<ル・マーサ本部>

「随分と思い切った事をするわね」

 2階に割り当てられた自身の部屋から、廊下に人気が無い事をさりげに確認し、エリニス・リリーは扉を閉めた。そして溜息をつき、中で控えるシスター服の『男』に言う。

「アナタも前回の件で要注意人物よ。潜入は既に見破られていると見ていいわ。このまま居続ければ、アナタも軟禁されるかもしれない」

「あらそんな、嫌ですわ。私、敬虔なシスターですのに」

「だから表面上を取り繕っても無駄なのよ。彼らは力を増す一方なんだから」

 額を押さえるエリニスを観察し、アンジェロ・フィオレンティーノは安堵した。こうしてエリニスが言うところの『見破られた潜入』を敢行するにあたり、アンジェロが懸念していたのは他でもない、エリニス自身だった。

 こうして見る限りでは、彼女の自我は未だ崩壊していない。ル・マーサに所属していながら、心の距離を辛うじて取っている、という印象だった。そのお陰でエリニスと連絡を取り、マーサ本部に入り込む隙を作って貰えた訳だが、彼女は一から十までアンジェロの侵入には反対の立場を取り続けている。

「多分知っているとは思うけど、望む望まないに関らず、アタシとサマエルの心は繋がっているわ。フレンドとはそういう立場なのよ。何を目的としているのかは分からないけど、もしもアタシをここから連れ出そうとしてくれているのなら、多分それは無理」

「元より承知だよ。しかしエリニスさん、それでも僕は貴女を助けたい。前の時も貴女は僕に色々と気を使ってくれて、安全にやり過ごす事が出来た。つまり恩義があるって訳だ。恩に報いるのがガレッサ・ファミリーの鉄の掟だからね」

「助けるって?」

「取り敢えず傍に控えさせてもらうよ。貴女が何者かに心を盗られないように」

 アンジェロは笑って、簡素な椅子にくつろぐ格好で座った。そして脇から出された中国茶を、礼を述べて啜る。

 が、危うくお茶を吹き出しそうになった。エリニスは扉の近くに居て、茶の準備などしていない。アンジェロはカップを小刻みに震わせながらテーブルに置いた。そしてお茶を出してきた者を見ないようにしつつ、それでも言葉を搾り出す。

「…いきなりですか、サマエルさん」

「今は比較的王如真です。御主様も時折お休みになりますから」

 如真はアンジェロの揺れる肩を、軽く叩いて宥めつつ、自らは無情にも彼の真正面に座った。その頃にはエリニスも顔面を蒼白としながらも、アンジェロの傍に立つ。恐怖と困惑と憤りの混ざった複雑な2つの視線を受け、如真は柔和に微笑み、聞いてきた。

「どうですか、カロリナ・エストラーダさんの具合は。随分と心的に不安定な状況でしょう?」

「カロリナは安全な場所に居るよ。絶対に手を出せない安全な場所にね。彼らが必ず守り通してくれる」

「絶対に手を出せない、というのが何を根拠としているのか、僕には今ひとつ分かりかねますね。それに守る、というのも理解し難いです。彼女を僕は、ただ助けてあげたいだけなのですから」

 アンジェロの断言に対し、如真は本当に分からないという風情で言った。たまらず横からエリニスが叫ぶ。

「カロリナを利用するだけ利用しておきながら、また使い捨てるつもりなの!? 彼女の居場所をいとも簡単に奪った分際で!」

「その旺盛な愛情表現は好ましいです。実に人間らしい。彼女は御主様に救いを求め、御主様もそれに応えようと御心をくだいていらっしゃいます。先程アンジェロさんが報恩の旨を言っていましたが、ならばフレンドも御主様に何かお返し出来るよう、努めるべきだと思います。少なくとも彼女の半分は、それを強く望んでいるはずなのですよ…失礼、電話が入りました」

 如真はポケットから携帯電話を取り出し、発信者の名を確認した。彼の瞼が細まり、口元が弓なりに曲がる。笑顔ではあったが、2人にはとても歪なものに見えた。

「身内からです。僕はこれにて失礼します。アンジェロさん、どうかごゆっくりなさって下さい」

 言って、如真はその場から姿を消した。

 

ル・マーサ本部 7日後

 そしてアンジェロは、本当にゆっくりして行く羽目となった。

 早い話、ここから出る事が出来ないのだ。玄関から、裏口から、或いは塀を乗り越えて、外に出ようとした事は度々であったものの、その都度何時の間にか屋敷の中に辿り着いてしまう。堂々巡りを心理的な面から強制させられているようなもので、これもサマエルが自分に施した歓迎という奴なのだろう。大層迷惑な話であったが。

 こうしてサマエルは、ハンター陣営に対して積極的な干渉を試みつつある。それが何の意図をもって行なわれているのかは、ようとして知れない。唯一つ言えるのは、サマエルが本格的に行動を起こそうとする、これは前兆なのだ。

 ともあれアンジェロは7日間、気まずい時間を過ごす羽目となった。真っ当に話が出来るのはエリニスくらいで、他はカロリナ、マックスの奪還を御主様に命じられて意気軒昂のフレンド達である。テンションが違い過ぎて、コミュニケーションも取れたものではない。

 ただ、この滞在で分かった事が幾つかある。件の奪還作戦を準備するマーサの人員は、年齢性別雑多な凡そ50名で、彼らはここ最近、ほぼ寝食を本部で共にしている。ただ、本部以外にもフレンドは相当数居るらしい。人数は定かでなかったが、サンフランシスコが封鎖された状況下にあって、益々数を増やしていると見ていいだろう。人の不安な心に付け入るやり口は、カルトと大して変わりはしない。

 本部の空気は実に明るかったが、その明るさは日がたつにつれ、少しずつ好戦的な色合いを持ち始めている。その違いをマーサの部外者であるアンジェロはヒリヒリと感じていた。つまり、もう直ぐ奪還作戦が始まろうとしている、その証左である。そして7日目となって、状況が著しく変化した。

 ほぼ本部に引きこもり状態だったサマエルが外出したのだ。何でも人に会うらしい。これにて本部は、超大物が不在となる。サマエルにとっては1mも1000kmも同じ事で、物理的な距離感を度外視出来る。本部から離れたとは言え、何か異変が発生すればたちどころに戻る事が出来よう。

 しかし現実として、サマエルは本部に居ない。その空隙の大きさを、今の本部に居る者達では知る由もなかった。

 

「こんにちは。今日は良い天気ですね」

「ええ、こんにちは。今日は良い天気です」

 マーサ会員の男女が、本部周辺の通りで挨拶を交わす。常軌を逸した状況に陥りつつあるサンフランシスコにあって、マーサ本部の牧歌的な雰囲気は奇妙そのものと言えた。しかしながら彼らの挨拶は、醸し出す雰囲気ほどには柔らかくない。

 彼らは目でコンタクトしつつ、1人の老婆の後を絶妙な距離を置いて追随した。その老婆、バーバラ・リンドンに関し、特にフレンドの階級にある者は、そのほとんどが会った事が無いにも関らず、全員顔を知っている。ハンターはマーサにとって敵性的な存在であるが、その中でもバーバラは御主から明確な『敵』として設定されている。既に彼女は天使を2人も抹殺しており、彼ら言うところの『救いようの無い者』であった。

 その彼女が本部周辺を徘徊しているとの情報は、全てのフレンドに速やかに行き渡った。討伐の対象ではあるものの、これと言って敵対的行動を示していない者をどうこうする事は、さすがにフレンドでも出来なかった。よって、今この場は彼女の様子を伺うのみである。

 そうしてバーバラは時折立ち止まったりしながらも、マーサ本部をほぼ一周する形で歩いた。彼女の動向を見定めつつ、2人のフレンドも尾行を続ける。バーバラは、最後に連れ合いらしき複数の者達のところで立ち止まり、くるりと振り返った。フレンド達も立ち止まり、顔を見合わせ、その後絶句する。

 その場に居たのは、敵性存在であるハンターのエーリエル・レベオン、ドラゴ・バノックス。裏切り者のアンナ。本来、フレンドが奪還に向かう最重要の標的、マックスとカロリナ・エストラーダ。

「わたしの顔を覚えている? この間抜け共!」

 エーリエルが目前の2人はおろか、本部内のフレンドにも届けとばかりに大音声を発した。

「何時までたっても来ないから、こちらから来て差し上げたわ。ターゲットも全員お越し頂く大盤振る舞いよ。さあ、堂々とかかって来い。自らを正義と信じるならば!」

 その声を受け、2人のフレンドは一旦本部に退いた。フレンド達は意思疎通を各々が自在に共有出来るのだが、この時ばかりは全員揃って錯乱した。彼らが攻め込む手はずだった展開が、全く逆の状況へと持ち込まれてしまったのだ。そしてこれこそが、ハンター達の狙いであった。

