<アンナの自宅>
ヘイト・アシュベリの一角にあるアパルトメント、その一室にアンナ・ハザウェイは居住している。ハンター達が言う所の「送り犬事件」に関わった大学生だ。ル・マーサに通っている間は品行方正で評判の良いお嬢さんだったのだが、件の出来事以降はすっかりやさぐれ、昔の朗らかさは見る影も無い。なし崩し的にル・マーサを抜けてからは、彼女の元に訪問していた人の足もすっかり途絶えてしまった。
そのはずだったが、今日は様相が異なる。
チャイムが鳴り、アンナはチェーンロックを掛けたままの扉を少し開いた。
「こんにちは。私はサンフランシスコ・タイムズの記者でバノックスと申しますよ」
扉が勢い良く閉められ、バノックスは面食らった。身長220cmの巨人に扉の前に立たれれば、誰でも怖気づくところではあるが。取り敢えずドラゴ・バノックスはチャイムを繰り返し押し、名刺もあります、怪しい者じゃございません(実際怪しいが)、記者カードだってお見せしましょうか、趣味は筋肉です、等々並べ立て、ようやく再び扉を開けて貰う事が出来た。
「うるせえ、人の家の前で。もういいから入りな」
ボサボサに乱れた栗色の髪を掻き毟りながら、如何にも鬱陶しそうにアンナはチェーンロックを外した。1DKの広くも無い部屋は、通路からダイニングからゴミの山で埋め尽くされ、一体何処で寝るのだろうかという有様だ。顎をしゃくってドラゴを促すアンナの立ち姿も、薄手のタンクトップにショートパンツで、ほとんど下着同然の格好だ。だらしない、の一語に尽きる。
と、ドラゴはゴミに紛れてダイニングの端にちょこんと姿勢良く座る先客を見つけた。パブリックスクールの制服に身を包み、知性を感じさせる深い蒼の瞳の彼女は、如何にも良い所のお嬢さん然としていた。アンナの部屋の惨状にまるでそぐわない存在である。彼女はエーリエル・レベオンと名乗り、ドラゴに軽く会釈した。ドラゴもニッコリと笑いかけ、エーリエルの隣に腰を下ろす。それだけで部屋の面積を粗方奪いそうな勢いだった。ケッ、とアンナは露骨に舌を打ち、ベッドの上で胡坐をかく。
「では早速、先の事件についてちょっとお伺いをしたいのですが」
「またそれか。警察にも、其処に居るマックスのイトコとかいう嬢ちゃんにも散々言った事なんだけど」
「実はわたし、学校のWebニュースの記者なんです」
既にエーリエルは、アンナから幾つかの話を聞いていた。かいつまんで書くと、こういう事になる。
・いつ「ル・マーサ」に入ったのか。 ⇒ 1ヶ月前。無料開放のバーベキューパーティってのに顔を出して、それから何となく。
・どういう活動をしたのか。 ⇒ 街路清掃とか炊き出しのボランティアとか、面倒臭え事。
・カロリナ・エストラーダとはどんな人物か。今はどう思っているか。 ⇒ さあ、よく憶えていない。間抜けなお人よしくらいにしか。
・他に何でも犬について気づいたことがあれば。 ⇒ 知らねえわよ、そんなもん。
ドラゴは深く溜息をついた。これでは何も分からないに等しい。アンナはと言えば、昼前の今からビールの缶を開け、ゴロンと寝そべっていた。
「アンナさん」
エーリエルは軽く諌める色を声に込めて言った。
「マックスが心配しています。また不規則な生活に戻ってしまっているって」
「余計なお世話よ。マックスに言っといて、声を掛けるな近付くなと。まともな家に育ったグッドボーイが心底うざい。クソ家庭出の拾われ子の気持ちが分かるもんか」
ベッドから跳ね起き、アンナはゴミをひょいひょいと飛んで避けて行った。扉を開き、2人に向けて恭しく一礼する。出て行け、という事らしい。
仕方なく部屋を辞する手前、エーリエルは自らの携帯番号をしたためた紙きれをアンナに手渡した。
「もしも何か心配事があったら連絡を下さい。恐らくわたしは力になる事が出来ると思う」
「心配事って何」
「色々よ」
扉を閉め、アパルトメントの階段を2人は肩を並べて下った。その道すがら、エーリエルは天を見上げて嘆息する。
