<カウボーイとインディアン>
1969年。この時期にあって抑圧された状況に置かれていたネイティブ・アメリカン、インディアン達によるレッドパワー運動は、この年、アルカトラズで頂点を迎えた。
アルカトラズ島占拠事件として知られるインディアンの同島制圧は、1971年に武装警官が突入するまでの2年間に渡って継続した。その間に様々な立場の人間がアルカトラズに出入りしていたのだが、その中には一般人に理解出来ない理屈でもって島に訪れた者が2人ほど居る。
“この地に祖先が封じた悪しきマニトウ(霊)を抑え込む”
勿論彼らは、それを他言しなかった。言えば島から叩き出されるのは間違いない。
『うふふ』
『はは』
『あはははは』
「おい、君、どうも俺達は笑われているらしいぞ」
「駄目だ、先生。奴の戯言に耳を貸してはいけない」
日焼けした強靭な体躯を縮こまらせ、インディアンの若者は床面の一角に煙草の葉を四角形に並べている。先生と呼ばれた方は老境の白人男性だ。先生はフェドーラ帽を被り直し、何も居ないはずの虚空を見詰めた。その瞳は大胆であり、不敵だった。
ここは使われなくなった地下室ではあるが、若者にとっては祖先が強力な悪霊を封じた禁忌の場でもある。長らく悪霊を抑えていた封印は、後からやって来た蛮族が建物を造り、踏み荒らし、その効果が薄らいで久しい。若者は祖先からの言い伝えにより、悪霊が活発化する兆しを見せれば、これを封じるという役回りを運命付けられていた。先生と呼ばれた老人は、若者が通う大学の教授である。
「ありがとうございます、先生」
「何がだね?」
一通りの前準備を終え、若者が先生に頭を下げる。
「俺の相談事に乗ってくれた事です。こんな話を信じて、島の上陸を段取ってくれる大学教授なんて、普通居ません」
「君は知らんだろうが、私もそっち方面の経験は豊富なんだよ。こうして便宜を図るのは私の為でもある。まあ、知的興味って奴だ。気にするな」
「それでも感謝しますよ」
若者は敷いた煙草の葉に順繰りに火を点け、最後に先祖伝来のパイプを取り出し、唇を当てて軽く吹かした。紫煙が緩やかに立ち上り、やがて揺らぎを見せて渦を巻き始める。若者は呟くように歌を詠い始めた。彼曰く、良きマニトウを呼び出す儀式なのだと言う。海と土と風の力が、悪しきマニトウを地の底へと引き摺り込んでくれる。
(しかし、それにも限度がある)
と、若者は自覚していた。先祖伝来の力は世代を重ねる度に薄まり、逆に悪霊は着実に力を溜めている。この儀式は、最早急場しのぎの応急処置でしかない。早晩、悪霊はまた這い上がってくるに違いないのだ。それが分かっていても、若者はやらねばならなかった。
『何をしているんだい』
『何をしているんだい』
「お前の棺桶に釘を打つ作業だよ」
言い返した先生に慌てつつ、若者は彼の服の裾を引っ張った。しかし先生は片手を挙げて若者に応える。大丈夫だよ、と。
『誰だ』
『誰だいお前は』
『何だいその体は』
「さあ、何だろうな? 少なくともお前には、どうも仕様があるまい。いいから地の底に帰れ。また何時か会おう」
『その時は、最期さ』
「お前のな」
それを終わりに、声はぴたりと収まった。同時に若者も詠唱を止め、息をついて立ち上がった。
「取り敢えず、絆創膏は貼っておきました。でも、何れ剥がれます」
「この事、他の者にも情報を流した方がいいんじゃないか?」
先生が言うと、若者は静かに首を横に振った。
「駄目ですね。奴には多分、仲間が居ます。そいつらを呼び寄せてしまう。先生と俺の間で、どうかこの事は秘密にしておいて下さい」
<2009年のクロス・ロード>
フィッシャーマンズ・ワーフの出店で買ったクラムチャウダーを、中年に足を踏み込んだ男が独り、ベンチに腰掛けてスプーンで掬う様はかなり侘しい。しかしながら城鵬は、サングラスの下の真面目くさった顔を微動だにせず、黙々とクラムチャウダーを口に運び続けている。そして思い出したように懐へ手を差し込んで、「うしろめくん」のスイッチをONにした。
うしろめくんは、ジェイズで開発されたEMF探知機のオプションである。その暢気な名前とは裏腹に、この世ならざる者の種別を見分けるという優れた機能を有している。本来ハンターではない城にも扱いの良い代物だ。
サングラスに周辺域のデータが表示される。この世ならざる者の反応、無し。小一時間ほど前から、城はこの世ならざる者から監視を受けていたのだ。相手はサンフランシスコの敵性吸血鬼集団、仕える者共だ。彼等はノブレムやハンターの行動を以前から監視し続けている。自分の場合は、カーラ邸に出入りしていた点に引っ掛かったからであろうと城は解釈した。ただ、彼らの行動はEMF探知機で筒抜けだった。種別:servantsという表記も見紛う事無く表記されていた。
しかし、10分ほど前からEMFの反応は途絶えている。ワーフでふらふらと時間を潰す城の行動を見て、仕える者共は監視する価値無しと判断したのであろう。城はナイロン袋にサワドゥブレッドを押し込み、立ち上がった。この時を待っていたのだ。仕える者共は、間違いなく離脱した。
城が風間黒烏に携帯メールを送信する。程無くして風間から、複数を一斉送信先としたメールが返ってきた。
遠目に見える桟橋で、海鳥の写真を撮っていた男がおもむろに動き始める。名は確か砂原衛力と城は思い出した。彼とは行動を全く共にしていないのだが、恐らく数分後には風間同様、運命共同体となる。
彼らの他にも仲間は居た。郭小蓮はギネス世界記録博物館の辺りをぶらついていたはずだ。斉藤優斗はロンバート・ストリート。彼が一番遠くに居る。自分を含めたこのメンバーを、ジョン・マクベティ警部補の車が順繰りに拾うのだが、恐らく斉藤が一番目になるだろう。
城は今一度携帯で通話を繋いだ。相手は風間だ。
「ハロー。今何処に?」
『ギラデリ』
「じゃあ二番目だ」
『いよいよか』
「いよいよです。敵は強い。天を覆うでしょう」
『やるしかない。例え時間稼ぎにしかならないのだとしても』
「思うに、これは敵が定めた規定路線の逸脱行為です。このオペレーションを成功させる事には大変な価値がある」
『そう願いたいものだ。敵は真祖。その完全復活を遅らせる。ぞくぞくするな』
「楽しいですね」
携帯電話をたたみ、城はワーフからアルカトラズ島を視界に置き、その目を細めた。
結局、警部補の車に一番最後に乗り込んだのは、郭小蓮だった。いざ車に入ってみると、既に仲間達は警官の衣装に身を固めている。
「早いですねー?」
と、郭小蓮。受けて砂原が胸を張る。
