<ツインピークスの決戦・其の一>
サンフランシスコ市を縦に割るような形で、市内には非常線が厳重に敷かれている。非常線に沿って警戒態勢に入る警官達にも、自分達が何から市民を守ろうとしているのか、市当局からの説明があった。これにてハンター・ノブレム陣営と、サンフランシスコ市警察機構は呉越同舟相成った訳だ。ハンターという人種が発生して以来、史上初の展開である。
意味するところの甚大さに恐れおののきながら、それでも警官達は気を奮って守備に就いていた。非常線の突破は、危険極まりない不死身の人食いを、或いは人間を身に取り込みながら突き進む醜悪な化け物を、港湾側の領域に退避する市民達の生活圏に引き込んでしまう事を意味している。彼らの負う責任は重大だった。
ただ、ツインピークスを包囲する完全封鎖の理由に関しては、詳細が上層部から伝えられなかった事もあって、警官達は皆目理解出来ずに居る。無論、厳守の命令を受ければ警官はそれに従うものだが、それにしても小さな丘を取り巻く守備に関しては、首を傾げざるを得ない。この包囲は、ツインピークスへの侵入を防ぐと言うより、内側のものを阻止する意味合いの方が強い。
警官達は知らなかった。と言うより、物理的な目視が効かない『こことは別のツインピークス』で、一体何が起ころうとしているのか、ないしは起こっているのか、ハンターですら極一部しか知り得ていない。
創造を司る堕天使と、虚無の神による最終決戦。
この風光明媚なツインピークスを舞台とするのは、そんな戦いである。率直に言って、それはこの世の終わりと称しても差し支えなかった。
「対話を?」
「対話を」
虚無の神、バーバラ・リンドンに請われて、王如真の姿のサマエルは訝しげに目を細めた。
「奇妙な事を。確かに、このツインピークスを現実から切り離したのは私です。それはお前と雌雄を決する為でした。しかしながら、戦を望んだのはむしろお前の方からであったと記憶しておりますが」
「左様。私は戦いを望んでおります。しかしその前に対話をしてみたいのですよ、サマエル。これは私の個人的な趣向です」
「対話の意義が分かりません。まさか私を説得するなどという、愚策を弄するおつもりか?」
「そのような意義を持たせる事を、私は愚かなどとは思わないわ。でも、説得などをするつもりはないのよ。強いて言えば、戦いに意味を持たせたいのです。私の意向と貴方の意思。擦り合わせる余地が無いのは明白でしょう。そのような相容れない方向性を明確化する事によって、双方激突不可避の状況を改めて認識し合う。それが対話の意義よ。決して妥協点を見出さない対話のね」
「対話と称して、その実何も変える腹の無い所行、という訳ですか。人間の蒙昧な部分の象徴と言えなくもありませんね。尤も、お前は既に人間ではありませんが」
サマエルは益々厳しい目でもってバーバラを見据えた。
帽子を深く被り、ベンチの傍で静かにたたずむその姿には、何らの情感的なものをサマエルは見出せなかった。サマエルは堕したとは言え最高位の天使であるから、人間の感情、その気になれば思考そのものも深いところまで読み取る事が出来る。差し当たってバーバラには、それが通用しなかった。何を考えているのか分からない相手を前にするのは、サマエルにとって不愉快極まりない。
「対話を拒否します」
サマエルがそう答えたのは、半ば反射に拠っている。対してバーバラは、肩を竦めた。
「それでは、私はツインピークスから出て行くわ」
「戦いを止めると?」
「ええ、そうです」
「愚かな物言いを。宣戦布告をしたのはお前であり、私はそれを受諾しました。逃げられると思いますか」
「思うわ。むしろ、私がここから出て行けない、と思うのは何故かしら? 私には、この結界すらも意味が『無い』。散歩をするように、この場を離れられるでしょう」
「既にお前は、禍々しい力を蓄えつつあります。そのなりで『現実』に戻ろうとするのですか。物理法則という概念すら食い破るお前が現出すれば、世界に歪みが発生する。生半可な災厄では済まないでしょう」
「私に対して人間的な躊躇を喚起させて、踏み止まらせるのは浅慮というものよ。私がそれをする事が出来ない、と思うのは何故かしら?」
「お前は、人間達を人質に取るつもりか」
サマエルとしては痛いところを突かれる格好となった。
確かにバーバラは人の形をしているが故、その力が人に向かわぬように配慮する理性がある。かような錯覚をサマエルは自身に認めた。
「良いでしょう。お前との対話を認めます」
努めて穏やかにサマエルが告げ、バーバラが軽く会釈する。この期に及んでサマエルは、主導権をバーバラに握られつつある事に無自覚であった。
<ツインピークスの決戦・其の二>
「サマエルという存在を考察するにあたり、幾つかの興味深い点があるのよ」
相も変らぬ平板な微笑みを浮かべ、バーバラはサマエルに言った。
「その一つに、この争乱状態を敢えて貴方が作り出している、というのがあるわ。考えてみれば奇妙な話よね? 貴方は人間を守ると公言して憚らないけれど、その人間を配下の者達に殺させてもいる。ひどく矛盾した行ないに見えるのだけど、貴方の考え方において、それは矛盾していない」
