<ノブレムのアパルトメント>

 自身が持っている一張羅と言えば黒いアフタヌーンドレスだが、さすがにこれを普段着にして街を闊歩するのはどうかしている。えんじ色七分袖のフォーマルワンピースでジュヌヴィエーヴは手を打つ事にした。

『ジーンズいいわよ、ジーンズ。転げ回ってドロドロになっても、洗って天日に干せば爽やかな着心地』

 ジーンズ一点張りのレノーラが以前そんな事を言っていたが、当然無視だ。50セント硬貨をコツコツ貯めて買ったルージュ・ココを丁寧に塗り終えると、頃合い良く扉をノックする音がした。仏頂面が気になったので、ジューヌは無理矢理口元を弓なりにする。何だか『地獄で後悔しな』とでも言い放ちそうな顔つきになったが、地がこれでは仕方ない。ジューヌは精一杯作った笑顔で待ち人を迎え入れるべく、扉を開いた。そしてたちまち怪訝な顔になる。表に立っていたのは、サングラスを掛けた筋肉男と筋肉女。イーライとフレイアだったのだ。

「用意が出来たか。では行こう」

「何その格好。ジューヌ、あんた、パーティにでも出るの?」

 そう言われても、当のジューヌは今の状況を理解するのに手間取った。確かに自分は、これから例の継承実験の為にカーラ邸へと赴く。以後は護衛付きになるという話も聞いた。しかしそれが、この2人とは聞いていない。あの男が自分に言った台詞を、ジューヌは今更ながらに思い出した。

『ジュヌヴィエーヴ。この「ヴ」ってのが凄く言い辛いな。上唇を下唇に被せるような形? それはさて置き、君はとても大事な人だ。今後の趨勢に変化をもたらす存在になるかもしれない。だから君を護らねばならん。嗚呼、行き帰りをほどほどには護らねばならん!』

 確かに彼は『自分が護る』とは言っていない。だからジューヌは聞いてみた。

「あの、リヒャルトは?」

「私に言ったよ。『取り敢えず君は、誰かを護る事から前進しよう』ってさ。やる事が分かんなくなってきていた所だし、まあいいやって」

「俺には『最近存在感が薄いですね。仕事あるけど?』と言いやがった。頭にきたから一発殴っておいた」

「で、リヒャルトはどうしているのです?」

「あいつなら行ったよ」

「何処へ」

「遊びに行った」

 

フィッシャーマンズ・ワーフ ピア39

 ここのマリーナの波止場は、季節にもよるが野生のアシカを観察する事が出来る。彼らは波止場に浮かべられた板の上に集団で寝そべり、日がな一日を日光浴で楽しんでいる、らしい。その愛らしい姿は、獣臭さを我慢すれば実に面白く、フィッシャーマンズ・ワーフでも有数の観光スポットとなっていた。

「ねえ、ママ」

 小さな男の子が、母親の袖口を引っ張った。母親はシャッターを押すのに夢中で、子供の呼びかけを気にも留めていない。仕方なく男の子は、1人で「それ」と向き合う事にした。

 板の上ばかりでなく、海からもアシカ達は顔を出している。その中に、どう見てもこっそりと人間が紛れているのだ。「それ」はサングラスを掛け、海から首だけを出し、何食わぬ顔でアシカ達の合間を漂っている。「それ」は男の子と目を合わせると、笑顔で手を振ってきた。応じて男の子も手を振り返す。「それ」は満足したのか、くるりと背を向けると水面をスイスイと泳いで行った。

 さすがにその頃には、周りの大人達も「それ」に気付いて大騒ぎを始める。結局「それ」が残したのは、アシカに紛れて写り込む心霊写真。それに男の子の将来に渡るトラウマであろう。

 

