サンフランシスコで発生した、この世ならざる者の関連が濃厚な一連の案件において、特にノブヒルの一家惨殺事件はハンター達が最大の注意を払う出来事であった。事件そのものの特異性も当然ながら、何しろノブヒルでは人が死んでいる。放置すれば、恐らくこれからも。現在進行中の危機的状況だ。

 都合、サンフランシスコに集結したハンターの内、かなりの人数がこの件に労力を裂く事となる。単独行動が常態化するハンターとしては稀な状況と言えよう。

 加えてこの事件には、穏健派吸血鬼組織、ノブレムも介入を開始した。警察機構とハンター、そして吸血鬼が入り乱れる大規模な展開は、暗闇で密やかに戦うハンター達には、些か不利である。

 そしてもう一つ、ハンター達が注意しなければならない事案がある。それを指摘出来たのは、取り敢えず1人だけだった。

 

<ジェイズ・ゲストハウス>

『事件から今日で3週間が過ぎようとしておりますが、未だ犯人に繋がる糸口は見えておりません。SFPDも総力を上げて犯人の捜索を続けておりますが、市民から警察への不満の声が日増しに高まっているのが現実です。野に放たれた快楽殺人鬼が何時牙を剥いてくるか、ここノブヒルの住民達は日々不安を抱えつつ過ごしているのです…』

「牙を剥く、とは言い得て妙だな」

 風間黒烏は鼻を鳴らし、リポーターが捲くし立てているTVの画面を指差した。

「この通り、ノブヒルの件は全米の関心を集めている。いや、世界中かもな。家族全員の体から血を抜き取って、内臓をディナーみたいに切り刻み、首を食卓に飾るなんてクソ野郎は、ここ最近じゃ珍しいサイコパスだ」

 TVを見据えていたハンター達を前に、風間が言う。

「そこら中に監視の目があると考えるべきだ。警察、マスコミ、怯える一般市民。俺達は慎重に動かねばならん。でなけりゃ、味方が敵に回るかもしれねえ」

「慎重というのは、ノブレムに対しても言える。取り敢えずだが、ノブレムの吸血鬼、特に戦士級はコイツを付けると、向こう側から申し出があった」

 風間の後を継ぎ、ジェイコブがピンバッジをもっともらしく掲げてみせた。ピースマークだ。考案した者は天然か、或いは皮肉屋のどちらかだろう。

「ほう。吸血鬼にも殊勝な奴が居たもんだ」

「それだけ彼らも必死なのさ。このピンバッジで、ノブレムか、そうでない吸血鬼なのかを見分ける一助になる。重ねて俺から言わせてもらうが、この件は彼らが犯人である証拠が無い。少なくとも彼らは名誉挽回の戦いを準備している。彼らに対し、必要が無い限り暴力的な行動は取らないで欲しい。以上だ」

 特に集団行動を取る訳ではないので、これにて一家惨殺事件に対処するハンターの集まりはお開きとなった。

 ジェイコブは改めて集まったハンター達を思い浮かべた。自分の言葉に深く頷く者も居たし、笑って舌を打つ者も居た。様々な思惑を孕みながら、ハンター達は未曾有の敵に立ち向かうのだ。その行き着く先がハッピーエンドであって欲しいと、ジェイコブは切に願っている。それが叶わなければ戦争だ。吸血鬼と人間の全面戦争だ。危険極まりない戦士級はおろか、あの女帝級までをも相手にするのだから、戦争という言い方も決して大げさではない。何しろ女帝1人で、自身が配下とする戦士級全てに勝つ事が出来る。

 ジェイコブは自分と同じく無愛想な顔の風間に、ジンを一杯振舞った。カウンターに半身を預け、火がつくようなジンを喉に流し込み、それでも風間の表情は冴えない。

「派手過ぎるんだよ、この事件は」

 風間が呟いた。

「やり口が派手だ。まるで自分はここに居る、ここに来いとでも言うみたいに。もしも俺達が敵に乗せられているとしたら、そいつぁ大層面白くない」

 

ノブヒル・昼

 ノブヒルにも小ぢんまりとした公園がある。かつては親子連れが立ち話を楽しむ、ちょっとしたサロンの役目を果たしていたのだが、あの一件以来、人出はめっきり減ってしまった。うららかな初夏の昼下がりの、高級ホテルに取り囲まれた、誰も居ない公園。そんな場所に相応しい、怜悧な空気を纏わりつかせた女が、1人ベンチに腰掛けた。

 ケイト・アサヒナは警備員の仕事明けでくたびれた体を、大きく伸ばして宥めてやった。宿に戻って泥のように眠りこけたいところだが、彼女にはまだする事がある。

「待たせたな」

「言うほど待っていないわ」

 体を起こし、ケイトは声の主を迎えた。待ち合わせていたSFPDのジョン・マクベティ警部補だ。どんよりとしたグレーのスーツを肩に引っ掛け、目の下には露骨な隈が出来ている。疲れ果てた様は、此度の件におけるSFPDの苦労を体現しているかのようだった。

「犯人が子供をメインターゲットにしているという推測は参考になった。で、ノブヒル周辺域の学校や託児所の警戒強化を上申したんだ」

「そこまでは頼んでいないけれど、良い事だと思う」

 ケイトは敵の狙いが子供であると判断した。ジョンが流した検死の結果では、マクダネル家の1人息子、アダムが最後に死んでいた、との事だ。両親を始末してから、その様を見せつけて殺す。恐らく楽しみを最後に取っておいたというところだろう。美味しいものを後から味わうように。それを思い返すと、ケイトの心は怒りで黒く染まりかけたが、直ぐに平板な感情に戻った。この程度のメンタルコントロールは訳も無いと自らに言い、ケイトはベンチを立って背を向けた。

「おいおい、もう行くのかい」

「夜に仕事があるのでね。そう、仕事は夜にある」

 手を挙げて、ケイトはその場を立ち去った。入れ替わるようにやって来た他のハンターとすれ違っても、挨拶をするでもないし関心を見せるでもない。

「ふむ。随分とお疲れのようですな」

 小さくなって行くケイトを見送り、ディートハルト・ロットナーは改めてマクベティ警部補に会釈した。

 ディートハルトは洒落者だ。初老に入りかけた彼には、歳相応の落ち着きがある。スーツを品良く着込み、片手にはステッキ。綺麗に撫で付けられた白髪交じりの金色髪。何処からどう見ても、ハイクラスが住まうノブレムの人である。警部補は不躾に彼を上から下へと眺め回し、失礼にも首を傾げてみせた。

「何て言うかなあ…。ハンターにも色々居るもんだな」

「ハンターになる条件はありませんよ。この世ならざる者と関わり、生き残れば、誰でもハンターになる可能性がある。警部補、あなたもね」

「俺は、ならねえな。この立ち位置でこの世ならざる者に関わる事は、恐らく意義があると思う」

「家族に何かあれば、その考えも変わるかもしれませんな」

「妻は子供を連れて出て行っちまったよ。とっくの昔にな」

 等々言いながら、2人は肩を並べて歩き出した。互いが情報交換をする為だ。今の所、双方の調査に進展は無い。

 こうして公僕であるマクベティとの連携を、積極的に強めようとするハンターも居る。マクベティは条理と不条理の狭間に居て、向こう側に行きそうな自分達を繋ぎとめてくれる奴なんだと、ディートハルトはジェイコブから聞いた事があった。実際、警部補は話せる男だった。たとえディートハルトが、刑事に変装して聞き込みを行なうと言ったとしても。

「おいおいおい。俺が『刑事の振りして頑張ってくれ』とでも言うと思ったか? って言っても止めはしねえんだろうな。まあ、ほどほどにしてくれ。捕まったら、悪いが助けられん。大した罪にゃならねえだろうけど」

