<古戦場>

 戦いが始まった。片や一般市民の暮らしの場を舞台とした市街戦。片や真祖を除けば現代で最強の吸血鬼との戦い。

 死闘が繰り広げられるその裏で、1人のハンターと戦士級吸血鬼は、彼らが敵とする者達の真髄とも言える場所に向かう。

 戦いの為に仕える者共の一党が出払った隙を見計らう潜入探索行は、一見すれば比較的安全な道行に思える。しかし、当たり前ではあるが、そんな事があるはずはなかった。

 真下界は敵の真髄である。ここは敵の領域である。2人の探索者を含め、誰もこの世界が一体何を意味する場所なのか、全く把握出来ていないのである。そして2人は忘れていない。真下界、その中心域にそびえる古城。その城の主は、不完全ながら確実に今も存在しているという事を。

 吸血鬼の真祖、ルスケス卿。単独で国一つを滅ぼすも容易い、さ迷える黒死病。

 

 古城に至る道は幾つか存在しているものの、マティアス・アスピとロティエル・ジェヴァンニは行く手を阻む森の中を進行した。仕える者共が地上に全員出ているとは言え、このエリアの全ては敵が掌握していると考えて差し支えない。慎重に慎重を重ねて、彼らは歩みを急いだ。

 慎重と言えば、2人は一定の距離を置いている。加えて互いの顔をろくに見ていない。吸血鬼と人間の同道だからだ。ロティエルは穏健派集団ノブレムの一員であり、かつ自身の祖が真祖から新祖となっている。それでも未だ戦士級であるには変わりがない。ロティエルは牛の血を事前に飲んでいるものの、間違いは起こり得る可能性があれば、矢張り起こり得るものなのだ。この危険な場所で互いが潰しあうような展開は致命的である。今や彼らは貴重な味方の同士だった。

 静かな夜だ。この真下界は、何時訪れてもこっきり真夜中である。夜の世界の覇者たる者が、この場所の主だからなのかもしれない。そう思うと、虫の音や夜鷹の鳴き声も薄ら寒い。2人は黙々と歩を進め、やがて森を抜け、草原に出た。かなり距離を置いたその先に、月明かりが照らす古城の端正な佇まいがあった。

 マティアスとロティエルは、申し合わせたように草陰に身を隠した。

「何か、嫌ですね」

 マティアスがロティエルに語る。距離を置いているとは言え、その声は夜の帳にあって確実に耳に届いた。言い換えれば、迂闊に声を出してはいけないという事だが、マティアスは自身が感じる生理的な嫌悪感を口に出さずにはいられなかった。

「あの古城には何処か、生物的な禍々しさを感じます」

「奇遇ですな。私もですよ。どんよりした眼で見下ろし、口を開けて待っているかのような」

「把握されていますかね、僕達は」

「分かりません。しかし退却はお互い考えておりますまい。前回は肉迫出来たのですから、此度も出来ると申しましょう」

「しかし、今回は状況が違いますね」

「左様。真祖が控えておりますな」

 2人は膝を付いたまま、今しばらく古城を観察した。勿論この距離からでは、古城に何かが潜んでいたところで見極められる訳がない。意を決し、進行を再開する。勿論身を隠したまま。

「仕える者共が投宿しているという屋敷も気になりますが」

 歩きながら、マティアスが聞く。

「そちらを先に調べた方がいいでしょうか?」

「その必要はありません。あれは唯の屋敷です」

 あっさりと返してきたロティエルに、マティアスは少し驚いた。

「見てきたんですか?」

「ええ。卿に会う前に。奴らが本当に出払っているか否かを確認したかったのでね」

「それにしては、随分仕事が早い…」

 と、言いかけて、マティアスは直ぐに納得した。ロティエル・ジェヴァンニという吸血鬼は、新祖ジュヌヴィエーヴから特殊な力を授かっている事を思い出したのだ。視認出来る範囲内での瞬間移動。この力を使えば古城への接近も容易かったはずだが、マティアスとの連携行動をロティエルは重視していた。心強い事だとマティアスは思う。ほんの数ヶ月前までは、ハンターと吸血鬼は殺し合う間柄との認識しか無かったのも、今は昔である。

