に職務遂行出来るんだからさ」

 相棒はうるさそうに手を振り、地区に進入しようとする車を認め、慌てて制止に向かった。こういった車の中には、地区の自宅へ帰る者も少なからず居た。事情を説明すると、概ねの場合は大慌てで自宅に戻り、血眼で非難の列に加わるのだ。それが非常事態における普通の反応である。

 しかし今の状況は普通ではない。カルト集団による化学兵器テロへの対処という命令が分署に下り、自分達は大いに色めきたったものだ。だが、この情報を掴んでいるのは、どうやら警察内部でも一部であるようだった。混乱を防ぐ為、一般市民に対し情報統制が敷かれるのは理解出来るが、それが警察内部にも及ぶとなると勝手が違う。加えて、この整然とした避難。どう考えてもおかしい。

「そもそも化学兵器を使ったテロだぞ? 軍隊出動ものだろ、それは」

 呟き、ふと警官は、反対側の通りを北進する警官の一隊に目を留めた。彼の所属する分署の者達ではない。初めて目にする他分署の者に興味を抱き、警官は彼らの元へと駆け寄った。

「南の地区の担当か? 避難状況はどんなだ?」

 警官の問いに、先頭の東洋系の警官が応えた。

「一応、全住民の退出を確認した。もう直ぐ戸別確認の命が下るだろう。準備しておいてくれ」

「そうか、分かった。これから何処へ?」

「北部地区の確認」

「あそこは一等に避難が始まったところだぞ」

「油断は出来んだろ」

「まあそうだが。なあ、あんた達は俺らと任務内容が異なるみたいだが、今の状況について何か知らないか? どうも色々と変なんだよ」

「破壊的カルト集団が化学兵器を用いたテロ行動に出る可能性有り。警官隊は当該地区の全住民を速やかに避難誘導し、後の対処に控えよ。命令としては至極真っ当だと思うが」

「いや、俺が言いたいのは…」

 と、警官の無線に連絡が入った。例の東洋系が言う通り、戸別確認開始の指令である。戸別と言っても、住宅街のアウター・サンセットを虱潰しに回るのは大変だ。しかも、その後に付け加えられた条件が振るっている。

「午後5時半までに、だと!? 時間が無さ過ぎるだろう! 俺の担当区域を早く教えろ! あんた達、もう行くよ。お互い頑張ろうぜ」

 手早く敬礼を送ってきた警官に対し、一隊は一糸乱れぬ見事な敬礼を返した。まるでアーミーだなあ、等と思いつつ、警官は忙しくその場を離れて行った。

「職務に忠実な、いい警官だな」

 敬礼を解いて帽子を被り直し、東洋系、風間黒烏は安堵の息をついた。

 案件:トゥルグショール。ハンター間でそのように名付けられた作戦行動は、市警を巻き込む形で今のところ上手く進行していた。先の警官が不審に思った冷静過ぎる避難行動も、実のところ彼らによるものである。

 反則卓袱台返しアイテム・半径500mの説得の使用。文字通り、半径500m以内の人間にシンプルな指示を履行させる事が出来る、一歩間違えば洗脳アイテムだ。「アウター・サンセット地区住民」を対象とし、市が設定したGGパークへ「避難せよ」。アウター・サンセット地区はかなりの広域だったが、市長の積極的協力姿勢によって『説得』の必要が無くなり、2つを使う事が出来た。これでかなりの範囲をカバーし、潤滑な避難誘導へと繋がった訳だ。

「それでも、指示を漏らした家があるでしょうね」

 ケイト・アサヒナが心配げに曰く。

「身動きの取れない老人だっているかもしれない」

「その為に警官隊のサポートがあるんだろ? 戸別確認で更にカバー出来るさ」

 砂原衛力の意図した気楽な声に続き、今度はディートハルト・ロットナーが誰に言うでもなく呟いた。

「仕事帰りの者達が、もうすぐ車で帰宅する頃合ですな」

 またも警官に止められている車を見遣る。

「これからが大変でしょう。地区に帰って来る頃合もまちまちです。戦いが始まってしまえば、人々の進入を抑えきれない可能性もありますぞ」

「出来る限りの事はする」

 統括役の風間が、背を向けたまま低い声音で言った。

「それでも、広げる両手の範囲には限界があるんだ。何しろこの規模に対して、この人数だからな。頼みは警官隊の封鎖だが、どうやっても穴が出る。俺達は出来る限りの事をやるしかない」

 その台詞とは裏腹に、風間の言葉を絞り出す様は如何にも苦しそうだった。祟られ屋としてかなりの経験を積んでいるにしても、実のところ彼は未だ若い。斉藤優斗が風間の肩に、若干強く手を置いた。

「事は、まだ始まってもいない。やろうぜ同志。出来る限りって奴を。救える命は、救えるだけ救うんだ。反省点があるとすれば、それは終わってからの考察だ」

「ああ。そうだな」

「それじゃ行こう。俺達の砦に」

 徒党を組んで襲撃して来る吸血鬼の数、強大な女帝級を含めて凡そ30名弱。迎撃するハンターは、たったの5人。

 数を見れば差は歴然であったが、それでも彼らは彼らの定めた砦、ウェスト・サンセット・プレイグラウンドへと向かう。地獄の戦場になるは必定。それでも彼らが戦うのは、ハンターだから、ではない。人が人である事の矜持を守る為だった。

 

 ウェスト・サンセット・プレイグラウンド(以下WSP)は、ハンター達が設定した決戦の地である。敵の襲撃目標がアウター・サンセット地区の全域占領であれば、防御を敷いたこの地を放っておく訳がない。真祖一党による地区占領は、事前の避難誘導の甲斐あって、幸か不幸か速やかに行なわれるだろう。つまり成り行き上、WSPに敵の全戦力が振り向けられる、という訳だ。吸血鬼対人間の戦闘としては、ここ200年の間で最大の規模となるだろう。

「地区の封鎖については、俺の息のかかった連中が複数配置されている。ここは彼らを当てにして、迎撃に全神経を集中してくれ」

 先に到着していたマクベティ警部補が、ハンターと『その他』を前にして言った。

「敵の戦力は絶大だ。集団であり、かつ個体能力も非常に高い。ハンターが対この世ならざる者の専門家とは言え、戦力は些か心許ない。よって、彼らを招聘した。SFPDが誇る特殊火器戦術部隊、SWATだ」

 警部補の言葉を受け、揃いの戦闘服に身を包んだ10人からなる隊員が、一斉に敬礼を寄越してきた。警部補に促され、先頭に居た鷹の目の黒人が前に進み出る。

「分隊長のアブドゥル・ラウーフです。宜しくお願い致します」

 見た目とは裏腹に丁寧な物腰で、ラウーフ分隊長はハンターの1人1人と握手を交わした。

「何処の馬の骨、とも思わないって訳か」

 砂原が肩を竦め、警部補に苦笑気味の顔を向ける。

「この人達は、どの辺りまで知っているんだい?」

「全部だよ」

 何でもないように警部補は答えた。

「全部話した。お前達が何なのか。敵の正体も何もかも。彼らも命がかかっている。拠って相応の誠意を見せねばならん。彼らには全幅の信頼が置けるぜ。俺が保障する」

「正直、驚きはしました」

 分隊長が警部補の後を継ぐ。

「しかし命のかかる状況で嘘は有り得ません。この方は冗談は好きですが、軍時代の上司だった頃から私に嘘をついた事はありません」

 砂原は内心舌を巻いた。警部補の意外な顔の広さも然る事ながら、ラウーフが警部補に寄せる信頼感の頑強さに。敵は知恵持つ猛獣、吸血鬼であり、連中が徒党を組んで地区一つの占領を目論んでいる。口にしたが最後救急車を呼ばれてもおかしくない話だが、その非常識を押し通せるだけの、固い絆を持つに至る経験を2人は経てきたのだろう。こうなると如何なる軍属であったのか、興味が鎌首をもたげるところである。何となくであるが、この2人は過去について口を割らないだろう、そのように砂原は思った。

「風間」

 警部補が本作戦行動の統括役、風間に言う。

「お前が望ましいと言った装輪装甲車の4台は準備した。俺を含め、全員がお前達のバックアップ。現状で俺が出来る精一杯の準備だ。これでいいか?」

「申し分ないよ」

「それでは概要を改めて説明してくれ。これより俺達はお前らの指揮下に入る」

「ありがとう」

 

 本日、真祖一党の吸血鬼集団がアウター・サンセット地区に襲撃を仕掛ける。

 元々この情報は、敵の内部に潜り込んでいるノブレム所属の吸血鬼、ヴィヴィアンからもたらされたものだった。

 本来敵側の優位は、全く想像も出来なかった存在が完全奇襲でアウター・サンセットに襲い掛かり、殺戮を繰り広げた挙句に残る住民を『人間の盾』にする事が出来る、というものだった。それがヴィヴィアンから情報が逐一流される事によって地区住民の避難が着々と行なわれ、かつハンターによる迎撃の準備が整えられる。つまり初手の段階はハンター側が先勝を収めた、という訳だ。

 しかしながら、実際の戦闘が始まれば状況は一変する。吸血鬼と人間の個体能力差は歴然であり、かつ現状の人数においても吸血鬼側の方が頭数を揃えている。真っ向正面から激突すれば、SWATとハンターの首級が15個並ぶ羽目になるだろう。

 故に、敵の全戦力といちどきに雌雄を決する愚は犯さない。ハンター達は、WSPを中心としたアウター・サンセット地区全体に防御陣を構築した。

 周辺域に「罠屋」斉藤主導のトラップを張り巡らし、結界を施した装輪装甲車で出入り口を封鎖し、銃座を網の目のように張り巡らせる。その上で、敵を逐一に誘い込む。

 最も恐ろしいのは、吸血鬼が数に任せた一斉攻撃を仕掛ける事だが、これを阻止する為に潜入者のヴィヴィアンが模造吸血鬼、ないしは仕える者共を、可能な限り順繰りでWSPに誘導する。これによって、まず敵の戦力を削ぐ。圧力を軽減させてから、防御陣地での本格的な迎撃に移行する。

 並の吸血鬼が相手ならば、確実に皆殺しに出来るだろう。しかしながら、繰り出されるだろう4人の「仕える者共」は、全員が危険極まりない異能持ちである。そしてそれ以上に、彼らの立てたプランを根底から引っ繰り返しかねない、最悪の要因が2つも存在していた。

 第三席女帝級吸血鬼、エルジェとミラルカの参戦である。

 

「ほとんどの場合、吸血鬼を相手にして現用兵器は決定打とならない。完全に殺すには首から上を胴体から切り離すしかない。基本ラインは既に押さえられているかと思いますが、その上で言っておかねばなりません。帝級と呼ばれる吸血鬼は狂っております」

 SWAT隊員を前にして、ディートハルトが帝級吸血鬼について説明する。狂っている、との表現は、帝級達が如何なる代物かを端的に示していた。

「参戦するであろう2体の帝級については、その特徴を後々説明致します。まず、皆さんが最も注意せねばならないのは、帝級を相手にしない事です。彼らが自らを相手としないよう、厳密に気を払う事です。決して彼らに敵意や銃口を向けてはなりません。死んでしまいますからな」

「貴方達が帝級とやらの対処をする点については了解しましたが、援護射撃も出来ないのですか?」

 躊躇を見せるSWATを代表し、ラウーフ分隊長が問う。対してディートハルトは、苦笑しつつ首を横に振った。

「皆さんがSWATであるからには、銃の使いについては当然私達を上回るでしょうな。通常の吸血鬼相手でも、その腕前を存分に発揮される事でしょう。しかし、帝級には弾を掠らせる事も出来ますまい」

「50mの距離を瞬きの間に詰める生き物を見た事がある?」

「俺は、ほぼ至近距離の散弾を全てかわされたぜ」

 ケイトと風間が帝級へのインプレッションを次々と口にする。受けて分隊長は顔をしかめたものの、直ぐに気を取り直して聞き入る姿勢を保った。物理的に有り得ない話であっても、彼らはそれを実際に経験している。嘘か、そうでないかを見分けるくらいは分隊長にも出来る。彼らは真剣に、自分達の身を案じているのだ。

「心得ました」

 言葉短く言い、分隊長が頷く。場を見計らって、マクベティ警部補がSWATの面々を促した。彼らが持参した銃弾に細工を施す為だ。現用兵器が通用しない相手でも、死人の血を上手く扱えば対等以上に戦える。確かに彼らはハンターではないが、戦闘能力に関しては折り紙つきの面々である。

 打ち合わせは一旦中断となり、残されたハンター達は思い思いの格好でくつろいだ。既に準備は万端に整えている。まだ19時前の明るい頃合であり、その時が来るまでの時間は十分にあるだろう。

「いよいよか」

 拳を打ち鳴らし、砂原が昂揚を隠さずに言う。

「あの帝級と初めてガチでやり合うんだぜ。凄いよな。どうかしているよ、俺達」

「本当にどうかしている」

 うんざりした顔で、ケイトが軽口を叩いた。

「私なんて、エルジェの『愛され女』よ。あんなのが私を掻っさらいに来るとか。この戦い、奴が死ぬか私が死ぬか、そのどちらかしかない」

「晴れてエルジェの愛人になるという第三の選択肢もあるよ」

「欠片も笑えない冗談だわ。多分口に出すのも憚られるような目に合わされた挙句、どっちにしても死ぬ」

 エルジェへの対策は、ケイトが主軸となる。彼女は初めてエルジェと遭遇して以来、そのお眼鏡に叶うというこの上無き不幸を負わされていた。吸血鬼が特定の者に執着を寄せた時、その危険度は跳ね上がるのが常であった。

 ただ、裏を返せばエルジェの突出は、敵側の優位な集団戦をフイにする可能性も孕んでいる。主戦力である『点取り屋』のケイトと、周囲のサポートが上手く機能する事が出来れば、真祖一党の力を大いに削ぐという大殊勲を挙げられる。その為の準備を、彼らは周到に重ねていた。

 しかし、不安要素はもう一つある。

「後はミラルカがどう出てくるか、ですな」

 ディートハルトが斉藤と風間に話を振り、2人はまんじりともしない顔を見合わせた。

 ミラルカは真祖一党の所属でありながら、先の真祖再封印に大きく関わっている。斉藤と風間は彼女と深く絡んでおり、他の者達よりも彼女の人となりをよく知っていた。だからこそ彼らにも、彼女がどのように動いてくるのかが分からない。

