少年と少女は必死に抗弁していたが、その願いが聞き届けられる事はなかった。

「君達には、生き延びて寿命を全うする大事な役割がある。家族を成し、幸福に生きて安らかに死ぬのだ。終ぞ私達が叶えられなかった夢である」

 『教授』が言った。生き残った20人にも満たない同胞達は、その様を満足げに眺めている。かの英雄、『貴人』もまた同じく。最早後戻りの効かない体を引き摺り、君を愛する女の呼び声に背を向け、それでも笑って死地に赴くというのか。

 そう思うと、私は熱い高揚感に浮かされた。定命の、か弱い命の人間が、魂を燃やし尽くして能力の全てを振り絞る姿に、私は崇高なる美を見出す。翻って、不死身の体と破格の胆力に任せ、思うが侭に振舞ったかつての有様は、我ながら醜悪の極みである。

「V」

 教授が私に語りかけてくる。

「若い2人の事を頼む」

 おお、友よ。我が友よ。それは敢えて言葉にする必要は無い。私にとって僅かな歳月であったが、君や同胞と過ごした濃密な時間は、万年の至福であった。その恩に報いるべく、私はその時が来るまで、残る時間の全てを捧げると心に決めた。

 貴人がナイフを掲げた。輪唱するように、次々と同胞達がナイフを天に突き刺して行く。我、ここに在ったと彼らは言う。

「さあ、死に逝こう。奴等を跡形も無く消し去るのだ。そして我等は、風のように消え去ろう」

 

<カーラ・ベイカー邸>

「…涙?」

 輸血の途中だったジュヌヴィエーヴは、自らの頬を滴る涙に気付き、ソファから体を起こした。しかし傍らの少女が、とは言ってもジューヌより一回り年上だが、やんわりと彼女を押し留める。

「駄目ですわ。最低1時間は安静にしていろと言われましたでしょう?」

 エルヴィ・フォン・アスピヴァーラは、ハンカチでジューヌの頬を拭ってやった。

 『反逆者』の血の継承実験を実施するカーラ・ベイカーの邸宅を護衛しているのは、エルヴィ1人ではない。吸血鬼、それにハンターの混成チームである。尤も、チームと呼べる程に各々が近しい間柄ではなく、そもそもハンターと吸血鬼は一触即発の危険な関係である事に変わりは無い。

 エルヴィはカーラが休憩する間、入れ替わりで実験に立ち会っていた。以前、カーラ相手に本性を剥き出しに仕掛しかけた経緯もあって、極力面と向かわぬようにしているのだが、それでも間近に人間が居る状況は些か苦しい。牛の血を事前に飲んでいる状態でも、時折奇妙に動悸が加速する。

 気を取り直し、エルヴィは改めてジューヌの姿を観察した。

 継承実験とは言っても、やっている事は病院の輸血とさして変わりが無い。ただ、輸血を開始するとジューヌは決まって速やかに眠りにつくのだ。そして眠っている間に、様々な表情を見せる事をエルヴィは知った。どうやら夢を見ているらしい。先程の涙は察するに、きっと悲しい夢であったのだろう。そう水を向けると、ジューヌは静かに首を振った。

「違います。何と言うか、心が動くような感触でした。喜び、感動する、そんな感じ」

「そうですか。ちょっと羨ましいですわね。私が最後に涙を流したのは、さて、何時だったかしら…」

 と、リビングの扉が軋む音を立てて開いた。カーラが部屋に入ろうとしているらしい。咄嗟にエルヴィはその場を離れ、彼女を視界に収めぬよう、クローゼットに背を預けた。

「調子はどう? 血液成分が不足していないのにわざわざ輸血するのだから、不自然な状態になってもおかしくないわ」

 血液パックの残量を確認しながら、カーラがジューヌに話しかけた。その量は当初から極端に少なく、これを週一回のペースで数ヶ月に渡って行なうらしい。後ろで聞いていたエルヴィは、気の長い話だと嘆息をついた。

「問題はありません。が、先程から眠いです」

「お眠りなさいな。その方がずっとリラックス出来るわ」

 短い遣り取りの後、ジューヌは今度こそ本格的に眠りについた。その頃合を見計らうように、カーラが物陰のエルヴィに呼びかける。

「ごくろうさま。あなたはとても真面目な人なのね」

「真面目かどうかは知りませんが、責務として私はここにいるのです。信じるレノーラの意を尊重し、前回の失点を挽回する為ですわ」

「そう。でも、私はあなたがここに居る理由は、他にもあると思ったのよ?」

 心を見透かされたような気がして、エルヴィは一瞬絶句したが、気を取り直して話題を切り替えた。

「それにしても、落ち着いていますのね。吸血鬼との近しい関係に、とても慣れていらっしゃる」

「ロマネスカとの付き合いは、私の年齢と同じくらい長いの。彼はとても穏やかな人だったから、私は必要以上に吸血鬼を恐れていないのね」

「貴女の家系とロマネスカは、一体何時から関わっているの?」

「さあ…。物心ついた時には傍に居た人だったから。そう、私の家系は吸血鬼と縁を保ち続けている。遥か昔、アーマドが壊滅した時代から」

「その頃の話を聞きたいですわ。私は吸血鬼側から寝返った、『反逆者』という方に個人的な興味があります」

 そう水を向けると、カーラの方からはしばらく言葉が途絶えた。躊躇しているのか、話を思い出してのいるのか、面と向かわぬエルヴィにはよく分からない。少し間を置いてから、カーラがしゃべり始めた。

「反逆者が何故寝返ったのか、その動機は私にも分からないわね。でも、彼は『吸血鬼を苦しみから解放する』と、繰言のように言っていたそうよ」

「苦しみからの解放?」

「この実験も、彼が授けた知恵の一環。吸血鬼は人の心を持っているわ。でも、不死の体と有り余る力は、自然の成り行きで授けられたものではないわ。だから吸血鬼の長命種の多くは、心の平衡を喪失して行く。彼はそれに気付いた人よ。エルヴィ、あなたはこの実験を、自らが受け入れるかどうか悩んでいるのね?」

 今度はエルヴィが言葉に詰まった。それはカーラの護衛を志願した時から逡巡していた事案だ。

 それがレノーラの意に沿い、ノブレムの為にもなるのであれば、受け入れるべきだとエルヴィは考えている。しかし一方的に力を無くし、戦いに備えられない体になるのであれば話は別である。もしも人間化して、かつての仲間達に餌として見られるようになったら、それはとても辛い。果たして戦士級が継承実験に参加すれば、一体我が身に何が起こるのだろう。そう告げると、カーラは即座に返答した。分からない、と。

「この実験は、元々オペラリオ…月給取りの為の実験だった。反逆者を祖とする月給取り達が、時間を重ねて血の継承に馴染む体になったのを見計らって、この実験は開始されたのよ。だから戦士級のあなたが継承実験に参加したら、何が起こるかは分からない。エルヴィ、あなた自身がお決めなさい。血を受け入れるという事は、反逆者の意志も体に取り込む事になるでしょう。それを良しとするか否かは、あなた次第であるのだから」

 

 戦士級であるジェームズ・オコーナーは、庭の植え込みに紛れて周囲を警戒している。

 その位置からはある程度内部の様子が伺えるのだが、見えるのは銃の手入れをしている女のハンターだ。彼女はおもむろに拳銃を手に取って、構えた。銃口は庭に向いている。はっきり言えば、自分に狙いを定めているらしい。

「…それでこちとらが死にやしないたぁ、分かっているんだろうがな」

 こちらが気付いている事を向こうは知らない、とはジェームズは思わなかった。彼女の態度は人間と吸血鬼の関係性を露にしている。取り敢えずカーラの護衛はハンターが主的な役割を担っているので、多くは言うまいとジェームズは溜息をついた。ただ、これで連携の取れた敵を相手に出来るのかと思うと、些か不安である。

「すまねえな、レイチェルはちぃと尖がってる子でね」

 と、壁向こうから声が掛かり、それと一緒にフラスコが楕円を描いてジェームズの手元に投げ込まれた。フラスコの中にはウィスキーが入っている。ジェームズは顔をしかめた。

「またお前か。あー、確か名前は…」

「フレッドだ。フレッド・カーソン」

 壁向こうからフレッドの後頭部が見える。フレッドはこちらに顔を向けず、手を振って寄越した。ジェームズとしては戦士級の分を弁え、極力カーラやハンターと接触しないように心掛けていたのだが、フレッドという男は気楽に話しかけてくるし、仲間のエルヴィはカーラとの会話を積極的に取ろうとしている。何かが切っ掛けで暴発が起こったら、どうするつもりなのだ。そんなジェームズの気苦労を知ってか知らずか、フレッドは相も変わらず飄々と語ってきた。

