<フェアモントホテル・サンフランシスコ・その1>
フェアモントホテルの従業員用食堂はシフト毎に従業員が入れ替わる仕組で、殊にランチタイムは11:00~15:00くらいまで活況を呈している。
昼も2時近くになって、アンジェロ・フィオレンティーノは若干遅めの昼食を取る事が出来た。ライ麦パンにミートローフ、チキンサラダと野菜ジュースが所狭しと並ぶプレートをテーブルに置き、黙々と食べ始める。アンジェロはフロアの端のテーブルをわざわざ選んでおり、4人用に座っているのは彼1人だけだ。その勢いに押されたのかどうかは分からないが、何時もは同僚とも仲良くやっている彼の元には、誰も寄って来なかった。唯1人を除いては。
ガタン、と不躾に置かれたプレートを目の前に見、アンジェロは顔を上げた。斉藤優斗だった。このホテルに同じ目的で入り込んだ、言わば同士である。
「疲れた」
言いながら、斉藤は億劫そうにレタスをフォークで突き刺した。電気設備の保安員として昼間は働きながら、夜は警備員のアルバイトも掛け持ちでやっている。疲労を溜めるなというのが無理な話である。
「相変わらず、ここは良いホテルだ。設備は極上、従業員の教育も末端まで行き届いていて、ついでにランチも旨い」
「その割りには美味しそうに食べていませんね」
「味わっているんだよ」
「休み時間は有効に使わないと。打ち合わせをする時間が無くなってしまいます」
「食いながらやる。食い終わってから書類を広げるのは如何にも怪しいからな」
バッグから書類を取り出す傍ら、斉藤はフロアスタッフのメイド服を着ているアンジェロを見て、複雑な面持ちになった。
「本当に男かい?」
「失敬な。これはただの変装ですから。女性に間違われるのは心外です」
「間違われるのが嫌な割に女の格好をするというのは、些か破綻しているような気もするな」
「警部補に相談したら、こっちの方がいいって言われたんですよ…」
軽口を叩き合いつつ、2人はこれまで調査した成果を確認しあうべく、机上のファイルを覗き込んだ。
英国王室がサンフランシスコを訪問する際の常宿。創業百年を超える老舗。贅の極みを尽くしたフェアモントホテル・サンフランシスコには、残念ながら何かがある。
それは2ヶ月以上前に起こった電磁場異常大発生の1つに、このホテルが関わっていたと斉藤が気付くところから始まった。そしてその後、吸血鬼エルジェ出現の直前に起こった過大なEMF反応。それらに関連が無いはずはない。有体に言えば、このホテルは吸血鬼の拠点の1つかもしれないのだ。まず斉藤が、エレベータがストップした日についての調査結果を述べた。
「まず、エレベータの故障について技術的なトラブルは無かった。定期点検はさすがに完璧だ。エレベータ会社からの調査報告には、こう書いてあったよ。一時的な電力供給の支障が発生したと思わしく、該当のサーボモータを最新のものに取り替える。これでホテル側に納得してもらった訳だ」
「支障というのは、嘘なんでしょ?」
「まあ、そうだ。何だか分かりませんが止まってしまいました、では会社の沽券に関わるからな」
「何だか分からないものに対処するのが、ハンターという訳ですね」
「そういう事。で、エレベータ・ストッピングデイにおかしな宿泊者がチェックインしたかどうかなんだが…」
斉藤は困り果てたように頭を掻いた。この当日に異邦人がホテルに到来したものだと斉藤は予想したのだが、肝心のリストにそれらしい人物が見当たらないのだ。
「長期宿泊者というのは、基本的に居ないんだよな。せいぜい長くても1週間。そりゃそうだろう。ロングバカンスを楽しむ金持ちは、普通コテージやマンスリー・マンションを借りるもんだ。幾らフェアモントでも、ホテル暮らしは堅苦しいからな。それに一泊$300が並のフェアモントに2ヶ月以上も逗留する剛の者は、さすがに居ない」
「長期宿泊者については自分も調べました。結果は同じですね。その他、スタッフに色々取り入って聞き込みましたよ。ここ最近に妙な事は起きなかったか。通路の監視カメラに異常は無かったか」
