<ジェイズ・ゲストハウス>
エリニス・リリーの自室は殺風景であるものの、これはこれで自分なりに機能性を考えているつもりだった。簡素ながら調度品が置かれ、それらに囲まれる景色は見慣れたものであるはずだ。
しかしながらエリニスは、目が覚めた時に見えた眺めに、ひどく違和感を覚えた。あのクローゼットは自分のものだろうか? と、浮ついた気持ちでエリニスは家具を見詰めた。そして次第に、それがクローゼットのような形をした別のものに思えてくる。部屋の全てが曖昧で、知らないものばかりだ。ここは本来、自分が居る場所とは違うのではないだろうかと。
そのように考える自分は果たして本当に自分なのか?
エリニスの思考は、其処まで行き着いてしまった。両足を支える敷板をいきなり外されたような気がして、彼女は恐怖を覚えた。目を覆う。耳を塞ぐ。しかし口元は、喉の奥からせり上がる笑い声に従い、忠実に歪む。
「助けて」
と、エリニスは呟いた。助けて、誰か。助けて、と。エリニスは呪文のようにその言葉を繰り返し、立ち上がって酒場のある一階に向かって歩を進めた。
「助けて、お願い、助けて。あの講話に参加してから、アタシは自分が自分じゃなくなっているような気がする。こんなの絶対におかしいわ」
「落ち着いて、エリニス。落ち着くのよ」
「そうだぜ。まずは順を追って話をしてみなよ」
捲し立ててきたエリニスを、エーリエル・レベオンと真赤誓が冷静な口調で宥め始めた。酒場には彼ら3人と、マスターのジェイコブしか居ない。込み入った話になるだろうと考え、エーリエルと真赤がジェイコブに目配せをする。彼は察して肩を竦めてみせ、さり気に厨房の方へ引っ込んでくれた。
エリニスは自分が講話以降におかしくなり始めている事を、詳細に語り始めた。ただ、一体講話で自分が何を見たのかは、記憶に霞がかかったようになってしまって、どうしても思い出す事が出来ない。
「苦しい、本当に苦しいの。まるで心が真っ二つになりそう。ここままだとアタシ、ル・マーサに取り込まれてしまう」
エリニスとしては、その苦しみを率直に吐露したつもりだし、それに対して彼らは手立てを講じて行動してくれるはずだ。しかし彼らの反応は、彼女が期待していたものとは違っていた。
「人格への干渉とその変容は心理学に基づいているものだから、ル・マーサがこの世ならざる力を使っているというのは、どうかな? 勿論やり方は褒められたものじゃないけど、彼らに悪意は無いのよ、きっと」
「え?」
「実際、ル・マーサは人に危害を与えている訳じゃないしな。だったら送り犬への対処の方が肝要だぜ。あれこそハンターがやらなきゃならねえ仕事だもんな」
彼らは、ハンター達はル・マーサに対して不審の感情を抱いているものだとエリニスは考えていたが、エーリエルと真赤はまるでそんな素振りを見せていない。うろたえるエリニスを前にして、2人は頷き合い、起立した。
「ともかく、今一度マーサを訪問しましょう。まずは送り犬をどうにかしなくては」
「エリニス、お前も来るかい? その苦しみって奴をカロリナの姉ちゃんに言ってみなよ。存外親身になってくれるかもしれないぜ」
一瞬、自分は試されているのではないかという疑念が頭を過ぎるも、直ぐにエリニスは口角を上向けて笑みを浮かべた。
「分かったわ。行きましょう、ル・マーサに」
<マックスの自宅>
マクシミリアン・シュルツが住むアパルトメントは、ヘイト・アシュベリを南に下ったノイ・バレーの、閑静な一角にあった。天井は高いが然程広くないフリスコの特徴的なひと間は、それでもマックスが1人で過ごすには十分なスペースがある。
それが今や押しかけてきた1人の男によって、快適さは破られた。身長220cm。体重140kg。空は飛ばぬが巨体は唸る、ドラゴ・バノックスが部屋の空間を粗方占拠してしまったのだ。
「狭いですな!」
「ドラゴさんのせいで天井まで低く見えますよ」
マックスはほとほと困り果てた顔で、それでも彼の為に淹れたコーヒーを差し出した。時には損とも思える人の良さは健在である。
「…おかしいな。マグカップがデミタスに見える」
「いやはや、旨いですな! 私は薄めたコーヒーを水代わりに飲む文化が、どうにも理解し難いのですよ! ふむ、豆も良い銘柄と見ました。スマトラですかな!?」
「いえ、コナです。それよりもドラゴさん、声、大きいです。隣の人が怒鳴り込んできます」
尤も怒鳴り込まれたところで、部屋に居座るザ・シングを見た時点で、しおしおと引っ込んでしまうに違いない。
以前知り合ったバーバラ・リンドンが「私の仲間が助けに来るから」と携帯電話で知らせたおかげで、マックスは訪ねてきたドラゴを見ても逃げ出す事はなかった。一応、以前に面識があるのも大きかったが、それにしてもマックスにとって、謎の程度はル・マーサと似たり寄ったりである。それでも、バーバラや目の前のドラゴからは、彼らは嘘をついていないという確信めいたものを、マックスは感じ取る事が出来た。
彼やバーバラが言う、自分がマーサに狙われているとの話はにわかに信じ難かったが、勿論マックス自身にも思い当たる節はあった。少しずつではあるが、自分への応対が変化しつつある人々。果たしておかしくなっているのは自分ではないか、という疑問を抱いていたマックスにとって、そうではない、と言ってくれる者の存在は率直に有難い。だから彼らを信じてみようとマックスは思った。
「そろそろ大学に行こうと思うんですが」
「ほう、サンフランシスコ大ですか。入った事がなかったので楽しみですな!」
「やっぱりついて来るんですか」
