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<決戦前夜>

 行こう、行こう、何処までも。私達に義有り、勇気有り。私達には心から信じる友が有る。

 恐れるな、恐れるな、荒野へ踏み出せ。私達に障壁有り、敵有り。私達には立ち向かう力が有る。

 

 奇妙な節回しの歌をマーサの会員達は満面の笑みで、一糸乱れずに合唱する。全員がフレンドと呼ばれる正式会員だ。彼等はナイフをピカピカに研ぎ上げる作業に耽溺していた。その様はあまりにも異常であったが、最早その異常性を部外者に隠すつもりは無いらしい。

(…何故なら自分達は正しいと、心から信じているから、か)

 マーサ本部の作業室に通されたエーリエル・レベオンは、ざっと20人以上がナイフを手にしているという状況を背にしながら、落ち着いてマーサの指導者に相対した。テーブルの対面に座るのは、カロリナ・エストラーダ。そして彼女に付き従う忠実な配下の如く、エリニス・リリー。カロリナは相変わらず心親しい笑みを見せていたが、エリニスのエーリエルを見る目は、意図的に感情の色を消している。それはそうだろうとエーリエルは思う。自分はハンターで、彼女はマーサの人間だ。この差は埋め難く、決定的である。

「ミッション・ドロレス直下の下界に、悪魔の攻勢がかかるという情報が入りました」

 エーリエルは単刀直入に話を切り出した。鉄面皮のカロリナに対し、エリニスは分かり易く眉間に皺を寄せた。これはル・マーサ内々の話であるはずだから、訝しく思われるのは当然だ。

「そう、実はそうなんです。ミッション・ドロレスはサンフランシスコで最も古い教会。私達はあの場所を清く、かけがえのない聖地だと考えておりますわ。そんな場所に、悪魔なんて。御主から、かような啓示を戴いた時は驚いたものです。ドロレスを守れと。驚きと同時に、湧き立ちました。御主のお役に立つ時が遂に来たと!」

 カロリナは大仰に喜びの言葉を発した。エーリエルが頷く。

「啓示ですか。御主からの」

「私にはお仕えする御主が居らっしゃるのです。その方の御言葉を授かる光栄を私は賜りました。御主の啓示に誤りは無いのです…ところで、エーリエルさんはどうしてお知りになったのですか?」

「正体不明の男です。中華系の。その男から情報を得ました。心当たりは?」

「さあ? マーサにも中華系の方はいらっしゃいますが…如真さん、ちょっと宜しいですか?」

 カロリナに呼ばれ、如真という名の男が見るからに上機嫌で歩んで来た。その名を聞き、エーリエルの背筋が震える。王如真の名はハンターとして知っている。チャイニーズマフィア、庸の精鋭だ。

「どうかされましたか、カロリナさん」

「この方とお会いになられた事はありますか?」

 如真がエーリエルを見下ろす。にこにこと愛想は良さそうだったが、如真はある意味カロリナ以上に意図の分かり辛い目をしていた。

「さあ、存じませんね。それにしても可愛らしい方だ」

「ふふ。いけませんよ、この方を口説かれては。火傷に御注意あそばせ。如真さん、ありがとうございました」

 カロリナに促され、如真が一礼してその場を辞する。こほん、と咳払いし、エーリエルが再び口を開く。

「私も彼に会った事はありません。中華系の男は、背格好から察するに中年でした。あの者が誰なのかは、わたしにも分かりません。ただ、下界と呼ばれる場所で大きな事が起こるという話は、マーサに関わらないところでハンター達も知り得ているのです。ミッション・ドロレスは、恐らくその一環。ハンターとしては看過出来ない」

 エーリエルは椅子から腰を上げ、前屈み気味にカロリナを見詰めた。

「マーサの方々がドロレスを防衛するというのなら、敢えてそれを止めません。魔の者と戦う、わたし達は同志なのです。わたしはドロレスの戦いに赴きます」

「まあ、それは心強い!」

「…カロリナ!」

 堪らずエリニスはカロリナの袖を引く。対してカロリナはエリニスの掌を優しく包み、そっと押し返した。

「このような繋がりこそが、マーサの力だと思うのです。エリニスさん、他の人達を巻き込みたくないとのお心は本当に分かるのですが、彼女は強い人です。ここは有り難く、助力におすがりしましょう」

 そうまで言われて、エリニスは不承不承の面持ちで身を引いた。更に畳みかけるように、エーリエルの曰く。

「戦いには、もう1人同行します。ドラゴ・バノックス氏。極めて優秀な『護り屋』です」

「助かりますわ。人手は多きに越した事はありませんもの」

「それでは、腹を括って事に臨みましょう。しかしカロリナさん、マーサは悪魔に対抗する手段有りとわたしは想定していますが、それでも彼等は危険ですよ。人死にが出るかもしれません。それでも、ですか?」

「大丈夫です。私達は御主の祝福を戴く身。決して負けはしないのですよ」

 カロリナは、心躍るという顔であった。少なくとも彼女はその笑顔のままで、仲間の死を否定しなかった。

 

<A:バーバラ ドラゴ エーリエル>

 マーサの会員は、今や何処に居るのか分からない。故に彼らの天敵である送り犬、ジョンジーとの接触に、バーバラ・リンドンは細心の注意を払っている。

 最も安全な場所と言えばジェイズ・ゲストハウスになるのだが、残念ながらジョンジーの入館は跳ね付けられてしまう。人目の無い夕暮れの頃合を見計らい、バーバラは広い敷地のゴールデンゲートパークでジョンジーを呼び出した。

 ジョンジーは直ぐに現れた。彼にとってバーバラという人間は、言わば盟友的な存在だ。マーサを敵と認識し、共に恐るべき天使に相対して、これを破るという殊勲を上げた。そのバーバラに対しても、此度のジョンジーは距離を置いた。彼女の隣に居る人間を、信用していなかったからだ。バーバラはドラゴ・バノックスに肩を竦めてみせ、その場にしゃがんでジョンジーと目線を合わせた。

「大丈夫よ。この人は私の友達だから。もう1人来る女の子もね。私達は、共にル・マーサという組織に強い違和感を抱く者同士」

 バーバラに促され、ジョンジーは垂らしていた尾を軽く振りつつ、ひたひたと近付いて来た。が、距離をある程度縮めたものの、また立ち止まって座り込んでしまう。ドラゴは思わず苦笑した。

「どうにも嫌われてしまっているようですな」

「そんな事は無いのよ。彼は人間との付き合い方に慎重なだけの、ごく普通の犬だと思うの。きっと生きている間に、嫌な目にあってきたのでしょうね」

 そうこうする間に、エーリエルもGGパークにやって来た。彼女の表情には、幾分かの疲労が見受けられる。ドラゴが労いの言葉を掛けた。

「ご苦労様でしたな。如何でした、マーサとの折衝は?」

「上手く行ったわ。カロリナは共に戦いたいと。思った以上に積極的だった。あの積極性は、どうにも訝しいものを感じてしまうわ…。バーバラさん、お願いは聞いてもらえました?」

「これからなのよ」

 エーリエルに頷き、バーバラは更に進み出てジョンジーに話し掛けた。

「ねえ、ジョンジー。変わったお願いだけれど、この人達に『お手』をしてくれないかしら。彼女はエーリエルさん、男の人はドラゴ君ね。あなたに力を貸した者に、彼らが味方であるという認識を持ってもらう為の、証明をあげるという意味があるわ」

 犬の霊体であるジョンジーに話が通じているかどうかは怪しかったが、少なくとも彼は首を傾げるというジェスチャーを見せた。バーバラは根気良く話し続けた。

「ジョンジー、ジョンジー。私と同じように、どうか彼等の事も信じて欲しいの。マーサの人達は心を何処かに置き去りにした人達だけれど、彼等は違う。報われない戦いであっても、それでもやり遂げなければならないと知っている人よ。あなたと同じだわ、ジョンジー。だから彼等に、あなたの心を見せてあげて」

 ジョンジーが立ち上がった。同時にバーバラが、背後の2人に掌を向け、地面に向けて一回振る。しゃがみなさいと彼女は言っている。応じてドラゴとエーリエルは、膝を地に付けた。

 ジョンジーはまずドラゴの元へ向かい、座って右足を軽く上げた。ドラゴが差し出した掌に、ジョンジーの小さな足がちょこんと置かれる。続いてエーリエルとも『お手』を交わし、ジョンジーはバーバラの正面に回った。

「ありがとう、ジョンジー。私達を信じてくれた事に感謝するわ。ところで、今回は出来るだけ行動を控えて頂戴。あなたにはまだダメージが残っているかもしれないから。私達の戦いは、この先も続くの。マーサとの事は、今回はドラゴ君とエーリエルさんにお任せしましょう」

 バーバラがジョンジーの頭を軽く撫でると、彼は口角を上げて笑ったような表情を見せた。挨拶を残すように一度だけ吠えてから、ジョンジーの姿は消えた。

「可愛いうえに聡明だわ」

 エーリエルが感嘆の声を漏らす。

「ともあれ、これで彼と縁を繋ぐ。果たして古い神に会う事があるのかは分からないけれど」

「ふむ、縁を繋ぐ。いい言葉ですな。彼は霊体ですが、良き者と思えますぞ。証明についてはさて置いて、こうした不思議な縁を繋ぐのは楽しいものですな!」

 ドラゴは心地良く笑った。

 

<ハンターとマックス達の根城>

「うわ、こんなとこを根城にしてるワケ?」

 室内に入った早々、サラ・スーラはあっさりと無礼な感想を述べた。後に続くのはマイケル・スミスとシュテファン・マイヤー。全員がハンターである。

 彼等を出迎えた真赤誓は、思わずげんなりした。この3人が入ると室内の狭さが更に厳しい。特に「点取り屋」のマイケルだ。この男は身長が2m以上ある。女性の「護り屋」サラ、「調査屋」のシュテフ達も、ハンターらしくがっしりした体つきをしている。室内の体感温度が3℃くらい上がったような気がした。