「実際、この界隈で人に話を聞くには、警察の立場が一番都合良いのです。あの事件のお陰で、市民の警戒心はピークにありますからな」

「警察としてもお手上げに近いよ、今回の件は。何しろ検出された唾液以外に、痕跡が一切無い。どう考えても家の何処からも出入りが出来ん。おかげで鑑識が1人、おかしくなりかけた」

「察しますよ。しかしながら我々には出来ないSFPDの領分というものがあります。引き続き頑張って行きましょう。ところで警部補、まだ時間はおありですか?」

「あと1時間というところだが、何だ?」

「ちょっと一緒に寄って頂きたい場所があります。この世ならざる者を考察するにあたり、ハンター達が最も利用する公共施設に」

 言って、ディートハルトは坂の上から見下ろせる大きな施設を指差した。

 サンフランシスコ公共図書館。其処はまさに、地元の歴史の集大成である。

 

大聖堂男子学校

 被害者一家の子供、アダムが通っていたのは、坂上のノブヒルのほぼ頂点に位置する男子学校だった。グレース大聖堂の真裏にあり、如何にも名門の風情を漂わせる幼・小・中一貫の学校は、少年達による聖歌隊がとても有名である。ノブヒルという一等地に家を構えるほどの金持ちで、なおかつマクダネル家からも程近い。教育がしっかりしたプライベート・スクールに通わせるのは然もありなん、である。

 ジョン・スプリングはケイト・アサヒナと同じく、敵の狙いが子供であると踏んでいた。敵が子供に目をつけたのが発端だとしたら、被害者が通っていた小学校から道筋を辿るのが定跡である。無論、警察も既に聞き込みを行なっているはずなのだが、ハンターならではの気付きというものが必ずある。

 しかしながら、これが結構な労力を要する仕事となった。

 何しろガードが固い。この学校では生徒が1人、異常殺人の犠牲者になったのだ。学校の先生から保護者まで、ありとあらゆる面で危機感を丸出しにし、学校に近付く不審者が居ないか血眼で注意を払っている。翻ってジョンは、いち部外者だった。当初は職員全員に話を聞く腹を括っていたものの、まず砦のような学校の中に入る事が出来ない。警察なりFBIなりに、身分を詐称して潜入するという手段も無いではないが、さしあたってそういう準備もしていないジョンは、ハンターでありながら普通の一般人でもある。職員1人1人への聞き込みは到底出来なかったが、それでもジョンは厳しい顔で路地に見張りとして立つ先生の1人を見つける事が出来た。

 が、自分以外にも同じような手段を考えていた者が居たらしい。ジョンの目の前で、先生は日系の男に掴まり、何やら勢い良く話しかけられている。次いで言えば、男はジェイズで見た顔だった。

「恐らく犯人は小学校から目をつけていたと俺は見るね。ここ最近、あんた達は怪しい奴を見ていなかったのか?」

「だから…、そういう事は警察にとっくに話しています。犯人に繋がる情報があったら、私達の方から提供しますから! 怪しい人でしたら、正直言って目の前のあなたがそうなんですが?」

「まあまあ、お2人とも、ヒートアップは無しって事で」

 上手い具合に会話に割り込む事が出来たと、ジョンは内心で快哉を上げた。高まった警戒心は、第三者が介入してやれば一時的にでも解れるものだ。ジョンは質問をしていた男、砂原衛力の肩を叩いた。

「この方も困っているじゃないですか。ここは落ち着いて行こう、エーリキ君」

「エリキだ。エーリキって伸ばすな。ロシア人か俺は。つうかジョンも聞き込みかよ」

「お知り合いですか、この人と」

 先生は相変わらず胡散臭げな目をしていたが、少なくとも会話が成立しそうな気配はあった。ジョンはリラックスした風を装い、まずは自己紹介から切り出した。

「この学校には通わせていないですが、自分達も同じように小さな子が居る身でしてね。つまりあの事件は人ごととは思えない」

 俺は子持ちじゃないぞ、と喉から出かけた言葉を慌てて呑み込み、砂原も同意するように頷いた。

「何時までたっても例の事件が解決しないからね。今日は揃って仕事が休みだったから、一体どうなっているんだろうと思って、様子を見に来たって訳だ」

「…そうでしたか。それは御心配でしょう。しかしSFPDも動いてくれていますから、失礼ながら素人が出る幕は無いと思いますよ」

 素人ではないけれどね、と2人が心の中で呟く。

「それに、近々警備会社と校内外の警邏を契約する予定なのですよ。何時までも親御さんのボランティア活動に頼る訳には行きませんからね。フェアモントと契約しているしっかりした所です」

「ほう、警備会社と。それは安心ですね」

 言って、ジョンは砂原と顔を見合わせた。フェアモント・ホテルの警備会社と言えば、ジェイズで紹介された警備の仕事と同じ所だ。上手くやれば警備会社を通じ、大手を振って小学校に入れるかもしれない。

 それからジョンと砂原は、先生を交えて遠回しながら事件について話し合った。案の定、一般市民の立場では敵についての情報など皆無に等しい。しかしながら、この先生が被害者の近辺に居た1人である事は間違いない。些細な話から、事件に繋がる糸口は見つかるものだ。ハンターでしか察知出来ない要素は、この世ならざる者が絡んでいるならば確実にある。

「先生方も大変だね。あんな事件の後じゃ、生徒だけじゃなく先生の心のケアだって必要だろうに」

「全くです。あれから職員室も随分暗くなったものだ。そんな中で、アダム君のクラスの担任は気丈でしてね。先生方の中では一番傷ついておられるはずなのに、率先して前向きな姿勢を見せておられます。しっかりした方だ」

「担任の先生ですか?」

「カーティス先生です。さすが経験豊富な年配の先生だけあって…」

 其処まで言って、3人は俄かに慌しくなった校内に目を向けた。そして校内から複数の警備員と先生が飛び出してくる。尋常ではない雰囲気を察し、ジョンと砂原は思い出したようにEMF探知機を取り出した。若干ながら、反応がある。

「どうしました!?」

「不審者が校内に居ました! おかしい、正面玄関しか出入り口は無いのに。先生は誰か出てくるのを見ませんでしたか!?」

「いや、私達は見ていませんが…」

 言って、先生はジョンと砂原に同意を求めるべく振り返ったが、既に2人はその場から消えていた。

 

 その女は豹のように素早かった。ただの早歩きが、普通の人間の全力疾走に等しい。女はサクラメント・ストリートの人波へと器用に紛れ込み、隙間を高速で縫って行く。グラント・アベニューを左に入り、更にパン屋の角を曲がり、細い路地を飛ぶような速さで突き進む。最早後ろからは誰も追いかけてこない。女はようやく歩みを緩め、大して上がらない呼吸を宥めてやった。改めて周囲を見渡す。

「随分華人が多い通りだな…」

 そう1人ごち、女は幾分気を緩めて坂を下った。しかしカーニー・ストリートに出る寸前で、その足が止まる。目の前をアジア系の男が遮ってきたのだ。そして何時の間にか、通りの向かいから自分の背後を押さえ込むように、白人の男が近付いて来ている。校内で見た顔ではないし、何しろ服装がフランク過ぎる。そして衣服の下の、戦う為に絞られた体型。女は2人がハンターだと分かった。思わず息を呑む。

「EMFは、あんたみたいな奴にもしっかり反応してくれる」

 砂原は懐のナイフに手をあてがい、女の目を真正面から睨み据えた。ショートの黒髪に、度の入ったサングラスから覗く赤い瞳。年の頃は自分やジョンと同じくらいに見えたが、見た目で年齢など推し量れる手合いではない。