「それにしてもだ。月給取りのお姉ちゃん方はほとんど居ねえのな。折角事が済んだらデートにでも誘おうと思ったのに」

「やめろ。人間と吸血鬼は、其処まで気楽な関係じゃない。それにジューヌにしても、多分芽は無えな」

「何故だ?」

「俺の勘だが、あいつは…。やめとく。スクールボーイの遣り取りじゃあるまいし」

「ふむ、つまらん。つまらんと言えば、実はカーラに聞いてみた事があるんだよ」

「何をだ」

「継承実験とやらを、ハンターが受ければどうなるか」

 ジェームズは一旦回答を控え、しばらくフレッドの言葉の意味を頭の中で咀嚼した。そして呆れた調子で、言った。

「お前は勇者か」

「褒められた気がしねえぞ」

「褒めてないからな。お前、俺でもカーラが何て答えたか、大体見当がつくぞ。単に吸血鬼になるだけだろう。それも恐らく月給取り」

「そうなんだよ。それじゃ余りにもいいとこ無しだよな。しかし敵は強力だ。比類なく強力だ。強力な敵に対抗する手段は、色々と試したいと思っているんだがな…」

 成る程、とジェームズは思った。フレッドはフレッドなりに、吸血鬼と共に戦う腹を括っているのだろう。以前、レノーラに銃を向けた事があると聞いており、彼に対しては身構えていたジェームズであったが、それがフェイクであった事は今迄の冷静な態度を見れば分かる。それにどうやら、ノブレムの身内にも彼と通じている者が居るらしい。フレッドの意外な顔の広さに、ジェームズは舌を巻いた。

 様々な問題を孕みつつも、ノブレムとハンター間には協調態勢を形成する動きが見られている。それは他でもない、自分達とは思想が異なる吸血鬼に対抗する為に。このような状況は想定の外であったが、彼らに対しジェームズは、一つの疑問を抱いている。

 自分達は牛の血で飢えを凌いでいる。では彼らは、一体どうやって日々の生活を送っているのだろうか。サンフランシスコでの吸血鬼による被害など、件のマクダネル一家以外には聞いた事がない。

 

大聖堂男子学校

 EMF探知機は、ジェイズ・ゲストハウスにおいてグレードアップ対象アイテムである。初期状態からもう一つ上の段階に引き上げれば精度が上がるのは勿論、ある程度電磁場異常の方向性を絞り込める、大変便利な代物だ。ジョン・スプリングは使い勝手を確認すべく、早速スイッチをONにした。

 その途端、鳴り響く警戒音。自分の立ち位置の右斜め後方。音の大きさに比すれば、かなり近くまで異常が接近しているのが分かる。ジョンはEMFを怪しい場所に向けた。程なく異常元を発見。吸血鬼の月給取り階級、マリーア・リヴァレイが憮然の面持ちで立っていた。

「遊んでいるのか?」

 マリーアの声は酷薄である。対してジョンは、苦笑しつつ探知機のスイッチを切った。

「いやいや、ちょっとした実験台にさせて頂いた訳ですよ。しかし困りましたね。これじゃ本当のターゲットが判別出来ません」

「分かっているだろう? 『誰をストークすればいいのか』くらいは」

「確かに。そうそう、お土産を渡しておきますよ。ニューヨーク名物のニューヨーク饅頭。お近付きの印に」

「…悪いけど、どうリアクションしていいのか分からない」

 と、2人の元に警備員姿の男が靴音を立てて歩み寄ってきた。2人は定時挨拶の敬礼を揃え、出迎える。男の方も軽く額に手をやって敬礼。

「報告」

 男は言った。

「大聖堂男子学校、館内は一部を除き異常無し。引き続き警戒対象の監視を怠らぬ事。まあ、今の所はこんなもんだ」

 男は一息にくだけた雰囲気になって、詰所の椅子に腰掛けた。2人も思い思いの場所に座り、そろそろ子供達が帰宅する頃合の時計を眺める。

「ドグ君」

 ジョンが男に、ドグ・メイヤーに問う。

「その一部とやらは、EMFの網に引っ掛かったって訳ですか?」

「お前よ、俺の方が一回り年上なんだから、君付けは止めろって。まあ、そういう事だ。この世ならざる者は、旺盛に活動すれば電磁波異常もでかくなるもんだが、余程の化け物でもない限り、平時でも異常を隠し通せない」

 手元のポットからコーヒーを注ぎ、ドグは熱い奴を喉元に流し、こちらを注目する2人をぎょろりと見回した。

「その点を鑑みれば、奴は残念ながら『余程の化け物』らしい。中々尻尾を出しゃしなかった。でも、遂に反応したよ。あの時に」

「あの時?」

「声楽の授業を終えてから、奴はラッド・ジェンキンス君に居残りで歌を教えていた。その時、探知機のメータが一瞬跳ね上がったのさ。間違いない。奴は、カーティス先生とやらはクロだ」

 2人のハンターと1人の月給取りは、警備員として大聖堂男子学校に潜り込み、内部から調査を開始している。その自覚が本人達にあるのかは分からないが、これはサンフランシスコで史上初めて、人間と吸血鬼が正式に共同作戦を張った調査活動である。

 初手のマクダネル一家惨殺事件の時点では、大聖堂男子学校に通う1人息子が犠牲者となった、くらいにしかこの学校との接点は無かった。しかし、真犯人と思しき吸血鬼の最強類、エルジェが示した次のターゲットもまた、その家の子供が大聖堂男子学校に通学している。こうなると、偶然の一言で片付ける方が難しい。

 その過程において、奇妙な1人の教師がハンターと月給取りにクローズアップされた。以前潜り込んだマリーアの正体を見抜いた初老の男。3人の意見は、その教師に重点的注意を払う必要性で一致している。

「ゲイリー・カーティス。56歳。カリフォルニア州サンタクララ郡、サンノゼ出身。大学を出て教職一筋。長らく公立学校に通っていたけれど、転職して私学の大聖堂男子学校に赴任したのが、大体2ヶ月ほど前」

「事件が発生し始めた頃と、綺麗に符合するじゃないか」

 マリーアが調べてきた履歴の報告を聞き、ドグは腕を組んで唸った。自身もカーティスの履歴を当たっており、今度はドグがその結果を述べた。

「カーティスが以前赴任していたロスの公立学校では、特に今回のような異常な事件は無かった。その前の学校、更にその前の学校も。中々優秀な教師らしい。あの年齢なら管理職へのステップアップも可能だろうに、本人は飽くまで現場にこだわっているそうだ。一言で言やぁ、名教師の類なんだろうよ」

「何とも臭い話ですね」

「ああ、鼻が曲がりそうだ。しかし一切の問題を起こしていない点は確かだ。それがサンフランシスコに来てから何かが狂っている。一体何者だ?」

「ふむ。奴の正体については、追々考えましょう。まずは状況の洗い出しを今一度。前にドグ『さん』と一緒になって子供達と遊んだ時ですが」

「え?」

 と、マリーアが怪訝な顔でハンターの男達を見た。

「子供と遊んだのか? 警備員の分際で? 吸血鬼の私が言うのも何だけど、俯瞰で常識を考えてみれば?」

「ああ、先生にこっぴどく怒られたぞ」

「で、その時子供達にカーティス先生について色々聞いてみました。可哀想なアダム少年についても聞いてみたかったのですが…、まあ、彼が殺されたという事実を知っている子がいるかもしれませんし、恐怖を掘り返すような事は止めておきました。マリーアさんの情報以上の事は分からないかもしれませんしね。で、ドグさんが振るっていたんですよ、これが」

「振るうって、何を」

 ジョンに話題を振られ、ドグは不思議そうな顔をするマリーアに、胸を張って偽造身分証を見せた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

「FBIのニセ身分証だ。ウィンチェスター兄弟の必殺アイテム!」

「…言葉が無い。で、子供達にそれを見せてしまった訳だ?」

「まあな。マフィアの作る偽造カード程精巧ではないが、これでも$100かけたんだぞ。X-ファイルのモルダーとは、部署が違うが知り合いだ。これ、俺が考えた殺し文句」

「ドグさんは、男同士の秘密だからなって言いましてね、子供への聞き込みを行なった次第ですよ。そりゃもう、お子様大興奮」

「聞き込みの結果は?」

「カーティス先生は優しくていい先生です、くらいしか分からなかったよ」

 それを聞き、マリーアは天を仰いだ。それは恐らく想定の範囲内である。カーティスはEMFの反応も極力抑え込めるほど狡猾な男だ。日常生活、そして子供と接する際にも容易く正体を見せる真似はしないだろう。だが、マリーアが疲れ果てた理由は別にある。

「あなた達は人間だが、こと子供に関しては私の方が彼らの事を知っているようだ。男同士の秘密? FBIの捜査官が潜入しているなんて話を、年頃の男の子が友達に黙っていられると思うか?」

 マリーアの危惧は、詰め所にかかってきた電話でもって現実のものとなる。

 電話の主は学校長だった。案の定、FBIを名乗った事が知れ渡ってしまったらしい。何分子供相手の事なので、凝った冗談として不問にされたものの、図らずもドグ・メイヤーの名は全校中に轟く羽目となった。FBIの面白いおじさんとして。

 

ジェンキンス家周囲にて

 フリスコ屈指の高級住宅街、ノブヒルに暗い影を落としたマクダネル一家惨殺事件は、既に発生から2カ月以上が経過していた。

 事件は当初から混沌状況となって、今に至るも解決への道筋が立っていない。そうなると、現場周辺はネガティブな方向での「慣れ」に陥りつつあった。住民達の警戒心、SFPDの警邏網も、初期の頃の緊張感が損なわれ、ノブヒルの夜は落ち着いたものである。しかしながら、フリスコ在住者の中でもごく少数の者達は、件の惨事を引き起こした張本人が誰なのかを知っていた。ハンター達だ。