 古城へ接近するにつれ、マティアスは聞き及んでいたカノン砲の存在に目を留めた。カノン砲は城壁の正面に5台据え付けられており、その砲身は射角を若干下に向けられている。寄せる敵兵を迎撃する為の砲台だが、吸血鬼は元来、そんなものは必要としないはずだ。

(継承実験の夢とやらに出てきた、真祖一党がアーマドとの最終決戦時に使用したものですかね)

 つまりこの世界は、往時の姿を再現したものなのだろう。わざわざこの状況を作り出した意図については、知れた話ではなかったが。マティアスは首を傾げ、言った。

「まだ稼動しますかね?」

「確かめてみましょうか?」

 答えるが早いか、ロティエルは瞬時に姿を消した。そして瞬きの間に城壁の上へと身を置く。カノン砲の周囲を一頻り歩き回り、ロティエルは肩を竦めた。

「錆が激しい。最早使い物にはならんでしょうな」

 その呟きが聞こえる距離ではなかったが、マティアスは彼のジェスチャーから言わんとするところを察し、頷いた。

 ロティエルはマティアスから預かったロープを地面に投げ、片端を二周りほど腕に結わえた。正面の鉄扉は固く閉ざされており、下手に開けば大きな音を立ててしまう。人の身のマティアスが城に侵入するには、城壁をよじ登るしかない。

 器用にロープを伝い、マティアスが城壁の頂上に立った頃には、ロティエルは再び背を向けて距離を置いていた。そして振り返る事無く、マティアスに問う。

「さて、どうしますかな? 私は今一度城の中を見てみたいと思うのですが」

「僕はこの城そのものをもう少し外から調べてみますよ。様式とか年代とか。それで見えてくる部分もあるかもしれません」

「ふむ、成る程。しかしながらマティアス卿、恐らく私と意図は同じくであるはずです。この城の最も重要な場所がたった一つである事を」

 ロティエルの言葉を受け、マティアスは目を細めた。

「ええ。この城の地下ですね。出来ればその場所には、2人で一緒に向かいたいものです」

「私もですな。正直、あの場所は恐ろしい」

 

<マティアス・アスピの探索>

 城そのものの年代の類推について、マティアスは然程苦労しなかった。

 周辺、ないしは城壁内に住民の痕跡が見当たらない点を察すれば、この城の持つ意味は純然たる防衛拠点といったところだろう。そのわりに、わざわざ玉座を置く謁見の間が存在すると聞いたが、それは後から改造が施された可能性が高い。

 城は攻城兵器の発展の歴史と共に、その形が大きく様変わりしている。例えば、鉄砲・大砲の類が劇的に進化した15世紀から16世紀の間ならば、砲弾の突破を防ぐ為に城壁が厚みを増し、かつ壁内の建造物は砲撃による破壊を免れるよう低く作られるようになった。

 差し当たってこの城に、そのような気遣いは感じられない。遠目には整然と見えつつも、よくよく見れば壁は雑な石の選び方をしている。強引に形として纏め上げた雰囲気だった。このような建築様式の城について、似ているものをマティアスが思い返す。規模は比較にもならないが、スロバキアのスピシュ城が一番近いように感じられた。東欧の13世紀と言えば、東方異民族の襲来を数多く受けていた頃だ。

 恐らくこの城には、正当な人間の城主が居たのだろう。それが何時からか真祖によって完全に乗っ取られてしまったらしい。前線基地である城が落とされたならば、本国はどのように対応したのかを想像し、しかしマティアスは考えるのを止めた。異民族の襲来を装って、まさか国ごと滅ぼされる等とは。

「それにしても…」

 円形の城壁を一周し、マティアスは石壁の手触りを確認した。ひんやりとざらついた石の感触が感じられるのは当然だ。しかし、それを当然と感じられる事に、マティアスは違和感を覚えた。何故ならここは、自分達人間が存在する世界とは、確実に異なっているからだ。

 ならば一体、ここは何処なのだとマティアスは思う。恐らく古城の空間は、過去の真祖一党とアーマドが最終決戦を繰り広げた場である。ただ、それが現実の場所なのかと言えば、恐らくそうではないのだろう。真下界と呼ばれる場所はサンフランシスコにもう一箇所あり、其処は悪魔カスパールが根城としている『パレス』だ。彼か、否、恐らくその上の存在が作り上げた模造の世界。ここもその類であるならば、古城を作り上げたのもまた彼ら、という事になる。