「向こうから来た!」

「御主様に連絡を!」

 広間にはたちどころに『攻め込むはずだった』フレンドが集結し、咄嗟に1人が携帯電話を如真へと繋いだ。彼らは自ら考えて行動するという能力が欠如しており、御主に指示を仰がねば前後不覚に陥るのだ。しかし携帯電話は不通。他の者が試しても駄目だった。

「何で!?」 「大丈夫さ。御主様ならば」 「私達の心を汲んで、直ぐに来て下さいますよ」 「そう、それまでに」 「それまでに私達は出来る事をやろう」 「マックス様をお助けしましょう」 「カロリナさんをお救いしましょう」 「あの悪魔の如き者達から」 「さあ、行こう!」

 瞬時に意識が奪還へと傾き、フレンド達は一斉に外へと躍り出た。そして本部の前に立ちはだかるかのように、見た事もない屋敷が建てられている様を見る。ハンター達はマックスやアンナを連れ、屋敷の中へと駆け込む途上だ。

『Amen!』

 フレンドが一斉に唱和し、屋敷へと雪崩込んで行った。

 

 エーリエルがプランニングし、ハンター達が参加した作戦『サラディン』は、初手の段階から完全にはまった、と言って良い。

 作戦行動の根幹は機動戦である。待ちの防衛戦を張る状況は、数で圧倒的に上回るフレンド相手では早晩ジリ貧になる。よって防衛戦を捨て、逆に攻撃へとハンター達は打って出た。

 サマエルこと王如真は、父親や他のハンターとの会合の為に外へ出ている。実のところを言えば、外へ引き摺り出されたのだった。如真との会合をセッティングしたハンターと『サラディン』は、濃密にリンクしていたのである。

 サマエルと信者達の心の繋がりは、事前に双方へと張られた結界によって遮断されている。これはジークリッド・ブリッツフォーゲルとバーバラの手に拠る物だった。そして物理的連絡手段、電話の類も、バーバラがマクベティ警部補を通じて事前に市当局へ通達し、一時的な市内全線不通の実現という或る意味暴挙を敢行している。

 これによってフレンド達は、彼ら自身が認識せぬ内に、孤立する状態へと追い込まれていた。

 

operation : Saladin

「おいおい、マジで来やがった! 流行りの『走るゾンビ』みたいじゃん!」

 血相を変えて遁走する割に、アンナの口調には些かの暢気さが感じられる。マーサに関わり、マックスやハンターと行動を共にするにつれ、一般人としてのアンナの感性は崩壊の一途を辿っている。つまり、思考形態がハンター寄りになったという訳だ。良いか悪いかは、この場の状況を鑑みれば論じるべきではない。

 機先を制して襲撃という形になった此度の『サラディン』において、マックスとカロリナの存在は、フレンドを外へ引き摺り出す為の核である。彼らが居なければフレンド達はビタ一文動かなかっただろう。屋敷に仲間達が全員逃げ込んだ事を確認し、ドラゴは自身も階上へと足を速め、夢遊病にかかったようなカロリナを支えているマックスの肩を叩いた。

「君も男になりましたな! 筋肉も良い感じでついておりますぞ」

「体を鍛える以外にする事ありませんから。でも、正直怖いです。あの人達は本当に怖い」

 2階の篭城部屋に飛び込み、カロリナをアンナに託す傍ら、マックスは頭痛を堪えつつドラゴに返した。マックス自身は『フレンド酔い』と称していたが、サマエルの息のかかった者の到来を、彼の体は敏感に感じ取る事が出来る。固まって50人も迫ってくれば、酔いは更に重度となろう。それでも彼はハンター達の要請に応じ、戦うという選択肢を取ったのだ。

「エーリエルさんに言われましたよ。わたし達を助けて欲しいと」

 マックスは緊張のあまり目を一杯に剥き、震える声音でドラゴに言った。

「今まで散々助けられてきました。でも、こんな僕が皆さんを助ける機会があると教えてくれた。それが嬉しいんですよ、ドラゴさん」

「一体何処までお人好しなのさ、この馬鹿が」

 マックスに毒づくアンナにしても、彼と共に危地へと乗り込んでくれた訳だ。ドラゴは率直にありがたいと思った。孤立した戦いを強いられるのが常のハンターであるが、今はこうして少しずつ人の輪を形成し、あまりにも高い壁を乗り越えようと共に頑張る事が出来る。彼らを護らなければならない、とも強く思う。

 そして、フレンドの第一波が遂に屋敷へと侵入した。後続も次々と入って来てはいるが、彼らは入り口で目標を見失ったかのように周囲を見渡している。此処は『頑丈なオバケ屋敷』の真っ只中だ。彼らには、自身を形成する半分が『この世ならざる者』との自覚が無い。それでも残り半分の人の目が、ようやく踊り場で仁王立ちのドラゴを見定めた。

 フレンド達が一斉にナイフを抜く。受けてドラゴ、呵呵大笑。

「いい! 実に皆さん肝が据わっておられる! 金にあかせて極限までこの身を強化した私に歯向かおうとする、その度胸に乾杯!」

 ガハハと笑いながら、ドラゴはサラダオイルの一灯缶を蹴倒した。

 

 本部の一室でエリニスは戦っていた。相手は自分。その身に巣食う内なる衝動。

 エリニスもまた、未だ不完全なフレンドである。一気呵成に屋敷へと突撃して行った彼らと共に、思う存分咆哮を轟かせたい。それはサマエルの呪いのようなものであり、加えて憑依するピュセルの魂の叫びでもあった。それらに対して、エリニスの理性は真逆の位置にある。彼女の望みは、カロリナが本当の意味で救われる事なのだ。

 じりじりと足を廊下へと進めて行くエリニスを、アンジェロは必死の形相で抑え込みにかかっている。が、まるでブルドーザーか何かを押し戻すようにビクともしない。それがフレンドと普通の人間の胆力の差だ。尤も、それで諦めるアンジェロではなかった。

「お願いだ、気をしっかり持って!」

 残る手段は、エリニス自身の力による制動だ。アンジェロが声を限りに叫ぶ。

「それは自発的な意思の発露じゃないよ。ピュセル、あなたに言っているんだ! サマエルは自分に依存しきっているあなたを良い様に扱って、これっぽっちも自由も与えちゃいない! そんなものは救いでも何でも無いんだよ!」

『吼えるな、ガキが』

 発せられた低い声音に、アンジェロよりも当のエリニスが驚いた表情を見せる。その声が続ける。

『誰が分かる。私の痛みが。何が分かる。私の味わった地獄が。私を利用するだけ利用して、見捨てたのは誰だ。手を差し伸べて下さったのは、あの御方だけだ。自由など要るものか。あの御方には安らぎがある。私は、それだけでいいんだ!』

 エリニスがアンジェロの胸倉を掴み、軽々と放り投げた。咄嗟に受身を取ったものの、アンジェロの体が派手に転がされる。それでもアンジェロは立ち上がり、エリニス目掛けて低い位置からタックルを敢行した。しかし押し留めるには至らない。

 そして、状況は更に悪化した。

 扉が開き、2人のフレンドが部屋に入ってきたのだ。フレンド達は柔和な笑みを浮かべつつ、ナイフを各々の眼前に立てた。

「さあ、行こうか。エリニスさん」

「かの方が邪魔でしたら、御主様の御許にお預けする、という事で」

「やめろ…」

 力なくエリニスが抗するも、フレンド達はナイフを逆手に持ち替えた。つまりは、アンジェロを殺すつもりらしい。そしてその魂をサマエルに捧げるのだと言う。アンジェロは比喩ではなく、吐き気を催した。

「それは正しく悪魔の所行だよ。あんた達は、人として恥ずかしくないのか」

『Amen』

 美しいシンクロでもって、2人がナイフを振りかぶる。が、それらが振り下ろされる事は無かった。

 1人が膝の力が抜けたように崩れ落ち、唖然としてその様を見た残る1人も、前へとのめりながら倒れて行く。その背後には、投擲の姿勢から元に戻るエーリエルの姿があった。

「お待たせ」

「もしかして、このタイミングを狙ってたのかい?」

「そんな器用じゃないわよ。でも、前からの連絡通り、一直線にここまで来られた。本当に助かったわ、アンジェロ」

 エーリエルはアンジェロに笑いかけ、しかし直ぐに顔を引き締め、凝視してくるエリニスと正面から見合う。苦しみながらも、エリニスは相好を崩していた。

「大胆不敵としか言いようがないわね」

「それは違う。入念に準備したわ。様々な人の力を借りて。助け合って連携し、皆のおかげで、わたしはここに来る事が出来た。でも、ここからはどうなるか分からない。アンジェロ、エリニス、一緒に戦いましょう」

 エーリエルは掌を掲げ、エリニスの額に押し当てた。

 