 そして彼らは、この事件が更に続いて行く事を知っている。その者が指示した次なる標的を、ハンターはハンターであるが故に、全力で守らねばならない。

 敵は強く、恐ろしい。吸血鬼の最強類、女帝級。その名はエルジェ。バートリ・エルジェーベト。

 

 ノブヒルの一角、プレシディオ方面に下る坂道の入り組んだ場所に、ジェンキンス家の一軒家がある。ここはSFPDの警邏網からは微妙に外れており、夜の9時も過ぎれば人通りがほとんど無く、静かだった。

 だからこそ、マティアス・アスピにとっては好都合な状況である。エルジェの次なるターゲット、ジェンキンス家の近辺に留まる際、必要以上の警戒を払う必要が無い。それでもマティアスは邸宅内からの人目を浴びぬよう意識しながら、ジェンキンス家の周囲を飽きる事無く歩き回った。そしておもむろにしゃがみ込んで、結界の為の霊符を貼る。

「こんな処で何をしている」

 と、いきなり声がかけられた。マティアスは驚きのあまり両肩を跳ね上げ、慌てて背後を顧みた。両手に腰を当て、警官が首を傾げながらこちらを見ている。咄嗟に出来の悪い言い訳を幾つも頭に思い浮かべるも、マティアスは警官の顔を見て脱力した。顔見知りだったからだ。マティアスにとって、この街での顔見知りと言えば、ほとんどの場合がハンターである。

「何だ、砂原さんじゃないですか。脅かさないで下さいよ」

「はは、上手く成りきっているだろ? 夜の街を歩くには、この恰好が一番だ。尤も、一部の後ろ暗い人間には警戒されるだろうけどな」

「後ろ暗いと言えば、貴方もそうだ思いますが。本物の警官に出くわしたら、何て言い訳をするんです?」

「そりゃ確かに」

 自嘲気味に笑いつつ、砂原衛力は持参したEMF探知機を懐から取り出した。倣うように、マティアスもEMFのスイッチを入れる。現時点では双方異常無し。

「来るのかい? エルジェとやらは」

 EMFを携帯したまま、砂原が問う。対してマティアスは肩を竦め、先程からジェンキンス宅の周囲に貼りつけていた霊符を指差した。

「間違いなく彼女は来ます。あれだけの力の持ち主が、ブラフを仕掛けるような小細工を弄するとは思えません。こうして結界を張り巡らせて、警戒を怠らないようにしなければ」

「結界は出入り口と、それに類する場所か…。しかしエルジェはさ、普通でいうところの出入り口からは侵入していなかったんだろう? もっと間隔を密にした方がいいんじゃないか?」

「成る程。しかしそうなると、カモフラージュが一苦労ですね」

「まあ、頑張ってくれよ。蟻の子一匹、エルジェが一匹もあの家に入れないようにさ」

 砂原は冗談めかして言ったものの、受けてマティアスは複雑な面持ちで霊符の貼り付けを続行した。霊符の露出を盛り砂で隠しながら、曰く。

「駄目ですね。この結界は、エルジェの侵入を若干遅らせる程度にしか効果がありません。その僅かな間が救いとなるのを期待してね」

「若干って、どのくらい」

「…突破に要する時間は、恐らく3秒以下ではないでしょうか」

「たったそれだけか? まいったな、結界使いの結界でそれかよ」

「エルジェは強い。今の僕達では、多分どうにもなりません。貴方も実際会えば、彼女の恐ろしさが理解出来ます。僕としては、2度と会いたくはありませんがね」

「じゃあ、何でジェンキンス家の防衛に回ったんだよ」

 其処まで言って、砂原は口を一文字に閉ざした。その様を見、マティアスも気がついた。誰かが夜道を歩んで来る。EMF反応異常無し。外灯に照らされ、それが仕事帰りのアルバート・ジェンキンスだと2人には分かった。

 くたくたの背広に身を包むアルバートの歩く様は、一歩進む度に生気が抜けて落ちているように見えた。高級住宅街に住まい、息子を名門私学に通わせている身空であれば、仕事も無理を押しているのだろう。アルバートは扉の前に立ち、大きく息をついて曲がった背筋をシャンと伸ばし、呼び鈴を押した。直ぐに扉が開き、「パパ!」という声が聞こえる。飛び出してきた少年は、ラッドだ。ハンター達の最重要護衛対象。アルバートは抱きついてきたラッドを抱え上げ、先程までの沈んだ調子が嘘のような笑顔で扉を閉めた。しばらくすると、家の中から明るい談笑が、ほのかに聞こえてきた。

「まあ、そういう事です。あの家には守るべき価値がある。そう思いませんか?」

「そうだな。一家族守れもしないで、何がハンターだってんだ」

 マティアスの言に頷き、砂原は夜空を見上げた。何れ恐ろしいものが押し寄せてくるとは分かっていても、今しばらくは夜空のように、この街を眺めるのを楽しみとしよう、と。

 

ノブレムのアパルトメント

 その言葉を口にした途端、ヴィヴィアンはレノーラに問答無用の速度で首を掴まれ、壁際へとしたたかに打ち付けられた。仲間内に対してこれ程激しい感情を見せるのは、極めて稀な状況である。

「よく聞こえなかったわ」

 据わった目でヴィヴィアンを凝視し、レノーラが言う。

「歳を取るのも困りものだわ。よく聞き取れなかったのよ。もう一度言ってもらえないかしら?」

「ボクは、エルジェに、直接『皇帝級に至る手段』を聞いてみようと思うんだ」

 ヴィヴィアンは動じずに、同じ台詞を繰り返した。

 以前レノーラに問い、絶対に言わないと念押しされた皇帝級への階級替えの方法を、ヴィヴィアンは模索している。彼女が言わないのであれば、同じ女帝級であるエルジェに聞くしかないとの結論を出し、ヴィヴィアンはその旨をレノーラに包み隠さず話す事にした。彼としては筋を通したつもりであり、ある程度の否定的反応は承知の上である。しかし。

「敵に回るくらいなら、いっそこのまま首を捻じ切ってやろうか」

 首を締め上げる力を、レノーラは全く緩めていない。ここまでの怒りは想定外だったが、恐らくレノーラは最後の一線までは踏み越えてこない。それを信じてヴィヴィアンは手の内を見せたのであり、レノーラも躊躇無く仲間殺しが出来るほど冷徹ではなかった。そんな彼女だからこそ、憎悪を向けられるのは辛い事だ。ヴィヴィアンは率直に自らの考えを述べた。

「エルジェを倒せるだけの力が欲しいんだ。多分彼女の裏には、まだ何かが潜んでいる。このままではボク達はジリ貧だよ。勝てるだけの力が欲しい。だから一時的にエルジェの側に赴く事となるけれど、心はノブレムにあるし、アナタへの忠誠は絶対だ」

 それを聞いて、レノーラは握力を緩めた。ストンと足が地に付いたと同時、激しく咳き込むヴィヴィアンを、見下ろすレノーラの目にはありとあらゆる感情が篭っている。

「吸血鬼には、存在意義が無い」

 言い聞かせるのか、独り言なのか、判別出来ない言い方でレノーラは呟いた。

「私達は何も生み出す事が出来ない、生態系の異端児よ。だから私達は、存在のありかを欲する。それは大方の場合、自らの力を顕示する事に執着するようになるのよ。かつて人間を蹂躙し、恐怖を撒き散らしたのは、その為。力が欲しい。更に力が欲しい。でも、その先には多分何も無い。完全に人の心を捨て、怪物と成り果てた自分以外はね」

「レノーラ、ボクは怪物のような力を欲しても、心まで怪物になるつもりは無いんだ。現実問題として、ボクらは勝たなきゃならないじゃないか。人間と手を結ぼうとしているのは、その為かい? ボクはそれじゃあ、エルジェや統率された仕える者共には勝てないと思う」

「確かにエルジェは強いけれど、だからこそ私達は連帯を形成する必要があるのよ。ヴィヴィアン、あなたのやろうとしている事は、その結びつきを崩壊させかねない」

 レノーラはヴィヴィアンの瞳を覗き込み、逃さぬように両肩を掴んだ。

「よくお聞きなさい。エルジェが復活したという事は、考えたくもないけれど、恐らく真祖にもその目がある。真祖に頼んで、その意に沿う事が出来れば、あなたは皇帝級へと進む事が出来るわ。でもね、その代償は高くつく。様々な代償の一つが、呪いよ。」

「呪い?」

「ええ。真祖はあなたに血の命令を下す。一つの場合もあるし、複数かもしれない。不履行不可避の絶対命令をね。それを履行するまで、あなたには行動の自由が無くなってしまう。そしてその命令は、呪いを受けた本人にとって、心を打ち砕くような内容となるでしょう。真祖はそれを見透かす術に長けている。そして真祖の戯れの手先になってしまうのよ。私の場合は、『お前の愛した男を殺せ』だった」