「結果は?」
「実は尻尾のようなものを掴みました」
思わず身を乗り出した斉藤に合わせ、アンジェロも上背を屈めて息を潜めた。
「VIPルームについて調べてみたんですよ。古い吸血鬼は貴族趣味がありそうでしたから。その結果、一室だけ変な部屋があるんです。メインビルディング・スィートはこの2ヶ月誰も宿泊していません」
「超々高級客室じゃないか」
「そりゃ値段は高いですが、メインビルディング・スィートはホテルのシンボルの1つです。2ヶ月以上誰も宿泊しないなんて有り得ない。で、それがおかしいと言っても、誰もが首を傾げるばかりなんです。定期的に清掃もされているようですが、別に異常は無いと。何人もあそこには立ち寄っているみたいですが、異口同音にそう言います」
アンジェロの報告を聞いて、斉藤は大きく息をついた。そして手元の手帳を開く。EMF探知機でホテル内を調査した結果だ。1度だけEMFが微弱な反応を示したフロアがある。表通りに面した4Fのフロア。メインビルディング・スィートのあるフロアだ。
「仮にその部屋に吸血鬼が居るとして」
生唾を呑み、斉藤が言った。
「何故騒ぎにならない。スタッフに行方不明者が出たという話も無い。部屋に立ち入っても、何も気付きが無いなんざおかしいだろう。まさか、心を操作されているのか?」
「…僕が清掃の為に、部屋に入ってみる?」
「そりゃまずいぞ。何しろ敵の正体が分からん。蜘蛛の巣に自ら飛び込むようなもんだ」
「でも、入った人達は無事に帰って来ています。コケツ、イラズンバ、コジヲエズではないですか」
「面白い言葉を知っているな」
斉藤は腕組み、考え込んだ。怪しい位置の特定が出来れば上々とは思っていたが、その次をどうするかについて考察する為には、アンジェロの言い分にも一理ある。
<アーマド・アーマード>
アーマドは200年以上も昔に壊滅した、対吸血鬼闘争組織だ。確かに彼らは吸血鬼によって滅ぼされたのだが、逆に猛威を振るっていた吸血鬼集団を殲滅した実績がある。強力な火器の無い時代に、皇帝・女帝級が健在であった吸血鬼達を向こうに回して、最も危険な接近戦で挑んだ者達。
ディートハルト・ロットナーは、率直に敬意を払うべきだと考えた。彼らは吸血鬼の最強類と戦う為の知識やノウハウ、それに勇気を武器にしていた。見習うべきだと思うし、今のハンター達に必要不可欠な要素だとも痛感する。現代に出現したエルジェという怪物に、自分達が打ち勝つ為には。
『アーマドが所持していた、吸血鬼と戦う為の武器か…。恐らく、そういう物はこちらに残っていないな。あれば既に、ワシらが活用しておる』
電話口の向こうから、イングランドの「酒場」のマスターが当惑したように言った。アーマドの本拠地が存在していたイングランドのハンター組織に、ディートハルトはサンフランシスコの一件を話して助力を求めたのだが、話は些か振るわないところから始まった。
『アーマドの事は、ある程度知っている。だが、資料らしきものは何一つ残っていない。そっちにアーマド絡みの本が残っていたというのは、かなり感動的だ。解析したデータはもう少ししたらメールで送信する。しかし、何故サンフランシスコに』
「助かりますよ、マスター。取り敢えず、ある程度でも結構ですので、知っているところを教えてもらえませんかな?」
『確か…アーマドは無償のボランティア・アーミーだ。結成は壊滅する30年くらい前だった、かな。三度の大きな戦いを経て、四度目で両者は全滅した訳だ。こうした規模の大きな戦いは、「血の舞踏会」と称されておる。アーマドの主催者はエイブラハム・ヘルシング卿。「吸血鬼との闘争と終焉」に出ている「教授」だな』
「何と、実在したのですか!?」
『ブラム・ストーカーは誰かに聞いて物語のプロットを作ったのだろう。しかし肝心の当人の履歴は全く残っていない。構成員は全員、世間との関係を絶って世捨て人となったらしい。皆、吸血鬼に家族を殺された者達だったそうだ』
