<サンフランシスコ市長の最悪の一日>
敵性吸血鬼の頭目、ルスケスによる血の舞踏会開幕のお知らせ、言い換えれば人間に対する宣戦布告に関しては、既にサンフランシスコ全市民の知るところとなった。
街全体が不可視の力で封鎖されている状況も、はや1ヶ月弱。理不尽な異常状況とは言え、これまでは目に見えた形でカタストロフが発生しなかった事もあり、ようやく人心は落ち着きを取り戻そうとしていた矢先のそれである。市当局上層部は自らも恐怖に駆られながら、痛い頭を抱える羽目になった。
この世ならざる者の存在を、もう曖昧にする事は出来ない。攻撃を仕掛けてくる者が何であるか、市民達は否応なく知る事となるだろう。そしてサンフランシスコ市長、ギャビン・ニューサム氏は知っていた。敵が話し合いに応じるような輩ではない事を。ハンターという人間とそうでない者との間に立つ存在を理解し、且つそうでない者達にとって人間とは、路傍の雑草と等価であると認識している事も、充分過ぎるほど分かっている。
よって選択肢は唯一つ。戦う以外に手段は無い。事ここに至り、ニューサム市長は各方面の代表者の招集をジェイズに依頼した。得体の知れない、それでいて巨大に過ぎる敵に対抗する為には、対抗する人々との連携を強固とするのは最低必須である。
フェアモントホテルの喫茶スペースで、市長は恐ろしく高いコーヒーを啜りながら、集まった面々を眼球のみでもって見回した。
集まったのは、ゲストハウスの代弁者としてのジェイコブ・ニールセン。ジョン・マクベティ警部補。並びにSWATの代表としてアヴドゥル・ラウーフ。バチカンからの使者、ヘンリー・ジョーンズ博士と助手のブラウン・ファレル。と、ここまでは見知った顔だった。初めての顔を合わせは2人居る。
市長は内心苦い思いで、王広平を眺めた。彼はチャイニーズマフィア、庸の最高幹部である。本来であれば、こうして会う事は断固拒否したいところであったが、共通の敵を相手にする都合、彼らとも話し合いの場を持つ必要がある。そしてもう1人に視線を移し、今度は緊張を悟られぬよう、大きく深呼吸する。
痩身長躯、蓄えた髭と厳しい目つきのその男は、ノブレムからの代表者であった。穏健派とは言え吸血鬼である。何ヶ月か前の自分なら『アン・ライスはどうも趣味じゃなくてね』くらいの事は言っていただろう。しかしこうして、吸血鬼は目の前に実在している。市長は落ち着き払い、彼の名を問うた。
「ヴラディスラウス・ドラクリヤである」
ヴラドが答える。
「お初にお目にかかる、市長殿。ヴラドで宜しい。ドラキュラと呼んでも結構」
「ドラキュラ。はは。ドラキュラさんか。これは頼もしい。やっぱり今でも愛しのミナ・ハーカーなのかね?」
「ミナを含めたハーカー家は、私にとって守護すべき者達だった。彼らと、彼らの子孫を生存させる為に、多くの仲間が倒れ伏した。その意味で、今も彼女らは愛しい人々である」
ヴラドは全くの無表情である。周囲の者達も、至って真面目な表情を崩していない。本物のドラキュラかよ。と、市長は卒倒したくなる気持ちを堪え、今一度コーヒーを啜った。
「後でサインを戴けるかな?」
「名前を書く事に意味を見出せないが、そんなもので良ければ幾らでも書こう」
「ありがとう。出来れば私と息子の分を。それでは本題に移ろう。こうして集まって頂いたのは他でもない。私達が共通の敵とする存在は、どうやらサンフランシスコに同時多発的な、そして壊滅的な手段での攻勢に出ようとしているからだ。皆々方は、各々の場面において敵との正面戦闘を繰り広げている途上である。先ずは敵の攻勢について、知り得るだけの情報を共有したい」
<ハンターズ・ポイントから這い寄るもの ~H2より~>
「仇敵であるカスパールの打倒は成った。彼奴が率いる悪魔の一党も相当に数を減らしているはずだ。聞くところによれば、当初我々が解決を目指した背信三氏も、カスパールを含めて全て死んでいる。とは言え、未だ庸の戦に終わりは見えていない。また厄介な代物が出現したからだ」
言って、王は机上に地図を広げ、ハンターズ・ポイントを指差した。