「男の着替えなんざ、ものの一分てもんさ。小蓮もさっさと着替えなよ」
「何処で?」
「此処で」
「は?」
郭は目を丸くしたのだが、対して砂原とその他諸々の男達は、何故目を丸くされたのか分からず、不思議そうに顔を見合わせていた。して、おずおずと斉藤が切り出す。
「まさかお前、着替えるのが恥ずかしいんじゃないだろうな?」
「恥ずかしい以前の問題ですよ!?」
「訳が分からん。俺達はプロだろう」
「半裸の君を見たところで、誰もどうとも思いませんよ。プロなんだから。手早く着替えて下さい。さあ」
「…バーホーベン映画並に感受性が無い言い様ですね」
郭は有無を言わさず後部座席に陣取る風間と城を前に移動させ、自らは後部シートに隠れるようにゴソゴソと着替え始めた。溜息をつき、城が運転中の警部補に話を振る。
「あと、どのくらいで?」
「5分以内だな」
「だ、そうです。2分以内に着替えて下さい」
「頑張りますー!」
郭のヤケクソ気味の返事を聞き流し、城は風間に作戦遂行についての再確認を促した。頷き、しかし風間は本題を切り出す前に、警部補に確認を取る。
「これから俺達が何をやろうとしているか、知っているのかい?」
「地震で封鎖されたアルカトラズに立ち入る為に、人払いを申請してボートまで用意して、おまけに偽装警官を引き連れて行くんだ。かなりの越権行為をしたんだぜ? ジェイの野郎に事の次第を聞く権利くらいあるじゃねえか」
「感謝するよ、警部補」
警部補に頭を下げ、今一度風間は仲間達に、置かれている状況と対策についての説明を開始した。
事は、全世界の吸血鬼の頂点に立つ存在、真祖と呼ばれる者がアルカトラズ島に封印されているとの情報を得てから始まった。
真祖がサンフランシスコで復活を遂げるのは、最早確定事項である。それを止める手段は無いのだが、少なくとも五体を完全に我が物とさせるのを遅らせる方法が彼らにはあった。インディアンが呪術に用いていた千年柳の釘を、真祖の両掌、両足の甲、それに心臓に打ち込めば、その魂が吸血鬼の本体である首から上に戻る事は出来なくなる。真祖ほどの力の持ち主であれば、その戒めを突破するのは時間の問題であるが、少なくとも貴重な時間をハンター達は稼げるはずだ。
しかし前回の斉藤による先行調査で、真祖の霊体が封印から離れ、島内を自由に動き回っているのは既に把握している。霊体とは言え、相手はあの真祖だ。ハンター達はこれまで様々な種の悪霊を相手に渡り歩いていたが、此度のそれは桁が違う。まともにぶつかれば、簡単に発狂して死ぬだろう。
故にハンター達は考えた。考えに考え抜いて、敵を出し抜く手段を模索した。役割分担を明確とし、最短距離での遂行を大前提とする。如何にも困難な道行きではあったが、それを為し得るだけの能力が自分達にはあると、風間黒烏は信じている。城鵬、斉藤優斗、砂原衛力、郭小蓮。何れも秀でた何かを持つ者達だ。風間は自信をもって、〆に本作戦のタイトルを口にした。
「これより、オペレーション:西遊記を進行する」
「…誰が河童なんだ?」
「ありゃ河童じゃないですよ」
「豚は嫌だぜ、豚は」
「夏目雅子さん綺麗でしたよねー」
「お前等、そろそろ港に着くぞ」
マクベティ警部補の一言で、多少は砕けていた空気が一気に収縮した。
警部補の計らいで、此度は沿岸警備隊の汎用ボートを使わせて貰える段取りだ。ハンター達は警部補の部下を装い、先の地震による建造物の亀裂倒壊を先行調査する、という名目を取っている。些か苦しいのだが、警部補はコネクションを駆使して申請を押し切ってしまった。目立ちはしないが、警部補も本作戦行動の功労者である。
沿岸警備隊の船舶基地。その駐車場に車が止まり、ぞろぞろとハンター達が降りて行く。停泊している汎用ボートには、既に現地で使用する機材類が積み込まれていた。厳重に梱包してあるが、中身が何かが露呈した日には、大騒動となるだろう。
「順調だな」
「ここまではね」
斉藤の呟きに、砂原が相槌を打つ。ここからアルカトラズは目視出来るが、随分遠くに見えた。
<上陸>
ワーフの港から出る観光船ならばアルカトラズまで15分というところだが、一行の海路は倍の30分を要した。
桟橋にボートを横付けさせ、ハンター達が機材を搬出しつつ下船する。停泊所には、既にハンター達が要望していた2台の車とバイクが準備されていた。島の職員が撤収する際、車両を置いて行くようにマクベティ警部補が根回しをしておいたのだ。
「気が利くな」
「お陰で女房子供にも逃げられちまったよ」
警部補は、しかし苦々しい顔で風間に言葉を返した。搬出する機材が尋常のものでは無いからだ。重火器類の個人所有は完全に犯罪なのだが、公僕である自分の目の前で、偽装されたそれらが引き摺り出されているのは如何にも面白くない。指向性地雷まである。明らかに米軍製のものだ。兵器の横流しという決定的な事実が、警部補の手前を素通りしていた。忌々しい「庸」の手によるものである。
(落ち着け。これもサンフランシスコの明日の為だ)
コンセントレーション、コンセントレーション。それでも警部補は、人型大の巨大な包みが破られて行く様を見、思わず仰天してしまった。
「げっ、格闘人形じゃねえか!?」
「あ、警部補も知ってるのか」
人形の傍に膝を付く斉藤が警部補に応じる。寝転がった人形は、一分の隙も無く斉藤そのものだったのだ。死体の如く微動だにしない、自らを完璧に模した人形の額をペチペチと叩きつつ、斉藤は警部補に言った。
「正確には、そいつのダウングレード版さ。ジェイズ・ゲストハウスの投資特典、自動人形・乙。しかしいい男だな。惚れ惚れするな」
「こんなもんまで持ち出すか。小さな総力戦だな」
「出せるアイディアは惜しみなく出さなきゃね」
準備完了。停泊所で待機する警部補に、ハンター達は次々と挨拶を寄越し、二手に分かれて車に乗り込んで行く。軽い敬礼を彼らに送り、警部補は地面に放置された斉藤人形を目の端に置いた。案の定であるが、人形が両目を開いてムクリと起き上がる。
「うわ、凄え。まんま自分の体みたいだ」
人形は一頻り自分の体を眺め回し、満足すると警部補に日本人らしくお辞儀をしてみせた。
「それじゃ、行って来ます」
「お前等にゃ帰る場所がある。必ず戻って来い。待っていてやるぜ」
人形はバイクに跨り、器用にスターターをキックして、颯爽と上り坂を駆け上がって行った。その後ろを2台の車が追跡する。
内一台、A班の車両には、風間、郭、斉藤が搭乗していた。自動人形を操作している斉藤は、人形が動き出した途端、閉目して全く動かなくなってしまった。その隣に座る郭が、EMF探知機で周辺域の電磁場異常をチェックする。