「歯茎を剥いてやりゃ分かる。醜い牙を見せてごらん、薄汚い吸血鬼め」

「昼日中の、この人通りでやり合うつもりか」

「あんたをぶっ殺せば、事件も何もかもが終わりさ。後がどうなろうと知った事か」

「待て、砂原君」

 いきり立つ砂原を、ジョンが女の背後から押し留めた。そして彼女の肩口に付けられたピンバッジを指差す。ピースマーク。

「こいつはノブレムです。矢張り犯人はノブレムの中に」

「それは違う!」

 女は声を張り上げてジョンの言葉を否定した。何時でもナイフを取り出せる砂原に背を向けて。その無防備な挙動は、結果として女への疑念を薄める事となる。これは敵と想定する者の狡猾さから大きく外れた行為だった。ハンター達の認識の変化に気付かず、女は怒りの形相で捲くし立てた。

「私達は共存の道を求める集団だ。レノーラの元に集った私達の中に、そんな輩は断じて居ない!」

「それでは、君は何故校舎の中に入り込んだのです?」

 ジョンに問われ、女は一瞬言葉に窮したが、やがてバツの悪そうに自らの意図を話した。先ほどまでの勢いは何処にも無い。

 マリーア・リヴァレイと名乗る吸血鬼の女が言うには、とどのつまりハンター達と同じく調査の為の潜入だった。吸血鬼の身体能力を活かし、高く聳える遮蔽を乗り越え、不法侵入をやってのけた訳だ。アダムの友人達は送迎をしっかりとガードされていたので、彼らと直接会って話すにはこれしか手段が無かった、らしい。

「思い切ったもんだな」

「子供の前で吸血本能が芽生えたらどうするんです。首をぶっ飛ばすじゃ済ませませんよ」

「私は『月給取り』だ。そんな本能とは最早無縁なのだ。それにこう見えても元教職。子供達に害を与えるような真似は絶対にしないし、させない」

「教職。なるほど、元人間でも、子供殺しへの怒りは共有出来る訳ですか」

 取り敢えず危険は無いと判断し、ジョンと砂原は矛を収める事にした。互いは未だ理解し合っていないが、敵とするものは共通であるとだけ分かれば、それで良い。マリーアもハンター達も、無駄な争いに至るつもりは無い。

 去り際、マリーアが思い出したように問う。

「なあ、他のハンターは既にあの学校へ入り込んでいたのか?」

「居ないはずですよ。スプリングが知る限りではね」

「スプリングって、あんた一人称がスプリングなのかよ」

「変ですか?」

「いや、まるでYAZAWAかオードリーの片割れみたいだなーって思った」

「誰ですかそれは」

 等々言い合いながら立ち去って行くハンター達を見送り、マリーアは少し拍子抜けした。しかしながら抱いた疑念は、彼女の中で少しずつ膨らんで行く。

「妙だな」

 マリーアが呟く。

「ハンターでなければ、どうして私を吸血鬼だと見抜く者が居たんだ。あの学校の中に」

 

サンフランシスコ公共図書館

 サンフランシスコのパブリック・ライブラリは、ニューヨークのそれと並んでアメリカを代表する図書館と言っても差し支えない。

 外見は周辺の歴史ある建築物に溶け込むように地味な作りになっているが、メインゲートをくぐれば、中は現代建築の極みと言える代物だった。巨大な吹き抜け空間の周囲を這う形で、膨大な蔵書がオブジェのようにズラリと並んでいる。それらも3分の1以上は電子化が為されており、電子書籍閲覧と検索の為のPCは、その数600台以上。蔵書の種類も多岐に渡り、かなり広い面積でゲイ・カルチャーを取り扱ったスペースまである。この辺りは如何にもサンフランシスコらしい。

 正に本のテーマパークとでも言うべきこの図書館の中にあって、斉藤優斗はポカンと口を開けていた。冷静沈着を自負する彼であり、大規模な展示にただ圧倒されている訳ではない。何かと言えば、斉藤の祖国・日本の図書館と余りにも閲覧の状況がかけ離れており、コメントに苦しんでいるだけなのだ。

「…うるさい。普通の本屋じゃあるまいし、何故図書館でしゃべり倒しているんだ、この人達は。おまけにホームレス。ホームレスが床の上で堂々と寝てるぞオイ」

 さすがに寝ていたホームレスは警備員に起こされたが、少なくとも騒々しくしゃべるチャイニーズやヒスパニックの団体には、誰一人注意していない。同行していたレイチェル・アレクサンドラに話題を振ると、彼女は不思議そうに首を傾げて言ったものだ。

「いいじゃないさ。公共図書館なんだから、固い事言うなって」

「いや、公共だからこそなんだが」

 ちなみに、アメリカの図書館も日本同様、静粛がマナーである。この図書館がフリーダムに過ぎるのだ。

 とは言え、このような雑然とした雰囲気は好都合だった。何しろハンターは一般市民とは纏う空気が異なる。静寂の中の闖入者にならなくとも済む。2人は数少ない空いたPCの1台に陣取り、早速思うところを検索する事にした。

「まず、現在分かっている事柄を羅列する」

 斉藤が言う。

「手口が残忍に過ぎる事。DNAデータに過去の犯罪者が該当しない事。犯人が女である事。侵入した経緯がどうしても特定出来ない事」

「典型的な迷宮入りのパターンだねェ…」

 レイチェルは唇を噛んでモニタを見詰めた。ただ、それは飽くまで常識に照らし合わせての話であり、存在自体が非常識なこの世ならざる者が相手ならば、必ず自分達で見つけられる糸口がある。否、見つけなければならないとレイチェルは思った。双子の妹が吸血鬼と化し、両親を目の前で殺された阿鼻叫喚の地獄絵図を、レイチェルは片時たりとも忘れた事はない。吸血鬼が絡むと思しきこの事件への入れ込みは人一倍である。

(もしかしたら、妹がこの街に来ているかもしれない。だったらアタシが、この手で)

 暗い期待を心の奥に仕舞い込み、レイチェルは検索のワードを次々と叩いた。

 サンフランシスコの奇怪な殺人事件と言えば、結局迷宮入りになったゾディアック連続殺人があまりにも有名だ。ただ、これは過度に自意識過剰な犯罪者が、センセーショナルにマスコミを煽り立てた程度のものだ。犯人はこの世ならざる者ではなく、単なる愚かな人間であり、此度との繋がりは全く考えられない。他にも様々な単語を打ち込んでみたものの、この件に繋がりがありそうなところまでは行き着かなかった。2人が嘆息する。

「御両人、調べものは何か成果がありましたか?」

 と、後からやって来たディートハルトが、マクベティ警部補を伴って斉藤とレイチェルの隣に座った。警部補軽く手を挙げ、ご苦労さん、と一言。

「色々と調べてもらってありがてえんだが、サンフランシスコでの過去における類似犯罪は、既に調査済みだ。そのうえで捜査状況は泥沼に片足を突っ込んでいる。全く、エリート組織SFPDの名が泣くぜ」

「犯罪事例からの類推が難しいとなると、はて、どうしたものですかな。正直、あのような事件を突如得体の知れない者が起こしたとは思えないのですよ。敵は明らかに手馴れています。そのやり口も然ることながら、故意に人心を恐怖で乱そうとしているかのようだ。猟奇殺人の始まりは、大抵の場合切っ掛けが出鱈目なものです。その出鱈目が繰り返されて、狡猾な犯行手段を身につけて行く。ところがノブヒルの件は、正に闇の百戦錬磨だ」