「例の場所には行ったんだろう?」

 斉藤が風間に問う。赤十字ベイエリア支部の事だ。仕える者共が食料としていた人間の血は、ここの献血パックが流されていたのだ。赤十字に異能でもって潜り込み、それを実行していたのは他でもない、ミラルカであった。

「既に彼女は離脱していたよ」

 風間が斉藤に答える。

「恐らく蓄えは十分なんだ。加えて、最早パックを横流しする必要がなくなったのさ。これから思う存分、人の生き血を啜れるからだろうよ」

「彼女も、果たして人間を襲うのだろうか。罪も無い人を」

「分からない。彼女は真祖に忠誠を誓う体だからな。しかし俺は、俺達は、彼女の本質を目の当たりにしている。あの可哀想な家族の家に、花を手向ける感性の持ち主なのだと知っている。斉藤さん、俺の認識は甘いのかな」

「確かに俺達はハンターという人種だが、その感覚を失ったらおしまいじゃないのかね? ハンターである前に、人間なのだから。ただ、すべき事をしなけりゃならない。成り行き上でなっちまったハンター稼業だとしてもだ。俺達がやらねば、誰がやる。風間、俺達の存在意義は何だ?」

「無辜の人々を守る。それだけに命を賭ける。そうだろう?」

「因果な商売だよな。金が逃げて行くばかりの。彼女は俺達の心構えを承知した上で、きっとこの戦場に向かって来る。何が起こるか分からないが、風間、ミラルカとおまえの道行きは、そう悪い事にはならないような気がする」

「気を楽にさせたいのか?」

「分かる?」

 斉藤と軽く拳を合わせ、ふと風間は自らの懐に手を差し込んだ。内ポケットに、件の『スイッチ』がある事を確認する。ミラルカから手渡されたものだ。これはミラルカが風間に預けた、彼女の心の一部である。

 

<女帝二人>

 真下界の森を行く一団は、エルジェという圧倒的な実力者を頂に置いて、実に規律正しく歩を進めている。仕える者共は連携が取れているとは言え、間柄としてはフランクな集団である、というのが潜入者・ヴィヴィアンの印象であった。そんな彼らもエルジェを前にすると、借りてきた猫のように大人しい。

 当のエルジェは上機嫌だった。先程から独語のオペラの楽曲を思いつく限り浪々と歌っている。今は魔笛第二幕、夜の女王のアリア、復讐の炎は地獄のように我が心に燃え、である。美しい響きであったものの、そろそろヴィヴィアンは騒々しい雑音だと認識し始めていた。尤も、それを口にしたが最期である。ヴィヴィアンは極力心に波風を立てず、足を前に進める事に意識を傾けた。

 と、不意にエルジェのアリアが止まる。全く歩調を緩めず、意識だけをがらりと変えるかに見えた。ヴィヴィアンの背筋に悪寒が走る。彼の鋭い勘は図星を得た。彼女が気を向けてきたのは他でもない、自分にである。

「V2ぅ、どおしてえ?」

 間延びした声に薄気味悪い性根を乗せ、エルジェが前を向いたままヴィヴィアンに語り掛けてきた。

「何故帝級への進化を真祖様にお願いしなかったのお? 待望の強大な力を得られる機会なのよう?」

「…正直、身の程を知ったよ」

 極力余計な思考を頭から排除し、ヴィヴィアンはエルジェの問いに答える内容だけに意識を集中した。今、ここに居る面々の中には、Eのように対象の考えを読み取る輩も居る。もしも嘘をつくのであれば、自分自身が信じ込める嘘でなければならない。少なくとも彼らの中に留まり続ける間は、ヴィヴィアンは片時も気を緩める事が出来なかった。それは恐ろしく苦痛を伴う生活である。

「仕える者共は予想以上に優秀だった。僕の小さなプライドは木っ端微塵さ。もしも帝級へと登りつめるのなら、まずはこの集団のトップランカーになる必要がある。そう思ったんだ」

「ふうん」

 強さを求める者のロジックとしては順当である。そう、強さとは段階を経てから積み上げるものだ。自身の言葉をヴィヴィアンは矛盾なく受け入れ、よって心中の叛意を周囲に気取られる事なく済んだ。しかしながら話を聞く側のエルジェに、そのロジックは通用しなかった。一歩脇に逸れて一息にヴィヴィアンの隣へと飛び退り、彼の肩に優しく手を置いてエルジェが言う。

「まどろっこしい! あああ、まどろっこしい! 最強の体、至高の美貌、そして極上の快楽、どれもこれも何もかもを今すぐに手に入れなければ意味が無い! ほしい、と思った時に手に入らぬものに価値など無い! さあ聞くがいい皆の者。地区占拠の暁には褒美が真祖様より遣わされるわ。仕える者共を私と同じ位に引き上げて貰えるのよ。何と素晴らしい事なんでしょう。お前達、存分に遊べる体が手に入るのよ!」

 ゲタゲタとエルジェが笑った。しかし追従の笑みを浮かべる者はこの場に居ない。それはそうだろうと、ヴィヴィアンは思った。声高らかに帝級の素晴らしさを謳う当のエルジェが、其処に至るまでに強いられた恐ろしい経験については誰もが知っている。帝級の位に引き上げる代わりに支払う代償は凄まじい。吸血鬼にかろうじて残された人間性を木っ端微塵に打ち砕くものだ。斜め前を行くEの体が小刻みに震える様を見て、図らずもヴィヴィアンは同情した。そして返す刀で、最後尾に居るもう1人の女帝、ミラルカの姿を目に留める。

 彼女については分からない事ばかりだった。彼女は真祖一党の中にあって、周囲との交わりを断ち切るかのように動いていた。ミラルカがこのように集団で行動するのは初めてであるらしい。その彼女が、フイと仮面の顔を上げた。ヴィヴィアンが目を丸くする。非常に珍しい事だが、彼女が口を挟んできたのだ。

「エルジェ、かような話を真祖は仰っていない」

 ミラルカが冷徹な声音で曰く。

「帝級になるか、ならないか。選択の自由は彼らにある。貴様は先走り過ぎだ」

「この者達に自由など無い」

 と、エルジェは豪語した。

「身も心も真祖様に捧げるのよ。さすれば明るい未来が約束されているわ。その未来は、こ奴らを逃しはしない。みんなみんな私と同じになあれ」

 ひい、と、悲鳴の如き狂笑を残し、もう興味が無いとばかりにエルジェは一息で先頭へと戻った。

 哀れなものだとヴィヴィアンは思った。仕える者共は、何を期待して真祖の配下になったのかと。人の生き血を糧とする自身の存在を、全肯定出来る。隠れ潜まず、地上で自由に振舞える。しかし真祖の一党に自由は無かった。この隊列には多くの模造吸血鬼が居り、その中にはCと、またもやFが空ろな目で加わっている。生きる事と死ぬ事を、自分達以外の圧倒的な存在に握られているのだ。ここが潮時だと、ヴィヴィアンは腹を括った。

 中空に浮かぶ奇妙な絵姿の扉が見えた。ここから下水道を伝い、表に出て、アウター・サンセット地区の攻略戦を開始する。しかしそれは、一方的な虐殺にはならない。情報を自分が全て外に流したからだ。問題は、エルジェに気楽な雰囲気が一切無い点である。言う事は相変わらず狂っていたが、少なくとも地上への進出が戦闘になる事を承知している気配があった。

 つまり、情報漏洩を認識していると考えるべきなのか。真っ先に疑われるべき自分への干渉は、今のところ無い。エルジェが一体何を考えているのか、ヴィヴィアンは図りかねた。

「V2。否、ヴィヴィアンと言ったか?」

 何時の間にか、ミラルカが隣に立っていた。扉を前に、列が崩れる隙を見計らったらしい。彼女は聞き取れない程の小さな声で言った。

「思うようにせよ。生きるがいい」

 ミラルカが仮面を外し、悲しげな笑みをヴィヴィアンに向けた。彼の表情が驚愕で強張る。ミラルカのその顔は、レノーラのそれに生き写しであったのだ。

 

<開戦>

 如何にも富裕な住宅の窓ガラスを割り、5人の男達が足を踏み鳴らして侵入する。がらんどうの家の中を我が物顔で歩き回り、貴金属類や現金を漁っては歓声を上げた。

 火事場泥棒という輩は、風光明媚なサンフランシスコにも残念ながら居る。混乱回避の観点から、情報が極力抑えられた現状にあっても、アウター・サンセット地区全体に避難指示が出されているとの話は市民の間で広がりつつあった。市当局には問い合わせの電話が鳴り響き、徐々に地区周辺へ野次馬が集まり始め、市や警官はその対応に追われる事となる。

 こうした状況で、わざわざ封鎖している地区に入り込もうというのは、余程の物好きか犯罪者の類だ。そして警官隊の網をかいくぐり、地区への侵入を果たす者が何人か出始める。例の5人は窃盗の常習犯であり、かような機会を逃すはずは無かった訳だ。

「ここいらのどこかに爆弾が仕掛けられているって噂だ」

 ネックレスをポケットに突っ込みながら、男達の1人が仲間に言う。

「適当なところでずらかろうぜ」

「焦るなよ、まだ食い足りねえ」

「これだけ安全にやりたい放題出来るのは稀だしよ。稼げる時に稼がにゃな」

「ひゃはは。こいつぁ宝の山だぞ。もう一軒くれえ回ろうぜ」

「前から目をつけてた家がある。あそこの娘がたまんねえ体なんだ。逃げ遅れているといいんだがな」

 男達はバッグに詰めるだけ金目の物を詰め込み、慌しく家から出ようとし、その足を止めた。

 暗闇の中で光る双眸が、居間のガラス越しに見えた。庭先から誰かがこちらを覗いている。男達は一斉に銃を取り出したが、月明かりに浮かぶその顔を確認し、相好を崩した顔を見合わせた。

「女だ」

「結構いいな。おい、お前、撃たれたくなかったらこっちに来い。」

「変な真似をしやがったらぶっ放すぞ。助けを呼んでも、誰も来やしねえよ」

「…本当に誰も来ないの?」

 言いながら女は木陰から出て、無防備にその姿を晒した。男達の下卑た笑いは、しかしすぐさま掻き消える。横合いから、また人が現れたのだ。2人、4人、10人。

「何だ!?」

「何だこいつら」

 躊躇の声と共に、男達が一斉に拳銃を撃ち始める。しかし庭の一団は、ものともせずに近付いてきた。どれだけ弾を命中させても全く止まらぬ歩みを認め、ようやく男達は、自分達の目の前に居る者が尋常ではない事に気がついた。後じさる彼らの背中に、何かがぶつかった。振り返る。壁のように聳え立つ集団が背後に居る。集団は庭の者達と共に男達を取り囲み、一斉に牙を剥き出した。

「本当に、誰も、来ないのお?」

 金色の髪を振り乱し、女がへたり込む男達を見下してきた。喉を裏返して仰け反り、顎が外れる程に口元を変形させ、女、エルジェは、一番若そうな男の喉もとに喰らいついた。

 

 吸血鬼は人間を捕食する際、生かしたまま貪る事を好む。一時『反逆者』が吸血鬼の頂点に立った際は、即死させてからの捕食を徹底させたものだが、それは元来の吸血鬼の嗜好としては異常であった。血液は生命そのものであり、吸血鬼はその生命を糧としている。死なせてからでは直後であっても生命が急速に希薄となる。

 よって件の5人の男達は、生きたまま食われるというこの世の地獄を見ながら息絶えた。全身をズタズタに噛み千切られた骸を放置し、群がっていた吸血鬼達が立ち上がる。赤黒く汚した口元を拭う顔と顔は、しかし皆一様に不満げであった。

「足りないわ。全然足りない」

 Eが上半身血まみれの凄惨な立ち姿で、虚ろの面持ちのまま曰く。

「これだけ探してようやく5人。住民達は何処に行ったの?」

「事前に一斉避難をされたのは明白だな」

 してやられたり、と額を打ってAが苦笑する。

「まあ、大体分かっていた話だが。彼が内通者である事は周知であったからねえ」

「それにしても手段が尋常ではない」

 暢気な言い方のAとは裏腹に、Bが不審を露に言う。

「この区域の人間の数を、穏当に全て避難させる手腕がね。あ奴が事前にハンターの手引きをしたとしてもだ。敵は恐ろしく手強いわ」

「…V2、どうして私達と一緒になってくれなかったの?」

 憐憫を含んだ声音でEが嘆いた。

 V2ことヴィヴィアンが裏切り者である事は、仕える者共の内部でも既に知れ渡っていた。しかしながら、情報の漏洩が発覚した時点で処断を下さなかったには理由がある。Aは、それと知られぬようにエルジェの顔色を伺った。抹殺の指示を出さなかったのは、エルジェだったのだ。

(エルジェ様は、一体どのようにお考えなのか?)