「…何も反応がありませんねー。静かなものです」
郭が風間に状況を知らせる。
「あのクラスは電磁場の揺らぎも制御する。油断は出来ん。砂原、もう少し速度を緩めてくれ」
前に出かけた砂原・城のB班車両を御し、風間が斉藤に問い掛けた。
「今の状態を教えてくれ」
「もう坂上の広場には着いている。いい風が吹いているよ」
目を閉じたまま、斉藤は答えた。人間本体の方も五感は生きており、こうして受け答えが出来る。
「ここは旧監獄舎への正面玄関だ。確か、監獄舎は側面に職員用の入り口がある。B班は其処から向かうといい。俺は正面から先に下ってみる。奴をおびき出したい」
「頼む」
詰まるところ、斉藤人形の役回りは「おとり」である。前回に真祖の霊体と接近遭遇した斉藤は、格別の興味を彼に持たれている可能性があった。斉藤を模した人形を先行させ、真祖の注意を引きつける。その隙にB班が真祖の封印場所に進行し、A班は時間稼ぎの迎撃を準備する。
「でも、上手く行くんでしょーか? 人形には魂がありませんし、霊体である真祖はそれを見抜くかもしれません」
「それも折込済みだ」
不安げな声を上げる郭に、風間は敢えて気楽な調子で言った。
「結局俺達は、それどころか誰も真祖を滅する手段を持っていない。そいつは奴も重々承知のうえさ。だから奴は飄々と遊んでやがる。余裕がある。斉藤人形のギミックにも興味を示すだろう。こいつら、何をしているんだろうとな」
「足元を掬うチャンスがあるかもしれないって事ですよね」
そういう事、と返事をする風間を、突然斉藤が遮った。
「やあ、こんにちは」
「え、何です?」
郭は驚いて、いきなり声を上げた斉藤の体を揺すった。しかし斉藤は郭に一切反応しない。代わりにひたすらしゃべり続ける。斉藤の顔から腕から、見る間に大量の脂汗が浮かび上がって来た。
「前はびっくりして逃げてしまった。申し訳ない。聞いた事があるんだ。その昔、インディアンがアルカトラズに幽霊を封じたって。それがあんたなんだろ? 伝説はやっぱり本当だったんだ。感動したよ」
「出やがった!」
「砂原さん!」
郭は手近のヘッドセットを引っ手繰り、B班に半ば悲鳴の無線を繋いだ。
<封印の場所>
「スタートだ」
ヘッドセットを外した砂原の言葉に頷き、城が扉を開く。職員用の事務室を足早にすり抜け、2人は監獄舎の中へと侵入した。
旧監獄舎は、往時の面影をそっくりそのまま残している。階段を登っては下るを2度繰り返し、かの有名なセルハウスの通路へと到達。膨大な数の独房が両隣にぎっしりと密集するその通路を、ひたすら真っ直ぐに行けば突き当たりにまた扉がある。扉を抜けて左に向かい、地下への階段を下りて行けば、使われない資材の置き場と化した地下室に辿り着く。その部屋の更に真下に、真祖の遺骸が埋められているはずだ。
城が持ち込んだ迎撃用の機材を、2人はセルハウス通路の突き当たりに下ろした。大概の大重量であったので、文字通り肩の荷が下りる思いがする。機材の準備を始めた城を置いて、砂原は先行して封印場所へと走った。この戦いは、まず立ち止まるポイントが無い。如何に素早く、必要な仕事を遂げるかに全てがかかっている。
「しかし、しかしだ」
走りながら砂原は呟いた。何かしゃべりでもしなければ、心臓を口から吐いてしまいそうな気がする。
「もしも野郎が異変に気付いて、地下に戻って来たら? そうなった場合、結界の札一枚で我が身を守れるのか? 奴に単独で対抗出来るのか? 奴が復活を早めたら俺達はどうなる? 化け物じみたエルジェ、そいつを殴って躾けるジル、そして俺達が相手にしようとしているのは、奴等を顎でこき使う真祖ときた。やばいぞ、やばいぞ、やば過ぎる。何て綱渡りをしてるんだ。ちょっとしたミスと不運で、奈落の底に真っ逆さまじゃないか。だから、とどのつまり俺達は」
息つき、砂原は地下室の照明を灯した。どんよりとしたコンクリートに四方を囲まれ、石造りの床はやけに湿っぽい。この部屋だけ、明らかに雰囲気が重い。それでも砂原は胸を張った。
「仲間を信じるしか無いって事だ。全く、最高だぜ」
砂原はバールを手に取り、石床に先端を捩じ込んだ。斉藤によるポイントの指定は適切である。砂原は違う事無く封印直上の掘削を開始する事が出来た。しかし。
「重っ!」
単独で床石一枚を引き剥がすのは、かなりの胆力を要する。一旦地面が露出してしまえば、ハンター稼業の花仕事、物盗り、放火、墓暴きである。猛然と土くれを掘り進める我が姿を想像しつつ、まず砂原は石との悪戦苦闘に取り掛かった。
「城! 早く来い、城!」
心からの雄叫びであったが、それが叶うのはもう少しだけ先である。
<悪霊>
「俺の名前は伊藤悠斗。趣味はオカルト関係全般。中途半端にかじったお陰で、あんたみたいな凄いのに出くわしてしまったよ。いや、正直怖い。何か途轍もなく凄い存在だというのは何となく分かる。祟らないでね、お願いだから」
斉藤人形はひたすらしゃべりながら、一旦入った旧監獄舎から、一心不乱に歩いて外に出て行った。その間、実は斉藤は真祖の霊体を目視していない。
しかし斉藤には分かる。自身に纏わりつく得体の知れない気配が。それは仮初の人形であっても、強い圧迫感を伴って斉藤に迫っていた。常に背後を取る形で、真祖は延々と斉藤を追尾しているのだ。それは恐ろしい感触であった。
外に出る。正面入り口前は大きく開けていて、広大な海原を視界一杯に収める事が出来た。燦燦と輝く太陽。降り注ぐ夏の暑い日差し。心地良い海風。そして斉藤の周辺に燻る、余りにも昏い感情の波動。
「ここは正面入り口だな。もうちょっと下って、海沿いに行ってみよう」
斉藤はまた歩き始めた。自分の位置をA班へ明確に知らせつつ、出来るだけ封印場所から遠ざける思惑が斉藤にはあった。対して真祖は、未だ何も斉藤に告げていない。干渉もしない。ゾッとする。全て見透かされているようで。
「さあ、そろそろ会話でもしてみないか? 真っ直ぐ広場を降りて、ここも実に景色がいい」
立ち止まり、斉藤は腹を括った。
「こうして化けて出て来るのなら、何かこの世に未練があるんだろう? 言ってみなよ。助けになるかもしれないぜ」
返答は無い。斉藤もそれきり黙した。這いずるような気配は消えていない。つまりは斉藤に対し、何らかの思うところがあるはずなのだ。しかし真祖は、何も行動を起こさなかった。おとりの役回りとしては好都合なのだが、斉藤の本能は焦燥を感じ始めていた。早く、何か言え、と。何か恐ろしい事を、真祖は自分にしでかそうというのではないか?