「それについては、私は既に解を見せているつもりです。ルシファの侵攻は、最早抑える事が出来ません。ミカエルの軍団も動きを見せつつある。ハルマゲドンは、程近くに始まるでしょう。築き上げた人間の文化、社会の数々は崩落します。私には、それを防ぐ力があるのです。人間を庇護し、彼らを戦いの中で育て上げ、反撃の狼煙をこの街から立ち上げる。私はルシファ、或いはミカエルとも直接対抗出来ます。いや、双方が潰し合うならば、あの者共を圧倒するも容易い。そして私が勝ち、人間は再び勃興出来るのです」
「確かに、人間の歴史は戦いの歴史とも言えますね」
「戦いの中で、彼らは更に進化を遂げるという事実を、私は悲しみと共に受け入れました。先の大戦ではあれ程多くの人間が死に至ったにも関わらず、今や人間の科学力と文化、それを下支えする人口、知識層の拡大は、戦争前の比ではありません。私は封じられる間に様々な事々を思考しましたが、あの大戦は方向性を決定するうえで、大きな意味を持つ事となりました。私の復活によって、私の強大な力によって、人間を守り抜く。しかしそれではまだ足りない。人間達をこそ根本から変革させる必要がある。人間を進化人類の段階に進める。悪魔も、吸血鬼も、彼らが突き破る為の壁に過ぎません」
「貴方がハンターという人種にひとかどの興味を抱いた理由が分かるわ。彼らは独力でこの世ならざる者に対抗する術を、長年の蓄積によって得てきました。それは進化人類の形を想定する際のテストケースになりますものね」
「ハンターは面白い。彼らはある意味、極めて人間的存在です。対処すべき事案と向き合う際の発想がバラバラで、それでいて奇妙なまとまりを見せてもいます。彼らは社会からの逸脱を自覚していますが、自らがハンターというカテゴリィ内で社会性を築いている事には無自覚です。つまりその閉鎖された社会性を、逆に一般市民の側へ浸透させる。彼らの力は然程のものでもありませんが、その思考体系は実に強靭であると認めます。彼らならば、人類が未だ経験していない、人類以外との戦争に耐えられる社会を作り上げる事が出来るでしょう」
「その日常は地獄だわ」
「その地獄が、もう直ぐ向こうからやって来ます」
「だから手を打たなければならない。それも矢継ぎ早に。人間を争いの中で死に至らしめ、人口を減らし、つまり残る者は進化人類への道が開ける。サマエル、貴方は、ハンターと市当局、つまり一般社会が一体化して対抗策を取ろうとしている現状も、想定の範囲内だったのね? 先に貴方が言っていた、ハンター社会から一般社会への思想浸透を証明する事象ですものね」
「虚無の者、バーバラ・リンドン」
うんざりした、という態度も露にサマエルは言った。
「私はお前が、先程から何を言おうとしているのか分かりません」
「私が言いたいのは、そうね、一体誰がそうして欲しいと頼んだ、という事よ。貴方が守ろうとしている人間の、一体誰が?」
「愚かな事を。私が人間の為に行なう事々に、何ゆえ人間の許可を要するのかが理解出来ません」
「人間には独立した意思があります。それも1人1人、無数に存在しているのよ。理解を求めるという行動が一つでもあれば状況は変わっていたでしょう。ほぼ全てのハンターが敵対的な態度を取るという、今の状況がね」
「理解を求める? 人間に? 何故、理解を求める必要があるのかが理解出来ません。何故なら彼らは、私の思考を理解するという段階に到達していないからです。だからこそ、私は彼らを導かねばならない。思考に革命を起こす必要がある。私の行ないは、その方針で一貫しております」
「ああ、良かった事」
その言を聞き、バーバラは口の端を曲げた。
「その言葉を聞いて安心したわ。サマエルは、矢張りサマエルでしかないのね」
<ツインピークスの決戦・其の三>
「その言葉の意味は?」
サマエルの声音が、また一段と低くなった。
「矢張り、サマエルでしかない、とは?」
「あなたが想像通りの天使だった、という事ですわ。立ち止まって顧み、自省して最善策を考慮する。そういった変革の目がある手合いは厄介なのだけれど、あなたはとても分かり易いと思うのよ」
「お前に私そのものを理解するなど、不可能でしょう。私は御父上ではありませんゆえ、完璧ではありません。しかし完成に最も近いものであるとの自負があります。私を侮るという感情をお前が持つ事に驚きを禁じ得ません」
「侮るなど滅相も無い。ただ、平板であると思ったに過ぎないわ」
「平板、とは?」
「あなたは形状を変える事の無い、一枚の板みたいなものです。あなたに対して、数多の声が呼び掛けたにも関わらず、それら一切にあなたは耳を傾けようとはしませんでした。機会は幾らでもあったはずですのに。ピュセル、カロリナ、アガーテ、バルタザール、王如真、あなたに対抗しようとするハンター達、そしてジョンジー」
サマエルは首を傾げた。しかし人間の声を一切聞かないという指摘に対してではない。彼としては人間との対話を積極的に試みている自覚があるので、バーバラの言わんとするところは全く当を得ていない。尤も、声を聞いてから後、それらを自分なりに咀嚼して受け入れるという一連の流れが存在しない点を、彼が気付く事は無かった。
彼が首を傾げたのは、ジョンジーという言葉について、である。しばらく記憶を辿り、ああ、とサマエルは声を上げた。その声音には、礼儀正しく物腰丁寧な態度にはそぐわない蔑みがあった。
「私に歯向かった犬の亡霊の名前ですか。たかが犬の分際で」
「たかが、犬」
今度はバーバラの声から、穏やかさが消えた。
<ツインピークスの決戦・其の四>
真意を表情に出さず、サマエルが嘲笑する。