開かれたキャンパス、とは言っても校舎の中まで開かれている大学は無い。各所に配置された警備員が、ここサンフランシスコ大学でも当然睨みを効かせている。がたいの大きいアメリカ人の中でも規格外のドラゴは当然怪しく、よって彼はマックスが出席している講義が終わるまで、中庭のベンチで留守番長と相成った。幾ら神父の格好をしていようが、やはり場違いであるのは否めない。
「あら、ドラゴ君じゃない」
と、周囲にぽっかり空間が出来たドラゴの元に、太目の年配女性が声を掛けてきた。バーバラだった。それに彼女の少し後ろを歩いているのは、アンナ・ハザウェイだ。アンナはドラゴの姿を認めると、露骨に『げ』、という顔になった。
「うわー、前に来た新聞記者だ…って、何で神父の格好してるのさ。婆さん、あんた知り合いなのか?」
「これはこれはアンナ嬢、心を入れ替えて通学ですかな」
「余計なお世話だ」
ドラゴの隣に座ったバーバラから一際距離を取って、アンナは別のベンチに腰を下ろした。ろくに手入れをしていない栗色の髪に手を入れ、アンナはつまらなそうに携帯プレイヤーのイヤホンをつけている。大学の職員を装って接近したバーバラが、単位不足を理由に出席を促したのだが、矢張り自主的でないだけに本人のやる気は全く伺えない。
「本当なら、職員が学生を引っ張り出す真似はしないわね、大学だったら。留年しようとプログラムを打ち切られようと自己責任。社会は厳しいわ」
「しかしバーバラさん、自分が言うのも何ですが、彼女を外に出して宜しいのですか? そう、私同様に貴方も護衛をされている」
ドラゴがマックスを守護するのと同様、バーバラもアンナを見守る役回りだった。マックス同様、彼女も再度マーサに目を付けられるだろうとは、バーバラが予測するところである。
「確かに一箇所に留まってもらった方が、護衛もし易いとは思うのよ。けれど非日常に巻き込まれそうになっている人が、日常を履行するのは大切だとも信じているの」
「非日常を日常とするのは、ハンターだけで十分、という事ですな。しかしマックスもアンナも、何れ腹を括らねばならないかもしれませんぞ」
と、校舎から学生達がぞろぞろと出て来た。講義が終わり、休憩時間に入ったのだろう。その人ごみの中にはマックスの姿があった。マックスはこちらを見つけて手を振り、しかしアンナをも認めて愛想笑いが硬直する。
「アンナ!?」
慌てて駆け寄ってきたマックスに気付き、アンナは見る間に険しい顔となった。イヤホンを引き千切り、忌々しげにマックスを一瞥してから、アンナがその場を立ち去って行く。
「ああ、やっぱりか…」
彼女を追う事はせず、マックスは肩を落としてハンター達の元にやってきた。
「こんにちは、バーバラさん。凄いですね、彼女をちゃんと大学に来させるなんて」
「大学に行かない事がどれだけ不利になるか、具体的に説明しただけなのよ。アンナは性根のところは真面目だと思うのね、私は」
「ところで、どうでしたかな? 相変わらず勧誘みたいなものはあったのですか?」
「はあ、それなんですが…」
ドラゴの問いを受け、マックスは当惑したような表情で自らもベンチに座った。
「ここしばらく、勧誘の類が無いんです」
「ほう? でしたら諦めてくれたのかもしれませんぞ? 等と楽観的な状況でもないようですな、そのお顔は」
「はい。声がかけられない代わりに、視線が増えました。物凄く見られているんですよ、僕は。これは多分勘違いなんかじゃない」
ドラゴはバーバラに目配せをし、応じて彼女も頷いた。どうやらマーサ側は、方針を変更しつつあるようだ。穏健な勧誘では埒が開かないと、いい加減気付いたのだろう。ただ、それは吉兆ではない。その方針を何時の間にか大人数に透徹させた点もさる事ながら、それは次の行動に移る前の監視と捉えるべきだ。恐らく、マックスの周囲に居るドラゴとバーバラも注視されているだろう。
「それから、こっちの方は多分勘違いだと思うのですが」
神妙な面持ちでマックスが話した内容は、想像以上に深刻なものであった。
「どうも、ル・マーサっぽい人とそうでない人が分かるような気がするんですよ。中庭に沢山の学生が出て来ていますけど、三分の一くらいがそれっぽいんです。みんな何となくこっちを見ているような気がする。さすがにこれは思い違いでしょうが…」
2人は言葉を失った。マーサが特別視してくるくらいだから、マックスが普通の立場でないくらいは想像していた。その片鱗を彼は見せようとしているのだ。
ドラゴとバーバラは予想する。もうすぐ、事態が大きく動き出すのだと。
<ル・マーサ>
あともう少しでル・マーサの邸宅に到着するところで、不意にエリニスが立ち止まった。
「やっぱりアタシは行かない方がいいと思う」
「エリニス?」
怪訝そうな顔を向ける真赤とエーリエルの手を取り、エリニスは彼らの目をじっくりと覗き込んだ。
「聞いて。ル・マーサはマックスを正式会員、フレンドにしようとやっきになっているわ。でも普通の勧誘じゃ彼は来てくれない。それはマーサも分かっている。だからターゲットを変える算段を考えているのよ。狙いはアンナ。彼女をもう一度取り込んで、マックスを引き入れるつもり」
「誰に聞いたんだ?」
「ル・マーサの人が言っていたわ。だから送り犬対策と同時に、アンナへの防御を固めた方がいいと思う」
「貴重なアドバイスを感謝するわ。で、エリニスはどうするの?」
「マーサとはしばらく関わらないようにする。アナタ達もマーサとの接触はほどほどにして、アンナの護衛を軸にした方がいいわ。ジェイズのマスターが、ドラゴとバーバラが動いているって言っていたけど、もしかしたらドラゴを呼び戻すべきかもしれないわね」
それだけ言って、エリニスは反転してヘイト・アシュベリから離れる方角へと歩み去って行った。その後姿を見送る2人の視線は、複雑である。