「なるほど、興味深い考察だな」

「…そうか。もっと昔の事件を調べりゃいいんだ。何しろ敵は、不老不死だもんね」

 レイチェルはディートハルトからヒントを得て、地域限定の類似事件でなく、伝説上の吸血鬼事件まで検索の範囲を広げた。さすがに世界で最も有名なこの世ならざる者だけあって、その文献は膨大かつバラエティに溢れている。が、何れもハンターとしては基礎知識の範囲内であり、ブラム・ストーカーの小説を元にした、空想の中の吸血鬼ばかりが目に付く。吸血鬼が起こした事件にしても、それは明らかに違うだろう、というものが多い。それでもレイチェルは根気良く検索を続け、ある電子化された書籍に目を留めた。

1800年代前半頃の本だ。著者名が無いねェ。タイトルは『吸血鬼との闘争と終焉』」

「随分大げさなタイトルだな」

 とは、斉藤。

 斉藤が言う通り、古めかしい英語の古文体を読み解くと、それは対吸血鬼組織と吸血鬼集団の戦いを綴るという、まるで空想冒険小説みたいな序文が書かれていた。一同は溜息をつきながら古文を訳し、しかし徐々にその表情が真剣なものへと変化して行く。

『吸血鬼に神の祝福は通じない。かろうじて結界だけが行く手を阻む可能性がある。彼らは不敗の不死者だ。心の臓を破壊しても死に至らない。唯一とどめを刺せるのは、悪魔か天使を殺せる武具か、或いは首の切断。この2つである』

 これは、現代のハンターに浸透している認識だ。この本は本物のハンターが遺したものである可能性が高い。彼らは興奮気味にページを捲った。

 そしてがっかりした。乱丁、落丁、虫食い等々、おまけに使い回しが古英語。全てを読解するなど不可能だ。それでもハンターと警部補はかろうじて単語を拾い集め、以下の文意を読み取る事が出来た。

『真なる祖は1人』『100年に一度の大戦』『血の舞踏会』『4度目が最後となろう』『吸血鬼の階級は2種類だが、更に分類が分けられる。詳しくは(欠落)』『L:嗜虐』『C:憐憫』『M:愛』『G:狂乱』『V:筆頭』『R:真祖』『無数の尖兵』『皇帝1人には同胞100人でも比肩出来ぬ』『この戦の勝機は1つ』『さらば教授。我が友』『我もまた宿命』

「で、これが事件に繋がってくる内容なのか?」

 禿げた額を押さえ、警部補がうんざりした顔で曰く。レイチェルは愛想のない顔を少しだけ崩した。

「今はまだ、何とも。でも、これから深く関わるような気がするよ」

「さて、次はこっちの番だ」

 レイチェルに代わり、今度は斉藤がデータベースの検索を開始した。

 斉藤の主眼は、敵の位置の把握にある。悪魔が出現する際、電磁場の異常発生で電子回路や計器類が支障を来たす事は、ハンター達の世界では常識だ。そして悪魔のみならず、悪魔が強く関与する「この世ならざる者」の場合も、実は電磁場の異常状態が有り得る。例えば吸血鬼などもそうなのだが、これは吸血鬼の成り立ちに悪魔が関わっている可能性を示唆するものだ。

 斉藤が調べるのは、電気系の業界紙である。正体不明の電磁場の歪みが電子機器に支障をもたらしたとすれば、その規模によっては紙面の話題として取り上げられるはずだ。実際、業界とは一切関係ないジェイズのマスターですら、1ヶ月以上前にあった電磁場の異常を把握している。そして案の定、業界紙に記載が見つかった。

「何だこりゃ…」

 異常の発生場所を書き写していた斉藤は、あまりの広範囲に渡る状況に驚き、思わずペンを走らせる手を止めた。

 サンフランシスコ湾ハンターズ・ポイント沖合いでの大規模な落雷。同時期のミッション地区大停電。チャイナタウンにおける電子機器の異常。同じくリッチモンドでも異常発生。そして、斉藤が刮目したのは、ノブヒルに関する記事だった。

「ザ・フェアモント・サンフランシスコでエレベータがストップ、だと? こいつは俺のバイト先じゃないか!」

 

ノブレムのアパルトメント

 穏健吸血鬼の集団、ノブレムが居住する公営のアパルトメントはミッション地区にある。ある、というだけで、その正確な所在地は「一応」機密扱いになっていた。一応とは、つまり公然の秘密という意味だ。だからアパルトメントの特定は手練手管のハンターにとって、実のところ難しくはない。それでも敢えてハンターが近付かないのは、ノブレムとジェイズが結んだ非戦協定があるからなのだが、そういう微妙な関係に頓着しない者も中には居る。

 

「で、話に入る前に言っておきたい事があるのさ、オレは」

 言って、ドグ・メイヤーは通された応接室の、丸テーブルを囲む面々を睥睨した。応接室と言っても、ダイニングを兼ねた貧相な部屋だったが。

 目の前に座るのはノブレムの頭目、レノーラ。最も恐ろしい吸血鬼と呼ばれる彼女だが、その格好は使い古しのジャケットに、そろそろ穴が空きそうなジーンズという、全く偉そうではない出で立ちだ。そしてドグに目を向けながら、手元は一心不乱に造花の内職を勤しんでいる。誰も手伝ってくれなかったから、納期を守るのが大変なのよと、彼女はどうでもいい事を言っていた。

 そして左隣にハンターのフレッド・カーソン。スキンヘッドにサングラスと、見るからに悪そうな形相だが、大柄な体をふんぞり返らせて座るその態度は、矢張り悪そうだった。

 最後に右隣。白髪混じりの黒髪を後ろで束ね、腕組み仏頂面を晒すこの男に、ドグは言いたい事がある。

「ジェイコブよう! お前、絶対アポなんか取らないって言ってたじゃあないか! それが何で、オレの先回りをしてこんなとこに居るんだ。まさかお前、オレに気があるのか?」

「俺はゲイに対して然程寛容ではない。今のはジョークじゃなけりゃ血みどろの殴り合いになるぞ。アポを取らないだと? 当たり前だ。非戦協定を結んだ相手を売るほど、俺は落ちぶれちゃいない。しかし君らハンターがノブレムの所在を探るのは、その気になれば造作も無いだろう。で、来たんだ。妙な事にならないかを監視する為に」

「大丈夫よ、ジェイ。事前に知らせてくれて感謝する」

 レノーラは内職の手を休めぬまま、自らの住処に入り込んだハンターに愛想笑いを見せた。嗚呼、本当に結構な美人だこと。と、ドグは内心微笑ましく思ったものの、それはおくびにも出さず、フレッドよろしく胸を逸らし、芝居がかった口調で言った。

「それにしてもレノーラさんよう! ついに人間を襲ったのか!?」

「人間を襲わなくなって200年くらいになるのかしら。私も歳を取ったものだわ」

「…こ、ここは客にコーヒーもださないのか!?」

「水道水でよければ。後、$10貰えれば、牛の血・真空パックを進呈します」

「断然要らねえ! オレの後ろに立つな、吸血鬼野郎め!」

「目の前に居ますが」

「て言うか、他の吸血鬼の皆さんはどちらに?」

「人払いさせてもらったわ、あなた達が危ないから」

「そうなのか!?」

 ドグはいよいよ頭を抱えた。こうしてレノーラを煽り立てて、ハンターの中でも悪目立ちした自分を、ドグは言わば囮にしようと思ったのだ。後から襲いに来るか、吸血鬼を一家惨殺事件の犯人に仕立て上げたい者が接触すれば、それは例の件の犯人に近しい者だ。とは、ドグの見立てである。それはノブレムの中に、ハンターの不審を煽ろうとする不穏分子が居る事が前提条件なのだが、肝心の戦士級や月給取りが出払っている時点で、その目論見は崩れ去ってしまった。キーポイントはジェイコブ・ニールセン。彼がどのようなリアクションを取るかを考慮しなかった時点で、作戦は失敗だ。ドグ・メイヤーは、バテた。