 Aが訝しがる。ハンターとノブレムを一気呵成で撃滅しなかったのは、真祖の、更にその上の存在の意向ではあった。しかしながら此度の件はエルジェの独断と言っていい。他にも彼女は、明らかに必要以上の加減をする傾向があった。前から気ままな人柄であったが、これでは集団としての結束に綻びが生じてしまう。

 と、エルジェがくるりと顔をAに向ける。まるで彼の不安を見透かしたかのようだった。Aが身を固くして彼女の視線を受け止める。

「A、各隊を拡散させなさい」

「了解致しました」

「まずは南北をくまなく舐めるのよ。そして西端から前進しつつ中心部に集結する。人間が居ないなら居ないで、まあ良い。以降アウター・サンセットは吸血鬼の縄張りという訳よ」

「地区外の人間に手を出す事は?」

「ならぬ。真祖様はアウター・サンセットの占領命令のみを仰られたわ。命令違反は私による死の制裁が待ち受けると覚悟なさい。しかしアホウな人間共の事よ。必ず物好きな馬鹿が紛れ込んでいるでしょうねえ。そいつらは思う存分食い散らかすがいい。ま、占領後は血の舞踏会の開始ってワケよ。まさに酒池肉林の暮らしとなるわ。それでは者共、行け」

 命令一下、仕える者共と模造吸血鬼はその場から姿を掻き消した。

 その様を満足げに見遣り、エルジェは酒棚のガラスを叩き割ってロゼワインとグラスを手に取った。如何にも高級そうなソファに身を沈め、注いだワインを緩やかに飲む。そしてエルジェは、美しい形の唇を禍々しく歪めた。

「あら。愛しい人の香りがする」

 

 ヴィヴィアンは背後に控える模造吸血鬼を顧みた。人種や性別は雑多なれど、彼らには一つの共通点がある。個性の無さだ。顔形は異なれど、ヴィヴィアンには彼らがどれも同じ者に見えた。それはとても哀れであった。吸血鬼とは、人間としては死んだ者という事である。その上で更に死に、また黄泉返らされる等と。

「C」

 哀れみを打ち消し、ヴィヴィアンはかつての仕える者、『二回目』のCを彼らの内から呼び出した。しかし呼ばれたCは無反応である。

「C、キミの事だよ」

「俺?」

 間抜けな声音と共に、首を傾げながらCが前に出る。以前の凶暴性はなりを潜め、今はひたすらぼんやりしているとしか言いようが無い。彼の本当の名前は何であったのだろうとヴィヴィアンは思う。

「…あの公園を見ろ。入り口を車両が封鎖している。ハンターが潜んでいる可能性が高い」

 ヴィヴィアンがウェスト・サンセット・プレイグラウンドを指差した。地区東端中央部に位置する公園は、各種運動施設が複合的に存在する広大なものだった。住宅で込み入った地区にあって、比較的開けた場所である。

「あそこでボクらを迎撃する腹積もりかもしれない。先行して状況を確認して欲しい」

「確認?」

「ああ、人間が居る」

「居るのか? 食えるんだな?」

「飽く迄状況確認だよ。しかし、もしも戦いになれば好きにするがいいさ。殊勲を挙げるチャンスだぞ。いいかい、何が待ち構えているか分からない。お互いをフォローし合えるよう、『かたまって行くんだ』」

「分かった」

 Cがふらりと立ち上がった。他の模造吸血鬼も彼に倣う。そして今迄の茫洋とした雰囲気を翻し、俊敏な挙動でもって模造吸血鬼達はWSPへと向かって行った。

 その後姿を見送り、ヴィヴィアンは首を振って十字を切った。そして携帯電話を取り出し、通話を繋ぐ。

「5人行ったよ、ディートハルト」

 

 模造吸血鬼は北の児童公園からWSPへの侵入を開始した。何しろ広大な敷地面積を有しており、人間が潜める地点を数え上げれば暇が無い。

 普通の吸血鬼は人間の知性を有しており、敵が潜伏していると分かっている場所には十分な注意を払うだろう。しかしながら模造吸血鬼は、ほんの僅かな例外を除き、そうした通常の感性から大きく外れる者が大概だった。ヴィヴィアン配下の彼らの脳裏にあるのは、「状況を確認する」「かたまって行く」「人間を殺す」「血を啜る」、以上。彼らは言われた内容以外について、状況を認識する能力が欠損している。

 剛直に進行する模造吸血鬼は、まともにやり合えば脅威の一語だ。吸血鬼なのだから当然である。しかし彼らはヴィヴィアンから、極めてシンプルな指示しか受けていない。加えて彼らを待ち受けるのは、並の人間ではない。ハンターなのだ。

 テニスコートを越えて野球場を突っ切り、植樹された木々を抜け、先頭を行くCが複数の銃座を視認した時点で、ほぼ前哨戦は決着した。

 正面から文字通りの血煙が噴出し、それをまともに吸い込んだ模造吸血鬼達がむせ返る。たまらず進行を止める。血界煙幕は死人の血を含有する欺瞞煙幕だ。方向性を見失わせる上に、吸血鬼にとっての麻痺毒が身体を蝕む。咄嗟の展開に応対出来ないところで、今度は銃弾が四方から撃ち込まれて来た。

 タン、タン、タンと、単発のリズミカルな射撃が模造吸血鬼の胴を丹念に抉る。弾にも死人の血が含まれていた。数体が膝を付く。辛うじてCが煙幕の効果範囲を抜けた所で、横合いから大型ナイフの一閃が首筋にぶつかった。

 ナイフの刃が頚動脈まで到達し、しかし首を切断するには至らない。どす黒い血が噴出する。ガア、と呻き声を上げ、Cは首を掻き取ろうとしたハンターの男の腕を掴んだ。

「くっそ、やり損ねた!」

 砂原が吠え、ナイフを持ち替えて鋸の押し引きで肉を切り裂いて行く。「点取り屋」ならば一撃で首を飛ばしていたかもしれないが、残念ながら彼はそうではない。この時点で砂原は極めて危険な状況であったが、血界煙幕の威力が功を奏する。牙を剥き出し血走った眼で睨み、しかし砂原を跳ね除ける胆力の発揮には至らず、結果Cは醜い顔のまま首から上を地面に切り落とされる始末となった。

 呼気を荒げ、砂原は一斉に襲い掛かった仲間達を見遣った。自分と同じく苦労をしたのは斉藤くらいで、他はほぼ一撃で仕留めたらしい。

「ナイフや刀剣類も銀にするなりの強化を施した方がいいかもしれん」

 血糊が付着する脇差「小太郎丸」の刀身を布で丁寧に拭い、風間は夜闇にあって輝く刃を揺らした。

「首をぶっ飛ばす為にさ。まるで戦国時代の武士だな」

「面倒なら、至近距離から突撃銃の連射で頭を吹き飛ばす手もある。散弾銃もいい。ともかく、これで片付いたという訳ね」

 ケイトは鼻を鳴らし、銃を下げて接近してくるSWATの面々を眺めた。彼らの援護射撃は的確で冷静だったが、その表情には強張りがある。吸血鬼の異常な身体能力を目の当たりにしたからだろうとケイトは思ったが、ラウーフ分隊長による第一声は、そうではなかった。

「凄まじいですね。秒の単位で皆殺しにするとは」

 分隊長は彼らの手腕に驚嘆した。ジャンプでフェンスを飛び越え、銃弾を何発も撃ち込んでも死なないような手合を向こうに回し、ハンター達は如何に対処すれば良いのかを熟知している。仮に何も知らされない状態で自分達が戦闘に突入していれば、経験外の展開の連続で恐慌に陥っていたかもしれない。

「先手必勝が原則だよ」

 肩を竦め、斉藤が説明する。

「この世ならざる者は、吸血鬼を含めて個体能力が人間の遥か上なんだ。だから、こちらの土俵に持ち込めるか否かが生死を分ける。先制が完璧に決まれば、このくらいは出来る」

 そう、このくらいは。

 顎が大きく変形して無数の牙を剥いた生首を、気味悪そうに見下ろすSWATの面々を横目に、ハンター達は無表情を貫いている。仕掛けた罠の行使を最低限に留め、確かに勝負は短時間でついた。しかしながら、模造吸血鬼の戦闘能力を確認するとの意味において、事態は深刻の度合いを増していたのだ。

「ケイト、手応えはどうだった?」

 ディートハルトと同じく、仕える者共との戦いでは一日の長があるケイトに風間が問う。受けてケイトは、首を横に振った。

「正面戦闘にならなかったから確信は出来ないけれど、多分、標準的な戦士級」

 皆が一様に唸る。ヴィヴィアンの指示によって、模造吸血鬼は「殺して下さい」と言わんばかりの無防備な姿を晒してきた。リーダー役の命令には実直に従うという事だ。つまり命令が狡猾で知恵を回す代物であれば、模造吸血鬼は戦士級の純然たる戦闘能力を発揮してくるだろう。

「これからヴィヴィアンが、仕える者共にWSPでの交戦を連絡しますな」

 ディートハルトが、やや楽しげな風情で皆に言った。

「エルジェ共は、どのように動くと思われますか?」

「余程の馬鹿でもない限りは」

 砂原が思ったそのままを口にする。

「俺達を舐めてかかりはしないだろうよ。戦力の逐次投入なんて愚は犯さない。一斉に仕掛けてくるな」

 その言を区切りとし、ハンターの4人は風間を見た。本作戦行動を纏め上げ、この一団の統率者である彼を。風間は重い責任を重々自覚しつつ、しかし落ち着き払った声で言った。

「トラップは本格的に行使していない。斉藤の捩じくれた仕掛けの数々は、ろくすっぽ牙を剥いちゃいないんだ」

 ふっ、と抜ける笑いを漏らした斉藤の肩を小突き、風間が続ける。

「それらは押し寄せる荒波を和らげる防波堤みたいなもんだ。力と力の全面激突は成立させない。その為の準備に腐心した。奴等を尽く撃破し、削げるだけ力を削ぎ落とし、で、俺達は生き残る。1人も余さず生き残る」

「まだ先は長いからな」

 不敵の顔の斉藤に頷き、風間は断言した。

「腹を括ろう。本当の戦いは、これからだ」

 

 地区に紛れ込んできた野次馬は、何れも哀れな末路を辿った。

 エルジェは好みの若い女の生首から滴る血を、大口を開けて飲み干した。そうして特に目的も無く地区を歩き回る様は、檻から出された肉食獣さながらである。時折仕える者共が現れては、わざわざ携帯電話を使わずに報告に来る。初期の印象通り、この地区の住民は不運な来訪者を除き、尽く撤収していた。存分に血を食らう腹積もりだった者にとっては拍子抜けであっただろう。

 生首をぶら下げ、満足した顔で口を拭うエルジェの袂に、音も無くAが跪いた。また誰も居ないとの報告かと思いきや、違った。

「先遣を務めたV2から、報告がありました」

 面を上げずに、Aが言う。

「ウェスト・サンセット・プレイグラウンドにハンターの一団を発見。制圧の為に隊の一部の支援を求む、との事です。如何致しましょう」

「一部ぅ?」

 ケラケラとエルジェが笑った。合わせてAも肩を揺らす。

「そんなシケた戦いは御免だわ。一丁派手に暴れるとしよう。全部隊を集結させて四方から包み込んでおあげなさい。V2諸共皆殺しだあ。首級で玉入れ遊びが面白そう」

「承知しました」

 消え去るAに一瞥もくれず、エルジェはゆっくりと顔を回した。視線の先に男が居る。平らげた女と一緒に居た者だ。恐らく友人か恋人なのだろう。男は目前で繰り広げられた地獄絵図を前に腰を砕き、恐怖を通り越して茫然自失の体であった。エルジェは唇を真赤な舌でひと舐めし、その目を細めて優しげに言った。

「お前も一緒に来る?」

 

 ヴィヴィアンは五感の鋭い吸血鬼の中でも、頭一つ抜けている。彼は相手の心を読む異能は持ち合わせていないが、その声から凡その傾向を予想する程度の事は出来た。

 Aに繋いでいた携帯電話を切り、ヴィヴィアンが舌を打つ。自分の叛意を、既にAは承知していると彼は知った。恐らく他の者も。エルジェですら。検討はついていたものの、こうなると今迄よく生きてこられたものだと背筋が冷える。

 しかし振り返ると、情報漏洩を逆に利用された気配がほとんど無い点が気に掛かる。ある程度はやりたいようにやらせて貰っていた感すらあった。自分の行動によって、仕える者共は少なからず打撃を被っていたにも関わらず。

 ともあれ、これにて幕引きとなるのは確定的だった。最早自分にとって、真祖一党は本来あるべき仇敵の姿となったのだ。さようなら、みんな。短い間だったけど。ヴィヴィアンが呟く。敵は帝級を擁する強大の者達。しかし敗北の一語はヴィヴィアンの頭に無い。人間が構築したトゥルグショールという精密な作戦において、自分はジョーカー的な存在だ。仕える者共を引っ掻き回せる力を自分は既に備えている。

「…そう、何時かレノーラすらも守れるように」

 ヴィヴィアンは気配を消し、静かにその身を公園の物陰に退いた。そして、その時を待つ。

 

<フルアタック>

『敵は一箇所に集中しているらしい。A、君の異能で一網打尽にしてやるのはどうだ?』

 連絡を寄越した際、V2はそのように囁いてきた。Aは鼻で笑った。何を狙っている?と。

 しかしながら、ビルの屋上から模造吸血鬼と共にWSPを眺めるAは、その強大な先制攻撃の行使に魅力を感じ始めていた。公園の広々とした芝生の中に、4台の装輪装甲車がこれ見よがしに四角の陣地を形成している。ヴィヴィアンの言う通り、ハンター達は其処に立て篭もっているらしい。

 それにしても、である。その装甲車は当然ながら通常の手段で調達出来る代物ではない。名高いSFPDの特殊部隊が所有する車両である事は、Aでも知っている。どうやら彼らは、市警との連携を選択したらしい。なれば速やかな地区住民の避難も納得出来る。Aは苦笑した。ハンター達の、なりふり構わぬ必死の度合いに。

 それでも、Aは自分の弱点に気付いていなかった。彼は人間を見下すきらいが他の吸血鬼よりも強く、それ故に時には慎重を欠く事があるのだ。V2、ヴィヴィアンが叛意を抱いていると分かっていながら、彼の誘導にAは乗ってしまった。人間の力を過小評価するあまり、その力、アギヌメヘトを敢えて使わせようとしている意味を考察しなかった。その黒い槍の雨は確かに脅威であったが、それでもf前回、一網打尽に出来なかった点を彼は忘れていた。

「死ぬがいい。何が起こったのか分からぬままに」

 Aが夜空に掌を掲げる。同時に発生した漆黒の棒は無数。それらは解き放たれ、大きく弧を描き、切っ先を下向けてハンター達の陣地に集中した。

 

 装甲車両の四方の中心で「結界」持ちの面々が、呻き声を上げながら静かな槍の応酬を受け止める。

 車両に張った結界符は、複数の人間の合力によるものだ。異能攻撃に対抗すべく、人間らしい協力でもってハンター達は耐え凌ごうと試みる。それでも六大異能アギヌメ系列第七段階、アギヌメヘトは暴力的だった。遮蔽物を貫通し、一発体に貰ってもその部位が消し飛ぶ威力の代物が、数え切れないほど降って来るのだ。

 しかし結局、ハンター達は黒い槍の猛射を耐え抜いた。膝を付き、息を荒げて消耗し尽しても。恐らく仕える者共の中では最大級の威力を持つと想定される1回こっきりの攻撃を、彼らはまんまと使わせた挙句、ただの1人も犠牲者を出さなかった。

「やったぜ…してやったりだ…」

 斉藤がよろよろと立ち上がり、拳を突き上げた。ハンター、SWAT、共に全員健在。現時点、事は想定の範囲内に進んでいる。

「これで順当に迎撃戦へ移行出来るぜ」

「油断はなりませんよ。まだどんな隠し玉があるかも知れません。それにエルジェだって居りますからな」

 ディートハルトは息を一杯に吸い込み、気を落ち着けた。配下のAですら、この異能持ちである。エルジェが恐るべき力を有しているのは承知であったが、彼女は帝級が帝級たる証の異能について、その片鱗すら見せていない。