(仮に古城を破壊するとすれば、それは上手くいかない可能性が高いですね)

 と、マティアスは思う。想像力によって創造したこの場所は、その姿形もまた想像力で維持されていると考えて良い。試しにマティアスは、石の隙間から生えている雑草を掴み、引き千切って城壁の上から捨てた。しばし背を向け、また振り返ってしゃがみ込む。

「まるで手品ですね、これは」

 忸怩たる面持ちで、マティアスは寸分違わず其処に生えている雑草を撫でた。間違いない。この城には人間が想定出来るあらゆる物理的破壊力が通用しない。仮に核反応爆弾を投下しても、しばらくすればシレっと元通りになっている事だろう。

 ならば、この城を完全に破壊する手段があるとすれば、想像力を断ち切るしかない。つまりこの場所の創造主を消滅させる。サマエルを、討ち滅ぼす。

「…絶望的ではないと、信じたいところですがね」

 マティアスは立ち上がり、周囲の状況を睥睨した。そして結論を出す。

 この古城そのものは過去の姿を再現しているのみであり、その点にさしたる重要性は無い。しかしながら、往時の古城には無く、今のそれに存在する場所が一箇所だけある。

 古城地下空間。謎の石柱がそびえる場所。矢張り其処がこの領域の真髄なのだ。

 

<ロティエル・ジェヴァンニの恐怖>

 ロティエルは極力身動きを止め、呼吸すらも無音を貫けるように小さく、浅く繰り返していた。

 城の内部に潜入したはいいが、その初手の段階からロティエルは、大柄な体を極力縮めて身を潜める羽目になる。以前の訪問時には閉ざされていた一階奥の扉が、今は大きく開け放たれている。其処は謁見間であり、玉座が鎮座していた。その時、玉座に座るべき主は居なかったが、今は白い塊のようなものが身じろぎ一つせず腰を下ろしている。ろくに直視もしなかったが、誰なのかは容易く分かった。真祖、ルスケスである。

 その姿が目の端に映った途端、ロティエルは瞬時に柱の影に身を隠した。凡その検討はついていたが、その存在を目の当たりにするのは恐怖以外の何物でもない。ロティエルは自分が見つかっていないと信じていたものの、それでも敵は底無しの力量を備えた怪物の中の怪物である。

(しかし、真祖の真なる復活は未だ為されていない)

 それが一縷の希望であると言えば、その通りであった。先のハンター達の活躍によって、ルスケスは不完全な体のまま世に出たのだ。その五感は未だ大きく損なわれているはずだ。しかし、その希望的観測は裏切られる展開を迎えた。

 ロティエルの背筋が、ざわりと震えた。時折意味も無く悪寒が走る例の感覚には、実は意味がある。その時は注意しなければならない。この世ならざる者が傍に居るかもしれないからだ。尤も、当のこの世ならざる者であるロティエルにとって、霊体の類は恐怖の対象ではない。まことの恐怖とは、彼のような吸血鬼にとって異なるものだ。桁違いのこの世ならざる者。ロティエルは決して振り返りはしなかったが、苛烈な圧迫感を根拠に真祖ルスケスが玉座から立ち上がっているのだと知った。

「誰だい?」

 遠く離れた位置から涼やかな音色が耳元を抜けると同時に、ロティエルはその場から姿を消した。そして直角に大きく距離を置いた位置、古城中庭の一角に再度出現する。ロティエルは即座にその場を駆けて離脱した。

 『韋駄天』の力が無ければ、逃げ切れないところだった。それでも『韋駄天』は目視出来る位置にしかジャンプ出来ない。つまり、古城内部で行ける空間は限られている、という事だ。そして韋駄天は、次に使うにはしばらくの間が必要となる。そしてその間は、恐らくルスケスが距離を詰めるには無いに等しいはずだ。

 それでも単に脱出するだけならば、壁を乗り越えれば易かったであろう。そうしなかったのは、マティアスが居たからだ。置いて行けば、確実に彼は死ぬ。そして最重要となるであろうポイントを見極めるには、人間の力が必要である事も事実であった。