 こうなると、気を悪くしたかもしれないレノーラに、服を脱いで土下座してもあんまり意味は無いし、そもそもレノーラは不機嫌そうには見えない。ドグは芝居を止めて飄々とした地顔を見せ、洗いざらい自らの考えをレノーラに話した。

「そう、不穏分子ね」

 ようやく内職の手を止め、レノーラは組んだ手に細い顎を乗せた。

「そんな者は居ない、とは、残念ながら言い切れない。でも、潔白を証明する為の努力を仲間達は続けている。それだけは分かって欲しい」

「分からねえな。努力だけなら猿でも出来る」

 今迄黙って成り行きを聞いていたフレッドが、おもむろに持参したケースから銃を取り出し、レノーラに向けた。突撃銃。顔を真っ青にして立ち上がったドグとジェイコブを、レノーラは片手を挙げて制した。

「問題無いわ。彼は分かっている。それでは私を殺す事は出来ないと。その上で、銃を向けるのは何故かと問うわ」

「…俺も他の戦士級どものリアクションを見たかったんだけどよ。あんたらに戦争の意思、有りや無きやってな」

 フンと鼻を鳴らし、フレッドは銃口を下げた。対してレノーラは、不思議そうに首を傾げた。

「私はそうでもないけど、他の仲間達はどうかしら。彼らも元人間。銃を向けられれば驚く。恐怖もする。そして銃弾が体にめり込むと少しは痛い。痛いのよ、フレッドさん。そして怒りを覚えて反撃に移るでしょう。それは普通の感性。私達にも普通の感性がある」

「普通か。襲った人間が死ぬまで生き血を啜るのが、普通か」

「残念ながら、それはハンバーガーを貪るのと同じ事なのよ、吸血鬼にとって。それを止めようと提唱する私が、むしろ異常なのでしょう」

「度し難いな、あんたらは。ともかく一家皆殺しのクソ野郎が吸血鬼であるのは間違いねえんだ。ノブレムの中に犯人が居るのか、居ないのか。それが分からねえ以上、こちとらがやる事は1つだ。しばらくの間、このアパルトメントに逗留して、調査をさせてもらうぜ」

 この提案には、さすがにレノーラも呆気に取られた。次いで言えば、ドグとジェイコブも口をポカンと開けてしまった。

「おい」

 しばらく間を置いて、ようやくジェイコブが逼迫した声を上げた。

「正気の沙汰じゃないぞ。そりゃレノーラや月給取りは間近に人間が居ても吸血衝動に耐えられる。問題は戦士級だ。血の渇望を獣のそれでごまかしている彼らにとって、お前は格好の美味しい飯になりかねん。いや、間違いなくなる」

「あんたにゃ聞いてねえよ。どうだ、レノーラ。身の潔白を証明する為の、いい提案だと思うが?」

「戦士級を見くびってはいけない」

 困り果てた顔で、レノーラ曰く。

「人間が傍に居れば、何処かの時点で彼らの欲求に間違いなく火が点く。そうなると私にも抑え切れない。もしあなたが私達に殺されれば、ハンターと私達は完全に敵対する。今まで維持していたバランスが崩壊する。それは困る。だから、その申し出を拒否する」

「フレッド、ノブレムは檻に入れられた猛獣じゃない。自ら作った檻に収まった猛獣だ。その自主性を尊重するんだ。でなければ絶望的な戦争が始まる」

 レノーラとジェイコブの矢継ぎ早な言い様を受け、この申し出は確実に通らないと判断し、フレッドは矛を収める事にした。しかし、とフレッドは思う。ジェイコブの言う自主性とは、随分危ういものだと。それは吸血鬼の良心に期待するだけの、ロープ一本の上を歩くようなバランスでしかない。では、もしノブレムの中に真の敵が居た時、どうやって落とし前をつけるつもりなのだろう。

(レノーラの言う共存など、夢物語に過ぎないのかもしれんな)

 フレッドの思惑を知ってか知らずか、レノーラは険しくなりかけた顔を和らげ、言った。

「仲間内でも、あの事件には怒りを覚えている者が居るわ。そういった者と連絡を取って、連携してみるのもいいかもしれない。戦士級と行動を共にするのは勧められないけれど、月給取りならば。その者と絶対に諍いを起こさないと誓って貰えるなら、私から連携行動を奨励する」

「ところで、最後に聞きたい事があるんだが」

 重くなりかけている空気を薄めるように、ドグが軽い調子でレノーラに話しかけた。そして水の入った小瓶をテーブルの上に置く。

「これは?」

「聖水。悪魔にとって、負の特効薬だ。もしもだ、もしも仲間内に悪魔に乗っ取られている奴が居たとしたら、こいつで判別出来るぞ。差し当たって牛の血に混ぜてみる事をお勧めしよう」

 レノーラは瓶を手に取って軽く揺らし、しかし首を横に振る。

「大丈夫よ。悪魔は吸血鬼に憑く事は無い。悪霊に憑依もされない。人間と違って、霊的に汚らわしい魂だそうよ、私達は。悪魔にまで汚らわしいと言われるなんて」

 レノーラは、寂しく笑った。

 

ノブヒル・マクダネル家

 事件が起こった家は、ワシントンストリート沿い、坂の頂上付近にあった。

 メインストリートから外れたこの界隈は、欧州風の建築様式で統一されている。静かで上品な佇まいは、先の残忍極まる事件の残滓すら感じさせなかった。しかしよく見れば、其処彼処で警察官が警邏をしているのが分かる。未だ犯人の足取りすら掴めない状況下で、この通りは密やかな緊張感に包まれている。

 マクダネル家は当然ながら封鎖されていた。事件発覚直後はおびただしい数の警察官と野次馬で埋め尽くされた家の前も、今は見張りの警官が誰も立ち入らないように2人ほど立っているだけだ。

 ジェノヴェーゼ・ゴッティーヌは、その家に敢えて侵入し、敵についての情報考察の一助にしようと考えていたのだが、当然ながら玄関から入る事は出来なかった。彼ぐらいの力量ならば、警官2人相手に正面突破も易いものだが、勿論そんな事をするつもりはない。ジェノヴェーゼは口笛を吹きながら、警官の立つ前を素通りした。ご苦労様、と声を掛けると、警官達は軽く頷き、胡散臭そうな目を自分に向けてくる。

「その勘は大事にした方がいい」

 と、警官に聞こえぬよう、ジェノヴェーゼは呟いた。彼は筋金入りのイタリアン・マフィアだった。どう取り繕っても、自身が醸し出す血の匂いは消せないだろうと、彼は自覚している。あまり警官の前に姿を出さぬ方が良いかもしれない。尤も、ブラックコートに白手袋、首に包帯という出で立ちは、如何にも尋常ではなかったのかもしれないが。

 ジェノヴェーゼは角を曲がってから、ひょいと家と家の隙間に入り込んだ。普通この辺りの建物は家屋同士がピタリと密着しており、ほとんど蟻の這い出る隙間くらいしかない。しかし其処は、人1人がかろうじて入り込めるだけの余裕がある。ジェノヴェーゼはコートを畳んで地面に置き、両手足を壁に押し付けた。

「私はジャッキー・チェンか?」

 ジェノヴェーゼは苦笑しつつ、手足の支えを利用して壁をよじ登った。程なくして家屋の上に出る。其処から身を潜めて家々の屋根を伝い、彼はあっさりとマクダネル家の屋上に、誰にも気付かれずに辿り着く事が出来た。屋上はちょっとした庭園だ。ここであの家族は庭いじりや日光浴を楽しんでいたのだろう。今は手入れがされておらず、花々が萎れて物悲しい。犯人はここから侵入したのかとも思ったが、ジェノヴェーゼはその考えを打ち消した。SFPDははっきりと「出入りの形跡無し」と言い切っている。こんな分かり易い位置を見逃すはずがない。

