<ジェイズ・ゲストハウス>
真赤誓はゲストハウス3階の自室に戻る道すがら、あの奇妙で面白い老人の言葉を思い返していた。ヘンリー・ジョーンズと名乗る博士が、自分に対して述べた捨て置けぬ台詞である。
『何か「いい事」をされたはずだ。心当たりは無いかね?』
サマエルとの接触によって、自分に何かが仕掛けられたという意味だが、実に不気味である。例えば人間が悪魔や天使、この世ならざる者達と関わるうえで何らかの身体的変化が生じる、という話は、この街でも幾つか耳に入っている。禁術しかり、超能力覚醒剤しかり。
差し当たって自分には、目に見える、ないしは実感出来る範囲内で変化の兆しは全く生じていない。ただ、博士は確信を持って『何かされた』と真赤に言った。しかも干渉してきたのは、サンフランシスコにおいて霊的に最強の存在、サマエルなのだ。サマエルは恐らく、博士の言い方の通りに善意を施したつもりなのだろう。冗談じゃねえ、である。
何はともかく、一体自分に何が起ころうとしているのかを真赤は知りたかった。例えて言うなら、それは進行する癌に対して無自覚なまま時間を無駄にしているようなもので、あまりにも寝覚めが悪い。この超自然的展開に対して、ある程度の解を出せる者が居るとすれば、今のところ心当たりは1人である。キューだ。ゲストハウスの主だ。
果たして呼び掛けに応じるか否かは分からないが、ともかく彼に聞いてみようと真赤は心に決めた。大きく息つき、何気なく自室の扉を開いて足を踏み込む。
そして目の前の状景は、自分の部屋のものではなかった。
真っ白で果ての見えない、ひたすらだだ広い空間が真赤の前に広がっている。真赤はこめかみに指を当てて顔をしかめ、扉を閉めようとして気が付いた。そんなものはとうに消失していると。
「こんばんは、キリスト教的に言えば迷える子羊君」
と、横合いからいきなり声が掛かる。何時の間にかカウチソファが間近に置かれ、ひらひらと小さな手が向こう側から挨拶を寄越してきた。くつろぎながらこちらに背を向けている者が、誰なのか分からぬはずもない。
「ちなみにジーザスは、迷える子羊なんて台詞は一言も言った事がないんですけどね」
「あのな…ゲストハウスの主さん」
「あ、こちら側には回らないように。目が潰れますからね」
真赤は言われた通り、その場に立ってキューの話を聞く事にした。存在意義、即ちふざける事がモットーのキューではあるが、彼のアドバイスに関しては的確だ。その彼がわざわざ自らの住まう空間に招いたとなれば、つまり自分の意図を承知のうえなのだと真赤は解釈する。キューは真赤が問うまでもなく、彼の問いに自らの考えを告げた。
「取り敢えず、君に関しては出入り禁止とはしない方針です」
「そりゃまた何で? 俺ぁキューさんにとっちゃ大敵である、サマエルの干渉を受けてんだぜ?」
「吾が出入り禁止にする判定基準の一つには心があります。強大なものに寄りかかり、身も心も魅了され、人としての心を失い、この世ならざる者に成り果てる。差し当たって、多分君はその心配が無さそうです。君には立ち位置を頑強に人間の範囲へ留めておく意志がある。そのように吾は考えました。ま、先の展開ではそれを取り消すかもしれませんが、君は自らの変容に自分を見失う事は無いでしょう。多分」
「成る程、何かされているのは確定的って訳だ。果たして俺は、どうなっちまうんだ」
言うと、がさごそとソファから音がした。キューが座り直したらしい。あのキューが居住まいを正したという事は、つまり相応に深刻な話をするつもりなのだろう。真赤は息を呑み、聞き耳を立てた。
「確信ではありませんが」
と、キューは言った。
<A:真赤 ドラゴ エーリエル>
「必殺、蜻蛉切!」
芝居がかった台詞と共に、エーリエル・レベオンの右掌に光の槍が出現した。狙い違わず、真赤目掛けて投擲する。しかし撃ち込まれた真赤は、凄まじい勢いで胸に衝突した槍を受けてもどうという事は無い。真赤は頭を掻き、ぽつりと言った。
「何だコリャ。痛くも痒くも」
「さあ食らいやがりなさい、倒れるがいいですぞ!」
「いやいやオッサン、倒れちゃ駄目だろ」
真赤の抗議をものともせず、今度はドラゴ・バノックスが光の槍を投げ込んできた。次いでエーリエル。またドラゴ。そうして交互に槍を真赤にぶつけ続けてみたものの、真赤は益々眉間に皺を寄せるのみだった。
エーリエルとドラゴは、ヴァルキリーという古い神から不思議な力を授かっている。ヴァルキリーはそれをジャベリンと称していた。彼女言うところの『穢れ』を祓い、ル・マーサのフレンドに巣くうものを消滅させる。しかしその力が、真赤に何らかの変化を及ぼす気配は見えなかった。エーリエルとドラゴは顔を見合わせ、多少切れ始めた呼吸をなだめるべく、無為な作業を止めた。
「畜生、なかなか倒れないわね」
「芝居でも『やられたー』とか言ってほしいですぞ」
「いやいや、倒れちゃ駄目だろ。それにしても、変化無しか。なぁにがヴァルキリーだ。大した事無えじゃん」
ここは夜のとある公園。人目のつかぬ頃合に、彼らは実験を試みていた。果たしてヴァルキリーの力が、真赤がサマエルに施された何かを打ち消せるか否か。結果を言えば、否だった。所謂フレンドに対しては、ヴァルキリーは効力を確約していたのだが。
フレンドと真赤は、サマエルに干渉を受けたという意味では根っこが同じはずである。だからジャベリンが何らの影響を及ぼさないというのは、考えてみれば奇妙な話である。一体どういう意味があるのかと、3人が腕組み考え込む。
と、エーリエルが思い出したように面を上げ、スタスタと真赤に歩み寄る。拳を固め、ハーと息を吐きかけ、おもむろに真赤の額目掛けて拳骨を当てる。ガツン、と小さな音が響き、真赤がくらりとよろめいた。
「痛え、超痛え! 何しやがる小娘がっ!」
『何しやがるも何も、美しく強く美しく可憐で美しい世界の人気者の戦乙女に「大した事無え」とは何たる不敬。しかし私は心が広い。拳骨一発の対価で勘弁してあげるわ』
腰に両手を当て、エーリエルは「ムン」と胸を張った。呆気に取られていたドラゴが、その言葉で瞬時に状況を理解する。
「これはこれは、いきなり登場されましたな、ヴァルキリー殿」
「いや、エーリエルだが?」
「体に乗り移られたのですよ。この方の常套手段です」
ドラゴは丁寧に一礼し、面食らう真赤に彼女を紹介した。
「かように唐突な方でして、何故か決まって依代はエーリエル嬢なのですよ」
『この少女、エーリエル殿は波長が合うのよ。可愛いし。私が人間になるとしたらこんな感じじゃないかな。改めてこんばんは。今日は良い夜だわ』
ヴァルキリーは軽く膝を曲げ、ドラゴと真赤に一礼した。
『それにどうせ乗り移るなら乙女同士の方が、お互い気分的にもよろしいのでなくて?』
「乙女って年かよ」
真赤の小さな呟きを聞き逃さず、ヴァルキリーは笑っていない目の笑顔を向け、拳骨に息を吐きかけた。真赤は背筋を震わせるも、二発目が額に激突する事は無かった。ヴァルキリーの瞳が、不意に正気づいたからだ。エーリエルに戻ったのだ。
「ちょっと待って!」
エーリエルが不満を露に訴える。
「わたしが会話に参加出来ないのは不公平じゃない!? 折角ヴァルキリーなんて超メジャー級が間近に居るっていうのに」
『あらあら、素直でいい娘ねぇ。後でサインをあげちゃう』
と、再びヴァルキリーが憑依する。どうやら意思を交互に入れ替えるのは容易い所行らしい。以降、エーリエルとヴァルキリーは傍目独り言のように会話をする事となる。
『で、真赤殿に私の力が通用しない理由だけど』
ヴァルキリーは真赤の周りをくるりと歩き、顎に掌を当てて首を傾げた。
『サマエルは、正直言って存在感ではルシファに匹敵する。私とは桁違いの存在というワケ。ただ、力の差があり過ぎる、というのは考え難い』
「と言うと?」
『人間だって、蟻に噛まれれば痛いでしょう? 全くの無反応というのは、有り得ないという事』
ヴァルキリーは難しい顔を見せた。そして如何にも苦し紛れに言ったのだが、その言葉に真赤は戦慄した。
『もしかしたら、真赤殿という存在そのものに変容が発生しているのかもしれないわ。サマエルは、その切っ掛けを作ったに過ぎない、とか』
真赤は顔に脂汗を滲ませた。同じなのだ。言っている事が、ゲストハウスの主と。真赤の問いに対してキューが言ったのは、次の通りである。
『君という存在が、人間から派生したものになりつつあるような気がします。面白くない言い方でしょうが、新種の生命体ってとこでしょうか』
神の域にあるものが、異口同音に考えを述べたのだ。つまり確度の高い話である。
(新しい種の人間って事かよ)
それこそ冗談じゃねえ、と真赤は思った。
皆が帰った後、エーリエルは公園のベンチに1人で座り、色紙をじっと眺めた。妙に可愛げのある文字で、こう書いてある。
『ばるきりー えーりえる殿江』
エーリエルは、項垂れた。あまりのありがたみの無さに。
<ル・マーサ本部>
女性物の修道服を着てしまえば、アンジェロ・フィオレンティーノは頭の天辺からつま先まで女性そのものの風体になる。アンジェロは掌を胸の前で愛想よく組みつつ、如何にも『感動しがちな乙女』の雰囲気でもって、カロリナ・エストラーダとソファで相対していた。
「ああ、感激です。こうしてマーサの代表と直接お話しが出来るなんて!」
アンジェロは頬を紅潮させながら言った。
「私はマフィアの一員です。常日頃からマーサの慈善活動には憧れていたのですが、マフィアという相容れない立場もあって、参加をためらっていたんです」
「まあ、そうだったんですか。つまり勇気を振り絞って、この屋敷に来て下さったという訳ではない」
対するカロリナは、あくまで柔和な笑みを絶やしていない。
アンジェロの口からマフィアの名が出たからには、カロリナも彼がハンターと何らかの関わりがある事を承知しているはずだ。この街のマフィアと呼べる存在は2つあり、何れも昨今のこの世ならざる者が引き起こす騒動に、大なり小なり関連している。何処から仕入れてくるのかは分からないが、カロリナはそれらの状況をかなりの範囲で熟知している。
それを承知のうえで、アンジェロは自らの身元を晒した。彼としてもカロリナが尋常の存在ではない事は知っており、つまりカロリナは下手な隠し事を出来る相手ではない。
「しかし、何故改めてマーサに入ろうと思われたのですか?」
来るべき質問が来た。アンジェロは胸を張ってから前屈みの姿勢を取り、大きく開いた瞳でもってカロリナの目を覗き込んだ。
「マーサの皆さんと共に、あなたは悪魔と戦われました」
「はい、その通りです。ハンターの方々からお聞きになりましたね?」
いきなり直球を投げ込んだアンジェロに対し、カロリナは臆面もない笑顔で応えた。ハンターとの関わりについても撫でられ、アンジェロが心中で一瞬躊躇する。しかし彼は、不動の好意を露わに口を開いた。
「ハンターとマフィアは裏のルートで繋がっていますから、そうした話も耳に入ります。で、思ったのです。私にも何かが出来るのではないかと。悪魔が現実の存在として脅威を波及する昨今、普通の人間である私には何も出来ないと考えていました。汚れた者とは言え、マフィアにも地域を守るという矜持があります。この危機に対して手も足も出ないというのは、忸怩たる気持ちですよ。でも、マーサならば戦えます。あなたが率いるマーサならば。ジャンヌ・ダルクの生まれ変わりであるあなたならば。あなたの為なら、私はジル・ド・レエにでもなってみせます」
「ジャンヌの生まれ変わりとは、何とも贔屓目に見て頂いたものですねぇ。でも、ジル・ド・レエというのはあまり笑えません事よ?」
苦笑するカロリナを前に、アンジェロは若干訝しいものを感じた。彼女は比喩表現として受け止めていたようだが、ジャンヌの転生という見立てはアンジェロの本心である。ジャンヌの魂は実在し、かつ『御主』の最も近くに在る。先のマーサによる悪魔との一戦で、カロリナはその推測を裏付けるような姿を見せていた。果たしてカロリナ自身が無自覚であるのか、或いはとぼけているだけなのか、今のところその判別は出来ない。
カロリナは立ち上がって、アンジェロに右手を差し伸べた。
「歓迎しますわ。今は出来る限り多くの友人との繋がりを求めております。御主の御威光を影日向となって支える為、一緒に頑張って行きましょう!」
「ありがとうございます!」
力強く手を握り返し、アンジェロは心の奥底で安堵の息をついた。元来交渉上手のマフィアの出自、カロリナは自分を「善意の協力者」と評価してくれたようだ。
これにてアンジェロは、しばしマーサとの道行を共にする事になる。幾分の心配があるとすれば、部屋を辞するカロリナを迎える者、エリニス・リリーの存在だ。彼女はカロリナに忠誠を誓い、マーサに参入した元ハンターである。しかし自分の面は恐らく割れていない。これまでハンターとは積極的な交流を持っていないし、彼女との面識に至っては全く無い。その考え通り、エリニスは礼儀正しくアンジェロに会釈した。
「この部屋でもう少し待っていて。他のフレンドにも紹介するから」
扉が閉まると、ようやくアンジェロはソファで身を崩した。まずは最初の第一歩を踏み入れた。これからすべき事は沢山あるが、まずは上々の滑り出しだとアンジェロは捉えている。
しかしながら、彼は一点のみ見落としをしていた。御主、サマエルを通じて、カスパール陣営とマーサには濃厚な繋がりがある。その張本人、カスパールが彼の顔を知っていた事を。
扉を閉めて面を上げると、モートが階下の広間から手を振ってくるのが見えた。エリニスに声を掛けるでもなく、しかし何らかの用件があるらしい。エリニスは努めて表情を消し、階段を下る。踊り場の所で上がってきたモートに会い、2人は壁に背を預けて互いを見向きもせずに話し始めた。
「どうだったかね、アンジェロという者は。当たり前のように女装しているが、随分個性的な趣味を持っているな。覚えは無いのかい?」
「無いわ。ハンターの頃に、彼とは面識が無かったから」
「そうかい。ともかく残念ながら、ハンター諸君は我々に敵対しつつある。その関係者というのは当然警戒対象に入る訳だが、撮っておいた彼の顔に心当たりのある者が居たよ」
「誰?」
「カスパール。下劣な悪魔さ」
言って、モートはこれみよがしに携帯電話を弄んだ。エリニスが露骨に顔をしかめる。
「最早、悪魔との関連を隠し立てはしないのね」
「君もとっくに承知のうえだろう。あれは悪魔だが、御主に身も心も捧げる者の1人だ。ちなみにカロリナ様やフレンド達は、その事実を知っても眉一つ動かしはしない。御主への忠節以外に、余計な事を考える必要は無いからね。君は今一つ御主への信心が足りないように見受けられるが、褒められたものではないぞ」
「用件は何? 早く言って」
「せっかちだなあ。で、カスパールの言を参考にすれば、アンジェロの当時の行動から察するに、彼のマーサへの心酔には疑問の余地が感じられる。彼の一挙手一投足を見逃さず、注意を払い続ける事だ。私としては、さっさと消えて頂くのが一番手っ取り早いのだがね」
「天使の台詞じゃないわ。この屋敷で殺傷沙汰なんて、あり得ないから」