「天使メルキオールは、エグリゴリのシェミハザ、と言っていたそうだ。人間の死体を固めて作り上げた醜悪な化け物が、元は天使だと言うのだから笑わせる。そのシェミハザは、メルキオールからの定期的な攻撃によって歩みを遅らせているものの、確実に市街地へと進行しつつある。その目指す先は、ここだ」
王は指をずらし、今度は市街のほぼ中心地を示した。
「チャイナタウン。狙いはメルキオールと見ていいだろう。メルキオールを殺す為だけに、あの怪物はお構いなしの直線ルートを進んでいる訳だ」
「冗談ではない」
市長が苛立ちも露に曰く。
「市街の中心だぞ? その途上にどれだけの人口が集まっている事か。そのシェミハザとやらは、人間に対して敵対的なのか?」
「奴は人間の体を取り込もうとする。今のところは死体を掻き集めただけの体だが、奴は生きている人間も我が身の一部にしようとするだろう。人間に対しては、随分愛情深い性格らしい。何しろ人と堕天使が生み出した巨人、ネフィリムを再現しようとしているのだから」
「ふざけるな。と言いたいところだが、冗談ではないのだろうな」
「そいつの性向については、シェミハザの逸話が参考になる」
市長を宥めつつ、ジェイコブがエグリゴリの伝説について解説する。
「エグリゴリというのは堕天使の一団の名称で、シェミハザはそのリーダーだった奴だ。天使でありながら人間の妻を娶り、様々な知恵を人間達に授けた。結果堕落と悪徳が蔓延して神の逆鱗に触れ、かの有名な大洪水を引き起こす末路に至る。どうも西洋的世界観は、文化英雄って奴に辛口なエピソードを盛るような気がするな。尤も、それらの話は虚実が入り混じっていて全くの真実ではないと思う。ただ、有り得るのはシェミハザがかなり人間に近い位置に居た天使だった、ってとこだろう。そして文化英雄としての側面は、サマエルのそれと非常に似ている。人間に過剰な干渉をするところなんかもね。両者が結託しているのは分かり易い展開だ」
「問題は、その話に対抗する手段が見出せない点だな」
市長の言葉に、ジェイコブは苦い顔で頷いた。
実際の話、シェミハザへの対抗策については頭の痛い話である。恐らくメルキオールの攻撃は、ハンター陣営において比類なき威力を誇っているはずだ。その攻撃を受けても全くダメージが通らないのでは、他にどんな手段を講じれば良いと言うのだろうか。
「…庸の陣営と一部のハンターは、メルキオールから天使の理力を借り受けている。兎にも角にも、奴は攻撃を受ければ遅滞する。現状においては、シェミハザの到着を遅らせるしかあるまい」
「そいつはまさしく対処療法だな。確実に至る死を若干遅らせるに過ぎん」
如何にも苦し紛れに言う王に、マクベティ警部補が言葉を挟む。しかし自らの台詞が誰にでも言える無責任な内容である事も、また承知のうえだった。
一同は何気にジョーンズ博士を目の端に置いた。苦しい時、辛い時、八方ふさがりに陥った時、その人の顔を見れば安心出来るという、特異な人徳を持つ人間が稀に居るものだが、この場においては博士がその人である。博士は集まる視線を受け、彼らしい魅惑的な笑みを浮かべて話を切り出した。
「事の顛末は私も聞いたが、ラスティ・クイーンツ君が面白い事に気が付いている。似たような敵の話を聞いた記憶があると。それは恐らく、彼の友人であるドラゴ・バノックス君の経験譚を指している」
「どういう事です?」
「カースド・マペットだよ」
皆が首を傾げる中、ジェイコブが「あ」と声を上げた。
「そうか、カースド・マペットか! 死体を寄せ集めた出来損ないの自律稼動人形。シェミハザは、その巨大版だ」
「そういう事だ。つまり目に見えるシェミハザは、実は大掛かりな木偶人形なのだ。操る者が別に居る」
「操り師を殺せば」
「あれもただの肉塊に戻るであろう。しかしここで大きな問題が発生する。一体操り師は、何処に居るのか。それを探り当てねばならん。操り師は恐らく木っ端悪魔ではない。天使だ。つまり自在にEMF反応を抑える事が出来る。手持ちの手段では見つけられまい。そしてあれだけの代物を動かすからには、持てる力も強大だろう。よって木偶人形の近辺に居るとも思えない。結論から言えば、操り師の居場所を初手から推測してかからねばならんという訳だ」