「予想していたけど、相当なタマだわ。それにしてもこんな所でドラゴとかち合うなんて」
「これが所謂、運命の赤い糸って奴でございますよ!」
「ないない。ないです、それ」
2人はジェイズ繋がりのハンター仲間だ。ル・マーサに絡んで頻発する送り犬事件の、最新の被害者から当たろうというのが2人の此度の趣旨だったが、これでは何も分からずじまいである。
「君達、ちょっといいかな…ってうおお!?」
と、横合いから青年が声を掛け、ドラゴの姿を見上げて勝手に仰け反った。全く知らない顔だったので、ドラゴとエーリエルが顔を見合わせる。
「ごめん、失礼しました。僕はマクシミリアン・シュルツと言います。今、君達が出て来た部屋の住人、アンナの学友なんだけど…」
エーリエルは思わず声を上げそうになり、慌てて口を塞いだ。通称マックス。もう1人の当事者が向こうから接触してくる展開は想定していなかったからだ。
アンナの大学での出席率が再び悪くなったのを心配し、様子を見に来たのだとマックスは言った。が、エーリエルがアンナから言われた「声を掛けるな近付くな」という言葉を聞き、がっくりと肩を落とす。
「無駄足だったかな。でも、ありがとう。もし宜しければお二人とも、近くのカフェで話でもしませんか? 赤身肉のレアバーガーでも御馳走します。旨いですよ」
「おお、タンパク質! 私はしこたま食う方ですが宜しいかな?」
「すみません、程ほどにして下さい」
<ヴァンサン・カフェ>
雑貨屋のバイトも昼の休みになり、真赤誓(ませき・せい)は取り敢えず昼飯をどうするかを考えあぐねていた。が、通りに見知った顔を見付ける。エーリエルにドラゴ。もう1人は知らない男だ。真赤は手をブンブン振り回して駆け寄って行った。
「よう、お前ら、奇遇だな。奇遇ついでに、一緒に飯でも食おうぜ」
連れの男の顔が見る見る青ざめていった理由を真赤は知る由も無い。
都合4人はオープンシートに腰を据え、ランチタイムを共にする事となった。ヴァンサン・カフェ、レアハンバーグのバーガーにタンドリーチキン。アボカドサラダとコーヒー。マックスの懐具合は爆死寸前であったが、そうまでしてでも頼みたい事が彼にはある。
「アンナの事なんだが、時々でいいから訪ねてあげて欲しいんだ。きちんと大学に出るようにと。このままだと彼女の奨学金プログラムが出席率を理由に打ち切られてしまう。そうなると退学だ」
「訪ねるって、マックスが直接言えばいいじゃねえか」
滴る肉汁をバンズで拭いながら、真赤の曰く。対してマックスは、困惑したように首を振った。
「駄目なんだ。昔は僕の存在そのものに気付かないという感じだったが、今や蛇蝎の如く嫌われている。何故こうも嫌ってくるのかさっぱり分からないが…。彼女は友達もろくに居ないし、家族とも音信不通らしい。だから、どうか頼むよ」
それから、マックスは以前に聞いたというアンナの身の上をハンター達に話した。アンナは養護施設の出で、養父母に引き取られて育ったのだが、この養父母が補助金目当ての性質の悪い連中であったらしい。見る見るアンナは荒み、それでも勉学だけはそれなりに出来たので、奨学金プログラムで進学する事が出来た、との事だった。今は養父母と絶縁状態であるそうだ。
「確か今の名前とは違う、本当の名前があると言っていたな。アガ…何だったかな」
「詳しいわね。とても込み入った話をアンナとしていた」
とは、エーリエル。
「彼女がル・マーサに居た頃に聞いた話さ。あの性格の豹変振りは驚きだ。そのル・マーサだけど、ちょっと変なんだよ」
その一言で、ハンター達の食事の手が止まった。彼らはル・マーサという新興市民団体について調査をしている。その動向に何らかの変化が起きていると言うのは初耳だ。彼らの耳目が集中し、がらりと変わった雰囲気にも気付かず、マックスは最近の出来事を訥々と話した。
「実は君達に頼む前に、マーサの人達にもお願いしたんだよ。団体に所属していたよしみで、大学に通うように言って欲しいと。一応、分かりましたとは言ってくれたけど、状況は相変わらずだ…」