言いながら、エリニスはアンジェロがフレンド達を待つ応接室を顧みた。口元を僅かに緩ませ、しかし冷たい目をモートに向け直す。
「分かったわ。彼の行動には注意をしておく」
<B:エリニス>
「ところで、話ついでにもう一つ伺いたいのだが」
用済みとばかりに立ち去ろうとするエリニスに、再びモートが声を掛けた。
「結局君は天使をその身に降ろさず、理力を手にする事も無かった。何故だ? カロリナ様を守る大きな力を手に入れられたのだぞ?」
「アタシは、アタシよ。それ以外の何者でもないわ」
怒りの感情を瞳に凝らし、エリニスが容赦なく続ける。
「アタシは確かにカロリナを守りたい。でも、アタシの心を保ったままでね。アナタは人間の力など些細なものだと思うかもしれないけれど、人は思った以上に色んな事が出来る。人間のアタシを、あまり見くびらないで欲しい」
「分かったよ。元より強制ではない。と言うより、強制自体が不可能なのだ。天使をその身に降ろすというのは。まずは人の力で努力を続け給え。陰ながら応援しよう。しかしエリニス、君は自分が本当に人間だと言い切れるかな?」
皮肉な言い方を土産に、モートは立ち去って行った。その後ろ姿を、不機嫌にエリニスが見送る。
以前から知っていたが、モートにはカロリナ個人に対する愛着が全く無い。全ては御主が為という訳だ。カロリナ、フレンド、ル・マーサ、果ては自分自身すら、モートは手駒に過ぎないと考えているのだろう。
自分は違う、とカロリナは思う。モートにも指摘されたが、自分は御主への信心を敢えて足りない者としている。敬愛するのは、カロリナだけだ。自分の心に空いてしまった大きな穴を、埋めて癒してくれるのは彼女だけなのだ。
その彼女が、あの日あの時に言った台詞をエリニスは忘れていない。『助けて』と。マーサという組織が異様なものへと変貌し、カロリナ自身も得体の知れない何かへと変わりつつある状況にあって、他ならぬカロリナがか細く救いを求めたのだ。それはエリニスにとって、捨て置けぬ姿であった。
カロリナを助ける。エリニスはあの時に誓った。それが御主の意思に反逆する所行であったとしても。
と、胸の奥に針が突き立てられたような痛みが走った。物理的ではない、魂が直接かき回されたような衝撃に、図らずも膝が崩れそうになる。それは一瞬で収まったものの、エリニスは胸を擦り、我が身を茫然と見下ろした。
「まさか」
エリニスが呻く。
まさか、フレンドとなったこの体は、御主からの逸脱を戒めようとしているのではないのかと。去り際のモートの台詞が思い出される。
『君は自分が本当に人間だと言い切れるかな?』
<サンフランシスコ・ウォーキング>
マクシミリアン・シュルツことマックスの昏睡状態は、然程時間もかからずに回復した。
しかしながらマックスは、目に見えて意気消沈している。物理的に影響を及ぼされている気配は無い。恐らくは彼の心に何らかの暗雲が立ち込めている、といったところだろう。
そんな訳で、真赤は彼を外に連れ出す事にした。セーフハウスに閉じこもっていたところで、何らの進展も起こらないだろう。であれば、いっそ日の光を浴びて行動に打って出るのも手段の一つである。如何にも真赤らしい配慮だった。
とは言え、マックスがサマエルの最重要ターゲットである点に変わりは無い。真赤としては十二分に防御を考えねばならないところである。加えて、此度は無目的に歩き回るのではない。これは、きちんと目的意識を持った外出なのだ。
真赤曰く、「聖遺物探索のお手伝いでもしようぜ」。一行はヘンリー・ジョーンズ博士とブラウン・ファレル助手と共に、しばしの間行動を同じくする事となった。
ただ、この時点での真赤は知る由も無かった。実は博士との同行が、副次的な効果を発揮していたのだと。
「…おかしいな。以前は必ず四方八方から視線を感じていたのだけど」
未だ疲労の癒えない顔ながら、マックスは周囲の状況を的確に述べた。以前であれば、マーサの息がかかった一般市民からの監視の目が、サンフランシスコの至るところから発せられていたものだが、今回はそれが全く無い。
実を言えば、その変化にはジョーンズ博士の存在が起因していた。彼は聖杯の水を飲み、ジーザス・クライストの記憶の残滓を持つ男である。悪魔は勿論、ジーザスに恐れを抱く天使に至るまで、その僅かな記憶すら彼らは忌避している。サマエルの影響下にあるマーサの者達も、また同じくであったのだ。尤も、ただの市民でもある彼らは、何となく博士の居る方角を向きたくない、という程度の理解しか無いのだが。
少なくとも、見られているとの気苦労から一時的にでも解放されたマックスであったが、時折考え事に耽って押し黙る等、その気持ちは相変わらず晴れていない。一行はツインピークスの小高い丘の上に足を運び、サンフランシスコ市街を一望する位置で散策の小休止を取っている。ここからの眺めは昼も夜も素晴らしい。ただ、マックスは景色に心を和ませようとはせず、1人ベンチに腰掛けて俯いてしまった。
「あなたは何を見せられたの?」
そう言って傍らに腰掛けてくる女性を、マックスは面を上げて見詰めた。バーバラ・リンドンだ。マックスにとって、彼女はこの世ならざる者達の実在を理解させた最初のハンターである。バーバラは年齢を重ねた女性らしい愛嬌でもって、マックスに優しく語りかけた。
「あなたがサマエルにとって最愛の人間である事は、ハンター達がみんな知っている事よ。だから、対処について多かれ少なかれ全員が意識を共有しているわ。その為に真赤君があなたの傍に居た訳だし、私も常々力になりたいと考えている。だからマックス、きっと話をすれば気が楽になるわ。その話から、きっと私達は対処を講じる事が出来るから」
「多分、無理だと思う」
マックスの返答は素っ気無く、諦念に満ちていた。
「僕が見せられたのは、未来だ。未来が一体どうなるのかを。それはサマエルが引き起こそうとしているんじゃない。ルシファが作り出す地獄絵図だったよ」
「話してごらんなさい」
バーバラに促され、マックスは訥々と話した。去り際のサマエルが一瞬の間に見せた、これからしばらく後の世界の姿を。
「最初に大破壊があった。降臨したミカエルとルシファが核となる、天使と堕天使の最終決戦さ。これで地球全土の人口が半減する。戦いの結末がどうであったかは分からないけれど、大破壊終結後の人類は、どういう訳か二手に分かれて戦争を開始した。切欠はルシファが与えたらしい。その後の戦いにルシファはほとんど何も関与しなかった。人が人に、自ら手を下すんだよ。一方は意識が悪魔のように変貌していて、もう一方は辛うじて理性を維持していた。でも理性の側にしたって、変わってしまった人間を殺戮するのに躊躇が無い。大破壊の後に悪魔の側が大量破壊兵器を繰り出して、瞬く間に世界の人口は更に4分の1くらいまで減退する。其処から理性を維持する側が反撃を試み、先の見えない殺戮戦が始まった。そうやって極度に人口を減らしても、多分人間は絶滅しないよ。恐怖と憎悪の関係性は延々と維持されて、人間は旺盛な戦闘意欲でもって存在し続ける。でも、人の善き姿からは程遠い代物だ。ルシファの狙いは、それだけだった。人間、かくも醜しと、彼の父親に見せ付ける為。ただそれだけがルシファの目的だったんだ…」
語り終えて、マックスはツインピークスの情景をぼんやりと眺めた。ここはフリスコの数ある観光名所の一つだ。地元の家族連れが憩いを求め、観光客が市街を背景に記念写真を撮っている。そんな牧歌的な風景が、あと少しで終わろうとしている。しかし。
「だからサマエルは、少なくともサンフランシスコを守りたいと言っていたよ。自分の力ならば、大破壊とその後の戦争から、この街を切り離す事が出来るそうだ。そして力を蓄え、何れ世界を本来あるべき善き方向へと舵を切り直す。その為に、僕と一つになる事が必要だと。あの未来は、サマエルが見せた出鱈目の景色じゃない。何しろサマエルは、嘘をつくという概念を持ち合わせていないのだから。ねえ、バーバラさん。果たして何が正しく、何が間違っているのだろう」
「…クロートーン・ウィルス」
「え?」
バーバラにいきなり意味の分からない単語を述べられ、マックスは豆鉄砲を食らった鳩のような顔になる。対してバーバラはウィンクし、彼の背中を軽く叩いてやった。
「人間の意識を極度に凶暴化させる効果があるわ。そんな人の魂に感染するウィルスを、ルシファはばら撒こうとしているのよ。大破壊後の戦争は、それが原因ね」
「どうしてそんな事を」
「知っているのかって? それに対処する為に動いているハンター達から聞いたのよ。マックス、意外に思うかもしれないけれど、私達は天使や悪魔が思う以上に食い下がっているわ。ここではサマエルとの戦いが続くけれど、ルシファに対抗しようとする人達も決死の覚悟で挑んでいる。天使や、或いは堕天使達は、自らを超越的存在と認識し過ぎる節があるから、彼等が見た未来は不変であると確信しているわ。でも、世界っていうのはそんなに生易しいものじゃない。ほんの僅かな行動がその後の流れを大きく変えてしまう危ういものよ。私たちの行動は、意思に基づいている。その意思の強大さを、ルシファやサマエルは理解出来ていない。だからマックス、私達と自分を信じて。多分サマエルの言う新秩序は、私達の自由意思をがんじがらめに絡め取る、心の監獄を強制する代物なのよ」
「…何か、上手い言葉が見当たらねー」
話し込むマックスとバーバラから距離を置き、アンナ・ハザウェイは苦い顔でその様を眺めている。落ち込んでいるマックスを彼女なりに励ましたいとの意思が見え、最初の頃に比べればずいぶん優しいものだと真赤は感心した。
しかし、マックスに対するアンナの微妙な距離は、同じくジョーンズ博士に対しても感じられる。その旨を真赤がアンナに問うと、彼女は首を傾げて要領の得ない答えを返した。
「どうも、苦手って言うか、駄目なんだ」
「何だそりゃ」
「頭が上がんないみたいなさ。私だけじゃなく、マックスもそうみたいだけど」
「訳が分からねえ」
「私もだよ」
博士はジーザスの記憶持ちである事は、真赤も後々に知る事実だった。が、今のところは『性に合わねえんだな』程度の印象しかない。肩を竦めて飲み物を買いに行ったアンナを余所に、真赤は興味深そうに散策する博士と助手の元へと向かった。
「うぃす」
「よう、真赤君。改めてツインピークスへのお誘いに感謝するよ。この丘に吹く風は実に気持ちがいい」
博士は飽く迄上機嫌である。主だった調査が夜に集中する分、日の光を浴びるのは良い気分転換になったのだろう。真赤は肩を並べ、ツインピークスを目的地とした経緯について、博士と会話を始めた。こうした考察のキャッチボールは、博士の大好物である。
「俺としては、その聖遺物とやらがツインピークスにあるかもしれねえ、って思った訳だ」
「ほう。考察の推移について、あまりにも興味深いな。是非お聞かせ願いたい」
「ロンギヌスの槍なんて代物を探すにあたって、事前情報がほとんど無いってのはどうなんだって話でさ。ま、推測に推測を重ねるのも、事を起こすには悪くないと思ったんだ。何しろ推測を立てれば、当たり外れ関係無しに動かざるを得ない。動きゃ漠然としたものが形になる」
「その考え方には賛同するよ。考古学も机上の推論ではどうにもならん。やっぱり実地で動いてこそだからな」
「で、ツインピークスという地名に焦点を絞ろうと思ったんだ。地名には必ず何某かの由来があるからね」
「成る程、地名の由来か。面白い着眼点だ。一応は『双子の山』という意味合いになるが」
「『二つの乳房』という俗称でもある。ジーザスがロンギヌスの槍で刺されたのは脇腹だったが、脇腹ってのは胸の下にあるもんだ」
「おお、そう言えばそうだ」
「そしてもう一つ。ツインピークスはかつて『サン・ミゲル・ヒルズ』って呼ばれていた。スペイン語で聖ミカエルの丘。かつてサタンの別称を持つサマエルは、ミカエルと雌雄を決して地に落とされた。因縁浅からぬ間柄という訳さ」
「成る程。面白いな。実に面白い」
「面白いついでに、これでも見てくれよ」
言って、真赤は小さなタウンマップを広げた。サンフランシスコの見取り図にサンフランシスコ市営鉄道、通称Muniの路線図が描かれたものだ。真赤はその内、メトロの路線を指でなぞった。メトロが地下に潜り、サンフランシスコ南西へと向かう途中、ツインピークスのほぼ直下を通り抜ける。
「この通り、ツインピークスには地下が存在する、とも言える。多少はアプローチの意味があるかもしれないぜ?」
「確かに、こういう特異な代物は地下に眠っているのが常套ではあるな。こう見えても地下道には慣れていてね。潜入探索か。実践考古学者の血が騒ぐな」
「…ま、推測は推測でしかないんだが。地名が宝物の在り処を指すってんなら、世界中は宝の山だし。参考程度に留めておいて貰った方が、俺としても気楽だぜ」
「いや、その参考が貴重なのだ。次回以降の調査活動の際には、考慮の一つとさせて貰おう。言葉の連想は遊びが過ぎると堂々巡りになるが、注意深く情報を取捨選択すれば、大いに考察の助けとなる。特にロンギヌスの槍は、もしも隠されたのであれば糸口が残されているはずだ。何れ活用される事を期待する為にね」
あまり真に受けられてもなあ、と真赤は頭を掻いたが、意気軒昂の博士を見ているとそれは口にする事が憚れる。本人のやる気を更に引き出したのなら、聖遺物探索行に対してもプラスである。
と、真赤は助手のファレルが遠く一点を凝視している事に気が付いた。彼が見ているのは間近ではない。ずっと遠く、市街の景色に溢れる建物の数々だ。どうしたのかと問うと、ファレルは首を振って答えた。
「何かが意識をこちらに向けているな」
「何だって」
EMF探知機を取り出す。反応ゼロ。しかしファレルは真赤に対し、大丈夫、とでも言う風に片手を上げた。
「インディアンの勘働きだ。そいつは特に何をするでもなく、ただ遠巻きに見ているだけだ。こちらに干渉して来ないのは、何らかの根拠があるからだろう」
「サマエルか?」
「其処まで桁外れではない」
「じゃ、天使モートかもしれねえ。大丈夫、俺も対策は考えているぜ。それに今回は、ガード役でバーバラのおばちゃんも来ているしな」
真赤は自慢げに頼れる仲間を紹介してみせたが、博士と助手の表情は些か訝しいものがあった。
「天使殺し、ですか。彼女は並大抵の者ではありません」
助手の苦い呟きに、ジョーンズ博士も頷いた。
「力は語る程ではない。彼女の場合、その真に恐るべきものは…」
<ジェイズ隣のオバケ屋敷>
『私達の世界は混迷の中にあります。自然災害、各地で勃発する紛争、そして頻発する超常現象。これはまさに、黙示録が指し示す世界の終末の姿そのものと言えるでしょう。事実、ここに居られる方々ならば御承知でしょうが、この街にも悪魔が現実の脅威として到来しているのです。しかし何も恐れる事はありません。御主の思し召しに従い、忠実な下僕として活動する私達は、悪魔を恐れる理由が無いのですから。御主は悪魔に対しても、計り知れない慈悲の心で跪かせる程の偉大なる方なのです』
「もういいわ、切って」
『折角決死の思いで録音したのに』
「どうせその後も、大した事は言ってないのでありましょう?」
『ま、その通りなんだけどね』