「しかし言ってみるもんだな、ジェイコブに。本当に助っ人が来るたぁ思わなかったぜ」

「その露骨に当てにしていないという口調は何だ」

 シュテフがムスッとした顔になる。隣でマイケルが、まあまあと宥めにかかった。彼らの様子はさて置いて、真赤は用件を切り出した。

「さて、この御時世にあっていまいち仕事熱心じゃない君達に、とっておきのお仕事」

 さすがに3人とも切れた。

「何言ってんのよ、このクソガキャ!」

「そうですよ、仕事はちゃんとしてましたよ!」

「リアクションに載らないような小さい事件を細々とな!」

「仕事は簡単なもんだぜ」

 3人の抗議をすっぱりと無視し、真赤は煙幕弾を差し出した。

「こいつを持って、ミッション・ドロレス周辺で待機して欲しい。いざ、騒動が起こりそうになったら、こいつを投げ込んでずらかる。シンプルだろ?」

「もしかして、大事なのか?」

「ああ、大事だ。この頻発する事件の大元に、関わってくるかもしれねえ」

 真赤の言葉を受け、3人は円陣を組んだ。ひそひそと話を始めるものの、この狭い室内では当然のように真赤の耳に入る。

「大事だってよ」

「やった。仕事だ仕事だ」

「綺麗に存在を無視されていましたからね、自分達」

「でも欺瞞煙幕、一個だけね。シュテフ、自分の持ってる?」

「俺は持っているぞ。真赤のはサラが持て。で、俺からマイケルに譲渡する。これで3人が欺瞞煙幕を持つ事になる訳だ」

「空気NPCの連携プレイ発揮ですね」

 円陣を解除し、真ん中のシュテフが胸を張って真赤に言った。

「分かった、引き受けよう。細かい打ち合わせは後にするとして、どういう素性の事件なんだ?」

「ああ、それはだな…いや、それも後にしよう。悪いがジェイズで話す」

 話を強引に打ち切り、真赤は入り口を顎でしゃくった。それと同時に、買出しに出ていたマックスとアンナが戻って来る。入る早々彼等を見る格好となり、アンナが露骨に顔をしかめた。

「何だこりゃ。何こいつら。つうか狭っ、部屋狭っ! 真赤、何勝手に追いはぎみたいな連中入れてんのよ」

「追いはぎとは何よ、アスホールめ。『お前の母ちゃん売春婦』」

「うぜえ、超うぜえ。やんのか、年増のゆるゆるの糞女」

 似ている。ハンターのサラとアンナは非常に似通った精神性の持ち主である。ガルルといがみ合う2人は当然引き離され、マイケルとシュテフは拳を振り回すサラを引き摺りながら帰って行った。

「頼むぜ、おい」

 真赤は溜息をついてソファに座った。肩をいからせてキッチンに向かうアンナを見送り、向かいに座るマックスに目線を戻す。目を丸くしたマックスが真赤に問うてきた。

「誰だい、今の人達は」

「仲間だ。ハンター仲間。色々と頼み事があってね」

「頼み事?」

「色々だよ」

 真赤はテーブルに乗り出すように身を屈めた。

「俺達は例の場所に行く。総本山に乗り込むようなもんだ。準備は怠らねえ。彼等はその一環さ。分かっているかい、マックス。お前は、奴と真正面から向き合う事になる」

 言われて、マックスは表情を強張らせた。ミッション・ドロレス行きについては、マックスも真赤から事の次第を聞いている。我が身に起こる異変の数々について何が根本たるかを、これから自分は知らなければならないのだ。

 しかし、マックスは頷いた。ただ、黙って頷いた。その覚悟を見届け、真赤は若干安堵の顔を見せたものの、彼が切り出した話はマックス以上に覚悟の塊を見せる代物であった。

「ハンターはこの世ならざる者を狩り、普通の人達を守るものだ。しかし、お前に絡む何かは護衛対象には入らない。つまりお前諸共、その厄介な何かを俺は消すだろう。危険だと判断すれば、ハンターは躊躇無く隣人を始末する人種なんだぜ。それでも俺はお前の隣に居て、これから起こる出来事を見届けるつもりだ。お前に期待するからだ。お前が、お前自身に勝つという選択を期待するからだ。マックス、人生は荒波だ。俺達は波に煽られる小船だ。これから苦しい出来事に間違いなく出くわすんだ。しかし安寧に溺れて楽しいばかりの連中に比べれば、よっぽど人間なんだぜ。だから負けるな、マックス。少なくともお前は1人じゃねえ」

 一頻りしゃべり終え、真赤は身を引いた。マックスは奥歯を噛み締め、何事かを思案している風だった。

 それでいいと、真赤は思う。悩め悩め、どんどん悩め。悩むという行為そのものが、荒波に抗おうとする人間の姿そのものなのだ。

「ほら、シカゴ風ピザお待ちッ! レンジでチン!」

 まだ怒っているアンナが、レンジで温めただけのフカフカピザを無作法に置いた。

 

<B:エリニス・リリー>

 何故、この戦いの事をエーリエルは知っていたのだろう。彼女が帰った後、エリニスはその意味について思いを巡らせていた。

 彼女はマーサの内情を知る中華系の男から情報をもたらされたと言っていたが、マーサ内部でそれに該当する者は居ない。その旨を改めてカロリナに問うと、彼女は曖昧な笑みで答えたものだ。

「さあ、どうなんでしょう。不思議ですよね」

「本当に、心当たりは無いの?」

「ええ。本当に。しかしこうしてハンターの人々が助力を下さると言うのですから、差し当たってその点を気にする事はありませんよ」

 カロリナは微笑んだ。しかしエリニスは追従の笑みを浮かべる事は出来ない。マーサの内情を知る、マーサ以外の存在が脅威に成り得る事を想像に難くないのだ。カロリナはその事実に顔を向けず、違う方を見ているようにエリニスには思えた。

 彼女は自らの目するところから外れたものに、根本的な興味が無いのかもしれない。マーサを拠り所とし、カロリナに自分自身を賭けたエリニスにとっては、カロリナの無関心が心に痛い。

 しかしながら、彼女は一時だけエリニスに胸の内の燻りを見せた事があった。それを思い返しながら、エリニスは改めて彼女に聞いた。

「エーリエルは悪魔が攻め寄せると言ったけれど、それが事実なら恐ろしい戦いになるわ。アタシも何度かやり合ったから、連中の恐ろしさは骨身に染みている。カロリナ、フレンド達はこの世ならざる者達と戦う為のノウハウを知らない、市井の人達なのよ。この戦い、むしろアタシ達が皆殺しにされる可能性が高い」

「大丈夫ですわ、エリニスさん。あなたはまだ、御主の奇蹟を御存知無いだけなのです。主の祝福を授かる私達が、負ける事はありませんわ」

 カロリナが笑う。その笑みにエリニスは気圧された。懐のドラゴン・クロスと短剣にそっと触れる。これをカロリナは負けない根拠としているのだろうか? しかしエリニスには途轍もなく心許ない武装としか思えない。だからカロリナに、エリニスは自らの思惑を相談する腹を括った。

「…天使モートの事だけれど」

 カロリナの表情に僅かな影が差す様を、エリニスは見逃さなかった。構わず続ける。

「彼の誘いについて改めて問うわ。マーサの戦力を高める為に、アタシは彼の案を受け入れる事も選択の一つとして考えた方がいいと思うの」

「前にも言いましたが」

 カロリナの口調は、今迄聞いた事の無い厳しさが含まれている。若干だが、エリニスはうろたえた。

「天使を体におろす、というのは人としてのエリニスさんが消滅するも同義なのです。それは決してしてはならない事だと私は思います」

「理力の授与については?」

「寿命が縮まるでしょう。モートさんの力がどれだけ強大か、それは知っておられますね? あれは人の体で使う代物ではありません。下手をすれば死にます。それを分かっていながら、モートさんはあなたに誘いをかけました。恐らく、普通の人間よりは『長持ち』すると踏んでの誘いでしょう。決して乗ってはいけませんよ」

 エリニスは混乱した。死体の山を築くかもしれない悪魔との一戦の準備を躊躇無く進めながら、こうして自分の身を親身に気に掛けもする。そしてエリニスは気が付いた。

 ミッション・ドロレス防衛戦は御主から下命されたもので、モートの誘いはそれに関わっていない。カロリナには二つの心があるらしい。御主の意向に従う下僕たる彼女と、彼女本来の人柄と。その2つがせめぎ合う事なく心に同居しているのがカロリナなのだ。

 と、カロリナが指を自身の唇に当て、階段の方に目を向けた。丁度モートが階段を登って来る所だった。

「こんばんは、カロリナ様」

 やや気軽に、そして慇懃にモートが挨拶を寄越した。対してカロリナも笑顔で会釈する。

「こんばんは、モートさん。皆さんはお帰りになられましたか?」

「ええ、意気揚々と。皆さんは実に頼もしい。どうか防衛戦の方は頑張って下さい」

「ありがとうございます。御主の御威光を守り通してみせますわ」

「ちょっと、待って」

 エリニスが慌てて2人の会話に割って入る。

「モート、あなた、戦いには加わらないの!?」

「ああ、そうだが。それが何か?」

「エリニスさん、これはマーサの、人の力を示す戦いであると御主は仰られました。だからモートさんは、それを守っているだけなのですよ」

「そういう事だ。カロリナ様、私は他に少々心当たりがあるので、そちらで動く事に致します」

「それはどうか御随意に」

 絶句する。少なくとも天使モートが居れば、マーサの被害を少しでも減らせるのは間違いないはずなのだ。彼等の信奉する御主の意図が、何処にあるのか分からない。その逡巡を見透かしたように、モートがエリニスに問うた。

「時にエリニス、前の話はどうするのかね? 私の方は何時でも応じられるのだが」

 眉間に皺を寄せるカロリナを横目に置き、エリニスはモートに相対した。しばらく考えを巡らせた後、やや躊躇しながらもエリニスは答えた。

「まだ、考える猶予が欲しい」

「いいとも、唐突な話だものな。別に私は急がないよ。しかしこの先、きっと必要になってくるものだとは思うけれどね」

 モートは、意味深に笑った。

 

<ミッション・ドロレス:其の一>

 その男はバーバラ・リンドンの行く手を遮っている訳ではないが、素通りを許さない存在感があった。雑踏の中で立ち止まり、バーバラは脇に寄って、標識の柱に背を預けるその男に頭を下げた。

「ごきげんよう。確かモートさんだったわね? 先だってはお騒がせしました」

「いやいや、私もあの時は恐れ入ったよ。今日は天気がいい。散歩日和だ。しばらく同行しても宜しいか?」

「勿論。それでは一緒に歩きましょう」

 バーバラに促され、モートは彼女と肩を並べてストリートへと歩を進めた。初めてこの2人が顔を合わせた時は、殺し合いの場であった。しかし今の彼等は些かの戦意も持ち合わせていない。今この場で、戦う理由が全く無いからだ。そのような割り切りをしてしまえる感性においてのみ、バーバラとモートは似た者同士なのかもしれない。