人の身で神を称するこの不届き者は、ようやくその正体を露呈したのだとサマエルは見た。
徹頭徹尾、感情表現を表にしなかったバーバラは、ジョンジーという単語一つで豹変した。ジョンジーという犬の亡霊について、サマエル自身は全くもって注意の外であったのだが、どうやら彼女には違う存在であるらしい。
予想するに、その犬と虚無の神を称する者は、結束が殊の外強固なのであろうとサマエルは考えた。だからジョンジーを歯牙にもかけない自身の態度に、バーバラは憤りを覚えたのだ。そしてそれこそが、その感情の発露こそがバーバラの弱点である。
想定通り、かの者は不完全だ。サマエルはこの先の結末を確たるものとして捉えた。かの者、自ら滅び去るのみと。
「犬とは」
サマエルは、彼なりに人間への愛情を込めて言った。
「下賤の生物です。人から施しを受け、人の顔色を伺い、人に媚びへつらう。野生の生物にあって、際立つ卑しいものです。しかも肉としての糧にすらならない。バーバラ、お前は思い違いをしています。あれにお前はひとかどの情を『人として』抱いているようですが、あれがお前達に示すのは、糊口を凌ぐ為の打算であります。だからバーバラ、犬如きで怒りを覚える必要はないのです」
「いいえ、サマエル。あなたが思い違いをしています」
バーバラの声に、震えが混じり始めた。サマエルが俯く。笑い顔を気取られぬ為に。バーバラが続ける。
「彼らは昔、狼でした。人間との生活圏が交差し、獲物を取り合う間柄ではありましたが、何時しか群れを作るという共通性が親和を生み、共に暮らすようになり、犬と呼称される進化に至りました。確かに人間は、彼らを可愛い家畜程度にしか見ていませんでした。否、今も多くはそうだと思います。それでも、人間は彼らの愛情を知るようにもなったのです。人間は、時には彼らを虐待し、酷い仕打ちを与え、また小さい確率ですけれど、人間の方が逆襲を貰う事もありました。それでも、彼らは家族と認めた者は愛するのです。其処に打算は存在しない。利己も無い。駆け引きも無い。心からの無償の愛。人間も、ようやくそれに気付くようになりました。自分達を心から愛してくれる他種生命体の存在を。犬は、孤独な人間というカテゴリィの生命体が初めて得た、愛すべき家族ですわ」
一頻り言って、バーバラは深く息をついた。そして温和な笑みを浮かべ、猛毒を吐き出した。
「尤も、このような話は御理解が困難でしょうね。たかが天使如きには」
ああ、と、サマエルは苦笑した。
感情剥き出しの、醜い不完全な者よ、と。
サマエルはバーバラに指を差した。最早会話をするのも億劫である、とでも言うかのように。
<開戦・1>
例えば外交的努力や国際世論の推移等によって、人間同士の戦争が破壊力以外で決着をつける、という事はよくある。しかし仮に人間と天使が開戦した場合、そういった駆け引きの妙はほとんどの場合通じない。多くの天使に駆け引きという概念が無いからだ。よって何が起こったのか分からぬ内に、人間の側が蒸発する落着を迎える事になる。尤も、天使の存在理由は人間の思念ありきなので、彼らを天使が絶滅させる事は有り得ない。
翻ってサマエルと虚無の神の戦争は、破壊力の比較という形式ではなかった。創造を自負する天使と虚無を司る神は、それぞれの特性を空前絶後の規模で露呈した。
噴火により陸上が隆起し、島となって陸地を形成する。
消滅。
大地に水が流れ込み、草が生え、木が繁る。
消滅。
村が寄り、街が築かれる。
消滅。
バクテリアから無脊椎生物へ、そして原初の水生生物の誕生。
消滅。
立ち並ぶビルが平野を埋めて行く。
消滅。
大型爬虫類の隆盛。
消滅。
やがて我が物顔で世界を闊歩する哺乳類。
消滅。
それすら上回る昆虫類の総数。
消滅。
世界中で産声を上げる命達。
消滅。
誕生と増殖を繰り返し、世界が物と命で溢れ返る。そしてそれらに訪れる虚無。
サンフランシスコ、ツインピークスを軸として封鎖された狭い異空間で、世界規模の勃興と増殖が繰り返され、そして尽くが虚無に返る。言ってみれば、それは凄絶な陣取り合戦だった。産み育て死ぬ。生きて枯れる。構築され破壊される。何れが上回り、存続し得るのか。又は全てが無に帰すのか。そのせめぎ合いを、サマエルは不意に止めた。
ここは正確にはツインピークスではない。其処に似た別の場所だった。しかしツインピークスに似た小奇麗な丘は初撃で消滅し、ここはもう何処でもない何処か、である。
サマエルとバーバラは何も無い空間で対峙していた。
バーバラが首を傾げ、うなじに手をやって軽く掻き、言う。
「それで?」
サマエルは答えた。
「それだ」
バーバラの右腕が、ずるりと削げ落ちる。小さな音がはぜ、右腕は消えた。
<開戦・2>
バーバラの表情は終始喜怒哀楽が希薄であったが、この時ばかりは大きく目を見開いた。
その様を観察するサマエルの方は、憐憫の表情すら浮かべている。こうして己と五分の存在を自負しながら、創造と虚無の応酬によって一方的に自壊して行く意味を、恐らく彼女は分かっていないのだと、サマエルは解釈した。
不意にサマエルの心に『慈悲』が芽生える。人の身でありながら人を超えるという所業の、身の程知らずの愚かさによって彼女は破滅するのだ。その結末を予想せずに、彼女は安易に力に頼ってしまった。結果何も出来ぬまま、何も残せぬまま、バーバラは敗北する。そのあまりの無意味をサマエルは哀れに思った。ゆえにサマエルは追い討ちを仕掛けず、慈愛の心でもって『何故そうなったか』を最期に教える事とした。が、消えてしまった右腕を探しておろおろと慌てるバーバラの卑近さを目の当たりにし、サマエルは苦笑せざるを得なかった。