「しかし、そうなれば遅延作戦にも大きな意味がある。庸の人員はシェミハザに対する遅延作戦に全力を注ごう。その間にハンター諸氏には、我々を手伝って頂くか、操り師に対処して頂く。天使が相手でも、天使の理力を持つ者ならば勝機はあるはずだ」
「市当局としては、侵攻ルートを対象にして住民の避難を実施する。違法な銃火器でも何でも使って、存分に暴れてくれ。破壊地跡の保障で私の市長生命が終わっても構わん」
王と市長が頷き合うのを見、博士も満足げに微笑んだ。
「まだ筋道は見えているさ。共通項の無い者同士でも手を組めるのであればね。後はハンターに期待しよう。考える事にかけては、彼らの力は強大だ。果たしてシェミハザは、天使は何処を根城としているのか」
<吸血鬼の跳躍 ~H5 または VHより~>
此度、発生する事が確実な大騒乱の主軸にあるのは、やはり吸血鬼であった。まだ広げられていた地図をヴラドは覗き込み、万年筆を取り出して二箇所に円を描いた。片方は未だ占拠状態のアウター・サンセット地区。そしてもう一つは、ジャパンタウン。
「新祖殿が仮初の住処とされる場所だ」
ヴラドは努めて冷静に言った。
「彼奴の宣戦布告によれば、次の満月の夜、午前零時に敵は総力を挙げて目指してくるだろう。ここで問題が発生する」
「先刻のシェミハザと同じだな」
ヴラドの意図を汲み、市長が苦々しく呟く。
「侵攻する途上の住民を、吸血鬼達は見逃してくれるかな?」
「見逃すまい。アウター・サンセット内部でも見て来たが、吸血鬼達は人を食うにしても一種の統制が取られている。こと食う事に関しては、吸血鬼の本能は残虐だ。抑え込んでいた欲望を、外に出た彼奴らは容赦なく解放する。何せ頭目のルスケスが許可しているのだからな。住民を食い殺しながら、彼奴らは一直線に侵攻し続ける」
「侵攻ルート上当該地域において、全住民の避難を実行する」
市長の言葉は簡素であったが、それが並大抵ではない事は苦悶の表情を見れば露骨に分かる。
「既にアウター・サンセットの住民の大半を中心地区に避難させている。アウター・サンセットからジャパンタウンなど、どれだけの人口が後方へ移動する事になるか。ま、私も市長だ。どうにかしてみせるさ」
「…敵の狙いが新祖であれば、彼女を何処か安全な場所に移動させるべきでは?」
マクベティ警部補の進言に、しかしヴラドは首を横に振った。
「私達の根城が特定されている状況下だ。恐らく連中の監視は今もって密やかに継続している。何処へ身を移しても、彼奴らは正確に追い縋るだろう。その意味で、後方へ退く事はまかりならん。避難住民が更に溢れ返る事となろうからな」
「弱ったな。ジャパンタウンから東への退路は、ほぼ無いと考えるべきってとこか」
「ノブレムの多くは、新祖守護の為の防衛戦を張る事となるだろう。心掛けねばならんのは、戦場を拡大させない事に尽きる。恐らく一般市民への気遣いは、私達にもする余裕が無くなる」
「ルスケスは出て来ないんだろうな?」
「出て来ない。アウター・サンセットに奴はこもる。もしも奴が出張って来れば、サンフランシスコ全域が屠殺場と化すだろう」
「それが出来ない理由ってのは、つまりサマエルの意向に沿わねばならないからか」
「この大騒乱がサマエルの方針である事は明白であり、あれは極度にパワーバランスが崩壊する展開は望まない。よってルスケスはサマエルに従うはずだが、それ以外にもアウター・サンセットにルスケスが留まる理由がある」
「件の石柱の事かね?」
博士の指摘に、ヴラドは頷いた。
「天使は人の魂を我のものとして力量の根幹とする。たとえ元天使であってもな。アウター・サンセットの石柱は、サマエルに供された奴の力の根源だ。これを破壊すれば、いよいよルスケス打倒の目が見える。尤も、その際はルスケスとまともに戦う事となる。よってアウター・サンセットへの再侵攻には私が赴く。新祖抹殺の為にアウター・サンセットの模造吸血鬼は払底するであろうから、其処を突いてカウンターを仕掛けるのだ。新祖の防衛には、再度レノーラに就いて貰う。彼女も私も、此度の戦には相応の覚悟で臨む」
「そして真下界、『真の石柱』には、人間が挑むという訳だね?」