 しかし彼等が交わす会話は、柔らかさを装いつつ敵対者のそれである。

「ステラは死んだよ」

「いいえ、生きているわ」

「天使の方の話だよ。人間は今、どちらに?」

「今のステラとあなたは無関係ですから、お教えする訳にはいかないのよ。でも、天使の御人はお気の毒に」

「他人事かね」

「私の力で仕留めた訳ではないから。というのは理屈として通じるのか、あまり自信が無いわね」

「君は知らんだろう。人間が天使を殺すなど、人の短い歴史においても数える程しか無い。ただ、君自身が先の短い老人で、塵芥に過ぎないという点は私も認めよう。問題は君に力を貸した者だ。誰なのだ?」

「実は私にも分からないのよ」

「私は簡単に口を割らせる事が出来るのだが」

「知らないものをどうやって割らせるのか、私は興味があるわ。試してみる?」

 言って、バーバラは立ち止まり、モートの目を見詰めた。彼を見るバーバラの目には、何も無い。恐怖も、挑発も無い。ただ見ているだけだ。モートは眉をひそめ、目を逸らした。

「やめておこう。嫌な感じがする。君は奇妙なお婆さんだ」

「こうして接触してくる事は予想していたわ。私が何者と関わっているかを知りたいのね? 天使でも分からない事があると知るのは感動的だわ。残念だけど、本当に私にも分からないの」

「それは送り犬を普通の霊体にしていない者と同一だ。ならば君を人質に取って送り犬を呼び出すという手段がある」

「それも無駄よ。彼とは強い絆で結ばれている。彼と私には同じ志があって、その志の為ならば一方が息絶えても悔いはしない。そういう苛烈な絆よ。そんな事より、これからあなたはどうなさるのかしら? 私はあの教会に用事があるのだけれど」

 バーバラが指差す方角に、慎ましくも華麗な教会が佇んでいた。サンフランシスコで最も古い教会、ミッション・ドロレスだ。

「何の用件かね」

 淡々としゃべっていたモートが、初めて声を高めた。バーバラはにこやかに、目的を包み隠さず答えた。

「カロリナ・エストラーダ嬢がシスターをなさっていた教会よ。彼女がかつてどういう人であったか、調べたいと思いましてね」

「それだけかい」

「それだけよ」

 まばたきの後に、モートの姿が消えた。通りを歩く人々が気付く事も無く。

 

 バーバラが丁重に用件を打ち明けると、彼女はミッション・ドロレスの中に通してもらう事が出来た。休憩室で静かに座って待っていると、応対に出たシスターがトレイにコーヒーを載せて室内に入って来た。礼を述べて、やや酸味の強いコーヒーを啜る。

「それで、シスター・カロリナについて伺いたいとの事ですが、彼女が何か?」

 シスター・アリッサから話を切り出してきた。その表情は幾分不安げである。バーバラは努めて笑みを保ち、彼女の不安を和らげるように心を砕いた。

「ル・マーサというボランティア団体をカロリナ嬢が立ち上げた事は御存知ですね? 私はその活動に興味を持つルポライターです。あの団体は短い時間で飛躍的に会員を増やしましたが、特に怪しい勧誘もしなければ、会員から不当にお金を吸い上げるような事も致しません。実にきっちりしたボランティア活動をなさっておいでです。これはつまり、今のマーサの素晴らしさは、カロリナ嬢御自身の魅力に拠るところが大きいと私は考えました。ですので、彼女の辿った軌跡を調べてみたいと思いました。良いものが書ければ、日刊紙に掲載を依頼してみたいとも考えています。勿論その際は、カロリナ嬢に許可を得るつもりです」

「まあ、そうでしたか」

 シスターは安堵した顔を見せたものの、またすぐに首を傾げた。

「彼女が教会を辞してから団体を立ち上げたとは、私も聞き及んでおります。新興宗教にありがちな、危険な思想を押し付ける事もしていないようですね。だから彼女も、慈善活動に新たなやり甲斐を見出したものと私は考えています。しかし、あのカロリナがそのような…」

「シスター時代の彼女は、どういう方だったのですか?」

「まずは、彼女の生い立ちから話をしましょう。この部分については、基本的人権に関わりますので文章化は控えて下さい」

 カロリナ・エストラーダは西南部サンディエゴの出身である。ヒスパニックの、極度に貧困な家庭で育った、という事だ。アメリカにおける貧困家庭は、両極端に分かれる。この状況から脱し、悪徳に染まらぬよう、貧しくも家庭環境の健全化と子供の教育に全身全霊を賭けるところ。或いは貧困に埋もれ、身も心もやつれるところ。カロリナの場合は、後者であった。

 カロリナはサンディエゴに17歳まで住み、それから救済プログラムを得てパサデナの神学校に入学する。ただ、この経緯は悲惨であった。彼女は17歳まで、両親から凄まじい暴力を受けて育ったのだ。最後には警察が介入する程の騒動になったらしい。教育機関が親からカロリナを強制的に引き離し、その後の神学校への進学は本人の希望に拠るものだったという。そして卒業後、彼女はサンフランシスコのミッション・ドロレスに受け入れられた。

「大人しい子、というのが最初の印象でした」

 シスターは溜息混じりに往事の話を語った。

「とにかく大人しくて、仕事も実に熱心でした。ただ、笑わないんです。極端に無口でもありました。表情がとてもかたくなで、気軽に来て下さる観光客の応対など出来ませんでした。しかしながら私達は焦りませんでした。彼女の生い立ちは知っていましたし、ドロレスの和やかな雰囲気が何時か彼女の心を癒してくれると信じておりました。それが、唐突にあのような…」

「変わったのは、数ヶ月程前ですか?」

「ええ、そうですが。よく御存知ですね。その辺りから、彼女は何だかそわそわしていたのです。注意力が散漫になっていた、と言いましょうか。そしてある時、いきなり彼女は言いました。私にも御主の御言葉が、遂に聞こえました、と。それはもう、これ以上ないくらいに嬉しそうに。それから数日後、彼女は教会職を辞しました」

「とても興味深いお話でしたわ。御主の声については真偽の程が分かりませんが、大きく変わるきっかけを見出されたのは確かでしょう。ところで、シスター・カロリナがお使いになられていた宿泊部屋は、まだあるのですか?」

「ええ、新しいシスターが入った訳ではありませんから。時折掃除をしておりますが、何もありませんよ?」

 渋るシスター・アリッサに頼み込み、バーバラはカロリナが使っていた部屋に通して貰った。用向きがあればお呼び下さい、と言い置いてシスターは部屋を辞した。バーバラは改めて、その部屋に向き合う。シスターの言うように、何も無い部屋だった。ベッドと机があるだけで、他は綺麗に片付いている。

 しかしながら、バーバラはハンターである。人が住んでいた室内に何の痕跡も無いと決め付けるような気楽さを持ち合わせていない。バーバラは丹念に部屋を調べて回った。

 床。天井。机。その引き出し。椅子。ベッド。

 そしてバーバラは、ベッドを引っ繰り返した時に、その裏側に挟まれた10枚ほどのポートレイトを発見した。手に取って、じっくりと眺める。

 それらは、彼女のサンディエゴ時代の写真だ。少女の頃から成長するにつれ、写真の中のカロリナは表情というものが見られなくなっていた。両親らしい人物が写ったものもあったが、丁寧に顔の部分が抉られている。彼女の心の闇を、それは端的に表していた。

 しかし、弾けるような笑顔の写真が一枚だけある。その写真で、彼女は『彼』を抱きしめていた。

 バーバラの双眸から、涙が溢れ出た。『彼』の悲しみがバーバラの心に、鋭く滑り込んで来たからだ。

「ジョンジー。あなたは彼女を、ただ助けたい一心なのね」

 バーバラはポートレイトを、丁寧に懐へ仕舞った。

 

<ミッション・ドロレス:其の二>

 バーバラがドロレスを訪れてから数日後、また別の者達がかの場所へ向かう。真赤誓、マクシミリアン・シュルツ、アンナ・ハザウェイ。彼等は観光に行くでもなければ、神に祈りを捧げに行くのでもない。彼等はただ、会いに行くのだ。

「マックス、周囲に気配はあるのかい?」

「…マーサの人達が僕等を監視しているとは思えないよ。不思議だ。あれ以来、彼等の視線を一切感じられなくなったんだ」

「ふん、正に一糸乱れぬ右へ倣えって奴か」

 3人はミッション・ドロレスの正面に立った。今ここに至るもル・マーサの会員、或いはモートの気配は一切感じられなかった。真赤が念の為に、ウォークマンスタイルのEMF探知機を作動させる。データグラスで識別もチェック。反応ゼロ。以前ドロレスでは同時多発的に発生した電磁場異常が確認されたのだが、今は何も危ういところは見受けられなかった。

 かくして不安材料が感じられないミッション・ドロレスは、風光明媚な由緒ある観光名所でしかない。飽く迄一見すれば、だが。アンナがつまらなそうに、は、と息をつく。

「フリスコに住んでる間に、来た事ぁ無かったよ、こんなとこは。観光客ワンサカ。健康的過ぎて眩暈がしそうだわ」

「気を抜くんじゃねえ。っても無理か。お前は自分の身に何が起こったのか、覚えちゃいねえんだから」

 真赤に言われて、アンナは訝しい顔を彼に向けた。

「確かに私の最初の名前はアガーテだったらしいけど、私は今もアンナ・ハザウェイだ。アガーテなんて別人物が私の中に居るなんざ、マジか? 考えただけでも気持ち悪ぃ」

「その真相も、今のとこは良く分からねえ。そいつをはっきりさせる為に、ここに来たんだ。現実離れは百も承知だが、お前もここまで来たんだ。白黒はっきりさせようじゃねえか」

 アンナは不承不承といった感じで頷いた。今もってアンナはマックスほど状況を飲み込めていないのだが、彼女も重要な当事者の1人であるには違いない。

 当のマックスは、自分自身に何が起こりつつあるのかを、ある程度は把握していた。自分自身が、何か全く別のものに変えられようとしているという事を。それを望む者が、ミッション・ドロレスを指定してきた。その者は、真赤にマックスとの話し合いを請うている。何もしないとは述べていたものの、それを額面通りに受け取る程、真赤は悠長ではなかった。

 ジェイズでヘルプを依頼した3人のハンター達は、既に周辺で待機している。号令一下、彼等は容赦無く突入して欺瞞煙幕弾を投げ込む手筈だ。出来る限りの準備を真赤はしてきたつもりではあるので、後は進むのみと一歩を踏み出した。

「行くぜ、お前ら」

 真赤が言う。

「どのみち逃げ切れやしねえんだ。マーサや天使さまとやらにはよう。だったら、こちらから飛び込んでやろうぜ」

 