「自称虚無の神、よくよく考えてみるといい。虚無を司る存在を称する、という言葉そのものに矛盾があるという事を」
「どういう事です?」
半ば縋るように問うバーバラを宥め、サマエルが続ける。
「虚無が存在する、という現象は現実として有り得ないのです。何故なら無は無。有ではありません。よってお前は虚無の神ではない。その紛い物と言えるでしょう」
「そんな」
「否、正確には『虚無の神に至る素養を有する者』という事です。そう、たしかにその素養を発揮し続ければ、最終的にお前は恐れ多くも神の位に至れるはずです。よって、私は手助けをする事にしました。お前の力を加速させ、バーバラ・リンドン、お前を真の神の座につける。お前はお前自身で、本物の虚無になるが良い」
今度はバーバラの左足が消滅した。バランスを失った彼女が倒れ込む。唇を噛み締め、バーバラは言った。
「そんな。そんな。私が消える。何も無くなってしまうなんて」
「何を今更。まさか人間の意識と形状を保ったまま、虚無を体現するなどという手前勝手と傲慢を、本気で信じていたのですか? 虚無の神の真なる姿は、正に虚無。尤も、魂を砕かれた人間もまた、最期は虚無に至るもの。つまり誰もが虚無の神に成り得るという訳です。お前のしてきた事は、全てが無駄でした」
「そう、だから何かを刻み付けなければ、私達は自分自身に存在の意味を見出せなくなってしまうのです」
片腕を支えに、バーバラは這いつくばりながら前進した。
「この世界は過酷です。経済を動かし、歴史を動かし、世界を動かし、後世に存在した証を残せるのは、きっとその時代毎に数億分の一しか居ないでしょう。その業績すらも何れ膨張する太陽に飲み込まれ、ずっと先で全てが消え失せてしまうのです。私達は一体、何故存在しているのでしょうか」
「お前は何を言っているのです?」
「その虚しさを度外視し、今日も人は生きて行かねばなりません。私達が何かに取り憑かれたように生産し、破壊するのは、まるで生きているのみではいけないという強迫観念に駆られているかのよう。でも、私達は走り過ぎているのです。だから立ち止まって見詰め直さなければ。何か大事なものを、私達は踏み躙ってはいないかと」
サマエルは困惑した。
バーバラはがらりと口調を変え、彼女自身が言うように、取り憑かれたかの如くしゃべり続けている。放っておけば、もう直ぐ消え去るかの身であると承知のうえで、バーバラは自分に言葉を遺そうとしているのだろうか。しかしながら彼女の発する言葉の一切が、何ら自身に通じていないとサマエルは自覚している。ゆえに益々困惑する。彼女は一体、何がしたいのかと。
その困惑は、結果サマエルに隙を作った。サマエルはバーバラが着実に接近しつつある事に無自覚である。
<終戦>
「私はもう人として取り返しがつかないものになってしまったわ。でも、人間は違うのよ、人間は」
まだバーバラは言い募っていた。聞かされるサマエルは、ひたすら躊躇するしかない。この期に及んで、バーバラは必死そのものである。
「人の命はとても短いけれど、人には自分が置かれた環境を一気に覆す力があるわ。何故なら、良くありたいと願う心があるから。人間はやり直す事が出来るのよ。何度でも、何度でも。倒れ伏しても、這い上がって立ち上がる事が出来る」
バーバラはサマエルの目を見据えた。
「天使が人間に対する理解を薄める理屈の一つ。彼らは、間違ったらそれまで、失敗したらそれまで、悪に走ったものは地獄行きのみ、そんな風に物事を善悪で両断する価値観の持ち主よ。ただ私は、やり直そうとする心一つが天使を凌駕出来る人間の強さだと信じているわ。だから、さあ、立つのよ」
サマエルは自身の心中を惑わす錯乱の根源を、今になってようやく理解した。
バーバラが熱心に話していた対象は、自分ではない。王如真だ。この異界にあって完全に制圧したはずの彼の心が、バーバラの言葉によって揺さ振りをかけられている。
(最期に如真の情に縋ろうとは)
あまりの生き汚さに眩みを覚えるも、サマエルは落ち着いて心の内の如真に語りかけた。
鎮まりなさい。
御主様。
鎮まるのです。
サマエル様。
魔物の戯言に耳を傾けてはなりません。やり直せとは、彼奴の甘言に過ぎません。何故ならお前は自らの罪を悔悟し、新たな道を切り開こうとしているからです。お前は自分自身が志した者に生まれ変わったのです。
善き者に?
そう、善き者に。
本当に僕は善き者になれたのですか?
なれたのです。善悪一切合財を救済し、傷つき穢れた魂を救済し、最終戦争によって損なわれる命を救済する。その中心核にお前はなれたのです。
いや、違います。
違う?
僕はただ、もう、人に言われて人を殺すような、そんな集団に属するのが本当に嫌だっただけなんです。罪滅ぼしがしたかっただけなんです。その結果、周囲の人を傷つけてしまった。大義名分のもとで人が死んでも当然だと考えるようになってしまった。結局僕は何も変わってはいなかったんだ。
私達の元では、死に行く者達も不滅の魂であり続けます。お前が望むなら、手にかけた者達を幾らも甦らせる事が出来ましょう。それだけの力が今の私達にはあります。お前は、もう昔のお前ではないのです。
そのような力は、僕には過ぎたるものです。
何ゆえ?