ノブレムのアパルトメント・其の二

 レノーラはマクベティ警部補から送られてきた、観光客が撮ったという画像を携帯で確認し、こめかみを細かく震わせた。

「間違いないわ。リヒャルト・シューベルト」

『頼むぜ、おい。あのネジの緩んだ馬鹿たれをどうにかしてくれ。とっ捕まっても面倒見切れんぞ!』

 切られた電話を眺めながら、レノーラは溜息をついた。横から画像を共に見ていたダニエルが、心配げに曰く。

「放っておいても大丈夫なのかい?」

「大丈夫。彼はとても賢い人よ。何か素っ頓狂な行動を始めた時は、必ず裏に何らかの意図がある。まあ、全く想像も出来ないけれど、行動パターンだけは読めてきた」

 言って、レノーラは椅子に戻るダニエルへと向き直った。

 話があるというダニエルを、レノーラは自室に招いた。彼の表情の深刻さを鑑み、人払いの必要があると判断したからだ。

「話に入る前に、ハンター側が禁術を継承したというのは、本当なのかい?」

 ワインを注ぐ手を止め、レノーラは面食らったように目を見開いた。

「何処からそれを?」

「話は静かに広まっている。ハンターからノブレムへと。僕は危険だと思っている。それは余りにも危険だよ。だってそれは、吸血鬼を殲滅する為の力じゃないか。出来れば僕は、ノブレム側が禁術の流出を押さえるべきだと考えていたよ。それはエルジェ一党にも、ハンターにも渡してはならない代物だからね。しかし、最早手遅れだ」

「…禁術に対する捉え方は、私もあなたと全く同じ事よ。禁術は猛毒だわ。吸血鬼にとって、それに多分、人間にとっても。しかしあの力が無ければ、真祖を抑え込む事は出来ない。毒と知っても飲まねばならない杯もある。それは頭で分かっていても、あの力が私達に向かってくるのは恐ろしい。だから私は、考えを変える事にしたのよ」

「変える?」

「彼らを信じる。その良心を信じる事にする。ジルやエルジェ達に無く、私にあるものの一つがそれよ。ノブレムとハンターは、今こうしている間にも手を携えようとしている。かつて無い変革を私は受け入れようとしている。どう考えても、吸血鬼としての私の考え方は甘過ぎるわ。しかし私は期待する心を抑える事が出来ない。私の仲間達と、彼らに」

「もしもその期待が、裏切られたら?」

「あなた達を遠くへ逃がし、足止めに私は自分を焼き尽くしてでも彼らに報復する」

「やっぱり甘いね、レノーラは」

 心底呆れた口調であるものの、それでもダニエルが彼女を見る目は優しい。

「甘い、甘いよ。砂糖水よりも甘い。しかしそんなレノーラを同志と定めた僕は、一段と甘いかもしれないね」

「ありがとう、ダニエル」

「何、一蓮托生さ。ノブレム、ないしは吸血鬼にとって、何が正しい道なのかを見定めるまでだ。だからレノーラ、聞いて欲しい。僕らが今後どのように戦いを進めればいいのか、考察する必要があるんだ。だから『彼』の話をして欲しい。貴人、クルト・ヴォルデンベルグについて」

 レノーラの気配から、親しさが消えた。代わりに普段は隠している冷酷さが、徐々に鎌首をもたげ始めている。そうなる事は、ダニエルも重々承知していた。それでも彼女には聞かねばならない。

「敢えて僕は、申し訳ないけれど情を無視するよ。何故なら、僕らは未来を語らねばならないからだ。僕らの未来の為に。確かに貴人は真祖に本当の意味でのとどめを刺せなかったかもしれないけれど、其処まで肉迫を為し得たのは彼だけだ。彼がどのような人であったか、僕は聞きたい」

 夢中になってしゃべり続け、ふとダニエルは気が付いた。彼女の顔からは既に険が取れていた。

「分かったわ」

 と、レノーラは言った。

「あの人との始まりと終わりを、あなたにも見せてあげよう」

 レノーラがダニエルの額に指を当てる。

 

始まり

 戦士階級のカーミラには、どの道かなう道理が無かった。敵は英雄、貴人、クルト・ヴォルデンベルグ。史上、吸血鬼を最も殺した人間として、その名は吸血鬼世界にも轟いている。

 彼はアーマド達が習得を始めた禁術の遣いでは、最も習熟した存在だ。増す一方の力は最早帝級に匹敵し、着々と真祖に狙いを定めつつある。

 翻って、力ばかりを求めた人間の、何と醜き姿よとカーミラは嘲笑った。こうしてサーベルを携え、こちらに向かって来る姿のおぞましさは言語に絶する。

 しかしながら、それでも良いとカーミラは考えた。存在のおぞましさでは、自分も人の事は言えない。両脚を切断され、心臓を貫かれ、それでも時間が過ぎれば単細胞の如く回復する自分は、人の姿を取ったこの世ならざる者だ。怪物が怪物に殺される、それだけだ。カーミラは、果てしなく疲れた。