 ミッション・ドロレスには2つの教会が並んでいる。新築された大柄な建物の左隣に、白塗りの小さな教会。白塗りの方が、サンフランシスコ最古の教会である。どう考えても、指定された場所はそちらの方と見るのが正解だろう。3人は受付でお金を払い、観光客に紛れて教会内部に入った。

 教会の中は奥行きがあって、小さな見た目に反して思ったより広い。さすがに長年に渡って使い込まれただけはあり、立ち並ぶ椅子やステンドグラスは古い情緒に満ちていた。この中に居ると、確かに心なしか空気が清浄になったと感じられる。

「おい」

 と、アンナは言った。

「何だこれ。普通にいいとこじゃん。私ら、マジで観光しに来たのかよ? 観光客もわんさか居るしさあ」

「うるせえ。取り敢えず座って待ってろ」

 アンナに一喝し、真赤は2人を促して座席についた。

 確かに教会内は、人でごった返す程ではなかったものの、かなりの入りがある。祭壇を見学したり、真赤達のように何となく座って落ち着いてみたり。そうして彼等は、10分程を座したまま過ごしていた。

「何も起こらないね」

 そわそわと落ち着きの無い様子で、マックスが呟いた。

「ああ、何も起こらない。でも、それが一番やばいんだ」

「どういう意味だい?」

「何かが起こると確定した場所で、何も起こらない。というのは、向こうが何らかの意図を持っているという意味になるのさ」

「この世ならざる者との向き合い方か」

「そういう事だ。ちょろい奴なら即時的に動く。しかし一旦間を置いて手段を考える手合いは強敵揃いなのさ」

「…訳の分からない談義もいいけどさ、ちょっとおかしくないか?」

 アンナは声を裏返らせて、2人に危急の声を上げた。

 ついさっきまで、あれだけ居た筈の観光客達が、教会の中から忽然と消えている。しかしざわめきは耳に届いている。姿だけが一切合財見えなくなったのだ。否、もしかすれば、と真赤は思う。もしかすると、むしろ周囲から見えなくなったのは自分達の方ではないかと。何かが自分達に干渉を開始したのだ。

 そしてその「何か」は、彼等の心に直接呼びかけてきた。

『聖堂へ』

 真赤がマックスの方を見る。同じくマックスも真赤を見返した。此度はマックスの口を拝借せず、「何か」は直に語る事が出来るらしい。と、アンナが立ち上がった。正確に言えば、アンナの姿をした別の者が。

「行きましょう、最前列へ。祭壇へ」

「アガーテか」

 真赤の問いに、アガーテが頷いた。

「大丈夫です。あの方は、間違いなく何もしません。何もしないと仰るなら、本当に何もなさらないのです。それが真に恐ろしい方ではあります。何しろ謀る必要など無いほどの力をお持ちですから」

「アンナ?」

 がらりと人が変わった彼女を見、マックスの声が震える。アガーテは目蓋を伏せてマックスの手を取り、彼を立ち上がらせた。

「命に変えても御守りしますよ。昔も、今も」

「…さあ、行こうぜ」

 真赤が先頭に立ち、3人は祭壇へと歩を進めた。

『マックス』

 声がまた聞こえる。

『マックス、御出でなさい。私の愛し子よ』

 その声は慈愛に満ち、まるで母が赤子に呼びかけるような趣があった。危うくその声の優しさに、心が緩みそうになる。しかし真赤は歯を食い縛った。「何か」を御主と崇める者達は、何れも危険極まりない。その危険な連中の頭目が、ただ優しいだけの存在であるはずが無いのだ。故に真赤は、声を張り上げて「何か」に対峙した。

「3人で来たぜ。こちらは筋を通した。だからそちらも、それなりの誠意を見せて欲しい」

『誠意とは?』

 「何か」が聞き返した。

「お前は、俺達の名前や素性を知っている。だったらお前も、名を名乗れ。一体お前は誰なんだ!」

『サマエル』

 「何か」、サマエルは、簡潔にその名を答えた。

『天を追われても、天使の矜持を持つ者です。私の名は、サマエル』

 真赤は、自分の顔からしとどに汗が流れ落ちていると気付いた。

 サマエル。大天使。或いは、魔王。

 

<C:真赤誓>

「そちらさんには本題諸々があるんだろうが、その前に少しだけ話がしたい。いいか?」

 真赤は気圧そうになる自らの心に抗いながら、あくまで落ち着いた口調で目には見えないサマエルに言った。

 サマエルは教会の何処にも姿を現していない。天使が人間と接触する際は、人間に乗り移るか、かように声のみを飛ばしてくるかの何れかである。もしもそのままの姿で人の世界に顕現すれば、目が溶け落ち鼓膜が破裂し、最期には脳細胞までもが破壊される。つまりは、ここではない何処かにサマエルはその身を置いている訳だ。

 サマエルは返答に僅かな間を置いたものの、真赤に了承の旨を告げた。

『良いでしょう。お前が何を言わんとするか、私は興味があります』

「話が早くてありがたい。こちらも要点を絞って言わせて貰うぜ。この街にはあんたの他にも色々と名の知れた奴が居る。特にカスパール、メルキオールとかな。東方三博士って奴だ。恐らくあと1人、居るはずだぜ。バルタザールは何処だ?」

『人の身にやつして、お前達人間の身近に居るはずです。彼は彼なりの手段で、私への協力を誓った者なのです』

「やっぱり居やがるか。東方三博士と、サマエルとはどういう関わり合いがある」

『彼等との馴れ初めについては、物語を1つ語るだけの経緯があります。だから要点のみを述べましょう。あの3人は、この地に封ぜられた私を監視する天使でありました。しかし長い会話を経て、三者は三者なりの結論を出したのです。カスパールは悪魔に身を堕としてまで絶対の忠誠を誓いました。バルタザールは私の掲げる案に同意はしましたが、カスパールとは一線を画す手段を模索しています。そして愚かなメルキオールは、地の底に潜んで未だ私の顕現を抑え込み続けている有様です。それも直に、無駄な所業であったと彼は知る事となるでしょう』

 それを聞き、真赤は考えを纏めた。本来東方三博士は、恐らく神に対する叛意によって追放・封印されたサマエルの、封印を維持する天使達であったのだ。それが今や、カスパール・バルタザールとメルキオールは対立の関係にある。前者の2人は、多分サマエルに説き伏せられるという格好となったのだろう。

 かような結託と対立が起こった根本に、真赤は考えを巡らせた。そして一つの予想をサマエルに提示する。

「あんたは大敵とやらに対抗する者なのか」

『そうです』

「大敵とは、ルシファで間違いないのか?」

『そうです。ルシファが何れ地の底から這い出し、黙示録に則って天の軍勢と雌雄を決するのは、随分前から分かっていましたから。それは絶対に避けようの無い戦争なのです。しかし天使も一枚岩ではありません。折角かような多様性を持ち合わせつつ育った人間の世界を、かの戦争で一挙に瓦解させるには忍びないと思う者もそれなりに居ます。私もそうです』

「だから、楽園を作るという事か。ハルマゲドンの干渉を受けない、お前らの企図した楽園を」

『楽園、という言い方はカスパールらしい言い方ですね。そう、私ならば、ミカエルとルシファの激突による大破壊がもたらす、一切合財の影響を阻む事が出来ます。残念ではありますが、この街に対してのみ。そして私は急がねばなりません。早く私の力を顕現させなければなりません』

 そしてサマエルは、意識をマックスに向けた。サマエルの注意が彼に集中する様は、見えなくとも真赤とアガーテにも分かる。

『この街に、と言うよりも世界の全てに、早晩大きな災いが訪れます。取り返しのつかない規模の大戦争が始まるのです。私ならば、この街からそれらを阻む事が出来るでしょう。その為にはお前の助けが欲しいのです。私の心と、お前の心が合わされば、私の理力は完璧な状態のルシファすら阻めるものとなるでしょう』

 成る程、と真赤は納得した。サマエルはこの世界で力を行使する為に、マックスの肉体と精神を欲しているのだ。天使が人間に乗り移る際、人間の側には固有の天使に合致する『器』が存在しているという。サマエルの場合は、それがマックスだったのだ。真赤はマックスのこれからするだろう受け答えに細心の注意を払った。自分は彼との接触を続ける中で、あらゆる解釈を述べてきた。しかしながらそれは、ある一点を分かって欲しかったからに過ぎない。即ち、自分の考えを持て、である。

 だから真赤は、マックスの結論を尊重するつもりだった。尊重しながらも、ハンターとしての自身の矜持に仇成す結論であれば、宣言通り自分は彼を殺す。NRS-2、ナイフ型消音銃をポケットの中で握り締める。グリップの柄尻からはたった一発の銃弾しか発射する事が出来ない。その一発は、マックスを絶命させるには十分だった。真赤はマックスの返事を待つ。そしてマックスは、断言した。

「嫌だ。僕は僕。あなたは、あなただ。心は一つになんかならない。心は、それぞれ思惑が違っていても、互いを尊重し合うから尊いんだと思う」

 真赤は銃から手を離し、安堵の息をついた。

 対してサマエルからは、深々と落胆する気配が感じられた。しかしそれは、諦念からくるものではない。サマエルは、今度はアガーテに気を向けた。

『アガーテ、お前が妙な考えを彼に吹き込んだのですか?』

「いいえ、彼自身の考えです。何者にも邪魔をされない、彼自身の考えなのです。しかし其処に至るまで、彼は様々な事を見聞きしました。真赤を始めとするハンター、そして本来の私であるアンナ。周囲から受けた影響を彼自身が咀嚼し、自らの考えとしたのです。それが人間であるのです、御主」

『お前は変わりました。私の忠実な天使であった者が』

「今は特別な力も無い人間です」

 真赤とマックスが、呆気に取られてアガーテを見詰める。

「お前、天使だったのかよ」

「でも、めっちゃ煙草吸ってたし」

「アンナは唯1人のアンナです。私は彼女の心に残る残滓なのです」

 と、何かが大きく溜息をついた。天使が人間の体を得るには、対象の人間が心から同意する事が必要となる。それが今は不可能だとサマエルは判断した。そう、今の時点では。

『仕方がない。時間がありませんので、今は保険で手を打ちましょう。しかしながらマックス、お前は必ず私の力を必要とするでしょう。さもなくばルシファに対抗する事が出来ません。対抗出来なければ、未来はこのようになります』

 言い終えた途端、マックスの体が硬直した。慌てて駆け寄る真赤とアガーテに、何なくとサマエルが伝える。

『大丈夫です。ただ、私は世界を見せただけです。この先の世界がどうなるのかを。マックス、気が変わったら、カロリナ達の元においでなさい。あの場には私の首から下があります。そしてお前は、ただ願えば宜しい。そうすれば、それは回避出来るでしょう』

 場を圧する気配が霧消し、合わせてマックスがその場に跪いた。

 同時に、教会内に人々の姿が蘇る。がやがやと響く雑多な声に、これ程心強さを感じた事は真赤には無かった。案の定、アガーテはアンナに戻ったらしく、狐に摘まれた風で周囲を見渡している。マックスは目を閉じたままだったが、ちゃんと呼吸はしていた。恐らく気を当てられたというところだろう。

(一体マックスは、何を見せられたんだ?)