 言って、レノーラはヴィヴィアンの拘束を外し、背を向けた。言うべき事は全て言った、という所だろう。

 歩み去るレノーラの背中の寂しさに、ヴィヴィアンは少なからず動揺した。しかし、だからこそ、自分達はあらゆる手段を駆使しなければならないと、信じるヴィヴィアンの意は固い。

 

同時多発干渉・其の一

 その異変に最初に気付いたのはフレッドだった。

 彼の持つEMF探知機はジェイズ・ゲストハウスでカスタムを施されており、精度が高まったのに加え、ある程度の指向性を持つレーダー的な機能を備えるに至っている。その探知機が、電磁場の異常を鋭敏に察知した。しかも異常の発生元は一つではなく、複数だ。円を描くように接近している。自分達は包囲されつつあるのだとフレッドは知った。

「ジェームズ」

 こちら側が既に監視されていると想定し、フレッドは声を落として塀の向こうの戦士級、ジェームズに呼びかけた。対してジェームズは、緊迫した声でフレッドに応じる。

「俺も今気付いたぜ。クソッ、読みが当たっちまった」

 それを合図に、ノブレムの吸血鬼とハンターは互いの仲間内に連絡を取り、程なく邸宅の周囲を固める態勢に入った。ハンターが2人。吸血鬼も2人。計4人のディフェンダーに対し、向こうの攻め手は恐らく同数である。

「幸いだわ。同数同士なら、守り手が有利だもの。それに点取り屋が2人と戦士級が2人。しのぐ事は出来そう」

 レイチェルが自分に言い聞かせるように呟く。しかしながら、聞く側のフレッドは勿論、自分自身も、そのセオリーが通用するか否かは分からないのだと、頭の一方で冷静に考えていた。恐らく相手は、組織化された吸血鬼、仕える者共。ノブレム側からの情報によれば、相当に高いレベルの連携行動を取っていたという。対する自分達は、ノブレムも含めて一匹狼の寄せ集めである。個々の戦闘能力で何処まで戦えるかは、最早やってみなければ分からない。

 しかし向こう側の接近は、一定の位置で一斉に停止した。それから動く気配は、全く見せなくなった。

「どういう事?」

 と、レイチェル。

「分からねえ。しかし、ノブレムの側にも教えといた方がいいな」

 フレッドが邸宅の壁に身を預け、反対側に居る吸血鬼達にその旨を伝えた。程なくして、彼らはこちらにやって来た。2人とも、パックの液体をストローで飲んでいる。

「牛の血だ。クソ不味いが、これでお前らへの『欲求』が多少は収まる」

 聞かれる前に、ジェームズが自らの意図を説明した。

「攻め方にもよるけれど、固まって対抗しなければならない状況に備えようと思いましたの。…向こうはこちらの出方を観察しているようだけど」

 エルヴィが不安げに、壁の向こう、距離を置いて潜む者達の居る方角を眺めた。

 つまり、敵は冷静なのだ。相手が全員戦士級の仕える者共だとすれば、破格の胆力で大攻勢を仕掛けてきてもおかしくない。通例、凶暴な吸血鬼とはそういうものだった。が、彼らは慎重に動こうという意図を持っている。余程強力な上役に統制を敷かれているのだろうか。あたかもレノーラが率いるノブレムのように。

 しかし、遂に敵が動きを見せた。

「増えやがった」

 舌を打って呟くフレッドに倣い、レイチェルは自らもEMF探知機を凝視した。安定して揺らいでいたメータが、大きく振り切っている。敵の集団の中に、何かがプラスされたのだ。それも非常に強力なこの世ならざる者が。

「何これ」

「戦士級よりも上の奴だ!」

 フレッドは気を吐き、突撃銃を玄関口に向けた。銃口の先に、何時の間にか奇妙な仮面を被った者が立っていた。その者が言う。

「お前達はここで何をしている?」

 女の声だ。

 僅かに遅れてレイチェルとジェームズの拳銃が仮面の者を捉えた。エルヴィはネイルチップをギリギリと鳴らしながら、少しずつ相手の真横に移動を開始する。都合扇形に囲まれた格好となるも、その者は全く動じず、再度彼らに言った。

「ここで、何が行なわれているのだ?」

「リーパーか」

 相手の額に狙いを定めたまま、フレッドが問う。その者は小さく頷いた。

「如何にもリーパーだが、いい加減こちらの問いにも答えてもらいたい」

「正体を現しやがったか。吸血鬼とつるむ人外め」

「貴様もノブレムと仲良くしているようだが?」

「あいつらは仲間だ。俺はレノーラ達に賭けてみようと思ってね。さっきの問いだが、誰がお前なんぞに言うかよ。帰ってクソして寝ろ」

「穏便に行こう。ハンターのよしみであろう」

「ハンターも大概クソ野郎だが、お前にハンターを名乗ってもらいたくない」

「交渉決裂」

 その一言で、フレッドの本能が指に命じた。突撃銃の引き金を絞れと。その判断は獣の速度であったはずだ。並の戦士級ならばあっという間に打ち倒され、起き上がったところで首を掻き切られていたに違いない。この場で最大の戦闘能力を持つフレッドならば、それが出来る。しかし相手は戦士級よりも恐ろしい死神だった。

 フレッドの体が瞬間移動でもしたように、反対側の壁に叩きつけられる。倒れ伏すフレッドを見ても、ジェームズ達は反攻への第一歩すら踏み出せなかった。リーパーは、その場から全く動いていない。

「どうした?」

 抑揚の無い声で、リーパーが言った。

「私は其処の手強いハンターに、何かおかしな術をかけられている。普段より多少動作が鈍くなっているようだ。接近戦なら勝負になるかもしれないぞ。尤も、私の異能に『鈍化』は影響が無いのだが」

 其処まで言って、リーパーは口を結んだ。家の中から自分を見詰める視線に気付いたのだ。しばらくその視線を探りつつ、程なくしてリーパーは肩を竦めた。

「…もう、やめておこう。何か嫌な予感がするので、私はこの件から手を引く。しかしこの場への干渉は、仕える者共が引き続き行なうだろう。ノブレムとハンターの諸君、腹を括ってかかるがいい」

 リーパーは無防備な背中を向け、その場から立ち去って行った。直後、「私は帰る!」との声が響く。応じてざわついた気の感触を、ジェームズ達は肌身に感じた。どうやら包囲網を作っていた仕える者共も、リーパーの所行に動揺しているらしい。包囲は一つ、二つと消え、EMF反応の一切が消失した。

「…リーパーも向こう側の連中と確定した訳ね」

 レイチェルは大きく息を吐き、フレッドの容態の確認に向かった。既に彼は腰を擦りながら壁に背を預けて座っている。どうやら大した怪我にはならなかったらしい。フレッドの隣には見慣れない青年が居り、裂傷消毒を始めていた。確かノブレムの月給取り、名はロマネスカだったか。

「とんでもない勢いで吹き飛びましたね。中から恐々見ていて、腰が抜けそうになりました」

「丈夫な体に産んでくれたお母さんに感謝しなさい」

「うるせえよ。本当はカーラに使うつもりだったが、ルシンダから貰った結界の霊符が勢いを和らげてくれたみてえだ。しかし馬鹿でかい塊が衝突してきたようなもんだぞ、あれは。超能力か?」

「確証はありませんが」

 手当てを終え、薬箱にガーゼを仕舞いながらロマネスカが言った。

「吸血鬼の皇帝・女帝級が用いる異能に、似たようなものがあったと思いますね」

 それを聞いて、フレッドとレイチェルはげんなりした。

「…本当に人間ではないのね。リーパー」

「ああ。ありゃヤバ過ぎる。全く、散々だな。ぶっ飛ばされるわ、臨時銀化を一回分無駄にするわ」

 実は、それは心配ない。フレッドは臨時銀化を施した突撃銃を一発も撃っていないので、次回持ち越しが可能なのだ。

 

「カーラ」

「みんな、大丈夫だった? 怖いものから家を守ってくれて、感謝するわ」

 玄関から出て、頭を下げるカーラに構わず、エルヴィはズカズカと歩み寄った。都合正面から相対しているが、今は自分を抑え込める自信がエルヴィにはある。

「敵と呼べる連中が、遂にここに目を付けましたわ。この家を離脱する事を検討した方が良いかもしれません」

 それはけだし当然の忠告である。しかしカーラは、申し訳無さそうに首を横に振った。その行為が、理に適っていないと自覚しているかのように。

「ごめんなさい。それだけはどうしても出来ないわ」

「何故です?」

「この場に留まらねばならない理由があるの。どうしても動かす事の出来ない、大切なものがここにあるから」

「それは何なのですか?」

「…ごめんなさい。それも今は言えないわ。みだりに口にすると、更に敵を呼び寄せかねないほどのものよ。時が来れば、それが何なのかきっと話すわ」

 

 ジェームズは1人、仲間内にすら気付かれずにカーラ宅を離れていた。

 追いかけるのは、結局姿を見せずに撤退して行った「仕える者共」だ。その追跡が、此度の護衛の目的の一つである。

 現状自分達は、神出鬼没の仕える者共に翻弄され続けている。このままではジリ貧だ。しかし奴らは霊体ではないと、ジェームズは考えていた。物理的な肉体を持つ者達ならば、拠点と呼べるものが必ずあるはずなのだ。