 結界の傘に守られていたSWATの隊員達が、分隊長の指示で一斉に動いた。装甲車に配備されたモニタを確認する為だ。監視カメラはハンターの指示で、WSPの東西南北に張り巡らされている。仕える者共がEMF探知機の網を抜ける手段を所持している事は了承済みだが、その姿までを隠し通せる訳ではない。程無くして、接近する吸血鬼達の一団を、SWATが続々と発見した。

『南方聖イグナチオに1部隊出現』

『オルテガストリートを6体が横断中』

『東部駐車エリアを進行する複数の人影有り』

「包囲殲滅という訳ね」

「しかし来ると分かっている手合はコントロールし易い」

「俺達は専ら、不意打ちにどう対処するかを重ねてきたからな」

 口々に言いながら、ハンター達が所定の位置に付く。警部補とSWATも続々と銃を手に取り、やがて押し寄せるだろう吸血鬼の群れが居る方角へと銃口を向けた。

 ただの銃砲火の弾幕であれば、恐らく押し切られる。たとえ死人の血を含ませた銃器によるそれであっても。しかし彼らには工夫があった。全面攻撃を各個撃破で迎え撃つ為に張り巡らせた、致命に至る罠の数々である。

 

 Aは手応えの無さを逸早く察知し、即座にその身を伏せた。こちらの位置を察知されたと踏んだからだ。

 先程のアギヌメヘトは完全な無駄撃ちに終わったらしい。敵に何一つ有効な打撃を与えられず、尚且つ自分は消耗するのみであった。憤怒の顔で、Aが唇を噛む。過剰な自信を利用され、まんまと乗せられた愚かさを認めるのは、誇り高いAにとって屈辱的だった。

 しかし、とAは思い直す。まだ戦いは始まったばかりである。V2の離反が確定的となった現状、6名の戦力減を鑑みても、自分達は2名の帝級を含む精強な吸血鬼集団だ。勝ちの目、明らか也。Aはそのように判断した。

 Aが地上に降り立ち、侵攻を再開する。

 BとEが模造吸血鬼を率いて挟み込み、トリックスターのGが撹乱を行なう。些か消耗した自分は彼らの支援。敵の戦線に混乱を来たした所で、満を持して2人の女帝が制圧を実行する。人間が集団戦を自らのお家芸と自負するのであれば、吸血鬼もまた集団の生き物である。知恵持つ獣の群れの恐ろしさを思い知るがいい。Aは哂った。

 そして、ふと進路の脇に視線を流す。公園内に至る通路は、ミドルスクールの建物の壁が先まで連なる格好となっている。その建物の僅かな隙間に、薄板が被せてあった。それは凝視しなければ、ただ置かれているだけの変哲も無い代物にしか見えない。何だこれはと思った瞬間、Aは容赦なく模造吸血鬼の1人の背後に隠れた。

 ドン、と重い音と共に大量の鉄球が板を突き破り、一行目掛けてばら撒かれる。指向性地雷。人間の体をボロボロに砕く代物。配下の5人が鉄球をまともに浴びて続々と倒れ伏す。内1人が運悪く首から上を吹き飛ばされ、その場で息絶えた。

 自らの盾として死んだ彼を打ち捨て、Aは左肩から侵食を開始した鈍痛に耐えかね、足をふらつかせた。鉄球には毒が塗布してあったのだ。吸血鬼にとって最悪の麻痺毒、死人の血が。

「…おのれ!」

 激怒にかられて呟いたその時、背後から二度目の破裂音が聞こえた。

 

「決まった。さすがに2連発は辛かろう」

 監視モニタの映像を見据えながら、斉藤が言った。WSPにおける陣地周辺域は、公的設備と持ち込みの監視カメラを駆使して、密度の高い索敵が行なわれている。EMFに引っかからない工夫を取ってくるのであれば、人間ならではの知恵と工夫で焙り出すという事だ。

 模造吸血鬼達とAは、死人の血入りの指向性地雷を2回も浴び、全身を穴だらけにされて昏倒していた。しかしながら、首から上が繋がっている状態を放置する事は出来ない。乱戦は早い者勝ちだ。悠長に構えてAの復帰を助長していては、折角の数的有利が不利へと戻る。

「風間!」

 斉藤が声を上げるまでもなく、風間は「飛翔」の符を取り出していた。ケイトと砂原も突撃銃の弾倉を装填し終え、出撃の準備に入る。ディートハルトがガーシアの異能を発揮し、銃を己が右腕に飲み込ませる。その様を見、周囲のSWATの面々が目を丸くした。精神負荷に対する訓練を積んだ彼らであっても、異形そのものを前にすればうろたえるものだ。しかし、かような瑣末を気にする時間は無い。ディートハルトが厳かに言った。

「SWATと私が援護の弾幕を張ります。その間に第一波を潰して下さい。事が済み次第、速やかに陣地へ戻る事」

 既に陣地を中心とした公園の領域は、包囲網が完成しようとしていた。敵が狙うのは装甲車両で固めた陣地以外に無い。陣地からの弾幕による迎撃を軸として、ハンターが正面からの打撃と遊撃を担う。その間にもトラップは炸裂し続ける。敵の力を削りつつ、自陣営を極力温存させる以外に勝つ術は無い。

 ディートハルトとSWATの突撃銃が火を噴いた。敵の姿は未だ見えないものの、来る方角は粗方把握している。其処へ目掛けて大量の弾幕が張られ、幾つかの場所から爆発音と共に煙が上がる。斉藤が罠を作動させたのだ。敵は自身の姿を隠しているものと信じている。にも関わらず的確な迎撃を浴びる展開に、恐らく動揺を隠せずにいるだろう。機会は今だ。

「それじゃ、行くぜ」

 風間が「飛翔」を使って空へと跳ね飛ぶ。同時にケイトと砂原が姿勢を落とし、北部方面への突撃を開始した。

 

「無理だ。下手に動けばこちらも火傷する。一旦退いて立て直しなさい」

 Aからの支援要請をすげなく断り、Bは携帯電話を畳んだ。そして端正な形の口元を歪める。

 恐らくAは、もう駄目だろう。先程から始まった敵側陣地からの弾幕に紛れ、数人のハンターが出撃する様をBは視認していた。狙いは先制攻撃を仕掛けたAに間違いない。さようなら、A。侮蔑も露に、Bが囁いた。さようなら。また会いましょう。今度は模造吸血鬼として。

 それにしてもと、Bは改めてハンター達の戦い方を確認した。

 Bの部隊にも指向性地雷が炸裂したものの、彼女による事前の察知によって被害を最小限に留める事が出来た。B本人はノーダメージ。しかしその結果を受け、Bは侵攻を一旦停止し、状況の把握に努めた。そうして分かったのは、敵の正確さである。

 ハンター達がEMF探知機による索敵を常套としているのは承知しており、目くらましの黒衣でもって自分達はそれに対抗してきた。しかしながら狙い澄ました罠の炸裂といい、当たらないながらも見当のついた弾幕といい、明らかにハンター達は自分の位置を理解している。Bは首を回し、公園各所に設えられた監視カメラの一つを横目に置いた。成る程、そういう事かと。

 敵は徹頭徹尾、人間ならではの知恵と創意工夫を総動員して吸血鬼の迎撃に腐心していた。敵が予め用意した土俵の上に、自分達はまんまと乗らされつつある、という訳だ。出会い頭に蹴たぐりをかまされるのも当然である。

 差し当たっての脅威は、物理的な監視と遠隔操作されているだろうトラップの数々だ。真っ当な戦いにならぬ内に、このままでは大量出血を強いられる羽目となる。女帝級の存在に胡坐をかいて、舐めてかかった報いを受けるのは、しかしAだけに留め置きたい。Bは再度携帯電話を取り出した。

 Aとはまた異なる自尊心故に、Bもこの戦いで梃子摺るつもりは無かった。彼女には夢がある。ノブレムに居る1人の強大な吸血鬼を、自らの手で血祭りに挙げるという夢が。その者は、自分を半殺しにしてみせたレノーラよりも恐ろしいと、Bは評価している。前の戦いでエルジェに首を飛ばされておきながら、その後平然と生きていたという情報を後日に得て、Bは心中で狂喜乱舞した。奴は想像以上の化け物なのだ、と。完全不死の吸血鬼など、この世に真祖と奴しか居ない。そういう強敵を、知恵を尽くして八つ裂きにしたい。それを思えば、Bの体の芯が熱くなる。

 赤らめた顔のまま、Bは携帯電話を1人の女帝級に繋いだ。相手はミラルカ。真祖からの命を受け、遊撃任務についている。

『何用か』

「少し驚かせて頂きたいのです。奴等を」

 

 Aは携帯電話を握力で潰し、憤怒の形相で陣地の方角を睨んだ。

 Bは自分を切り捨てるつもりなのだと彼は知った。彼女の声音には隠しきれぬ嘲りが含まれていた。誇り高いAにとっては屈辱的である。それでも激昂は速やかに収まり、Aは冷徹な目でもって置かれた状況を思案した。

 俯瞰で見れば、部隊としての機能は崩壊している。何しろ死人の血を浴び過ぎた。辛うじて動き回れるのは、高位戦士級である自分のみ。模造吸血鬼は歩くのがやっとの有様。王手詰み、である。Aは撤収を決断した。

 まあ良い、とAは思い直す。もう直ぐエルジェが、おっとり刀ではあるものの、この戦場にやって来る。彼女の絶大な戦闘能力は、ハンター側の決死の頑張りを全て無に返すだろう。自分はそれを高みから見物する、というのも悪くない。武勲の機会を逃すのは残念の極みであったが。Aは立ち上がり、撤退の第一歩を踏み出そうとした。しかし。

 突如周囲に過大な圧力が被さり、たまらずAは再び膝を付いた。続けざま、今度は身体機能そのものの鈍磨を自覚する。何事かと驚愕し、Aは空を見上げた。同時に自分と模造吸血鬼の居る範囲に、上から降り注ぐ銃弾の雨霰。

 「飛行」の力でもってAの部隊の上を取り、風間は自由落下に体を任せ、SG552の暴れる銃身を抑え込み、フルオートで銃弾を叩き込んだ。さすがにこの姿勢では弾をばら撒くしか出来ないが、何しろ数の暴力である。それも死人の血のオマケ付きだ。掠っただけでもさぞ痛かろう。

「貴様!」

 Aが怒声を放ち、大型のナイフを抜き放つ様を眼下に捉える。風間はそれには応じず、中空で制動をかけ、弾倉を再装填しつつ後方へと飛びすさる。入れ違いに地上から、2人のハンターがAに向けて突進した。

 砂原がP90を接地し、腹這いの格好で一団目掛けて猛射を加えた。援護を貰ったケイトが大きく迂回し、方角を切り替えて横合いから突っ込んで行く。速度を落として突撃銃を構え、水平射撃開始。

 着地した風間も襲撃に参加し、Aの部隊は都合三方向から叩き放題に叩かれる展開を迎えた。毒が抜けかけた模造吸血鬼達が、またもバタバタと倒れて行く。ハンター達は死人の血を念入りに活用しており、大量の命中弾を貰ったAも次の行動には移れない。彼に仕掛けられた風間による「鈍化」の呪いは、着実にAを蝕んでいる。傍目に見れば、この小規模な戦いはハンターの圧勝であった。

 しかしAは、それを認める理性をとうに失っていた。あるのは吸血鬼としての本能。人の血を啜り、そして殺す。抑えていた「狂乱」を発動させ、吠え声と共にAが立ち上がった。形振り構わぬ獣の目をケイトに向け、Aは彼女の喉元に食らいつくべく走り出した。

 既に突撃銃の弾倉は空だった。ケイトは代わりに拳銃を構え、手早く引き金を絞りながら後退した。進行を阻止せんと、砂原も狙いをAのみに切り替えて直撃を浴びせる。しかしAの歩みは止まらない。「狂乱」は死人の血の麻痺毒すら、一時忘れ去る事が出来るのだ。訳の分からない言語を喚きながら、Aは一挙に距離を詰めるべく、跳躍の第一歩を踏み出した。同時にケイトが大きく飛び退き、地面に体を伏せる。その行動の意味を、最早Aは知る由もなかった。

 Aの体が大量の鉄球と共に吹き飛んだ。風間が何時の間にか接近を遂げ、指向性地雷を炸裂させたのだ。全身をズタズタに引き裂かれ、Aはコンクリートの通路に叩き付けられた。

 それでも首は、未だ繋がっている。Aは顎を変形させて牙を剥き出し、顔を上げた。そして最期に彼が見たものは、ケイトがすくい上げてくるナイフの刃、その煌き。

 不思議に恍惚の表情を浮かべ、物言わぬ生首と成り果てたAを、ケイトは何の感情も伴わない顔で見下ろした。その間にも、風間と砂原が模造吸血鬼の首を刎ねている。Aの部隊は、壊滅した。

 ハンター達は部隊2つ分を殲滅し、仕える者共のリーダーであるAをも討ち取った。しかし戦いは佳境に差し掛かる段階でしかない。彼らは為すべき事を承知している。

 

<シチュエーション:コンフュージョン>

 仕える者共は未だ陣地に接近出来ていない。ハンターとSWATによる弾幕は八面を制圧しており、迂闊に突出すれば蜂の巣となるのは必定である。それで吸血鬼が死に至る事は無いが、動けなくなった所を狙ってハンター達が首を狩に来るのだ。加えて何処からともなく炸裂するトラップ群が追い立てに拍車をかける。結果、吸血鬼側の包囲網は膠着状態に陥った。

 斉藤は複数のモニタの監視を続け、時折網に引っかかった仕える者共にトラップを炸裂させている。緒戦に比べれば巧妙にその身を隠匿しているものの、位置関係は碁盤目に区切ったWSPの見取り図に細かく書き込んでおり、その所在を斉藤は全て頭に入れていた。

 吸血鬼側が出控える状態は好都合だった。つまり広範囲の包囲網が仇となり、各小隊の連携が寸断されているからだ。自分達はそれらを一つずつ丹念に潰してゆく。そうやって模造の量産品とは言え、吸血鬼を10体以上殺す事に成功した。内1人は仕える者共のA。一度の戦闘でこれだけ倒せたのは、ここ最近では3年前のウィンチェスター兄弟の強襲ぐらいである。