「ハンターに通じる話ではありますな」
『吸血鬼との戦のセオリーは、アーマドが作ったものだと言われとるよ』
「なるほど。ところで、敵の吸血鬼が気になる名を言っていたそうです。アーマドの者で、貴人とは誰の事なのですか?」
『多分、クルト・ヴォルデンベルグであろう。オーストリアの爵位持ちだったんだと。国を出奔して財産の全てをアーマドに注ぎ込んだ。最も多くの吸血鬼を殺した男とも言われている』
「反逆者は?」
『それはワシにもよく分からんな』
「例の本は、どうやら最終決戦前に書かれたもののようです。その後のアーマドは、本当に誰も生き残らなかったのですか?」
『いや、ごく僅かだが生存者は居たらしい。居たらしい、という伝承が残っている以上、アーマドについて今少し明瞭になっていても、本来はおかしくないはずだ。しかしその者については徹底して情報が無い。まるで情報を隠匿しているかのようだな…』
一頻り話して、ディートハルトは受話器を切った。
アーマドについては、おぼろげながら形を見る事が出来たが、肝である皇帝・女帝級との交戦ノウハウは、イングランドでも口伝すら残っていない。尤も、それが残っていれば、アーマドは現代においても著名な組織であるはずだ。知る人ぞ知る、などという事にはなるまい。
「生存者の子孫が居れば、話は早いのだが…」
呟き、ディートハルトは背もたれに深く身を預けた。アーマドの成り立ちと滅亡に、今一度思いを馳せてみる。
現代とは比較にならない数と質を誇る吸血鬼との戦いは、さぞかし過酷の極みであったのだろう。世情を絶ち、戦に没頭し、そして誰にも知られず死んで行く。まるでハンターの有様を体現するようだ。そしてディートハルトは、もう1つアーマドに心を寄せる要素を見ている。
反逆者については、先頃開放された吸血鬼からの情報で内容を知った。真祖に次いで古い吸血鬼でありながら、人間側に与した者だ。人間と吸血鬼との共闘は、サンフランシスコにおける現状を沿うようにも思える。果たしてそれは、再現されつつある血の舞踏会に向けて、光明となるか否か。
<カーラ・ベイカーとの対話>
昼はヘイト・アシュベリの雑貨屋で働き、夜はマリーナのカーラ・ベイカー宅で護衛役を担う。幸い昼の仕事は軽労働であったので、レイチェル・アレクサンドラはカーラ宅で疲れ果てる事無く気力を保っていた。
扉を開け放した客間は玄関に近く、いざという時には行動も容易い。が、ハンター必携アイテムであるEMF探知機は、残念ながらあまり当てにはならなかった。眉間にしわ寄せ、レイチェルが探知機を手に取る。メータは一定の値を指し示し、つまり始終電磁場異常に反応している。理由は、吸血鬼が屋敷内と敷地の周辺に居るからだ。
とは言え、彼女の他にもハンターが居り、ノブレムの吸血鬼はカーラに協力的である。ハンター、吸血鬼の双方が余計な干渉をしなければ、この防御はそれなりに固い。しかしレイチェルは拳銃を手に取り、構え、何気に窓の外へ向けた。して、庭で身を屈める護衛役の1人に照準を合わせる。それは同行したハンターではなく、ノブレムの者だ。
「お疲れさま。お茶をお持ちしましたよ」
声を掛けられたと同時に、レイチェルは拳銃をテーブルに置いた。紅茶のカップを載せたトレイを持ち、カーラが微笑を湛えつつレイチェルの真向かいに座る。
「被検体への処置は済んだのかい?」
紅茶を手に取り、しかし香りを嗅ぐだけで飲む事はせず、レイチェルはカーラに問うた。
「ええ。半時間ほど輸血を続けるのよ。終わるまでは安静にしておくの。少しの間は休息を取れるという訳ね」
「そう。何にしても、被検体とやらは変わり者だと思うね。吸血鬼としての力を全て失う実験に、自ら参加するなんざ」
「ジュヌヴィエーヴね。彼女の動機にはレノーラへの忠誠が大勢を占めているけれど、私には少し違う素養も見えてきた気がするわ。彼女の心境に前向きなものを感じるの。それはとても喜ばしい事よ」