オバケ屋敷の攻防 其の一

 フレンドの力は、専ら悪魔に対抗する為のものだ。

 それがサマエルによって与えられた役回りである。恐らく以降で発生させるであろう戦乱状態の中で、サマエルは自らの信者である人間達に戦う力を授けた。人間にとっての霊的な脅威が、昔も今も悪魔ゆえに。

 しかしながらこの街には、悪魔以外の脅威が存在する。それは吸血鬼であり、或いは悪魔が使役するこの世ならざる者達。或いは、同じ人間同士だ。フレンドもそれなりの段階に到達すると、全方位を相手にして戦えるようになる。フレンドは決して雑魚ではない、という事である。

 

 サラダオイルで滑るうえに大量のゴルフボールを階上から落とされ、階段を駆け上がろうとしてきたフレンドの大部分が盛大に転倒した。恐ろしくシンプルな作戦であるが、シンプルなだけに効果が分かり易い。後から後から押し寄せるフレンド目掛けて、ドラゴは件の『槍』を投擲し、1人ずつであるが確実にフレンドを浄化していた。ただ、フレンドに張り付いた穢れに打撃を与えるこの『槍』は、立て続けて撃ち込む事が出来ない。そして時折一撃で倒せない、『槍』に耐性のある輩も居る。

(それだけフレンドの力が上がっている、という事でしょうか)

 徐々に間を詰められつつある戦況を前に、ドラゴは少々焦りを感じ始めていた。オバケ屋敷の方向阻害が完璧には効かず、『槍』の優位も数の前に押されつつあり、そしてもう一つ。

 と、気付けば隣に、ナイフを逆手のフレンドが居た。

「何と!?」

「Amen」

 ナイフが振り下ろされる直前、フレンドの体がもんどり打って階段から転げ落ちて行く。散弾銃の翻る様を目の端にし、次いでドラゴは銃口に息を吹きかけるバーバラを見た。

「安心して。塩弾よ。遅くなってごめんなさいね」

「助かりましたぞ。しかし先程の詰め方、いきなり出現したという感じでしたな」

「瞬間で移動する異能持ちのようだわ。ああなると、天使か悪魔か分からないわね」

「結界を張りますので、援護を」

「ええ、了解よ」

 オバケ屋敷が或る程度通用したように、結界もまたフレンドを遮る守りにはなってくれるだろう。千切った聖書の切れ端を周囲に貼り付けながら、淡々と塩弾でフレンドを押し戻すバーバラを見る。

 実を言えばフレンド以上の懸念材料はバーバラだった。彼女は前と今とでは明らかに雰囲気が変わっている。口振りは相変わらずだが、醸し出す気配が尋常ではない。ハンターであるからには味方なのだが、本当にそうなのか、との思いが過ぎる。それはドラゴの生存本能による警告だ。

(…『あれ』を取り込んだというのは、矢張り真ですか)

「防ぎ始めたわね」

 不意に発したバーバラの言葉に、ドラゴは即座に注意を切り替えた。バーバラの撃つ塩弾が、フレンドに衝突する寸前で尽く粉末状に四散している。彼らは不可視の盾のようなものまで出してきたのだ。そして仲間を踏み台に階段を乗り越え、1人のフレンドが阻む結界にナイフを突き立てた。後続が次々とナイフを空中に突き刺してくる。恐ろしい事に、その攻撃で結界は効力を削られつつあった。

「まずい」

「エリニスさん?」

 『槍』で目の前のフレンドの女を吹き飛ばす寸前、ドラゴは確かにその名を聞いた。それの意味するところを瞬時に理解し、彼の顔が青ざめる。フレンド達は一斉に本部の方向へ視線をやった。フレンドを引き入れられるだけ屋敷に引き入れ、然る後に本部をエーリエルが急襲する。その作戦に気付かれたのだ。

troglodytarum

 フレンドが一斉に声を上げる。

Sit tibi praecipue ad originem reverti. Sit reditum ad patriam. Anima autem nostra est. Unum sumus vestri pelagus.』

 その唱和と共に、奥の部屋からカロリナが出て来た。彼女はマックスとアンナが必死に押し留めていたものの、普段の頼りない仕草とは裏腹に、強力でもって歩みを進めている。

「急にアグレッシブなんだけど、何コイツ!?」

「僕も頭の中に声が響いている! 僕は我慢出来るけど、彼女は!」

「何とか抑えて下さい!」

 怒鳴り声で叱咤するドラゴは、更にフレンドが手前と奥の二手に分かれようとする様を見た。即座にドラゴが『槍』を、バーバラが塩弾を撃ち込んで足止めを試みるも、フレンドの挙動は速かった。

 しかし攻め手の半数が本部へ反転する、その1人目が扉から盛大に吹き飛び、屋敷へと叩き戻された。外套姿の少年が、突き飛ばした掌を軽く握っては開き、屋敷に入って来る。扉に鍵をかける。そして真空パックの赤い液体を懐から出して啜り上げ、何時の間にか自分を取り囲む人間達をぐるりと睥睨した。

「パックをしこたま飲んだから、吸血衝動はかなり抑えられるけど」

 少年、ノブレムの吸血鬼、ヴィヴィアンは、腰を落として構えを取り、手甲を相対する者達に向けて誘いをかけた。

「手加減はとても難しいな。死ぬのが怖くない人から、さあどうぞ」

 

私の世界 其の一

 エーリエルの突入時、本部に残存していた少数のフレンドは彼女によって一掃されていた。「半径500mの説得」と『槍』を組み合わせた奇襲が功を奏した格好だが、格上のフレンドが尽く屋敷に向かっていた事も大きい。

 とは言え、アンジェロは扉の錠前を落とし、机を寄せてバリケードを構築した。幾ら機先を制したとは言え、ここは敵勢力の真っ只中なのだ。主導権が突如引っ繰り返るかもしれない。こうした物理的な遮りが何処まで通用するのか分からないが、取り敢えずアンジェロは安堵する事とし、全く動かなくなったエーリエルとエリニスの傍に立った。

 エーリエルはエリニスに対し、霊符の作成第六段階、『世界』による精神戦を挑んでいた。尤も、その相手はエリニスの心に取り憑く過去の英雄であり、明確な勝ち負けが見える戦いでもない。

「エーリエル、聞こえる?」

 アンジェロは特に返事に期待せず、何気に語り掛けてみた。が、エーリエルの見開いた目が初めて瞬く。

「ええ。聞こえる」

「驚いたな、話す事も出来るんだ」

「今はまだ、というところかも。恐ろしい技術よ、『世界』は。わたしの心はエリニスとピュセルを探して、何にも無い場所を…いや、場所という概念も認識出来ない状態で彷徨っている。わたしという存在が、とても曖昧で希薄なもののように思える。だからアンジェロ、話しかけていて。声と声がわたしの在り処を明確にしてくれるから」

「分かった」

 アンジェロは頷き、エーリエルの空いた手を握った。彼女はエリニスとピュセルを探している、と言っていた。つまり『世界』の行使と同時に2人の心は閉じてしまったのかもしれない。ただ、自分の声がエーリエルに届くのであれば、2人にもまたそれは聞こえる可能性がある。アンジェロは此度の一連の出来事について様々に思うところがあった。それをエーリエルとの会話で改めて確認しようと、アンジェロは試みた。エーリエルの存在強化の手助けになるし、もしかしたら2人の方から扉を開く事も考えられる。

「ここに来る前に、上司のビアンキ専務に会ったんだ」

「マルセロ・ビアンキ。真名バルタザールね」

「専務のお墨付きを貰えれば少しはサマエルの注意を和らげられるかもしれないと思ったけれど、駄目だったね。今やあの二者の関係はとても微妙だもの。2人は同じ人間寄りの存在だけど、方向性は全く違っている。ただ、未だ専務がサマエルを敬愛しているのも事実だと思う。その専務に聞いたんだ。かつてどのようにピュセルとサマエルが関わっていたのかを」

「何と答えたの?」

「既に僕達が知っていた事だったよ。ピュセルは火刑に処せられた際、神の声を聞いて全てを受け入れたが、それが実はサマエルの誘いであった。でも、僕やエーリエルが知りたいのは、もっと前の話だよね。そうでしょ?」

「ええ。一体何時から、サマエルはピュセルに関わり始めたのか。マルセロ氏は何と?」

「良く分からない、と言っていたよ。あの人は天使である自らの正体を明かしている。明確に天使と認識された今は、最早誰をもたばかる必要は無いってワケ。だから知らない事は、本当に知らないんだ。ただ、そもそもピュセルがあれだけの行動を起こしたきっかけは、彼女がミカエルからの啓示を受けたところにある。これがミカエルを自称したサマエルによるものだったとしたら?」