「なるほど、向こうに居るのはお1人ずつなのですか。わかりましたわ。お知らせ頂いて感謝致します。ちなみにあなたの仰っていた『彼女』への対応ですけれど、あながち嘘でもありませんのよ」
携帯電話を切り、カロリナ・エストラーダは改めて向き直り、2人のハンターに深く一礼した。
「ようこそ、真赤さんとエーリエルさん。私の方も、ハンターの方々には一度お会いしたいと思っていたところなんですよ!」
面を上げたカロリナは、屈託無く笑った。会えた事が心から嬉しいという、その表情に嘘は見当たらない。マーサ邸宅の応接室に招かれた2人は、その率直さに幾分躊躇したものの、まずはエーリエルが淀み無く口上を述べた。胸につけた白いバラの造花を軽く撫でながら。
「以前に身の上を明かさなかったのは、マーサの皆さんに御心配をおかけする事無く、秘密裏に『送り犬』を滅しようと思ったからなのです。結局力及ばず、新たな被害者を出した事をお詫び致します」
「どうかお気になさらないで下さいな、エーリエルさん!」
エーリエルの手を取り、カロリナが彼女の隣に座った。
「この世ならざる者に対抗出来るハンターの皆さんが、私達の為に無私の心で動いて下さったのですよ。こんなにありがたくて、嬉しい事はないじゃありませんか!」
「この世ならざる者、ハンター」
横から真赤が、低い声で呟いた。そして率直にカロリナへと問う。
「俺達もあんまり世間に知られないように注意しているんだが、何でまたカロリナはハンターの事を知っているんだい?」
「マーサを立ち上げて、色んな方達と知り合いになりますから、噂話も沢山耳にしますわ。こう見えても街の物知りお姉さんなんですよ?」
「そっか。成る程ね。ところで早速だが、ここ最近の被害状況を教えてくんないか?」
カロリナ曰く、マーサ会員に対する送り犬の攻撃は、この2か月の間に散発的に続いているらしい。平均すると、1週間の間に1回から2回との事だった。それもマーサの正式会員、フレンドを集中的に狙ってきている。
「私達に出来る事と言えば、行きと帰りに十分注意しましょうというくらいなんです。誰も怪我をしていませんから、警察も取り合ってくれませんの。だから、お2人が私達に手を差し伸べて下さるのは、まさに天恵と言えますわね」
「かもな。ま、出来る限りの事をするつもりだから、期待してくれていいと思うぜ」
言って、真赤は立ち上がった。意外そうな顔で、カロリナが彼を見上げる。
「あら、もう行かれるんですか? まだお茶も出していないわ」
「ちょっと野暮用でね。何をするにも、俺はアウトドア派なんだ。お茶はまた今度頂くぜ」
片手を挙げた挨拶を残し、真赤はあっさりとその場を後にした。残ったエーリエルが、柔和な笑みを浮かべてカロリナに語りかける。
「これからわたし達は、送り犬退治の為に動きます。それにあたって幾つかお願いしたい事があるのです」
『送り犬が邸宅に侵入する可能性を鑑みる、という根拠でカロリナに許諾を貰った要求は以下の通り。
・「ベース」の提供。
ハンター向けに逗留出来る一室を貸して貰えるよう申し出、カロリナはこれを快諾。
・敷地前玄関、邸宅玄関、裏口の各所にソロモンの環を設置。
悪魔、悪霊の類を閉じ込めるものとしてカロリナに説明。カロリナ、面白そうにソロモンの環の上に乗る。他にも通り掛かったフレンドを含めたマーサ会員が環の上を通る。
・邸宅内の散策。
送り犬を引き寄せるようなものがあるかもしれない。カロリナと共にEMF探知機使用の上、散策を行なう。2F、異常無し。1F、異常無し。地下、講話室を含め異常無し。カロリナ、EMF探知機を興味深く手に取る。異常無し。
講話室は、普通のレクリエーションルームみたいなところだった。全体を通して、この世ならざる者を呼び寄せるような物品類、痕跡について、一切の異常を認められず。
ペンを走らせる手を止め、エーリエルは溜息をついてノートを閉じた。
ハンター用に提供してもらった部屋で、エーリエルは僅かな時間、一息入れる事にした。傍らには少し冷めてしまっている、アッサム・ティーとスコーン。カロリナが出してくれたものだ。エーリエルは紅茶の香りを嗅いだ。良い葉を使っている。英国人である自分に気を回したというところだろう。紅茶を含むように飲んでスコーンを齧りながら、エーリエルはカロリナと交わした会話を思い出した。
『この街をどう思いますか?』
『素敵な街ですよね! 過ごし易くて、綺麗で、人々は寛容ですわ。ここはパラダイスに一番近い場所ですよ』
『でも、貧困はあります。つまり格差も。犯罪だって、決して無い訳ではありません。この街をもっと良くしようと思って、マーサを立ち上げたんですか?』
『そんなに志しの高い集まりじゃないんですよぉ。ただ、明るく真面目に楽しく生きるって、世界共通の美徳じゃないかと思いません? 小さなところからそれを実践すれば、それはそれで素敵だなあと思ったんです。非力な私に、出来る事は限られていますけど』
『じゃあ、もっと大きな力があったら、どうしますか? 例えば天使や神様みたいに』
『面白い事を仰いますね、エーリエルさん! それは人間の私には想像がつきませんよ。でも、天使や神様がこの街にいらしてくれたら、素晴らしい事が起こりますわ。きっとみんなが幸せになる…』
エーリエルは頬杖をつき、何となく携帯プレイヤー型のEMF探知機を眺めた。メータがふらりと大きな値を示し、また元のゼロに戻る。
椅子を蹴って立ち上がり、エーリエルは扉を開けて階下に走った。玄関を出ると、邸宅前を2人程の人影が出て行くところが見える。後を追って通りに出る。しかし通りには普通に行き交う人の流れしかない。再度EMFをチェック。反応ゼロ。