「喜ばしい。確かに喜ばしいかもしれないね。敵が弱るというのは、アタシにとっては喜ばしい」
「レイチェル?」
カップを受け皿に置き、カーラはレイチェルを見詰めた。
「あなたはとても気高く猛々しい。でも、きっとハンターが直面する戦いは、憎悪や恐怖を乗り越えなければ凌げないと私は思うのよ。レノーラ達は懸命に道を模索しているわ。それは分かってあげてね」
「アタシにとって吸血鬼は、親殺しの怪物なんだよ。そいつはアタシの妹で、アタシはそいつの首を刎ねる為にハンターになった。それだけさ。そんなのより、聞きたい事がある。アンタはアーマドについて知っているかい?」
カーラの目が細められ、レイチェルは我が意を得たりと言葉を切り出した。近頃情報公開された、エルジェという高位吸血鬼が言っていた内容。それにハンターが入手した過去の文献について。それら2つの情報には符合する箇所が幾つもある。
「アーマドについて話す前に、一つ述べておくわ。第四次・血の舞踏会を生き延びた、1組のアーマドの男女が居た。私は、その子孫なのよ」
「な…」
レイチェルは絶句し、目の前の老婆を凝視した。吸血鬼に対する関わり合いの深さから、只者ではないと思っていたが。アーマドの残滓、カーラ・ベイカーは、思い出話をするように訥々と語り始めた。
「大昔から、吸血鬼と人間は戦いを繰り広げてきたけれど、人間側の抵抗は散発的なものだったの。それを組織として纏め上げたのが、プロフェッサ・ヘルシング。稀代の禁術師であったそうよ。そう、彼は現存する魔術や呪術とは全く異なる系統の技術、禁術を駆使してアーマドを率いたの」
「禁術?」
「その技術を継承した人達はほとんどが死んで、そして教授も最後の戦いで命を落として、禁術は途絶えてしまったわ。でも、代々私の家は、たった1つだけ不完全な技術を継承されて、ようやくその復元が相成った、というわけ」
「それが、吸血鬼無力化実験だと?」
「そう。そしてこの禁術の名は『レア・ゼーレ』。何処の言葉かは分からないけど、解放という意味だそうよ」
「解放…」
「生きる事は喜びと同時に、苦しみも伴うわ。吸血鬼もまた、人間とは異なる苦しみを永劫に抱えるの。人の論理思考を持ちながら人に非ざる、この世ならざる者としてのね。その苦しみから解放する為に、私はこの実験を遂行するわ。他でもない、彼ら自身の力でね。そしてレイチェル、あなたの苦しみは、あなた自身でなければ解放出来ないのよ」
カーラは時計を見て、ジュヌヴィエーヴの状態を確認する為に席を立った。残されたレイチェルは、唇を噛み、頭を抱える。
「それじゃあアタシは、一体どうしたらいいんだよ?」
<サンフランシスコ公共図書館>
結論から言えば、『吸血鬼との闘争と終焉』を外に持ち出す事は出来ない。フリスコ図書館にとっては素性が分からない書籍であるものの、貴重な古い文献であるのは間違いない。おいそれと貸し出せるような代物ではないのだ。
そんな訳で、ディートハルトは資料室での閲覧で手を打つしかなかった。これでも八方手を尽くし、閲覧願書へのサインを5回書く必要があった。
完全密閉され、照明も最小限という資料室の環境下で、ディートハルトは疲れる目をしきりに揉み解しながら、件の本を紐解いた。既に内容は前回電子データで一通り確認しており、実のところ新味というものは無い。
次いで言えば、イングランドのハンター酒場から送られた解析データでも、芳しい成果は得られていない。前回の閲覧時に読み取り辛かった古英語は、虫食いが酷くほとんど文体の意味を為していなかった。そして更に不可解な事に、英語でもラテン語でもない、全く解読出来ない文章が存在しているのだ。解析を担当した言語学者もお手上げだったよ、とは酒場のマスターの言である。
それでも、掠れていた序文の後半を、学者はある程度復元してくれていた。ただ、それだけではあまり意味が通らない。そこでディートハルトはこれをフィルムに印字し、実物の書籍との照合を試みる事にした。
「さて、読み解けなかった箇所を読んでみますかな」