『ひっ』
ノイズがその場を割った。斉藤の聴覚はそれを雑音と解釈したが、実の所は異なると『思考』が気付く。笑い声だ。
『ひ。ひひっ。きひっ。きひひひひ』
耳障りというものではない。腐った汚物が喉に流れ込んで来るかのような、吐き気を催すおぞましい音だ。それが真祖の笑い声だった。沈黙を貫いていたほんの少し前とは打って変わり、真祖は饒舌に語りを始めた。
『嘘はいけない。この俺に嘘はいけないさ。いけないよ坊や。俺を出し抜こうとは、いけない坊やである事よ! 坊やが魂抜きであるのは先刻承知によってねえ。ひひ。坊や、坊や、可愛い坊や。アーマドの肉袋に詰まった糞みたいな坊や。そのしみったれた霊符は、果たして如何ほどの助けとなるや否や?』
斉藤は我に返り、慌てて懐の結果霊符を覗き込んだ。霊符は、真っ黒に変色していた。知らぬ間に、真祖に壊されていたのだ。纏わりつきながら、ゆっくりと、楽しみながら。
『何処だい、何処だい、愛しい坊や。実に面白い人形だね。きっと近くで動かしているのであろうよ? さあこの人形に、魂の在り場所を直に聞いてみようかね?』
斉藤の目前に、それは突然現れた。途方も無く美しい、人の形をした怪物が。真祖は真っ直ぐに手を伸ばし、人形の喉元を霊体のまま締め上げる。
その刹那、斉藤人形の体が弾けた。腹から噴出した白煙が、彼を中心としてもうもうと広がる。斉藤が事前に仕込んだ欺瞞煙幕が、この機を逃さず発動したのだ。
真祖が手を離すと、斉藤人形は膝から朽ち果てるように倒れ伏した。これまでと判断し、制御を放棄したという事だ。真祖は極めて興味深い面持ちで、辺りを包む煙幕を眺めた。かなり強力な呪的効力がある。相当の悪霊でも、この煙幕の中では己を見失うであろう。しかし、真祖は矢張り真祖だった。
何でもないように真祖は進み出した。これは準備万端を備えた自分に対する攻撃だと解釈して。なれば、封印されている己が体に何かをしようとしていると、見当をつけるのが順当だ。
『嗚呼、面白え。浮世はやっぱり面白え』
ケラケラと笑いながら、つつがなく煙幕を抜け出る直前、真祖はふと気が付いた。
出られない。周囲一体がまるで壁に覆われているかのようだ。真祖は笑うのを止め、真下を見た。複雑な紋様が描かれた、巨大な円形が何時の間にか地面に形成されている。
「勝負です! 真祖さん!」
少々割れ気味の気合の怒声が、真正面から轟いた。薄れ行く煙の向こうに、3人の人間が控えている。その中央に立つ少女は、差し迫る恐怖に震えながら、それでも真祖を見据える目を決して逸らしはしない。少女が言う。
「わたしは結界屋です。そしてわたしが使える最高の『ソロモンの環』に、たった今あなたを閉じ込めました。さあ、勝負です、真祖さん。わたしはあなたを、わたしの一番の力で抑え込んでみせます!」
真祖は拘束されているはずの円形陣の中でフラフラとたゆたい、不意に片手をヒョイと挙げた。その挙動と同時に不可視の圧力が勢い良く壁に衝突する。その一発で、郭は腰砕けとなって尻餅をついた。
「動くし! 変な力使ってるし!」
「頼むから落ち着け小蓮」
ソロモンの環は、悪魔や霊体に対しては強力な「くびき」になる。
描かれた円形陣の中に閉じ込められた対象は、一切の行動を束縛され、対象が持つ異能力を無効にしてしまう。郭が用いたそれは、元来の結界巧者である彼女の才能も相俟って、西遊記作戦に参加した面々の中で、更に言えばフリスコで活動するハンター連の中でもトップクラスの効力を発揮出来た。彼女を真祖対策の中核に据えたのは、必然であり必須である。ただ、重ね重ね相手は桁が違った。
真祖の霊体は基本的に不定形の霞みたいな代物だったが、今は明確な人の姿を形成している。率直に言って、それはとても美しい青年の姿だ。均整の取れた体型、艶やかな白髪、真っ赤に染まっているものの、その目は涼しげで優しい。しかし全身から醸す雰囲気は、虚ろのものであった。
『おや。思ったより固え壁である事よ』
真祖は、心から嬉しそうに顔を歪めた。彼の言う通り、ソロモンの環は未だ健在である。真祖が発揮したPKに対し、強力な「護り屋」の郭は気合負けしなかったという事だ。しかしながら長くは持たない。それが分かり切っているA班は、手順通りに動いた。
真祖が再び片手を挙げるよりも早く、かの霊体は環の端まで吹き飛んだ。霊符・遠隔の行使。無形の壁に激突し、そのまま抑え込まれた真祖の真正面に向けて、風間が規格外の速度で突進する。鎌を振りかざし、勢いに任せて斬りかかる直前、風間も同じく凄まじい圧力でもって足が地に縫わされた。風間を指差し、真祖の曰く。
『愉快だよ。愉快愉快。楽しいよ、おめえら。俺は知恵を絞って頑張る人間が大好きさ』
「行くぜ、真祖殿よう!!」
『ほいきた』
束縛を気迫で破った風間が鎌を振り切る。しかし真祖の姿は其処に無い。遥か真上から風間に声がかけられる。何の感情も伴わない、言葉の形をした音が。
『ここであるぞよ、坊や』
「そうかい」
風間は膝を折り、一気に跳躍した。風間は霊符を「飛翔」の段階まで高めていた。空を飛べない人間を、この霊符は重力の束縛から解放する。