(地下空間に身を隠す)

 ロティエルは決断し、今度は地下に至る階段に最も接近出来る位置へとジャンプした。その直後、謁見間から浮遊する白い物体が屋外へとゆっくり現れ出でた。

「えへっ。えへへへへ」

 ルスケスは障りの悪い笑い声を発した。

「何処だい。何処だい。ネズミちゃん。俺様に挨拶無しとは、不届き千万ではないか?」

 

 突如のロティエルの出現に、階段付近で待機していたマティアスはうろたえた。

「な、何です?」

「早く地下へ!」

 ロティエルはマティアスの肩を掴み、強引に階段を駆け下りた。極力互いが接近せぬように注意していた配慮は、最早関係ない。ここまで追い込まれれば、吸血衝動もへったくれも無くなるものだと、ロティエルは場違いにも思った。

 

<地下領域>

 馬鹿げた深さの螺旋階段を下ったその先には、更に馬鹿げた景色が広がっていた。

 古城の領域は胡散臭いとは言え、まだ自分達の住まう世界との相似が感じられる。しかしながら地下領域は、異空間としか言いようが無い。整然と並べられた棺が四方八方へと無数に連なり、その果てを肉眼で確認する事は不可能だ。

「地獄ですか、ここは」

 その存在を予め知っていたものの、実際に目の当たりにしたマティアスは、その印象をかように表現する以外に手段が無い。ロティエルは立ち尽くすマティアスを促し、先へと歩を進めた。そして前方を指差しながら言った。

「ほら、この方角に光が見えるでしょう?」

「本当だ。あれが例の石柱ですか」

「ええ。同じような物体が無限に広がるこの空間にあって、あそこだけが異彩を放っておりますな。この空間の成り立ちに、大きく関係するものでしょう」

 言いながら、ロティエルが鼻と口元を掌で覆い、眉をひそめる。どうしたのかとマティアスが問うと、ロティエルは首を振って吐き捨てた。

「死臭が凄まじいのです。分かりませんか?」

「…いや、僕には生物的な腐敗臭を感じ取る事が出来ませんね」

 マティアスは棺の一つを、慎重に開けた。最早性別も確認出来ぬ程に腐敗した死体が納められている。普通ならば目を背けるか腰を抜かすかの二択であるが、マティアスはハンターであり、元は医者でもあった。マティアスは上から下まで死体を冷静に観察し、顔を近付けて臭いを嗅いだ。腐敗臭は身体の防衛機能によって反射的に嘔吐感をもたらすものだが、その感覚は一切無かった。まさかと思い、ナイフを手に取って、死体の胸に突き立てる。ナイフの先端が死肉を割って入る感覚も無い。今度は手を突っ込んでみる。掌が肉体を素通りし、棺の床面を触った。

「驚きましたね」

 言葉とは裏腹に驚愕を面に出さず、マティアスが言った。

「これらの死体は、物理的には存在していません」

「何ですと?」

 ロティエルが怪訝な顔で疑問を呈する。

「私には、確かに死臭を感じられるのですが」

「人間と、この世ならざる者との間では、この世界に対する認識が異なっているのかもしれません」

「…実は吸血鬼も動く死体であるから、とは考えたくもありませんが」

「思考手段のベクトルは良い線を行っているかもしれませんね」

 マティアスは、改めて棺の群れを眺めた。これも聞いた話だが、棺には所々で蓋を開かれた、もぬけの空のものが存在している。ハンターの中で以前地下領域に肉迫した、ラスティ・クイーンツの言葉を思い出す。

「あるハンターが言っていましたよ。この死体は悪魔達が兵力として使ったものではないかとね。連中がよく使役するゾンビの類、ないしは大物のウェンディゴ。カースド・マペットとかいう変り種。そう言えば、何れも人間を出自としたこの世ならざる者ですね」

「思い当たる節があります」

 ロティエルが口を挟んだ。

「仕える者共は、その死体を再利用されるそうです。例えば初めて倒された『F』は、首を切断された吸血鬼としては有り得ない、二度目の出現を果たしました。連中が言うところの、模造吸血鬼として。しかしながら初手でその死体は、マクベティ警部補がジョン・ドゥ(名無し)として確保しております。つまり死体が無い状態で、Fは復活を果たしたという次第です。つまり模造吸血鬼の出自とは、これらの棺が深く関連する可能性がありますな」