序文のページに件のフィルムを差し込む。電子データでは読みきれなかったインクの箇所が視認出来る。ディートハルトは慎重に序文の後半を読み進めていった。
・前半
『吸血鬼に神の祝福は通じない。かろうじて結界だけが行く手を阻む可能性がある。彼らは不敗の不死者だ。心の臓を破壊しても死に至らない。唯一とどめを刺せるのは、悪魔か天使を殺せる武具か、或いは首の切断。この2つである』
・後半
『しかしながら、とどめを刺すに至る筋道を作り出す事は可能だ。我はその術を教授に授け、かの天才はかくも長きに渡り術を駆使してくれた。それも此度で終わり、術も廃れよう』
「何だこれは…」
呟き、ディートハルトは唇を舐めた。
教授、エイブラハム・ヘルシング卿がアーマドの創設者である事は、既にディートハルトも承知している。しかしこの著者は、その教授に何らかの戦い方を授けた者だ。薄々予想はしていたが、ここに至りディートハルトは確信する。この本の著者は反逆者だ。
まだ文章には続きがある。ディートハルトは興奮気味に読み進めた。
・後半の続き
『後世の君に告ぐ。恐らく此度、真祖は滅せぬであろう。戦い方は我に代わり、彼が教える。君、言葉を述べよ』
「シュ、レック」
その言葉は、ディートハルトの喉から勝手に漏れ出した。驚く間もなく、更に言葉が続く。
「シ、オ、イール」
突然、資料室が冷え込んだ。同時に照明が点滅を繰り返し始めた。ハンターであるディートハルトは、この状況が何を意味するのか承知している。この部屋に何かが現れたのだ。
ディートハルトは額に溜まった脂汗を拭い、気を落ち着かせるように一度頷いて、背後を顧みた。鈍い色のコートを着、真っ白な髪の老人が其処に居る。
「…誰です?」
ディートハルトが問う。しかし老人は閉目したまま、何も言葉を発しない。その代わりに重々しく腕を挙げ、人差し指を立て、しかしたったそれだけの動作を終えると、老人は嘘のようにその姿を消した。
霊体にはよくある事だが、どうやら彼は音声を発する事が出来ないらしい。もしも彼とコミュニケーションを取ろうとするならば、何らかの工夫を考えねばならないだろう。
とは言え、ディートハルトは少し希望を憶えた。望んでいた戦闘ノウハウの獲得を、自分達は得られるかもしれないのだ。
<フェアモントホテル・サンフランシスコ・その2>
4階。メインビルディング・スィートのあるフロア。頃合は深夜。とても静かだった。
広々とした廊下は宿泊客に配慮する形で、監視カメラが巧妙に配置されている。斉藤が調べたところ、そのカメラにスィートを出入りする者は従業員以外映っていなかった、との事である。
「もしも部屋に連中が居るとしたら」
声を落として、アンジェロが斉藤に言った。
「一体何処から出入りしているというんですか?」
「分からん。が、マクダネル家も出入りがきっぱり分からなかった訳だ。どういう手段を使っても不思議ではあるまいさ」
2人は監視カメラの死角に入る廊下の一角で、息を殺して潜んでいる。アンジェロが空き部屋の点検役に割り込む事が出来、彼らはこれからメインビルディング・スィートに立ち入ろうとしている。
「まず、徹頭徹尾従業員になりきるんだ」
斉藤の声音は、実際に入るアンジェロよりも逼迫している。
「ハンターみたいな雰囲気はおくびにも出すな。何か居ても下手に会話するな。何もしなければ、向こうも何もしない可能性が高い。生き延びるチャンスがある」
「そんな、おどかさないで下さいよ」
「脅しでも何でもない。想定通りの奴なら、お前は秒殺だ。生き残る最善を尽くせ」
真剣な斉藤の物言いに、アンジェロは頷き、意を決し廊下を歩み出した。程なく、メインビルディング・スィートの前に立つ。ここに立ち入った従業員は「何も無かった」の一点張りだ。そして長期間滞在の無いこの部屋を、従業員は誰も不審に思っていない。自分達を除き、非常に広範囲に精神操作を施されている可能性がある。そんな芸当は、腕力一辺倒な普通の吸血鬼に出来るものではない。異能を持つ吸血鬼なら話は別だが。