「その可能性は十分にある。と言うより、間違いないと思う」

「そう水を向けると、専務は首を振るばかりだった。確証の無い話に同意するつもりはないってね。ただ、専務は言外に推論の正しさを証明してくれたんだ。本当にそう思っていないなら、確実に否定してくるはずだもの。バルタザール、恐らくカスパールも、知らされているのはサマエルがピュセルの魂を保護しているという事実のみだけど、彼らも事の始まりについて、凡その想定はしているみたいだ。ただ、彼らにも僕らにも分からない事がある。サマエルはどうして農夫の娘に故国の英雄なんて重責を背負わせたのか」

「…一つは、彼女が天使にとって凄く貴重な、マックス程ではないけれど、比較的自らに合致する器であったから。彼女を手元に置いておきたかった」

「もう一つは、彼女とジルを引き合わせる為。ジルが彼女に愛情を伴った忠誠を誓ったのも、規定路線だった」

「この2人の為だけに、サマエルが百年戦争に介入したのだとしたら、あまりにも邪悪だわ」

「そして双方に絶望と救いを与えたんだよ。ピュセルの魂を絶対に裏切らない器とし、ジルを吸血鬼として完成の域に持って行く。全ては自分が復活する将来への布石として、今この時の為に」

 

『それがどうした』

 

 エリニスの口が動き、アンジェロは肩を跳ね上げた。エーリエルの頬を一筋の汗が伝う。

 扉は開かれた。向こうから。しかしそれは激怒と憎悪を剥き出しにする、業の塊が大口を開くようなものだった。

 

 

オバケ屋敷の攻防 其の二

 包囲網を敷くフレンド達を、ヴィヴィアンは眼球だけを動かして見定め、口の端を曲げて腰を落とし、その場から姿を消した。

 あっという間に後ろを取り、ヴィヴィアンの手刀が1人の首裏に入る。昏倒。それをきっかけとして、吸血鬼対その他大勢による縦横無尽の格闘戦が始まった。

 穏健派ノブレムとは言え、吸血鬼のヴィヴィアンが単独でハンター集団に加勢するのは特例的な事態だった。以前に彼は、アウター・サンセットでの恐るべき対エルジェ戦でハンターとの共闘を成立させているが、此度は勝手が異なる。前は敵対する吸血鬼が相手であったが、今、向こうに回しているのは異能集団ではあるが人間なのだ。本来であれば、彼は忌避されるべき者である。それを押し通したのは途或る理由からであり、前に共闘したハンターからの後押しも大きかった。

 フレンドは強い。並のハンターを身体能力的にも凌駕する。しかし、体の作りという根本から異なる吸血鬼は、速さの次元が違った。

「ぬるい」

 伊達にヴィヴィアンも地獄のエルジェ戦を勝ち抜いてはいない。

 掌打でフレンドを吹き飛ばし、斬りつけてくる白刃の群れを掻い潜り、足払いをかけて更に昏倒。床を蹴り壁を蹴り、寄せ手を余りにも飛距離のある後宙返りでかわし、呆気に取られる彼らを眼下に置きながら、ヴィヴィアンは溜息をついた。着地。跳躍。頂肘。退避。

「何だありゃ。あれが二本足の動きか?」

 ようやく力を弱めたカロリナをマックスと共に再度押し込みながら、アンナはほとんど目視不可の一方的な戦闘を、半笑いを浮かべて見守った。

「あれでも、手加減の努力が見えますな」

 ヴィヴィアンが倒したフレンドに『槍』でとどめを刺しながら、ドラゴがアンナに言う。

「本気を出せば、四肢断裂の死屍累々を私達は見るでしょう。吸血鬼とはそういうものです。ノブレムは常に同格かそれ以上の連中を相手に戦っているから、我らも彼らがどれだけ強大かを忘れがちです。つくづくハンターの敵に回らなくて良かった…ん?」

 ドグが違和感を口にする。少しずつであるが、ヴィヴィアンが圧倒する展開に滞りが見え始めたのだ。それは彼の戦い方に、信じ難い事だが緩みが生じ始めている、とも言い換えられる。若干の戸惑いが浮かぶヴィヴィアンの表情が異常状況を端的に物語っていた。

「何でだろう」

 アンナが呆然と呟く。

「あいつらが、敵かどうか分からなくなってきたよ」

 アンナの言葉に、ドラゴも勘付く。まずい、と。勘付いた時にはドラゴの心にもフレンドによる侵食が始まっていた。範囲内の対象に自分への戦意を喪失させる彼らの異能。それも複数が使ってきているらしい。と、遂にヴィヴィアンがナイフで斬り付けられた。咄嗟にランク3の『イゾン』で硬化した腕を盾にしたものの、肉迫されるという状況からして非常事態である。そして全方位の存在に打撃力を有する彼らのナイフは、遠からずヴィヴィアンの体を切り裂き始めるだろう。何しろフレンドの数は、削ったとは言えまだ多い。

「ちょっとだけ、良くない流れになったわね」

 ドラゴは冷水を浴びせられた面持ちで、呟くバーバラの横顔を凝視した。普段通り、と言うよりも不動の柔和な顔が、この場においては違和感の塊であった。そして気付く。フレンドの異能が、彼女に対しては全く通用していないのだと。

 バーバラは落ち着き払い、紙に包んだ粉末を床にふりかけ、一筆書きの六芒星を形成した。其処に掌を押し当て、小さく呟く。

 

私の世界 其の二

 アンジェロは此度の顛末を見届けるにあたり、様々な方面からの情報収集に腐心していた。

 サマエルとピュセルの関わり合いについて、最も詳細を知り得ている者が居るとすれば、それは正しく天使達であろう。この街のハンター寄りの天使と言えば、態度を曖昧にしている者を含めて3人居る。メルキオール、ガブリエル、そしてバルタザール。アンジェロは彼らに直接聞いて回るという、はっきり言えば苦行を遂行していた。

 しかし、その成果は芳しいとは言えない。

 

○メルキオール:

「知らぬ。かような人間の女との関わりなど興味も無い。そもそも該当する年代には、私はサマエルの封印を続行中であった。他にかまける猶予は無い。むしろ封印の最中に彼奴めが暗躍していたと知るのは屈辱的だ」

「成る程、サマエルの意を汲んだカスパールが実行部隊の役回りだったんだろうね。じゃあ、サマエルと戦うにあたって何かアドバイスはある? サマエルの影響を一時的にでも遮断する手段とか」

「影響力を遮断するだけなら、結界でも使うがいい。奴の直接的攻勢を防ぐ事は不可能であろうが。その方、これからもサマエルと戦う腹か? ならば天兵になってみる気は無いか?」

「遠慮します。メルキオールさん、自覚があるかは分からないけど、天兵ってサマエル肝煎りのフレンドに酷似しているよ」

「私はあのように魂を束縛するつもりはない」

○ガブリエル:

「さてねえ。俺は専ら対ルシファに意識を傾けていたからなァ」

「…ところで、ルシファとミカエルについては当然深く関わられていると思うんだけど、それじゃサマエルが一体どういう奴なのか知ってる? あの2人に匹敵する存在感の割に、全然詳細が分からないのは変だよ」

「『サマエル』については、天使の中でもあまり出自を知られちゃいないのさ。奴はミカエルとかルシファの派閥からは距離を置くボッチ野郎だったからな。ただ、奴は神に反旗を翻す戦争に加担した際、それを不名誉に思ったらしく別名で参戦している。奴は天使の中でも独特の考え方をしていたらしいよ」

「らしい、か。天使でも分からない事があるんだね」

「天使が全知全能から程遠い事ァ、お前達は重々承知しているはずだぜ。アンジェロだったか? お前も戦う手段が少ない身空で大変だねえ。よって慈悲を遣わしてくれよう。後で胸部レントゲンを撮ってみな」

「何それ」

 

 結局、真っ当な情報として成立しそうであったのは、アンジェロの上司でもあるマルセロことバルタザールの話のみだった。彼にしても、先のエーリエルとの会話通り、事の始まりについては把握していない。

 ただ、ミカエルの啓示、そして火刑に聞いた神の声、その2つがサマエルによるものだった、という確度の高い類推は、バルタザールを含めた自分達共通の想定であった。これをピュセルが知れば、彼女は初めから終わりまで利用されていた状況を思い知り、サマエルへの忠誠も揺らぐに違いない。アンジェロはそう思っていた。

 しかし、たった今、エリニスの口を借りたピュセルが言ったのだ。

『それがどうした』と。

 

「知っていたのか。事の始まり、その真相、全部を」

『ああ、そうだよ』

 呆然と呟くアンジェロに、狂気じみた声音でもってピュセルが言葉を返してきた。

『全てが終わってから、御主様は包み隠さず打ち明けて下さった。私を御自らの片腕に成り得る者として、力の一端をお貸し下さった事を。そしてこうも言われた。このままでは、人はどうしようもないと。本当にそうだった。人というものは救い難い。初めに御主様は言われた。力を授けよう。その力で汝は何を成せるかと。私は答えた。故国の窮地を救います、と。御主様の御力で人心を纏め上げ、故国を守る為に死闘を尽くし、しかし最期には、国も、人も、全てが私を見捨てたわ。神も! 正義を成そうとした私に、何で、何で神様は。火刑に処せられ、救いを求める私に御言葉を下さったのは、神ではなく御主様だった。魂は不滅也。今一度、超常の力の透徹をもって人を救わんと。よって私が見た地獄は、この結論を思い知る為の糧であったのだ!』