「左様。思想と気迫で、人間が天使を上回るのだ。さすれば、無限に溢れるこの世ならざる者の跳梁は、終結を見るだろう。その時、相対すべき敵は絞られる事になるはずだ」
「先の展開を見据えた話は結構な事だ」
やり取りを黙って聞いていた市長が、声音を低めて割り込んできた。
「しかしアウター・サンセットでの一件は情報として私も得ている。ヴラドさん、貴方はあの場に捕らわれていた人間を巻き込む破壊的手段に打って出たそうだな? その石柱とやらと、ルスケスの思惑によって彼らは生き延びたが、奇蹟が次に起こる確証はあるのか。現場を見もしないで語る私を軽蔑するならそうしても構わんが、市当局としては中の人々が無事に戻ってこられる事を第一に望む。目的達成の為ならば犠牲も止むを得ないという考え方を、私は決して受け入れない。それだけは胆に命じて欲しい」
語り口は懇願する体裁だったが、市長の目は半ば恫喝の意思を露にしてヴラドに向いている。ヴラドは変わらず表情が薄かったものの、その視線を真摯に受け止め、『力の及ぶ限り救おう』と約束した。
<アヴドゥル・ラウーフの疑念>
ラウーフ分隊長は進行する対話にほとんど参加せず、視線をひたすら地図に落としたまま身じろぎ一つしなかった。マクベティ警部補が、かつての部下の神妙な様子に気付き、その意を問う。
「どうした、何かおかしな事にでも気付いたのか?」
「ええ。敵の侵攻方向には、どうも恣意的なものがあるように感じられたもので」
その言葉を聞き、一同は一斉に分隊長を見詰めた。市長が言う。
「どういう事か説明してくれ給え。不審に思う点は何でも口にして欲しい」
「分かりました」
言って、分隊長は地図上のシェミハザとルスケス一党の侵攻してくる方向を指で示した。
「御覧の通り、敵は南と西から押し寄せてきます。それに応じて、市長は避難勧告の発令を決断されました。つまり、人間の領域が市中心部、港湾沿いの奥へと集中しつつある訳です」
「確かにその通りだが、それで?」
「私には真の首魁、サマエルという者の狙いがよく分かりません。しかし、こうした展開は予め予測出来るものです。攻め寄せられれば、市民を後方へ退避させるくらいの事は。私はサマエルが人間の領域を『ここまで』と定めようとしているのではないかと考えました」
「…人間と吸血鬼、そしてそれ以外のものの棲み分けをしようというのかね? 何を勝手な事を」
「サマエルにとって人間とは、カリコ・クリッターズの人形みたいなものなのでしょう。誰をどのベッドルームに住まわせるかは、人形の持ち主が決める」
「私達は断じて動物人形ではない」
「当然です。そしてこの戦いは、これまで派手な展開を極力抑えてきた経緯に反し、鬱憤晴らしをするかの如く盛大な代物になります。市長が仰っていたように、確かに押し込まれた区域で避難住民を受け入れるのは厳しい。それはサマエルにも承知のうえです。であるなら、この戦の目的の一つは、人口の調整にあるのだと私は想像します」
分隊長の意見を聞き、市長は黙ってしまった。そして他の者達も押し並べて沈黙する。眉間に険しいしわを浮かび上がらせ、市長は、憤懣やる方なく言ったものである。
「つまり人減らしか。何が天使だ。サマエルとかいう奴ばらは、悪魔そのものではないか。許さないぞ。断じて許さん」
「いよいよハンターとノブレムの方々、それに私達の働きに街の未来はかかっていると言えますね。追い込むようで申し訳ありませんが、懸念材料がもう一つあります。もしも私が敵であれば、二方向からの正面戦とは別に、搦め手を使います。仮にそれらの正面戦が然程の効果を得られなかった場合に備え、今後人口調整を効率的に行なう為の布石を打つ。彼らにとって最大の障壁となるのは、ここです」
分隊長が地図に丸を打ち、それを見たジェイコブが顔を真っ青にした。
「テンダーロイン、ジェイズ・ゲストハウスだと!?」
「ここはハンター達の力の源と言える場所です。私ならば、これを断ち切る手段に出ます」
「今まで、敵からはほとんど干渉されなかったが」
「わざと、だと思います。ハンターの出方を、敵の首魁は観察していた。そしてこうまでハンターを怒らせる手段を取ってきたのであれば、方針を変更したか、ないしは別の手段での取り込みをするつもりなのでしょう。ミスタ・ニールセン。敵側に例の侵攻軍以外の残存戦力はあるでしょうか?」