「殺せ」

 不自由な体を動かし、カーミラは貴人に首を差し出した。

「首を斬れ。人の首を噛み砕き、泣き叫ぶ声を聞きながら飢えを凌ぐのは、もう沢山だ。農夫の娘風情に、かような所行が身に合うはずも無かったのだ。もういい。死にたい。早く首を斬れ」

 その一言で、貴人の歩みが止まった。

 いよいよかと腹を括ったものの、サーベルが振り下ろされる時は一向に来ない。訝しんだのも束の間、当のサーベルが間近の地面に付き立てられたのが見えた。まさか、とカーミラは思う。まさか、この化け物は自分に情けをかけようとしているのかと。驚いて見上げるカーミラの目と、貴人のそれが合わさった。

 信じ難かったが、それは人間の目だった。躊躇と哀惜を含んだ、感情を持つ生き物の目だ。意外に通りの良い声で、貴人は言った。

「そなたの言葉には懐かしい抑揚がある。そなたと私が同郷と聞いた事があるのだが、まことか?」

 カーミラは益々混乱する。数多の同胞を殺し尽くした、吸血鬼を狩るのみの人外と聞かされていたものが言うには、その言い方にはあまりにも情緒があった。

「そなた、名はカーミラであったな。カーミラ、人を殺めずに飢えのみを凌ぐ術は、無くもないのだ。それを私が教え、そなたが実行するのであれば、この場は互いに出会わなかった事としよう」

 しかし、2人は出会ってしまった。カーミラ・カルンシュタインと、クルト・ヴォルデンベルグは出会ってしまったのだ。

 

終わり

 変わり果てた貴人の骸を前に、カーミラは唯立ち尽くすのみだった。

 己が掌は黒く塗り込められ、指先から血玉を滴らせている。この男を殺したのは、他でもない。自分だった。仕組まれた呪いに突き動かされ、真祖との戦を終えて半死半生だった貴人を、その胸を拳で撃ち抜いたのは自分だ。

「来るなと、言ったのに…」

 この後に及んで、カーミラは自らに言い訳をした。その言い訳も、一体自分が何を言っているのか分からないまま、勝手に口から出た戯言に過ぎない。この男に自分がとどめを刺したという現実の前には。それは実に過酷だった。

「彼は既に後戻りが効かなかったのだ」

 カーミラの膝が崩れる。拘束してあった彼女の元へ、貴人と共にやって来た反逆者、Vが、見下ろしながら言った。

「彼は最期に、自らの命を有効に使おうと考えた。君の呪いを解く為だ。分かるがいい」

「何を」

「彼の心をだ」

「分からない。彼が死ぬなら、私も一緒に死にたかった。それが私の望みだ。彼は私に希望を与え、たった今絶望を私に投げ捨てた。こんな思いをするくらいなら、いっそ初めて会った時に首を斬られていれば良かったのに。…V、反逆者」

「何かね」

「私を殺せ。私は存在する価値が無い。たった一つの希望も失せた。吸血鬼には自決の自由すら無いのだ。だから殺せ」

「男が血を吐きながら示した善意を、無為にする馬鹿者の言う事は聞かぬ。生きろ、と彼は言った。だから君は生きろ」

「どうすればいい。私は一体どうすれば」

「考えるがいい、カーミラ。考えるのだ。何故なら戦いは、まだ終わっていないのだからな」

 

ノブレムのアパルトメント・其の三

「…貴人の変貌は、禁術の中でも突出した進化の挙句の果てだったのよ。だから吸血鬼に応用が効くはずもない。しかし、矢張り私達には私達の、吸血鬼として真祖に戦いを挑む術はある。それをカーラが編み出そうとしている。最大級の秘匿事項だから、今はまだ言えないけれど。でも、ダニエル、私を信じて欲しい」

「分かったよ、レノーラ。僕はあなたを信じるよ。だから今日は、もうこれまでとしよう」

 話を強引に打ち切り、ダニエルは席を立った。扉を閉めて、壁に頭を打ちつける。

 彼女の異能が自分に見せた昔話の後、カーラはまるで夢を見ているように浮ついていた。深く根ざした心の傷を、レノーラは自らまともに見てしまったのだ。心が、心を拒絶する。今のレノーラは、そんな風に見える。

 彼女は何れ立ち直るだろう。しかしながら、惨い事をしたとの後悔がダニエルに残る。

 