「どうなさったんですか?」
と、敷地内から声がかかった。花に水やりをしていたカロリナが、キョトンとした顔でこちらを見ている。
「先刻、誰か通りませんでしたか」
切羽詰った調子で聞いてくるエーリエルに対して多少たじろいだものの、カロリナはにっこり笑って答えた。
「誰も通りませんでしたよ」
「誰も?」
「はい。誰も」
<再び、マックスの自宅>
ドラゴ・バノックスは腕組み、思案の最中である。ここはマックスの狭い部屋だ。マックスは困り果てた顔で空間が制限された部屋を歩き回り、ドラゴに冷えたコーラを出したりしている。
元神父の伝手を頼って、ミッション・ドロレス時代のカロリナについて聞いてみたのだが、結論から言えば大した事は分からなかった。何でも神の啓示を受けたとかでシスターの地位を辞したのだとか、そんなものはドラゴもとっくに知っている話だ。ただ、その頃のカロリナの性格は、物静かで感情表現の乏しい女性であった、という事だった。やたらに明るい人柄の今と比べて正反対である。
(まるでどこかで聞いたような話ですな)
ドラゴはそう思いながら、眉間に皺を寄せた。ミッション・ドロレスについては詳しく実地の調査をした方が良いのかもしれない。
と、玄関からチャイムの音が響いた。マックスがドアを開け、「あ」と意外そうな声を発する。
「確か君は、ヴァンサン・カフェでドラゴさん達と一緒だった…」
「真赤だ。真赤誓。悪いけど、ちょっと上がらせてもらうぜ。理由は、もう聞いていると思う」
有無を言わさず、真赤は部屋に上がり込んだ。先客のドラゴに隣に腰掛けると、もう部屋にはゆとりが無くなった。「何か体感温度が上がった気がする」等と呟きつつ、マックスは冷蔵庫からコーラのペットボトルを出した。相も変わらず人が良過ぎる。
「何か変わった事は?」
冷えたグラスを礼を言って受け取り、真赤は2人に尋ねた。
「これといった事は…」
「いや、向こう側の対応が変わりつつあるようですな。これは何気に、大きな変化の前兆であるのかもしれませんぞ」
ドラゴがそう言うと、マックスは露骨に不安な顔を見せた。
「…マーサが僕への勧誘に躍起になっているというのは、本当なのかい? だって、僕には勧誘される理由が見当たらないんだ。大して信心深くないし、良い事をすると言ったらチャリティに多少は寄付するくらいが関の山だ。自分で言うのも何だけど、どこからどう見ても冴えない学生なんだけどな」
「そいつは、俺達にも分からん。マーサの側が何を考えてマックスに狙いを定めているかなんてさ。それでも、俺達は色々考えている。俺達の素性は、もう聞いたかい?」
「ああ。バーバラさんやドラゴさんから。ハンターだって? 現実にそういう人達が居るとは驚いたよ」
「物分りが良くて有難いですな。こうして出会ったのも何かの縁。今日から私と貴方は親友ですぞ! 見たところボッチのようですし」
「いや、友達と言って下さるのは有難いですが、ボッチは余計なお世話です。何にしても、僕は皆さんが一斉に嘘をついているとは思わない。根拠は上手く言えないけど、そんな気がする」
「…先刻、理由が見当たらないと言っていたが、仮定の話をする事は出来るぜ」
真赤は身を乗り出し、マックスの目を見据えて言った。
「マックス。カスパール。そしてアガーテ。ところでアンナの本当の名前は、アガーテで合っているか?」
そう言われて、マックスはひどく驚いた。
「そうだ。そう、アガーテだ。やっと思い出したよ。何で君は言い当てる事が出来たんだい?」
やっぱり。
ドラゴと顔を見合わせ、真赤は納得した。この事件に関わる当初から、仲間内のバーバラ・リンドンが言っていた事だ。
ル・マーサ、le masa はアナグラムになっている。
庸の内紛に絡む悪魔の名前が「カスパール」。
登場人物としてのマックス、アガーテ。
魔弾の射手。
(そして歌劇・魔弾の射手に出てくる悪魔の名前。あれはドイツ語読みだそうだが、英語読みと同一の存在だとすれば)
真赤の背中が悪寒で震えた。もしも仮定が正しければ、自分達は何れ桁違いの悪魔と関わる事になる。
「マックス」
頭を振って、真赤が再び問う。
「マーサ以前のアンナと、今のアンナに違う点があるとしたら、どんなだ?」
「どうと言っても…。決定的に言えるのは、嫌悪感かな。正直なところ、あそこまで嫌われる理由が分からないんだ。どうやっても絶対に距離を置こうとしてくる」
「嫌悪感か。ドラゴはどう思う?」
「それよりも、恐怖の方が表現としては正しいかもしれませんぞ。あの執拗さは、まるで恐れから来るもののようですな」
「まさか、僕を恐れるなんて、そんな」
吹き出したマックスに構わず、真赤が更に畳み掛ける。
「残念だが、マックス、お前には何かがある。マーサを呼び寄せ、アンナを遠ざける何かだ。そいつから最早、お前は逃げる事は出来ないだろう。それでもマックス、お前は周囲の不穏な気配を良しとせず、知らない内にハンターに助けを求めたんだ。それは正しい選択だったと俺は信じるよ。俺達は手助けが出来る。しかし最終的に戦わなきゃならねえのは、お前自身なんだ。今はまだいいが、何れ腹を括ってくれ」
本気で言っているのかと、マックスは目を丸くした。調子の良かったドラゴを見ても、真赤同様に真剣な眼差しをこちらに向けている。状況がサッパリ分からないままであるには変わりなく、この2人も日常生活に介入してきた闖入者だ。しかしマックスは、鼻で笑うような事はしなかった。何故なら、この2人の気遣いは本物だと思ったからだ。それだけは確実な事だ。
「分かったよ」
と、マックスは言った。
安堵するハンター達の前で、しかしマックスは強張った顔で外を見る。口元が微妙に震え始める
「来た。マーサの人達だ」