(皇帝・女帝級…)
アンジェロは頭を振って、扉の鍵を外し、スィートの中に入った。
「どうだった!?」
戻ってきたアンジェロを、斉藤が問い詰めた。対してアンジェロは首を傾げるばかりである。
「いや、それが…。別に何も無かったんですよ」
「ああ、やっぱり」
斉藤は溜息をつき、手に持っていた探知機を眺めた。メータはピクリとも動いていない。明らかに怪しい部屋なのだが。
(稀に、電磁場の波形をコントロール出来るような「この世ならざる者」も居ると言うが…)
と、メータが一瞬にして一気に振り切れた。同時に照明が点滅を開始。異常な気が爆発したように押し寄せ、2人はたまらず膝をつく。
「何です!?」
「この前と同じじゃないか!」
その現象は、ものの数秒で収まってしまった。斉藤とアンジェロは、監視カメラや敵の存在を一時度外視し、反射的にスィートへ再び向かった。そして扉を開く。
部屋の中は薄暗く、それでも街の明かりが品良く豪華な調度品の数々を視認させてくれた。ここは確かに、メインビルディング・スィートだ。斉藤は懐中電灯のスイッチを入れ、周囲を照らし出した。窓は固く閉ざされ、人らしき姿は何処にも見当たらない。
「斉藤さん、あそこ」
アンジェロが指差した方向にライトを向ける。その先は寝室だった。若干扉が開いている。
「ああいうのは、部屋をチェックする際は完全に閉めます。開けたままなんて有り得ない。」
「さっき入った時はどうだったんだ?」
「…あれ? どうだったかな。よく思い出せないや」
「まあ、いい」
2人は示し合わせ、寝室の扉に接近する。ドアノブに手を掛け、頷きあい、音も無く押し開いた。
「あ」
呻き声を出しかけたアンジェロの口を、斉藤は慌てて塞いだ。そして自身は震える手で、懐中電灯を「それ」に向ける。
ベッドに隣り合ったチェアに、男らしき人影が腰掛けていた。項垂れた格好のまま、こちらに気付いた素振りを見せていない。どうやら眠っているらしい。懐中電灯の光はガウンを纏った男の足元から上を徐々に照らし、そして彼の顔に到達した。今度は斉藤が叫びそうになった。
男の顔には、あるべき皮膚が無い。赤黒い肉そのままを外気に晒し、剥き出した歯茎から、出鱈目な数の牙が生え揃っている。
斉藤は電灯を消し、アンジェロと共にゆっくりと後退した。
男が吸血鬼であるのは間違いない。ならば眠っている間に首を掻き切る千載一遇の好機だ。そんな考えが無いではなかったが、同時に「実行すれば死ぬ」という確信が、2人の欲を押し潰した。
その判断は正しかったのだと、彼らはしばらくしてから気付く事になる。
結局表通りまで早歩きで逃げ果せ、2人は呼吸を荒げて天を仰いだ。怪訝な顔で通り過ぎる通行人など知った事ではない。
「頼むぜ、アンジェロ」
息も絶え絶えに斉藤曰く。
「何が『何も無かった』だ。ヘルレイザーのピンヘッド様みたいな奴が居たじゃないか!」
「おかしい。あんなインパクトの塊みたいな奴を忘れるはずはないですよ。あれ、待てよ? もしかしたら、他に誰かが居たような気がする…」
いきなり、EMFのメータが再度振り切った。斉藤とアンジェロが揃って腰を抜かす。スィートの窓から何かが飛び出し、空を横切って行く様を2人は見た。
「…クロでしたね、あの部屋」
とは、アンジェロ。
「クロもクロ、真っ黒だ。しかし、だからと言ってどうしたもんだ、あれは」
メインビルディング・スィートには、強大な何かが2人居る。しかしながら、それが分かった所で自分達だけでは太刀打ち出来ないと、斉藤は重々承知していた。
<H5-2:終>
○登場PC
・斉藤優斗 : スカウター
PL名 : Lindy様
・アンジェロ・フィオレンティーノ : マフィア
PL名 : 朔月様
・ディートハルト・ロットナー : ポイントゲッター
PL名 : みゅー様
・レイチェル・アレクサンドラ : ポイントゲッター
PL名 : 森野様
ルシファ・ライジング H5-2【狼よ! 狼よ!】