 しかしながら斉藤は、ノートに状況を書き込む手を止め、不安の面持ちでモニタを注視した。確かにこの戦いは、敵の戦力を大幅に削る事を主眼に置いている。第三席女帝級吸血鬼、エルジェの抹殺という最大目標を掲げて。そのエルジェは、今もって戦闘に参加していない。狡猾にも、モニタに姿を見せる片鱗すら見せないでいる。この戦いの状況を、何処かから眺めているのは間違いないはずだ。

 取り敢えず斉藤は考え直した。後から来るのならば、それでもいい。仕える者共を削り倒された挙句、最後にボス級として姿を見せるという間抜けな敵ならば御の字だ。斉藤は続けざまに襲撃出来る一団をモニタで探り、その一つに視線を釘付けた。

 エレメンタリースクールの屋上に設置された監視カメラは、全身を外套に包んだ女らしい者の姿を捉えていた。それはしばらくの間空を見上げ、やがて目線を眼下に落とし、次いで監視カメラの方角へと振り向いた。フードを取る。斉藤の挙動が凍り付いた。

「ミラルカだ…」

 呟いた直後、モニタが立ち消えた。同時の全てのモニタがブラックアウト。この陣地にも、見えない何かが襲い掛かる。結界符の防御が何とか凌ぐも、3人抜けて斉藤とディートハルトの2人分の護りは負荷が激しい。斉藤は膝を折り、それでも状況を確認すべく車外に出た。そして気が付く。外の様子がおかしい。周囲の闇が余りにも深いのだ。

「何事だ!?」

「周辺域の街路灯が全て消えました」

 不意の結界行使で疲労困憊の体も露にディートハルトが答えた。

「この辺りを中心として、電気系統がやられたようですな」

「まさか、電磁場異常の大規模発生か」

 斉藤は以前の事を思い出した。この街の怪異現象が勃発する手前で頻発した、停電事故の数々について。あれは強大なこの世ならざる者の出現と同時に発生した不測の事態であったが、此度は違う。極めて作為的な現象であり、れっきとした攻撃行動と見るべきである。恐らく仕掛けたのはミラルカだ。この一帯の電気設備を使用不能に導く異能の類を行使したらしい。おかげで目視が効いていた状況は引っ繰り返され、監視カメラも役立たずと成り果てた。そして悪い事に、トラップの遠隔操作が最早不可能となる。斉藤が唇を噛んだ。これから敵は、間違いなく押し寄せるのだ。

「サーチライト!」

 ラウーフ分隊長が隊員に命令を出す。装甲車に設えたサーチライトが一斉に四方を照射した。これにて広範囲の視界をカバーする事は出来た。が、それでも緒戦に比べれば穴が大きい。監視カメラの喪失はハンターとSWATにとって痛手である。

「何処から来るか分からんぞ! 持ち場の警戒に集中しろ!」

 マクベティ警部補が声を張り上げ、突撃銃を片手に近付いて来た。斉藤とディートハルトが応じる。

「圧力は確実に弱まっている。迎撃は出来る。斉藤、お前も風間が残したMG3で弾幕を張ってくれ」

「そのつもりさ。それにしても、拡散されると厳しいな。頼みは陣地周囲のトラップだな。あれは守れたはずだ」

「EMF探知機が機能すれば、事は然程難しくはないのですが…」

 言って、ディートハルトが探知機を取り出して起動させた。そしてその目を大きく見開く。

「映っておりますぞ、敵の姿が。どういう事だ?」

「何だって!?」

 慌てて斉藤もデータグラスを装着した。吸血鬼達が緩やかに包囲を広げる様がグラス越しに展開している。その意図を測りかね、斉藤はディートハルトに言った。

「折角の優位を無駄にするとはどういう了見だ?」

「吸血鬼に優位を捨てる優しさは無いでしょう」

「つまり?」

「あの黒衣を捨てた、という事は、より身軽になろうとしているのかもしれません」

「こちらに姿を晒す危険を承知で?」

「姿を晒しても、然程危険ではなくなった、とすれば?」

「…そうか!」

 その途端、風を突き破る轟音と共に、装甲車の1台が何かに撃ち抜かれた。串刺しとなった装甲車は巨体の半身を大きく持ち上げられ、直ぐに芝生へと叩き付けられた。砂埃が宙に舞う。衝撃でSWATの数人が吹き飛ばされる。戦闘服のおかげで打撲程度に済んでいたものの、彼等と、その他の全員が、装甲車の惨状を目の当たりにして絶句した。装甲車には、街路灯が突き刺さっていたのだ。

「まさかあれを、千切って、投げたのか?」

「エルジェが来た」

 斉藤とディートハルトが頷き合い、迎撃の位置に就いた。分隊長と警部補の一喝で、SWATも再度持ち場を形成する。何処からとも無く彼らの耳に、風に乗った歌声が聞こえて来た。この喧騒の最中にはっきりと響いて来るその声は、凡そ尋常のものではない。

『お父さん、お父さん、魔王が今』

「シューベルト、歌曲、『魔王』」

 ディートハルトが呟き、銃口を一点に絞った。木陰の中から、何かの蠢く様を見る。

『坊やを掴んで、連れて行く!』

 

 A部隊への襲撃に出ていた3人が、転がるようにして陣地に戻る。事ここに至っては、強力な結界符で護られた陣地の方がまだしも安全である。エルジェが出て来たからには、この周辺域全体が彼女の攻撃範囲内なのだ。

「畜生、戦の様相が一変した」

 弾倉を装填し終えたP90を外に向けて構え、砂原が半ば愚痴の事実を口にした。分かっていた事だが、エルジェの参戦は仕える者共全てを相手にするのと同等か、それ以上の困難となる。それでもハンター5人が加わった陣地は、懸念していた敵の異能攻勢を相当のところまで凌ぐ事が出来る。問題は矢張りエルジェだが、これも選抜隊の対処で引き付けられるはずだ。何しろここには、エルジェの想い人のケイトが居る。そして陣地の側は他の仕える者共に集中出来るという訳だ。慌てる必要は、無かったはずだった。たった一つの要因を除いては。

「さて、ミラルカの対処をどうする。アイツまで突っ込んで来たら、陣地の維持は厳しいぞ」

 舌なめずりをし、砂原が前を見据えたまま言った。ハンター達の本懐はエルジェ打倒であり、その対処策は念入りに詰めていた。しかしミラルカが本格的な介入をするとなれば話は別だ。最早人手は無い。たとえSWATでも間違いなく皆殺しにされる。ほんの僅かであったが、逡巡の沈黙が場を包む。それを破って語り出したのは、風間であった。

「俺が1人で行く」

 風間の言に、皆が驚いた。

「馬鹿な、あれが1人でどうにかなる手合いか!?」

 言い募る斉藤に、風間は静かに応えた。

「作戦を構築したのは俺だよ、斉藤さん。異端分子が出現したからには、俺には対処する義務がある」

「…私とディートハルトだけでエルジェに対処するのは正直きついな」

「初手の段階は実行するさ。後は可能な限り早く戻って来る」

 苦笑気味のケイトに対し、風間は軽く頭を下げた。戻って来られればと頭の中で付け加え、しかし風間はすぐさまそれを打ち消した。勝算の無い戦いをした覚えは無いし、これからもしないだろう。自分には残された機会が未だある。風間はそのように信じた。

「来ましたな」

 エルジェの居る方角に狙いを定めていたディートハルトが、短いやり取りを打ち切った。ガンスコープとも一体化したガーシアの力は、僅かな木々のざわめきも見逃す事は無い。仲間達が続々と銃を構える気配を肌で感じ、ディートハルトは一斉射をイメージする。が、現れ出でた異様の姿に、彼にしては珍しく狼狽した。

「人間を、盾にしている」

 ディートハルトの乾いた呟きは、その光景を目の当たりにした面々の心そのものである。エルジェは男と思しき者を袋でも引っ張るように引き摺り、意気軒昂にマダム・バタフライを歌っていた。男は全身が血みどろで、腕が一本無くなっている。

 エルジェは高らかに歌い上げながら、これ見よがしに男を眼前に掲げた。さあ撃ってみろ、と言わんばかりに。かような有様でも、男はまだ生きていた。時折力無く指が動いている。

「あの雌豚、ぶち殺してやる。これ以上の侮辱は無い」

 激怒を越えた禍々しい笑顔を浮かべながら、ディートハルトが吐き捨てた。しかし撃つ事は、どうしても出来なかった。残された理性が、不幸な男にエルジェ諸共銃弾を浴びせる展開に躊躇を促す。しかし唇を噛むハンター達の脇から、狙撃銃の銃身がヌゥと這い出て来た。

 マクベティ警部補は男の額に照準を合わせ、引き金を絞った。皆の見る前で男の頭半分が吹き飛び、力なく顎がうな垂れる。助からないなら、一刻も早く楽にする。警部補の憤りが皆に伝播し、口々に怒気を孕んだ唸り声が上がる。やがてそれは、爆発した。

 

「あらあら、まあまあ」

 エルジェは物言わぬ骸と成り果てた男を意外そうに引き寄せ、凝視し、ゴミのように打ち捨てた。何だつまらない、とでも言いたげに。

 と、銃弾が彼女の頬を掠めた。虚ろの眼差しで陣地を見遣る。彼女の度を越えた動体視力が、自身に集中する銃弾の嵐を捉える。

 突撃銃と機関銃の一斉射撃が、エルジェ一体に襲い掛かった。が、エルジェは途切れたフィルムのように次々と位置を換え、全てを外してみせた。それでも銃弾は執拗に食らいつく。避け切れないと踏み、エルジェは掌を面前に掲げた。掌の直前で数十もの銃弾が次々と止められる。シンプルなPKで身を護りつつ、エルジェは人差し指を指揮棒のように振った。

 瞬く間に上空に厚い雲が立ち込め、暴風が陣地に巻き起こった。合わせて1400℃の火炎がエルジェの体から噴出し、蛇のようにうねりながら装甲車を包み込む。ハリケーンに巻き上げられて火炎の渦を巻き、陣地全体が巨大な火球に呑み込まれる。

 それでも陣地は耐えていた。5人が合力した結界は、異能の乱れ打ちとでも言うべきエルジェの攻撃を、裂帛の気合でもって跳ね返す。目を血走らせて異形の力に耐え抜くハンター達を、警部補は驚嘆の面持ちで見た。次いで、この別世界にあっても持ち場を離れないSWATにも敬意を抱く。プロ中のプロを自分達の仲間に引き入れたのは正解だ。

「あ」

 と、間抜けな声と共に火炎がピタリと止む。見ればエルジェが頬を両掌で包み、まるで少女のように飛び跳ねていた。

「すっごくいい匂いがする! 何処ですか、私の可愛い人!」

「私の事、なのだろうな」

 唾を吐き、ケイトは怖気を堪えた。しかしケイトは結界の中にあって、どうやらエルジェには位置を感知出来ないらしい。ケイトは銃身に額を当てて、短く祈りの言葉を捧げた。そして手はず通りに陣地から躍り出た。ディートハルトが身を翻して後に続く。風間が再度「飛翔」する。

「居たあ」

 エルジェは猫科肉食獣の如く走り寄るケイトだけを見据え、過度な大音声でもって仕える者共に命令を発した。

「さあお前達、包み込んでおやり!」

 その声と共に仕える者と模造吸血鬼が一斉に前へ出る。陣地からは応戦の射撃が始まる。決戦が幕を開けた。

 

<人という生物>

 この一連の戦いの中で、ケイト・アサヒナが居た事は少なくともプラスに働いた。

 ハンター達は込み入った市街地での遊撃戦を良しとせず、比較的見通しの良いWSPの一角に強固な陣地を張った。下手に動き回るよりも固い防御の中で各個撃破を図る算段は、少なくとも仕える者共を相手にする場合は極めて有効である。実際、ハンターとSWATの共同戦線は2つの部隊をあっさりと全滅に追いやっている。

 しかしながらエルジェが陣地に攻撃を仕掛けるとすれば、恐らく異能攻撃の連打を浴びせるという手段を取っていただろう。先の攻撃を遠隔から延々と繰り返されていたら、何れ結界は突破されていたはずである。

 エルジェに安楽で確実な手段を放棄させたのは、ケイトという存在あっての事だ。ケイトに異様な執着心を抱くエルジェは彼女を見た途端、真祖の命令すらも忘れてしまったかに見える。集中を欠いた、という訳だ。作戦:トゥルグショールはそれを見越しており、よってエルジェの出現に至っても主導権を握っているのは、実はハンター側であった。

 ただし、ここから先は闇である。女帝級という未曾有の難敵を人が本格的に相手とするのは、実に2世紀振りの事なのだ。

 

 真っ直ぐに突き進んで来るケイトを見詰め、エルジェは心地良い笑みを浮かべて両手を広げた。さあ、この胸に飛び込んでいらっしゃい、とでも言いたげに。

 ケイトは唾棄する思いであったものの、エルジェが自分にのみ心を傾けている状況は好機と認識した。同時に高速度で接近しているディートハルトと風間に、彼女は全く注意を払っていないからだ。ケイトは離れた位置を併走するディートハルトを見遣った。

 ディートハルトもまた、対エルジェ戦の要である。彼は禁術を得ている者の統括を担っており、その異能は吸血鬼戦ノウハウの権化とでも言うべき代物だ。ガーシア系列の異能を進化させれば、何れ帝級との戦を有利に持ち込む段階を獲得する事となる。ガーシア系列第四段階・ガーシアノイト。三席帝級の行動を、1分先まで読む事が出来る。

 ディートハルトが手早くハンドサインを作る。合わせて風間が上空から、結界符を括りつけた4本の棒手裏剣を芝生に打ち込む。その手前でケイトが制動をかける。風間が身を翻して落下し、最後の棒手裏剣を直接地面に突き刺す。同時に距離を一瞬で詰めてきたエルジェが、完成された五角結界の中でその挙動を止められた。

「おろ?」

 意外そうに首を傾げた直後、エルジェは短い悲鳴を上げてその場に膝をついた。五角結界は対象の動きを封じるのみならず、少なからぬダメージを及ぼす。そして順繰りに爆発的な身体能力が削られて行くと自覚する。この作戦に参加した5人のハンター達は、全員が「鈍化」持ちであった。その力が一斉にエルジェへと集中したのだ。