「…悪魔だ」
半ば確信めいた口調で、ジェイコブは答えた。
「庸とハンターの部隊が粗方掃討したはずだが、事前に地上に出ていた奴らも居た。例えば破壊者、シルヴィア・ガレッサを監視していた連中みたいにな。しかし悪魔如きにジェイズの守りを破れるとは思えん」
「いや、何か超常的手段を行使してくる覚悟はしておいた方が良い」
ジョーンズ博士がジェイコブに意見する。
「此度の侵攻は、反抗側の要所を的確に突いている。であれば、ゲストハウスを見逃す意味は無いであろう。かの場所が古い神々とハンターとを繋ぐ根城であるを承知し、これを殲滅出来る手段を敵は備えていると見るべきだ。敵は悪魔かもしれんが、それ以外の何かが来る可能性もある。考え得る迎撃手段をハンターのみならず、ゲストハウス自身も取るべきだ」
博士の言葉に、ジェイコブは唸ってしまった。久々に自身も銃を取るのはやぶさかではないが、何しろゲストハウスは、次席帝級の侵攻をかなり耐えられるほどに防御が強固だ。それを上回られたら、為す術が無い。しかし、一体どうやって? との疑問が過ぎる。現状で思いつく限り、其処までの大戦力はシェミハザとサマエル一党以外には居ないはずだ。
「まさか、サマエル自身が来るっていうのか!?」
「いや、それは無い。絶対に無い。何故かは、また後々に話そう」
博士が確信をもって否定する。
<サンフランシスコ市民の動静に関する市長の見解>
「この非現実的な戦時状態にあって、市当局が機能しているのは幸いだった」
会議も早三十分にして、既に市長は疲れ果てた様子であった。サンフランシスコの封鎖からこれまで、治安の維持と溢れ返る避難民への対処で働き詰めのうえ、この場で聞かされる話はそれらの努力を、一歩間違えればふいにするようなものばかりであったから、それは無理もない事だ。
「市職員と消防、警察が一体となって、各人が献身的に努力している。そのおかげもあって、今のところは市民の騒動は見当たらない。お決まりの略奪の類もね。ただ、何故このような状況に陥ったのかは、市民達にとって明白となりつつあるのは防げないだろう。敵は実在すると、敵の方から宣言したのだから。市としては、相手がどういう素性のものかは伏せるつもりだが、強制的避難を実施する為、敵への迎撃態勢移行を明日に発布する所存だ」
「最早避けられる事態ではありませんからな。しかし市長、迎撃態勢とは言っても、SFPDにはこの世ならざる者に対する戦闘力がありません」
マクベティ警部補の指摘に、市長は頷いた。
「元より、警察には勝てる相手ではないのは承知だよ。この戦いの趨勢はハンターとノブレム如何にかかっている。ただ、ここまでで食い止めるという絶対防衛線を作る必要がある。先の話に出てきた、非常に面白くないが『人間の領域』を死守する為に。私は君のところの城鵬君からの意見具申を受け取っていてね」
言って、市長は王広平の顔を見た。彼の表情が硬く強張った事には気付かず、市長が続ける。
「普通の人間でも、手持ちの銃器に工夫すれば対処出来る可能性がある。例えば悪魔や悪霊には、岩塩と聖水。聖水はハンターが聖水式を行なえば量産出来る。そして吸血鬼に対しては、気味の悪い話だが死人の血だ。これもまあ、入手は出来る。尤も、それらが決定打にはならない点は重々注意が必要だが、城君が書いていた通り、進撃を遅らせる程度の事は出来るだろう。絶対防衛線にこれらを配布する。後方治安活動には消防を充て、SFPDはほぼ全員出動だ。防衛線の作成については、ハンターの作戦行動如何によって変化するだろう。ところでヴラドさん、ノブレムにとって新祖というのは宝なのだな?」
「宝以上だ」
市長の言い方に、些か気分を害したようにヴラドが答える。
「成る程、絶対死守が必要という訳だ。ならばジャパンタウンでの防衛戦は、臨機応変を考慮しなければならない。その際はある程度の後退も考え、作戦に応じて防衛線を引き直す必要がある、という事だ。それはシェミハザの場合も同じくだな。いよいよ避難勧告の実行不可避を痛感する次第だが、ここ最近の市民の状況に関して、幾つか懸念すべき出来事が起こっている。ハンターの一部が対処している、ル・マーサ会員の事だよ」