死んだ人間は、生き返りません。だから人生は貴重なのです。それを単独の思惑一つで生まれたり、死んだりを制御するのは残酷ではありませんか。
雑多な思考の寄せ集めでは、早晩ルシファに滅ぼされるでしょう。だから寄せ集めを統合する確固たる後ろ盾が必要なのです。大きな一つの意思の下で、人は大きく逸脱する事もなく安寧を得られます。残酷とは真逆の、これは慈悲そのものと言えましょう。
そうか。城鵬さんが言っていたのはこれか。心は完全に同一のものにはならない。雄々しく独立して然るべきなんだ。
馬鹿な事を。
サマエル様、僕はあなたのお考えに、何も考えずに従おうとしていました。しかし考えた結果、僕はあなたを理解する事が出来なくなりました。それはあなたにとっての私の言葉も同じくでしょう。しかし、それでいいのです。相反する考えであっても、互いを尊重する事が出来れば、もしかしたら歩み寄れるかもしれません。お願いです、僕はあなたに敬意を払いますから、どうか僕というものを認めて下さい!
王如真!
あなたの負けね、サマエル。
その声の元に、サマエルはギョッとした目を向けた。
何時の間にかバーバラに、掌を握られていた。這いつくばった格好から見上げるその目は開戦以前と同じく、人らしい輝きの一切が失せている。
事ここに至って、サマエルは真なるところを知った。バーバラが積み上げてきた言葉の全てが、この一撃を捻じ込む為の、嘘であったと。戦いに意味を持たせる為の対話。ジョンジーを侮辱した際の憤激。自身が消滅すると知った際の絶望。最後に、王如真を励ます言葉。全てが全く心を伴わぬ、嘘であった。つまりバーバラは、隙を作るという一点の目的を完遂する為に、己の情すらも餌にしたのだ。
サマエル。またの名をサタン。莫大な彼という存在が、王如真の肉体を一切損なう事なく、凡そ四分の一ほど消滅した。サマエルは、初めて恐怖を覚えた。
轟く悲鳴と共に桁外れの光量が、バーバラの体を呑み込んで行く。物理的存在としての彼女は瞬時に消し飛び、サマエルが言っていた『真の虚無の神』に至るその手前、彼女から別のものが放逐された。銀の甲冑に身を包み、小さな犬を抱いた、幼いとも老練とも見える娘が一人。
『あなたは、私を見捨てるおつもりか!』
北欧の神、ゲイルスケグルは絶叫した。
<街角のメルヘン>
見捨てる、という悲痛な叫びは的を射ている。バーバラはゲイルスケグルとジョンジーを、散々利用した挙句に捨てたのである。
それでも、ともゲイルスケグルは思う。
その結果はどうだ。自分だけであれば全く太刀打ち出来なかったサマエルが、その存在を大きく削られるという大打撃を被った。副次的にサマエルと依り代、王如真の結束は完全に瓦解し、かの人間がサマエルから解放されるという結末をゲイルスケグルは予想した。
そして自分とジョンジーもまた捨てられるという形をとって、バーバラから解放されたのだ。自分に巻き込まれず、存在し続けよ、という事である。サマエルという桁外れを相手に、一から十まで思うが侭の所行を遂げた挙句、バーバラだけが消え去る。これはもうメルヘンの世界だ。ゲイルスケグルは、どうしようもなく泣きたくなった。
『一体何故』
もう直ぐ消滅するバーバラの残滓に、ゲイルスケグルは問い掛けた。
『どうしてこんな事に』
『私は、人間的に言えば狂気の塊よ』
不思議にバーバラの声は安穏としていた。
『でも、狂人には狂人の矜持がある。心の闇に、やたら他人を巻き込まない事。そのあたりを弁えずに他人を破滅させようとする愚か者は、単なる寂しがり屋に過ぎないわ。狂人は闇を抱え込んだまま、たった一人で消えるべきよ。尤も、私にとってサマエルはその範疇ではない』
『私を連れて行ってくれないのか』
『駄目よ。まだあなたには、出来る事がある』
『何が出来る』
『それは自分で考えるといいわ。この混沌の世界で、忘れられかけている女神に何が成せるのか、考えてみるといい。ところで、最期に一つ聞いていいかしら?』
『言うがいい』
『ジョンジーは、これからどうなるの?』
ゲイルスケグルは、胸に抱いたボーダーコリーを撫でた。ジョンジーはリラックスした表情でゲイルスケグルを見上げ、視線を中空に戻した。彼にはもしかしたら、バーバラの姿が見えているのかもしれない。ゲイルスケグルは口元を引き締め、慎重に言葉を選択した。
『2つの成り行きがある。このまま私が別の場所に連れて行く』
『別の場所?』
『大切な何かを守る為に命を懸けて戦った者だけが辿り着く、魂の安息の場所へ。そしてもう一つ』
『もう一つは?』
『彼がもしも望むのであれば、今一度肉を得て愛する者の傍へ帰る事が出来るかもしれない』
ワン、とジョンジーは元気良く吠えた。笑う、という意思をバーバラは彼女と彼に向けてきた。
『そう。良かったわね』
『本当にあなたは何も無かったのか?』
サマエルによって隔離された世界から、ゲイルスケグルとジョンジーはいよいよ離脱する事となる。彼女はバーバラに最後の問いを投げた。
『本当に、最初から心が無かったのか? 夫と子供を亡くす前の心は、まだ損なわれていなかったんじゃないのか?』
答えは返らなかった。バーバラ・リンドンは虚無の神になったのである。
一方で、サマエルは完全に錯乱していた。