「後を頼む」

 言い置き、風間が再度「飛翔」する。もう1人の女帝、ミラルカに対抗する為に。ケイトとディートハルトは、動作を封じられて苦痛に喘ぐエルジェを取り囲んだ。鈍化が通用するのは1分のみ。時間を無駄にするつもりは無い。

 

 風間が降着したエレメンタリースクールの屋上で、未だミラルカは立っていた。まるで彼の到来を待っていたかのように。

「さあ」

 フードを取り、日陰者の寂しい笑みをたたえ、ミラルカは言った。

「押せ。スイッチを押せ。そして仲間の元に戻るんだ。何時か真祖さえ滅ぼすだろう仲間の元に」

 風間は懐から、ミラルカに託された小さなスイッチを取り出した。それは遠隔操作で、ミラルカが自らの身体に仕掛けた爆薬を起動させるものだった。真祖一党でありながら、真祖を打ち滅ぼす機会を伺っていたミラルカの、それは抗う象徴だった。風間はスイッチを見詰め、視線をミラルカに戻した。彼女が不審を露とする。

「何をしている。早くしろ。仲間を助けに行け。こう見えても、お前の首を引き千切りたくなる衝動を、必死で堪えているのだぞ」

「俺には、よく分からない」

 言い募る彼女を無視し、風間は言った。

「何故自分を爆殺するスイッチを俺に渡したのか。しかし思うに、これはお前の心なんだろ? それを預けるに足る人間とみなしてくれたのは、率直に嬉しいよ。お前は確かに作られた吸血鬼かもしれないが、それでも心は人間なのだと、きっとお前は俺に言いたかったんだろ。だからミラルカ、俺はお前が人間なのだと認めよう」

 風間は掌のスイッチを、無造作にミラルカへ投げて寄越した。転がるスイッチを呆然と見下ろすミラルカに向き合い、風間は銃を捨て、脇差を捨てた。そして曰く。

「俺はお前を信じる」

 言い終える前に間を詰められ、風間はミラルカが叩き込んで来たフックを腹に受けた。体が宙に浮く。一瞬意識が飛ぶ。それでも辛うじて二本足で立つ。彼女は相当に加減を強いているのだと、風間は冷静に解釈した。その気になればミラルカは、風間の上半身を木っ端微塵に砕けるはずだ。震える声でミラルカが言った。

「逃げろ。意思が体を制御出来ない」

「戦え、ミラルカ」

 えずきながら、風間が言う。

「自分を支配しろ。戦うんだ」

 

 陣地と仕える者共の戦闘は膠着していた。

 エルジェの突入によって、その対処の為に3人のハンターが抜け、陣地そのものの霊的防御と厚い弾幕は確実に弱まっている。組織的な防衛の一端が瓦解した、と言ってもいい。加えて容赦なく前進を開始した吸血鬼は躍動的で、その速度に銃口を合わせるのは至難の業である。ひたすら弾をばら撒いても、相手が相手だけにストッピング・パワーには限界があった。

 それでも砂原と斉藤は、機会を伺っている。懸命に張り続ける弾幕には、或る意思が込められていた。敵の一隊を誘導しつつ、出来るだけ固まる形で接近させる。そうして敵が進行する方角には、またしてもトラップが仕掛けてあった。周辺域のそれらは遠隔操作がほとんど駄目になったが、結界範囲内の幾つかは未だ起動出来る。

「まだか!」

 空になった弾倉を捨て、砂原が怒鳴る。斉藤は目を細め、G3機関銃の引き金を小刻みに絞り続けている。銃を抑える片手には、リモコンが握られていた。

「まだだ。有効範囲に出来るだけ引き入れにゃ」

「全力突破を仕掛けられたら元も子もねーよ」

「そうならない為の弾幕だろ?」

「分かってるっての。全くよう!」

 新しい弾倉を車両の装甲に軽くぶつけ、砂原がP90に再装填する。応射再開。目を離していた隙に、吸血鬼達は確実に近付いていたのだと知り、ゾッとする。押し引きを延々と繰り返されていた間は分からなかったのだが、明らかに包囲が狭くなっている。ハンターもSWATも、効果的な命中弾を与えるには至っていない。このまま押し切られたら、この場の全員がエサになる。

「10、9、8、7」

 斉藤が唐突にカウントダウンを始めた。その意味するところを知り、砂原も斉藤が狙いを定める方角に銃口を翻す。突出していた模造吸血鬼を狙ってフルオート。命中。模造吸血鬼がもんどり打って背を地に叩き付ける。

「3、2、1」

 斉藤は射撃を止め、リモコンのボタンを押した。

 同時に白煙が戦場の一角に広がり、吸血鬼の一部隊を飲み込む。Eの率いる部隊は、その煙を吸い込んで次々に倒れて行った。

「何事!?」

 当のEも久しく経験しなかった病魔由来の疲労を覚え、上半身をふらふらと泳がせた。この世ならざる者に方角を見失わせる欺瞞煙幕の存在を彼女は知っていたが、この煙には強力な毒が含まれている。それは身体的な影響よりも、霊的に汚されているという実感があった。つまり死人の血の毒ではない。それ以上に強力な何かだ。

「…こんなところで!」

 Eは足を踏ん張り、必死に歩を進めた。吸血鬼が吸血鬼である故に受ける理不尽な迫害を覆し、同じく苦しみを味わってきた仲間と共に、安寧の未来を手に入れる。その思いで帝級と真祖に傅き、努力してきた自負が彼女にはある。こんなところで留まってはならない。

 Eは膝を曲げ、高々と跳躍した。結局この煙から逃れさえすれば、どうにかなるはずだと。それは正解であり、欺瞞煙幕の範囲から離脱した途端、Eの体は嘘のように疲労が抜けた。Eは短く安堵の息をついた。

「よし、行こう」

 と、顔を上げたその時、Eの頭蓋が血飛沫と脳漿を撒き散らしながら弾け飛んだ。ガクガクと痙攣しながら、彼女の体が膝をつく。其処へ容赦なく止めの銃弾が2発、3発と撃ち込まれる。首から上の3分の2を削り取られ、Eは頭部を完全に喪失し、斃れた。

「獲ったぞ! いい腕してるよアンタ!」

 快哉を上げる砂原を他所に、斉藤は狙撃銃の構えを一切解かず、残る模造吸血鬼に狙いを定めた。

「すまない、後始末に集中する。弾幕を頼む」

「任せとけ」

 これにて部隊の3つ目が壊滅。どうやら勝ちの流れがこちらに向いているらしい。砂原はそう信じ、SWATが迎撃する他部隊が居る方角へスコープを向けた。

 その時、ヒュッ、と空気を切る音が背後から聞こえた。装甲車両が囲む中心からだった。

 砂原は目を剥き、しかし落ち着いて背後を顧みた。まるで体操の着地のように、両手を水平に伸ばした小柄の少女が立っている。仕える者の中に、空を飛べる奴が居るらしい。その話を砂原は思い出した。そいつは敵の仲間内でGと呼ばれている。一見幼く見える容姿に比して、行動は狡猾で残虐。彼女の存在に気付いているのは、自分に警部補、分隊長を含めたごく一部。Gは、舌を出して言った。

「Bomb」

 まるで回転する刃のように、Gは弾幕を張っていたSWAT隊員の首を3つまとめて刈り取った。そして疾る。生首の1つを抱え、だくだくと溢れる血液を飲み下しながら。銃口を翻し、SWATが位置を変えつつ一斉に火線を集中させる。Gは前転を繰り返しながら全て避け、孤立する隊員に狙いを定め、強引に身を捻りながらローリングソバットを放った。鉄球を振り回すような重い一撃で隊員の頭部が砕け散る。4人目。しかし横合いから、恐るべき速度で砂原が回り込んだ。掌をGに向ける。「遠隔」。

 無形の塊に押し込まれ、Gの小さな体が宙を舞う。車両装甲に背中をしたたかに打ち付けられる。砂原がP90を構え直し、死人の血を浸した弾丸を丹念にGへと捻じ込んで行く。警部補が倣い、分隊長以下SWAT達も後に続く。膨大な銃弾がハンマーの連打の如く襲い掛かる。Gが踊り狂う。最早悲鳴声も上げられない。

 半死半生になりながら、それでもGは掌を地面へ叩き付けた。彼女を中心に突風が渦を巻く。風圧で狙いが乱れた隙を突き、Gは攻め込んだ時と同じように跳躍した。そして凄まじい速さで、あたかもミサイルのように陣地を離脱して行った。

 砂原は大きく咳き込む程に大量の空気を吸い込んだ。咄嗟の間、自分は全く呼吸をしていなかったのだと気付く。そして首から上が何処かに消えた4つの骸を目の当たりにし、ひと時思考を忘れた。たった1体に乗り込まれ、4人のSWAT隊員が落命した事実を前にして。法を無視して戦うハンターと知りながら、ここまで自分達をサポートしてくれた彼等が。

「防御に穴が開いた! 来るぞ!」

「全員持ち場に戻れ!」

 警部補と分隊長の怒鳴り声で、砂原は我を取り戻した。銃を抱え、装甲車の脇に身を伏せ、周囲の状況を確認。

 ここまで来れば、かなりの敵を掃討したはずだ。そろそろ戦いの中心は帝級への対処になるだろう。その前に、削れるだけの敵を削る。

 そう誓う砂原の隣から、けたたましい衝突の音が響いてきた。獣の速度で退避したのは砂原の本能所以である。見る前で装甲車が大きく車体を揺らし、信じ難い事だが、横倒しの格好で莫大な重量のそれが転がった。

 木陰からBが密やかに哂う。陣地へと向けた腕は、対物ライフルの如く異様な変形を見せていた。

 

 エルジェに仕掛けた「鈍化」の制限時間は1分。加えて五角結界によるダメージ込みの行動制限も健在。

 その間に出来る事は山のようにある。ディートハルトとケイトはありったけの銃弾をエルジェに浴びせる事から、危険極まりない帝級との最接近戦闘を開始した。ケイトの突撃銃には死人の血と銀化の強力な細工が施してあるうえ、ディートハルトのそれにはガーシアの異能が施されている。通常の戦士級であれば、とうの昔に決着がついていただろう。

 しかしエルジェはほとんど身じろぎもせず、鉄の暴風雨に耐えている。これだけ接近した状態であり、全弾を彼女に命中させるのは易い事だった。が、エルジェの身体に食い込む弾数は、実のところほんの僅かである。まるで鉄の塊に弾を撃ち込んでいるようだとディートハルトは思い、同時にCとの一戦を想起した。あの戦いで、Cは自らの体を鋼鉄並みに硬化させていた。それと同じか、それ以上の力を使ってエルジェは自身を守り抜いているらしい。

「チィッ」

 ケイトが舌打ち、空になった弾倉の再装填を止め、代わりにシンプルなナイフを抜いた。首を獲らねば、らちが開かないと踏んだのだろう。合わせてディートハルトがガーシアフェンフ、禁術取得者戦意高揚術を発動。猛り狂う戦意を見開いた目に込め、ケイトは帝級との格闘戦へと赴く第一歩を進めた。そして「加速」をスタートさせる。

 一息で結界内侵入し、ケイトはナイフを真横に振り切る姿勢で、その挙動を食い止められた。エルジェが目を閉じたまま、ナイフの刃を摘んでいる。吸血鬼への殺意に染められているはずのケイトの心に、僅かな恐怖が忍び寄る。ここまで打撃と束縛を加えているにも関わらず、未だこれだけ動くのかと。ケイトは臆する感情を拝し、残像が残る程の速度でナイフを翻らせた。そして再度斬撃の連打を見舞う。エルジェは閉目したままそれらを全て掌で弾いてみせた。

 時折エルジェの手足を一体化した銃で狙いつつ、ディートハルトはひたすら状況を読む事に集中した。彼女の行動を予測出来るという有利なアドバンテージは健在であるはずだ。しかしディートハルトは、若干の戸惑いを覚えていた。

 何を考えているのか分からないのだ。エルジェが。ただ本能の赴くままケイトの攻撃に対応し、結果エルジェの意図は深遠の闇に覆われているかのようだった。まさか、とディートハルトは思う。まさかエルジェは、こちらの手段を察知しているのではないのかと。彼女はアーマドと死闘を繰り広げた古い吸血鬼であり、禁術については経験がある。状況を素早く判断し、虎視眈々と反撃の手はずを整えているのではないのかと。

 その予想は当たりだった。ディートハルトがようやくエルジェの意図を察知する。しかし、どうにも対応の手段が無い代物であった。

「ケイト! 腰を落としなさい!」

 言い放ってディートハルトはしゃがみ込んだ。即座にケイトも彼の指示に従う。その途端、エルジェを中心として、非常に限定された狭い範囲の中で、震度7級の地震が発生した。足元を縦横無尽に揺らされる。先に姿勢を固定していなければ間違いなく転倒し、無防備な姿をエルジェの前に晒していた。彼女の行動を食い止めていた五角結界の棒手裏剣が、尽く地面から飛び出してくる。時間にして10秒足らずの間に、エルジェは結界の束縛から解放され、首を鳴らしつつ二本足で立っていた。「鈍化」の制限時間は、既に終わっている。

 エルジェは深く溜息をつき、ゆるゆると顎を変形させた。彼女が何をやろうとしているのか、ガーシアの異能を使わずとも分かる。

「効いたわ。さすがに」

「格闘戦」

 ディートハルトの呻きと同時に、彼は体を「く」の字に折り曲げ、高々と宙に舞っていた。彼が地面に激突するよりも早く、頂肘がケイトの腹にめり込んで来る。帝級の打撃力に比して、人間の体は余りにも軽い。突っ込んで来た自動車に跳ね飛ばされるかの如く、ケイトもまた地面をバウンドしつつ吹き飛ばされた。ケイトとディートハルトが大量の吐血をするのは同時。たった一撃で、2人は甚大なダメージを被ってしまった。

 しかし、その一撃は深刻ではないと、ディートハルトは必死で立て直す意識の内で気が付いた。その攻撃一発で、2人は死ななかった、という事だ。

「おろ?」

 エルジェが立ち眩んだようにふらついた。

「おろろろお?」

 その姿勢はまるで安定していない。執拗に捻じ込んだ死人の血が、確実にエルジェを蝕んでいたのだ。ケイトとディートハルトは銃を再び構えた。どのような結果になるにせよ、もうすぐ終局を迎えるのだと実感しながら。

 