 異常な速度で走り去る彼らに、ジェームズは引かず離れずで巧みに追随していた。が、その気配が続々と薄まる感触を覚える。

「…? その場から消える訳でもあるまい?」

 ジェームズは多少混乱したが、それでも敵の1人を視界に収める事に成功した。

 その者は立ち止まり、周囲を伺うようにしてから、マンホールの蓋に手をかけた。蓋をずらし、滑り込むように身を埋め、そして蓋が閉じられる。完全にその者の気配が消失してから、ジェームズはマンホールへと駆け寄った。

「そうか。地下下水道に潜伏していたのか!」

 闇に潜む吸血鬼には、何ともお似合いの住処だと、ジェームズは自嘲気味に笑った。ともかく、尻尾は掴めた。後を追う為、ジェームズも蓋をどけて地下下水道へと進入する。

 中は真っ暗だったが、遠目に見える非常灯の小さな光源のおかげで、かろうじて状況を確認出来る。ジェームズは周囲を見渡し、ともあれ地下下水道を歩いてみる事にした。

 耳を澄まして、先程の「仕える者」の足音を手繰る。が、如何な戦士級の優れた聴覚でも、その音を拾う事は出来なかった。確かに流れる水音は邪魔だったが、それでも「仕える者」とは然程距離を離された訳ではない。それが不自然だと気付き、ジェームズは首を傾げた。

「…もしかして、オコーナー卿ではありませんかな?」

 全く予想していないところから声がかかり、ジェームズは飛び上がりそうになった。しかし懐中電灯がこちらに向けられるに至り、ジェームズには声の主が誰なのか分かった。ノブレムの仲間、ロティエル・ジェヴァンニだ。緊張が一気に抜け、ジェームズはその場に座り込んでしまった。

「頼むぜ、おい。下水道でバッタリ会うなんて、そんなシチュエーションは中々無えだろ。一体全体、お前は何をやっているんだ」

「…先刻でありますが、仕える者共の1人がここを通ったのですよ」

 頭を抱えていたジェームズは、ロティエルの一言でハタと顔を上げた。

「何処に行った?」

「それが壁の中でしてな」

 ロティエルは悪戯っぽく笑い、一枚の票を取り出した。訳の分からない模様と文字が書き込まれた、中国の札のようなものだ。ロティエルはしばらく先を歩き、立ち止まった場所の壁に票をあてがった。壁がほんのりと、明滅しながら光り始める。

「何だそれは」

「恐らくこれは通行票ですな。偶然私は、これを手に入れたのですよ。票を使い、彼らは壁を抜けるのでありましょう」

「…壁の向こうは、一体何処に続いているんだ?」

 ジェームズとロティエルは、揃って壁を凝視した。票を使ったその先に、仕える者共が潜伏しているのは想像に難くない。しかし其処は、間違いなく敵の懐と呼べる場所だ。もしも票を使うなら、それなりの覚悟が必要になる。

 

同時多発干渉・其の二

「ただいま」

「お帰りなさい!」

「あら、今日は早かったのね」

 アルバートが帰宅し、ラッドが出迎え、マリーが台所から顔を出す。これがジェンキンス家の幸福な日常サイクルである。ただ、普段と少し違う事があるとすれば、アルバートの帰宅時間がかなり早い。おかげ家族は平日の夕食を久々に揃って楽しめるのだ。

「お、今日はラザニアか。レンジで温めなくていいのは、結構嬉しいもんだ」

「ラザニア、ラザニア」

「ラッド、スプーンを棒切れみたいに握るのはやめなさい。食器はきちんと並べて、静かに待たないと友達に笑われちゃうわよ」

「まあ、いいじゃないか。男の子らしくて」

「良くない。礼儀作法を大人になってから覚えるなんてナンセンスよ」

「ママ、パパをあんまり叱らないで」

「随分上手く責任転嫁をするようになったな。成長しているんだな」

「変なとこで褒めないで。さあ、マリー特製のラザニアよ」

 食卓に湯気立つ皿が並べられ、親子3人は行儀良く席に着いた。教育の行き届いたアメリカ一般家庭の常として、食事前の儀式というものがジェンキンス家にもある。3人は誰言うともなく、胸の前で手を組んだ。

「さあ、神様にお祈りをしよう。天にまします我等が神よ」

 ジェンキンス家の慎ましくも楽しい夕餉のひと時は、蹴破らんばかりに開かれた扉の音によって打ち破られた。飛び上がって驚いた夫妻の目に、ズカズカと警官がダイニングに踏み込む様が映る。どうみても日系のその男は、踵を揃えて一家の目前で敬礼。

「こんばんは、警察官です」

「もう少し穏便な踏み込み方は無かったんですか?」

 警官姿の砂原の背後で、心配そうに成り行きを見守るマティアスが突っ込みを入れた。

「な、何だ、あんた達は。警官がうちに何の用だ?」

 妻と子の前に立ちはだかるように、アルバートが目を白黒させながら進み出た。対して砂原とマティアスが、揃って顔を見合わせる。小声でひそひそと話す様が余りにも怪しい。

「どうする?」

「どうするって、どうするんですか?」

「この善良な家族を無理繰りに連れ出す理由が、どう考えても無いだろ。一体どうすればいいんだ」

 危急の際は警官になり済まし、ジェンキンス家族をジェイズ・ゲストハウスに避難させるという方針は、考え方としては正しい。尤も、彼らをどうやって連れ出すのか、2人のハンター達は詰めきれていなかった訳である。

 そう、今は危急の事態だった。砂原が所持するEMF探知機は、今も盛大にメータを振り切っている。その異常が発生したのは、ほんの5分前だ。強力な「この世ならざる者」は自らが発する電磁波異常を、かなりの部分でコントロール出来るものだが、その反応は全く包み隠さず、これ見よがしに強大な者の接近を知らせていた。向かう先は、間違いなくジェンキンス家である。その発信元が何なのか、2人には分かりきっていた。エルジェだ。

 この家族を救わんとするならば、最早一刻の猶予も許されない。現在EMFの過剰反応は、奇妙な事に一箇所で留まってくれている。勿論程なくして動き出すのは目に見えているので、何としてもそれまでにこの家を離脱しなければならなかった。砂原はでんぐり返りそうになる脳を必死に宥め、改めてアルバートの方へと向き直った。

「実は、犯行計画の情報提供がありました。この家の人間に危害を加えると。何か心当たりはありませんか?」

「ええっ!?」

 アルバートは仰天し、妻のマリーを顧みた。当然のように彼女は首を横に振っている。2人とも、全く心当たりが無い。それは当たり前だ。

「SFPDとしましては、速やかに御家族に避難を頂き、セーフティハウスにて保護する用意があります。慌しい事で申し訳ありませんが、事は一分一秒を争います。直ちに私達と避難して下さい」

「いや、しかし…」

「敵は猟奇殺人鬼ですっ! 子供ですら楽しんで殺すような化け物なんだ!」

 その一喝で、夫妻の目の色が変わった。うろたえながらも、2人は手早く外出の準備を開始した。息子のラッドは、訳が分からないなりにワクワク感を露にして両親について回っている。何だかテレビドラマみたい、とでも思っているのだろう。

 ともあれ、今は砂原の気合勝ちだった。これから彼らは、短くも恐ろしい地獄の鬼ごっこを開始する事となる。

 

 ヴィヴィアンの鋭敏な感覚は、その者の接近を察知していた。向こうは桁外れの存在感を隠しもせず、悠然とジェンキンス家に向かっている。ヴィヴィアンは息つき、その行く手を遮るように道路の真ん中に立った。自分とて戦士級の吸血鬼である。自らを阻む戦士級を、かの者が見過ごすはずはない。然してその者、女帝級、バートリ・エルジェーベトは、ヴィヴィアンの思惑通り進行を中断した。

 街灯に照らされた通りの中から、底無しの闇が現れたかとヴィヴィアンには見えた。同時に、背筋が怖気で震え上がる。同じ女帝級でも、レノーラのような心安さというものを、エルジェは全く持ち合わせていない。狂気を固めて人間状に形成された怪物。自分の真向かいに立ったエルジェを、ヴィヴィアンはかように認識した。

 加えて副次的ではあるが、これはジェンキンス家防衛の為の時間稼ぎにもなる。今頃慌しく動いているだろうハンター達に、上手く逃げてくれよと願いつつ、ヴィヴィアンは喉の奥から言葉を絞り出した。

「初めまして、強大にして偉大なる女帝様。お目にかかれて、光栄至極。少しお時間を頂きたいのだけれど、宜しいか?」

 対してエルジェは、無反応だった。その表情は陰に潜んで分からなかったが、何を言い出すのか面白そうに見ている気配はある。ヴィヴィアンはゾッとしながらも、状況が好都合になりつつあると判断した。

「我が名は『V』。ノブレムに属する者だ。そして我が身を皇帝級に引き上げる事に期待する者でもある。しかしながら、レノーラはケチでね。ボクが力を身につけるのが嫌らしいんだ。きっと自分の優位性を揺らがされるのは困るんだろう。だけどボクは力が欲しい。禍々しくも圧倒的な、吸血鬼本来の姿に立ち返りたい。だからボクは、キミのシンパになろうと思う。キミならば皇帝級に至る筋道、真祖の事を教えてくれるだろうと期待してね。有象無象の仕える者共なんかより、余程強力な仲間を手に入れられると思うよ」