 アンジェロは息を呑んだ。過去の想起はピュセルにとって苛烈な拷問に等しいはずだが、サマエルはそれを通過儀礼として必要の経験であった、と教え込んだのだ。自らへの常軌を逸した依存をピュセルに強いる為、ここまで丹念に心を蹂躙するとは。

「エーリエル」

 アンジェロは唇を噛んだ。

「彼女はもう、言葉が通じない。魂だけの存在は、その時点で時間が止まってしまっているから。それだから悪霊と化したものには、同じく魂でぶつかるしかないんだ」

「それがハンターの戦い方。『世界』が行使する手段よ。さあ見つけたわ、ピュセル!」

 エーリエルの視界が突如開く。

 彼女は何処かの街中に立っている自分に気が付いた。如何にも古めかしい通りで、人気は1人を除いて何処にも感じられない。先に見える中央の広場と思しき場所に、その1人は居た。

 ピュセルは太い棒に縛られ、どす黒く焼け焦げた凄惨な姿を晒している。その顔がゆっくりと持ち上がり、眼球が蒸発した眼窩をエーリエルに向けてきた。

 

オバケ屋敷の攻防 其の三

 フレンド達は突如動きを止めた。膝が崩れたり、単に躊躇していたりと反応はそれぞれであったが、彼らは一様に驚く顔を見せている。それはほんの僅かな硬直であったが、戦いにおける致命的な隙を見逃すヴィヴィアンではなかった。

 棒立ちの木々の間を駆け抜ける獣の如く、ヴィヴィアンがフレンド達を薙ぎ倒して行く。攻勢の展開と見たドラゴが、結界を解いて自らも打って出る。予め仕掛けていた五角結界で更に動きを止め、自らに『加速』を発動。『槍』を手に持ち、ヴィヴィアンに倒されたフレンドを刺して回る。フレンドの強弱に関わらず、『槍』はフレンドに衝突させれば消えてしまうのだが、『加速』をつけたドラゴと吸血鬼の速さは、フレンドの虚を完全に突くものだった。

 最後の1人を刺し終え、ドラゴが肩を大きく上下させる。

 広間は昏倒したフレンドで溢れ返っていた。確かにまとめて殲滅する考えではあったが、こうして実行し終えると些か信じ難い感もあった。まさか50人近いフレンドを、ほとんど傷もつけずに正常化させてしまうとは。

「先刻あの連中の動きが止まったのだけど、何で?」

 何時の間にか部屋の隅に立ち、自分達から距離を置いたヴィヴィアンが小さく語りかけてきた。

「幻魔ですよ。バーバラ殿は、フレンドが最も恐れる幻を見せたのです」

「最も恐れる幻?」

「ジーザス・クライストを。ただ、その効き目は完璧ではなかったようですな。彼らは精神攻撃に耐え得る異能も与えられていると見ていいでしょう。それでもあの空隙は、かような高速戦において勝機となった、という訳です」

 成る程と頷いて、ヴィヴィアンはカロリナの手を取って階下に歩んで来るバーバラを眺めた。若干の嫌な気配を其処に見、ヴィヴィアンが眉をひそめる。錯覚かとも思ったが、彼女らの後ろを行くマックスとアンナの怪訝な表情は、感じられた嫌悪を肯定している。

「どうかなさいましたかな?」

 様子を気遣うドラゴに、ヴィヴィアンが頭を振って応える。

「いや、別に。まあ、役に立てて良かったよ。こう言っては何だけど、吸血鬼参入という荒技が無かったら、苦境に立たされていたと思う」

「全く、否めませんな。フレンドは確実に強くなっております。そして彼らは、ここに居るのが全てではない。しかしながら、サマエル側に甚大な損耗を強いたのは事実です。そして我らの役回りも完璧に果たす事が出来た。率直に感謝しますぞ、ヴィヴィアン殿」

「礼には及ばないよ。相手としなければならない奴は、この人達じゃない。別に居る」

「次席帝級、ジルですな」

「ピュセルとやらに御執心らしいね。本当に向こうから来るのかい?」

「来るでしょう。エリニス殿の解放なって、目出度くピュセルとカロリナが本来の一つとなりましたら、当然マーサ本部からの離脱となります。彼奴は本部に仕掛けられた結界ゆえ、かの敷地には一歩も入れなかったはず」

「それは分かるな。目に見えないけれど、あの本部にはとんでもない守りが敷かれている」

「つまり大手を振って接近出来る、という訳です。ジルは何を目的として彼女に近付くのかは分かりませんが、分かっているのはそれを許せば努力が水泡に帰するという事でしょうな」

「厳しいよ。本当に厳しい。前の戦いではレノーラが居るノブレムとハンターが束になって仕掛けて、ほぼ遊ばれたからね。こちらとしても腹を括らなきゃならない。それじゃ、例の場所で。成功するといいね」

 言って、ヴィヴィアンはその場から疾風の如く去って行った。

 オバケ屋敷での攻防は決着した。が、本部における精神の戦いは終わっていない。カロリナに変化が全く見当たらないからだ。

 結界によって意思疎通の遮断をしたものの、サマエルは何時戻って来るか知れたものではない。今出来るのは、待つ事くらいだった。バーバラ達は倒れた元フレンドの介抱をしている。それを見習い、ドラゴも手近の男性の頬を軽く叩いてやった。

 

私の世界 其の三

 アタシ、エリニスに憑依する『彼女』の実在を、アタシはようやく確として認識する事が出来た。それはアタシの精神に構築された居場所とでも言えるものだ。心の世界はとても不安定で曖昧で形が見えないものだけど、それなのに其処は明確な状景を作り出していて、それをアタシは俯瞰から見下ろしている。とても奇妙な感覚だった。

 どうやら中世欧州の街並みと見える世界で、今、燃やされて朽ち果てた姿のピュセルと、エーリエルが向き合っている。エーリエルが使う『世界』は、対象の最も深い部分に接触する事が出来るらしい。その副次的な効果によって、アタシも彼女の姿を捉えられたのかもしれない。

「エリニス、居るんでしょ?」

 ええ。形としては成せないけれど。アタシは2人の近くに居る。

「良かった。今のわたしは、とても心細いから。ピュセル、ジャンヌ・ダルク。きっとあなたもそうなんだわ」

『私には御主様が居る』

「その姿を見れば分かる。あなたは心の奥底で救われていない。本当は分かっているはずなのに」

 エーリエルがナイフを抜き、彼女の縛めに裂け目を入れようと努力する。しかし事のほか縛めは頑丈で、どうにも刃が通らないみたいだった。きっとあれは、ピュセルが自らを縛り付ける象徴なのだろう。アタシは彼女の傍に座る自分をイメージした。

「ジャンヌ、あなたを巡る一連の歴史的事実について、今のあなたは然程興味がないかもしれないけれど」

 飽く事無く縄を切り取ろうとしながら、エーリエルが言った。

「あなたを救出する動きはあったのよ。残念ながら、失敗はしたけれど。でも、王国元帥のジル・ド・レエが、あなたが捕まったのと同じ時期に軍を退役しているのは、現代でも不自然な成り行きだと考えられているわ。あなたを崇拝していた、あのジルが。これは彼の口から聞いてみたい事だけど、恐らく彼は何らかの干渉を受けてあの様となった。干渉した者が一体誰なのか、きっとあなたにも想像出来るはずよ」

『御主様、と言うか。構わない。それでも。私を必要とするが為に御主様がなされた全てを、私は肯定する。しかしその干渉とやらを、跳ね除けられずに屈したあの男を、私は断じて許さない』

 聞いているだけで、アタシは辛い。これは正常な物の考え方ではない。サマエルに仕え、ジルを憎悪する。その形で彼女は凝り固まってしまったのだ。

 ああ。そうか。そうなんだ。魂は肉体と表裏一体で、どちらが欠けても平衡を喪失するから。だから、彼女は。

 聞いて、ジャンヌ。あなたは確かにジャンヌ・ダルクだけど、21世紀においてはカロリナ・エストラーダとなったのよ。魂が離別するのは、とても不自然で悲しい事よ。お願いだから、この時代に生きる自分自身を、もっと大事にして。

『来ればいい、半身の方から。さすれば再び仕える喜びに打ち震える我が身を感じられよう』

 もう1人のアナタは、サマエルではないものに救いを求めたわ。それは多分、人よ。サマエルの圧倒的な力を持ってしても、人を真の意味で救う事は出来ない。人と人は、価値観が異なっても共感する能力がある。助け合う事が出来る。一方的な力による救済では、人は決して幸せにはなれない。

『人、人、人か。人が何だ。どいつもこいつも、醜悪な下種の極みじゃないか!』

「ジャンヌ。あなたは自身に起こった顛末を、唾棄すべきもの、或いは今に至る為の通過儀礼であったと認識している。でもね、あなたの名前としてきた事は歴史に確固として刻まれている。実在する伝説として。わたしの曾祖母は、あなたの事をとても尊敬していたわ。あなたの生き様を糧として、世界を巻き込む戦乱の時代を生き抜いてきた。そんな曾祖母の人生を知っているから、わたしはあなたとこうして会話を交わせる光栄に震える思いなのよ

『何も知らないくせに、知らないくせに!』

「いいえ。全てではないけど、知っていた」

『何ですって』

「剣を握った事もない農夫の娘が、一切の私心無く戦い抜き、その結果どんな目に合わされたか。知識ある人達が、あなたの人生に惹かれて何百年も研究し続けたおかげよ。ジャンヌ、あなたは、あなたを知る世界中の人から今も愛されている。神がかったカリスマ性ではなく、あなたの心を。初めから終わりまで完璧な聖女に、ここまでの愛情を寄せる訳がない。曾祖母も、わたしも、みんなも。ただの女の子が勇気と献身を武器にして、あれだけの事をやり遂げたんだから!