 しかしながらロティエルは、自らの思いつきにゾッとした。仮にこれらの棺から模造吸血鬼が作り出されるとして、開いていない棺の数は無尽蔵と見える。もしもこれらが模造吸血鬼の候補だとすれば、一体どれだけの軍勢を率いる事が出来るのだろうか。

「…先を急ぎましょう」

 ロティエルは鈍く輝く場所を再び指差した。

「あれが一体何なのか。それを早急に知らねば、この戦いの趨勢に関わるような気がします」

 

<輪廻の門>

 同じ画面をコピーして羅列しただけのようなこの世界にあって、その石柱は矢張り異彩を放っていた。

 数m程度の高さの石柱には、ロティエルが以前に見た通り、得体の知れない文字がびっしりと刻み込まれている。石柱がほのかに明滅させる光を頼りに、ロティエルは手帳に文字をしたため始めた。

「この石柱に吸血鬼は触れる事が出来ない、というのは本当なのですか?」

 石柱の周辺を注意深く観察しながら、マティアスが問う。ロティエルは視線を石柱と手帳の間で往復させながら答えた。

「ええ、本当です。石柱から凡そ30cm程度に不可視の壁が張り巡らされているようですな」

「成る程。結界の類ですか」

 言って、マティアスは恐る恐る石柱に手を近付けた。遮られる事無く石面に触れる事が出来る。この無形の壁は、つまり結界のようなものではなく、結界である。

 通常ハンター達が言う結界とは、この世ならざる者を自身の領域から阻む為の仕掛けだ。だから結界を駆使するのは概ね人間であり、或いは彼らがその技術を学んだ古い神々も駆使する事が出来る。この世ならざる者が使ってくる事は非常に稀なのだ。

 稀、と言うからには例外がある。この世ならざる者のカテゴリィにされれば、間違いなく気を悪くするであろう、天使達だ。

(つまり、この石柱と付随する異形の空間は、天使に由来するものである)

 マティアスはそのように想定した。ここまで大規模な代物を作り出せるからには、天使といえども相当の手合いに違いない。この街における数々の異変、その全てに関わる大物は唯一人。サマエル。

 

 父君。

 唯一にして絶対なる御主。

 何故私達と人をお見捨てになられたのですか。

 私達が人を導き、御主が私達を導く、それが父君の定められた摂理ではなかったのですか。

 導くのではなく、かのか弱き者達を見守り、仕えよとは、如何なる意味があるのですか。

 愚かな我が半身と共に反旗を翻してもなお、決して御心を明かされなかったのは何故なのですか。

 私は大いに迷いました。お伺いを申し出ても御意思をお伝えにならない理由を、御主に遠く及ばぬ私は考えました。そして一つの結論に至りました。

 私は堕とされの身でありながら、御使いの本分に立ち返らんと。即ち、人を守らんと。

 愚かな我が半身は、これより人の世界の全てを呑み込むでしょう。人に愛を決して抱かぬ熾天使の一党は、軍勢を率いてあの者に立ち向かうでしょう。御主がお言葉を裏返す凄惨な戦いが、この世界を覆い尽くすでしょう。

 人を守らねば。世界を守らねば。せめて一握りであっても、やがて迎える反撃と復活の芽を大切に育てねば。

 人は死に、生き返らぬもの。御主がその定めを唯一外されたあの男は、しかしながら御主に後ろ背を向けて拒否を示した大逆の者。あの男の所業に因って、人が永きに渡り救われぬ有様となるは、世の真実というもの。

 私は今一度、人に救いの機会を与えたい。

 

 人が生まれてから死ぬまでの時間はあまりにも短い。蓄えた知見や理は、その死によって全てが失われます。人が今もなお愚昧な行ないを、飽きもせずに繰り返すのはその為なのです。人は、今より更なる高みに行けるはずでありましょうに。

 故に私は、一本の線の如き人の命、その両端を結わえる事としました。死の無き世界。絶え間無き戦いの世。その中から人は新たな段階へと昇らんとするでしょう。そして、この小さな街から世界の端々にまでかの威光を波及し、この世に永遠の繁栄をもたらすでしょう。