「フレンドですか!?」
立ち上がるドラゴに、歯を食いしばった顔で、マックスが首を振る。
「違う。違うんだ。根本的に、何かが違う」
その男女2人はかっちりしたスーツを着込み、悠然とマックスの住むアパルトメントを目指して歩んでいた。そして案内役がもう1人、彼らを先導している。
「あの家です」
案内役は言った。
「聞いた話では1人のはずですが」
「それならば何とかなるでしょう」
と、男が言う。背が高く痩身で、もやしのようではあるが、眼光の鋭さは只事ではない。
「あなたは、もういいですよ。ひょっとしたら『あれ』が来るかもしれませんしね」
女が後を継ぐ。女の方も男に負けず劣らず背が高い。如何にも仕事が出来そうな、しかし慇懃無礼な雰囲気は隠せない。
「アナタ達は大丈夫なのですか」
「大丈夫ですとも」
「そう、私達は大丈夫です」
若干不審な目を向け、しかし案内役は素直にその場を辞した。彼らの言う通り、今の自分では「あれ」に太刀打ち出来ないはずだ。
2人は居住まいを正し、再び歩き始めた。もう少しで辿り着くアパルトメントの敷地前から、案内役が言う通り中から人が出て来た。だが、1人ではなく2人だ。
「話とは違うね」
「良くある事ですよ」
男と女は、自分達の前に立ち塞がった2人の男に相対し、優雅に頭を下げた。
「こんにちは。私はモートと申します」
「私はステラです。初めまして」
「こちらにお住まいのマクシミリアン・シュルツ君に御用ですかな?」
対してドラゴが、屈託無いニコニコ顔で会釈しつつ問うた。
「その通りです。私達はル・マーサの」
「ル・マーサの勧誘でしたら、どうかお引取りをお願い致します。何故なら」
言って、ドラゴは上着を脱ぎ捨て上半身を剥き出しにし、鍛え抜いた筋肉を誇示しつつナイスポーズを決めた。アクトにそう書いてあったのだから仕方が無い。
「ニューヨーク・カトリック教会に属する正統たる神父であるこの私が、迷える子羊に道を指し示さんと、只今絶賛勧誘中なのでございます! しかしマックス君、中々首を縦に振ってくれませんで、いやはや聖職者も辛いよでありますな! そんな訳で、順番はきっちり守って頂きたいのですよ、紳士と淑女のお二方」
モートとステラは、顔を見合わせて苦笑した。
「構いませんよ、私達は宗教団体ではありません。ただの互助団体です。マックスさんには御自身で来て頂きたく思い、一度その旨をお伝えしたく参上した次第です」
「なに、ちょっと声を掛けるだけですから。一言話せば、それで私達は帰ります」
ドラゴの脇を進み出ようとした2人の前を、今度は真赤が遮断する。
「俺達がハンターである事は承知の上だよな」
低い声でドスを聞かせ、睨み上げつつ真赤が言う。
「マックスは送り犬対策の重要参考人物だ。妙な茶々は入れないでくれよ」
「ほう? 『あれ』とマックスさんは関係があるのですか? 初耳ですね」
「俺の勘だ。理由はそれだけで十分だぜ」
「でしたら、尚更マーサに来て頂いた方がいいのでは? 私達も『あれ』の対策には本腰を入れていますからね。だからハンターの皆さんにも御助力を頂いているのです」
「悪いが、マックスの守護は目的じゃない。あくまで送り犬の対策だ。仮にマーサの本拠地が安全だとしても、そいつはいいやり方じゃねえな。外で奴に張り付いていた方が、動いてくる送り犬を捕捉しやすい」
「どちらにしても、それはマックスさん御自身が決める事でしょう。ほら、マックスさんも当方の意向をある程度汲んでくれたみたいです」
ドラゴと真赤は、不意を打たれたように振り返った。何時の間にか部屋から出て来たマックスが、ぎこちなく、隠し切れない動揺を露にしながら階段を下り始めている。ドラゴが慌てて、マックスの元に駆け寄った。彼の肩を掴み、ドラゴが驚く。彼の体温が異常に高い。
「何故出て来たのです!?」
「分かりません」
脂汗を滲ませつつ、マックスの曰く。
「体が勝手に…いや、これは自分の意思だ。そんな馬鹿な。出て行くつもりは無かったのに、何故自分の意思だと!?」
その有様を、モートとステラはにこやかに眺めている。唇を噛んで2人を睨みつけた真赤だったが、す、と目を細めて腰を落とした。
「やっぱり来やがった」
その声につられ、モートとステラは背後を顧みた。その視線の先に、それは居た。牙を剥き出し、戦意を露にした送り犬が。
送り犬は、しかし一定の距離を保ったまま、注意深く2人の男女を探る素振りを見せている。フレンドと見るや、問答無用で襲い掛かってきた強引さが、今この時は全く無い。
「ほう、これは厳しいな。1人では危なかった」
モートが感心したように言った。
「まさかここまでとは。一体どういう素性のものなのでしょうね?」
ステラは微笑を浮かべて送り犬を見ている。2人の口調に、切羽詰った雰囲気は無い。これまでの「フレンド」達のように、あからさまに恐れをなして逃げ出す気配を、この2人からは感じられなかった。
2人が一歩進み出る。応じて送り犬が回り込みを開始する。その微妙な均衡が、突如として破られた。
四気筒のエンジン音が唸りを上げて、瞬く間に突進してきた。横滑りに急制動させたバイクが、ル・マーサの使者と送り犬の間に割って入る。ライダーはブリトマート。エーリエル・レベオン。
「騎士たるもの、猪突猛進すべし!」
言い放ち、エーリエルはS&W M60、レディ・スミスの銃口を送り犬に向けた。この展開に、モートとステラはさすがに動揺を見せている。それには構わず、エーリエルは振り返りもせずに声を張り上げた。
「マーサの人!?」
「そうです」
「お下がりなさい。ハンターであるわたしに任せて」
言って、エーリエルはちらりと後ろを見遣った。
(『あの2人』、か?)