「前にも、言ったかもしれないが」

 両手を、そして両膝を付き、呼気を荒げて風間が言った。必死の加減が施されているとは言え、それでもミラルカの力はヘビー級ボクサーのパンチを軽く上回る。風間も鍛えている体だが、そんなものを数発も浴びれば、意識を保っているだけでも奇跡である。

 ミラルカは風間の言葉に、言葉で返す事も出来なくなっていた。ガクガクと不自然に揺れる体を少しずつ風間に向け、ミラルカは操り人形のような動作でもって、拳闘士の如く構えを取る。それでも風間は、言葉を続けた。

「俺は、ハンターのカテゴリーに入っちゃいるが、そうではない。ハンターは、問答無用で、この世ならざる者を、葬る。だけど俺の国じゃ、そういう連中の、声を聞くんだ。聞いて、俺も語る。語り合ってどうにもならない、事もある。しかしミラルカ、どんなに悲惨な死に方をした亡霊でも、納得してくれる事も、ある。心ってのは、大したもんだって思う。心と、体は、密着している。身体の変容が、心にも変化を促すものなんだ。でも、強い心は、折れない。例えその身を、失っても」

 咄嗟、風間は肘を立てて頭をガードした。合わせてミラルカの拳が風間の腕骨をへし折りながら振り抜いてくる。腕を捨ててガードした頭にも振動が届き、またも風間は膝を屈した。

「ミラルカには、人としての、当たり前の、感性がある」

 混濁する思考を立て直し、風間が言った。

「悼み、感謝をし、悲しみ、喜ぶ。その感性が、どれだけ貴重な事か。それだけでも、ただ狂っているだけの真祖なんか、目じゃねえよ。多分、きっと、いや、間違いなく、お前が想像する以上に、お前は強い」

 恐らく蹴りを入れられたのだろう。風間は天と地の見境がつかなくなり、気が付けば仰向けに転がっていた。最早痛みを全く感じないうえに、度重なる打撃のお陰でまともな視界が失われてしまった。死の一文字が、闇に落ちそうな風間の意識に浮かび上がる。次に何かをされれば、そのまま意識が途絶する。そして二度と目を開ける事は無い。不思議に静かな気持ちで、風間はその時を待った。悔いが無いと言えば嘘になるが、それでも件のスイッチを押さなかったのは良かったと風間は思う。もしも押していれば、自分はこの世ならざる者への第一歩を踏み出していたような気がする。

 不意に額から全身へと、温みが伝播して行った。適度な熱が実に心地良かった。これが臨死という奴かと、風間はまどろみに陥りかけ、しかし耳朶を打つその言葉に目を見開いた。次いで気付く。視力が回復していると。

「こんな体でも、たった一つだけ誇らしい力がある」

 跪き、掌を風間の額にかざしながら、ミラルカが聞いた事もないような穏やかな声で言った。

「人の傷を癒す事が出来る。それも急速に。この力で人間達に、崇められたり、恐れられたりもした。私はアーマドによって帝級達が滅ぼされてから、真祖をまことの形で根絶やしにする手段を探し、随分長い間を旅に費やしたよ。吸血鬼でありながら、私は吸血鬼が憎かった。カスパールが接触するまでは、目に付く吸血鬼を殺し回るだけの旅だった。それは荒んだ代物だった。しかし、それでも、偶には良い事もあった。グランドキャニオンに落ちる夕日は本当に素晴らしかったよ。癒しを施した小さな娘から、貰った花飾りを無くしてしまったのがとても惜しい」

 掌を外し、ミラルカは立ち上がった。重篤に陥りかけた体が全快していると知り、風間が驚いて半身を上げる。同時に、ザラザラと何かが流れ落ちる音が聞こえる。顔を傾けて驚く。それは砂だった。ミラルカの片腕が砂と化して地面に落ちたのだ。ミラルカは残った腕の掌で、照れたように頭を掻いた。

「それに、お前にも会う事が出来た。私を人間だと認めてくれるお前に。お前がそう言ってくれる事を、きっと私は期待していたのだろう。だから私は、もういい。何しろ人間になれたのだからね。人として、私は真祖に抗う。ありがとう、風間。痛くしてすまなかった」

 待て、と留める間も無く、ミラルカは姿を消した。風間が慌てて銃と脇差を掻き集める。彼女の言葉は、生に満足し終えた者が最期に言う台詞だった。

 

 Gが侵入を果たした時点で結界は相当に弱まっていたのだと、弾倉に弾を詰め直しながら砂原は舌を打った。予め準備していた複数のストックは切れた。これだけの銃撃戦に関わった記憶は無い。

 逃がしたとは言えどGは撃退せしめた。これで仕える者共と模造吸血鬼は粗方壊滅させる事が出来たのだから、大戦果である。残るはBが率いる隊。このBが難物であった。

 Bは他の吸血鬼とは毛色が異なる。ノブレムからの情報によれば、Bは体が常時「狂乱」している状態らしい。つまり身体能力だけなら帝級に伍している。しかしBは圧倒的な胆力を過度に信用せず、こちらの弱い所に虎視眈々と狙いを定め、執拗な攻撃を仕掛けている。これではまるで人間の戦い方だ。

 Bは吸血鬼の真骨頂、先のGのような最接近しての殴り込みは眼中に無いらしい。否、恐らく止めはそれだろうが、其処に至るまでのお膳立てに執心していた。即ち、遠隔からの攻撃で陣地そのものの存在意義を喪失させる。

 あの模擬帝級が使ってくる訳の分からない砲撃は、率直に脅威であった。Bから放たれる目に見えない無形の何かは、車両装甲に穴を穿って破壊してしまうだけの威力がある。5人そろった状態での結界ならば防げたかもしれないが、陣地の崩壊は今や時間の問題だった。

 もう直ぐ3台目が破壊される。こちらからの応射は激しく動き回るB隊に掠りもしない。Bは分かるとして、模造吸血鬼の挙動も他の隊とは比較にならないほど速かった。つまり統率者の能力次第でレベルが変化するという事なのだろう。恐らくBは、仕える者共の中では最も手強い。砂原は意を決した。

「斉藤、ちょっくら行ってくる」

「出るのか!?」

「元々遊撃戦が得意の分野でね。援護頼む」

「俺も少し前に出るぜ。B4K13に引き摺り出せるか。でかいのを食らわす」

「了解」

 斉藤の号令一下、SWATの火器が援護の集中射撃を開始。砂原が破壊された装甲車の隙間に身を隠し、脱兎の如く走り出した。

「おや。1人出て来た」

 Bは配下と共に忙しなく位置を変えながら、陣地に起こった小さな変化も見逃してはいなかった。あっという間に姿を眩ました「それ」が居るだろう方角を横目に置き、Bは陣地に回り込みを行なうよう、配下に指示を出した。そして自らも「それ」の位置の把握に努めるべく、真横に動く。狙いが奇襲にあるのは明白であり、ならばそれに気付いていないように努めるべきだ。さすれば早晩尻尾を出す。出した時点で、そのハンターは終わりだ。

 しかしながらその読み合いに関しては、ハンター側が勝利を収めた。陣地から又もハンターが飛び出し、Bを含めた全員の注意がそちらに向いたのだ。

 斉藤は取り回しの易いグロックを、しかし走りながらB隊目掛けて連射した。当然当たる事は無い。しかし後方陣地からは支援の射撃がB隊目掛けて撃ち込まれてくる。よって突出した格好の獲物に、B隊は容易に接近出来なかった。

 Bは多少の苛立ちを抱きつつ、件の手砲を陣地に向けた。豆鉄砲を纏めて吹き飛ばすイメージを頭に描く。速度を上げてきた斉藤への反応が僅かに遅れる。

 斉藤は自ら定めた位置、B4K13にヘッドスライディングで到達した。そしてミラルカの電磁場異常攻撃でリモートが外れたそれを手に取り、B隊に向ける。斉藤は手早く指向性地雷を起爆させた。

 破裂音と共にボールベアリングを射出。一瞬早くBが飛び退るも、模造吸血鬼にそれらをかわす運動能力は無い。瞬く間に鉄球を体に食い込ませ、模造吸血鬼が膝を付く。陣地からの銃弾が、彼らに向けて雪崩を打って叩き込まれる。

 温存していた手駒を壊され、Bは牙を軋らせた。しかしAのように怒りに支配される事は無い。Bは自分が孤立状態にある事を認めた。これは狙い澄ました誘導なのだ。そうなれば、先に陣地を出たハンターが何を仕掛けてくるのか気にかかる。そしてBは、転がってきた手榴弾に目をやった。

「これか」

 足元から大量の白煙が噴出する。速やかに東西南北が分からなくなる。Bは方向性を阻害されたうえ、周囲に出現する得体の知れない影達に囲まれた。数は10体。それらが一斉にナイフらしきものを抜いた。が、揃って切り掛かる機先を殺ぎ、Bはあっという間に5体の影を切り裂き、残る影達も順繰りに叩き斬って行った。彼女の腕は、何時の間にか接近戦用の刀へと変化している。Bが身体能力を駆使すれば、まるで話にならない手合いだった。最後の影を斬り倒し、Bが鼻で笑う。

「まさか、これが切り札じゃないでしょうね」

「うん、違うよ」

 背中に熱い塊を押し込まれた感触に、Bは呻き声を上げた。即座に身を捻ると、ナイフを抜いたハンターの男が飛び退る様が見えた。Bは眩暈を覚えた。どうやら死人の血が塗布してあったらしい。

「こ奴!」

 間を詰めようと背を曲げるBに、砂原は掌を向けた。そしてBの体が欺瞞煙幕の外へと弾き飛ばされる。G同様、「遠隔」はBにも通用したのだ。

 辛うじて着地したBは、その場を即座に離脱した。既に自分はハンターと市警の集中砲火の対象となっているのだ。これ以上死人の血を捻じ込まれてはならない。が、走り出したBの体が、横合いから衝突してきた強風圧で弾け飛んだ。咄嗟に硬化しなければ、体の一部が損壊していたかもしれない。

(先のハンターか?)

 Bは素早く瞳を動かし、一点に目を留めた。姿を眩ましていたV2、ヴィヴィアンが凄まじい速度でこちらに向かっている。あの裏切り者め。そう毒づきながらも、Bは速やかなる撤収を決意した。最早これまでだが、目的は達した。この地区は吸血鬼の手中に落ちたのだ。模造吸血鬼と仕える者共を壊滅させ、もしもエルジェを抹殺出来たとしても、その事実を人間達はもう直ぐ思い知る事となろう。それに自分には、まだやらねばならない事がある。

「何だ?」

 一気に距離を詰めてBの首を掻き獲る腹だったヴィヴィアンは、ぼやけて行く彼女の姿を見て、錯覚かと目を擦った。しかしBは確実に輪郭を無くし、やがて霧となって大気に拡散し、消えた。

「駄目か、逃げられた」

 ヴィヴィアンは唇を噛み、ハンター達の姿を探して首を回した。砂原と斉藤は合流し、こちらに向けて手を振っている。陣地の方も、警部補と分隊長が忙しく立て直しを図っている。と、斉藤がヴィヴィアンにハンドサインを寄越してきた。

『大物を潰す』

「…やるのかい、遂に」

 ヴィヴィアンもハンドサインを送り返し、彼らとは距離を置きながらも同じ方角に目を向けた。

『同道する』

 まさかハンターと組んで、あの女帝級とやりあう事になろうとは。場違いではあるが、ヴィヴィアンは苦笑した。

 

<バートリ・エルジェーベト>

 ケイトとディートハルトの見る前で、エルジェは異様な行動に打って出た。目、鼻、口、果ては股間や皮膚の毛穴に至るまで、全身の穴という穴からだくだくと血を溢れさせたのだ。全身を血でどす黒く染め上げた、凄惨な立ち姿のエルジェが目の前に居る。2人は絶句したものの、銃の構えを解きはしない。

「何なの?」

「私には分かりますよ。ガーシアのお陰で」

 ケイトの疑問に、ディートハルトが呻きで答えた。

「デトックス(毒抜き)ですな。死人の血を全身から抜いた」

 見る間にやつれ、げっそりした顔つきながらも、エルジェは嫌な薄笑いを口元に浮かべた。

「ああ、お腹がすいたわ」

 エルジェは人差し指を立てて、その先をディートハルトに向けた。

(私で腹ごしらえをするつもりか)

 ディートハルトは自らが標的となった事を既に察知していたものの、銃を撃つ事は出来なかった。エルジェは発砲を合図に動き出す考えだからだ。毒抜きを完了したエルジェの速度には対応しきれない。が、考えを変えてエルジェの側から動いたところで結果は同じく。万事休すをディートハルトは覚悟した。

 しかし事態は別の方角から様相を異にしてきた。エルジェの瞳がぎょろんと真横に動く。合わせてディートハルトもそちらに気をやり、そして絶望した。もう1人の女帝が矢のような速度でこちらに向かっていたのだ。

「ミラルカ」

 ケイトが呆然の眼差しと共に呟き、エルジェが耳障りな哄笑で場を圧する。

「あははははあ。終わった、終わったわ、お前達。ご苦労様、さようなら。全員生き血を吸い取って、然る後に貴女、私と一緒に気持ちいい事しましょうね」

 エルジェが立ち尽くすケイトに目線を定める。しかしそれが仇となる。終了を確信して集中を欠くという、致命的な隙をエルジェは作ってしまったのだ。ミラルカの狙いが自分であると気付いた時には、既に彼女は首狩鎌を振りかざしていた。

 驚愕の面持ちでエルジェが両肘を立てる。咄嗟、腕に鋼の硬化を施す。刃は首を刎ねられずとも、エルジェの腕を滑りながら胸を抉って来る。エルジェは皮一枚残して半身を切り裂かれ、駆け抜けたミラルカが頭から倒れ込む。その間、僅かコンマ数秒。

「みらるかあ」

 エルジェが後ろへとよろめきつつ、血の泡を吐きつつ苦笑と共に言葉を口にした。真祖の意図に抗った代償か、ミラルカの右足が見当たらない。しかし、それでも、まさかミラルカが真祖に反旗を翻す事が出来るとは、エルジェにとって完全な想定外であった。あまりの可笑しさに、エルジェは腹を抱えて笑いたくなる気持ちを辛うじて堪えた。

 エルジェの体は既に癒着と復元を開始している。数歩後退し、彼女は即座に体勢を立て直した。しかし大きく損なわれた身体能力をハンター共が見逃すはずは無い。エルジェの確信の通り、ケイトが自動小銃を撃ちながら突進を開始した。