 マックスに肩を貸し、真赤は立ち上がった。サマエルは『この先の世界』というような事を言っていたが。

 そして今一度祭壇を振り返る。カロリナ達の元に、首から下があるともサマエルは述べていた。ならばここには、ミッション・ドロレスにはサマエルの首が封ぜられているらしい。

 

「まだ?」とサラ。

「まだ」とマイケル。

「まだ…」とシュテファン。

 残念ながら3人の出番は、全く無かった。

 

<ミッション・ドロレス防衛戦>

 ドロレス下界における戦いに、エーリエルとドラゴがル・マーサの人々と行動を共にしたのは正解であった。と言うのも、そもそも下界に入るには、ある種の「手形」のようなものが必要になるからだ。

 ル・マーサの場合は、「祝福のナイフ」という物品がそれに該当する。ハンターの2人は当然、そのようなものは無い。もしもマーサを介さぬのであれば、庸に伝手を持つハンターに説得力のある口利きをしてもらうか、或いは行動そのものを諦めるかの二択しか無い。ドラゴはその事実に気付いており、予め親ハンター派の王広平に下界通行票の受領を打診していたのだが、敢え無く断られてしまった。庸の闘争に直接関わっていないドラゴに対し、下界通行票を渡す事でどのようなメリットがあるか、ドラゴ自身が説明出来なかったからだ。

「むう。庸の側の下界戦を、別方向からサポートする事にもなるのですが」

 ドラゴは不満を漏らしたものの、しかしヒラヒラと手に持つのは、件の通行票である。

 結局2人のハンターは、カロリナから下界通行票を受け取る運びとなった。後々に分かった事だが、これは庸が用いている票とほぼ同じ代物である。

 既にエーリエルとドラゴは、下界にその身を置いていた。マーサのフレンド達も勢揃いしている。彼等とは距離を置いて、ハンター達は軽く柔軟体操などをして時間を潰す最中である。と言うのも、真打であるカロリナの姿が未だ無いからだ。

「よし。気合が入った!」

 自身の頬を両掌でパンと叩き、エーリエルは腹から深々と息を吐いた。飛行服のレプリカに身を包み、今日は何時にも増して勇ましい。悪魔との戦いはハンターの本分であり、ハンターの正義でもある。彼女の力の入り方に笑みを漏らすも、それはドラゴとて同じ心意気であった。

「いいですな。自らが戦人であると思い出しますぞ。この世ならざる者の脅威から一般の人々を守る。これぞハンターの本懐。と、思うのですが…」

 言って、ドラゴは笑みを苦笑に変えてマーサのフレンド達を見た。彼等もまた、悪魔との戦いを前にして意気軒昂の様を見せている。本来であれば、守るべき一般人とは彼等の事になるのだが。

「浮き足立っている、というのとも、どうも違うように思えますな」

「戦いに関しては素人同然。それは間違いないはずなのだけど。でも、自信に満ち溢れているあの姿は、根拠の無いものではないらしい」

「…それは、マーサが悪魔に対抗する能力を得ているからよ」

 2人の傍に、いきなりエリニスが現れた。エーリエルとドラゴが思わず仰け反る。マーサの預かりになったとは言え、元来「調査屋」である彼女の隠身は健在らしい。エリニスは「祝福のナイフ」と「ドラゴンのロザリオ」を取り出し、薄い表情で淡々と言った。

「戦いが始まれば、分かるわ。アタシ達は、単なるボランティア好きの一般市民じゃない。悪魔に対抗する為、御主の御意思の元に集った戦士であると」

「その力の出所は、一体何処にあるのでしょうか?」

 珍しく強い口調で、ドラゴが言う。

「お聞きなさい。神は我々の傍に居られない。特定の何者かに肩入れするという事もなさらない。ただ私達が如何に行動するか、成り行きを見守られているだけなのです」

「神? 神なんて、そんなもの、この世に居ないわ」

 エリニスは、そう言ってのけた。ドラゴとエーリエルが顔を見合わせる。彼女等が御主と称するものを、エリニスは肌身の感覚で、どのような素性のものか勘付いているのかもしれない。それを承知でマーサに従うエリニスの、心の拠り所は何処にある?

「エリニス。まさか、それほどまでに彼女を」

 言いかけたエーリエルの言葉が、どっと湧き立つ歓声に掻き消された。同時にエリニスの表情が歓喜に満ちる。

「カロリナだわ!」

 彼女が向けた視線を追い、フレンド達の輪の中から進み出るカロリナの姿を目の当たりにして、エーリエルとドラゴは絶句した。

 カロリナは威風堂々の甲冑を身に纏っていた。暗黒中世のハーフプレート。まるで彼女の為にオーダーメイドされた代物であるかのように、あまりにも違和感の無い立ち姿であった。カロリナは真っ直ぐにハンターの許へと歩を進め、彼等の手を取って強い瞳で見据えた。

「改めて、ありがとうございます。来て頂いた事に感謝致しますわ」

 くるりと背を向け、カロリナは胸を反らせて、期待に満ち満ちた目で彼女を見るフレンド達に第一声を発した。

「傅きなさい」

 一斉にフレンド達が、エリニスも含めて跪いた。エーリエルとドラゴが言葉を失う。

「此度の戦、我等は決して退けぬものと覚悟をなさい。御主が聖地を破られるは、家族を辱められる以上の恥辱と知りなさい。敵は地獄の使徒、邪悪の権化。これらを尽く討ち果たすは絶対の正義也! 侵略者を血祭りに上げ、大地を血の黒に染め上げ、奴原の首級を晒せ。勝利の凱歌を声の限りに歌おう! 敵に死を、我等に死を! 死を! 死を! 死を!」

『死を! 死を! 死を!』

 死の連呼が下界の一角で木霊する。2人のハンターは気が付いた。フレンド達の目が狂気の輝きで膨らんでいると。

「兵を戦に駆り立てる乙女。何処かで聞いたような話ですな」

 ひどく落ち着いた風に、ドラゴが呟いた。と、エーリエルが震える拳を、彼等に見えないようにドラゴの前へと差し出した。その掌を強く握り返し、ドラゴは頷いた。

「分かりますよ、私は」

「ドラゴ、思い通りには」

「ええ。絶対にさせませんぞ」

 しかしながら、この有様に強い違和感を覚えるのは彼等だけではなかった。昂揚のあまり弾け飛びそうになる心を、どうにか抑え込むだけの理性がエリニスにはまだ残されている。

(これで本当に良かったの、カロリナ)

 心の声は、彼女には届かない。

 

 ミッション・ドロレス直下をマーサの人々が固め、ハンター達は遊撃的に動く。これが対悪魔戦の基本ラインだった。

 彼等の居る下界通路の前後には、ドラゴが念の為に聖書のページを貼った結界を仕掛けている。これで悪魔の侵攻は、マーサの手前で多少緩んでくれるだろう。

 しかしながら、守る対象であるはずのマーサ達の態度には、ドラゴとしては忸怩たる思いがある。彼等は積極的に敵・味方相互の死を受け入れていた。この場においては、完全に常軌を逸した精神状態だ。これでは守れるものも守れない。決して一般人に被害を出さないというハンターとしての自尊心が揺らいでしまう。

 マーサは戦う。何の為に? 勿論、聖地ドロレスを守る為だ。彼等はそう信じ込んでいる。だが、この戦いへの決を発したものの意図は、どうやら別にあると考えて差し支えないらしい。

「この激突そのものが、戦いの真の狙いかもしれないわ」

 ドラゴの疑問に、エーリエルはそう答えた。

「戦えば悪魔は地獄に帰り、人は死ぬ。人々の死こそが、黒幕の望みだとしたら?」

「…マーサのフレンドを生贄とし、黒幕に捧げるという事ですかな?」

「そうであれば、マーサはカロリナも含めて、完全な手駒になりつつあるという事よ」

 根深い状況だと、ドラゴは嘆息をついた。EMF探知機をセット。電源ON。反応無し。まだ戦端は開かれていない。迷路のような下界を無闇に彷徨う訳にはいかないので、ドラゴがエーリエルに呼び掛けて小休止を促す。

 綺麗に整えられた土壁に背を預け、ドラゴはカロリナとエーリエルが出立前に交わしたやり取りを思い返した。

 

『…わたしにとっての理は、「無辜の民を害するは悪」よ。シンプルだけど、わたしはわたしの理を信じてハンター稼業をやっている。翻ってカロリナに問うわ。あなたの理とは、一体何なの?』

『みんなが笑って楽しく暮らせるように頑張る、ですわ』

『これから戦いの死地に向かうマーサの言葉とは、正直わたしは思えないわ。人々の心を煽り立て、戦野に向かわせる者も悪とわたしは断じる』

『エーリエルさん、理想の実現に出血が伴うのは歴史の常ですわ。私達はたとえ悲劇を背負っても、成し遂げねばならない夢があるのです。御主が指し示す幸せな世界を実現する夢。その夢が成就するのなら、もしもマーサの仲間に犠牲者が出たとしても、残された彼の家族はきっと幸福の中で人生を送れるでしょう。さすれば、死をもってしても悔いなど残らないのですよ』

『…大切な家族が死んで、笑顔で暮らせるはずがないじゃない。あなたに、これを渡しておくわ。前に出現した悪魔の言葉を録音したICレコーダ。御主がマーサを指導するだけの存在ではない事を、これは雄弁に物語っている』

 

 レコーダの内容は一通りエリニスも聞いた。それは、以前フレンドだったアンナ・ハザウェイの略取とマーサへの護送を白状する代物である。つまり、悪魔とル・マーサに何らかの繋がりがある事を示唆する証拠なのだ。

 エリニスがその旨をカロリナに問うと、彼女は明るい顔で首を横に振った。

「このような者の事は知りませんわ。まさか悪魔とマーサが関連しているなど、何とおぞましい」

「そう。そうよね。こんなに正しい事をしているアタシ達が、悪魔とつるむはずがないものね。きっと追い詰められた悪魔が、口から出任せを吐いたのよ」

「悪魔とはそういうものなのですか?」

「そういうものです」

 エリニスは乾いた笑いを漏らした。しかし心の片隅では、自らの言葉を全否定する自分が居る。地獄送りの恐怖を目前にした悪魔は、得意の嘘八百を並べ立てる事など出来ない。悪魔が何らかの形でマーサに関わっているのは確定的だ。