「Vというのはねえ」

 いきなりエルジェは、ヴィヴィアンの言葉を遮った。全く関係無い話題へと捻じ曲げつつ。

「既に先約があるのよ。あった、と言うべきかしら。だからVと自称されるのは大変ややこしいのね。V2と呼んであげるわ、ヴィヴィアン君?」

 ヴィヴィアンは絶句した。彼女は自分の事を知っている。恐らくノブレムの仲間達の全ても。仕える者共の監視により、自分達の事は逐一彼女に報告されていたのだろう。という事は、自分がレノーラに一際の忠誠を誓う者であるとも、把握している可能性がある。じりじりと焦燥感を覚えつつ、ヴィヴィアンは素知らぬ振りをして話を続けた。

「ボクは真祖が皇帝級への鍵になると知っているんだ。会わせてもらえると大変嬉しいのだけど。ひょっとして、キミが飼っているもの、育てているものが、もしかしてそれなんじゃない?」

「飼う?」

 エルジェは唇に指を当てる仕草を見せ、しばらくしてカラカラと笑った。

「ああ、あれの事ね。あれは真祖じゃないわ。強力な吸血鬼ではあるけれど」

「吸血鬼だって?」

「そう。私よりも位が上。2番目に古い吸血鬼の1人」

「それじゃ、真祖は一体何処に?」

「さあ、知らないわ。知らないけれど、近い内に私達の前に現れて下さる。私達は、あのお方の覚醒をただただ待っていればいいのよ。そしてその時が来れば、きっと吸血鬼にとって素晴らしい世界が開けるわあ」

 踊るようにステップを踏み、エルジェは一瞬でヴィヴィアンとの間を詰めた。彼の顎に掌をあてがい、上向かせる。金色に変色した人外の目が、ヴィヴィアンのそれを凝視した。

「だから私達の側に来なさい、と言っているの。人間は絶対に勝てない状況に追い込まれる。滅びもしないけどね。大事な食料だから。とってもとっても、いい話でしょ? 皇帝級になりたいんですって? なればいいじゃない。仕える者共に加わると決意して、お目覚めを待って、あの御方にお願いすればいいだけよ。たったそれだけで、V2は至高の力を手に入れられるわあ」

 あはあはあは。と、耳障りな笑い声を残し、エルジェは忽然と消え失せた。

 1人立つヴィヴィアンは、極度の緊張からようやく解放され、大きく息をついた。

 皇帝級になるのは、簡単な事だとエルジェは言った。しかし勿論、そんなはずはないのだ。レノーラが言っていた呪いについて、彼女は一切しゃべっていない。エルジェは自分が何の為に上の階級に行こうとしているか、凡そ把握しているにも関わらず。

 なってしまえば、完全に向こう側へ取り込まれる。皇帝級への進化とは、そういうものなのだ。

 

「…来たな」

 風間黒烏はポスト・ストリートを西に向かって歩きながら、一度だけ大きく触れた腕時計型のEMF探知機を眺めた。方角は北東。ノブ・ヒル方面。それなりに距離を置いてここまでの反応を示すこの世ならざる者は限られてくる。

 風間は緊張も露の表情でバッグを肩に引っかけ直した。中にはショットガンが入っている。イサカM37、ソウドオフ。風間は進攻を開始するエルジェを迎撃する為に、この場に居る。

 首尾良くハンター達がジェンキンス家を連れて逃げ出せたとしても、エルジェは間違いなく彼らを追って来る。エルジェの力量というものを考えると、それは絶望的な撤退戦になりそうだった。自分が彼女を捕捉する事すら厳しいと、風間は自覚している。しかし彼には、もう一つ手段があった。

 携帯電話の着信。風間は発信元を確認し、携帯を耳に当てた。

「そうか。動き出したか。何故エルジェは一箇所に留まっている。…何だと、ノブレムの者と? いや、しかしその間にハンター連中は…首尾良くやったか。引き続き逃走と追跡のルートを策定してくれ。俺はもう少し西に向かえばいいんだな?」

 風間は監視役の協力を得て、一連の流れを俯瞰から眺める事に成功していた。尤も、これによってエルジェとの遭遇成功の可能性が高まるという事でしかない。多少なりとも足止めさせる為の迎撃が成功するか否かは、自分自身の力量と知恵、そして創意工夫にかかっているのだ。

「ちっとは落ち着いたら、酒を飲ろう。生きて帰れれば」

『勝手に死んでもらっては困る』

 監視役は短く答え、電話を切ってしまった。多少の愛想も人のやる気を引き出すものだぜ、と、風間は苦笑した。

 

 ジェンキンスの小ぢんまりとした邸宅は、居間から煌々とした明かりが漏れていた。僅かなテレビの音が、外に居ても聞こえてくる。

 エルジェは邸宅の前に佇み、にんまりと口元を歪めた。して、邸宅に向けて数歩を進んだものの、その歩みが不意に止まる。傍目には見えないが、壁という壁に結界の類がびっしりと張り巡らされていた。これを仕掛けたハンターに、エルジェは心当たりがある。何しろここを襲撃する事を彼に教えたのは、他ならぬ自分だったからだ。

「何とも可愛らしい抵抗だこと」

 言って、エルジェは壁に手を押し当てた。物理的なそれではなく、反発してくる無形の壁だ。エルジェはその空間に強引に割って入り、体を壁にめり込ませた。あっさりと結界を打ち破り、小さな庭にその身を置く。結界は家の周囲にも張られていたものの、エルジェは尽くそれらを乗り越えた。

 邸宅への侵入を果たし、エルジェは真っ先に居間へと向かった。彼女としては潜伏するハンターの反撃を予想していたのだが、あの結界以降に自分を阻むものは何も無い。そしてエルジェは、テレビをつけっ放しにされ、手を付けられていないラザニアが並べられた食卓、そして人っ子一人居ない部屋を見る事となった。食卓には書き置きのようなものがある。エルジェは手に取り、それを眺めた。

『THE Bitch』

 紙を丸めて、わざわざダストボックスにそれを捨て、しかしエルジェの機嫌は然程悪くなかった。

「ああ、やっぱりねえ」

 彼女は言う。

 

 砂原という男の醍醐味は、その疾風のような逃げ足にある。

 そう言うと一見失礼な表現だが、高位のこの世ならざる者から逃げ果せるノウハウは、危険なそれらとの戦いにおいて稀有な価値を持っている。恐らくだが、砂原はエルジェという最強類が相手でも、それなりの苦労を伴いつつ、どうにか逃げ切れたに違いない。尤もそれは、彼が単独行動をしていた場合の仮定である。

「警察車両は無いのか!?」

 飛ぶように走る砂原を必死に追いかけるも、アルバートはたった200m足らずで音を上げた。妻のマリーは言わずもがなだ。ラッドを背負うマティアスは彼らより体力があるものの、やはり逃げ屋専門ではないので縋るのは苦しい。砂原は一旦停止せざるを得なかった。

「しくじったな。俺達、車を用意しておくべきだった」

 それを聞いて、夫妻は呆気に取られた顔を見合わせた。

「用意してないのか!?」

「あなた、わたし達の車を使わない? ここってパーキングのある地区でしょう?」

 幸い、ジェンキンスはGMのワゴン車を所持していた。砂原とマティアスもマリーの提言に乗り、すぐさま一行は駐車場へと移動した。

 慌しく車に乗り込む。運転はアルバートに任せ、助手席に砂原、後部座席にマリーとラッドを護衛する為にマティアスが搭乗。車が発進すると同時に、砂原とマティアスは各々の得物を取り出した。ナイフ、そしてメス。その様を見て、アルバートはまたも脱力した。

「拳銃はどうしたんだ!?」

「持ってない。つうか撃っても俺達じゃ多分当たらん」

「でしょうね。至近距離でこいつを使った方が、まだ可能性がある」

 言いながら、2人はビーカーの赤黒い液体に刃を浸し始めた。今度はマリーが目を丸くする。

「何なの、その、気持ち悪い液体は」

「聞かない方がいいですよ」

「風間って奴が手に入れたんだよ。医者の格好までして法を犯したんだから、無駄にはするなとね」

 結局2人は、それが死体から抜き取られた血だとは口にしなかった。既に警察関係者から怪しい2人組にジェンキンス家の認識が傾きつつある中で、それを言ってしまうのは致命傷である。

 砂原が道順の指示を手早く下す。アルバートはそれに従い、右へ左へと小刻みにハンドルを回した。自らが徒歩で逃走した場合を想定したルートだ。しかし砂原の特技は自らの存在感を抹消するものであり、こうして集団で固まると、この一行の雰囲気までをも打ち消す事は出来なかった。

「あれ、花火みたいなのがあがっているよ」

 座席から身を乗り出し、ラッドは後部ウィンドウから見える外の景色を覗き込んだ。危ないでしょ、と言いながらマリーがラッドを引っ張る手を止め、マティアスも少年に倣って後ろを見た。