虚無の神との決戦は、バーバラが虚無と化して世界から消え去るという結末を迎え、形式上においては彼が勝利する事となった。しかしその勝利に実利は一切無く、ただサマエルの側が甚大に損なったというだけである。
気をお鎮め下さい。
そんな声が聞こえたような気もする。声の主は王如真だが、それが誰であるかに意識を傾ける余裕が今のサマエルには無い。天使として存在を開始してから今に至るまでを経て、サマエルは初めて恐怖を覚えたのだ。その動揺は尋常のものではなかった。
恐怖し尽くし混乱を極め、しかしながらサマエルは、徐々に一つの思考を支えとするようになっていた。このままでは駄目だと。
そう、このままでは駄目だ。王如真は主である自身に疑問を呈するという不届きを行ない、既に器としての資格を喪失している。更に数枚落ちる資格者を保険として用意していたものの、彼らの存在をサマエルは察知出来なかった。ハンター達の活躍によってル・マーサのフレンド達が全て解放されていた事を、今のサマエルは知る由もない。
この追い込まれた状況を打破する手段が一つある。ただし、それは天使である事の存在意義を自ら否定するような所業だ。それでもサマエルの思いは一途であり、それを成し遂げる為に全てを捧げる覚悟があった。
人の未来を守らねば、と。まさに天使の権化である。
<ツインピークスの黄昏 其の一>
ツインピークスの外周を包囲していた警官隊達は、正体不明の地震に幾度となく襲われ、足腰が立たぬ有様にまで追い込まれていた。その地震はサンフランシスコ大地震を経験している年配の警官も、体感した事のない激烈な震度である。ただ、それほどまでの激震であるにも関わらず、周囲の建物には一切被害が無い。ツインピークスの景観も、寸分違わず目の前に鎮座している。常軌を逸する状況である事は誰も彼も自覚し、恐怖に慄き、しかし不意に大地の鳴動はなりを潜めた。
警官達が顔を見合わせ、不意打ちの揺れに備えつつ、恐る恐る立ち上がる。
「何だってんだ」
誰かが呆然と呟いた。それを合図に、再び事態が動く。
「公園から誰かが出て来た!」
ツインピークスの頂上に至る唯一つの連絡通路から、1人の男が覚束ない足取りで降りてきた。当該範囲を担当する警官達が直ちに確保に向かい、拳銃をホルダから抜いて男を取り囲んだ。
「手を頭の後ろにして跪け!」
銃口を向けて恫喝する警官に対し、中華系と見える男は言われるまでもなく膝を屈し、ばたりと正面から倒れ込んだ。警官達がアイコンタクトを取り、銃を仕舞って男を両脇から抱え上げる。
「どうしようもない事を…」
「何だ? 何か言ったか?」
息も絶え絶えの呟き声を聞き取り、男を引き摺る警官の1人が眉をひそめた。男は構わず独白を続ける。
「これだけの事をしながら…。それでも生きろと、あの人は…」
こうして王如真は、サマエルのくびきから解放された。廃人一歩寸前の体でありつつも、辛うじて如真は心を維持している。
異なる地区では、また別の事態が発生していた。
中心区から猛スピードで到来した1台のミニクーパーが、横転せんばかりに警官隊の守備地区に滑り込む。警官達は動転したが、中から転がり出た者を見て反射的に敬礼をした。マクベティ警部補とジョーンズ博士、それに助手のファレルである。
「挨拶は要らん!」
「諸君、直ちにこの場から離脱しろ!」
血相を変えて怒鳴りつけてきた警部補と博士に対し、守備隊の隊長はうろたえつつも無線を全員に繋ごうとした。が、無線の電源は何時の間にか一切入らなくなっている。
「電磁場異常の大規模発生。既に市街全域が一時的に停電していますね」
ファレルは警官の肩を叩き、博士を顧みた。
「まずいですね、博士」
「うむ。まずいぞ、これは」
「仕方ない、とにかく離脱できる奴だけでも急いで…あ、ああ?」
切羽詰っていたマクベティ警部補が、ぽかんと口を開けた。其処彼処から警察車両が、蜘蛛の子を散らしたように遁走を始めていたからだ。無線も繋がらず、離脱命令の声も届かず、何故。
等と悠長に考えている暇は無い。警部補達も警官を引き連れ、一目散に離脱を開始した。先の隊長が目を白黒させつつ警部補に問う。
「一体何事ですか、これは!」
「分からん!」
「何ですかそれは!?」
「分からんが、非常にまずい。俺と博士と助手の認識はそいつで一致した!」
「訳が分かりません!」
「うるせえ、とにかく逃げるんだよ!でないとお前、ほら見ろ」
パトロールカーの後部座席に飛び込んだ警部補が、後方のツインピークスを凝視した。既にクーパーを発進させている博士達も、あれに気付いているだろうか。
小高いツインピークスの景色がゆっくりと、確実に、蜃気楼のように揺らめき始めていた。
<最終段 サマエルのしもべたち>
サマエルは自らを、自らの意思でもって分割した。
身体はマクシミリアン・シュルツの乗っ取りを開始し、魂はここではない世界、煉獄で充填の時を迎えている。
サマエルとしては忸怩の極みであっただろう。当初の目論見は完全に瓦解し、あれだけ抱えていたこの世ならざる者の軍勢は粗方失われてしまった。しかし駆逐された末に残った2体は、強大である。強大であるからこそ残ったとも言える。
吸血鬼の真租、ルスケス。エグリゴリの筆頭格、シェミハザ。
彼らは互いの存在を何となく知ってはいたものの、敢えて面を合わせるような事はしてこなかった。その必要がないからだ。