直ぐに注意を戻し、突破する隙を伺う送り犬を、エーリエルは正面から見据えた。
「マックスの勧誘の為にマーサの人達が集まる。それを狙ってくるのだと思っていたわ」
犬相手に通じているかは、知った話ではない。エーリエルは慎重に言葉を選び、送り犬との対峙を続けた。
「あなたには目的がある。そしてわたしにも信じる戦いがある。それを成し遂げるために、しなければならない事があるのよ。分かるでしょう、あなたならば。わたしの言わんとするところが!」
引き金を絞る。拡散した塩弾が、送り犬を正面から捉えた。一瞬で消滅するも、送り犬はたちどころに体を戻し、大きく迂回して右側から突破を試みてきた。
対してエーリエルは反射神経の全てを駆使し、拳銃を捨てて大剣・テンペストを抜刀し、構えがてら送り犬の鼻先に回り込んだ。
エーリエルの目と、送り犬の瞳が衝突する。
小柄なボーダーコリーの純粋な戦いの意思を、エーリエルはその瞳に見た。しかしながら、彼女にも言わねばならない事がある。言葉は通じなくとも、自らの意思の何たるかを伝えねばならぬと、目を一杯に見開いて凝視する。
不意に、ボーダーコリーの瞳が和らいだ。
それと同じくして、犬は一歩、二歩と身を退き、やがて霞のように、消えた。
(ちゃんと伝わっていたみたいね…)
大きく息を吐いて膝をついたエーリエルに、背後から丁寧だが、感情の薄い声が掛かった。
「倒せませんでしたね」
「何故倒さなかったのですか?」
元から期待はしていないが、モートとステラは労いの言葉一つも寄越さない。フッ、と気を入れ直し、エーリエルは立ち上がった。
「悪霊とは、そういうものです。特に送り犬は強い。強い悪霊を倒すには、死体とか執念を抱く物品を祓わねばなりません。今は、それを探す途上なのですよ」
「成る程、そういうものですか。何と大変な事だ。エーリエルさん、今後とも宜しくお願いします」
「何時の間にか、マックスさんは居なくなってしまいましたけれど」
自嘲気味にステラが呟く視線の先には、ハンター諸共マックスの姿は何処にも居なかった。
あの2人の注意が送り犬に向いた途端、マックスは己が体の自由が効くようになり、ドラゴや真赤と共にその場を脱する事が出来た。今はアパルトメントから大きく距離を取り、既にあの2人の気配は何処にも見当たらない位置に居る。
「全くもう、何で出て来るんですか」
プンスカ怒るドラゴに対し、マックスはひたすら頭を下げている。
「すみません。自分でも本当に分からないんですよ」
「あの2人が何か仕掛けてきたのかい?」
真赤の問いに、一瞬躊躇したものの、マックスは静かに首を横に振った。
「多分違います。僕の衝動みたいなものでした。あの2人と共に行かねばならない、と」
「それは本意か?」
マックスは押し黙った。しかし、やがて返した答えは、先程と同じく否定のそれであった。
「僕は僕の意思で、ル・マーサに関わるべきじゃないと思っています。バーバラさんやドラゴさん、それに真赤君の言う事を、僕は正しいと考えているから」
それを聞いて、真赤とドラゴは照れたように肩を竦めた。自分達の心が届くというのは、何にしてもちょっと嬉しい事だった。
取り敢えず退去したマーサの2人を見送り、自らも戻ろうとする途中、エーリエルは携帯電話の着信に気がついた。手に取って発信元を確認し、驚く。アンナからだ。
「どうしたの!?」
『どうしたもこうしたも無え! 確か困った事があったら電話しろって言ったよな!? 今がそれだあ!』
<アンナの自宅・その少し前より>
太陽光線の照り返しが幾分和らぐ頃合の夕暮れ時に、通りを見下ろしながら飲むビールは旨い。窓際に腰掛けながら、アンナは久々にくつろいだ顔でのんびりしたひと時を過ごしている。何しろ今日は、バーバラと名乗る大学職員を見掛けないからだ。
バーバラはここ最近、頻繁にアンナ宅を訪れていた。大学に行きなさい、一日中勉強出来る環境が、どれだけ貴重であったかが何れ分かる。等々決まりきった説教ばかりしてくるあの職員が、アンナはひたすら鬱陶しかった。奨学金プログラムを維持する為の出席については妥協したものの、人からあれこれ指図される事が何より嫌いな自分に、いちいち関わってくるバーバラとは、マックス同様反りが合いそうにない。
『普通の生活に戻りなさい。朝起きて、大学に行き、勉強をして、友達に会うのを楽しみにし、おいしい食事をして、夜はぐっすり眠る。これは本当に幸せな事だわ。その気になれば、何時でもそんな暮らしにアンナは戻れるのよ』
知った風な口を叩きやがって。と、アンナはせせら笑った。平凡そのものの婆さん風情が、自分の何を知っているのだと。
気を取り直して缶を呷りながら、ふとアンナは気が付いた。
先ほどまで通りは絶える事無く人が行き交っていたのだが、何時の間にか誰も居なくなっている。静かになった。何もかもが。この通りには音が無い。車の走る音も、人のざわめきも。近所のテレビの音も。アンナは缶を脇に置き、眉をひそめて階下の景色を覗き込んだ。さすがにおかしいと、彼女も勘付く。