乾いた笑い声と共に、一層熱を帯びてきた講話が中断された。マーサに潜入しているアンジェロは、こうしてカロリナの語りについて、主だった内容を毎日ICレコーダで録音している。エーリエル・レベオンとドラゴ・バノックスは、それを一言余さず聞く事が日課となっていた。しかし今現在までは、何らかの糸口になるような内容を拾う事は出来ていない。
糸口とは、第二次下界戦への参入について、である。前回の戦いはハンター達の介入もあり、マーサとしては不十分な結果に終わっていた。よって次の戦いにも介入し、敵と味方に更なる出血を求める。これはマーサの代表、カロリナ・エストラーダが断言していた事だ。狂気に満ちたマーサの裏の顔は、最早ハンター達にとって周知の事実となっていた。
「全く、初期の頃の穏健なボランティア風情を、装う事もしなくなりましたな」
鼻を鳴らしつつ、ドラゴは実に面白くない顔で言ったものだ。エーリエルはと言えば、頭を片手で支えてげんなりした笑みを返すしかなかった。
「それだけ向こうさんも事態が逼迫しているのかもね。一刻も早くサマエルを地上に引き上げたいってとこなんでしょ。アンジェロさん、他のフレンドに警戒されていない? 大丈夫?」
『僕にも危険分子と認知されるくらいの覚悟はあったんだけど』
携帯電話はアンジェロと繋げられたままだ。電話口のアンジェロは、不審も露の声で言った。
『不思議な事に、ほとんど監視の目が無いんだ。どう考えても、僕、怪しいでしょ?』
「それを承知であそこに入り込むとは、大したキンタマの持ち主ですな」
「ドラゴドラゴ、わたし女の子女の子」
『出来れば取っちゃいたいんだけどね。邪魔だから。で、一番警戒していた「彼女」も、どうも僕に対しては緩いんだ。まるでわざと監視の目から外しているような。考え過ぎかな』
「獅子身中の虫としては、プラス思考は捨て置くが無難でしょうな」
「引き続きお願いね、アンジェロさん。でも、少しでも危険だと思ったら一気に退いて」
『気にかけてくれてありがとう。それじゃ、また』
其処で通話が切れた。携帯をたたむ前に、エーリエルがGPS機能で居場所を確認する。地図のポイントはマーサ本拠地を示していた。マーサの真っ只中で外部に連絡するとは、確かにアンジェロは肝が太い。
「オレンジジュースでも飲みますか?」
「あ、どうもありうがとう」
ドラゴが気を利かせ、エーリエルにトロピカーナのグラスを手渡す。ドラゴはコーヒーを一杯。2人は黙って各々の飲み物で舌を湿らせ、何となく部屋の周囲を眺め回した。
ここは何処にでもある、一般家庭の居間だった。ジェイズにかような生活感溢れる部屋は無い。この居間のある建物は、ジェイズの隣にエーリエルが用意した、極めて頑丈なオバケ屋敷なのだ。
キューによる不条理アイテム、『頑丈なオバケ屋敷』は、その名の通り常軌を逸している。ジェイズ・ゲストハウスが寂れたビル街にあるとは言え、ジェイズの両隣は空き地という訳ではない。ところが『オバケ屋敷』は、その左隣の空きビルをオバケ屋敷化してしまったのだ。幾ら何でも土地の所有者だっているだろうに、その辺りの認識もかのアイテムはうやむやにしてしまう。正に不条理の極みであった。
エーリエルがこういうものを準備したには、当然ながら理由がある。かようなものを何となく出現させるほど彼女も突飛ではない。
彼女らの狙いは、この屋敷にジェイズで匿ってもらえなさそうな者を迎え入れる事にある。エーリエルとドラゴは、カロリナ・エストラーダをサマエルの膝元から奪還する手段を準備しているのだ。
「状況を引っ繰り返す大作戦ですな。人は少ないですが」
と、ドラゴ。
「大作戦よ。人、少ないけど。だから極力シンプルに行かなきゃ。彼女を奪い去って匿う。要はこれだけ。シンプルなだけに、速度が戦いの全て。ドラゴ、本当に当てにしているわ」
「我々の連携は完成度を高めております。早々屈する事はありますまい。アンジェロ君とも、きっと上手く行きますよ」
「…その彼の事だけど」
グラスを両手で握り締め、エーリエルは初めて不安な表情を見せた。
「転生なのか、魂憑きなのかは分からないけれど、カロリナがピュセルと強い因果で結ばれているのは、確度の高い話だと思う。果たしてジル・ド・レエを、カロリナは動かす事が出来るのかしら」
エーリエルとドラゴは、アンジェロ・フィオレンティーノと組んでカロリナ奪還を企図している。しかしその最終目標には大きな差があった。2人はカロリナの奪還そのものが最大の目的であったが、アンジェロは更にその先を睨んでいる。身も心もピュセルに忠誠を捧げたジル・ド・レエ、現次席帝級吸血鬼のジルを真祖の側から引き剥がすというものだ。元来、対吸血鬼戦で動いていたアンジェロとの意識の差が、最終目標において決定的に表れている。
「一応、アンジェロには言っておいたけれど」
エーリエルが言う。
「略取に成功しても、カロリナがそれを拒めば、彼女の意思を最大限に尊重しなければならない。何故なら彼女は、今まで散々利用されてきたのだから。カロリナはカロリナであって、もう死んでしまったピュセルではない。救国の英雄、ジャンヌ・ダルクではないのよ。カロリナには、カロリナの心が間違いなく残っている。確かに私達は聞いたわ。彼女はあの時、『助けて』と言った」
「…カロリナを救う事が出来たならば」
面を上げるエーリエルに、ドラゴはコーヒーカップを持ち上げて笑顔を見せた。
「何か甘いものでも作りましょう。きっと彼女は、身も心も疲れ果てておりますからな。疲労には糖分が一番ですぞ」
「そうね。そうしましょう」
エーリエルは、少し心が楽になったような気がした。そしてドラゴには分からないように、小さく頭を下げる。
と、再び携帯電話の着信音が響いた。アンジェロからだ。
何気に受話器を取り、エーリエルは瞬く間に血相を変えた。その意味が分からぬほど、ドラゴは牧歌的な男ではない。
「始まるのですな」
ドラゴが落ち着き払った声音で言う。自分達はハンターであり、ありとあらゆる状況に対応する能力に秀でている。その確たる自負がドラゴにはあった。
<ル・マーサ本部>
携帯電話を懐に仕舞い、アンジェロはごく当たり前のようにトイレから出た。扉を閉め、前方へと向き直り、思わず息を呑む。廊下の少し先でエリニスが立っていたのだ。ほんの少し前まで、人の気配は全く感じられなかったのだが。
エリニスは目を丸くする彼の様を気にも留めず大股で歩み寄り、トイレの扉を軽く一度だけ叩いた。そして呆れたような声で曰く。
「ここは、女子用トイレなんだけど」
「えー、いやですよう、私、女の子じゃないですかー」
「いや、男だから。とっくに丸バレだから。そんな事より、アナタも一緒に来て。もうみんな集まっているわ」
「集まっている? みんな?」
アンジェロは怪訝な顔を隠せなかった。午前の時間にマーサの会員が集合するという話は聞いていないし、現にトイレに入って外部と連絡を取り合うまでは僅かなフレンドしか居なかったはずだ。与り知らぬ内に、何らかの事が進行していたらしい。
焦燥が顔に浮き出始めたアンジェロを時折見遣りながら、エリニスは階下へ向かう足取りを止めようとはしなかった。どうやら目指す先は地下室らしい。その道すがら、エリニスがアンジェロに言った。
「アナタはフレンドになっていないから、分からなくても仕方が無い」
「どういう意味?」
「アタシ達フレンドは、例えば招集の際に連絡をするという必要が無いわ。上位の方、例えばカロリナが意思を発すれば、その意図を一斉にフレンド達は共有出来るのよ」
「…へー。そうなんだー。凄いなー」
「ハンター陣営なら知っていると思ったけれど?」
「いや、僕、もとい私はハンター陣営じゃないし。でも、随分便利なんだね」
「なりたい? フレンドに」
思わずアンジェロは身構えたものの、振り返ったエリニスは自嘲めいた笑みを浮かべており、少々混乱を来たしてしまう。ここに来て以降のエリニスの態度は、どうにも推し量り辛いものばかりだった。
そうこうする内に地下室前へ辿り着き、エリニスがその扉を開いた。然程広くない室内には既にマーサのフレンド達が勢揃いしていた。こんなに居たのか、とアンジェロは驚く。その数は少なく見積もっても100人を越えていた。
そして居並ぶフレンド達よりも一段高い壇上に、溌剌とした顔のカロリナが居た。彼女のみならず、フレンド達も揃って喜色満面である。一体何の集まりなのか、アンジェロにはさっぱり分からない。そして、ふと気付く
(そう言えばエリニス、何故彼女だけ笑顔じゃないんだ?)
むしろアンジェロには、エリニスが表情が溢れ出ないように堪えているように見えた。何気に彼女に声を掛けようとし、しかし出掛かった言葉はカロリナの大音声によって遮られてしまった。
「さあ皆さん、祝福のナイフを抜いて下さい!」
号令に合わせ、銀の刃が恐るべきシンクロでもって天に掲げられた。続いて唱和の開始。
「げつようにくしゃみがでたら」 『きけんなことがおこりそう!』
「かようにくしゃみがでたら」 『しらない人とキスしちゃう!』
「すいようにくしゃみがでたら」 『てがみがとどくよ!』
「もくようにくしゃみがでたら」 『なにかいいことありそうだ!』
「きんようにくしゃみがでたら」 『かなしいしるし!』
「どようにくしゃみがでたら」 『たびにでよう!』
「にちようにくしゃみがでたら」 『みのまわりのあんぜんをかくにんして!』
『来週は、悪魔がやって来る!』
「さて、唱和の通りまたしても悪魔がやって来ます。これから皆さんと一緒に、御主様に身も心も捧げる戦いへと私は赴くのです。さあみんな、一所懸命に戦い抜きましょう!」
応!の勇ましい返答が、部屋全体を割らんばかりに轟いた。
この中で唯一人、フレンドではないアンジェロが一歩たじろいだ。確かに自分は、この期を伺っていた。しかし事前準備も一切無く、一気呵成で戦いに突入するという展開は有り得ない。通常であれば。そしてアンジェロは思い直す。そう、この者達は、最早尋常の存在ではなかったのだ。それは発せられる命令を無自覚に共有した、まるで女王を頂点とする蟻社会のような。
ともかく、この状況はアンジェロにとって際どかった。このままでは対抗策を用意出来ずに戦いへと雪崩れ込んでしまう。一刻も早く外部に連絡する必要があるのだが、この部屋から出て行くのは極めて不自然な行為だ。こちらの真意を読み取られてしまうかもしれない。
しかしアンジェロの躊躇に、意外なところから救いの手が差し伸べられる。エリニスが彼の肩を叩き、親指で扉を指差した。
「準備でもしてきたら? 待ち望んだ悪魔との戦いよ。出立まで、まだもう少し時間があるわ」
言って、エリニスがアンジェロの背中を押す。これにて彼女に促されるという格好が付き、アンジェロは堂々と外に出る事が出来た。エリニスの行動に引っ掛かるものは感じられたが、今は一刻の時を争う。誰も居ない場所を探しながら、アンジェロは急いで携帯の番号を繋いだ。
<天使モート・其の一>
それはキャンピングカーで少し遅めの朝食を取ろうとする、その直前に始まった。
マックスがスクランブルエッグを掬う手を止め、スプーンを皿の中に取り落とす。彼と共に長く居た真赤が、逸早くその意味に気が付いた。
「来やがった! バーバラ、EMF探知機は!?」
「全く反応が無いわね。電磁場異常を抑えられているわ」
「畜生、モートだ。あのストーカー野郎、何処まで迫ってやがるんだ!? アンナ、車の運転出来るか」
「出来るけど、免許持ってねーよ」
「構うかよ、ブタ箱の方が安全かもしれねえしな」
「遂にキャンピングカーが捕捉されたのね」
肩を竦め、バーバラは困った表情を皆に向けた。
「恐らく手遅れだわ」
「彼女の言う通りだ」
顔という顔の至る箇所から汗を噴出し、マックスがバーバラの予測を肯定した。
「もう、この駐車場に入って来たよ」
真赤は無言でハルバードを脇に抱えた。バーバラもショットガンの装填を確認している。事ここに至って、ハンターの2人が為すべき仕事はシンプルだった。護衛対象を守り抜き、天使を迎撃する。それは極めて絶望的な戦いであったが、バーバラと真赤は露ほども恐怖の色を見せていない。
「アンナ、今がどれだけ危険かは分かるか?」
「ああ、理解出来ないまま一生を終えたかったけどね」
真赤の問いに、アンナは青い顔で頷いた。
「私が出来るのは、コイツの傍についてやる事だ。本当にそんなんでいいのかよ」
ガタガタと震えるマックスの手に己が掌を重ね、アンナは悲痛な声を上げた。しかしながら、バーバラが優しく彼女の頭を撫でた。
「ハンターにも出来ない事があるわ。私達は社会から隔絶された戦士だから、ゆっくりと時間をかけて人同士の絆を結ぶ事が出来ない。でもアンナ、あなたは私達の大切なマックスをこれからも間近で支えて行ける」
「分を弁えるって事だ。マックス、アンナ、後は任せたぜ。これから俺達は、俺達にしか出来ない戦いに、ちょっくら行ってくるぜ」
言って、真赤とバーバラが車外に出ようとする直前、マックスがしわがれた声で言った。
「ありがとう」
と。
「ありがとう。2人とも。それにアンナも。僕にはまだ、戦う意思がある。サマエルなんざ、クソくらえだ」
「そいつを聞きたかったぜ」
カラカラと真赤が笑い、勢いよくドアを開けた。
既に外の状況は一変している。朝だと言うのに、道路には人影が全く無い。何処にも生活感が見当たらないのだ。カースド・マペットに追い立てられた時を思い出す。恐らくモートが、空間を少し「ずらした」らしい。
ただ、どういう訳か駐車場には、昨晩通りに車が居並んでいる。そしてキャンピングカーが駐車する場から、車列にして五列ほど先の間近に彼が居た。通常、決して人間が敵に回して良い相手ではない者。天使、モート。
「おはよう」
モートが言った。
「そしてさようなら」
<ルーアン救出・其の一>
全員集合、即進軍。ル・マーサの行動は一糸乱れぬ統制が敷かれている。
こうして迅速かつ的確に、火蓋を切られた下界戦争に参入出来るのは、勿論予め戦争開始のタイミングを知らされていたからだ。とは言え、それはカロリナを始めとするマーサの会員達が、直接カスパール一党と接触している事を意味しない。種族や立場が全く異なる2つの組織には、一点のみだが最大の共通項が存在している。御主、サマエルへの崇拝だ。
この戦いは、一から十までサマエルに仕組まれたものだった。カスパール一党、そしてル・マーサは、サマエルからもたらされる意向を忠実に履行しているのみに過ぎない。
(未だ覚醒していない状態で、これだけの規模の騒乱を操作出来るのか)
雪崩を打って進行する事態の只中にあって、アンジェロは身の毛がよだつ思いだった。続々と下界の一角で頭数を揃えているフレンド達は、戦を前に目を引き攣らせる訳でもなければ、折れそうな心を狂気の笑みで癒している訳でもない。誰も彼もが至って普通なのだ。普通に談笑し、普通に世間話等をしている。ただし、腰に祝福のナイフとやらの白刃を煌かせながら。それはあまりにも異常な状景だった。
わっ、と不意打ちの歓声が上がり、アンジェロは若干うろたえつつ顔を上げた。拍手で出迎えるフレンド達が左右に分かたれるその中央、物々しい甲冑姿のカロリナ・エストラーダが愛想良く手を振りつつ現れ出た。その鎧は聞いていた通り、彼女の立ち姿にこれ以上無いくらい馴染んでいる。