 それでもとエリニスは思う。マーサに来て以来、ほぼ四六時中彼女と寝食を共にしているが、悪魔との接触など一度たりとも無かった。恐らくカロリナは、本当に悪魔との関わり合いなど知らないのだ。

 ならば、彼女を守ろうとエリニスは改めて意を決した。マーサに居る自分とは、カロリナを全肯定する自分でもあるのだ。あまりにも罪深い所行を繰り返した自分を、カロリナは心から受け入れてくれた。だから彼女を阻む者から、彼女を守る。相手が悪魔であろうと、ハンターであろうと。

 と、エリニスの懐から警告音が鳴り響いた。ハンターであった頃に使っていたEMF探知機だ。慌てて取り出し、メータを見る。かなり針の振れ幅が大きい。

「カロリナ、来たわ!」

 エリニスの叫びに、カロリナが頷く。確信を伴う口調で、彼女は言った。

「敵は来る。間違いなく、ここに来る」

 

 悪魔と一戦を交えるうえで最も効果的な手段とは、何時の時代も決定的な先手を取る事だ。基本的な考え方で言えば、人間と悪魔を一対一で比較すると、悪魔の方が遥かに強い。身体能力は悪魔の最下級でも人間を凌駕するうえ、上位級が駆使する異能力の数々は、決して正面切って相手にすべき代物ではない。

 だから悪魔が不意を打って現れるという状況は非常に危険である。それを回避する術に長じた者だけが悪魔との戦いで生き残る事が出来る。さしあたってミッション地区を守備していた庸の部隊は、先手を打てずに壊滅の憂き目に遭う事となった。

 下界の守備に就いていたのは、つまりマーサ達だけではなかった。庸もまた彼等が守るポイントがあり、そちらへの総攻撃に対する準備をマーサと同時に進行していたのだ。ただ、彼等は潤沢な武力があるとは言え、それはこの世ならざる者に対して決定的な手段には成り得ない。しかもミッション地区への襲撃は、悪魔の中でも相当上位の手練が混じっていた。普通に激突すれば、かような結末になるのは自明の理である。

「サブラフ、首尾は?」

「上々」

 その2列縦隊は、ほとんど原型を留めぬ塊と化した庸の者達の血肉を踏みしめ、同じく前方から来た2列縦隊とすれ違った。中程に居た指揮官クラス同士が挨拶を交わす。つまり庸の部隊は2つの悪魔が率いる集団に挟撃される格好となったのだ。こうなると一方的な虐殺になるのはやむを得ない。

「ガーベラ隊は、その人員だけで行くのかい? こちらは安楽な廟の破壊だ。人数をそちらに半分回すもやぶさかではないが」

「規定通りに動く事よ、サブラフ。でなければカスパール様のきついお仕置きが待っている。あたしは好きにやれと命じられたので、好きにやる。そちらも粛々とガラクタを破壊しなさいな」

「そうさせてもらおう。それではガーベラ、せいぜい楽しむ事だ」

 悪魔ガーベラの隊列を見送り、サブラフは意気揚々と廟の在り処に向かった。下界における同時多発攻撃は、少なくともミッション地区においては順調に進んでいる。この地区は特別に2隊が配備された点も大きい。一隊は廟の破壊。もう一隊はミッション・ドロレス直下への攻撃。ドロレスにはル・マーサという間抜けなボランティア団体が、どういう訳か守備を敷いているとの説明があった。どう考えても一方的な殺戮にしかならないだろうと、サブラフは首を傾げたものだ。何しろドロレスに向かうのは自分同様、第三級のガーベラである。自分と彼女は、特級のハンターでも捻り殺せる力を持っているのだ。そのガーベラへの命令が単なる一般市民の殺戮なのだから、何とも可笑しい話だ。

「ここか」

 立ち止まり、サブラフは廟が置かれた間を眺めた。これを潰す事にどういう意味があるのかは知らない。何しろカスパールは余計な事を言わない。ただ、言う通りに動けば、世界中を席巻しているルシファの脅威から守ってくれるという。それは間違いなく真であるので、サブラフやその他の悪魔達も彼に忠誠を誓っている。力のある悪魔ならば、ほとんどが知っていた。ルシファの描く先の世界に、悪魔の居場所が何処にも無いという事を。奇妙な話だが、悪魔の総大将であるルシファは、人間以上に悪魔を嫌っている。

 サブラフは軽く手を振って、操り人形の人間達に指示を出した。受けて彼等が、魂の抜けた顔を晒しつつ廟の破壊に取り掛かる。

「本当、楽な仕事だこと」

 煙草に火を点け、サブラフはカカと哂った。そして足元にコロコロと転がる手榴弾状の何かに気付いた時には、既に遅過ぎた。気を抜き過ぎて、ハンターの最接近に気付かないという大失態を犯してしまったのだ。

 炸裂した手榴弾から莫大な量の煙が吐き出され、瞬く間に視界が真っ白に閉ざされた。配下の人間達がバタバタと膝を付き、下級の悪魔も盛大に咳き込み出した。咄嗟にサブラフも口元を押さえたが、そんなもので聖水が大量に含まれた聖界煙幕の威力を防ぐ事など出来ない。呼吸を止めても、目や肌から聖水は染み込んで来るのだ。サブラフは足元をよろめかせ、煙の範囲から逃れようともがいた。が、自らの方向性が阻害され、思うように進む事が出来ない。

 そしてサブラフは、正面から大股で歩いて来る2つの人影を目の当たりにした。一つは身長に余りある長大な剣を肩に担ぎ、もう一つは何か本のようなものを忙しく捲っている。それらは、他ならぬ自分目掛けて、真っ直ぐに突進して来た。

「ハンターか」

 サブラフが反射的に指を差す。完璧な奇襲を貰ったこの状況にあっても、まだ自分は人間の脅威に成り得るPKを行使出来る。しかしイメージを頭に描いた途端、彼の体は見えない力で壁に激突させられた。血を吐く。超能力の類かと、サブラフが混乱する。が、そうではない。これは霊符「遠隔」の力に拠るものだ。尤も、大剣を振り上げられる様を目前としたサブラフには、その事実はまるで意味が無かった。

 ぐしゃ、と骨を割って筋肉を裁断する音がする。肩口に叩き落とされた大剣の刀身は、ただの鉄の塊ではない。心を引き裂き、焼き尽くすような痛みが全身を駆け抜け、サブラフは堪らず獣の咆哮を上げた。剣が無造作に抜かれ、更に切っ先が腹を串刺しにする。最早悲鳴すら漏らす事が出来ない。サブラフはのた打ち回りながら、床に転がった。

「念の為にソロモンの環を敷いたわ。こいつ上位級だから」

 返り血を浴びた凄惨な顔を、エーリエルはドラゴに向けた。ドラゴが頷く。

「それでは、私がこやつを魅惑の悪魔ワールドに送り返しておきましょう。エーリエルは他の連中を。効力のある今ならやりたい放題ですからな」

「ええ。たとえ下っ端でも、悪魔は尽く行動不能にする。それから殺す」

 言い置き、エーリエルは剣を面前に構えて歩を進めた。

「どっちが悪魔だと言うんだ」

 身じろぎ一つ出来ない体のまま、サブラフは吐き捨てた。其処彼処から、配下達の断末魔の叫びが聞こえてくる。

「快楽殺人鬼どもが。汚らわしい心に満ちた獣が」

 この状態から、悪魔が人間に揺さぶりをかけるのは常套手段だ。悪魔との会話に乗ってしまうと、自身の行動に疑問を生じさせ、最悪の場合は精神の錯乱状態に陥る事もある。だが、ドラゴはプロのハンターであり、悪魔との会話には何の意味も無い事を肌身で知る者だった。だから彼は、即座に聖書を開いて一説を指でなぞった。

Deus , conditor et defensor generic humani , qui hominem ad imaginem tuam formasti

「おい、待て、やめろ!」

 激しく苦しみだしたサブラフに対し、ドラゴはゴミクズを見下ろすような視線を返すのみだった。何時にも増して、詠唱を早口にしている。

 手早くこの指揮官を地獄に送り返し、早急にエーリエルを手伝わねばならない。2人は、悪魔の一隊が別方向へ移動している事を、EMF探知機によって承知しているのだ。それらが向かう先は、間違いなくル・マーサの居場所なのだから。

 

 事前にドラゴ・バノックスが仕組んでおいた「結界」は、ある程度はル・マーサを悪魔の侵攻から防いでいたが、それも時間の問題である。悪魔の集団にはXclassis、第三級、赤い目のガーベラが居る。悪魔もこのクラスになると、それ以下との悪魔達とは力量差が歴然である。

 実際、彼女のPKは強大だった。ガーベラの異能行使によって、土壁に貼られた聖書のページは真っ黒に変色しつつある。もうすぐ結界は意味を成さなくなるだろう。それは彼女等から距離を置いた差し向かいで待ち構える人間達にとって、悲惨極まりない死を意味するのだ。

 だが、ガーベラは訝しい表情で人間達を見詰めた。何故彼等が、あのように笑っているのか皆目理解出来ない。

 理解出来ないと言えば、この任務である。此度の総攻撃には、下界に配置された廟を出来るだけ破壊するという名目があった。これを破壊する事でカスパールが言うところの「ルシファによる悪魔皆殺しを防いで下さる救世主」が顕現されるらしい。それは実に分かり易い目的である。しかし自分に課せられた「ドロレス直下を防衛する人間達を殺せ」については、何の説明も無かったのだ。カスパールの不興を買ってしまうので、その意義を問い質しはしなかったが。

 そもそも、普通の人間では入る事が出来ないこの下界で、あの人間達は何をしているのか? 何故ミッション・ドロレスを守っているのか? 自分達が異形の者であるくらいは予想がつくであろうに、彼等が醸すピクニック気分の晴れがましい雰囲気はどういう事なのか?