 天蓋の鍵を外し、ジェノヴェーゼはマクダネル家の中に音もなく侵入した。ここは3階だ。来客用の寝室に物置。2階に下りる。夫婦の寝室、子供部屋、書斎。1階。EMF探知機をスイッチオン。

 玄関からバスルーム、リビングを巡り、テーピングで封鎖された犯行現場、ダイニングルームにテープの隙間を縫って入り込む。現場は綺麗に片付けられていた。テーブルとチェアは一切動かされておらず、ただ、死体の位置を黄色のテープで縁取った様が、やけに浮いた感じがする。今のところ、EMFに反応は無い。念の為、ジェノヴェーゼは窓べりに硫黄の痕跡が無いかどうかを確かめてみた。悪魔が出現した際、その立ち位置にどういう訳か硫黄が残る事が多い。仮に吸血鬼を装った悪魔が犯人だとしたら、と思ったが、やはり何も無かった。硫黄などという場違いな物質を、SFPDの優秀な鑑識が見逃すはずはないだろう。

 落胆の面持ちで、ジェノヴェーゼは何気にEMF探知機を見た。そして少しずつ目の色が変わる。針が若干ながら、反応を示していたのだ。探知機を八方にかざし、針の振り幅が大きい箇所を丹念に探り、ジェノヴェーゼは廊下の突き当たりに辿り着いた。決して大きくはないのだが、其処で針は一定の値を示している。壁をくまなく叩いてみたものの、特に変わった様子はない。間取りから考えると、ここは通りに面した鉄筋コンクリートだ。ジェノヴェーゼは色々と考えを巡らせてみたものの、1つの結論を出さねばならない事に頭を痛めた。階段に腰掛け、ため息をつく。

「あれが出入り口だとでも言うのかい…」

 実体の無い悪霊ならば、壁抜けという手段も可能だろう。しかし犯人は呆れるほど大量の血を、痕跡余さず持ち帰っている。否、飲み下している。容器に入れた血を諸共に、壁抜けなど出来ないのだから。

 首から唾液が検出された点を鑑みれば、現状において吸血鬼の線が妥当なのだが、普通の吸血鬼にそんな芸当は出来ない。では、普通ではない吸血鬼だったら、どうだろう。異能力が開花するという、皇帝、或いは女帝級。自分を含め、多くの現代ハンター達は、彼らの本当の恐ろしさを分かっていない。伝説上の吸血鬼には、霧に化けたりする奴も居た。安いファンタジーでもあるまい。そう思ってみたものの、当のファンタジーがいよいよ現実味を帯びてきた。

 それにしても。と、ジェノヴェーゼは見て回った部屋を思い返した。ここは品の良い家だ。ゆったりと間取りが取られていて、首切り館である点を忘れれば、実に居心地が良い。こんな高級住宅地に一軒家を構えられるなら、もっと豪勢に飾り立てる事も出来ただろうが、家主の控えめな人柄が伺える。怨恨の線は無いと言うが、それはこの家を見ればジェノヴェーゼにも理解出来た。

 ならば何故この家の人間なのだろう。ジェノヴェーゼは思う。マクダネル家を狙ったのは、何らかの理由があるはずだ。犯人とマクダネルの接点は必ず何処かにある。通りすがりの快楽殺人鬼が、ここまで丹念な、劇場的な殺し方をするとは考え辛い。劇場的と言えば、見て下さいと言わんばかりの惨状も違う意味でおかしい。こうして大勢の耳目を集め、犯人は真の狙いを遂行しつつある。今はその途上なのだ。

 ジェノヴェーゼの口角が歪んだ。コールタールのように真っ黒な性根が、鎌首をもたげてきたのが自分でも分かる。善良な家族を楽しみながら暴虐の嵐に巻き込んだそいつは、面白い奴だと心底思う。この殺人は何らかの形で継続するのだろう。そして何れ自分も「それ」に遭遇すると、ジェノヴェーゼは確信していた。ならばジェノヴェーゼには、「それ」に聞いてみたい事がある。

 果たしてその血は、旨かったのかい?

 

ノブヒル・夜

 この近辺の駐車場は料金が高くて仕方がない。しかし路駐をしていては警邏中の警官が挨拶に来るのは必至である。風間黒烏は刻々と跳ね上がっているだろう料金メータを気にしつつ、ランドクルーザーの後部座席に深々と身を埋め、その目を監視カメラのモニタに釘付けていた。

 風間はガレッサでの肉体労働が終わってから、こうした犯行現場付近の張り込みを、ほぼ毎日の日課にしていた。もしも犯人が再び仕掛けてくるならば、矢張りこの近辺を狩場に選ぶ可能性がある。異常犯罪者の心理など知りたくもないが、往々にしてそれらは根城から然程動かないものだ。必ず、何か違和感のあるものがモニタに映ると風間は信じていた。そうでもなければこの事件は、糸口になる手掛かりがあまりにも少ない。

「しかし、そろそろ辛ぇなあ…」

 呟き、風間は建設現場の重労働で疲労した筋肉を、狭い中でのストレッチで解してやった。昼は肉体労働、夜は夜遅くまで見張り。鍛えた体と若さだけで、この過酷な仕事を繰り返すのは限界に近い。何がしかの成果があれば気力で持たせられるだろうが、今のところ何もおかしなものは映っていない。それでも風間は、眠い目を擦ってモニタを凝視した。

 彼が狙っている被写体は、勿論犯人でもあるのだが、他のハンター達が気にしていなかった者も含まれている。と言うより、その者を見つけ出すのが主たる所である。リーパーだ。吸血鬼専門のハンター、凄腕の殺し屋。

 リーパーの詳細については、ジェイコブですらよく分かっていない。リーパーが彼に連絡を取る手段は、基本的に手紙のみである。その返事を出す際は、指定された場所に手紙を置き、立ち去る。一度興味本位でその場を張ってみた事があったのだが、監視の類は完全に見切られてしまう。そして次の手紙に、今度おかしな事をしたら連絡を絶つと書かれていた。と、ジェイコブは風間の問いに苦笑を交えて語ったものだ。

 犯人による次の凶行を止めねばならない。それはとても大事なのだが、風間はそれを分かったうえで、リーパーの動きに細心の注意を払っていた。彼はジェイズの影響下に無く、単独で突出する可能性大だ。糸が切れそうなハンターとノブレムの関わり合いの最中にあって、全面対決への引き金となりかねない。

 しかし、と、風間は思う。対決への展開は今現在、澱みなく進行しているような気がする。この展開を望む何らかの存在が、自分達を誘導しているのだとしたら。風間としては、唾棄すべき状況だった。人も、多分吸血鬼も、いいように弄ばれる操り人形ではないのだ。風間は今一度腹を括り直し、モニタを見つめた。そしてようやく、画面に変化が訪れた。

 マクダネル家の前に、警官2人ともう1人、誰かが立っている。そろそろ明日になろうというこんな時間に。その者はコートの後姿が見えるだけだ。性別不明。警官達は特に警戒していない。風間は食い入るように成り行きを見守った。