「やっぱり、そうなのか」
アンジェロの呟きは万雷の拍手の音に掻き消された。カロリナがピュセルと因果のある者という推測は、此度のアンジェロの行動に重大な意味を持っている。『彼女』が実在するという事実を次席帝級のジルが知れば、サンフランシスコにおける闇の勢力図に大きな撹拌が生じるはずだ。
皆々の眼前に立つカロリナは、纏う雰囲気からマーサ本部での穏やかさが霧消している。何かが降りている、と思わせるものがある。アンジェロはこれを機会だと捉えた。
カロリナは実に満足げな笑みを浮かべ、ナイフを逆手に持ち直し、下向きの刃を眼前に掲げた。そして良く透る声で宣言する。簡素で、情緒の一切無いその言葉で。
「死を」
アンジェロの位置を指し示すGPSの信号が消滅した。ドラゴとエーリエルは一瞬悪い予感を覚えたものの、直ぐに下界へ進入したのだと思い直した。
「単に地下だから接続が困難、というのでもないようね」
と、気もそぞろにエーリエル。
「恐らく、別の要因でしょうな。もしかすると下界という奴は、私達の現実世界とは、また異なる場所なのかもしれませんぞ」
応えるドラゴも大して深く考えていない。予想を上回る早さで開始したマーサによる下界戦争介入に対し、彼らも相応の速度で対処をしなければならない状況である。先ず彼らは前回同様にマーサが目的地とするであろう、ミッション地区の『入り口』から下界へ入り込む事にした。
アンジェロから行動開始の連絡を受けてから、2人はバイクを飛ばしてテンダーロインからミッションまで15分足らずで駆けつけた。通常、下界への進入には専用の通行票を持たねばならないのだが、此度は臨時幹部級のクレア・サンヴァーニからアンジェロを通じて物を入手している。
ミッションの『入り口』は、この地区を担当する庸の幹部が所有する邸宅内にあるのだが、今はもぬけの空である。以前にミッションの守備隊は壊滅的被害を被っており、庸内部で再編成が行なわれたのだろう。ドラゴとエーリエルはハンターらしい容赦の無さで無人の邸宅に入り込み、急ぎ下界に続く梯子を下って行った。
程なく広い空間に出る。迷路のような下界ではあったが、彼らは先のクレア経由で下界の地図も入手している。網を張れそうなポイントは事前にマーキングしてあった。まずは其処を目指して、2人は移動を開始した。
「あれ、GPSが復活している」
何気に携帯電話を見たエーリエルが、目を丸くして画面をドラゴに見せた。さすがに地図は表示されていなかったものの、映し出されているポイントが更新の度に北上しつつある。マーサの一行も動き始めたのだ。
「下界に入った途端、使えるようになったのは何故なのかな」
「ここに携帯の基地局があるとは思えませんが」
軽く意見を交わしながらも、2人の意識は既にこれからの対処の方へと集中していた。地図とGPSを組み合わせて考慮した距離を鑑みるに、自分達と向こう側は10分の範囲内で接触するはずだ。このスパンは宝のように貴重である。
王如真が行動を共にしていない。
彼が庸を出奔した経緯については、アンジェロも先頃にクレアから情報を仕入れていたのだが、フレンドである彼ならばマーサに合流すると考えるのが普通である。しかし、下界戦争参入というマーサの大事にあって、彼の姿は何処にも見当たらなかった。
ル・マーサという、奇怪でありつつ実のところは一般市民の寄せ集めという集団の中で、如真の存在は異例である。戦闘技術を子供の時分から習得し、マーサの精神介入によって温和な人柄を表に出しているものの、本質的に如真は恐るべき殺人機械である。時を追う毎に如真は危険の度合いを高めている、というのがハンター間での認識であり、エーリエルが進行させた「ルーアン救出」作戦における第一級の要注意人物であった。
その彼が居ない状況とは、果たして僥倖であったのかとアンジェロは訝しんだ。ひと手間省けるという意味合いならば、作戦の遂行上で極めて有利である。しかし、ならば、如真は一体何処で何をしているのだろうか。
脳裏を過ぎる不安を振り払い、アンジェロは本来の目的に努める事にした。前回とは異なって集団の先頭を歩くカロリナに近付き、感嘆を装って話しかける。彼女の言質を収める為、ICレコーダをスイッチオン。
「まるでジャンヌ・ダルクが率いる行軍のようですね」
「あら、アンジェロさん、またその話ですか」
「うら若き乙女が戦野に向かうという状況は、古今東西心が躍るものですよ。あなたの隣を歩く私は、さしずめジル・ド・レエ元帥」
「青髭男爵の二つ名は、あなたには似合いません事よ?」
カロリナは思惑通り軽口に応じてくれたものの、今のところジルの名前に関しては無反応に近い。名前を出すだけではインパクトが薄いのかもしれない。アンジェロは腹を括り、本題を切り出す事にした。
「そのジルなんですけど。ハンターの噂話を耳にしたのですが、何でもサンフランシスコで蘇っているそうなんですよ」
「まあ、何と面妖な」
「それも吸血鬼として、らしいです。確かにこの街には、現実問題として吸血鬼の跳梁が表面化しつつありますね。吸血鬼が跋扈する要因を作ったのは悪魔です。だからジル・ド・レエは、今や悪魔の手先となっている、って訳です」
「実に興味深い話ですね。しかしあのジルが吸血鬼になったとすれば、それは最悪だと思いますね。少年ばかりを犯して殺した性的倒錯者ですもの。吸血鬼にも理性ある者が居るとは聞きましたが、ジルにかような部分は期待出来ないでしょうし」
アンジェロは些か焦った。会話は成立している。しかしこれはアンジェロの導き出そうとした展開ではない。カロリナはピュセルの残滓をおくびにも出さず、ただアンジェロの言葉から受けた印象を返しているだけだ。まさか実はピュセルと因果など無いのではないか、との思いがちらつき始めた頃、カロリナの左隣を歩いていたエリニスがポツリと呟いた。
「どうでもいいわ」
エリニスが言う。
「どうでもいい。私には、今のカロリナが全てだから。カロリナが居てくれるから、アタシはこうして歩いて行ける。だからカロリナ、アタシはアナタを必ず『助ける』。この先もずっと」
「ありがとう、エリニス。でもね」
カロリナは柔和な笑みを浮かべ、エリニスの掌を両手でそっと包み込んだ。しかし、その儚げな仕草とは裏腹に、カロリナの鎧が言語に例えがたい禍々しさを纏い始めた。その異変に、逸早くアンジェロが気付く。来た、と。
「あなたが私の事を其処まで思ってくれているように、私には御主様が全てなのですよ。何故なら、私を救い出して下さったのは、後にも先にもあの方だけだったから」
「カロリナ…」
「そんな御主様が、仮初だとしても私を選んでくださったわ。もう直ぐ私は、身も心もあの御方のものになれる。これ程の幸せは他に無いの。エリニス、あなたを愛して、愛して、愛し尽くします。御主様の御心と共に。そうそうアンジェロさん、もしもジルに会う事があれば、伝えておいて欲しいのですよ」
カロリナは有無を言わさずアンジェロの胸元に口を寄せた。彼の背筋が凍る。彼女はアンジェロの懐に隠されたICレコーダに向けて、張り裂けそうな笑みを伴い、言った。
『ジル・ド・レエ。この玉無しの腰抜け野郎。私の前に出て来てみろ。はらわた引き摺り出して首級を串刺しにしてやる』
「な…」
かような汚い言葉使いは、アンジェロは勿論、エリニスも聞いた事が無い。と言うより、これはカロリナの言葉ではないとアンジェロは確信した。遂に表へ引き出す事に成功した、これはラ・ピュセルの思いそのものなのだ。考え違いをしていたとアンジェロは気付く。ジャンヌがジルに対して抱く気持ちは、憎悪の一色で染められていたのだと。
カロリナはにこりと笑い、何事も無かったかのように面を上げた。そしてその目が、スッと細められる。
一行が向かうその先に、迷彩服を着込んだ少女が仁王立ちで待っていた。ここから先は一歩も通さぬと、決意の塊のような目が言っている。受けてカロリナは口を半開きにし、はは、と息を漏らした。
「おはようございます、エーリエルさん」
返事の代わりに、エーリエルは背中から大剣を引き抜いた。
「そしてさようなら」
カロリナが腰の短剣を手繰り寄せる。
対してエーリエルは大剣を眼前に立ててから軽く刀身を揺すり、肩に担いだ。背を丸めて突貫の第一歩を踏み出すと同時に、エーリエルの口から獣の大音声が迸る。浄化せよ、と言わんばかりに。
<天使モート・其の二>
「一つ聞いておきたい」
戦意を込めた視線を一切外さず、真赤がモートに問う。
「てめえ、有無を言わさずマックスを連れて行こうとしているな? そりゃ多分、てめえの父ちゃんだか母ちゃんの命令じゃねえ。モート、お前の独断だろ。何故だ?」
「ほう、良く考えている事だな」
モートは大げさに肩を竦めた。白い歯を見せて曰く。
「確かに御主は私に『マックスを連れて来なさい』とは言っていない。かような命令は過去にも一度たりとて受けていないよ。御主はマックスの自主性を尊重される、心優しき御方だからね。ただ、これ程慈悲深い御主には、本来あるべき姿へと立ち返って頂きたい。御主を頂に仰ぐ者はみんなそう思っているよ。いいかい、みんな、だ。ところが君、御主の許に戻られて然るべきという状況を、今迄尽く邪魔をされたのは残念の極みではないか。はっきり言えば、君達がマックスの傍に居続けるのがそもそもの間違いだったのだ。よって一旦君達を隔離し、マックスには改めて自身を見詰めなおす場が必要である。と、私は考えた。以上だ。ところで御老人、先程から黙っているが、最期に何か言いたい事は無いのかね?」
余裕の笑みを消し、モートは多少不愉快な目でもってバーバラを見た。彼女は真赤とは対照的に、モートを見返す瞳に何も宿っていなかった。何も。ただ見ているだけのその目が、モートの癇に障る。畏怖も敵意も無い、ただ物体を認識していると言わんばかりのその目が。それを如実に表すように、バーバラはあっさりと言葉を返した。
「特に無いわ。それじゃ、始めましょう」
言って、バーバラは手榴弾のようなものをモートの足元に転がした。炸裂。
直後、モートを中心にして膨大な量の白煙が広がる。それは只の煙幕ではなかった。
モートは遮られたのが視界だけではない事に気が付いた。ほんの少しであるが、周囲を認識する感性も損なわれている。何だこれは、と呟く合間に、人の気配が2人から12人にまで膨れ上がる。バーバラは、この世ならざる者に複数の人影を錯覚させる欺瞞煙幕を使ってきたのだ。ほう、とモートが感心する。
「面白いな、これ」
言って、モートは左手を曲げて真横に向けた。その掌が、空気を裂いて振り下ろされて来たハルバートの斧頭を、難なくと掴み止める。
突進から渾身の一撃を見舞った真赤は驚愕した。これ以上無いタイミングでもって、完璧に虚を突いた自負があったにも関わらず。欺瞞煙幕が天使に対して大きな効果を期待出来ないのもさる事ながら、改めてモートという男の強大さを思い知る。しかしながら、真赤が考える程にモートは無傷でもなかった。
「くらりと来たよ」
汗を一粒額に浮かべ、モートは口元を歪めた。
「その得物、私という存在を一瞬揺さ振った。成る程、御主は君に期待を込めて、その力をお渡しになられたのだ」
「…っ、期待だと!?」
「御主の御意向は何よりも尊重せねばならない。真赤、であったか? 君を殺すのは止しておこう。しかしバーバラ・リンドン、お前は駄目だ」
モートを軸として、ぐるりと『何か』が渦を巻いた。『何か』は瞬時に煙幕を吹き飛ばし、複数の人影も散逸する。真赤はその身を宙に浮かし、10m程離れたフェンスに背中から激突し、うつ伏せに倒れ伏した。そしてバーバラは車のフロントガラスに叩きつけられ、ボンネットでその身をバウンドさせ、アスファルトに転がり落ちる。
圧倒的な力の差を見せつけ、モートは満足げに背広を整えた。這いつくばって起き上がろうと苦心するバーバラに対し、憐憫の声でモートが言う。
「あの煙を出した後、何をチョロチョロと動いていたんだ、お婆さん。そのショットガンは飾りか?」
手にしていたショットガンが不可視の力でもぎ取られ、遥か彼方に投げ捨てられる。モートは朗らかに笑い、周囲を見渡した。
「君の切り札は何処だ? あの送り犬とやらは。ステラを殺した手並みは見事だったが、それが私に通用すると思われても困る」
「いいえ。切り札は、これよ」
言って、バーバラが一枚の札を地面に貼り付ける。途端にモートの半身が、ぐらりと不自然に傾いた。その異様な力はモートを中心として五角形で形成されている。体が思うように動かないと知り、モートは驚愕を露にした。
「一体何をした」
「五角結界よ。現状で天使に対抗出来る、僅かな手段の一つ」
欺瞞煙幕と真赤の突進でモートが気を逸らした隙に、バーバラは結界を形成する札で彼を包囲したのだ。その手際は見事としか言い様が無い。しかし、それにしてもモートという天使は強力に過ぎた。バーバラを指差し、モートが曰く。
「バーバラ、君は末期の胃ガンにかかっているぞ」
見る間にバーバラが大量の血を嘔吐し、アスファルトに膝を付く。立ち上がって援護に向かおうとする真赤を、モートはPKでフェンスに押さえつけた。護り屋であり結界巧者でもあるバーバラが、持てる最大級の結界を駆使しても、モートの異能を抑え込むには至らない。苦痛で顔をしかめつつ、それでもモートは高らかに笑って勝利を宣言した。
しかし、その耳障りな笑い声は、少しずつフェードアウトし、やがて収まる。血を吐きながら、バーバラは脇から小さなモニタを引っ張り出していたのだ。
「何故動ける」
「私はある時から、ありとあらゆる痛みを感じなくなったのよ」
配線を繋ぎながら、バーバラが言う。
「だから死に至る激痛を被っても、私の集中力は途切れないの。そんな事より五角結界だけど、この結界はあなたの言葉を借りれば『存在を揺さ振る』効力がある。つまり魂の結束に空隙が生まれる、という訳よ。そして動作も極度に制限された今ならば、この映像を見て頂く事が出来るはずだわ。あなたではなく、他ならぬ『モート』に」
モニタの電源を入れ、バーバラは居住まいを正してモートをじっと見詰めた。
DVDプレイヤーから映像が流れる。モニタに女の顔が映る。モートが眉をひそめる。
「ステラだと?」
かつてモート共に御主に仕え、天使の方だけがバーバラに殺された者だ。
『これを見ているの? モート』
険しい表情のステラが、怨嗟に満ちた声音で言った。
『天使を敬う私達の心を、貴方達はいとも簡単に裏切ったわね。貴方達が人間をゴミ以下としか思っていないと知った時の失望。目的遂行の為に何人もこの手で人を殺した時の絶望。許さない、絶対に』
「…モート・アップルトン。34歳、独身」
ステラの後を継いで、バーバラがメモ帳を読み上げる。
「テキサス州フォートワース在住。敬虔なルーテル教会の信徒で、御両親と同居。親孝行で品行方正、誠実な好青年としてご近所にも評判の人だったけれど、約2年前に突然失踪し、今に至るも行方不明。顔写真と名前だけで、ここまで割り出したマクベティ警部補には感謝しなくちゃ。ところで『モート』、久々に会わせたい方が居るの」