ユニオン・スクウェア

 ダウンタウンの中心に位置するユニオン・スクウェアは対して大きくもない公園だが、ホテルやデパート、有名ブランドショップが軒を連ねる一等地の公園でもある。市民や観光客が数多く集う憩いのスポットには、それ目当ての路上パフォーマーも集ってくる。ここの楽器演奏者や大道芸人は、路上で腕を磨こうというプロ意識の持ち主が多く、非常にレベルが高い事でも知られていた。

 しかしその内の1人、サングラスをかけた背の高い芸人は、やっている事があまりにも前衛的で、何が言いたいのかさっぱり分からない。それが逆に目を引くという間違った目立ち方でもって、彼の回りにはぼちぼちと人が集っているのだった。

「吸血鬼でーございまーす!」

 芸人は言った。はあ、そうですか、と、見ている人々は口に出さずに思う。

「と、言いましても人間の血を吸うなんて事ぁ致しません。皆さん御存知ないかもしれませんが、実は牛の血だけでも生きていけるのですよ、吸血鬼ってのは。こいつさえ飲んでおけば人間への血の欲求を何とか我慢出来るのです。私など、今日は朝から6袋も飲んで絶好調ですよ。しかしこの牛の血がまたクソ不味い! これをば何とかして美味しく飲めないかと色々試行錯誤の毎日でありますが、今日も新たな一工夫を小生思いつきました。取り出したるは牛の血・真空パック一袋とハウス練りわさび1チューブ!」

 芸人はシェイカーに牛の血とハウス練りわさび全部を放り込み、盛大に振り回して出来上がった赤黒い液状化した何かを一息に飲み干し、げはあと吐くかと思いきや吐かずに全て飲み下した。公共の場を血で汚すなど言語道断と言いたいのだろう。顔を真っ青にして「したっ」とポーズを決める芸人に、観客達は取り敢えずその根性だけを認めて疎らに拍手した。当然ながらおひねりは1セントも出なかったが。

 それはお構いなく、芸人はフラフラと覚束ない足取りでダストボックスに向かった。牛の血・真空パックの空きを捨て、おもむろにボックスの下をまさぐる。そして一枚の紙を手にし、大事そうに懐に仕舞った。

 

アンダーワールド・ウォーキング

 ロティエル・ジェヴァンニが手に入れた通行票は、例えばマフィア「庸」が所持している下界通行票とは訳が違う。現状、ハンターズ・ポイントからしか入る事が出来ない「真下界」への通行票なのだ。今の所、これはハンター達も入手していない極めて貴重な代物だ。

 この出入り口を使ってエルジェ一党の「仕える者共」は、真下界に出入りしている。真っ当に考えれば、真下界こそが仕える者共の根城という事になる。下界絡みの事件が悪魔と深く関わりあっている点を鑑みれば、敵性吸血鬼組織と悪魔達の深い繋がりを窺う事が出来るのだ。

 票を使って「向こう側」に行けば、興味深い展開になる事は間違いない。しかし選択肢を誤って墓穴を掘るというのも、十分有り得る話だ。そしてロティエルは、其処まで無用心な男ではなかった。

 

「いやー、それはどうかな。本当にそれはどうなんでしょうかねぇ?」

 カスミ・鬼島が盛んに首を傾げながら言う。

 ロティエルは、件の通行票が複数枚あった方がいいと言った。それには同意だ。しかしそれを入手する手段については、幾ら何でも無理があるのではないかと思うのだ。

「持っている人に頼んで譲ってもらうってのは、いや、どうなんだろ。どう考えても譲ってくれないと思うんスけど」

「駄目ですかね?」

「駄目っしょ。この通行票を持っていそうな人達ってのを片っ端から挙げてみましょうか? まずエルジェ一党でしょ、それに悪魔の下っ端の皆さん。後はH2に参加しているハンター面々、それに恐らく『庸』の構成員。この中で一番話が通じそうな相手は、よりにもよってハンターさんじゃないですか。バリ怖えーって言うか」

 そもそも「相手が通行票を話し合いで自分に渡してくれる根拠」が希薄である故、誰が相手でも穏便に通行票を譲ってくれそうにない。ロティエルは困ったという風に頭を掻いた。

「それならば、戦って昏倒させてから譲って頂くしかありませんな」

「それ強盗だから。マジ強盗ッスよ」

「こちらとしては、逃走経路に幅を持たせたいところなのですよ。今や状況は一触即発状態。ハンターとこの世ならざる者の戦いは激化の一途を辿りそうですし、そうなるとノブレムも月給取りの身の安全を確保出来ない。これは由々しき問題ですぞ」