と、耳が僅かな音を拾った。たたた、たたたた、と、素早く規則的な音は、少しずつ大きくなっている気がする。音の元を探して首を回し、アンナの視線が一点に固定された。
それは奇妙な眺めだった。通りの遥か向こうの坂道を、白いものが駆け下りてくる。次第に形が視認出来るまでに迫ると、アンナにはそれが人であると分かった。ただ、本当に人なのかとも思える代物である。
そいつは全身が真っ白で、素裸だ。奇妙にやせ細った手足を凄まじい早さで振り切っている。顔は、遠目からなので確信は持てないが、眼球が無いのではないかと思えた。窪んだ眼窩は一向に黒いままで、その目のようなものを、そいつはアンナの位置に向けた。目同様に真っ黒な口腔を開き、そいつは笑う。そして手をブンブンと振ってきた。そいつの目的地は、他ならぬアンナの部屋だ。
アンナは後ずさり、膝を崩して尻餅をついた。自分は、見てはならないものを見たのだと知る。アンナは這うようにして玄関に向かい、外に転がり出た。そして隣の部屋の扉を壊さんばかりに叩く。この部屋の住人は深夜のバーに勤めていて、この時間はまだ部屋に居るはずだ。
「おいっ、出て来いよ! 誰か居ないのかよ!?」
等と喚き散らしてみても、部屋の中からの反応は皆無だった。
「誰か!」
と、アンナはあらんばかりの音声で絶叫した。しかし誰も出て来ないし、何の反応も返って来ない。明らかに自分は、異常な状況の只中に居るとアンナは知った。これはもしかすると、自分が周囲に対してあまりにも無関心であったから、その報いが来たのではないかと場違いにも思う。自分以外に無関心な自分は、当然のように周囲から関心を持たれず、その存在が消えてしまったのかもしれないと。今この場で彼女に興味を向けているのは、得体の知れない白い化け物だけなのだ。何となくバーバラの顔を思い出す。そしてマックスも。
アンナは腰砕けになって、その場に座り込んだ。いよいよそれは、間近に迫っている。全く速度を緩めずに、顔だけはしっかりとアンナに向けて。軽く膨らんで通りの向かいに位置を変えたそいつは、急カーブを切って真っ直ぐアパルトメントに突っ込んで来た。そして、その進撃は、突如として止まった。
壁に衝突したかのように、敷地の入り口で転がったそいつと、その場にゆっくりと歩み寄る人影をアンナは見た。思わず目を見張る。バーバラだった。何故かは知らないが、鉄パイプを片手に持っている。
「…サンフランシスコ全域で悪魔が侵攻を開始しているわ。だからここだけが無関係なはずはないと思っていたの。何れそういうものが現れるだろうと。当たりだったみたいねぇ」
太った体を揺らして近付くバーバラに対し、そいつはすぐさま起き上がって、あー、うー、と、言葉にならない呻き声を発しつつ、何も無い空間を滅茶苦茶に叩き始めた。バーバラは困った顔で、そいつの足元を見た。敷地前に施しておいたソロモンの環は、そいつの動きを思惑通り止めてくれたものの、しばらくすれば突破されてしまうのだと分かる。恐らく悪魔祓いを詠唱する間もなく。敵はかなり強い。バーバラは離脱する腹を括った。が、その前にやる事がある。
「何の目的があるのかは知らないけど、思惑通りにはならないし、させないわ」
鉄パイプを振り上げ、バーバラはそいつめがけて力任せに振り下ろした。並みの人間ならば頭蓋骨が砕ける一撃を受けても、そいつは「あー」と言いながら膝を折るだけだ。案の定物理的打撃は根本的に効かない。しかしそんな事はお構いなく、バーバラは鉄パイプでそいつを滅多打ちにし始めた。頭を抱えて蹲り、悲鳴を上げるそいつに容赦なく、鉄パイプの猛打は曲がりきって使い物にならなくなるまで続く。
とどめにバケツで聖水を浴びせ、岩塩を惜しみなく頭から被せてやり、激痛のあまりのた打ち回るそいつを尻目に、バーバラは早足でガタガタ震えるアンナの所にやってきた。柔和な笑みを浮かべつつ。
「さあ、一緒に逃げましょうね」
「怖え、あんた、怖えよ」
怯えるアンナの胸倉を掴み、バーバラは彼女を引き摺って、バイクの後部座席に彼女を跨らせた。
「ホンダ・スーパーカブ・バーバラスペシャル」
「何、このちんちくりんなバイク」
「あら、スーパーカブは世界最高のバイクなのよ。ちょっと改造を施して、最高速度200km」
「え」
スタータをキックすると、甲高い回転音が轟いた。背後ではそいつが立ち直り、ソロモンの環の縛めを突破しようと、再び暴れ出している。バーバラはアスファルトにタイヤ跡を擦り付けつつ、スーパーカブを急発進させた。
『どうしたの!?』
「どうしたもこうしたも無え! 確か困った事があったら電話しろって言ったよな!? 今がそれだあ!」
時速150kmを突破したバイクは、一路南へ通りを驀進している。それでも背後から例の白い奴が、恐るべき速度で2人のバイクを追い上げていた。バーバラは全く速度を緩めず、むしろアクセルを更に回していた。たまらずアンナが、以前聞いていたエーリエルという少女の携帯電話に繋いだ、という次第。
「殺される! 白い変な奴と、ババアに!」