 御主よ、御覧あれ。父君の理想とされたものが、灰燼より立ち出でるその様を。

 目出度きかな。目出度きかな。

 

 時間にして恐らく瞬きもしない間に、言葉が掌を通してマティアスの心を駆け抜けて行った。マティアスは大いに驚き、しばらく姿勢と意識を凝固させていたものの、やがて言葉の羅列を柔軟に解釈する思考を取り戻す事が出来た。

 言葉達は、サマエルの意識だった。この石塔の事もある程度は理解出来る。石塔はサマエルの思い入れが形を成した代物であるのだろう。

「この塔は」

 マティアスが忸怩たる面持ちで呟く。

「死者を黄泉返らせるためのものだ。この地下世界は、即ちサマエルの心そのもの」

 現時点でこの塔をどうこうする腹は無かったが、少なくとも放置すべき代物ではないとマティアスは判断した。黄泉返るとは言っても、今のところ石塔は危険極まりない人ならざる者を、無限に生み出す機関でしかないのだ。しかし、これを物理的に破壊するのは不可能だった。目の前の塔は、存在しているが実在もしていない。棺の中の骸のように。

 もしもこの塔を喪失させる事が出来るとすれば、塔の存在意義を失わせるしかない。人が死に、また黄泉返るという一連の流れを全肯定するこの塔を、それこそ真っ向から否定しなければならない。物理的な力が通用しないのであれば、それ以外の力でもって。

 マティアスは再度、石塔の感触を確認した。吸血鬼であるロティエルが触れ得ぬ石塔に、人間である自分が接触出来る。その事実には恐らく意味があるはずだ。石塔は、サマエルの意思の歪んだ象徴。ならば石塔に対し、その錯誤を突けるだけの意思を、彼の守護対象であるはずの人間が示す。つまり石塔に論戦を仕掛け、勝つ事が出来れば、或いは。

 思考に耽っていたマティアスが、肩を叩かれて我に返る。ロティエルが蒼白の顔を向けて彼に言った。

「空いている棺にお入りなさい」

「何ですって?」

「奴が来ます」

 言われた瞬間に、マティアスの全身が総毛立った。この位置からは見えないが、ロティエルの鋭敏な感性は信頼に値する。もう直ぐ、真祖ルスケスがこちらにやって来るのだ。

「結界を」

「無駄ですな」

 符を取り出したマティアスの手を抑えて、ロティエルはあっさりと言った。

「自らの位置を教える事になりますぞ? それより、棺に身を隠した方がいい。この死臭、恐らく我らの存在を曖昧にしてくれるでしょう」

 ロティエルは半ば無理繰りにマティアスを棺の中に押し込み、上から蓋を重ねた。そして自らも空いているそれへ身を沈め、蓋をずらす。その際に僅かな隙間を作り、外の景色を垣間見られるようにした。

 息を殺す事、凡そ1分弱。程無くして、真祖は地下に出現した。

 

「ああ、つまらねえ。ああああ、つまらねえ。ここにも居ないとなれば、城外へと逃げ果せたか。地獄の鬼ごっこが始まるよ! という殺し文句を考えたのに、無駄であるか」

 ぶつくさと呟きながら、ルスケスは棺の野を飄々と漂った。

 彼は人間とは比較にならない身体能力と感覚を保持していたが、地下に漂う強烈な『死臭』がロティエルとマティアスの存在を眩ませた。ルスケスは退屈そうに周辺を浮遊してから螺旋階段へと向かい、しかし思い直して体をくるりと回した。

(来た…)

 ゆっくりと迫る真祖の気配を察し、ロティエルは懐に手をしのばせ、拳銃のグリップを握り締めた。ルスケスに通用するはずもないのは分かり切っていたものの、半ば御守のように念を込め、ロティエルは真祖が通り過ぎる様を僅かな隙間から見詰める。案の定、ルスケスは彼とマティアスが間近に潜んでいる事に気付いていない。場違いではあるが、出し抜いたとの昂揚を幾ばくか感じる。

 ルスケスは浮遊したまま石塔の前に立ち、ポケットに手を突っ込んで背を曲げるという、だらしない姿勢でもって独り言を言った。否、石柱に向かって語りかけた。

「兄者の懐に留まるのも、そろそろ飽きたところであるよ」

 ロティエルは、ハタと気付いた。その不躾な言い方に謙りがあるという事を。それに、兄者。兄者と?