 確かに何かが上がって、地面に降着している。それも2度、3度と。それが何なのかを確かめる為に目を細め、程なくしてマティアスの目蓋が引き裂けんばかりに見開いた。

 それは人の形をしていた。人間の力では有り得ない高さまで跳躍を繰り返しながら、それは何かを探しているように体を回転させている。そしてそれは、5度目のジャンプで回転を止めた。体をこちらに向けて固定しつつ。姿形も分かった。黄金の髪。黒衣の女。

「見つかった…」

 咄嗟にマティアスは霊符をウィンドウの後部と側面に貼り付けた。が、その直後にエルジェは車へと身を寄せていた。

 瞬く間に結界を破り、側面のウィンドウにぺたりと掌を置く。そして心から嬉しそうな顔で中を覗き込んだ。マリーが盛大な悲鳴を上げ、ラッドが放心したようにエルジェと目を合わせる。運転するアルバートもパニックに陥る。

「何なんだ、あれは!?」

「ハンドル操作を誤るな! アクセルを目一杯踏み込め!」

 砂原はアルバートを怒鳴りつけ、自らは腹を括ってエルジェを睨んだ。

 更に加速をつけて道路を突進するGMに、エルジェは振り切られる事なく追走している。砂原とマティアスはエルジェの凄惨な笑い顔に気圧されそうになったものの、それでも死体の血を浸した得物を握り締め、その時を待つ。エルジェは、ラッドだけを見詰めて手招きをした。

「おいで、おいで、幼い子。面白い遊びをしましょうね」

 ゆらゆらと揺らしていた掌をウィンドウに押し当て、エルジェは物理を無視して腕を車の中にめり込ませた。延びる掌は、マリーが抱きすくめるラッドへと向かう。その手があと少しで少年に到達する寸前、砂原とマティアスは申し合わせたように得物をエルジェの腕に突き立てた。

 フッ、と短い苦痛の息を漏らし、エルジェの体が車から離れる。同時に車の正面から白煙が噴き上がった。

「煙!?」

「煙幕だ! そのまま突っ切れ!」

 周囲に夥しく充満する煙を突破し、車はエルジェの追撃を振り切って、一路テンダーロインへと走り去った。

 残されたエルジェは、煙の中で方向感覚が僅かに麻痺していた。これがただの煙幕ではなく、呪的処置を施されたハンターの使う代物だと彼女は知る。ようやく煙を抜けたその先で、しかし男がショットガンの銃口をこちらに向け、待ち構えていた。

 発砲。そしてまた発砲。風間はイサカを容赦なく連射する。だが、エルジェは発砲の度に体を右へ左へと瞬時に移動させている。散弾には死体の血が塗られていたが、その全てが尽く直撃を外された。そうして次第にエルジェは接近し、最後にはナイフを横に薙ぎ払う寸前の格好で、風間の間近に立っていた。

「残念でした」

「さようならだ」

 風間は不敵に笑い、至近距離で欺瞞煙幕を噴出させた。今度のそれは、薄く赤みを帯びている。エルジェは口元を抑えて後方へと飛び退り、同時に風間もその場を脱兎の如く離脱した。

「ふうん。煙幕に死体の血を混ぜていたの。やるじゃない」

 軽く咳き込みながら、エルジェは周囲を睥睨した。車も、件のハンターも、既にこの場から遠く離れている。周囲では騒ぎを聞きつけた野次馬が、三々五々と集まりつつあった。今一度追撃を開始しようと身を翻し、しかしエルジェは思い留まって、舐めるように人間達を観察した。

 その内の1人、ショーガールの仕事に出るらしい、派手な格好の女を見定める。化粧は濃いが、若くて中々可愛らしいとエルジェは思う。

 女は、ふとエルジェに目を合わせた。合わせてしまった。エルジェはにっこりと微笑み、軽く膝を曲げた。

 

 風間は全力疾走を止め、建物の隙間に身を隠した。そして何時の間にか外れていた肩を押さえ、苦痛の呻き声を上げる。

 飛び退く一瞬の間に、エルジェが関節を外してしまったらしい。ナイフを一閃させるという思いつきに彼女が至らなかった事は、風間にとって幸運だった。

 風間が仲間のハンター、イゾッタに依頼して作成してもらった「血界煙幕」は、かなり有効に機能してくれた。死体の血と合成された欺瞞煙幕は、対吸血鬼戦でこの先も随分使えそうだ。後でイゾッタに礼を言おうと思いつつ、風間は軋むように傷む肩を宥めながら立ち上がった。

 

「来た。早く!」

 ケイト・アサヒナは慌てふためきながら走ってくるワゴン車を確認し、ジェイズ・ゲストハウスの玄関から手を振って合図した。車が急ブレーキをかけてケイトの目の前に停まり、中からバタバタと人が出て来る。ケイトは拳銃を構え、顔面蒼白で寄り添い合うジェンキンス家族を庇いながら、周囲を注意深く確認する砂原とマティアスに声を掛けた。

「エルジェは!?」

「どうにか撒いたぞ」

「いや、追いつかれた!」

 マティアスは砂原の肩を掴み、自らも玄関へと駆け出した。通りの向こうで、この夜中に、不自然にこちらを覗き込む者が居る。エルジェだ。あれだけ力の差を見せ付けながら、この卑屈な行動が逆に不気味だった。

『早く入りなさい!』

 ジェンキンスの家族を含め、全員の脳裏に不思議な声が轟いた。弾かれたように一同は玄関へと殺到し、続々と建物の中へと逃げ込んで行く。足早に接近してきたエルジェが建物の前に立った頃には、全員がジェイズ・ゲストハウスへの避難を完了していた。

「助かった…」

「しかし持ちこたえるんだろうな、ゲストハウスは」

『吾を舐めないで欲しいですね』

 また例の声だ。

「おいっ。ジェンキンス家の3人は何処だ!? 犯罪被害者保護プログラム適用の説明をしたい!」

 待機していたマクベティ警部補が、切迫した声で砂原達に呼び掛ける。言われてから、彼らは狼狽した。一緒に入ってきたはずの3人が、その姿を忽然と消している。

『心配する事はありません。吾の方で預かりました。警部補、彼らの処遇について説明しますので、こちらにいらっしゃい』

「ちょっ、お前」

 と、言葉を残し、マクベティ警部補もその場から消失した。驚く間も無く、不意にハンター達の目の前にヴィジョンが浮かび上がる。

 その映像には、外の様子が映っていた。立ち止まったまま、こちらを見上げるエルジェが居る。結局ハンター達にラッド・ジェンキンス略取を阻まれ、屈辱に苛まれているのかと思いきや、映像の中のエルジェにそんな雰囲気は全く無かった。

『よく逃げ切れたわね。びっくりよ』

 エルジェは言って、先程から片手に持っていたものを掲げて見せた。ハンター達が言葉を失う。それは人間の生首だった。

『これ、口をつけちゃったけれど、おみやげ』

 恐怖に引き攣ったままの女の首を、エルジェは握力を加えて粉砕した。

「何て事を…」

 ケイトが吐き気と共に呻く。こちらの声は、どうやら向こうにも聞こえるらしい。エルジェが見るからに瞳を輝かせる。

『あらあ、あなた、居たのね! 失敗だったけれど、仕事もひと段落ついたし、これからデートにでも出掛けない?』

「くたばれ、あばずれ」

 嫌悪を包み隠さず、ケイトは言った。

「お前は罠にかかった。もう終わりよ」

『罠?』

 エルジェは首を傾げ、右手の交差点をふと眺めた。

 その中心に、彼女は居た。ケイトが連絡を取ったのだ。レノーラはどす黒い眼差しでもって、エルジェを睨み据えていた。

 

「…汝、みだりに殺す事無かれ」

 そう呟くと、レノーラはゆっくりと歩を進めた。普段はおくびにも出さない、殺戮者が醸す恐怖の気配をレノーラは全身から発している。対してエルジェは、相変わらず得体の知れない微笑を貼り付けたままだ。

「汝、過度の苦しみを与える事無かれ。汝、子らに手を出す事無かれ。お前は吸血鬼の三禁忌を忘れたの」

「裏切り者のVが定めた禁忌などは、もう知った事ではないわあ。大体、奴はこの世に居ないじゃない?」

「さあ、どうだか。何れにしても、お前はやり過ぎた」

 数歩の間を置いて、2人が対峙する。敵を凝視するレノーラに対し、エルジェはさして感慨も無く、その眼差しを軽く受け止める雰囲気を見せていた。しかしその態度ほどに、エルジェも余裕がある訳ではない。

 かつての2人の力量は、ほぼ互角であった。しかし今はどうだろうか。長らくリタイアしていたエルジェに対し、レノーラは百戦の錬磨を重ねて現代に至っている。何よりエルジェは、幾つかのダメージをその身に受けていた。そして2人の姿が、その場から消える。

 一瞬の後、300m余り離れた路上、レノーラに喉元を抑え込まれたエルジェが、アスファルトを粉砕しながらその身を地面にめり込ませていた。死者の血を自らの体内に捩じ込まれていたエルジェは、幾分か動作に陰りを見せていた。その差はレノーラにとって決定打となる。歯茎から無数の牙を剥き出し、レノーラはエルジェを掴み上げ、今一度アスファルトに叩きつけた。