「ンまあ、確かに。でもノブレムだって、もう逃げ場所が何処にも無いような気がするなァ。段々戦う方へ戦う方へ状況が流れていると思いません? 何処も彼処も、戦の臭いがプンプン」

「その意味で考えれば、或る意味一番危険な場所は、他でもない『ここ』なのかもしれませんな」

 すえた臭気に顔をしかめつつ、ロティエルは立ち止まって下水道を眺めた。

 2人は肩を並べ、サンフランシスコの広大な地下下水道を歩いている。エルジェ配下の仕える者共は、下水道を使って地上を出入りしている事がロティエルの目撃情報から判明している。地上においては神出鬼没の彼らではあるが、通行票を使う出入り口近辺を歩いていれば、彼らに遭遇してしまう可能性がすこぶる高くなる。加えて「庸」と抗争状態に入りつつある悪魔絡みの連中もうろついているのだ。半端な気持ちで侵入すれば、戦士級の吸血鬼と言えども命取りになる可能性がある。

 再び歩き出し、何気なくロティエルは思いついた疑問を口にした。

「そう言えば卿は」

「え、卿って私?」

「卿は何でまたこんな所を歩いていたのですか?」

「えー。何で、ですかァ? 何でって言われても、何となくとしか…。強いて言えば、月がとっても青いから?」

「無軌道ですな。太陽が眩しかったから云々のムルソーの如く」

「うそ。本当はGに会いたかったから」

「G?」

「ほら、仕える者共。アルファベットナンバーズ。あの娘とは血みどろの気持ちいい事が出来そうなんですよ。色々と話してみたい事もあるし」

「…引き寄せあう似た者同士といったところでしょうな」

 空言のように呟いて、ロティエルはまたも立ち止まった。其処は仕える者共が出入りをしていた『出入り口』だった。懐の通行票を取り出す。心なしか、票は温かみを帯びているように感じられた。

「折角ですから、一緒に覗いてみましょうか?」

「え、私も?」

「この票は彼らの落し物です。つまり1人が票を失った訳だ。にも関わらずあの時の一行は問題無く入って行きました。1人くらいなら同行出来るかもしれません」

 言って、ロティエルはカスミの手を取り、票を件の壁に押し当てた。青白い光が一瞬明滅し、合わせてロティエルの腕が、ぬるりと壁にめり込んで行く。意を決して体を壁に埋め、続くカスミも彼に続いた。そしてあっけなく、2人は壁の向こうを見る事となる。

「何これ」

「これは一体…」

 2人は森の中に居た。両脇の鬱蒼とした木々に挟まれた小道が真っ直ぐに伸び、その先には然程大きくない西洋の城が鎮座している。時は夜で、とても静かだった。虫の音も、夜行鳥類の鳴き声なども一切聞こえない、とても静かな夜だった。背後を見れば、不自然に聳え立つ壁がある。2人は黙ったまま、また元に戻った。

「何あれ」

「あれは一体…」

 下水道を抜けると、其処は深い森の中だった。等という状況を俄かに受け入れられるはずもない。自分達が一体何を見たのか冷静に噛み砕こうとする思案を、しかし突如の気配が霧消させた。

 2人が揃って、地面に耳を当てる。駆ける足音が聞こえてきた。それも複数だ。その音の主が一体何なのかは想像に難くない。ともかくその場を、ロティエルとカスミは急ぎ離脱した。

 幾つかの角を曲がって身を伏せる。足音は未だ聞こえていたものの、しばらくもすると少しずつ失せていった。恐らく『出入り口』に入って行ったのだろう。やがて足音は完全に途絶え、2人は安堵の息をついた。

「ああ、怖かった。怖かったですよーん」

「戦士級とは言え2人では厳しいですからな」

 軽口を叩きつつ立ち上がり、ロティエルとカスミは地上に戻るべく歩み出した。そして最初の角を曲がった途端、それに出くわす羽目となる。

Gnineve doog  (わんばんこ)」

 仮面を被った、小柄な少女が立ちはだかっている。Gだった。それも、足が地面についていない。体が宙に浮いていた。

 

その数時間ほど前ツインピークス

 街の西のそのまた向こう、太平洋に夕陽が沈む。

 景色が有名な小高い丘の上で、リヒャルトは1人、両手を腰に当てて日暮れの美しい街並みを見下ろしていた。そしておもむろに携帯を手に取る。

「…私だ。例の物は、融通がついたかな? こちらも望みのものを手に入れたよ。全く、あんなアシカの群れの居る海の底に沈んでいるとは、どういう了見かね。大丈夫だ。それは今、バッグで手に持っている」