『あらら』
意外の声音を発する真祖を、風間は真下から鎌で逆に袈裟切った。その斬撃で、真祖の霊体が揺らぐ。
『あらあら』
真祖は風間の頭に手を置いた。本当は、その表現は正確ではない。非物理的な存在である霊体が、人間の体を直接触れるはずがないからだ。つまり真祖は、風間の頭から全身を観念動力で抑え込んだ、という事だ。
真祖が高速度で地上へと落下する。合わせて風間の体を問答無用で地面に激突させた。「飛翔」の効果もあって衝撃の全ては伝播しなかったが、そのアタックで風間は盛大に血を吐いた。次の行動に最早移れない。
『果て、如何にせん』
首を傾げ、真祖は悩む素振りを見せた。
『どうしよう。どうしようかね、これ。どうしよう? 全身の骨を折る? 薄皮一枚ずつ剥いで行く? 果たしてお前はどんな風に面白く』
死にたいのかね? と、真祖は言葉を続けるはずだった。しかしまたもや自身の体が揺らぐ。遂に膝を屈する。真祖の背後に、何時の間にか斉藤が回っていた。この世ならざる者の認識すら欺く隠身で、斉藤は鎌を頭から振り下ろしたのだ。そして今一度、真祖を横薙ぎにする。遂に真祖は、人の形を維持出来なくなった。
「どうだ、面白いか、クソッタレ」
何度も何度も斬りかかる斉藤に、真祖は相変わらずの人を食った調子で言った。
『不思議な鎌である事よ。謂れのあるものと俺は見た』
「死神の鎌だ。霊魂を刈り取る。いっそこのまま、地獄にでも逝け」
『やだ』
渾身の一撃を振りかぶった斉藤は、突如としてその体を空へと放り出された。そのまま飛ばされれば真っ逆さまに岸壁へと落ちるところを、ようやく動けるようになった風間が首根を掴んで引き摺り上げた。
「猫か俺は」
「贅沢言わんでくれ。それより、見ろ」
地上に降着した2人が見たものは、ぴくりとも動かなくなった真祖の霊体であった。肩を大きく上下させる郭が、懸命に維持し続けているソロモンの環は健在だ。
A班は、真祖を足止めするという困難極まる仕事を、際どいところで成功させたのだ。
<大詰め>
A班から繋がった連絡をヘッドセットで聞き取り、砂原はスコップで掘る手を休める事無く城に言った。
「やったぞ。連中、やりやがった。直ちにこっちに向かうとさ」
「僥倖、僥倖」
返事をする城も、汗で全身をずぶ濡れにしつつ地面にスコップを突き立て続けた。
真祖と一戦を交えたA班とは異なり、B班の仕事は大変地味だった。先行して封印場所を確保し、ひたすら地面を掘って真祖の本体を暴き出す。だが、これこそが作戦行動の最重要目的である。これが遅れれば遅れるほど危険の度合いが増す。
墓暴きはハンター仕事の常道だ。よってハンターという人種は軒並み地面を掘るのが上手い。石板を何とかどかしてしまえば、後は水を得た魚だ。否、地中のモグラである。只今砂原達は、およそ3mの深さの大穴を地下室に作り上げていた。普通の埋葬であれば、そろそろ棺が見えてもおかしくないのだが、未だそれらしきものは見当たらない。ここに真祖を封じた者の意図と恐怖が、穴の深さで理解出来る。
それでも、A班の成果は一時疲労を忘れるインパクトがあった。土くれを盛大に地上へと放り上げ、浮き立つ声で砂原は言った。
「そろそろ勝ちが見えてきたんじゃないか? A班が合流すれば、再封印は時間の問題だろう」
「でしょうね…。そろそろバケツで土を掬いますか」
城は梯子で地上に戻り、ロープを結んだバケツを下ろした。如何せん穴が深くなり過ぎており、土を地上に放り投げるのも困難になった。砂原が掘った土をバケツに入れ、城がそれを引っ張り上げる。速度は落ちるが、砂原が言うようにA班が来れば掘削の速度は倍増する。
「ところで、風間君達は無事だったんですか?」
ロープを巻き取りながら、城が砂原に問う。
「無事とはいかなかったらしい。風間がやられた。PKをもらったらしい。しかし小蓮が居たのは幸いだな。あの娘は『治癒』の使い手でもあるから。彼女の応急手当で、働く分には問題ないと」
「それだけですか?」
「何だって?」
怪訝な城の声に、矢張り砂原も怪訝な顔になる。
「観念動力による干渉だけですか? 奴の真骨頂は、人の精神に強力に作用する攻撃だと聞きました。それが、まだ無い」
「つまり、どういうんだ?」
「僕等は遊ばれている」
その途端、表現の難しい何かが、アルカトラズ島に居る人間の全てを貫いた。それは武道で言うところの氣当てに近い。一瞬、砂原と城は底無しの暗黒に心を支配されかけたのだが、恐怖の君臨は直ちに霧消した。
「何だ今のは!?」
「来ますね、真祖が」
砂原は再度A班に無線を繋いだ。
「大丈夫か!」
『大丈夫だ。多分、今のが吸血鬼が来ちゃいけない理由だ。守る手段が無ければ、精神干渉をまともに浴びる』
『うう。お札が黒くなってしまいましたー』
『良かったな、おい。全員霊符を持っていたおかげで、今のをやり過ごせたんだろう』
「待てよ」
砂原は焦燥感を覚えつつ、無線を別のチャンネルに切り替えた。ハンター達は無事だった。結界の霊符を持っていたお陰で。しかし、それを持っていない警部補達はどうなった?