 まあいい、とガーベラは思う。何も考えずに、皆殺しにすれば事は済むのだ。見れば自分達の3倍程度に人員を揃えているようだが、重武装のマフィア達を尽く圧殺した先の仕事に比べれば、遥かに容易いとガーベラは考えた。こうなると、悪魔特有の嗜虐性が鎌首をもたげてくる。ほとんど抵抗出来ない人間を、ワンサイドで蹂躙するのは悪魔にとって最高の娯楽なのだ。これから始まる阿鼻叫喚を思い描き、ガーベラは口の端を捲り上がらせた。

 しかしながら、ガーベラは知らなかった。人間達の目的は、ミッション・ドロレスの防衛にあるのではない。それは当の人間達すらも、実のところ気付いていなかった。彼等の行動は、何か別者の意思によって、誘導されていたのである。

 彼等の真の狙いは、悪魔達の皆殺しであった。

 

「突破されるわ」

 結界が徐々に効力を喪失する様は目に見える代物ではないが、その呟きは元ハンターであるエリニスの勘働きに拠っていた。

 敵方はマーサに比べ、然程人数が居る訳ではない。総勢10人弱といったところだ。エリニスの見立てでは、その中に悪魔は3~4人。この結果を打ち破ろうとしている女の目が、一瞬真っ赤に染まっていた事をエリニスは見逃さなかった。Xclassis。第三級。普通であれば、かように真正面から激突して良い相手ではない。

 それでもエリニスに恐怖は無い。むしろ猛り狂いそうになる心を宥めるのに必死だった。恐らく他のフレンド達もそうだ。カロリナも同様。皆、期待に満ちた目を爛々と輝かせ、開かれる戦端を今や遅しと待ち構えている。

 ふと思う。自分は何故、この昂揚感に飲み込まれまいと抗えるのかと。それは薄々、彼女自身も気付いている事ではあった。カロリナも含め、他のフレンド達は御主を心から愛し、彼に忠節を誓っている。翻って自分は、今もってカロリナだけに心酔している。その差が大きな意味を持つ事を、何れエリニスは知る事となるだろう。

「構え」

 カロリナの号令がエリニスの耳を打ち、彼女はハタと顔を上げた。体は勝手に祝福の短剣を正眼に立てている。他の者達も皆。

「進め」

 その指示を合図に、エリニスとマーサの者達が靴音を揃えて一斉に行進を開始した。結界はとうに破られており、最早悪魔の一団とマーサを遮るものは無い。

「我、汝に厳命す」

 エリニスの口が勝手に言葉を紡ぎ出した。それはマーサ全員による唱和でもあった。

『老いたる蛇よ。生ける者と死せる者の裁き手、汝が創造主、全世界の創造主、汝を地獄に堕とす力を持ち給う御主に拠りて、御主の僕たる我等に拠りて、野蛮の手下どもと諸共に血で己が罪をあがなうべし』

「何だ、こいつらは」

 整列し、短剣を構えて行進して来る人間達を見て、ガーベラは背筋を震え上がらせた。彼女にとっては信じ難い事だが、ガーベラにはあの人間達が途轍もなく恐ろしいものに見えた。怖気を振り払い、ガーベラは配下に拳銃を出させた。

「撃て」

 配下の拳銃が一斉に火を噴く。それを受けて前列の人間達がバタバタと倒れ伏した。しかし彼等は、斃れた仲間の体を踏みつけながら、足取りを緩めようとはしない。たまらず下級の悪魔が不可視の力で、迫り来る人間達を壁や天井に叩き付ける。しかし進行は全く止まらなかった。あまつさえ、銃で撃たれた者、打撃で内臓を破壊されたはずの者達が、ゆっくりと身を起こしてまた歩み出したのだ。事ここに至り、ガーベラは自分達の相手が尋常ではないと理解した。並大抵の攻撃で殺せないのならば、自分が前に出るしかない。ガーベラは落ち着いて、集団の後部に居る甲冑の女を見定めた。恐らく彼女が集団の頭目だと目星をつける。

 ガーベラの手前から、一直線に風が走った。その風は隊列の真ん中に居る人間をバラバラに切り裂きながらカロリナの元へと迫る。咄嗟、エリニスがカロリナの前に立ち、全身を使ってその風を防ぐ。顔や手足の至る箇所が切り裂かれるも、エリニスは辛うじて耐える事が出来た。ロザリオの力を引き上げていたのが功を奏したらしい。それでもエリニスは糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。血塗れの顔で、カロリナを見上げる。

「カロリナ、大丈夫だった?」

 息も絶え絶えのエリニスに対し、カロリナは目を一杯に見開き、真っ青な顔で笑った。

「ええ、大丈夫ですよ。さあ、行きましょう」

 その声音は至って冷淡そのものであったが、エリニスは辛そうな表情との差に違和感を覚える。カロリナはよろめくエリニスの手を取り、また歩き始めた。

 対してガーベラは、舌を打った。この一撃で頭目を殺せなかったのは失態である。しかし配下とは質の異なる攻撃は、五体を粉砕された人間達を文字通りの肉塊に変えた。今一度と狙いを定め、しかしガーベラは振り返って掌を背後に向けた。

 

 背後から襲い掛からんと突進したエーリエルは、目に見えない壁に阻まれ、剣を振り下ろす格好のまま硬直した。

 別働隊を殲滅した後、翻してマーサの援護の為に急いで走ったものの、既に戦いは始まっていた。彼女の位置からでもマーサの死体が幾つか見える。エーリエルは唇を噛んだ。

「そのまま潰してやる」

 言って、開いた拳を握ろうとしたガーベラが、咄嗟に視線を絶叫する配下達へと戻す。マーサの者達は、既に悪魔を数で押し包み、群がって短剣を突き立てていた。その剣は鈍い光を放ち、操られた人間も悪魔も、容赦なく命を吸い取っているかのように見える。何度も何度も短剣を刺し込んで来るマーサ達を前にして、配下達の悲鳴が次第に先細るのがガーベラには分かった。

「馬鹿な。殺せるのか、あたし達ですら」

 呟いた瞬間、左胸に銀の塊が押し込まれる。げは、と、息と血を一緒くたに吐き出し、ガーベラは剣で自身を抉ってきたエーリエルの頭を殴り飛ばそうと拳を振り上げた。が、小さなソロモンの環がガーベラの手の甲に浮かび上がり、腕がびくとも動かなくなる。

 更に後ろからやって来たドラゴが「遠隔」を行使した。吹き飛ぶと同時に、ガーベラの体から剣がずるりと抜けた。仰向けに地面に転がったガーベラには、最早立ち上がる気力すら無い。

(駄目だ。この体は、もう駄目だ)

 呼気を荒げ、ガーベラは思う。最早勝ち目は一切無い。しかしこの体は乗っ取った代物であり、使えなくなければ他所に移ればいい。その後、全員に復讐してやろうとガーベラは心に誓った。悪魔の執念深さを舐めるなとほくそ笑み、ガーベラは目を閉じて、しかし驚愕のあまり、また見開いた。

「体から出られない!?」

 血を吐きながら身じろぎするガーベラの袂に、カロリナが立った。見下ろすその眼差しは、慈愛に満ちてとても優しい。彼女の元に、続々とマーサのフレンド達が集ってきた。ガーベラの配下達を1人残らず滅多刺しにするという、凄惨極まる作業が終わったのだ。

「遅かったですね、如真さん」

 エーリエルとドラゴの方に顔を向け、カロリナが声をかけた。合わせて2人が顧みると、音も立てずに何時の間にか、王如真が立っていた。

「ええ、遅かったですね、カロリナさん。庸の戦を抜け出すのは順調でしたが、先を越されてしまいましたよ。この御二人に。優秀な人達だ」

 すれ違いざま、如真は2人に軽く会釈を寄越した。後はお任せ下さい、と言い置いて。

「エリニスさん」

 カロリナの傍に立つエリニスに、如真が言った。転がるガーベラを指差しながら。

「どうなさいますか。やりますか、これを?」

「アタシは…」

「カロリナさんを守る。いいですね。君はそれでいい。それじゃこの場は、僕にお任せを」

 如真はナイフを取り出し、ガーベラの首元に当てた。

「何を」

「汝邪悪也」

 それから、おぞましい光景が繰り広げられた。短剣は所詮短剣であり、一閃して首を狩り取る事など出来ない。だから肉の塊を切り分けるように、押し引きを延々繰り返さねばならないのだ。この世のものではない悲鳴がその一角に轟き、やがて途絶えた。立ち上がり、如真が切断したガーベラの首を掲げた。呼応して、どっと喝采の声と拍手が鳴り響く。

「…カロリナ…」

 催す吐き気を堪えながら、エーリエルがカロリナを睨む。しかし出掛かった言葉を代弁したのは、相棒のドラゴだった。

「これが御主の思し召しと仰るか、これが! 一般市民を殺戮者に仕立てる等と! この戦いで悪魔は死にましたが、マーサも死にましたぞ。あのバラバラになったなれの果てを、貴女は何と見るのですか! 御主とやらが居られるなら、今すぐ彼等を生き返らせてみせなさい!」

 ドラゴの怒声は、腹の底からの憤りそのものである。が、ドラゴの怒りを受けてもカロリナは眉一つ動かさず、可愛らしく首を傾げるのみだった。

「ええ。大丈夫です。何をせずとも、彼等は復活するのですよ」

「何と」

「何ですって」

 ドラゴとエーリエルの見る前で、ガーベラに殺されたフレンド達が、五体を繋ぎ合わせて立ち上がってきた。カロリナが高らかに宣言する。

「これが御主の奇蹟です!」

 フレンド達が大きくどよめき、ドラゴとエーリエルが顔を見合わせる。異常な出来事の連続に、彼等の理解は度を越えてしまった。しかしそんな状況にあっても、エーリエルは自身の小さな違和感に気が付いた。復活した者達の様子が、以前の雰囲気から変わっているような気がする。魂が抜けている、とでも言おうか。次いで彼女は、如真を見た。この男も彼等に雰囲気が似ている。

 そしてその声が、唐突にエーリエルの脳裏を駆け抜けて行った。否、その場に居る人間全ての心に襲いかかってきた。

 

『素晴らしい朝が来た!』

 

 喝采のと歓声は、その一撃で何処かに消え去った。ハンターも、マーサ達も、皆が共通して認識する。その声は、人間の天敵が宣戦布告を発したものなのだと。

「落ち着いて下さい!」

 呆気に取られる面々に、カロリナが叱咤の言葉をぶつけた。

「悪魔でもない者共の長が、今、覚醒を始めているようです。しかし何ら恐れる事はありません。御主は等しく我等を愛し、等しく御守り下さる偉大な御方。これからも御主の思し召しのままに働けば、必ず邪悪なものから…え?」

 威勢良く熱弁を振るっていたカロリナが、ピタリと言葉を止めた。そして独り言を呟く。その声音は、動揺を露骨に表していた。

「足りなかった、と…。悪魔に出血を強い、自らも出血を厭わなかった私達の努力が足りなかった、と。悪魔は全て殺しました。しかし私達の献身は、余りに少なかった、という事ですか。これでは些か力が心許ない、と。ハンターの介入が、私達の自己犠牲を少なくした、と」