しかし今は違う。彼らはハンターやノブレムの吸血鬼達が、何を狙ってくるのかを心得ていた。なればこそ、対処する為に意思を確認する必要がある。態度にこそ出さないものの、実のところ彼らも追い詰められていたのである。
「人間的な時間の感覚に合わせれば、君、久し振りだねえ」
「何を言っておるのだ、この耽美派気取りのナルシストは。何時何処でお会いしましたっけ?」
かような調子でシェミハザとサマエルは、アウター・サンセットの一角にて邂逅を果たした。シェミハザはかつて天使だった頃のルスケスを承知していたものの、対するルスケスは煉獄での狂わんばかりの死闘と共に、自分が天使であった事すら意に介していない。それでもサマエルに対する忠誠の程はさすが兄弟である事よと、シェミハザは微笑んだ。ルスケスが瞳を絞ってシェミハザを睨む。
「何でえ。何笑っていやがるクソが」
「君は純粋な者だ。精神に変容を来たしても、その純粋さが損なわれなかったのは喜ばしい。さて君、今の状況はよくよく把握していると思うが、サマエル様の置かれた状況は承知しているね?」
「当たり前だ。兄者は見事に分割されておる。全く、あの虚無とやらにそこまで追い込まれるとは思わなんだわ」
「全くだ。かの者が顕示欲に任せて第三勢力と化していたら、この街は地獄と化していただろう。しかし新たな第三勢力と呼べるものが迫りつつある。来るよ、ルシファが」
その言を聞き、ルスケスは一瞬目を丸くし、唸りとも呻きともとれる声を漏らした。
「ルシファかよ。ルシファか。駄目だそりゃ。全然駄目だ。さすがに俺もドン引きだわ。街ごと俺もてめえも消え失せる未来絵日記が眼に浮かぶぜ」
「まあ、そうだ。あんなものに対抗出来るのはサマエル様だけさ。その辺りをこの街の愛しい人間達にも汲んでもらいたいものだが、無理かな?」
「無理無理。虫けらみてえな連中だが、闘争意欲だけは俺に匹敵するかそれ以上と認めよう。あのアホどもは兄者を徹頭徹尾敵とみなした由、今更兄者に傅くなどという頭は無かろうよ」
「何と無駄な所行を。と、言っている場合でもなくなったのが今なのだよね。サマエル様を取り巻く状況は、非常に危機的なのさ。尤も、私達であればサマエル様が『器』に収まるまでの時を稼ぐも容易い」
さて、と呟き、シェミハザは居住まいを正した。これからが本題という事だ。
「私はサマエル様の器を護ろうと思う」
「例のふたコブ山で陣取るって訳かい」
「そうさ。きっと来るよ、彼らは。しかし少々厄介なんだ。メルキオールの残り物達さ。どうやらリーダー格の中国人女性は、私と一戦交える腹を括ったらしい。結果私は彼らへの対処にかかりきりになるだろう」
「そいつら、そんな強えのかよ。なれば別で動いた連中が、兄者の器に到達するであろうなぁ」
「私の方を片付けたら、すぐにでも『器』の守備に回るさ。それに到達したところで、あの『器』に勝てると思うかい?」
「無理無理無理」
「そうだねえ。無理だねえ。だから私の役回りは、戦力の分散と割り切る事にするよ。で、君はやはり君の役回りに集中するのだね」
「あたぼうよ。それが兄者の望みである。俺様は『調和』だ。調和の心でもって街の人数を適正化し、やたらめったらに好戦的な連中を尽く排除するときたもんだ。そして副次的に戦力の分散化に寄与するもの也。どうこうやっている内に、兄者は完全復活を遂げるであろう」
「うん、煉獄側の方が手薄だね」
「あっちの兄者が一番えげつねえじゃねえか。うひゃひゃひゃひゃ」
「あはは違いない。あはははは」
2人はゲラゲラと一頻り笑い合い、不意に揃って口を閉じた。つい今し方まで笑っていた事など、忘れたと言わんばかりに。
「ではごきげんよう」
「さようなら、また会う日まで」
<最終段 誰?>
サラ・スーラ、マイケル・スミス、シュテファン・マイヤー。この混沌とした状況においては、下っ端3人組も色々とやる事が多い。
彼はこの世ならざる者達への対処法を心得ているハンターだ。その強みを鑑みてジェイズから依頼された仕事とは、後方待機だった。ハンターとは本来攻性の集団であるので、後方待機は「引っ込んでろ」と言われたに等しい。3人は思わず不貞腐れた。
しかし前線を突破されてしまえば、この街に技能を持った人間が居なくなる。後方に回された彼らには、ハンター側にとって最後のカードという意味がある。その点はわかっているので、3人は渋々と従った次第のだが、人間のエリアである街の北東部に現時点で攻め込まれていない以上、彼らもただ漫然と待機している訳にはいかなかった。
都合彼らは、炊き出しのボランティアに駆り出されていた。
「クッソ疲れた。あー疲れたクソッタレ。あああクソがああ」
「クソクソ言うもんじゃないですよ、サラ。君も恐らくは女なんだから」
「性別を超えた特殊生命体じゃねーの。ま、ハンターってのは突き詰めればそういう生き物なんだろうな」
「クソがあ」
さんざん市当局にこき使われた挙句の果て、3人はようやく「巨大な鍋からスープを掬う反復作業」から解放された。普段から全身を駆使して活動している自負があったにもかかわらず、二の腕がだるすぎる。3人はユニオン・スクエアの一番隅っこの方で、膝を抱えて座り込んでいた。周囲は人、人、人、黒山の人だかり状態。リラックスなどは当然出来ない。3人は、ほとんど同時にため息をついた。