「もう直ぐだ。もう直ぐである。俺は本来あるべき姿へと立ち返るであろう。あの糞共に邪魔されたおかげで、ちいと遅れちまった。と言う訳で、我、絶滅の王として再度地上に君臨するもの也。ただ、ここいらを留守にするのは些か危うい。先も子鼠共が城に入り込みやがった。まあ、何と可愛らしいものである事よ。しかし、出入り自由というのも些か面白くはなかろ? 故に『番犬』をば用意したい。俺の考えたとびきりの奴をな」

 言って、ルスケスは石柱に掌を当てた。ロティエルが瞠目する。あの結界をものともせず、ルスケスは石柱に触れる事が出来たのだ。吸血鬼である自分を跳ね返した、あの石柱に。ルスケス程の者ならば、かような結界をものともしないのか、或いは。

(まさかルスケスは、厳密な意味での吸血鬼ではないと?)

 戸惑うロティエルを他所に、ルスケスはひょいと踵を返し、速やかにその姿を消した。

 完全に気配が絶たれたと確認し、ロティエルは棺の蓋を周囲を確認した。同じくマティアスも冷や汗でずぶ濡れの顔を拭いつつ、棺から転がり出る。

「見ましたか?」

 と、マティアス。

「ええ、見ました。しかし、それを考察するのは後回しですな。件の奇妙な文字も書き写しましたし、即刻ここから立ち去るべきです。どうにも嫌な予感がします」

 答えるロティエルの懸念は、その直後に形を成して現実のものになろうとしていた。閉じていた棺が、ひとりでに開いたのだ。一つ、二つどころではない。十、幾十、数百。

 棺から人の骸がふわりと浮き上がり、中空の一箇所へと集まり始めた。それらは折り重なり、どろどろと溶け合い、結合し、やがて一つの小さな赤い玉となった。その玉を中心とし、糸のようなものが四方八方へと伸びて行く。糸は次第に肉を纏い、一つの物体を形作ろうとする。赤い玉を丁度心臓の辺りに置いた、あたかも人間の姿へと。しかし大きさの桁が違う。頭頂の高さは、凡そ20m弱。

 マティアスとロティエルはあとずさり、一目散に螺旋階段へと向かった。あれは、ルスケスが残していった『番犬』だ。侵入者を排除するもの。侵入者とは、今の自分達の事である。

 階段に辿り着いたところで、マティアスは『それ』を再度視界に収めた。既にほとんどの形状が完成している。顔形が見当たらない、のっぺらぼうのような風体。やせ細った体躯。あまりにも巨大な、人間のようなもの。

「ティターンか…」

 こんなものが地下世界に据えられてしまった。もしも再度地下へ訪れるのであれば、あんなものを排除しなければならない、という事か。マティアスは唇を噛み、促すロティエルに頷き返して、階段を全速力で駆け登った。

 

<ドラキュラの解釈>

 ノブ・ヒルの途或る公園の一角、太陽が燦燦と照らす昼日中、昨今の市内の混乱状況とは無縁の静かな場所に彼等は居た。

 ロティエルに呼び出されたマティアスはベンチに腰掛け、膝上で拳を固めつつ、俯いて芝生を凝視していた。間を置いた隣のベンチに座る者の姿を直視出来ない。良く見知ったロティエルの傍で、圧倒的な存在感を醸し出す男が、マティアスの書いたリポートを読んでいる。男は、ヴラディスラウス・ドラクリヤ。遂に復活を果たした伝説上の吸血鬼である。もしも対吸血鬼組織アーマドと、ノブレムという緩衝材的な集団が実在しなければ、桁の外れた敵として向き合わねばならなかったかもしれない。