モニタのステラが踵を返し、画面の外に出る。そして中央に、縄で縛られ椅子に座らされ、不安げに視線を漂わせる2人の老いた男女が映った。
モートの体が、ガタガタと震え出す。蒼白の顔面には大量の脂汗が滲み出し、それでもモートの声は態度に比して冷静だった。
「落ち着け、『モート』」
モートが言う。
「これは罠だ。フェイクだ」
「お元気そうで何よりだわ、あなたのお父さんとお母さん」
バーバラが覆い被さるように畳み掛ける。
既にPKの束縛が霧消し、自由に動ける体を取り戻した真赤であったが、ここが戦いの場である事を一時忘れ、その様を呆然と見詰めた。
「何て事を」
真赤が呻く。
「何て事を思いつきやがる」
『…だから、私は貴方に復讐する』
モニタに再びステラが現れた。片手に拳銃を持ちながら。ステラは拳銃の撃鉄を起こし、その銃口をモートの父親の頭に押し付けた。
<ルーアン救出・其の二>
『加速』の力を身に宿したエーリエルの、寄せる速度は尋常ではない。突貫開始から瞬く間に距離を詰められ、カロリナは自らの構えが間に合わないと判断し、即座にその身を後方へと退いた。その間隙を埋めるように、大量のフレンドが立ち塞がる。が、その動作は突然食い止められ、少なからぬ人数が苦痛を露に膝を付いた。
五角結界の最後の札を壁に張り付け、ドラゴが若干遅れて自らも突進する。事前に仕掛けた結界が、思惑通りに効果を発揮してくれた事に一先ず安堵する。五角結界は天使を含めたこの世ならざる者を、閉じ込めるうえに霊的な打撃をも及ぼせる。サマエルという堕天使の息がかかったフレンド達ならば、その威力も通用するという訳だ。
しかしながら、それはフレンドという市井の人々が「この世ならざる者」への第一歩を踏み出している、との意味を持つ。負けられぬとドラゴは思った。
「ドラゴさん」
エーリエルの突入によって混乱状態に陥ったフレンド達を掻き分け、アンジェロがドラゴの許に辿り着く。アンジェロは可能な限りカロリナの間近を抑えるつもりではあったが、カロリナの挙動は人間の度を越えて素早い。それに、どうしてもドラゴには伝えておかねばならない情報もあった。
「如真が居ないんだ」
「何ですと!?」
ここは最早戦場だ。戦場にあってル・マーサの強力な信徒である如真の所在不明は、単純に好機と捉える事が出来ない。しかし事態は高加速で進行しており、その意味を探る暇は無かった。右往左往するフレンド達の合間をカロリナはましらの如く逃げ回り、エーリエルが辛うじて追い縋るという場面が今も展開しているのだ。
「エリニス嬢は?」
もう1人のトリックスターについてドラゴが問う。対してアンジェロは首を横に振った。
「分からない。この混乱だから。しかし方策が無きにしもあらず」
言って、アンジェロは大きく息を吸い込んだ。
「『フレンドの皆さん』! 危険だから伏せて!」
その大音声が後方から轟くや否や、結界効果で身動きに苦心していた周囲のフレンド達がバタバタと身を伏せた。アンジェロが行使した「半径500mの説得」という卓袱台返し的アイテムは、人間のみに効果を発揮する。フレンド達はこの世ならざる者達になりかけつつも、同時に人間でもあった。結界と件のアイテムが同時に効くという状況は、この作戦行動を遂行するにあたって最大の有利であった。
随分と視界が開いた場を僅かに睥睨し、エーリエルは間を置いて佇むカロリナを改めて凝視した。動きを止めた彼女に対し、エーリエルも追撃を中止する格好となる。戦う者としての本能が、勢いに任せた突進を危険だと判断したからだ。
率直に驚きであった。カロリナの身体能力は常軌を逸している。彼女には結界や「説得」が通じている気配は無い。加えてあの重そうな甲冑を身に纏いながら、「加速」持ちの自分と五分の速度を叩き出したのだ。事前に万全の準備を整えた事を、エーリエルは心から良かれと思った。そして今一度剣を縦に構える。カロリナは得体の知れない笑みでもって、こちらを見詰めていた。
「残念です、エーリエルさん」
カロリナは言った。
「ひどく残念です、エーリエルさん。折角友達になれると思ったのに」
「なれるわよ。これから仕切り直せばいいわ」
カロリナの声音は、もうこの世の者ではなかったが、エーリエルはそれに気圧される事無く淡々と述べた。
「戦いなさい。カロリナを束縛するものと。そしてあなた自身を救うがいい。あなたを慕ってマーサに来た者達を救うがいい」
自らの言葉が、彼女に届いたか否かは分からない。しかし少なくともカロリナは、短剣を振ってエーリエル同様、面前に立てた。合わせてエーリエルの周囲を、距離を置いてフレンド達が取り囲む。結界と「説得」の効果が完全に及んでいない、恐らくは高位と呼べるフレンドだ。目を左右にやって、エーリエルは確信した。その顔と顔には見覚えがある。前回一度死んで、奇蹟とやらで蘇った者達だ。
「死を」
カロリナが哂う。
「生きろ」
エーリエルが応えた。そして四本の短剣を一度に取り出す。
瞬く間に壁へと投擲し、エーリエルは残る札を地面に叩きつけた。合わせて今にも襲い掛からんとしていたフレンド達が、その身をぐらりと軋ませる。五角結界の行使。猿叫と共に斬りかかって来たカロリナを、エーリエルが大剣で受け止め、弾き返す。それから2人は超高速の斬り合いを開始した。
率直に言って、カロリナの戦い方は出鱈目だった。まるで洗練されていない。しかしそれ故に、不規則な楕円軌道を繰り返す短剣の筋がまるで見えない。対応出来るのはエーリエルが加速持ちである所以だが、その効果時間は僅か1分。タイムリミットは寸前であり、効果切れと同時に八つ裂きとされるは必定。
しかしエーリエルは口の端を曲げ、カロリナの顔からは血の気が引いた。
彼女らの背後で1人、2人とフレンドが倒れ伏して行く。それは五角結界のような一時的な打撃ではない。倒される毎に、彼らはフレンドではなくなっているのだとカロリナは知った。奥から歩を進めて現れ出でたのは、アンジェロとドラゴ。ドラゴの手に光り輝く槍のようなものが出現し、その投擲によってまたもフレンドが倒された。そして目の前のエーリエルも、何時の間にか剣を片手に持ち替えて、左手に同様の『槍』を握り締めていた。
飛び退る。遅い。
エーリエルが突き刺してきた『槍』は、違う事無くカロリナの胸を貫いた。があ、とカロリナが叫ぶ。追い詰められた獣の悲鳴で叫ぶ。
それでも大きく距離を取り、カロリナは血走った目で合流する3人を睨んだ。加速の効果が切れたエーリエルが息を荒げて跪き、その隣でドラゴが労うように肩を叩いている。
「王手詰み、と言っていいのかな」
と、アンジェロ。その隣でドラゴは、バツの悪そうに頭を掻いた。
「当方の『遠隔』はフレンドには通用しませんでした。半この世ならざる者とは言え、腐っても天使の眷属という事なのでしょうな」
「2人とも、ありがとう」
言って、エーリエルは差し伸べられたドラゴの手を取り立ち上がった。
その様を見詰め、カロリナは絶望した。自分を含め、ル・マーサがたった3人の襲撃によって敗北した、その事実に。絶対無二の御主を頂とし、この街を救済すべく正しい道へと邁進してきた自分達が、よもや負けてしまう等と。
「嫌だ」
カロリナが言う。
「嫌だ。嫌だ。嫌だ」
短剣を両手で握り、カロリナが血の涙を流す。ドラゴとエーリエルの掌で、またも件の槍が煌々と光を放ち始める。あの訳の分からない力はカロリナの魂に甚大な衝撃を与えたものの、未だ身体能力で上回る自負が彼女にはあった。
御主の愛を拒否する者は、死ぬがいい。そう呟いて地を蹴ろうとしたカロリナが、背後から伸びてきた腕でもって上半身を絡め取られる。そのまま引き摺り倒され、首関節を極められる。カロリナは驚愕の面持ちで、自分を拘束した親友の顔を間近に見た。
「エリニス!?」
「言ったじゃない、助けるって」
言葉を返すエリニスも、また悲壮を顔に貼り付けていた。
「分かったのよ。アタシは考える事を止めて、アナタに従うのを良しとした。それがアタシの愛だと思った。でも、アナタの呼ぶ声をアタシも聞いて、気付いたわ。愛するアナタの為に、何をしなければならないのかを。アタシの心を本当に救ってくれたアナタに、心から感謝を。そしてアナタが抱える苦しみからの解放を」
「離しなさい!」
「ドラゴ! エーリエル!」
エリニスの叫び声を皮切りに、ドラゴとエーリエルが光の槍を同時に投げ込む。槍は無防備なカロリナの体に吸い込まれ、彼女は一度だけ大きく体を波打たせたものの、直ぐに全身の力という力を損ない、やがてくたりと動かなくなった。
「完全に効いたようですな、蜻蛉切が」
「ええ。さすがは蜻蛉切」
そう語り合って、ドラゴとエーリエルはその場に倒れ伏してしまいたい気持ちになった。時間にして2分強の間に、これだけの事を成し遂げたのだから。
しかし無情にも猶予は無かった。マックスが今現在も御主、サマエルへの恭順を拒否し続けている今、カロリナはサマエルにとって有力な『器』の候補なのだ。奪還し、全速力で逃げ去って、然る後に笑って乾杯してこその落着である。
念の為、アンジェロが気絶したカロリナに「鈍化」のまじないを行使した。彼女の突如の抵抗が有り得ると踏んでの処置だが、それがカロリナに何ら通用していないとの実感をアンジェロは得る。それはつまり、カロリナが人間の側へ立ち返った事を意味している。
「さあ、急ごう」
アンジェロがへたり込むエリニスに代わり、身じろぎ一つしないカロリナを背負った。その間にもドラゴは『蜻蛉切』を当てたフレンド達を叩き起こしている。
「さあ、逃げるが良い、逃げるが良い。こんな訳の分からない地下道で、寝ている者がありますか。家族が心配しておりますぞ!」
起こされた者達は、何が何だか分からない顔でキョトンとしていたものの、迫り来るドラゴの圧力に怯え、よろよろと追い立てられるように立ち上がった。しかしドラゴの顔に達成感のようなものは無い。何人かのフレンドは元に戻したが、未だ五角結界に囚われている大多数は置き去りである。サマエルの干渉を恐れるのであれば、全員を助ける時間は無いのだ。
(何れ救う。救える者を全て救う)
そう心に誓い、ドラゴは走り始めた元フレンド達を導き、叱咤した。
「エリニス、大丈夫?」
言って、エーリエルはエリニスを引っ張り上げようと手を差し出した。が、たちまち訝しい顔になる。エリニスの眉間に苦痛の皺が刻まれていたからだ。
「大丈夫」
頭を振って、エリニスは立ち上がった。
「行かないと。この先もカロリナを護り続けると」
皆まで言わせず、エーリエルが蜻蛉切をエリニスに突き立てる。「うっ」と小さく呻いたものの、エリニスの苦悶に変化は無い。エーリエルは、たじろいだ。
「エリニス、あなたに憑いたものが蜻蛉切で消えない」
「いきなり何をするのよ。ともかく行かなきゃ。カロリナの居ないマーサに用は無いわ」
駆け出したエリニスを留める暇は無い。エーリエルは霞がかった不安を振り払い、自らも出口へ向けて走った。
先行したアンジェロは、既に下界を抜ける梯子を上り、カロリナを背負って『飛翔』の札を握り締めていた。心なしか、顔が青い。
「うう。こんなんで空を飛ぶとか」
と、言い終えた時点でアンジェロの体はカロリナ諸共宙に浮いていた。のぎえええ、との悲鳴と共に、アンジェロが集合地点のセーフハウス目掛けてすっ飛んで行く。
その後に元フレンドが1人、2人と地上に出て、8人目にドラゴが巨体を揺すって躍り出る。ドラゴは彼らに手近の警察署へ向かい、マクベティ警部補の名前を出すよう教え諭した。彼らが教えた通りに立ち去ったのを確認し、ドラゴが下界通路を地上から覗き込む。
「早くなさい! 下界もそうですが、地上も完全に安全とは言えませんからな!」
「もう直ぐ行くわ!」
エーリエルがドラゴの呼び掛けに応じる。足取りの重いエリニスと共に行動した故、都合自分達が最後の脱出者である。それでもエーリエルは戦い終えた晴れがましさで頬を紅潮し、真後ろのエリニスを顧みた。が、エリニスは其処に居なかった。
少し距離を置いて彼女は立っている。エリニスは茫然自失の目でエーリエルを見ていた。その身に何時の間にか甲冑を纏って。カロリナ・エストラーダが愛用していたそれと、寸分違わぬ甲冑を。
「何、これ」
震える声で、エリニスが言う。
対してエーリエルは、再び剣を抜いた。エリニスに対してではない。彼女の後ろの、更に距離を空けた位置から歩んで来る者に、である。
「やあ」
その声は、大きく離れているにも関わらず、やけにはっきりと耳を打った。間延びして穏やかな、それは王如真の声だった。
<天使モート・其の三>
天使が人間の住まう世界で本来の力を発揮するには、自らに適合した器が必要となる。悪魔による人間への憑依も似たようなものだが、人間側の同意を得るか否かという決定的な違いがあった。その意味で、天使と人間の結びつきは堅固となる。概ねの場合、天使が悪魔よりも強力となるのは、それが所以である。
しかしながら、ひとたび天使の器となった人間は、その意思を圧倒的存在に呑み込まれる事となる。だから自らの意に反する行動を天使が行なったとしても、抗う術は人間には無い。
バーバラはその事実を深く理解したうえで、恐るべき手段を行使した。魂に打撃を与えてその身を拘束する結界を駆使し、彼女が狙いを定めたのは『人間』である。バーバラは、人間の良心に対して攻撃を仕掛けたのだ。
「こんな行ないは直ぐにでも止めさせる事が出来る」
唇を噛みしめ、殺気の篭った目を向けて来るモートに対し、バーバラは何らの感情を伴わない奇妙な顔つきで、あっさりと言葉を返した。
「どうやって?」
そう、今の段階ではどうしようもない。本来の力であれば、バーバラの五体を裂断してフォートワースに瞬間移動し、拘束された『モート』の両親を解放するなど、容易い所行であっただろう。しかし今は結界によって身動きが取れず、これを破るにはバーバラを殺す以外に無いのだが、大幅に力を減じられた今は彼女に緩やかな死の呪いをかけるのが精一杯だった。バーバラが死に至るまで、何としても『モート』の動揺を抑え込まねばならない。しかしモニタは無情にも、子を愛する親の悲壮な修羅場を見せつけ続けた。
『何か言いたい事は? カルトに身も心も投げ打った、愚かで可愛い1人息子に』
拳銃を突きつけたまま、冷徹にステラが言った。父親は不安げな眼差しで銃口とステラを見比べていたものの、震える声でビデオカメラがある正面に語り掛けた。
『すまない。モート。すまなかった。私は何時も規律の正しさと禁欲の大事さを説いていたが、お前がどんな思いで日々を暮らしていたのか、考えた事も無かった。カルトに身を寄せるほど追い詰められていたお前を、私は助ける事が出来なかったんだ』
「止めろ。止めろ。止めろ」
狂ったように頭を振り回し、モートが呻き声を上げる。しかしこの場の状況を映像の中の彼らは知る由も無い。今度は母親の方が涙ながらに切々と訴えた。
『叶うならもう一度会いたいわ、モート。会ってきちんとお話したい。3人でとりとめもない話をするのが、母さんは一番幸せだったのよ。でも、もういいの』
「止めてくれ、頼む」
頭を抱えてうずくまり、それでもモートは滂沱の涙を流して、モニタに食い入るように見詰める目を外そうとしない。そして、止めの叫びを両親が放った。