 怒涛の速度で身を翻すも、ケイトとディートハルトが追随する火線は執拗だった。少なからぬ命中弾を貰い、またもエルジェの挙動が若干鈍る。未だ体は完全回復に至っていない。エルジェは牙をむき出し、反転攻勢に打って出た。狙いは手近のケイト。彼女を生かしたまま欲望の捌け口にするという余裕は、今のエルジェには最早無い。一刻も早く新鮮な血を体に入れねば。その一念で間を詰めるエルジェは、しかしケイトが掌を向けてくる意味を読む事は出来なかった。

 どん、と体を突き飛ばされ、エルジェの進撃が食い止る。ケイトが行使したボブゲルト系列第三段階は、決して帝級に対して効果的ではない。それでも相手のリズムを若干乱す程度は可能であり、そしてケイトにはそれで十分だった。突撃銃を向け、ケイトが至近距離から引き金を絞った。

 後転を連続で切ってかわそうとするも、全てをかわせるものではない。エルジェは激痛に顔を歪め、それでも楽しげな目でもってハンターを見た。

「黒い槍が来る」

 エルジェの行動を読み、ディートハルトがケイトの側へと滑り込む。2人が即席の結界を張る。同時に黒い槍の連打が衝突。身体能力は削ったものの、異能の威力は極大だった。2人の結界程度で防ぎ切れない。しかし救いは、上空から現れた。

 エルジェの周囲に白煙が立ち昇る。現状では欺瞞煙幕に紛れる強力な毒にむせ返り、彼女の攻撃が中断する。煙幕を上から仕掛けた風間が「飛翔」を解いて着地し、煙に向かってSG552を連射しながら、倒れるミラルカの元へと駆けつける。

「おい、大丈夫か!?」

 彼女の肩に手を掛け風間は言葉を失った。既に両足が損なわれ、残っていた片腕もサラサラと崩れ落ちている。彼女は既に、虫の息だった。

 と、煙幕が渦を巻いて拡散した。肩を大きく上下させ、俯いたエルジェが出現する。その表情は、乱れに乱れた黄金の髪に隠れて伺えない。そして第一歩を踏み出し、しかしまたも煙幕が周囲を覆って来た。

「今度はどんな手品よ」

 顔を上げ、喜色満面を露としたエルジェの周囲に、10体の影が出現した。エルジェは歓喜の声を上げ、襲い掛かる影達を迎え撃った。

「畜生、帝級にゃ大して使えんぜ」

「行動を阻害し続けるのは意味があるよ」

 欺瞞煙幕を放り込んだ後、砂原がケイト達とは真逆の位置を取るべく回り込みを仕掛け、斉藤はその場で地に伏せて狙撃銃を構えた。狙うは煙幕の只中。エルジェの素っ首。他のハンター達も扇状に広がり、一斉射の準備に入っていた。後方の陣地からも、集中攻撃の準備が為されているはずだ。この戦いの結末は、今やエルジェへの対処のみに集約していた。もうすぐ欺瞞煙幕は突破される。斉藤は引き金に指を掛けた。

 白煙の一部が引き込まれ、すぐさま押し出されるように二手へ拡散し、その中央からエルジェが大股で歩いて来た。ハンターとSWATの銃器が一斉に火を噴いた。

 しかしエルジェは集中する銃弾を、冷静にPKでもって受け止め続ける。進行する速度に陰りは無い。エルジェは両手で複雑な印のようなものを描き、水平に手を広げた。彼女を中心として竜巻が発生。ハンター達が宙に持ち上げられ、地面に叩き落される。そして腕を掬い上げる格好で中空を切り上げ、距離を置いた位置の装甲車を真っ二つに切り裂く。しかしそれは既に破壊された代物だった。今度は正しく狙いを定め、SWATが取り付く最後の装甲車を破壊せんと、エルジェは再び手刀を作った。しかし最後の装甲車が破壊される事は無かった。攻撃に気を傾けた穴を突き、合間を縫って進出したヴィヴィアンが、超強風圧を彼女に当てた。

 腕がプロペラのように回転しながら千切れ飛ぶ様を、エルジェは面白そうに、他人事のように眺めた。そして明後日の方角を見ながら、連発して行使される圧力を、片腕でもって撥ね退け続ける。遂に肉迫したヴィヴィアンが手刀で首を狙っても、エルジェは難なくと受け止め、且つ顔を背けたままであった。その威容に気圧される事なく、ヴィヴィアンは腹から声を絞り出した。

「知っていたんだね。最初から、何もかも」

「ええ、そうよ」

「ボクが情報を流しても、ノブレムが真下界に侵入しても、全て見逃したな」

「ええ、そうよ」

「何故なら、憎かったからだ。自分に忘れ得ぬ恐怖を味あわせた、真祖が」

「ええ、そおよおお」

 エルジェが正面を向く。同時に弾き飛ばした腕が肩の肉を割って出現する。血みどろの腕でもってヴィヴィアンの肩を掴み、握り潰し、引き千切る。悲鳴を飲み込み、ヴィヴィアンは片腕の掌をエルジェの足に向けた。彼女のPKとヴィヴィアンの強風圧は、ほぼ同時に行使された。ヴィヴィアンが砲弾のようにその身を吹き飛ばされ、エルジェは膝の関節が砕けた。バランスを喪失し、半身が地面に付く。

 その機を逃さず、一斉射撃が始まった。狙撃銃、突撃銃、機関銃、ありとあらゆる銃器が飽く事無くエルジェ目掛けて弾を撃ち込んで来る。鉄の暴力に対し硬質化でもってエルジェが防御を試みる。が、ツキの無い事に、一発の弾が硬質化の完成手前で眉間に命中した。ツキを落としたのは、ヴィヴィアンによる呪いの所以である。その小さな切欠によって硬質化はフイとなり、挙句エルジェは莫大な数の命中弾をその身に浴びる展開となった。

 どれだけ撃ち続けたのか、ハンターの側も分からなくなっていた。誰かが指示を出した訳ではないが、何時の間にか集中砲火は止み、公園は夜の静けさを取り戻している。

 ケイトが突撃銃を構えながら前進した。先で横たわるエルジェは、ぴくりとも動く気配が無い。それでも敵が女帝である事を、ケイトは決して軽視しなかった。芝生を踏みしめて着実に接近し、ケイトは銃口を向け、一間の距離を取ってエルジェの容態を確認した。

 さすがに吸血鬼であるからには、エルジェは生きていた。元から頑強な体ではあったが、弾痕が美しかった彼女を凄惨な姿に変えてしまっている。衰弱しているらしく、回復が遅々として進んでいない。ケイトは頭部に狙いを定めた。エルジェが一等に回復させた眼球を動かし、都合彼女の視線と銃口が交差する。

「宜しい。それでいい」

 エルジェは言った。

「全員地獄に堕ちるのよ。吸血鬼も、人間も、何もかも。真祖も。呪われよルスケス。呪いあれ。待っているわ、貴女。何時か地の底で巡り合い、結ばれる日を迎えん事を切に願って」

 弾倉が空になるまで撃ち尽くし、ケイトは狙いを外して銃口を下げた。

「終わったのかい」

 牛の血を飲み、足を引き摺りながら、ヴィヴィアンが立ち尽くすケイトとエルジェの骸の元へと歩んできた。変わり果てたエルジェを一瞥し、ヴィヴィアンは頭を振った。

「とびきりの物狂いだったよ、彼女は。最期まで。人がここまでの化生になるとは。否、人だからなのかな?」

「そうかもしれない。人間ならではの怪物。でも終わった。さよなら、伯爵夫人」

 ぽつぽつと動き始めたハンターとSWAT達を眺め、風間は腰を下ろしたままその姿を眺めるに留めていた。

「苦しい戦いだったよ」

 風間が言う。

「まずは一勝だ。これから始まるリーグ戦の。しかしささやかな祝杯を挙げるくらいはいいだろう。出来ればミラルカ、お前にも出て欲しかったよ」

 風間が視線を傾ける先に、全身を砂へと変えた彼女が居た。真祖に作られた者が、真祖に抵抗した末路がこれであるならば、矢張り奴は許し難いと風間は思う。風間は砂を掴み、小さな麻袋に詰めた。何時か真っ当な形で弔ってやりたいと。

『そう、一掴みでいいのです』

 袋の口を結わえる手を止め、風間は空を見上げた。幻聴かと思ったが、そうではない。言葉が続く。透りの良い女性の声だった。

『持ってきなさい。私のところへ。如何様な形でも構いません。試してみたい事があります。お前にも、その者にも、もしかすると悪い事にはならないかもしれません』

 風間はその声の主に感付いた。会った事も、声を聞いた事も無いが確信を深める。声の主は、新祖ジュヌヴィエーヴだ。

 

<ディストリクト・ルスケス>

 アウター・サンセット地区の住民避難を実行し、一般市民に対する虐殺を防いだうえで、侵攻をかけてきた仕える者共と模造吸血鬼を壊滅させ、あまつさえ女帝級のエルジェを討ち取った。結果を見れば、大殊勲である。引き換えに4人のSWAT隊員が落命したが、彼らはその百倍から千倍もの人々の命を救う事が出来た。4人には敬意を表すべきであり、生き残った者達は胸を張って良い。

 しかし、撤収作業に取り掛かるハンターの面々は、一様に疲れ果てていた。際どいながらも勝利を得たという、その喜びに浸る元気は無い。頭にあるのは、飯、風呂、そして寝る。

「ラーメン食いたい」

 銃器を片付けていた砂原が、肩を落として言った。

「で、ゆっくり湯船に浸かって、それから爆睡したい」

「私達なら今日くらいは出来るかもしれないが、ほら、彼らは違う」

 袋に納めた仲間の遺体を担架で運ぶ、SWATの隊員達をケイトは指差した。

「銃火器の大掛かりな使用。各種公共施設の破損。転がる身元不明の死体。虎の子の装甲車両が3台沈黙。そして4人の隊員が殉職。事は始めより、始末の方が大変だわ」

「確かに。分隊長は報告書の山で埋もれるぜ。…死んだ隊員達の家族に、何て言うんだろうな」

「私なら、言葉が無い」

「俺もだ」

 警部補と話し込んでいた斉藤が皆の所へ戻って来た。残った無傷の装甲車を親指で指し示す。

「あと5分で撤収するそうだ。少し狭いが、一台に全員乗り込む。この地区の封鎖は、まだまだ続くらしいぜ」

「この状況、最早異常事態を隠し通せはしないだろう。市長はどうやって折り合いをつけるつもりなんだろうな」

「ああ、それなんだが」

 風間の問いに、斉藤は神妙な顔で答えた。

「警部補曰く。どうやら市長も、腹を括ったらしい」

「どういう事だ?」

 と、皆から離れた位置に控えていたヴィヴィアンが、音も無くハンター達の元へ走って来た。ハンターと行動を共にしない方針を告げたのは、他ならぬ彼である。ハンターは顔を見合わせ、代表してディートハルトがヴィヴィアンに問う。

「どうしました?」

「おかしい」

 言葉短く、ヴィヴィアンは状況の変化を口にした。何の事かと尋ねる前に、ディートハルトも違和感に気付く。この周辺から、生気らしいものが感じられなくなったのだ。静かさも度を過ぎると、穏やかではなくなる。ディートハルトは息を呑み、言った。

「まさか、来るのですか。あれが」

「多分、そうだ。逃げて、一刻も早く」

 ヴィヴィアンは言葉を打ち切り、彼らの前から脱兎の如く消え去った。其処からのハンター達の挙動も凄まじい。SWATの面々を煽り立て、続々と機材を装甲車に搬入して行く。状況が理解出来ない警部補は目を丸くし、忙しく働く風間を捕まえて怒鳴るように聞いた。

「どうしたって言うんだ!?」

「急げ、ルスケスが来る!」

「何!?」

 警部補は、周囲の暗さが徐々に色濃いものへと変わって行く事に気が付いた。彼と、SWATの隊員達も、ようやく自身の生存本能が危急を告げる。ここに居てはならないと。

 慌しく乗り込みが完了し、全員を乗せた装甲車が芝生と砂煙を撒き散らしながらWSPを離脱した。市街地の道路へと躍り出、運転士がアクセルを蹴る。しかし最大速度を叩き出す手前、車両に居る全員の脳裏に、その涼やかな声が響いてきた。

『壊滅かあ。壊滅かあ。面白いねえ、おめえら。頭がピーのエルジェまで死にやがんの。死んでしまうとは何事か、である。ついでにカーミラ、違った。ミラルカもロストと来たもんだ。あっはっは。こりゃ傑作だ。あはあはあは』

「何だ、この声は…」

 呆然と呟くラウーフ分隊長の口を、斉藤が慌てて塞いだ。

「駄目だ、分隊長。奴と接触するな。何をされるか分からないぞ」

『おい、折角しゃべってやってんだから、何か応えるが良いぞクソ共。実につまらん連中である事よ。お、領域を突破なさるか』

 ルスケスの言う通り、装甲車は領域の漆黒に取り込まれる事無く、アウター・サンセットの離脱を達成しようとしている。ルスケスの声はこの地区が闇に閉ざされる寸前まで、執拗にハンター達へと語り掛けて来た。

『何時でもいらっしゃい。歓迎するぜ。来なければ我が赴く。いや、正確に言えば我がこき使う道具の数々なんだけどネ。いやいや、俺様々が直接出向いたら、奴に怒られてしまうによってねえ。おやおや、もう行ってしまうのかい。今少し俺と遊んで行かぬのかえ』

 装甲車が地区を突破し、正常な夜のサンフランシスコへと離脱した。

 車両の窓から、集まった人々が呆けた顔でアウター・サンセットを見詰める様が目に付く。ハンター達が天蓋を開け、元来た道を顧みる。

 聳え立つ四角形の真っ黒な壁が、広いアウター・サンセットの全てを取り囲み、その部分の風景のみを切り取るかのように鎮座していた。

 

 

VH2-5:終>

 

 

○登場PC

・風間黒烏 : スカウター

 PL名 : けいすけ様

・ケイト・アサヒナ : ポイントゲッター

 PL名 : TAK様

・斉藤優斗 : スカウター

 PL名 : Lindy様

・砂原衛力 : スカウター

 PL名 : M原様

・ディートハルト・ロットナー : ポイントゲッター

 PL名 : みゅー様

・ヴィヴィアン : 戦士

 PL名 : みゅー様

 

 

 

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ルシファ・ライジング VH2-5【an eye for an eye】