「私は吸血衝動を完璧に制御出来る」

 ページを捲りながら、ヴラドはマティアスの恐怖を見透かすように言った。

「むしろロティエル卿の方が危険であろう。牛の血を飲んでいるとは言え。尤も、暴走しても抑えるのは容易いから案ずるな」

「有難きお気遣い」

 ロティエルが苦笑する。つられてヴラドが口元を緩め、ファイルを閉じて言った。

「興味深い文章であった。ハンター・マティアス。私は君が地下空間で得た印象に真実があると考える。件の石塔がサマエルの意思の象徴というのは正解であろう。ここでロティエル卿の書き写した、石塔の文字がものを言う」

「あれはどういう意味があったのです?」

 ロティエルが問い、ヴラドが答える。

「煉獄文字。古吸血鬼語の、更に古語とでも言うべき代物だ。しかしながら煉獄文字も、大元を辿れば天使達が使っていた言語を祖としている。天使は本来、文字などを必要としない。天使同士の意思疎通は自在であるからだ。しかしながら煉獄にあっては、疎通能力が大きく損なわれたらしい。故に文字を必要とした」

「何です? 煉獄にも天使が居たというのですか?」

「居た、と言うよりも逃げてきたのだ。天使同士の戦争で敗北した堕天使達。或る者は地獄や地上に堕とされ、また或る者は煉獄へと逃れた。地獄と地上の狭間の世界。弱肉強食が唯一の掟の世界。ルスケスは、そんな堕天使の成れの果てなのだ」

 ロティエルとマティアスは、言葉を失った。あの狂気の塊が、まさか元は天使だったとは。煉獄とは、さぞや心を歪ませる世界なのだろう。しかしヴラドは何故そんな事まで知っているのか、との疑問が過ぎる。ヴラドは淡々と話し続けた。

「ロティエル卿、あの文字を汝が書き写したのは正解だった。石塔に文字を刻んだのはルスケスと、それにもう1人、別の何かだ。件の文字は、正直私でも解読し切れぬ。が、凡その文脈は理解出来た。あれは契約書だ」

「契約書?」

「サマエルに絶対の忠誠を誓い、代わりに莫大な理力の一端を借り受ける。つまり、無尽蔵に死人の魂を活用し、化け物を自在に作り出し、己が軍団に加えるというものだ。ルスケスは模造吸血鬼を作り出していたが、そんな風に化け物を繰り出してきた手合いは、マティアス、君も知っているだろう」

「…カスパール、ですか」

「左様。つまりあの石塔がある限り、彼奴らの戦力は、その気になれば億の単位となる。仮にこの街で多くの人が死んだとして、その魂は『別の何か』として転生し、再利用される。つまりサマエルの認識では、この街の人間は決して死なないのだ。是が非でもあれを潰さねばならぬ」

「一体どうやって?」

「精神戦を仕掛ける」

 ヴラドはマティアスが得た印象そのままの手段を口にした。あの石塔に接触出来るハンター、人間が、サマエルに対して論戦を張るという事だ。堕天使とは言え、サマエルもまた天使である。天使の思考は自身の信じる正義によって概ね硬直し、自らの誤りを決して認めない。そもそも誤りを犯すという意識が無い。しかし彼が守護しようとする人間の側から、否と思い知らされればどうだろう? 石塔が担う役割の歪みを、誤りであると言い切れる心を示す事が出来れば、或いは。

「一体それは、どんな戦いになるのです?」

「分からぬ。私の想像を絶する。ただ、それをするにも、先ずは厄介者を潰さねばならん」

 ヴラドは、件の『番犬』の事を言っていた。

 確かにあれを排除しなければ、石塔に接近するも何もあったものではない。ルスケスがサマエルに呼び掛けて作り出した虚人、ティターン。

「…軍隊が欲しいところですな」

「或いはマーヴルヒーローか」

 試しに2人は冗談を言ってみたものの、その後揃って溜息をつく。しかしヴラドは眉一つ動かさずに言った。

「ハンター側に面白い老人が居ると聞いた。私から、かの者に要請を出す。何かしらの答えを導き出してくれるやもしれぬ」

 アンサーについては、近日の『この世ならざる者達』にて。

 

VH1-5:終>

 

 

○登場PC

・マティアス・アスピ : ガーディアン

 PL名 : 時宮礼様

・ロティエル・ジェヴァンニ : 戦士

 PL名 : Yokoyama様

 

 

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ルシファ・ライジング VH1-5【暗い森】