『私が伝説に』

 遂にエーリエルがジャンヌの縛めを引き裂いた。前のめりに倒れそうになったジャンヌは、踏み止まってその場に立ち尽くした。アタシとエーリエルが、息を呑む。如何にも田舎出の娘という風情の女の子が、其処に立っていたから。宗教画で描かれるような可憐な美女じゃないんだ。少し神経質そうな、小柄で素朴な少女。何となく、カロリナに似ているとアタシは思ったわ。

「それじゃあ、私は」

 訥々とジャンヌが言った。

「私は、もういいの?」

「いいのよ、ジャンヌ。もう苦しむ事はない」

 そして今一度、人生を歩みましょう。今度はアタシが、きっとアナタの事を守るから。

「そう」

 ジャンヌが面を上げた。その顔がどんなだったかは分からなかったけど、多分ホッとしていたんだと思う。彼女の意識がアタシの中から別の場所へと飛んで行ったその時、アタシは声を聞いた。多分エーリエルも。

 

『…この程度の傷は大したものではないぞ。ほら、きちんと手当てが出来たのだから、泣くのも程々にしなさい。ジャンヌ、君はメシエ(救世主)と言うより、まるでピュセル(小間使いさん)だな。さあ、涙をお拭き、可愛いピュセル。君は私が必ず守るのだから、何ものも怖がる事はないのだよ…』

 

大詰め

「エーリエルさん、エリニス!」

 不意にカロリナが声を上げた。いきなりの事で一同はうろたえたものの、その意味するところをすぐさま知り、ドラゴとマックスが勢い良くロータッチを交わした。

「痛い痛い。ドラゴさん、力入れ過ぎ」

「むははは。彼らはやり遂げると信じておりましたぞ! マックス、念の為に無線をアンジェロ君に繋いで下さい。それでは一同集合!」

 マックスが慌ててヘッドセットを準備するのをさて置き、ドラゴは全員を一塊に集めた。バーバラはと言えば怪しげな符を取り出し、それ以上に怪しげな笑みを浮かべている。

「な、何なのですか!?」

 カロリナは露骨に狼狽していた。ようやく自我を取り戻すという待望の結果にも関わらず、ハンター達は「それはそれ、これはこれ」で矢継ぎ早に動いているのだから、訳が分からなくて当然だ。

「私達、テディベアになるんだよ」

「へ? テディベア?」

 アンナの諦念混じりの呟きを聞き、カロリナの混乱が加速する。

 ロンパールー○という、キュー謹製のふざけたアイテムは、人間をクマ人形に変えて本体を何処かに飛ばす事が出来る。実を言えば、クマ人形の中に一時的に封じ込めるのも可能だ。そうして全員をクマ人形と化し、その後バーバラが取る行動は。

「まずい」

 と、マックスが無線を繋いだ途端、声を引っ繰り返して叫んだ。

『どうしたの、マックス』

「来る。そっちも早く逃げて下さい!」

 

 サマエルは本部とオバケ屋敷、その中間に位置する地点に出現した。

 彼の顔からは、凡そ表情というものが伺えない。普段は柔和な雰囲気を意図的に保つよう努めている彼が、である。それは王広平との対話を終えた結果に拠るものだ。非常に珍しい事だが、サマエルは怒りを感じているらしい。

 本部とオバケ屋敷を交互に見遣り、サマエルは迷わずオバケ屋敷へと歩んで行った。道すがら、掌を掲げ、握り潰す。

 ボッ、という軽薄な音と共に、オバケ屋敷は風景から剥ぎ取られたかの如く消滅した。そして跡地に立っているのは、大量のぬいぐるみを抱えた老婆が1人。

 サマエルの歩みが止まる。その老婆に僅かな、それでいて強烈な違和感を覚えたからだ。老婆は軽く頭を下げ、その格好のまま、姿を消した。

 バーバラはクマ人形を抱えたまま、自身も『消滅』したのだ。これはエーリエルの持ち込んだアイデアで、本部の彼女らも同じ手段を実行している。都合、彼ら全員が一時間、この世から『消滅』したのだ。こうなってはサマエルですらも追跡は不可能だ。そして一時間後、彼らが何処に現れるのかも分からない。

 子飼いのフレンドを削られ、マックスとカロリナの奪還どころか、逆にピュセルを奪い去られてしまった。既に彼女の自らへの依存は霧消している。

 何れもサマエルにとっては屈辱的な結末である。しかし彼は、それについて憤る気配を欠片も見せない。彼の思考は、既に別の方へと向いていた。

「破壊。調和。創造。其処にもう一つ加わる事を、私は許容しない」

 

モンスター Ⅱ

 此度のオバケ屋敷は大活躍である。

 既にサマエル側に把握されているジェイズ隣のそれを離れ、エーリエルは新たなオバケ屋敷をカーラ邸跡地に作り上げていた。ここでハンター達は、器の第一候補と第二候補を匿う戦法を取った。しかしながら、それが永続的であるとは、ハンターは誰一人として考えていない。

「カロリナ、大丈夫?」

 カフェオレのカップをテーブルに置き、エリニスは沈思に耽るカロリナに声を掛けた。今の彼女らは、フレンドではない。ピュセルの怒りが昇華すると共に、サマエルの束縛からも解放されたのだ。その意味では、一時的にでもピュセルがエリニスに憑依した事は、或る意味で幸いへと働いたのかもしれない。

「ジルの事を考えていました」

「覚えているの?」

「おぼろげですけれど」

 礼を言ってカフェオレを啜り、カロリナは溜息をついた。

「僅かな記憶に残っている彼は、とても優しい人でした。貴族らしい丁寧な物腰で、それでも武人として毅然とし、私はきっと、彼に強く憧れていたのだと思います。その彼が今は見る影も無い。彼がまた現れる事を、私は確信出来るのです。これまで皆さんに多大な迷惑をかけ、あまつさえジルの事でも危険な状況に陥らせてしまいます。私は皆さんに感謝しているのですが、それ以上に申し訳なく思っています…」

「気にしないで、と言っても難しいかもしれないけれど」

 と、剣の手入れをしていたエーリエルが、真面目くさった顔で言う。

「あなたを助け出した時点で、この展開は織り込み済みだから。大丈夫、何とかしてみせるから」

 ウィンクを寄越すエーリエルに、カロリナが頭を下げる。宥めるようにして、エリニスの手が彼女の肩に置かれる。1人だけ量の桁が異なる朝食を平らげつつ、ドラゴはその様をニコニコと笑いながら眺めていた。が、フォークを置き、深刻な顔をエーリエルだけに向ける。

「しかしながらジルという吸血鬼は、カロリナにどのようなアプローチを仕掛けるのでしょうな?」

「分からない。それを見極めるのも此度の展開だとわたしは考えているわ」

「真っ当に戦って、勝ち目のある手合いではありませんからなぁ…」

 言って、ドラゴはEMF探知機を手に取った。反応は一つ。しかしこれは、敷地で待機しているノブレムの吸血鬼、ヴィヴィアンのものだ。彼は危険極まりないジルへの対処の為に、未だハンター達に力を貸してくれている。ふと、ドラゴは苦笑した。ハンター稼業をやってきて、まさか吸血鬼に感謝の念を抱いたのは、これが初めてであったからだ。

 

 ヴィヴィアンは首筋にチリチリと静電気が走るような感触を覚え、何気に後ろを振り返った。その先では、バーバラが玄関口をホウキで清掃している、牧歌的な眺めがあった。ヴィヴィアンは首を傾げ、また視線を戻す。