『こんな非道な連中に負けるな! お前を束縛したりしない! 思う通りに生きるんだ!』
『私達はどうなってもいいから、お願い、生きていて!』
「父さん! 母さん!」
モートの絶叫を聞き届け、バーバラは五角結界の札を引き剥がした。
同時に結界の外で潜んでいた送り犬のジョンジーが、モートの体を撃ち貫く。
モートは信じ難い目でもってバーバラを見、光が明滅する『傷口』を見下ろした。彼は自らの魂が消滅するのだと理解し、ステラが遺した警告をようやく思い出した。本当に恐ろしいもの。それは。
「そうか。お前の心が」
モートの目と口から魂の輝きが溢れ出す。
「お前は、虚無」
仰け反り、直上へと光を迸らせ、モートは仰向けに倒れて行った。アスファルトにくっきりと焼き付けられる、荘厳な天使の翼。天使モートの魂は、昇天も出来ずに世界から消滅した。
その様の一から十を、真赤は望まずとも目撃した。目下最大の脅威であった天使モートは滅ぼされたが、高揚感は無い。達成感も無い。ただ、後味が悪かった。バーバラは歩み寄ってきた送り犬の頭を撫で、優しく語り掛けている。どうやらモートの死によって、かけられた呪いも霧消したらしい。
「ありがとう、ジョンジー。手伝ってくれて。さあ、行ってらっしゃい。あなたが本当に望む戦場へ」
一声吠え、送り犬は踵を返して消えた。その様を横目で見ながら、真赤がモートの容態を診る。息はあり、心臓も動いていた。人間であるモートは死んでいない。形だけを見れば、完勝であった。
「おい、あんた、大丈夫か」
言って、真赤はモートに気当てを施した。モートが薄っすらと両目を開く。そして慌しく身を起こし、バーバラの姿を認めるや、モートはにじり寄って彼女の足元に縋り付き、額を擦り付けて泣いた。
「お願いです。どうかお願いです」
モートが哀願する。
「両親を殺さないで下さい。お願いです。殺さないで」
「もう、ル・マーサに関わったりしない?」
バーバラの問いに、モートは激しく頭を縦に振った。
「御両親は御自宅で健在よ。行って安心させておあげなさい」
モートはよろよろと立ち上がり、ひたすら頭を下げた。ありがとう、ありがとうと、感謝の言葉を連呼して、モートは縺れる足取りを辛うじてまとめ、急ぎ駐車場から逃げて行った。その様を見届け、バーバラは一度切ったDVDプレイヤーを再生させた。映像が映し出されるモニタを見、真赤が目を丸くする。ステラが銃を捨てて、モートの両親を拘束する縄を外していたからだ
『申し訳ありません、こんな芝居に付き合わせてしまって』
謝罪するステラに対し、モートの両親はひたすら恐縮している。
『いえ、私達も本気でした。これであの子が戻って来てくれると信じるしかなかった』
『ショック療法で洗脳を解除する…荒療治だけど、モートが救い出されてくれれば』
『首尾よく息子さんが戻られても、この芝居は続けて下さい。でも、お二人が彼を大事に思っているのは真実なのですから、どうか気に病まずに』
「何だこりゃ」
真赤は心底呆れた声を発した。つまりこれはステラやモートの両親を巻き込んだ、実に手の込んだ大芝居だったのだ。それにしても3人の迫真の演技に、見誤ったと真赤は思う。天使に対する怒り、息子を想う愛情は、紛れも無い真実であったからだろう。と、ステラがカメラに近付いて来た。その表情は暗い。
『…あなたには感謝している。私を救ってくれた事を。モートも助けようとしてくれた事にも。でも』
言葉に反して、ステラは明らかに憤っていた。一息吸い込み、彼女が断言する。
『もう二度とあなたには関わらない。こんなの最低だわ』
映像は、其処で途切れた。
真赤は背を向けてキャンピングカーへ向かおうとし、今一度バーバラを顧みた。そして背筋に悪寒が走る。機材を片付けるバーバラは、満足げに微笑んでいた。
「…終わったね」
キャンピングカーからマックスと、続いてアンナが姿を現した。既に天使モートの圧迫から開放され、周囲の景色も人の通りと共に現実を取り戻していた。しかし2人の顔は硬いままだった。
「見ていたよ。全部」
アンナが忸怩たる面持ちで呟く。彼女の肩に手を置き、マックスは「それでも」と言った。
「これが人間の戦いなんだ。傷つき、喘いで、それでも」
「そうさ。それでも戦わなきゃならねえんだ。そして今日も何処かで、誰かが」
真赤はくすみのかかった朝の青空を見上げ、別の場所で死闘を繰り広げる仲間の姿を思い描いた。
<ルーアン救出・其の三>
「ドラゴ、来ない方が」
と言い終える前に、相棒のドラゴは梯子を降りてエーリエルの傍に立った。その大柄な体が隣に居れば、この状況を前にしても不安が紛れるような気がする。2人はアイコンタクトで頷き合い、各々の掌に蜻蛉切を出現させた。その様を見、王如真の歩みが止まる。
「へえ。興味深いですね。どういう素性の力なのですか?」
返事の代わりに、2本の蜻蛉切が如真目掛けて突進してきた。如真が正面から受け止める。蜻蛉切は到達寸前でガラス細工のように砕け散ったが、如真も一歩たじろぎ、額の汗を掌で拭った。
「危ない危ない。御主様の加護が無ければ危ないところでしたよ。まだ僕も完全ではない。その力、得体の知れない古い神の仕業と見ましたが?」
「必殺、蜻蛉切と申します。それ以上の詮索はプライバシーの侵害に関わりますのでお控え下さいですぞ」
ドラゴの言い方を聞き、如真は「はは」と笑った。が、笑ったのは声だけだ。最早如真は、ハンター達との会話が成立しないものと認識している。ドラゴとエーリエルはそのように判断した。
如真は大きく距離を置いた位置から、未だ歩を進めていない。蜻蛉切という隠し玉を前にして、この場は慎重を選択したのだろう。如真は一旦2人から視線を外し、金縛りにあったように身動きが取れないエリニスを見詰めた。
「安心して下さい、エリニス・リリー。君の離反に対しても、御主様は決して怒ってなどいませんから。だから僕達の我が家へ帰りましょう」
「御免こうむるわ、サマエルの犬め。アタシはカロリナを守る。そう誓ったのよ」
苦痛に顔を歪めながら、エリニスが言い返す。そして躊躇と共に自らの纏う甲冑を見下ろした。何時の間にかこの格好になっている。というのは余りにも理不尽だった。如真はエリニスの狼狽を見透かしたように言った。
「カロリナさんを守る、と言うのであれば、今着けている甲冑もカロリナさんなのですが」
「何ですって?」
「正確に言えば、カロリナさんの半分です。カロリナさんの魂の半分。ピュセルと言った方が分かり良いでしょうか」
エリニスは絶句し、ドラゴとエーリエルは驚愕した。つまりカロリナ・エストラーダという存在は、ラ・ピュセルの魂が同化して成り立っていたのだ。そして件の鎧は、カロリナから切り離されたピュセルの権化とでも言うべきものである。如真は苦笑の表情で続けた。
「蜻蛉切という異能攻撃によって、どうやらカロリナさんは分裂してしまったらしい。現代社会の暗闇の中で育ってきた彼女と、輝かしいピュセルである彼女と。ただ、これでカロリナさんは御主様のセカンド・オプションという名誉ある役回りを失ってしまいました。残念な事です。さあエリニスさん、参りましょうか」
「誰が戻るもんですか」
「御主は、君の心が御自身に向いていない事を承知されています。そのうえで傍に置く事をお望みなんですよ。既にあなたは、当初から御主に目をかけられていました。光栄に思いなさい。そしてエリニス、お忘れですか? 君は自らの意思でフレンドとなった事を」
如真がパチンと指を鳴らす。2人のハンターの目前から、エリニスが掻き取られたように居なくなった。食い止める暇など無いままに。エーリエルは剣尖を如真に向け、怒気を込めた視線をくれた。
「彼女を何処にやったの?」
「さあ」
「さあ、って」
「彼女を呼び戻されたのは、御主様ですから。僕は代弁者に過ぎません」
「彼女をどうされるおつもりか」
エーリエルをフォローする為に一歩前に進み出、ドラゴが言った。
「まさか、サマエルの器にするのではないでしょうな」
「その気になれば、良い器になられたのかもしれません。しかし知っての通り、同意が無ければ天使と器は合致する事が出来ないのです。彼女は御主の傍に控えて頂く。彼女に憑依したピュセルも、それをお望みでしょうから」
事ここに至って、2人のハンターは薄々感付いていた。
マックスという最大の器が拒否を続け、カロリナという第二の器と目されていた者もハンターによって奪還された。これにてサマエルは、現世に顕現する事が叶わなくなったのだろうか? 否、である。もしもその魂を受け入れられる器であるならば、サマエルとの合致を望むフレンドは数多く居る。そして、その筆頭とも言うべきフレンドが、彼らから距離を置いて立っていた。ドラゴが息を呑み、問う。
「貴方は、一体何処までが『サマエル』なのですか?」
「首から上です。僕が庸から姿を消したのは、ミッション・ドロレスで御首を拝領する為でした。本来はカロリナさんにお渡しするはずだったのですがね。皆さんの行動は余りにも素早かった。残念です。だから極めて不安定ながら、僕で手を打って頂いたという次第。もう直ぐ首から下も御主のものとなります。とても光栄な事です」
如真が言い終えるのを待たず、再び蜻蛉切の猛射が始まった。ドラゴとエーリエルが間断なく交互に放つ光の槍を、如真は不可視の壁でもって弾き返し続ける。槍は如真の体に掠りもしなかったが、防戦一方の彼も楽な顔ではない。
「恐らく首から下を戻されても、御主様の全ての力は顕現されない。所詮、僕は僕か」
透明防壁の向こう、如真は自嘲めいた笑みを浮かべた。そして歩を進める。ドラゴとエーリエルが一歩身を退く。如真はそれでも親しげに話しかけた。
「父とジークリッドさんには、すまなかったと…いや、もう始まるんだ。後ろを振り返る暇は無い」
槍を弾き返しながら、如真はナイフを玩具のように弄び、構えた。其処に小さな、丸い玉と見える何かがコロコロと転がされてきた。エーリエルが放り投げてきたそれを凝視し、如真は顔をしかめた。
「手榴弾」
炸裂と共に手榴弾は、破片の代わりに白煙を撒き散らした。まともに効果範囲に入り、如真が軽く咳き込む。小さく膝を曲げる。この欺瞞煙幕とハンター達が呼称するものは、通常のそれではなかった。霊的な存在にも害を及ぼせる、自分のような者にとっては毒ガスに近い。それでも如真は白煙を速やかに地に返らせ、何事もなく顔を上げた。
その先に、2人の姿は見当たらなかった。煙幕を張ってから逃走に至るまでの挙動が、人間の運動能力で許される範疇ではない。何か特殊な術を使ったものと、如真は判断する。
「やっぱり、立ち塞がるのだろうな」
呟く如真は、ひどく悲しげであった。
咄嗟に「飛翔」でもって梯子から地上へと飛び上がり、ドラゴとエーリエルは空の人となっていた。太陽の真下で人間が宙に浮かんでいる絵面を、朝の出勤時間で忙しい地上から、どのくらい目撃された事か。尤も、かような心配をする必要は無くなるだろう。もう直ぐこの街は、誰も経験した事のない騒乱に巻き込まれる。
「サマエルが、這い上がって来る…」
痛恨の面持ちでエーリエルが言う。ドラゴは肩を竦め、明るい調子で彼女を慰めた。
「マックスとカロリナを、私達はサマエルから遠ざけております。彼奴らの目的を、2つも挫いたという訳です。恐らく如真という器は、サマエルにとって苦肉の策であったはず。突け入る隙は大いに有りと思いますぞ!」
「そうね」
ようやくエーリエルが笑う。2人は時速にして200kmの最大速度で、セーフハウスを目指す飛翔を開始した。
<C:ルーアン救出・其の四 バーバラ・リンドン>
王如真が踵を返すと同時に、それは電光石火の速度で突進してきた。咄嗟の防御も間に合わない。如真は送り犬の体当たりで真正面から撃ち抜かれ、膝を屈して呼吸を荒げた。
そしてその顔に、ありありと困惑の色が浮かぶ。ここは下界。距離を置いて唸り声を上げる得体の知れない犬。如真の口から言葉が漏れる。
「何だ、これは。ここは何処だ?」
送り犬による一撃は如真の心に巣くうものを、ほんの一時ではあるが消滅させた。しかし、彼は既に他のフレンドと同様の存在ではない。サマエルにとって宝のような、第三の器なのだ。如真はすぐさま瞳を虚ろとし、達観しきったような顔でもって、すっくと立ち上がった。
(かえして)
送り犬の強靭な眼差しが、その意を告げる。
(もう、あのこをはなしてあげて)
『そうか、お前はあの時の』
送り犬が再び地を蹴った。しかし如真は、今や如真とも言い難い代物は、落ち着いて送り犬を指差し、浄化の炎を指先に纏わせた。
送り犬は古い神が力を貸した、強大な意志を持つ魂そのものではあった。しかし、此度の相手は巨大に過ぎる。放たれた炎が送り犬に衝突し、瞬く間に彼を火達磨とする。送り犬は悲鳴を上げて転げ回り、やがてその声も薄れ、消えた。
『たかが犬風情が』
如真のようなものは、ひどくつまらなそうに溜息をついた。
ぼくは、あのこにひろわれたんだよ。まだめのひらかないときだったよ。
あのこは、ぼくをとてもかわいがってくれたよ。ぼくはこのこがきょうだいなんだとおもってうれしかったよ。でも、あのこはどういうわけか、むれのあるじとつがいのめすに、ものすごくぶたれていたんだ。なぜたたかれなきゃならないのか、ぼくにはさっぱりわからないから、やめろっていったんだけど、ついでにぼくもぶたれたよ。とてもいたかったな。でも、あのこときたらまいにちこんなにいたくされて、とてもかわいそうだったよ。だからぼくがまもろうとおもったんだ。むれのあるじだったけど、ひどいことをするやつをぼくはあるじとみとめないんだよ。
そのうち、あのこはどこかへつれていかれたんだ。あるじとめすもどこかへいっちゃった。ぼくはひとりになってしまったよ。だからあのこをさがすたびにでたんだ。ひとりにするのは、かわいそうだからね。
ながかったよ。とてもながかったな。きたへ、きたへのながいたびさ。そのあいだにずいぶんぼくもとしをとったよ。ほんとにいろんなことがあったんだ。けられるなんてしょうっちゅうさ。このにほんあしどもはほんとうにいやなやつらだ。でも、たまにすごくいいにほんあしがいたよ。ぼくにごはんをくれて、ぼくをむれにむかえようとしたんだ。でも、ぼくはあのこをさがさなきゃいけなかったし、かれらとはおわかれしなきゃならなかった。ざんねんだけどね。
そしてぼくは、このまちでついにあのこをみつけた! うれしかったよ。とてもうれしかったんだ。でも、かけよってみるとなんかちがうんだ。あのこであって、あのこじゃない。そんなかんじ。あのこのなかに、べつのいやなものをぼくはみたんだ。
ぼくははなれろっていったよ。そのこからはなれろっていったよ。そしたらあのこのなかのいやなやつが、ぼくをしたたかなぐったんだ。いたいいたいっていって、ぼくはそのままねむらされてしまった。で、おきたらからだがなんかふわふわかるいのさ。そのとき、ちからほしいかってこえがきこえて、ぼくはほしいっていったんだ。そしたら、ぼくはあのこをこんどこそたすけられるようなきがしたよ。あのこをたすけるために、ぼくはがんばってたたかってきたよ。
でも、もうだめみたい。からだがぜんぜんうごかないんだよ。ねえ、バーバラ、ぼくはもうだめなのかな?