ル・マーサの名称を聞き、面々の一部がギョッとした顔を市長に向けた。サマエルの下僕とも言うべき人間の集団は、その統率者であるカロリナ・エストラーダが既に離脱しているものの、結局代替わりが滞りなく行なわれ、今に至るも存続している。先のハンター側の強襲によって、フレンド階級の高等会員は大きく数を減らしたものの、市長の切り出した話は、より厄介なものだった。
「あの集団に対しては私達も独自に調査をしていたのだが、現状では会員数の増加が一旦頭打ちになっている。何か大事でもあったらしい。その数は、凡そ900人といったところだな」
「まだ900人も居るのか!?」
「まあ聞いてくれ。それでも比較的穏健な、一般に浸透しているボランティア団体だと認識する『浅い会員』は、見立てでは9割以上だ。彼らには、聞き取り調査をしていた市職員の言葉が通じているらしい。避難勧告にもすんなり応じてくれそうとの事だったよ。しかし残りの1割弱が『コア』だ。それに絡む話だが、昨日、奇妙な事件が起こった。ミッション地区の一軒家で、爆発事故があったんだ」
「爆発事故? まだ警察の方で止まっている話ですな? 確かガス管漏れの公算大という話でしたが」
「すまない、警部補。これは警察内部で情報を秘匿していたんだ。あまりにもおかしな話だったからね。被害者は6人家族。祖父母と両親、それにハイティーンの姉弟。家屋が全壊する大惨事であったが、両隣の家に被害が一切無い。そして火事は、発生しなかった」
「…その時点で、既にガス爆発の線は有り得ませんな」
「ならば火薬類はどうかと言えば、その痕跡も見当たらなかった。そして家屋は、波状で吹き飛んだにしては綺麗に円を描いて破片が散らばり、かつ一定範囲内から外には木片一枚も見つけられなかった。そして被害者だが、5人は爆発の衝撃と破片を浴びた事が死因だった。しかし1人は原型を留めぬ…、いや、その家の長女ただ一人が、木っ端微塵に体が散っていたという。まるで彼女自身が爆発したみたいにね」
一同は怪訝な顔になった。それはつまり、家屋の全壊は長女自身の爆発によるもの、と市長は言いたいらしい。
「火薬の痕跡は無かった、と仰いましたね?」
と、警部補。
「ならば、どのようにして彼女は爆発したのですか?」
「全くもって見当もつかない。ただ、こうまでどっぷりとハンター諸君の世界に浸かってしまった私は、これもこの世ならざる事件だと考えている。そして話はここから戻るのだが、彼女はル・マーサの『コア』の1人であったのだ」
それを意味するところは深刻であった。
マーサの高等会員、フレンドは、サマエルから対悪魔用の特別な力を付与されている。しかし市長の話は、そのフレンドに新たな『機能』が備わった事を示すものであった。
「人間爆弾」
ジェイコブが呻く。
恐らく、人間爆弾は攻撃に使用するものだろう。何に対する攻撃なのかと想像し、ジェイコブは鳥肌を立てた。
その不幸な事故は偶然ではない。『機能』のテストである。テストが成功し、改めて定める狙いは、ジェイズ・ゲストハウスだ。悪魔と組んで、フレンド達がやって来る。その想定は確度が高いと、ジェイコブは覚悟した。
<ジョーンズ博士の総括>
『畜生、八つ裂きにして地獄に叩き落してやる! このくそったれが!』
と、市長の雄叫びが離れた場所の手洗いから聞こえてきた。マーサのコアとなった市民に人間爆弾としての機能が備わった、という話を聞いてしまったからには、血気盛んな若い市長も我慢の限度を越えたという次第である。戻ってくる道すがら、怪訝な様子を見せるウェイターに謝り、市長はげっそりした表情で着座した。
「失礼した。ここまで怒りを覚えた事もなかったものでね。喚いたら多少は落ち着いたよ。多少はね」
等と言いつつ、未だ苛々は収まっていないらしい。市長は一息に水を飲み干し、苦い顔を皆に向けた。
「心の何処かで、交渉の芽は無いものかと考えるところはあったよ。話し合いは私の仕事だからね。しかし駄目だ。そんな事を思いつく輩の掲げる思想に興味はない。その、コアとなった人々を、助ける手段はないのだろうか」