 言って、リヒャルトはバッグをこれみよがしに掲げた。

「ユニオン・スクウェアで読んだ指示書通り、ツインピークスまで来たのだが、姿が見えんな。何? 来れなくなった? 冗談はよし子さん。ふむ。そちらも色々と大変なのだな。それでは何時交換してもらえるのかね? そちらから携帯に連絡をもらえるのだな? 分かった。なるべく早くしてくれ給え。こちらも状況が非常に厳しい。その武器さえあれば、相手が帝級だろうが確実に『ブッコロ』。かのサミュエル・コルトが作りし魔銃、もう一つの『コルト』さえあればな!」

 携帯を切り、クク、とリヒャルトは笑った。カーッハッハッハッハと大笑した。周りに居た観光客がそそくさと逃げ出してもお構いなしだ。

 

再びアンダーワールド・ウォーキング

「変わった宴会芸ですね」

「結構受けがいいんです」

 カスミと暢気にやり取りし、Gはストン、と地上に降り立った。カスミとロティエルの逃走するタイミングは完璧であったが、何分仕える者共の集団にはGが居た。彼女はカスミに対して特に目をかけており、彼女の存在を勘で察知する事が出来る。

「寂しかったですよ。あの屋敷にはあなたを感じられませんでしたからねえ」

「それは光栄なこって。そこまで気にして頂けますとね。で、どうします? 一発ぶちかまします?」

「そっちは2人ですけど?」

「…ロティエルさーん」

 カスミはべろりと唇を舐め、姿勢を徐々に低くした。ロティエルが深々とため息をつき、肩を竦めてみせる。

「分かりましたよ。手出しは致しません」

「じゃあ決まり。サシで勝負。私が勝ったら、可愛い服と「通行票」を下さいな。あと、色々と情報も」

「うーん」

 Gは仮面に指当て、こりこりと掻いた。そしてポンと拍手し、朗らかに言う。

「パス」

「え、何で?」

「あまりにも可哀想な状況になったから」

 カスミとロティエルが、背後から何かに首を挟まれた。それは実に頼りなく細い2本の何かであった。一瞬後、血も凍りそうな怖気が全身に走る。

「楽しそうねえ、3人とも。私も混ぜてもらおうかしら?」

 耳のすぐ傍から、キヒヒ、と嫌な笑い声が通り過ぎた。圧迫感のあまり、首を回す事も出来なかったが、いちいち確かめなくとも後ろに居るのは誰かくらい、見当がつく。

「この首を挟んでいる人差し指と中指は、少し力を加えるだけでハサミのように切れちゃうのよ。どうする? 首が皮一枚で繋がった状態で、生きていられるか試してみるか?」

「やべえ。ウルトラやべえ」

「エルジェ殿…ですな」

「あら、こっちを見ないで、よく分かったわね」

 言って、エルジェは指を2人の首から離した。途端に極度の緊張から解放され、ロティエルとカスミは危うく膝を崩しかけた。その様を見下ろすようにされていると、2人には感じられる。エルジェは全く気に留めた風もなく、2枚の票を後ろから2人に握らせた。

「本当は仲間にならなきゃ渡さないのだけれど、面白かったから今日は出血大サービスよ。私は何時でもお前達を歓迎するわ。真下界通行票、有効にお使いなさいな。G、さっさと家に帰りなさい」

「はーい」

 直後、Gとエルジェの気配がその場から消えた。残されたロティエルとカスミは、顔を見合わせて笑った。全く楽しくない時に、自嘲気味に漏れ出る笑いだ。

「久し振りに死ぬかと思いましたよ」

「私もです」

「この通行票。これって、どーいうつもりなんでしょ」

「分かりません。しかし確実に言えるのは」

 一転し、ロティエルが苦々しい顔で曰く。

「あの怪物は、明らかにこの状況を楽しんでいる。実に不愉快極まりないですな」

 

その1時間前:マリーナ地区

 小競り合いが始まったカーラ邸から、携帯電話を手にしたターゲットが1人飛び出した。仕える者共、Dは、それに合わせて包囲を離脱し、ターゲットの追跡を開始する。

 その男はノブレムにあって、要注意人物の筆頭である。普段は馬鹿としか思えない行動をしているが、月給取りの暗殺を未然に防ぎ、ノブレムとジェイズの協調路線の最先端にも居る。態度からは全く窺えないが、使える者共を当初から完全に敵視し、最早自陣営に組み込む事叶わじと目されていた。