 彼の六感は並外れて鋭い。恐らくジルは電磁場異常を完璧に抑え込める故に、ハンターの探知に直前まで引っ掛からないはずだ。しかし自分であれば、研ぎ澄まされた感覚が敵の到来を拾ってくれるだろう。こうして数日を周囲の監視に費やしたものの、未だジルは現れなかった。

「ねえ、ヴィヴィアンさん」

 咄嗟、ヴィヴィアンは懐から牛の血パックを取り出し、ストローでジュージューと吸い上げた。そして迷惑丸出しの顔で顧みる。窓越しにアンジェロが手を振っていた。

「あのね。必要以外でボクに話しかけるのは止めて欲しいな。これでも吸血鬼なんだからさ」

「必要があるから話しかけたんだよ。ちょっと世間話でもしようと思って」

「突っ込む気も失せるよ」

「あのさ、ジルの事なんだけど。彼が寝返って、味方にならずとも敵の敵に回る可能性はあると思う?」

 アンジェロの言葉に、ヴィヴィアンは珍しく間抜けな顔を晒した。何言ってんだこの人。との思いを瞳に込めて。しかしアンジェロは気にせず続けた。

「彼には結構早くから関わっているから分かるんだけど、ジルの行動の根幹はピュセルへの想いで固められている。ピュセルの存在を本当に最近まで気付かずに居て、そして当の彼女はサマエルのくびきから遂に解放されたんだ。ならば彼女を束縛し続けた者に対し、反抗心を抱く事だって有り得るかもしれない」

「…それは極めて人間的な…いや、吸血鬼にも理解出来る話だね。しかしジルはどうだろう。あれはどうやら、元人間ではないらしいしね」

 ヴィヴィアンは目を背け、小さく肩で息をついた。

「ピュセルが束縛されていたように、ジルにもまた制約がかけられているんじゃないかな」

「ピュセル救出の軍を組織せず、不自然に退役してしまったっていう、アレか」

「君達はピュセルの束縛を人の共感能力で打破したけれど、ジルのそれは、きっと次元が違う。並の手段では、と言うより、手段そのものが無いかもしれない」

「ピュセル自身、カロリナがジルに干渉すれば、どうかな?」

「本当にどうかな? だよ。そもそも人間のレベルで、あの次席帝級を推し量るのは」

 其処で言葉を切り、ヴィヴィアンは猛然と引き攣った顔で振り返ってきた。アンジェロは面食らいながらも、つられて同じ方角を見る。そして彼もまた同じ顔になった。

 敷地の入り口に、黒い塊が立っていた。人の形をしているが、それはどうしても人には見えず、実際にそれは人ではなかった。

「馬鹿な。何故気付けなかったんだ」

 忸怩たる言葉を呟くヴィヴィアンの目の前で、その者、ジルが歩を進める。その先には、ホウキを持ったまま彼を見ているバーバラが居た。「逃げろ」という、ただその一言が喉から出て来ない。

 バーバラは姿勢を正して頭を下げ、近付いてくるジルに対し、暢気にも挨拶を述べた。

「おはようございます、ジルさん。でも、貴方はここに入っては」

 最後まで言えず、バーバラの体が縦三つに割れた。そして横にも三つ。ジルはバーバラを文字通り、一瞬で八つ裂きにした。

 転がる肉片を、汚物を見るかのように見下し、そしてジルは悠然と扉の前に立った。

 

「そんな」

 転がり込んできたアンジェロの報告を受け、ほんの僅かの間、エーリエルの思考が停止した。バーバラは北欧の神、ゲイルスケグルを取り込んでいる。ジルとの対峙の際には重要なトリックスターに成り得たはずだ。その彼女が、何も出来ぬまま一撃で殺されてしまうとは。そしてこれまでの苦しい戦いをやり抜いてきた仲間が、こんなにもあっさりと。

 しかし思考の空白を破ったのは、肩に手を掛けてきたドラゴだった。

「撤収しかありませんな。あれはこの状況で戦って良い相手では」

 と、ドラゴが軽く響いてきた炸裂音に意識を切り替える。仕掛けた血界煙幕が作動したのだ。が、それは屋敷内のジルがこの部屋に向かって相当接近している事を意味していた。屋敷はオバケ屋敷の上位互換であり、次席と言えど方向感覚喪失の度合いは強力なはずだ。それにしても早過ぎる。ドラゴはエリニスの袖を掴んで顔を強張らせているカロリナを目の端に置いた。

(そうか。カロリナが灯台守の役割を果たしていたか)

 ドラゴは躊躇なく『盾』を出し、扉の前面に展開させた。扉が蹴破られると同時に、『盾』を突出させる。

 ジルは突如立ち塞がった光の壁に押し込められ、唸り声を上げた。人間が使ってくる結界の類より、それは遥かに固い代物だ。それでもジルは手刀を作り、光の壁に突っ込ませる。突貫された壁は手刀で下から切り上げられ、やがて真っ二つに両断された。

 ジルが素早く眼球を左右に動かす。部屋に居るのは7人。そして目当ての女に視線を留める。前とは姿形が変わっていたが、魂の呼び声に相違は無い。ジルは相好を崩した。「鈍化」を仕掛けられ、若干運動能力が落ちた事も気に留めなかった。

「おお、可愛いピュセル!」

 窓ガラスを破り、ヴィヴィアンが部屋に突入した。初撃で強風をジルに直撃させ、突貫。周辺のインテリアがバラバラに吹き飛ぶ中、これだけの風圧を浴びてもジルは一歩も動いていない。ヴィヴィアンは怖気ず、トンボ返りを打って宙を舞い、チェーンをジルの首に引っ掛け、着地の勢いに任せて引き縛った。吸血鬼の首を容易く捻じ切る攻撃を、ジルは全く気に留めず、ただカロリナを凝視している。其処へ『加速』をつけたエーリエルが斬り込んだ。最大限に銀化された片手半剣の一撃が肩口に食い込む。刃は筋肉で食い止められ、通らない。通らないが、ジルはようやく顔をしかめた。ジルが左腕を振り上げる。同時にエーリエルが首に巻いていたスカーフを外す。

 超高速で振り切られた拳を、エーリエルはスカーフに被せていた『盾』で弾き返した。それを合図に、エーリエルとヴィヴィアンが左右から同時攻撃を開始した。ヴィヴィアンはイゾンで硬化した腕。エーリエルは片手半剣『テンペスト』。猛然と打ち込まれる拳と剣を、ジルは無造作な腕の挙動のみで防ぎ切る。

「止めろ。退け」

 その声と共に、ジルの腕が蛇行した。攻め手をすり抜け、2人にジルの手刀が迫る。エーリエルは『盾』で身を守り、ヴィヴィアンは『ツキ落とし』で首への一閃をかわす。しかし両者は、背中から床に叩きつけられる羽目となる。

「愚かなるお前達。俺が異能を行使しなかった理由が分かるか。俺が暴れればピュセルを傷付けてしまう」

 言って、ジルは一歩進み出た。ドラゴがエーリエルと目線を合わせ、頷き合う。

 どうやらジルは「ピュセルに会う」以外の行動に興味がほとんど無いらしい。それは撤収の好機であった。マーサ本部からの撤退時と同じ方法で、この場を離脱する事は可能だ。ドラゴはそれと気取られぬよう、エリニスが庇うようにして抱くカロリナの傍へとにじり寄り、アンジェロ、そしてマックスとアンナをハンドサインで呼び寄せた。エーリエルとヴィヴィアンが各々窓枠まで下がり、脱出の機を伺う。ハンターと吸血鬼の動きを微塵も介する事無く、ジルは続けた。

「ピュセルよ、どうか喜んでおくれ。ルスケス様からお許しを頂いたのだよ。君を私の庇護の許に置いてもいいのだと」

「何だって!?」

 アンジェロが堪らず素っ頓狂な声を上げた。ピュセルは本来、サマエルの子飼いであったはずだ。それをルスケスの側に預けるという展開は想定に無い。ピュセルの奪還という結果を受け、どうやらサマエルとルスケスの間で取引が行なわれたらしい。つまりジルは、大手を振ってピュセルに近付けるという訳だ。つまりこれで、ジルの離反という目は薄まった事になる。

「君には詫びを尽くしても詫びきれない。君がブルゴーニュ軍に捕まったと聞いて、俺は直ぐにでも助けに行こうとしたんだよ。しかし、そう決意した時、俺の心が変わった。まったく別のものになってしまった。俺は気が狂いそうになったのだが、でも、仕方無かったんだ。俺はあの瞬間から、自分が人間ではなく仕える者だと自覚していたのだ。でも、今は違う。これからは俺が守り通して見せる。俺にはそれだけの力があるのだから!」

「貴方を憎い、と思う心は未だ残っております」

 怯えるだけだったカロリナが、意を決してジルの言葉を跳ね返した。

「でも、感謝の心も残っているのです。貴方は本当に親切にして下さいました。あの時の友情は、確かに真であったと今でも思っています。でも、全て終った事なのですよ、ジル殿。私の名前はカロリナ・エストラーダ。ジャンヌ・ダルクが全う出来なかった人生を、彼女に代わって生きて行こうとする者です。私はもう、ピュセルではない」

「違う」

 ジルが呟く。その目は泳ぎ、大いにうろたえる気配があった。しかしジルには、彼女の言葉を受け入れる頭が最初から無かった。此度の到来は、結論ありきであったのだ。

「違うぞ! 俺には分かるのだよ、ピュセル! 俺は君を必ず連れて行く。君を守るという思いだけで、俺は生きてきたのだから!」

 

 はい、ここで一旦お休みしましょうね。

 ところで、本当に怖いものって何だと思う?