「それについては市長、ハンター諸君も既に動いておりますぞ」
疲労困憊の風である市長の肩を叩きつつ、ジョーンズ博士が励ますように言った。
「マーサ本部には、会員を束縛する何らかの仕掛けが存在している。それを破壊すれば、彼らに仕掛けられた…そう、正に呪いと称すべき代物も解消されましょう。本部へは、『破壊者』の呪縛から一歩外に出ようとしているガレッサの娘、それにその仲間達も向かおうとしております。機は十分にあると見て良いでしょう。さて、いよいよ正念場だ」
机上に組んだ掌を打ち鳴らし、博士は皆の耳目を集めた。
「この苦境を凌げば、次には敵とするものが絞られてくる。決戦であるぞ、諸君。その為の布石として私はハンターの一部と共に、特級聖遺物・ロンギヌスの槍を入手すべく、最後の詰めに向かう。そしてサマエルを滅する役割を担うメルキオールは、実のところ滅せる所以というものの全容を明かしていない。恐らく、彼女は機を待っていたのだ。間も無くそれも露呈される事となろう。ロンギヌスの槍とメルキオールの明かされた力を中核とし、人々の力持ってすれば、サマエル打倒の目も必ず見える。同時にルスケスを完全に滅ぼす道筋へも、ハンターとノブレムの諸君が此度を勝ち抜けば進められるはずだ」
博士のそれらの言葉が、希望的観測に基づいたものではない事を、市長は重々承知している。博士が述べた手段の数々は、それを実現させる為にハンターやノブレムの面々が力を尽くして戦い抜き、紆余曲折の果てに得られた結果なのだ。だから博士の言葉は、信じるに値する。
それでも市長には、懸念があった。他にも同様の危惧を抱いている者も居るだろう。それは、積み重ねた努力の全てをぶち壊しにする、双方にとって決定的手段であった。
「博士、よろしいですか?」
挙手をし、市長は博士に問うた。
「これが正念場、という事は、逆に敵の側にも同じ事が言えるでしょう。この戦い、是が非でも勝たねばならないはずです。吸血鬼の頭目がアウター・サンセットから出て来ない、というのは理解しました。ならば、それすら従えるサマエルはどうなのです? どの局面においても、サマエルが出て来た時点で全てが終わってしまう。先に『サマエル自身が来る事は無い』と博士は仰いましたね? その根拠をお聞かせ願いたい」
言いながら、市長は怪訝な思いに囚われた。話し続けるにつれ、博士の表情が薄れて行ったからだ。喜怒哀楽を意図して消しているようにも思える。そのような博士の顔を見るのは初めてだった。
市長が話し終えると、博士は二呼吸ほどの間を置き、抑揚を弱めて切り出した。
「サマエルは敵との戦いに赴く。故にサマエルは此度の大騒乱に介入出来ない。と言うよりも、敵が介入させないようにしていると言い換えた方が良いかもしれん」
「サマエルの敵? それはつまり、私達の味方なのですか?」
「いや、人間の敵だ。サマエルを善とすれば、その敵は悪なのだ。押し付けがましい強制的な善と、全てに背を向けて破滅の道を歩む悪。対称的だが、何れも桁が外れている。サマエルは敵との戦いに間違いなく釘付けられるだろう。最早関与の余地のない戦いが、この世ではない何処かで始まる。それが本当に残念なのだよ」
ようやく博士は、寂しげに笑った。
<一家団欒>
「ただいま」
「あら、今日は早かったわね」
とは言え、既に時刻は午前1時を回っていたが。
ニューサム市長はガウンを羽織って出迎えた妻の頬に軽くキスをし、狭いダイニングのチェアに腰を落ち着け、大きく息を吐いた。
市長はマリーナ地区に結構な広さの邸宅を持っているのだが、今は避難民の居住用に一時提供し、庁舎近くの狭いアパートに引越している。敵の標的にならない為の措置でもある。スペースを切り詰めた生活だが、今のところ家族からの不満の声は出ていない。市長の家族だけあって状況というものを弁えているし、こうして身を寄せ合う生活も悪くない、というところだろう。ワインで商売を始めた頃に戻ったみたいと、妻は笑っていた。
「書類の整理があるから、もう君は寝ていてくれ」
「無理はしないでね」
妻が子供達の眠る居間に入ったのを見計らい、市長は机上のノートPCを起動した。