「煙草吸いたい」
「マナー違反ですよ」
「この世の終わりみたいな世相でマナーとか何とか」
「仕方ないよ。実際サンフランシスコ市民、随分と行儀がいいんだから。しかし、妙だな」
「何が」
「行儀が良過ぎるって話でね。確かにプレシディオに溢れた人達が悲惨な目に合ったりしたけどさ、つまり市民側も事ここに及んで尋常ではない状況を自覚している。自分達は非常に危険な状況にある事を分かってるはずだ」
「確かに、これはもう戦争ですよ。人間とそうでないものの。シェミハザみたいな肉ダルマがゴロゴロ転がってくる様を見た人は、最低でも三桁は居るはずです。少なく見積もっても、噂は100倍の人口に広がるでしょう」
「吸血鬼だって、もう目の当たりにしている人は沢山居るわよね。みんな、何でこんなに落ち着いてんの?」
3人は改めて周囲の人々を見回した。概ね彼らは漠然とした不安を面に出していたものの、それでも無目的にうろついているようには見えない。宿舎に戻る、配給を受ける、市当局の人間と話をする等々、奇妙な言い方だが所作が機敏である。戦闘状況に晒された街でありがちな、諦念のような気配が無い。考えてみれば奇妙だった。
周囲がそういう空気感であるからこそ、3人は周囲から浮いているように見える1人の老いた男に注意を向けた。
その老人はキョロキョロと左右を見ながら、何かを捜し求めるように力なく歩いている。3人は人が良いうえに、違和感を悟るに長けたハンターでもあった。至極当たり前に、彼らは老人に声を掛けた。
「どうなさいました? 何かお困りですか?」
努めて丁重に話しかけるマイケルに、老人は応じて顔を上げた。近くで見れば分かる事だが、老人は特に不安そうな様子が見当たらない。ただ躊躇しているだけに見える。老人は言った。
「娘夫婦を探しております。この辺りに居ると言われたのですが」
「はぐれたのですか? この人込みでは大変ですね。何時はぐれたのですか」
「一週間前からです。携帯電話も持っておりませんし、困ったものです」
「一週間!? 一体何処で」
「市民病院で。それからずっと歩き通しで、随分と困っておりましたが、まあ、この辺りに居ると言われたもので」
娘とはぐれて一週間とは随分長い。老人は少々認知症の気があるらしく、市当局に相談する事もしなかったのだろう。当然娘の方も探しているのだろうが、この人口密度と昨今の混乱状態である。市警も対応が中々出来なかったに違いない。しかし老人は、彼の話によればようやく当たりをつけたという事だ。マイケルは首を傾げつつ問いを重ねた。
「娘さん夫婦の居場所を教えてくれたのは、市当局の人ですか?」
「さあ」
「さあ?」
「誰だか分かりません。ただ誰かが耳打ちをしたのですよ。この辺りに居ると。で、わしは教えられた通りにここまで歩いてきたのです」
「…どんな人だったのですか?」
「さあ。見ておりません」
「ええ?」
と、血相を変えた中年女性が人波を掻き分け、こちらに向かってくる様を一同は見た。案の定、彼女は老人の娘である。
「父さん!」
「おお、お前。良かった、本当にここに居たのだな」
「探したのよ! 一週間も! 父さん、車椅子は? 何で立って歩けるの? 何で、どうやって病院から出て行ったの?」
「声が聞こえたような気がしてね。その人を探さにゃならんと思ったんだ。で、またその人の声が聞こえたんだよ。お前がこの辺りに居ると」
まるで要領を得ない老人の答えを吟味する事も忘れて、女性は涙目で慌てふためきつつ、彼を抱かかえるようにしてその場を足早に立ち去って行った。彼らを見送る3人は、何となく取り残された心持ちで互いの顔を見合わせた。
「どういう事?」
「一件落着と言う他はあるまい」
「いや、妙でしょ。経緯を整理すると、こういう事です。どうやらあの老人は自力で歩けない人で、入院患者だった。それが『声』とやらに導かれて歩けるようになり、病院を抜け出した。どうやって食い繋いでいたのか知りませんが、一週間も。そしてまた『声』が教える通りにユニオン・スクエアへと赴き、目出度く家族と再会」
「一件落着だな」
「何が落着よ。一から十まで変てこ極まりないじゃない」
3人は綺麗なユニゾンで首を傾げた。天使が人間に介入する。この世ならざる者が溢れ返る。吸血鬼の親玉が奇声を発して侵攻してくる。この街は既におかしな事だらけで、最早如何なる事態が発生しても不思議ではない。
ただ先の出来事は、これまでの一連の怪異とは切り離されているように3人は感じていた。いわゆるハンター的な勘どころである。
「ちょっと調べてみる?」
と、サラ。
「そりゃ後方待機として備えなきゃならないんだけど、見過ごすのも何だかなあって感じだし」
「貧乏性ハンターの鑑ですね」
「うるせえ」
「…まあ、いいかもしれんな。インターバルとして動いてみるのも。多分そんな事はないだろうけど、調査する事で今の情勢にプラスの影響があるかもしれん。それにこのままだと俺達、特に貢献出来なかった3人組として最終回を迎えてしまうぞ」
シュテファンの言葉はあまりにも実感がこもり過ぎていて、マイケルとサラはこれ以上無いくらいのガッカリ顔になった。
<H7-7:終>
○登場PC
・バーバラ・リンドン : ガーディアン
PL名 : ともまつ様
ルシファ・ライジング H7-7【メルヘンダイバー】