「いいえ、駄目じゃないわ」
バーバラは静かに身を横たえているジョンジーの腹を、ゆっくりと撫でてやった。
先のモート戦から別れて以降、然程の間を置かずにジョンジーは彼の遺骸が眠る公園へと、半死半生の体で戻っていた。その場でバーバラが彼の帰りを待っていたのは、少なくとも僥倖であった。
バーバラとジョンジーの間柄は、既に魂の結束とでも呼ぶべき絆を保っている。だからバーバラは、彼が見聞きした事、言い残そうとした事をつぶさに理解出来る。しかしそのうえでバーバラは言った。まだ、終わりではないのだと。
「ジョンジー、私の心の中に入りなさい」
バーバラの言葉に、ジョンジーは薄目を開けて反応した。
「そうすれば、あなたは私と一緒に戦う事が出来るの。私があなたの、望む通りにしてあげるわ。一緒に本懐を遂げましょう」
ジョンジーは、口を僅かに曲げて笑った。そしてその身を緩やかにぼやかし、やがてジョンジーは消えた。
立ち上がったバーバラの背後から、さくりと土を踏みしめる音が聞こえる。親子が集うこの公園で、たった1人のバーバラに用件がある者が誰か、彼女は振り返らずとも理解した。
「ゲイルスケグルね?」
「ジョンジーを取り込んだか」
北欧の戦乙女、ゲイルスケグルは極力感情を込めずに言った。
「それはつまり、私をも取り込む事となろう。やがてその身を滅ぼすぞ。そして敵は、圧倒的だ。それでもやるのか」
バーバラは応えず、ゆっくりと振り返った。戦乙女が背筋を震わせる。それは人間の顔ではない。天使でも悪魔でもない。この世のものではない。ならば何かと考え、行き着いた思い付きにゲイルスケグルは狂喜した。
「天使を2体も抹殺出来る人間など、人間ではない。あなたは戦う為だけに動作する新種生命体だ。これが私の、心から望む御方であった」
ひとしきり破顔大笑し、ゲイルスケグルは不意に笑うのをやめた。
「ここ、どこ?」
きょとんとした顔を左右に向け、子供らしく首を傾げる。バーバラは何時もの人懐っこい笑顔で、彼女の顔に目線を合わせた。
「お名前は何ていうの?」
目を閉じたまま、バーバラが女の子に語りかけた。
「…アンジェリカ」
「まあ、綺麗なお名前ね、アンジェリカ。でもアンジェリカ、早く家にお帰りなさい。ママが心配していらっしゃるわ」
<D:真赤 ドラゴ エーリエル>
「で、どーだったよ。奪還したカロリナの具合は」
「今のところは寝ているわ。随分疲れているでしょうし」
「そちらは天使モートを撃退したと聞きますが?」
「ああ、まあ、な…。マックスとアンナも健在だ。全く、よくもやって来れたもんだよ」
何時もの夜の頃合いに、真赤とドラゴ、エーリエルは合流し、近況を語り合っていた。電話で話せば事は簡単に済むのだが、ハンターは習性として実際の対面を重視する。その観察眼で相手のちょっとした変化に気付く事が出来るからだ。言い換えれば、話す相手が『向こう側』へ足を踏み込んでいるか否かを見極められる。
そして案の定、ドラゴが真赤の変化に気が付いた。
「真赤君。貴方の瞳の色が少し薄くなっておりますな」
「マジか」
真赤は手鏡をエーリエルから借り、己が顔を覗き込んで舌を打った。瞳は確かに黒みが若干薄まり、灰を伺わせる色合いに近付いている。それで視力が損なわれているかと言えば、そんな事は無い。むしろ普段以上に感覚が冴えていた。
「俺なんかより、視覚障害者を助けてやれってんだ、サマエルは。一体何が目的なんだ?」
「分かりませんな。分かっているのは、サマエルが明確な目的をもって真赤君に干渉したという事実のみ」
「何も分かってないのと一緒だよ、それ」
『…一見全然違うように見えるけれど、あの、何て言うの? フレンドとかいう妙チクリンなものと方向性が似ているような気がするのよね』
エーリエルは足を組み、オーバーリアクションな手振りで真赤に言った。今度は真赤の観察眼が発揮する。このエーリエルは、普段のエーリエルではない。では何なのだと考えて、真赤はこめかみに指を当てた。
「いきなりか、ヴァルキリー」
「本当に前触れがありませんな」
『硬い事言わないの。君達と私の仲じゃない。それよりエーリエル殿、バッグの中に入っているミニッツメイドのトリプルベリー、飲んでもいい?』
「いいけど。何でそんな事を知ってるの?」
『ドラッグストアで買ってるところを後ろから見ていたのよ。ありがとう』
まるで背後霊である。いけしゃあしゃあと言ってのけ、エーリエルの体のヴァルキリーはペットボトルの口を楽しそうに開けた。喉を鳴らして飲み干し、あー、と無意味に溜息をつく様がオッサン臭い。
『甘いわ。甘いは正義だわ。さて、落ち着いたところで、今一度真赤殿の変化について考えてみましょうか。フレンドと君達の戦いは、力を貸した者としてある程度把握しているつもりよ。そのうえで私は真赤殿と彼らの方向性が似ている、と言ったワケ』
「まあ、両方ともサマエルが関わっているからな。ケッタクソ悪ィけど」
『でも、違いはあるわ。私には2つの違いがあると思う』
「一つは、自由意思を持つか否かってとこか。もう一つは?」
『私には、真赤殿が肉体そのものを進化させているように思えるのよ』
朗らかな表情を消し、ヴァルキリーは深刻な表情で真赤を見詰めた。
『フレンドは、これから授かり物の異能を行使出来るようになるでしょう。そして肉体も潜在能力を引き出して来るような気がするわ。でもね、真赤殿は人間の潜在能力の限界点を少しずつ引き上げられているように思えるわ。言い換えれば、フレンドよりも更に戦闘向きになりつつある、という事』
「戦闘だって? 俺はむしろ、サマエルの側と戦っているんだぞ? 」
『その戦闘力は差し当たって自分の脅威にならないと考えているんでしょ、ヤな奴。だからその力は、また別の脅威に向けられようとしているのかもしれない』
「別の脅威?」
『ごめんね、それが何なのかまではさすがに分からないのよ。ともかく真赤殿は用心しておいた方がいいわね。で、今日現れたのは、また別の用件があってね』
「どういう事ですかな?」
ドラゴの問いを受け、ヴァルキリーが顔を綻ばせる。そして自分の頭にドンと手を乗せ、グシャグシャと撫で回した。
『2人共偉い! 力を渡した甲斐があったわ。ドラゴ殿とエーリエル殿、良くぞ勝って戻られた。2人を褒めて遣わす』
「痛い痛い。やめて、セットした髪が乱れる」
「…という事は、お眼鏡に叶ったという事ですな」
ドラゴは以前の彼女の言葉を思い出した。馴染んだと見れば、もう一つの力を渡すと。ヴァルキリーはドラゴの考えた通り、光の玉を右手に出現させた。そして偉そうに曰く。
『シルト(盾)!』
「そのまんまですな。もう少し遊びのネーミングセンスが欲しいですぞ」
『意外と質実剛健なのよ、私達。この盾は物理的・霊的攻撃から君達を護るでしょう。今は小さい玉だけど、こんな事も出来るわ』
言って、ヴァルキリーは玉を本物の盾くらいの大きさまで引き伸ばし、ひょいと近場に放った。盾は彼女から離れたまま、その存在を維持している。
『こうして自分以外のものも護れる』
「うわ、便利ですな。例えば結界類との併用は?」
『勿論OK。次いで言うとジャベリンとシルトは、その力を高める事が出来る。分かり易く言えばレベルアップ。でも、ただ使っているだけでは駄目。どうしたらいいと思う?』
「どうしたらいいんでしょうな」
『根性よ!』
拳を誇示して固く握り締め、ヴァルキリーは暑苦しく言い放った。
『行動に根性を込めるのよ! 根性こそが人間の最大の力。根性見せてアクトを書けば、それに見合う判定が為されるでしょう!』
「初っ端から『うおおおお』とか書くのは如何ですか?」
『いや、それはちょっと』
言うだけ言って満足したのか、『さて』と言ってヴァルキリーは立ち上がった。そして去る前に、彼女は自らの側頭をコツコツと軽く叩いた。エーリエルに呼び掛けたのだ。
『エーリエル殿、名前を知りたがっていたわね? 私の名前は、ブリュンヒルデ』
「何ですって!?」
エーリエルは体を打ち震わせた。ヴァルキリーの中で最も有名なブリュンヒルデが、自らに直接語り掛けているのは感動的だった。しかし。
「何でそんなに軽い性格なの?」
『人間との付き合いが深過ぎたからねー。そして「シルト」を渡したのは、この子』
『アルヴィト、と申します。御三方、以後お見知りおきを』
またエーリエルの体が使われた。一人三役をこなすエーリエルも大変だ。が、『それじゃ』と言って去る気配が感じられ、慌ててエーリエルが呼び止める。
「待って、三姉妹でしょう? 後の1人はどうしたの?」
その問いに、ブリュンヒルデとアルヴィトから躊躇の気配が伺える。言い辛そうにしていたものの、2人は仕方無しの声音を隠さずに答えた。
『ゲイルスケグルは、私達とは違う選択肢を選んだの。彼女は自らの役回りに対し、あまりにも純粋だわ』
『彼女が進む道であります。言える事はありません。ただ、ワルキュリュルとしての至上の喜びを得た事は、些か羨ましく思えるのも否めません』
それを最後に、2人の女神の濃厚な気配が消えた。
<セーフハウスの密会>
「ルーアン救出」作戦終了から4日が過ぎ、一挙に動き出した事態は、一時的にではあるが沈静化を迎えていた。
カロリナ・エストラーダの奪還という大仕事を成し遂げた面々は、ジェイズ・ゲストハウス隣のエーリエルが設えたセーフハウスに、時間を作っては足繁く通っていた。ここには当のカロリナが匿われている。ル・マーサのリーダーという重大な役目を果たしていた彼女の突如の喪失は、マーサに相応の混乱を来たしたであろうことは想像に難くない。
しかし、跡目を継ぐかの如く王如真が前に出て来た。彼という存在を脅威と見ていた一同にとって、それは由々しき事態である。彼がカロリナに代わってサマエルの器にならんとしている事も想定の範囲内だった。
事態は未だ深刻である。ただ、その中でカロリナをマーサのくびきから解放した事は希望であったのかもしれない。以前ドラゴが言っていた通り、マックス、カロリナと、器に関して現在サマエルの思惑は尽く反故にされている。言い方は悪いが、サマエルにとって如真という選択は『他よりはマシ』程度と見ていいだろう。
ただ、渦中のカロリナには些か問題があった。彼女は既に目を覚ましている。しかし、それはまるで起きながら夢でも見ているかのような有様だった。
「エリニス、ごめんなさい。ジョンジー、どうか、ゆるして…」
焦点のあやふやな目で、カロリナは何時も通りの繰言を呟いていた。ハンター達の質問に対して簡単な受け答えをする事はあるものの、概ね会話は成立しているとは言い難い。少し間を置けば、また独り言を話し続けてしまう。食事をしたりトイレに行ったりと、緩慢ながら最低限の生活はこなせるものの、これでは社会人としての復帰に困難を極めるだろう。
「…ただ、少なくともサマエルにとって今のカロリナは、器としての価値が無い事が救いではあるわね」
ドラゴが淹れてくれたミルクティを飲み、エーリエルは顔をしかめた。甘過ぎる。カロリナを迎え入れた際には、疲れを甘いもので癒そうとは言っていたものの、幾ら何でも砂糖の入れ過ぎである。ドラゴはと言えば感受性の麻痺した舌でもって、優雅にミルクティを啜っていた。
「彼女と一体化していたピュセルの魂を、呼び戻す以外に立ち直らせる手段は無いでしょうな」
「また難儀な事を。それって、元の木阿弥を意味するじゃない」
「サマエルを滅ぼした後ならば、何とかなるかもしれませんぞ」
「何とかなる、じゃないわよ」
度を越えた甘さと道程の長さに、エーリエルは頭を抱えた。と、アンジェロがカップを置き、まじまじとカロリナを見詰める。
「或いは、ピュセル自身に改心させるというのは?」
「どういう事?」
「カロリナはサマエルへの依存がとても深かったけれど、それはピュセルが大きく影響していたんだと思う。大元に心変わりをしてもらうのがいいんじゃないかな。一体どうすればいいのかは分からないけど。それにしても」
アンジェロは困り果てた顔でドラゴとエーリエルを見比べた。
「そのピュセルは、一体どうなってしまったんだろうね? ジルに対するブラフが上手く行ったかどうかも気になるんだけど」
「その顛末はVHをお楽しみにですぞ」
「状況から言えば、エリニスに取り憑くという形を取っているはず。彼女の安否も心配だわ…」
と、エーリエルの携帯電話が鳴り響く。発信者を見て、彼女は目を丸くした。その名をドラゴとアンジェロに見せると、2人は勢い身を乗り出した。頷き、エーリエルが電話を繋ぐ。
「エリニス、どうしたの!?」
『番号登録、消さなかったのね。私は無事。今のところは』
エリニス・リリーからだった。全員が固唾を呑み、彼女の一言一句に聞き耳を立てる。思ったよりも声音はしっかりとしていたが、その内容には暗雲立ち込めるものがあった。