考える事は山のようにある。限定された区域の中で、膨大な人口をどのように分散させるか。ハンターほどではないにせよ、矢面に立たねばならないSFPDへの配慮。恐らく彼らも、無事では済むまい。それらを承知で、サンフランシスコに居住する全ての人々に対し、あらゆる面で犠牲を強いるのだ。しかし、それが政治家というものだと、市長は気を引き締め直し、画面を覗き込んだ。
敵が攻撃するポイントは、大まかに以下の3つ。
・シェミハザ : ハンターズ・ポイント→チャイナタウン
敵が目的を達成したとすれば、市街中心の奥深くまで食い込まれる事になる。是が非でも侵攻を遅延させ、操り手を仕留めなければならない。遅延戦については、警察の装備では太刀打ち不可。庸の特殊部隊の支援が限度である。
・模造吸血鬼の集団 : アウターサンセット→ジャパンタウン
敵の規模は恐らく100を超える。警察が最も正面戦闘に立ってはならない手合いだ。ノブレムがジャパンタウンから後退する可能性にも備える必要がある。絶対防衛線は、市民の居住限界区域を鑑みつつ、後ろに引く必要があるだろう。
・悪魔残党+フレンド : ? → テンダーロイン
悪魔は市民に偽装し、フレンドも一般人の顔をしている。ある意味、最も厄介な相手だ。警察の配備について、ハンター側に打診。ジェイズ、これを了承。ゲストハウスへの警察官篭城も許可との事。現状では10人の選抜隊を派遣の予定。
逆にハンターとノブレムが反攻するシチュエーションは以下の5つ。
・ミッション地区:ル・マーサの本拠地
ハンターの1人が囚われの身と聞く。彼を奪還すべく、ガレッサ一党が出動。同時にマーサ会員解放の為、別のハンターも襲撃の公算大。注意すべき点は、守備陣が一部フレンド(見立てでは20人くらいであるらしい。つまり残りがテンダーロイン行きか?)と天使で構成されている事。
天使だと? ふざけるな! 子供の頃の私の敬愛心を返せ!
・アウターサンセット:ルスケスの本拠地
地区に存在する「2つ目の石柱の破壊」を最大目標とする。敵は1人、サマエルに次ぐ者、ルスケス。信じ難い事だが、このたった1人の力が此度の他の攻勢全てを凌駕する可能性がある、との事だ。
神様。助けてくれとは言わないから、せめてかの地に向かうノブレムとハンターを応援して欲しい。それくらいしてくれてもいいだろう。いい加減、出て来て顔でも見せろ!
・真下界:サマエルの世界そのもの
真下界、更に地下に広がる空間で、『真の石柱』を相手に精神戦を挑む。挑めるのは人間のみ。この戦いに関してだけは、どういう道筋があるのかさっぱり分からない。しかしこれを制すれば、この世ならざる者の増殖が食い止る。戦いの激化を抑え込む事が出来る。
・向こう側のサンフランシスコ:特級聖遺物の在り処
架空であるが、過去のサンフランシスコにてロンギヌスの槍の探索。これも道筋がさっぱり。ただ、ロンギヌスの槍は出来れば拝見したいものだ。さぞ壮麗な武器であるのだろう。
・?:サマエルと、その敵となるものの戦闘
これについて、博士は多くを語らなかった。ただ、ジェイズを通して一箇所封鎖を依頼された場所がある。もしかすると、其処か?
市長はキーボードを叩く手を休め、眉間を揉み解した。
こうして状況を再確認して分かるのは、事態があまりにも範囲を広げている事である。敵に対抗出来る人的資源は限られており、局面全てに打ち勝てる可能性は低いかもしれないと、市長は半ば腹を括っていた。どのような結果を迎えても、戦いは続く。ハンターとノブレム、そしてサンフランシスコという街をあげての総力戦が。
市長は居間の扉を少しだけ開き、中で眠る妻と子供達を見詰めた。
『何故戦うのか。その理由において、私達と市当局は同志であります』
意見具申をしてきた城という男の書面の、結びの文面を市長は思い出した。
(ハンター、ノブレム、何故戦う。見返りなど何処にも無いというのに)
その一念は市長の頭の片隅に居座っていたが、彼の文章を読んだ後、少しは心が晴れた。自分が家族を眺めて抱く気持ちと、果敢に戦いを継続する人々の信念の間には、実のところ大きな違いは無いのかもしれない、と。
<H7-6:終>
ルシファ・ライジング H7-6【決戦会議】