 その者は玄関前でしゃがみ込み、それから立ち上がって一礼した。警官がラフな敬礼で応える。その者が立ち去った後には、一輪の花が置かれていた。

「何だ。心ある市民の追悼かよ」

 風間は拍子抜けして背もたれに身を預け、しかしすぐさま乗り出す羽目となった。

 その者は、別のモニタに映っていた。丁度坂を下るところだ。ノブヒルからすぐ傍のチャイナタウンに向かっている。一瞬片手から何かを取り出すのが見えたのだが、風間にはそれが鎌の形に見えたのだ。風間はそこに、静かな戦意を見た。

 そいつは確実に何かを狙っている。憎むべき犯人なのか、或いはリーパーなのかは分からない。何れにしても食い止めねばならないと心に決め、風間はランクルから飛び出して行った。

 

 風間が向かった先とは正反対の場所、マクダネル家近辺の高級住宅地を、マティアス・アスピは注意深く歩いていた。何しろ警官に1回でも職務質問を受ければ、自分はあっという間に要注意人物としてマークされてしまうだろう。そんな事で今後の活動に支障を来たしてはたまらない。

 今日に至るまで、マティアスは警邏の目を上手く回避している。裏街道を歩くハンターならではだが、一時の騒然とした街には静寂が戻っており、勤め帰りの遅い帰宅者がちらほら居る。マティアスは彼らに上手く溶け込めていた。

 マティアスは何人かの他のハンター同様に、犯人が子供の居る家庭を狙っていると読んでいた。仕事明けの夜に、こうして道を歩きながら、犯行現場近辺の子供の居る家庭をリストアップするのが目的だ。人の目に注意しながらの調査は大いに時間を費やしたものの、取り敢えず現場から半径100mの範囲内に、20世帯強というところだ。アダム・マクダネルくらいの年齢となると、もう少し的を絞り込めるかもしれない。

 マティアスは手近の公園で小休止を取った。ベンチに腰掛け、ノブヒルの地図を広げる。チェックを入れた家々の道筋を指で辿り、その全てに警戒を張るのはひと苦労だと嘆息をつく。しかし、それでもやらねばならない。かつて医師を志した者として、ハンターとなった今でも忘れてはいない矜持を、マティアスは常に抱いている。人の命を護る。シンプルだが、何よりも大切だ。

 すう、と、ぬるい風が吹いた。マティアスは地図に目を落としたまま、額にかかる髪をかき上げ、ふと動きを止めた。その直後、背中に虫がぞろぞろと這い上がってくるような錯覚を感じ、やがて全身がガタガタと震え出した。突如の事でマティアスは狼狽した。意思と切り離された体が、獣の本能で恐怖の雄叫びを上げている。

 発作的な震えは直ぐに収まったが、ぽたぽたと地図にかかる水滴を見て再び驚く。とんでもない量の汗を、今自分は全身から流している。

 ぽた。ぽた。ぽた。

 汗が流れ落ちる一定のリズムに合わせ、真正面から何かが徒歩で近付いて来た。それが何かを確認したかったのだが、そんなものは見たくないと、関節という関節が必死に抵抗してくる。それでもマティアスは、ハンターの危機意識で動かない体をねじ伏せ、懐に手を差し込んだ。内ポケットには霊符がある。マティアスは霊符を握り、福音を唱えた。邪なものからこの身を護る祝福の言葉を。

 正面から来るものは、一旦動きを止めた。しかし。

「あは」

 それは短く笑った。女の声だ。女はあっさりと、マティアスが張った結界の範囲内に足を捩じ込んで来た。圧倒的な力の差が彼我にある。いよいよ女は、俯いたまま歯を食いしばるマティアスの間近に立った。見下ろす格好のまま、女は地図に見入るべく、深く背中を曲げてきた。吐く息がマティアスの顔にかかる。嫌な匂いだった。甘ったるくて、それでいて腐ってもいるような。

 女が地図に爪を当てた。血のように深い色のマニキュア。マティアスがチェックした内の、一軒の家を指し示す。

「其処はもう、調べなくてもいいのよ」

 淫靡な、まとわりつくような声で女は言った。

 

 マティアスが「それ」に出くわす、30分ほど前の事。

 ホテル・ザ・フェアモント・サンフランシスコは、丘の上の街、ノブヒルのほぼ頂上に位置している。ホテルとしての格式においては、場所と同じくサンフランシスコの頂点の1つだ。白亜の豪華な欧州建築。大理石をふんだんに使ったロビー。まるで王侯貴族がパーティーを開いているようなレストラン。シャンデリアが輝く広い間取りの通路。豪勢なそれらに比して、落ち着いた雰囲気のゲストルーム。スタッフサービスは世界トップクラス。

「…何時かお金を貯めて、スウィートで家族水入らずのひと時」

 老いた両親を連れた女性が、はちきれそうな笑顔でエントランスをくぐる様を眺め、ケイト・アサヒナは自嘲気味に笑った。その女性の幸せな姿は、自分も歩んでいたかもしれない人生だったのだろう。家族全員を失った今となっては叶わぬ話で、今は警備員の姿でノブヒルの夜を見詰めている。これが現実だ。

 フェアモントは、ノブヒルのほぼ中心に位置している。事件が起こった現場からも、そう遠くはない。だから日銭を稼ぐ次いで、警戒の網を張るにはうってつけの場所だとケイトは考えていた。

 が、これが思ったほどには効果的ではなかった。何しろ現場から近いとは言え、距離がある。いざ事が起こっても対応が遅くなりそうだ。何より仕事をしながらの警戒であるから、注意力はどうしても散漫になってしまう。これならば昼に仕事をして、夜に張り込みをした方が良かったかもしれないと、ケイトは溜息をついた。

「ケイト、そろそろシフト交代だ。俺達は1時間後にロビーだと」

 警備帽を目深に被った男が、後ろを指差しながら近付いてきた。ハンター仲間の斉藤優斗だ。他にも夜のフェアモントで働いているハンター達は、かなり多い。

 2人は連れたって、詰め所に入った。初夏とは言え夜になれば肌寒い外に比べれば、詰め所の中は随分快適だ。パイプ椅子に座って熱いコーヒーを片手に、ケイトは先ほどの思うところを斉藤に話した。

「まあ、確かに。しかし闇雲に動き回っても、敵の出方が分からないではどうしようもない。こちらも小手調べ以上の仕事は出来ないだろう」

「悠長な事を言っていると、また人が死ぬわ」

「落ちつけ。先走ればハンターだって死ぬ。まずは出所を突き止めるんだ。思い当たる節も、無いではないが…」

「何処?」

 斉藤は、公共図書館で見た文献の内容を思い返した。電磁場異常の発生した幾つかの場所。その内の1つは。

「…やめとこ。まだ確証が無い。しかし薄いな、アメリカのコーヒーは。伊達にアメリカンとは言わないものだ。良かったら今度、マシなコーヒーでも飲みに行こう。ユニオンスクエアの近くに良い店を見つけた」

 それにはケイトは無反応だったので、斉藤は苦笑いしつつ残りのコーヒーを呷った。そして同時に、2人の懐から異様な電子音が鳴り響く。部屋の照明が2、3回点滅する。

「何だ!?」

「EMFだ! 何て音を出す!」

 斉藤はEMF探知機を取り出し、メータが見た事も無い位置まで振り切られている様に絶句した。

 2人が慌てて外へと飛び出す。外の景色に別段変わった様子は無い。しかし常人では計り知れない異常事態が発生したのは間違いない。斉藤とケイトは、しばらくホテルの周囲を見て回った。無論EMFを作動させたまま。だが、あの大きな反応の一度きり以降、メータは何も知らせはしなかった。

 そうこうする内に、2人の携帯が同じタイミングでメールの着信音を響かせる。送信者はマティアス・アスピ。文面は無い。ただ、タイトルに「H」とだけ書かれていた。

「Help」

 呟くが早いか、ケイトは猛然と現場方面へ走り出した。恐らくこのメールは、事件に関わっている他のハンター達にも流れている。勘の良い者は彼女同様、動き出しているだろう。