「警部補、聞こえるか、警部補!」
返事が無い。
「警部補!? 嘘だろ、死んじまったのかよ!?」
『…聞こえてるよ。騒々しい。何とかぶっ倒れずに済んだぜ。凄え、俺の精神力凄え』
マクベティ警部補は、しかし言葉程には声に力が無い。
『しかし沿岸警備隊の連中は、今ので全員昏倒しちまった。心臓は動いているから死んじゃいねえよ』
「そうか…。しかし帰りの操船がまずいな」
『何とかする。見よう見まねでも、船くれえは動かしてやるよ』
「そいつは途轍もなく心配だな」
『ぬかしやがれ』
取り敢えず、全員の無事は確認出来た。一息ついた砂原の耳に、バタバタと部屋に駆け込む足音が聞こえる。A班の面々が、ようやく合流したのだ。
「急いで下さい」
城は上着を脱ぎ、スコップを地面に突き刺した。そして床に胡坐を組んで座り込む。
「ソロモンの環が…たった今壊されました!」
声を引っ繰り返らせる郭を宥め、城は閉目しながら彼女に言った。折込済みですよ、と。
「これから迎撃を開始します。何処まで通じるかは分かりませんが」
真祖が深手を負っていたのは本当だ。対真祖戦に風間と斉藤が用いた武器は、アズライルの鎌と呼ばれる代物である。実際に死神が使っていたものらしい。真偽の程は定かではないが、少なくとも人間が呪的処置を施した刀剣類よりも、現状では霊体への損傷効果を遥かに及ぼせるには違いない。事実、件の鎌で切り刻まれた事により、真祖は一時、行動不能に陥ってしまった。
ソロモンの環を突破して後、かの者達の狙いが自らの本体にある事は先刻承知であるうえで、真祖は置かれている状況を楽しんでいた。我は不滅、我は不敗。それが確固として揺るぎ無い事実であると、真祖は認識している。
真祖は期待していた。彼らは如何なる手段を自身の本体に行使するか? 定石に従い首を切り落とす? くわえて全身を切り刻み、油を撒いて焼き払う? その何れもが無駄であったと、知った時の彼らの顔が如何なものか。それを見るのが今からとても待ち遠しい。今の自分は、最早昔の自分ではない。そう、昔とは全く違うものなのだ。
堂々と正面入り口から旧監獄舎へと進み出、しかし真祖は違和感を覚えた。気配が無いのに、騒がしい。どういう事かと思えば、それはセルハウスの通路に出ると理由が分かった。
通路から左右の居並ぶセルから、アジア系らしき人間がぎっしりと詰まっていたのだ。否、それらは人間ではない。先程自身が纏わりついた人形と同じものだ。魂の無い人形達が、何をするでもなく突っ立って、がやがやと騒がしく訳の分からない言葉をしゃべっている。
『さてもさても、面妖也、面妖也』
真祖は楽しく笑った。かように様々な手段を講じて、吸血鬼の真祖である自分に立ち向かって来る人間共の可愛らしさに。真祖は己が手を伸ばし、自分の事に全く注意を払わない人形の一体に触れた。不意に人形が固まった表情のまま、床に転がり落ちた。
『大した呪術でもあるまいよ。これなら先のイトーとやらのが面白え』
構わず真祖は進んだ。進む度にバタバタと人形達が倒れ伏して行く。まるで無人の野を行くが如く。これでどういう防御となるのか、真祖は半ば呆れて進み続ける。その余裕は、突如空気を裂いて素っ飛んで来た銃弾に、木っ端微塵に打ち消された。
霊体が消滅。また形成する。再度銃撃。また消滅。
真祖はセルハウスの2階へと瞬時に移動し、攻撃を仕掛けてきた者を見た。初めて見る中華系の男が、自分を視認して銃口を上向ける。ストーナーM63を三脚で固定し、しゃがみ込んで狙いを定める彼の目には戦意が無い。更に言えば心が無い。これもまた人形だと気付いた瞬間、真祖の体は三たび消し飛んだ。
城は自動人形・甲を時間稼ぎの捨石としていた。斉藤が使った「乙」とは異なり、大した動作が出来る訳でもない。しかしながら、機関銃のトリガを絞るくらいなら出来るという訳だ。そしてストーナーには、銀の祝福を施していた。
ベルトが忙しく給弾し、ストーナーが銃弾を容赦無く吐き出す。先手を取った時のように容易く真祖には当たらなかったが、何しろ数の暴力である。『人海戦術』で繰り出した中華人形達が吹き飛ぶのもお構いない。四方八方にばら撒く弾は、掠っただけでも霊体へのダメージだ。それでも真祖は、遂に城人形の真正面へと肉迫した。その速度に人形は対応出来ない。チェックメイト。
『よく頑張った。後でイチモツを切り取り、口に詰めてつかわす。ん?』
人形の胴体に紙が張られている。こう書いてあった。
『こんにちは、プレゼントです』
人形の胴体が爆発した。同時に聖水と塩をまぶした鉄球が、これでもかと前方へ打ち出される。直撃を浴びて消し飛ぶという顛末は、果たして何度繰り返された事か。
真祖は即座に姿を現した。大した打撃ではない。聖水と塩と銀など、先の妙な鎌に比べればどうという事もなかった。しかし真祖は、余裕の笑みを消した。代わりにもたげて来たのは、苛立ちの感情である。人間に怒りを覚えたのは久方だった。血の舞踏会の最終戦、アーマドのクルト・ヴォルデンベルグを相手にした時以来だ
『皆殺しだあ』
真祖は顔を引き攣らせた。
『皆殺しだよう、おまえらあ。腸で縄跳び、目玉でテーブルテニスの刑に処す!』
しかし真祖の呪詛は、其処までだった。前触れも無く、いきなり両腕が消えた。続けて両足。
『あれれ』
そして遂には、自分自身も消えた。
その少し前。
掘削作業はA班の加入によって、飛躍的に速度を上げた。城が自動人形を用いた迎撃に意識を集中させてからしばらく後、遂に彼等は真祖が封じられていると思しき棺に辿り着く。
蓋をこじ開け、その中身が晒された。棺の中には、青年が仰向けに横たわっている。その姿は、凡そA班が目撃したものと同じである。白髪。涼しい表情。しかし永らく埋められていたはずの死体が、今にも目を覚ましそうな艶やかさであるのが異常だった。昔、真祖が仕留められた際、その首はヴォルデンベルグ男爵によって切断されたというが、目の前の死体にその痕跡は無い。