 私はね、怖いと思う心すら消えてしまう事だと考えるのよ。喜びも悲しみも、愛情も憎しみも。何もかもがね。

 

 あれだけ勢いに任せて吼えていたジルが、何もしゃべらなくなった。ジルだけではない。この一室に居る誰もが一言も発する事が出来ずに居た。

 部屋を支配するのは、重苦しい空気である。その空気は、渦巻く戦意と激情の全てを呑み込み、ただただ圧力を加えるように鎮座している。ドラゴは震える手で、EMF探知機を見た。反応はある。2人の吸血鬼、それだけだ。しかし、そんなはずは無かった。

 それは間違いなく近くに居た。人間には生存本能があり、その本能が「逃げろ」と叫ぶのだ。逃げろ、死が向こうからやって来るぞ、と。その威圧感は公平だった。人間、吸血鬼、例え強大な次席帝級であっても、公平かつ均質な恐怖、死への恐怖をその場の全員が味あわされていた。

 ジルが目線を後ろに遣る。ハンターの前では致命的な挙動であったが、彼の怯えは危機意識を完璧に消し飛ばしてしまった。

「何なのだ…」

 足音が聞こえてきた。靴音をわざと高く響かせて、もう直ぐ其処に行くよ、と言うかのように。

「駄目です、皆さん、逃げて下さい!」

 アンナが、アンナではない声で、アガーテの意識を露出させて叫ぶ。それをきっかけにドラゴのスイッチが入った。手はず通りにマックス、アンナ、カロリナ、エリニスを人形に変え、急ぎ抱きかかえて『消滅』する。ヴィヴィアンは身を翻して脱兎の如くその場から離脱した。残るはジル、それにエーリエル。

「あと十歩ほどで其処に着くわ」

 その声、バーバラ・リンドンらしいものの声は、エーリエルに告げていた。早く行きなさい、との警告を彼女に発してきたのだ。それでもエーリエルは、悲しみを込めて絶叫する。

「人間である事をやめて、それでは駄目なのよ、バーバラさん! わたし達、人間でなければ!」

『エーリエル殿、今は逃げなさい。最早あれは、相対すべき者じゃないから』

 透き通った声が脳裏に響く。エーリエルは頭を振って、窓枠から躍り出て『飛翔』を行使し、カーラ邸跡から飛び去った。

 これで残るはジル1人となる。ジルは金縛りにあったかの如く一歩も動けない。恐怖から一時逃れをする為か、思考が先程の声を思い出そうとする。

「先刻粉砕した老婆の声か。馬鹿な…」

 歌が聞こえる。聖者の行進。黒人霊歌。死者を見送る為の歌。ジルは全身をガタガタと震わせ、入り口に節くれた指が絡まる様を見た。

 そして恐怖の根源が、ヒョイと顔を出してジルを見上げる。ジルの喉から、けだものの悲鳴が轟いた。

 

結末

「フレンドを一網打尽に出来る手段があります」

 エーリエルが更に準備した『頑丈なオバケ屋敷・上位互換』。その狭い一室には、この事件に関わる面々のほとんど全てが勢揃いしている。彼らを前にカロリナは、極めて重大な話を切り出した。

「本部の地下には講和室があります。其処にある祭壇が、サマエルが人々を虜にする電波塔のような役割を果たしているのです。其処を破壊すれば、人々は正気に戻るはずです」

 その内容を理解し、ハンター達は意気軒昂の声を上げた。サマエルの子飼いとは言え、フレンドは普通の人間である。しかも昨今の情勢に乗じ、着々とその数を増やしつつあるのだ。それらが一挙に瓦解すれば、戦いは俄然ハンター側の有利となるだろう。しかし。

「最大の懸念は、矢張りサマエルよ。必ず奴は本部に居る」

「もう同じ手で引き摺り出す事は出来ないでしょうな…。さて、どうしたものやら」

 腕を組んで考え込むエーリエルとドラゴに、カロリナは申し訳無さそうにして、更に追い討ちをかけてきた。

「敵はサマエルとフレンドだけではありません。今度は天使が守りについています」

「何ですって」

「サマエルが手元に置いていた切り札達です。今や最強の段階に到達したフレンドは3人から5人居るのですが、そもそもフレンドは天使が降臨し易い体を作り出す為の存在でもあります。彼らは別の場所で匿われていました。ハンターの襲撃から守る為に。彼らが既に天使と契約を交わしている可能性は、高いと見ていいでしょう。ですので、今の本部には3人以上5人以下の天使が居る事になります」

 それを聞き、ドラゴが頭を垂れた。落胆したのではない。彼とエーリエルに力を貸す者との会話を試みたのだ。しばらくして顔を上げ、ドラゴがエーリエルに言う。

「あの力は天使に通用するそうですぞ。で、差し当たって、後で大事な話があるとも」

「話?」

『おおい、ピュセルちゃんを守っていた連中ー、聞こえるかあ?』

 その声は、いきなり面々の、否、サンフランシスコ市街全域に容赦なく轟いた。その声はハンターやマックス、カロリナ達に向けられたものだ。声の主は忘れもしない、ルスケスだった。彼は以前、同じ要領で街中に宣戦を布告している。ルスケスらしい、全く考えるという事をしない荒技である。しかしそれは、ハンター達の居場所がルスケスに、そして恐らくサマエルにも掴まれていない事を意味している。

『ジルの奴なぁ、あれ、えらい事になっておったぞ。精神を徹底的にぶっ潰されていやがった。腑抜けのパーである事よ。手前らよくもまあ、あれだけの化け物と行動を共にしていたものだな』

 一同は狭い室内で顔を見合わせた。

 前回の遭遇以降、ジルと、何か恐ろしいものと化したバーバラがどうなったかをハンター達は知らない。離脱後、即座に潜伏を開始したからだ。ルスケスが語る結末は、驚くべきものだった。ジルが敗北を喫したという。それもただの敗北ではない。

『ともかくあれだ、奴はクソの役にも立たん。よってその辺に捨てちゃったよ。新しい武器も幾つか手にした事であるからな。アハアハアハ』

「捨てた!?」

「そんな馬鹿な、まるで生ゴミみたいに」

『次いで言うとだねえ、人間の血を飲めなくなる呪いをかけてやったぞよ。あのジル様々がひもじい思いをしているなんて、想像するだに笑えるぜ。ところで例の化け物だが、ハンターの力になんてならないので残念でした。兄者が特別にブチ殺してくれるそうな。あんなもん、俺でもどうにもならぬ故な。という訳で、失礼仕るぜ』

 言うだけ言って、ルスケスは一方的に通告を打ち切った。一同は皆、怪訝な顔になった。早い話が、それは有益な情報なのだ。ジルが戦線を離脱した事を、わざわざ報告する意味が分からない。何か裏の意図があるのだろうか。

 しかし、サマエルが対バーバラ戦に取り掛かるというのは、本部を再度襲撃するのであれば、実に意義深い展開である。何しろこの街で最強の存在が、向こうから居なくなってくれるからだ。ただ、何処かで行なわれるだろう常軌を逸した戦いについて、不安が起こらぬ訳が無い。何か異なる者と成り果てた、かつての仲間の事を考えると。

 ふと、エリニスは傍らのカロリナが固く口元を閉ざしている事に気が付いた。その口が徐々に開き、小さく呟かれたその言葉を、エリニスは聞き逃さなかった。

「私ならば、彼を救う事が出来るの?」

 

 

<H4-6:終>

 

※特殊リアクションが一部PCに発行されます。後ほど特殊リアクションへのアドレスをお知らせします。

 

 

 

○登場PC

・アンジェロ・フィオレンティーノ : マフィア(ガレッサ・ファミリー所属)

 PL名 : 朔月様

・エーリエル・”ブリトマート”・レベオン : ポイントゲッター

 PL名 : けいすけ様

・エリニス・リリー : スカウター (ル・マーサ所属)

 PL名 : 阿木様

・ドラゴ・バノックス : ガーディアン

 PL名 : イトシン様

・バーバラ・リンドン : ガーディアン

 PL名 : ともまつ様

・ヴィヴィアン : 戦士

 PL名 : みゅー様

 

 

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ルシファ・ライジング H4-6【ブルー・クロス】