「もう一度灰になれ、腐れ外道が。二度とこの世に出てくるな」

「ふふ。甘い、甘いよ、甘ちゃんがあ」

 エルジェを拘束するレノーラの脇腹に、第三者の無造作な一撃が蹴り込まれた。その身を軽々と吹き飛ばされ、レノーラが通りのビルの壁に激突する。倒れ伏した格好のまま顔を上げると、その先にエルジェの間近に立つ男が居た。その男の顔には皮膚が無い。露出した赤黒い肌。歯茎から伸びる出鱈目な数の牙。しかしレノーラはかつての面影を男に見出し、息を呑んだ。

「ジル。やはりお前もか」

「カーミラ…。貴様、我等に敵対するとは、呪いを打破しおったか。エルジェ、失敗するとは何事であるかっ!」

 よろめきながら立ち上がったエルジェを、ジルと呼ばれた男は容赦なく殴りつけた。笑みを消し、薄暗い光を瞳に宿し、エルジェは軽く頭を下げた。

「申し訳ございません、ジル殿」

「これでは体が元に戻らぬ。分けるだけの血を飲み下しておろうな」

「無論でございますわ」

 ジルの求めに応じ、エルジェは己が口腔を大きく開いた。そしてジルに自らの顔を被せ、喉から逆流させた多量の血をジルに口移した。これほど忌まわしい接吻の状景は無い。一頻り血を飲み下し、ジルは口元を拭って、血の混じった唾液を吐き出した。

「不味い。こやつ、薬物を常習しておるではないか!」

「咄嗟の事で、獲物を選ぶ暇はありませんでしたの」

「まあ良い。この建物、今の俺では突破も適わぬ。また次の贄を作らせるが早道か…」

 ジルは身構えるレノーラを睥睨し、しかし何事も無くあっさりと背を向けた。背を向けたまま、吐き捨てるようにジルの曰く。

「命はしばらく預けよう。御主がお目覚めの頃、貴様も心変わりをするやも知れぬからな。もしもそのうえで歯向かうならば、俺が直々に首を刎ねる栄誉を与える」

 ジルは姿を消し、続いてエルジェの姿も闇に溶けた。1人残ったレノーラは、立ち尽くしたまま彼らが消えた先を凝視する。

「厳しい事になった…」

 その呟きは深刻だった。ジルという2番目に古い吸血鬼の1人が、不完全ではあるがエルジェ同様に復活していた。そして彼らの裏に居るものもまた、同じく。

 近い将来に、血の舞踏会がまた始まるのだとレノーラは確信した。人間と吸血鬼による、血で血を洗う決戦が。

 

同時多発干渉・其の三

 大聖堂男子学校のカーティス先生は、警備員として潜入したハンターやノブレムの吸血鬼達に、今や最大の監視対象者として認識されている。

 その一挙手一投足はつぶさに観察されていたのだが、校内や世間一般での認識の通り、カーティスは善良な教師としての仮面を外す気配が無い。おかしな行動と言えば、エレメンタリーのラッド・ジェンキンス少年に、不思議な言語の歌を教えていたくらいだ。

「あの歌は、何処の言葉なのかさっぱり分からない」

 ドグは歌の修練の最中、廊下に立ってさりげにメモを試みたのだが、その歌詞は英語でも、ラテン語に似ていなくはないがそうでもなく、今ひとつ言語体系の掴めない不思議な言葉だった。

 ドグとジョン、それにマリーアの3人は、夜の詰め所で仕事明けの時間を潰している。コーヒーを飲みながらの情報交換は、相変わらず捗っていない。

「しかしあれには意味がある。そうじゃなきゃEMFが反応しないからな」

「あの歌が目印になって、エルジェに食い殺されてしまうのでしょうか?」

「呪いの類か? エルジェにとって特殊な血となる、意味のある呪い。そうでなければ、他の子供が狙われない説明がつかない…」

 言って、マリーアはハタと顔を上げた。そして、そそくさと奥の仮眠所へ引っ込んで行く。それと同じくして、詰め所の扉が開いた。件の教師、カーティスだった。ドグとジョンは愛想の良い笑顔を彼に向けた。些か芝居がかってはいたが。

「今晩は、カーティス先生。今日は随分遅いですね」

 と、ジョン。

「学力テストの準備をしておりましたら、こんな時間になってしまいましたよ。皆さんも随分遅いですが、もう交代の時間では?」

「反省会をしているんだ」

 行儀良く聞いてきたカーティスにドグが答えた。

「今日の行動で至らなかった点を発表して、次に繋げる。会社に色々と報告をしなくてはならなくてね」

「ほう、何ともご熱心な。では、何時ぞやのFBI騒ぎの折は反省文を作るのも大変だったでしょう?」

「はは、それを言われると厳しいな」

「いやいや、私個人は、そのくらいのユーモアがこの学校には欲しいと思っておりますよ。それでは皆さん、お先に失礼します」

 会釈をしてから、カーティスはその場を辞した。それを見計らい、奥の部屋からマリーアが頭を掻いて登場する。

「ふう、参った。あの男には顔を見られているからな」

「よくも今迄、狭い校内で顔を合わせないでいるな?」

「体にまじないの彫り物を施してある。それの効力なのだろう」

「…それより、チャンスだと思いませんか? 我々とカーティスの帰宅時間を合わせられる。初老の男の私生活に興味がある人」

 そんな事に興味を持つマニアは、この面子の中に居ない。が、外のカーティスをハンターと吸血鬼は確かに知らないままだった。一同は席を立ち、慌てて男女各更衣室に向かった。これよりゲイリー・カーティス追跡行の開始である。

 

 追跡は三手に分かれて行なわれた。

 先頭を歩くカーティスからかなり距離を置いて、隣り合う左右の通りからドグとジョン。そして建物の屋上を吸血鬼の身体能力でもって伝うマリーアが、丁度カーティスの真後ろを取る形になる。現状、カーティスは彼らの存在に気付く気配は全く無い。 さすがにこの辺りは、常人ではない者とプロフェッショナルの集団が為せる技だった。

『おかしい』

「何がだ?」

 マリーアがドグに携帯を繋ぐ。

『もう、奴の住所は過ぎている。何処へ行くつもりだろう』

「さてな。やはり叩けば埃が出るもんだ。誰かに会うのか、本来の巣に戻るのか…」

 と、カーティスの歩みが不意に止まった。3人の目が、懐から携帯電話を取り出す様を確認する。最も接近していたジョンが間近まで接近を試み、携帯のICレコーダで会話内容を録音した。しばらくもすると携帯を畳み、カーティスは再び歩み出し、直ぐ次の角を曲がった。ジョンが後をつけ、何気に角へと顔を傾ける。

「ドグさん」

『どうした』

「消えました」

『何だと!?』

 いきなり見失うほど、ジョンはカーティスから距離を置いていた訳ではない。ともかく、ジョンは自らも角を曲がって周囲を確認するのは、逆に監視されている場合を鑑みると、まずい事だと考えた。よって通りを真っ直ぐに素通りし、予め設定していた集合ポイントに先行で到着した。程なくして、ドグとマリーアも辿り着く。

 兎にも角にも、カーティスの会話記録である。ジョンがICレコーダを再生させ、ドグとマリーアも聞き耳を立てる。音質はまるで良くなかったが、それでもカーティスのしゃべった内容は凡そ理解出来た。

『何と、失敗でしたか…。あの子で式としては終わりになるはずでしたが。…取り返せないのであれば、新たにもう1人、仕込むしかありませんな。1ヶ月は準備期間を頂きたいものです。…そのような恫喝は無駄です。かかると言ったら、かかるのです。それに私のボスはあなたではありません。それでは、明日より早速準備にかかります』

 3人は腕組み、カーティスの話を吟味した。

 ほぼ同時期に起こったジェンキンス家の出来事が分かれば、此度の件との関わりを彼らは知る事になるだろう。今の時点で分かっているのは、ラッド・ジェンキンス以外の新たなターゲット作成に、カーティスが取り組もうとしている事だった。

 由々しき事態である。それこそ全体の趨勢を左右しかねない程の。

 

 

VH2-2:終>

※一部PCに特殊リアクションが発行されています。

 

○登場PC

・ケイト・アサヒナ : ポイントゲッター

 PL名 : TAK様

・ジョン・スプリング : ポイントゲッター

 PL名 : ウィン様

・ドグ・メイヤー : ポイントゲッター

 PL名 : イトシン様

・フレッド・カーソン : ポイントゲッター

 PL名 : 白都様

・マティアス・アスピ : ガーディアン

 PL名 : 時宮礼様

・レイチェル・アレクサンドラ : ポイントゲッター

 PL名 : 森野様

・砂原衛力 : スカウター

 PL名 : M原様

・風間黒烏 : スカウター

 PL名 : けいすけ様

・エルヴィ・フォン・アスピヴァーラ : 戦士

 PL名 : 朔月様

・ジェームズ・オコーナー : 戦士

 PL名 : TAK様

・ヴィヴィアン : 戦士

 PL名 : みゅー様

・マリーア・リヴァレイ : 月給取り

 PL名 : 蒼夏様

 

 

 

 

 

 

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ルシファ・ライジング VH2-2【舞踏会への序曲】