「さて、御尊顔をメモリに収めるとするか」
砂原がデジタルカメラを持ち出し、真祖の顔をカメラに収めた。それからGPS発信機を体に数箇所仕込む。現状において、真祖に対して出来るところはここまでと砂原は解釈していた。真祖を滅ぼすに至る手段は、今のハンターやノブレムは持ち合わせていない。ならば真祖がどういうものであったか、またその居場所を広く知らしめる事こそが対抗の基本となるだろう。
更に砂原は、ジェイズのマスターから預かった千年柳の釘を取り出した。インディアンの呪術師が削り出したそれは、死者の魂が迂闊に肉体を離れぬよう、文字通り釘付ける力があるという。
「急いで下さい」
大穴の縁から、城がヒョイと顔を出す。彼が精神集中を打ち切ったという事は、つまり真祖が迎撃を突破したという事に他ならない。郭が地下室の周囲に張り巡らせた結界も、気休めにしかならないだろう。残された時間は僅かだ。
釘が砂原から仲間達に手渡された。まずは伝えられた通り、砂原と斉藤が真祖の両掌に打ち込む。真祖の腕が跳ね上がる。続いて風間と郭が両足の甲に釘を突き立てる。足が大きく震える。
「とどめだ」
釘の先端を心臓の辺りに合わせ、砂原が木槌を振り下ろした。
同時に真祖の目が大きく見開かれる。口元が声にならない何事かを呟き、しかし呆気に取られた顔のまま、真祖の体が捩れる。突き立った釘は、ひとりでに真祖の体へとめり込み、その肉と同化するように見えなくなる。それきり、真祖は動作を完全に停止した。
誰も微動だにしなかった。誰も何かを言おうとはしなかった。自分達のやり遂げた事の大きさを、この場の誰もが承知している。恐るべき吸血鬼の頂点に位置する者の完全復活を、彼等は先送りにする事に成功したのだ。
「皆さん、やりましたね」
梯子を伝って穴底に降り立ち、城が労いの言葉を投げる。全員へたり込んだままで、返事をする気力も無さそうだったが、取り敢えず何人かは親指を立てた。そして1人が立ち上がる。
立ち上がった者は、笑っていた。白色の髪。真っ赤な目。均整の取れた体躯。それは紛れも無く、真祖だ。
「失敗したのか」
誰も彼もが突如の事態に硬直する中で、風間は1人、アズライルの鎌をハンターの本能で構えた。今の真祖が、それでどうこう出来る手合いでないくらいは、彼自身にも分かり切っていた。だから呟くその声音には、ありありと絶望が含まれている。
しかしながら、その絶望を否定したのは他でもない、真祖であった。
「いや、成功である事よ。ありったけの力を振り絞ってみたが、ここまでだ。いやはや大したものである。褒めて遣わすぜ、クソ共が」
真祖は、ニイと口の端を曲げた。
<離脱>
「エギ(1)」
真祖は風間に目を合わせ、続けて順繰りに目玉を移動させた。
「ケト(2)、ハロ(3)、ネギ(4)、エト(5)。エトスメンティカ。あ、メンティカというのは『子豚ちゃん』という意味だから。しかし5人か。良い度胸であるぞ。かような隠し玉をば持ち込むとは、俺も想像せなんだわ。さあどうする。俺は立っているだけで何も出来ん。嘘じゃないよ本当だよ。切り刻むのかい燃やすのかい。何処からでもかかって参れ」
ふざけた調子で真祖はハンター達を挑発したものの、誰もそれに乗る事無く、彼らはただ真祖を見据えていた。たとえ首を落としても真祖が死なない事は、百も承知である。無反応の彼等を見、真祖は心からつまらなそうに息を吐いた。
「面白くもねえ坊ちゃん嬢ちゃんである事よ。まあいい。俺はもうすぐ、またぶっ倒れるし、したらばひと暴れも出来はしないし。だから何か言えクソ共。俺と楽しくも短いひと時を過ごすが良い」
「名前を教えて下さい」
極めてビジネスライクに、城が問う。
「あるでしょう、名前くらいは。真祖と僕達は呼称していますがね」
「おう、先程のたわけ小僧ではないか。名前と申したか? そんなもんは無え。俺は唯一であり、絶対である。しかしながら、真祖と呼ぶが面倒と言うなら、これを教えて遣わす。ルスケスである」
「ルスケス?」
「俺はルスケスであり、ルスケスとは俺の事であるよ。そして俺の可愛い下僕共は、『ルスケスのようなもの』ときたもんだ」
「ルスケスのようなもの…だったら、次席帝級もそうなのですか?」
決死の面持ちであるものの、郭は勇気を振り絞ってルスケスに問うた。対してルスケスは、『はあ?』と言った。
「じせきていきゅーとは何かね。教えろ。さもないと嬢ちゃん、殺すよ」
「うう、怖い…。ジルさんと、ヴラドさんの事ですよー。彼らはあなたが直に吸血鬼にしたのですか?」
「また吸血鬼かい。品の無い言い方だぜ。確かに俺は一枚噛んだが、あの僕ちゃん達は『限りなくルスケスに近いもの』なのよ。嬢ちゃん分かった? 分からねば殺すよ」
「もういいですー」
不思議なやり取りだった。真祖ことルスケスは、確かにハンター達との会話を楽しむ気配がある。その様からは、レノーラ、エルジェ、そしてジルのような、闇に君臨する王者の姿を見る事が出来ない。頭のネジが緩んだこの世ならざる者だ。風間は眉をひそめ、思った事を率直に述べた。
「何だお前は。一体何なんだ。それでも吸血鬼の親玉か。ミラルカの方が、よっぽど恐ろしいじゃないか」
「ミラルカ? ミラルカとは何だ坊や。教えなさい。さもないと」
「言われるまでもなく教えるよ。帝級のクソ女だ。あのアバズレには散々な目に合わされている」
「…あー。あれであるか。あの失敗作がどうした坊や」
「失敗作だと?」
「まだ動いておったか。存外長持ちである事よ。さて、残り時間もあと僅かだ。畜生畜生、また動けねえなんてよう。しかし最後にもう一丁、せねばならん事がある」
「待て、奴にどんな呪いをかけた!」
「それではおまえら、ごきげんようさようなら。全員顔は覚えた。また遊ぼうぜ」
ルスケスが、ふわりと宙に浮く。そして穴の縁に、ストンとその身を置いた。ハンター達は、血が引く思いがする。何か相当にまずい事をしでかしそうな。