 カロリナは、今迄見た事も無い不安な目つきで、ドラゴとエーリエルを見た。彼等は知る。御主の目論見とは、悪魔とフレンド達の命を自らに捧げさせる事であったのだ。そして結果、2人のハンターの活躍で、少なくともフレンドの方は最小限に抑え込まれた、という事らしい。

「ならば、戦いを!」

 カロリナは短剣を掲げ、高らかに宣言した。

「更なる悪魔との戦いを! 血を流し肉が爆ぜ、それでも御主に報いる為の戦いに邁進しましょう! 彼奴等は下界の一点目掛け、次は総攻撃を開始します! 私達も戦いに馳せ参じ、次こそは身も心も御主のものとなりましょう!」

 カロリナの言葉は、最早血の叫びと化していた。

 しかしながらエリニスは、取り憑かれたように喚く彼女が、その口を小さく動かしていたのを見逃さなかった。

「たすけて」

 と。

 

D:ドラゴ エーリエル>

「恐らく彼女は、呼んでも現れないわ」

 ジョンジーの頭を撫でながら、バーバラは申し訳なさそうにエーリエルとドラゴに言った。

 ここは前に、2人がジョンジーから印を貰った場所である。マーサと悪魔達の会戦を終えてから幾日、エーリエルの発案で自分達の体に異変が起こっていないかどうか確認するべく、2人はバーバラにジョンジーを呼び出してもらった訳だ。しかしジョンジーは、2人を見ても耳を掻いて欠伸をするのみである。どうやらマーサのフレンドへと至る厄介なお土産は貰わなかったらしい。尤も、そのお土産は特殊な儀式を経なければ身に付くものではないのだが。

 次いでエーリエルは、ジョンジーに力を貸す古い神が現れはしまいかと尋ねたのだが、実際に遭遇したバーバラの返事は冒頭のそれである。

「同じ厄介なものに対抗する同士、挨拶くらいはしたかったのだけれどね」

 苦笑交じりに言って、エーリエルはベンチに腰掛けた。ドラゴも頷き、しかしこちらは難しい顔になる。

「…マーサが危険な状態にある事は、先の件で痛く感じ入りましたぞ。しかし、あれと戦うのは容易ではありません。何しろ相手は、元来一般市民なのですから」

「何れ共闘という線も、古い神さんには考えて欲しいところだけど…何か喉が渇いちゃったな。バーバラさん、この辺りに自販機とかあります?」

「少し先に雑貨屋があるけれど。いいわ、私が何か買ってきてあげるから、ここでお待ちなさい」

 恐縮するエーリエルにウィンクを残し、バーバラは公園の外へと歩み去って行った。その後ろを、ジョンジーが軽やかに追い掛けて行く。その様を見守り、ふとエーリエルはドラゴに視線を合わせた。

『ああした心優しい気遣いをすると思えば、容赦の無い裁断も出来る。さても人間は面白き事よね、ドラゴ殿』

 ドラゴはぎょっとした目をエーリエルに向けた。上手くいえないが、目の前の彼女はエーリエルではない。何か別のものが彼女の口を借りていると、ドラゴは咄嗟の判断を下した。

「どなたですかな?」

『君達言うところの、古い神よ。ヴァルキュリュル。君達が使う情感の欠けた英語で言えば、ヴァルキリー』

 ドラゴは思わず一歩身を退いた。ジョンジーが絡んでいた古い神とは、ヴァルキリーだったのだ。北欧神話の戦乙女。戦で死んだ者をヴァルハラに誘う神だ。エーリエルの口を借りたヴァルキリーは、身を乗り出して、にやりと笑った。

『バーバラ殿が帰るまでに話をつけましょう。まず、私達は姉妹の内3人がこの街に来ているわ。得体の知れないアメリカの神に呼ばれてね』

「他の姉妹は?」

『ルシファの軍勢との戦争で尽く討ち死によ。生き残りは8人。残り5人は日本神軍と共闘をしているわ。で、早速だけれど、私は君達に力を貸す』

 言って、ヴァルキリーは掌を軽く振った。ヴン、と羽音のような響きと共に、輝く棒のようなものが出現した。

『ジャベリン。ジョンジーと同じ力があるわ。これを投擲すれば、ル・マーサとやらの人間の心に巣食う穢れを祓い清める事が出来る。つまり、人間を殺さずに穢れのみを殺せるワケ』

「…成る程。悪魔を毛ほども恐れず、ジョンジーをひたすら怖がったのは、自分達を殺せる唯一の存在だったからなのですな」

『何度でも使えるから安心なさい。それで貴女達にデメリットが生じる事がないとも確約するわ。天使にも、僅かであるけれど通用する。とても殺せたもんじゃないけどねー』

「何故、力を貸して下さるのです?」

 ドラゴの言に、ヴァルキリーは笑みを消した。

『ルシファは不倶戴天の敵だけれど、同じくこの街の大物も人に仇成す者と私達は見た。それが人間との繋がりが深い、古い神々が出した結論。だから戦わねばならない。しかし人の世で力を振るうには、色々と制限があってね。これまでの行動はジョンジーを通じて見させてもらったわ。彼が君達を認めたのであれば、私も安心して力を託せるというワケ』

 ドラゴは、エーリエルと共にジョンジーから「お手」を貰った事を思い出した。その行為のお陰で、ヴァルキリー達は動いてくれたのだ。しかし彼女は、打って変わって切迫した言い方でドラゴに向き合った。

『君も、あの得体の知れない雄叫びを聞いたでしょう。この街は早晩巨大なものに覆い尽くされるわ。今の内に、敵の力を削れるだけ削りたい』

「分かりました」

 ドラゴは応の答えをヴァルキリーに返した。彼女による助力は、マーサに対する手詰まり感を打破するものだ。この力をどのように駆使するかは、考えどころではあるだろうが。少なくとも、エーリエルと自分にとって、プラスであってもマイナスではない。そう言うと、ヴァルキリーは安堵の顔で笑った。

『ありがとう。この力、エーリエル・レベオンとドラゴ・バノックス両者に託すわ。取り敢えず、この力を使いこなしてみなさい。馴染んだと判断したら、もう一つの力も渡すから。ところで、お願い事があるのだけれど』

 と、其処まで言って、ヴァルキリーは顔をパークの出口に向けた。

『やっば。あの人間と、あの娘が帰って来る』

 ヴァルキリーは、慌てた調子で捲くし立てた。

『彼女には、私の妹が入れ込み過ぎているのよ。心酔していると言っていいかもしれない。エーリエルは君達の中では最も高い攻撃の才がある。君には優れた守りの才を認めるわ。でも、君達以上にバーバラという人間は、「殺し」自体が非常に上手い。彼女は恐るべき精神性を備えている。私達が心から愛する、容赦なく死に突進する魂の持ち主である、という事。でも、君やエーリエル、そしてバーバラは、まだ死すべき運命ではないと私は考える。どうか彼女と、私の妹が疾り出さないよう、見守っていて欲しい。この力を託すのはその為でもあるのだから』

 其処まで言い終えて、エーリエルの瞳が元の色に戻った。

「わたしも全て聞いたわ」

 と、エーリエル。

「ええ。何とも風変わりなヴァルキリーでありましたな。魂の運び手とは思えませんぞ」

 頃合良く、バーバラがこちらに手を振りながら、パークのゲートを潜ってきた。片手に3本のペットボトルを抱えている。ドラゴとエーリエルは手を振り返しながら、複雑な面持ちで顔を見合わせた。

 

<ジェイス・ゲストハウス>

 インディアンはル・マーサに関する情報を纏めたハンター手書きのノートを読み終え、頭を抱えて唸り声を上げた。

「これは反社会的宗教集団(カルト)の定義に入りますね。指導者のカロリナ・エストラーダはいたずらに会員を闘争へと煽り、しかも死なせています。問題は、その後直ぐに生き返ってきた、というくだりですね。カルトのうえに、本当の力を持った神秘主義組織でもある。これに対抗するハンターの立場には心から敬服しますね」

「まあ、第三者である私達から見ても対処に困る連中だからな。実地で動くハンターの苦労は如何ばかりだろう。しかしながら、物事はシンプルに考えた方がいい。ル・マーサがあのような組織に変貌したのは、当然ながら理由がある訳だ。裏に大ボスが控えている」

 グラスを揺らしながら、博士はノートに書かれた一遍の言葉を指差した。書き手はエーリエル。其処には以下のように書かれている。

 

『※理を瓦解する者

現代社会における、キリスト教文化圏が設定する秩序=「理」

秩序とは何か? → 神を頂点とする、天使と悪魔の関係性そのもの。即ちこの世界の理。

【理を瓦解するとは、つまりこの関係性を覆す事なのか?】

・天使:モート ステラ

・悪魔:カスパール一党

・ル・マーサ:御主に仕える人々

三者が渾然一体となって、何か大事を成そうとしている。ただしマーサは、事の本質を理解しているのか否か、怪しい。

【御主とは何者か】

le masa(ル・マーサ) → samael(サマエル) 』

 

「彼女は考えを上手くまとめつつある。凡そ、事態はこの通りと見ていいだろうな」

「サマエル、ですか。超大物の天使ですね。このサンフランシスコにルシファの軍勢が到達していない理由が分かりますよ。あのサマエルと正面切って事を起こすのは、さすがのルシファも気が引けるという訳だ」

「サマエルについては詳しいのかね」

「それが全然」

「まあ、そうだろうな。実際、サマエルについて詳細に記した文献はほとんど無いのだ。エヴァにリンゴを食わした奴とか、人間に技術を教えた奴だとか」

「知恵を授ける、ですか。文化英雄的側面がありますね」

「つまり人間との関わり合いが深い、とも取れる。そういう奴だからこそ、暴れん坊ルシファの所行は腹に据えかねるといったところかな?」

「世俗的な表現ですね。それでは、サマエルは人間の味方という事になりますが」

「そう解釈した挙句の果ての姿が、ル・マーサなのだよ。あれもまた、天使の権化であるという訳さ」

 

 

<H4-4:終>

 

※各参加者には、近日「抜け」の箇所についてお知らせします。

 

 

○登場PC

・エーリエル・”ブリトマート”・レベオン : ポイントゲッター

 PL名 : けいすけ様

・エリニス・リリー : スカウター (ル・マーサ所属)

 PL名 : 阿木様

・ドラゴ・バノックス : ガーディアン

 PL名 : イトシン様

・真赤誓(ませき・せい) : ポイントゲッター

 PL名 : ばど様

・バーバラ・リンドン : ガーディアン

 PL名 : ともまつ様

 

 

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ルシファ・ライジング H4-4【ファム・ファタル 完全版】