 遅れて斉藤も走り出し、ふと背後を顧みた。美しいフェアモントが佇む壮麗な景色を、固唾を呑んで見詰める。

「まさか、ここがそうなのか?」

 

「そうすると、どれだけの仲間が来るの?」

 マティアスの肩が大きく揺れる。女は面白そうに、懐に差し込んだ手元を指差していた。携帯電話のメールを拡散送信させた事は、最初から分かっていたらしい。

 マティアスは、未だまともに顔を上げられずにいた。女はすぐ間近に面を寄せたままで、このまま上向けばまともに目を合わせてしまうだろう。目が合った瞬間に、自分の首は文字通り飛ぶ。全く根拠は無いが、そう思わせるだけの異様な存在感を、女は全身から発していた。1人だけでは、この状況では、全くどうにもならない手合いだ。誰でもいいから、早く来てくれ。そんなマティアスの思いを他所に、ようやく女は彼から少し距離を置いた。弾かれたように顔を上げると、女は黒ずくめのコートを着ているのが分かる。腰まで伸びる見事な金色の髪。無防備な背中を、女はマティアスの前に晒していた。が、それは好機でもなんでもないと、この女に遭ってしまったマティアスは重々承知している。

「反応が遅いわね、貴方達。200年過ぎて、ハンターとやらも勘が鈍ったのでなくて?」

 詠うように、女が言った。

「昔は楽しかった。もっと必死で、粒揃いだったわ、アーマドの男達は。教授、貴人、反逆者。アーメンと唱えながら、私達に立ち向かう戦士達。そして私は、バラバラになった骸に向けて十字を切る。アーメン、と」

「貴女がアダム・マクダネル君を殺したのですか」

 心の底から力を呼び起こし、マティアスが声を振り絞る。

「殺したのではない。あの子の命は、彼の命になったのよ」

「どういう意味です」

 次の瞬間、女は端折ったフィルムのように右手を肩口に上げていた。パン、と乾いた音が彼女の掌から響く。指を開くと、掌の上にひしゃげた銃弾。女は銃弾を摘み、何でもないように弾き飛ばした。

 それは直線距離50mから拳銃で狙撃したケイトの頬を掠め、飛びぬけて行った。ケイトは息を呑み、それでも本来の真骨頂である接近戦に持ち込むべく、突撃の一歩を踏み出す。その途端、女は目の前に現れた。

 反射的に至近距離から引き金を絞り続ける。しかし拳銃弾の運動エネルギーは、全弾が女の胴体に命中しているにも関わらず、全く通用していない。逆に首根を掴まれ、ケイトの体はふわりと宙に浮いた。そしてマティアスの隣に座る自分を知る。我が身に何が起こったのか、全く分からない。ケイトとマティアスは、互いの顔を見た。2人の表情に恐怖は無い。ただただ、惚けているように見えた。

 と、ケイトの顎が両手で挟まれ、ぐいと正面に向けられた。女が真正面から、ケイトの顔を覗き込んでいる。

「いいわ。気に入った。貴女、凄く好み」

 上ずった声を女が漏らす。髪同様の金色の瞳は爛々と輝き、しかしそれは狂気の光を宿していた。その狂気が、女の美貌を歪んだものにしている。女は歯を剥いた。普通の真っ白な歯と、それに覆い被さるような、ぞろりと揃う牙。女は吸血鬼だ。しかも、間違いなく女帝級の。

 と、携帯の着信音が鳴る。ケイトとマティアスのものではない。女はポケットから携帯電話を取り出し、己が耳に当てた。

「あら、失敗だなんて、あなたらしくもない。あの女の側にも、中々のやり手が居るみたいね。結局あいつの目論見通りにはいかなかった訳か。それはそれで結構。搦め手は苦手ですもの」

 女は携帯電話をたたみ、ケイトに向けて片目を瞑ってみせた。

「一通り事が済んだら、迎えに行くわ。それから時間をかけて、心行くまで愛し合いましょう。その時を楽しみにね」

 ケイトの背筋に怖気が走る。

 踊るように身を翻し、可憐な少女のようにスキップをしながら、女が去って行く。マティアスは轟然と立ち、女の背に向けて言った。

「名前を言いなさい。貴女の名前を」

「私、エルジェよお」

 振り返りもせず、女はその姿を霧のように掻き消した。

 入れ替わりで斉藤が公園に駆け込んで来る。他の者も来ているかもしれないが、もう遅い。惨殺事件を引き起こした犯人との、接近遭遇は終わったのだ。

「発砲しただろ。まずいぞ、警邏の警官がこっちに向かって来る。早く逃げるんだ」

 斉藤がマティアスとケイトを急きたて、公園から撤収する。その道すがら、マティアスは今一度地図を開いた。エルジェと名乗る吸血鬼が指差した家を、食い入るように見詰める。

(アルバート・ジェンキンスの家。息子の名はラッド。6歳。大聖堂男子の生徒ですか…)

 エルジェは自分が次に狙う場所を、わざわざマティアスに示してきた。何の意味があるのかは分からないが、対策を講じねば、この家の者達は確実に皆殺しにされるだろう。

 

ジェイズ・ゲストハウス

「ふむ。エルジェ。エルジェという名の吸血鬼か。何処かで聞いた事があるような、無いような」

「すみません。其処はしっかりして欲しいところなんですけど」

「頑張って思い出して。私は、あの化け物に求愛されたのよ」

 マティアスとケイトに詰め寄られ、ジェイコブはいよいよ困り果てたように首を傾げた。命からがらジェイズに戻ってきただけに、2人の切羽詰り具合も並ではない。ジェイコブは気を取り直し、ポンと手を打った。

「だが、アーマドという名だけは知っている。詳しい事は全く分からんが、大昔に壊滅したイングランドの対吸血鬼組織だそうだ。しかし、アーマド時代の吸血鬼か。どえらいもんを相手にしているな、君達は」

「まるで人事ですか」

 呆れたようにマティアスが言う。しかしジェイコブが何となく安堵しているのも、分かる気がした。何しろ犯人は、ノブレムの吸血鬼ではなかったのだから。

 

 こうしてハンター達は、調査を通じて様々な事を知った。しかし確定したのは、惨殺事件の犯人の名前くらいのものだ。

 それでも、幾つかの糸口となるものは見えてきている。敵の次の狙い。小学校。ザ・フェアモント・サンフランシスコ。

 そして彼らは、何れ知る事になる。自らの戦いが、実は過去から連綿と続いていたのだと。

 

 

<H5-1:終>

 ※風間黒烏さんには、後日特殊リアクションに繋がるアドレスを連絡致します。

 

 

○登場PC

・ケイト・アサヒナ : ポイントゲッター

 PL名 : TAK様

・ジェノヴェーゼ・ゴッティーヌ : ポイントゲッター

 PL名 : 卯月様

・ジョン・スプリング : ポイントゲッター

 PL名 : ウィン様

・ディートハルト・ロットナー : ポイントゲッター

 PL名 : みゅー様

・フレッド・カーソン : ポイントゲッター

 PL名 : 白都様

・レイチェル・アレクサンドラ : ポイントゲッター

 PL名 : 森野様

・砂原衛力 : スカウター

 PL名 : M原様

・斉藤優斗 : スカウター

 PL名 : Lindy様

・マティアス・アスピ : ガーディアン

 PL名 : 時宮礼様

・風間黒烏 : スカウター

 PL名 : けいすけ様

・ドグ・メイヤー : ポイントゲッター

 PL名 : イトシン様

 

 

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ルシファ・ライジング H5-1【敵は無慈悲な夜の女王】