風間は腰に提げた鎖にアズライルの鎌を連結させ、迷う事なくルスケス目掛けて投擲した。鎌がルスケスの胴に突き刺さる。そのまま引き摺り下ろそうと試みるも、相手は重石のように不動であった。
ルスケスが息を一杯に吸い込み、大音声を発する。
『素晴らしい朝が来た!』
信じ難い事だが、その声はアルカトラズからサンフランシスコ市街目掛けて炎のように広がった。人間、動物、そしてこの世ならざる者達、思考をするありとあらゆる存在、その全てがルスケスの声を耳にした。と言うより、直接心に到達したという言い方が妥当だろう。
それは先の「氣当て」のような作用は無かったが、それ以上に恐ろしい一定の認識を、声を聞いた全てに対して植えつける事となった。
即ち、人類の敵が覚醒した、である。
ルスケスを主に戴く者共は、彼の再臨を喜び称えた。
そして人間は、ただただ恐怖した。ハンターのみならず、ありとあらゆる市井の人々が、自分達には天敵が居ると初めて知ったのだ。食物連鎖の絶対王者とは、単なる思い込みに過ぎなかったと。自分達は為す術も無く、彼に食われる存在でしかないのだと。その恐怖は尋常ではない。
「まずい」
砂原が気付く。ルスケスが何を思って天敵を宣言したのかに思い至る。
「来るぞ。奴の手下共が、あの化け物を回収しに!」
その一言で、ハンター達は猛然と動いた。
既にルスケスは仰向けに倒れているが、最早構う暇は無い。ルスケスは下僕を呼び寄せたのだ。奴等は喜び勇んで来るだろう。恐らくは帝級の者が。ジルか、エルジェか。その何れかが到来すれば、自分達は八つ裂きにされる。
ハンター達は車に搭乗し、猛スピードで停泊所まで乗りつけた。既に汎用ボートは出港の準備にある。マクベティ警部補も、事態の危急を十分理解している。続々と船に乗り込む彼等を見届け、警部補はスクリューを全開に回した。
「取り敢えず、事は遂げたな」
と、砂原。その言葉に異存は無い。皆が疲れ果てた顔で頷いた。
「奴の事だ。何れ完全に覚醒するだろう」
「しかし貴重な時間を稼いだんだ。失敗すれば、ほんの少し先で廃滅に片足を突っ込むとこだったよ」
「これが敵の致命傷になる、かもしれませんよね?」
「ええ。間違いなく向こうは不利を被るでしょう」
「やれやれだな。早いとこ帰って、一杯やりてえなあ」
「…なあ、お前ら、それどころじゃねえかもしれんぞ」
不意に警部補が冷や水を浴びせてきた。操舵をする彼の眼は一点を見据えている。海面ぎりぎりの高さを、高速度で飛来する何かに向けて。
それが何であるかは、すれ違い様に分かった。風圧で高い横波をまともに浴び、傾ぐ船体に必死で掴まる彼等が見たものは。
「ジルだ…」
この場で彼を知る者の1人が、呆然と呟く。
ジルは真っ直ぐにアルカトラズ目掛けて突進していたのだが、思い直したのか、いきなり方角を曲げた。そして逆戻りのルートを飛翔する。つまりは、ハンター達の汎用ボートを捕捉したのだ。慌てて銃器が担ぎ出されるも、そんなもので次席帝級の進撃を止められるはずがない。あの勢いで突っ込まれれば、ボート程度は木っ端微塵に吹き飛ばされる。
しかし、予想外の結末がハンター達を待っていた。
何の前触れも無く、ジルが海の中に沈む。否、沈むと言うよりは、引き摺り込まれたと表現するのが妥当だろうか。それが証拠に、怒りの形相で浮上しようとしたジルが、また不自然に水没したのだ。その間にもボートは一方的に距離を空け、ジルの追跡を撒く事に成功してしまった。ハンター達は顔を見合わせた。
「何だ?」
「何あれ」
「あいつトンカチなの?」
何が何だか分からない面々の中で、風間だけは真相を知った。自らに利益を与えたものが、小さく脳裏に囁いたからだ。
(利益の範疇を越えるが、サービスをしておいた)
声は風間に言う。
(故にそなたも帰郷の折は、伊勢の宮へ参るがよい。姉様の宮ばかり人気があり、どうにも寂しいのだ)
すかさず風間が二拝二拍一拝を実行したのは言うまでもない。
<ジェイズ・ゲストハウス>
街はちょっとした騒動になっていた。
先のルスケスによる宣告は、サンフランシスコの住民に対して1人も余さず発せられたのだ。これを幻聴と断じる楽観者は何処にも居ない。
しかしながら、外界の右往左往を尻目にゲストハウスは静かなものだった。何しろ客が2人しか居ない。その2人は、見慣れたハンターとは異なる人種である。
1人はそろそろ初老に差し掛かったインディアン。もう1人は相方よりもずっと年上の、フェドーラ帽を被った白人の男である。マスターのジェイコブ・ニールセンが彼に接する態度は、敬意に満ちている。
「お目にかかれて光栄です、博士。貴方は生きる伝説です」
「それは大げさだ。私はただの老人だよ。長生きしているだけの」
「長生きし過ぎのような気もしますがね」
インディアンの男が笑った。
「しかしこうして対処に来てみれば、若いハンター達が上手く立ち回ってくれたようですね」
「ああ、私達は少々遅かったらしい。奴に完全復活を遂げられたら、さすがに事が難しくなる。ハンター達に感謝しよう」
「会ってみたいものです、彼等に」
「そうだな。しかしこれからが正念場だ。この街の事変は、奴の復活だけでは収まらないだろう」
「総体的な解決策が必要ですね」
「その通り。私達にも出来る事はある。ハンターを助けねばな…。マスター、今一度この街の状況を聞かせてくれないかね?」
<H7-4:終>
※本H7では、特殊リアクションが発行されます。
○登場PC
・郭小蓮(クオ・シャオリェン) : ガーディアン
PL名 : わんわん2号様
・風間黒烏 : スカウター
PL名 : けいすけ様
・斉藤優斗 : スカウター
PL名 : Lindy様
・城鵬(じょう・ほう) : マフィア(庸)
PL名 : ともまつ様
・砂原衛力 : スカウター
PL名 : M原様
ルシファ・ライジング H7-4【素晴らしい朝が来た!】