『あれからアタシは、気絶したままマーサの本部に飛ばされたわ。目覚めて2時間くらいかな。下界戦からフレンド達を引き連れて如真が戻って来たのよ。その中で、50人くらいのフレンドがサクリファイスを実行したみたい』
「サクリファイス?」
『早い話が自決よ。そうやって心をサマエルに捧げる』
「狂っているな」
『アタシもそう思う。そう思えるだけ、アタシはまだまともかもしれないわ。下界の戦いでは、悪魔の側も相当数が死んだらしい。最後の結界も喪失して、準備が完全に整った。それからマーサの本部で、サマエル・ライジングが始まったわ。首から下を、器に入れる儀式が』
「矢張りですか」
『如真がサマエルの受け皿になったけれど、今のところは彼自身に突出したものを感じない。敢えて抑えているのかもしれないけれどね。ただ、フレンド達はカロリナなんて最初から居なかったみたいに、今度は如真に傅いているわ。酷過ぎる。彼女は無事?』
「大丈夫よ。三食バッチリ。ちょっと夢見がちだけど」
『そう。良かった。でも、気をつけて。あのフレンド達はサマエル復活後、明らかに存在感が変わ…った…』
不意にエリニスからの音声が途絶えた。受信不良らしかったが、ドラゴはハタと気付き、EMF探知機をONにした。メータが振り切れている。何かがこの部屋に干渉してきたのだ。
『其処に居たのですか』
3人は慎重に、その声の主、カロリナへと顔を向けた。彼女は閉目して眠ったようであったが、口のみが別の生き物のように動いている。彼女を介して接触を持ってきた者、その正体をエーリエルが看破する。
「サマエルね」
『私は、少し困っています』
サマエルは、言葉程に嘆きの伺えない調子で淡々と述べた。
『人がこれ程までに難儀な心のものとは。お前達は私から、マックスばかりかカロリナまで遠ざけようとしています。今までは人の自主性を尊ぶ心積もりではありましたが、そうもいかない事情が出来ました』
「どういう意味です?」
『困難な敵が来ております。今の私では対抗するのが些か面倒なのです。守りは「破壊」に依頼をしましたが、出来れば彼奴に力量差と言うものを骨身に染みて味わってもらいたいものです。その為に、マックスないしはカロリナの器が必要となります。よって、我が掌へと返して頂きます』
「Bull shit!」
溜め込んでいた憤りを解放し、エーリエルが吠える。
「哀れな堕天使め。どの口で自主性を尊ぶなどと言うか。ルシファと大天使どもが定めた黙示録の法則を破って、新世界をブチ上げるつもりだか何だか知らないけど、お前がやろうとしているのは文化大革命だわ。人の為とかほざいて、人間の自由意志を圧殺して、ついでにどれだけの血を流せば気が済むのよ!」
『誰です?』
「エーリエル・レベオン。地獄でその名前をブツブツ呟くがいい。わたしは負けない。お前なんかに負けない。神様が『もう外れてもいいよ』と宣ったレールに何時までもしがみつくロボ野郎には負けない。ああそうか、今なら分かるわ。何故お前達が『彼』に怯えるのか。神と同格の力を持ちながら、自分の意志一つで横道に逸れて行った『彼』が、ロボット達には信じられなかったんでしょ? ねえ、怖いの? ジーザス・クライストがそんなに怖いの?」
その名前を出した途端、その場の空気が一挙に冷え込むような錯覚を一同は覚えた。若干の間を置き、カロリナの口を借りた者は、フッと上からの目線で吐息を漏らした。
『マックスとカロリナを、我が掌へ返して頂きます。私の愛する、可愛い者達が総力を傾けてくれるでしょう』
言って、カロリナはかくりと俯いた。サマエルは去ったらしい。
エーリエルは自嘲気味に肩を竦め、途端に浮き出した大量の脂汗を拭い、半笑いでドラゴに問うたものだ。
「ねえドラゴ。わたし、言い過ぎた?」
「あんな感じでいいと思いますぞ。どの道サマエルに喧嘩を売るには違いありません。ただ、ジーザスのくだりは笑えましたな。ありゃ完全に怒らせましたぞ」
何れ彼らは、サマエルとの全面対決への道を歩む事となる。しかしながら、2人は不安や焦燥を何処かに置き去りにして気分良く笑った。その強靭な心こそが最大の武器なのだと。
<E:アンジェロ エリニス>
ジルという大敵に対抗する手段を、アンジェロとしては此度の戦いを通じて出来る限り考慮したつもりだ。自分やジョーンズ博士が予想する通り、ジルはピュセルことジャンヌに対し、立場を越えた深い愛情を抱いている。それはピュセルが魂のみの存在となり、ジルが吸血鬼に成り果てた今となっても。
ただ、問題があるとすれば、カロリナとピュセルが分裂してしまった事だ。アンジェロにとっては完全に想定外の事態である。カロリナとピュセルが同一のままであれば、ハンター達を交えた防御も手段は多くあっただろう。ゲストハウスの主の庇護も期待出来たかもしれない。尤も、サマエルへの依存は主としてピュセルの影響によるものだった。カロリナとピュセルでは救いを求める方向がまるで違っていたのだ。こうなる事は、ある種の必然であったのだろう。
という訳で、アンジェロはマーサの本部近辺にひっそりと足を運んでいた。ピュセルは甲冑の形を取って、今もここに居るはずだ。聞いた話では、エリニス・リリーに憑依しているという。つまりここで網を張れば、ジルが接近する可能性が高い。
(…もしもうっかりジルに出くわしたら、どうなるんだろう、自分)
そう考えると、アンジェロは恐怖を通り越して笑いがこみ上げてきた。フェドーラ帽を今一度被り直す。敬意を表するジョーンズ博士の愛用帽を模したもので、これを身に着けていると明らかに『死ぬ』という状況でも生きて帰れるような気がした。早い話が、お守りだ。
ただ、マーサの本部は強大な霊的防御が張られている。悪魔や吸血鬼の類は足を踏み入れる事すら出来ない。それにエリニスが都合良く外へ出て来てくれるとは思えず、ヤレヤレ、とアンジェロは肩を竦めた。
(ま、今宵は無駄足承知のうえって事で)
と、思った途端、通りの影に隠れるアンジェロの視線の先に、エリニス・リリーが建物から出て来るのが見えた。アンジェロは膝の力が抜けた。
エリニスは建物から出て、通り前の歩道に座り込んだ。
こうして見た目上、エリニスは何処へでも行ける。しかし魂の根底からの束縛をエリニスは自覚していた。サマエルの意に反する行動を取れば、激しい痛みが全身を駆け巡る。こうまでして自分を傍に置いておくサマエルの意図を、エリニスは理解出来なかった。
否、とエリニスは思い直す。
サマエルの傍に居る事を望むのは、むしろ自分に取り憑いた者であったと。その名はピュセル。ジャンヌ・ダルク。彼女のサマエルへの依存が、エリニスの行動を束縛しているのだ。そしてピュセルは、カロリナでもあるのだ。それを思うと、エリニスの心が痛む。ピュセルをサマエルの依存から、解放する必要がある。
(でも、どうやって?)
ピュセルはその鎧姿同様に、その心はかたくなであろうと思われる。その心を一時的にでも弱らせ、自分の言葉が彼女に通じるようになれば、或いは。
と、目の前に黒い塊が空から落ちてきたように大きな音を立てて降着した。突如の出来事で、エリニスは一時対応を見失う。
塊は、むくりと上体を上げた。精悍かつ、綺麗な顔立ちの男だ。男は黒衣を翻してエリニスを見上げ、喜びとも悲しみとも見分けられない複雑な目で見据えた。そして今一度、頭を深く下げる。
「会いたかった」
万感の想いを込め、男が言う。
「どれだけ会いたかったか。ラ・ピュセル、よくも、よくも」
全く理解出来ないその様を、エリニスは呆然と見下ろしていた。そして次第に自分が歯を食いしばり始めていると自覚する。何時の間にか体は甲冑に包まれていた。エリニスの心を、黒い炎が侵食を開始する。エリニスは、震える声音で男に言った。
「跪いて、靴を舐めるがいい」
僅かに残っている理性が、自らのかような物言いに驚愕する。しかし男は、言われた通りにエリニスの足元に近付き、靴に唇を寄せようとした。
其処を狙い澄まし、エリニスが男の顔面を蹴り上げる。男は呻き、それでも再びにじり寄ってきた。エリニスは男の頭頂を踏みつけ、何度も何度も頭を地面へと叩きつける。そして彼女の口から声が発せられた。それは間違いなくエリニスのものではない。
『忠誠を誓うと言ったのに。命を賭けて守ると言ったのに』
エリニスの顔が、怒りと笑いの交じり合った、狂人のそれへと変貌する。男を踏みしだく行為を一切止めず、エリニスは狂乱した。
『何故助けに来なかった。お前が来てくれると、最期まで信じていたのに。神も、お前も、私を見捨てたのだ。私が炎で焼かれただけで済んだと思うたか。一体私が、どれだけの目に合わされたと思っているんだ!』
「すまない、ピュセル、すまない。俺は君の死の後、全てを憎んだのだ。人間を、情けない自分を。挙句の果てに、かような姿へと成り果てた。それでも俺は、君にどれだけ憎まれようと、今でも君を心から愛している」
『気持ち悪いよ、この変態野郎! 死ね、死んでしまえ、ジル・ド・レエ! 素っ首掻き切って死ね!』
「…何だよ、これ…」
アンジェロは度を越えた男女の修羅場的光景が展開する様を、呆然と見詰めた。あの時、下界で、僅かな合間に表に出たピュセルの言葉を思い出す。その憎悪に満ちた台詞の通り、彼女は一方的な暴力をジルにぶつけていた。ジルはと言えば、想定通り彼女の許へ馳せ参じたものの、ピュセルの側は完全拒否である。この状況をどう判断すればいいのか、アンジェロはしばし思考を見失った。
しかし不意に生温い風が吹き、アンジェロはハタと顔を上げた。その違和感は、彼の真横を通り過ぎる途中であった。真っ白なスーツ姿。それ以上に白い肌と髪。際立つ赤い瞳。その者は、歩行特有の上下振動が見当たらない。理由は分かる。その者は、宙に浮いていたのだ。
「よう、こんばんは」
彼はアンジェロの方を全く見ずに、挨拶だけを寄越してきた。アンジェロは、何時の間にか自分が尻餅をついている事にさえ気付かなかった。白い男は宙を浮遊し、真っ直ぐにジルとエリニスのところへ向かって行く。その姿にエリニスが気付き、彼女はジルの頭を踏み砕くのを止めた。
『おやおや、この糞馬鹿の飼い主のお出ましかい』
「言うねえ、糞餓鬼が。おめえこそサマエルの子飼いじゃないのかね。まあいい。取り敢えず俺に免じて、矛を引くが良い。恐らくサマエルも、かような暴力は望んじゃいねえと思うのであるが?」
『吸血鬼風情の親玉に指図される謂れは無い』
「立場を弁えよ、糞餓鬼。そなたの何千倍も俺は長生きである。馬鹿が。一応のところ、サマエルと俺は同格というのが設定だぜ。本当はあんまり勝ち目が無いんだけどネ。故に敬意をもって接するが良い。同じこの街の仲間なんだからさーん」
言って、男はビタ一文動かないまま、蹲るジルを宙に引っ張り上げた。そして曰く。
「取り敢えずこやつには、突然のアポ無し訪問を謝らせておく。はいはいどーも、すみませんでしたっと」
男はジルを、無形の力でアスファルトに叩き付けた。
「全く、おめえにも人心が多少残っているってのが驚きである事よ。化け物は化け物らしく、もっと化け物化け物しろ。恥ずかしい奴め。それじゃ元救国の英雄ちゃん、失礼仕るぜ。せいぜいサマエルの御機嫌を伺うがいい」
男はジルを引き摺るようにして場を去って行った。その途上、ジルが未練がましくエリニスの顔を見る。その表情には、吸血鬼という縛りを越える気持ちが確かに感じられた。
「出た…あれが、吸血鬼の総大将」
アンジェロはルスケスの姿を、初めて目の当たりにした。吸血鬼の真祖。誰もが認める最強の種。ルスケスは間違いなく自分の存在を知っていたはずだが、特に何をしてくるでもなかった。恐らく空気か石程度の認識しかされなかったのだろう。認めるのは屈辱的だったが。
今更ながらに加速する動悸を何とか宥め、ふとアンジェロは気が付いた。
真祖ルスケスが復活した、という情報は入っていない。しかし口元だけが動ける肉体ながらも、既にルスケスは自在な移動が出来るまでになっていた。それを考えるのは恐ろしい事だが、アンジェロは確信せざるを得なかった。
もうすぐルスケスは、真の復活を遂げるのだと。
<H4-5:終>
○登場PC
・アンジェロ・フィオレンティーノ : マフィア(ガレッサ・ファミリー所属)
PL名 : 朔月様
・エーリエル・”ブリトマート”・レベオン : ポイントゲッター
PL名 : けいすけ様
・エリニス・リリー : スカウター (ル・マーサ所属)
PL名 : 阿木様
・ドラゴ・バノックス : ガーディアン
PL名 : イトシン様
・真赤誓(ませき・せい) : ポイントゲッター
PL名 : ばど様
・バーバラ・リンドン : ガーディアン
PL名 : ともまつ様
ルシファ・ライジング H4-5【サマエル・ライジング】