 此度も異様な行動をしている。ピア39でアシカと泳いだり、全く面白くない路上パフォーマンスで場を冷え込ませてみたり。しかしツインピークスでの携帯電話のやり取りで、Dはそれらが意図して行なわれたものだと知った。海から何かを引き揚げ、それを交渉材料としてユニオン・スクウェアで何者かとコンタクトを取り、何らかの物品を入手しようとしている。男はそれを「コルト」と言った。

 コルトという簡素な名の拳銃は、殊に悪魔の間で知らない者は居ない。コルトはこの世において、5人だけ殺す事が出来ない。神、ルシファ、ミカエル、死の騎士、そしてあと1人。言い換えれば、それ以外のありとあらゆる者を抹殺出来る拳銃なのだ。その銃をもう一丁、男は手に入れようとしている。嘘か真かは分からぬが、由々しき事態であった。

 いきなり男が歩調を緩め、それに合わせてDは身を隠した。男は隣の雑居ビルを見上げ、携帯電話に話しかけた。

「ここだな。今行く。早く手に入れて戻りたい」

 男がビルに入るのを見届け、Dもその後を追った。足音を消し、階段を静かに上る。5階の辺りで、扉の開閉音が聞こえた。一息に、かつ無音で駆け上がり、Dは5階踊り場の扉の前で身を沈めた。ノブに手を掛け、僅かに開く。暗闇の向こうには誰も居ない。そして身を差込めるだけの隙間を開けると、鋭敏な聴覚がプツリと何かが切れる音を足元に捉えた。張ってあった細い糸が切れた音だ。

 その途端、ナイフが空気を裂いて肩口目掛けて突っ込んで来た。罠だ、と気づいた時にはもう遅い。突き立ったナイフには死人の血が塗られている。Dは速やかに倒れ伏した。

 

「おー目覚ーめでーすか」

 癇に障るふざけた声で、Dは目を覚ました。ここは先のビルの一室だろうか。椅子に座らされ、がんじがらめに拘束されている自分に気付く。死人の血を捩じ込まれたせいで、まだ体は痺れていた。目の前には、同じく椅子に腰掛けているターゲット。リヒャルト・シューベルト。リヒャルトは極めて友好的な口調で言ったものだ。

「しかしまあ、こんなに思い通りに引っ掛かるとは。君達が何らかの形で、四方八方から私達を監視しているのは知っていたのだ。ド派手に遊び回って思わせ振りな言動をすれば、こうしてついてきてくれるものと信じていたよ。ありがとう、信頼に応えてくれて。私は今、猛烈に感動している」

「まさか、コルトというのは」

「すみません。嘘っぱちです。私の芝居はどうだったかね? 若い子には難しかったかな?」

 Dは、自分が既に仮面も外されている事に気が付いた。まだ幼いDの顔が、怒りのあまり真っ赤に変色し、わなわなと震え始めた。

「野郎! この野郎! バカ野郎! ふざけるな! クソが! 殺してやる! 首をぶっ飛ばしてやる!」

「いいよいいよー。もっと言い給えー。何だか褒められているみたいで私は嬉しいよー。あんなに凝った前段取りで君を拉致したのは、色々理由があるのだ。一つは、カーラ邸への圧迫を和らげる防衛の為。君達の包囲はたとえ1人でも引き算すれば、それだけでこちとらは随分と楽になる。君達のお母ちゃんであられるエルジェ・ザ・クソビッチがあんまりアレだから、色々と勘違いされている趣もあろうが、はっきり言って君達は、私達ノブレムよりも遥かに強い」

 その一言で、Dは罵詈雑言をピタリと止めた。一体リヒャルトが何を言い出すのか、興味が鎌首をもたげ始めたのだ。

「そりゃそうだ。全員が戦士級で、一糸乱れぬチームワーク。私達は猫の手ハンターの手を借りて、ようやく五分かそれ以下だろう。今のところはね。で、拉致した理由がもう一つ。ちゃんと話をしたかったのさ。君達の目線というものを、私は知っておくべきだと思ったんだ。悪魔だ真祖だとか、固い話は抜きにしてね」