『落ち着いて、状況を説明して』
ぬ、とアンナの視界をショットガンの銃口が横切った。
バーバラはバックミラーで位置を合わせつつ、後ろ向けにショットガンの引き金を絞った。ドン、と腹に響く発砲音。岩塩の塊が追い着きかけていたそいつに直撃し、ゴロゴロと転げ回って遠ざかる眺めをアンナは見た。
『言いなさい、アンナ!』
「うわああっ、ババア! 死ぬ、死んでしまう!」
「ごめんなさい、ちょっと貸してね」
ホラー映画のヒロインのように悲鳴を上げ続けるアンナから、バーバラは携帯電話を奪い取った。そしてエーリエルと何事かを打ち合わせる。2人は知り合いだったのか、というところまでアンナの気は回らない。何しろ白い奴が、再び追撃を始めたからだ。
人の流れ、車の列が霧消した通りを、バイクは一直線に疾走し続ける。追いかける化け物は衰えを知らず、また距離を詰め始めていた。この構図に変化は見えず、バーバラとアンナの逃避行が、このままでは先細りになるのは間違いない。しかしバーバラには考えがあった。
今まで誰も居なかった通りの遥か先に、3人の姿が見えた。彼らは待ち構える姿勢を取っている。エーリエル、真赤、それにドラゴ。
バイクが彼らの脇を擦り抜けると同時に、エーリエルがレディ・スミスを小刻みに連射した。よろめき、速度を落としたソレ目掛け、真赤のハルバードがバットのように振り抜かれる。もんどり打って仰向けに倒れ込んだソレにドラゴが飛び掛かる。マウントを取り、カイザーナックルで殴打、殴打、殴打。ドラゴを跳ね除け、立ち上がったソレに、エーリエルと真赤が武具を携え突進した。
さすがにソレは、形勢不利の状況を知ったらしい。躊躇う事無く背を向け、ソレは逆方向に走り去り、その姿を嘘のように消した。
不意に、通りにざわめきが戻る。
突如現れた車列。それに人通り。道行く人が獰猛な武器を手にした3人を、怪訝の面持ちで凝視する。
「やば」
長大なハルバードを四苦八苦しつつ袋に仕舞い、真赤は仲間達を連れてその場を離れた。
「周囲が急に静かになったり、元に戻ったり、ありゃ何だ?」
手早く”テンペスト”を納めたエーリエルに真赤が問う。対して彼女は、静かに首を振った。
「分からない。分からないと言えば、さっきの奴も。悪魔ではないようだし、悪霊とも違う。あんな手合いは初めて」
「何にしても、良かったですな。私達はどうやら、敵の攻勢を一先ず挫いたのですからな」
しかし、ドラゴは自分が言う程に安堵はしていなかった。何しろ相手はマックスとアンナに対し、超常的手段で同時に仕掛けてきたのだ。自分達が相手にしようとしているものは、恐らくは深く、手強い。
<ジェイズ・ゲストハウス>
「ふむ、ちょっと心当たりが無いではない」
ジェイコブ・ニールセンは若いハンター達の問いに対し、一つ頷いて答えた。
「マーサの2人とやらはさっぱりだが、アンナという娘を襲ってきた怪物は見当が付く。多分、『カースド・マペット』だ」
その名を聞いて、ハンター達は顔を見合わせた。そんな名前のこの世ならざる者は誰も知らない。ジェイコブが続ける。
「別名『呪いの肉人形』」
「冴えない別名ですな」
「まあな。人間の死体を集めて作った、自律動作する肉の人形さ。仮初の魂が宿り、作成者の命令に絶対服従。その心は多くの場合、完全にイカレている。人間の呪術者が死体を動かすのとは訳が違う。そんなもんとは比較にならない程強い。カースド・マペットを作るのは、何しろ悪魔だからな。具体的な対策については、俺もよく分からん。次いで言えば急に人気が消えたってのもな。マペットにそんな力は無いはずだが…。超自然現象データベースで検索してもらうから、しばらく待っていてくれ」
ジェイコブが電話をする為に奥へ引っ込んだタイミングを見計らうように、ハンター達の耳元で何かが囁いた。驚いて周囲を見渡すも、今の時間は彼らしか居ない。
「もしかして、『キュー』?」
『御名答です。これから厄介なものを相手にする君達に、言っておかねばならない事があります。君達よりも前に、バーバラという面白いハンターが女の子を連れてきたのです。そして彼女は女の子をかくまう事は出来ないかと吾に問いました』
「答えは?」
『ノー』
「何故?」
『吾にも理屈は分かりませんが、女の子からは不穏なものを感じました。それは吾やハンターにとって危険に思えたのです。詳しい話は、また後という事で』
それきり、キューの声は聞こえなくなった。
<H4-2:終>
※連絡:
このシナリオに参加されたプレイヤーさん全員に、後ほど専用リアクションのアドレスを連絡致します。
○登場PC
・エーリエル・”ブリトマート”・レベオン : ポイントゲッター
PL名 : けいすけ様
・エリニス・リリー : スカウター
PL名 : 阿木様
・ドラゴ・バノックス : ガーディアン
PL名 : イトシン様
・真赤誓(ませき・せい) : ポイントゲッター
PL名 : ばど様
・バーバラ・リンドン : ガーディアン
PL名 : ともまつ様
ルシファ・ライジング H4-2【精神戦闘】