 言って、リヒャルトは血の詰まったパックを床に投げ出した。

「牛の血だ。大変不味い。今日は人前に出過ぎたせいで、10袋も空けてしまったよトホホ。しかしカスミって女の子が魔法の粉を作ってね。それを混ぜると不味さが和らぐ。こうして私達も日々工夫しているのさ。こうまでして牛の血に拘るのは、人間と抗争したくないという理由もあるが、私自身は人を殺したくないからさ。考えてみ給え。この世のものとも思えぬ絶叫を耳にしながら、人間の首を噛み砕くなんて、やなこったいだよ」

「ノブレムはそれだ。ふざけた集団だと俺は思う。一体お前らは、何時まで人間にしがみつくつもりなんだ? 人間だって牛を殺して肉を食うのに、その人間を殺すのが嫌だと? この偽善者めが」

「ああ、似たような事を言っていた子がノブレムにも居るねえ。で、私はこう答えるんだ。それがどうした?」

「何だって?」

「殺すのが嫌なのは、可哀想だからだ。生き物が殺されるのを見て可哀想と思うのは、至極普通の事だよ。人間だって、牛の屠殺を見ればしばらく肉が食えなくなるだろう。またハンバーガーを齧り出すとは思うけどね。それは仕方ない。生きる為なのだから。しかし同属殺しは話が別だ。人間が人間を殺す事を当然と思ったら、それは人間ではなくなるのだ」

「吸血鬼が言うことか!」

「厳密に言えば、そうではない。我は人と吸血鬼の狭間であがく者である」

 ハ、と、Dは鼻で笑った。そして目の色を鈍く輝かせ始めた。Dは今から、リヒャルトの心を読もうとしている。これが帝級吸血鬼から、Dに授けられた異能だった。先程から大層な御託を並べる男の、真意を読み取ってやろうとDが試みる。そしてDは、目を見開き息を呑んで、異能の行使を打ち切った。

 目の前のリヒャルトは、ほんの僅かであったが、とても虚ろな、奇妙な、気の狂った笑顔を浮かべていたのだ。

「読んだのかい。私の心を。成る程、情報が色々と抜けていたのは、それも一因だったのか」

 ガタガタ震えながら恐怖の眼差しを向けるDに、そ知らぬ調子でリヒャルトは言った。

「その力、他にも使える者は?」

「ふ、二人…」

「そうか。何か対策を講じねばな。ところでD、君は心の闇を見たのだろう。私が人に拘るのは、内なる残虐と戦う為だ。一度人の生き血を啜ってしまえば、それは最早私ではない。D、君には本当の名前があるはずだ。人としての本当の名前がね。それを十把ひとからげのアルファベット表記にしているのは、つまり帝級達は、君達の個性なんざどうでもいいと思っているからだ。奴等は人間も、吸血鬼も、等しく価値が無いと考えているのさ。利用し、すり潰す道具だ。私はそれがどうしても許せない。出来ればぷち殺してやりたいと思っとります。今はとても無理ですが。しかしDよ、君はDのままでいいのか」

 リヒャルトは立ち上がり、ナイフを手に歩み寄った。身を仰け反らせるDを尻目に、リヒャルトは背後に回って、彼を拘束していたロープを切り刻んで行く。驚いて見上げるDを、リヒャルトは立たせてやった。

「歩くくらいは出来るだろう。君は仲間の元に帰り給え。人質にしようと考えないでもなかったが、生憎拘束し続けられる場所を思いつかない。いい加減な場所に君を閉じ込めておくと、奪還しに君の仲間が来る。戦いが混沌化する。私達は扱いに困って君の首を斬る。それは本意ではないのだ」

 言って、リヒャルトはDの肩を押した。

「さあ若者よ、行き給え。次に会う時は戦いになるかもしれない。ひどく残念だが。本当は、私は誰も殺したくない。だが、信念の為にそうせざるを得ないのも、また人間なのだろう。良かったら、君、私達の仲間にならないか。美味しい牛の血の飲み方を教えて進ぜよう」

 バサ、と身を翻す音が聞こえる。リヒャルトはDを部屋に残し、窓から夜の街へとその身を投げ出した。

 

 

<V1-3:終>

 

 

○登場PC

・カスミ・鬼島 : 戦士

 PL名 : わんわん2号様

・ダニエル : 月給取り

 

・リヒャルト・シューベルト : 戦士

 PL名 : ともまつ様

・ロティエル・ジェヴァンニ : 戦士

 PL名 : Yokoyama様

 

 

<戻る>

 

 

 

 

 

ルシファ・ライジング V1-3【吸血鬼の暗闘】