エーリエルは首を傾げた。あの事件以降にアンナがル・マーサに接触したという話は、彼女から聞いていない。
「で、ここからが変なんだ。それがきっかけかは分からないが、かれこれ3回も僕に団体への参加を勧誘しに来ている。あそこは『興味が無ければ、無理強いしません』というスタイルのはずなんだ。いや、僕も無理強いまではされていないけど、断っても断っても、またやって来る」
真赤は注意深くマックスの話に聞き入っていたが、ふと、周囲の状況がおかしくなっている事に気が付いた。テーブルの客、ウェイトレス、コック。少なからぬ者が一点を眺めていた。自分達の座るオープンシートだ。彼らの表情に何があるのかは読み取れない。それが翻って不気味だった。真赤の背筋に悪寒が走る。
「やべえ。ここから出るぜ」
「え? でも、食べてる途中だよ?」
「いいから。包んでテイクアウトすりゃいいんだから」
真赤達は慌しく席を立ち、ヴァンサン・カフェを後にした。背後から伸びてくる幾つもの視線に絡め取られながら。
<ル・マーサ>
ヘイト・ストリートの表通りから住宅地の中に入り込み、周囲から見てもかなり大きな住宅と見えるのが、市民団体ル・マーサの本部である。邸宅の主は裕福な一般市民なのだが、団体立ち上げと共に厚意でル・マーサに敷地を提供しているのだという。だからル・マーサに表看板のようなものは無い。
そういう訳で、エリニス・リリーはヘイト・アシュベリを一頻り歩き回る羽目になり、ようやく目的の邸宅に辿り着く事が出来た。開け放たれた門をくぐり、敷地に入る。広い庭はよくよく手入れされていて、品良く色とりどりの花が植えられていた。決して飾り立てていないところが、この団体の性格を如実に語っているかのようだった。
しかしながらエリニスはハンターである。マーサへの警戒心は未だ怠っていない。それはこの新興団体に対して動き始めた者達の総意でもある。周囲と一切の諍いを起こさず、短期間で急成長を遂げ、会員に対してほとんど人格刷新のようなものを施してしまうマーサは、上から下を見ても怪し過ぎる。
「すみません。アタシ、興味があって見学に来た者なんですけど」
言いながら、エリニスが扉をノックする。しばらくもすると、褐色肌で小柄な歳若い女性が、元気良く扉を開けてきた。
「まあ、新しいフレンドね! あなたを歓迎しますわ。取り敢えず、気軽に見て行って下さいな。大層な事をしている訳ではありませんけれどね」
女性はエリニスを心底嬉しそうに招き入れ、吹き抜けから上がる階段へと案内した。
「それにしても、今日は沢山来て下さるわ。あなたで13人目ですよ。あら、ちょっと不吉な数字でしたかしら」
「まだ昼過ぎなのに13人も!?」
「口コミって凄いですわね。大体、毎日30人くらい来られるんです」
明るくハキハキとしゃべる女性の勢いに気圧されつつ、エリニスは彼女と共に2階の広間へと足を踏み入れた。
「皆さん、またまた御紹介します! こちらの方が、私達の活動の見学に来られました。新しいフレンドに拍手を!」
女性が言うや否や、広間で飾り物を作る作業をしていた30人ほどの人々が、その手を止めて一斉に手を叩き、口笛を吹いた。エリニスはと言えば、言葉を失った。
「ようこそ!」
「いらっしゃい!」
「カロリナ、君って奴は気が早いぜ。その子はまだ、フレンドになると決めた訳じゃないだろ?」
エリニスは驚いて、黒い髪の女性を見下ろした。このやたらに明るい、てきぱきとした女性が、カロリナ・エストラーダだったのだ。自分は既に、調査対象のリーダーと接触していた訳だ。
「そうですか? でも、この人はきっとフレンドになってくれるような気がしますもの。それでは改めて、自己紹介をお願い致しますわ!」
「え。ええっと、エリニス・リリーです。よろしくお願いします」
カロリナに促され、エリニスがおずおずと会釈をする。また万雷の拍手が巻き起こった。このポジティブ満開の雰囲気には全く馴染めないエリニスだったが、それでも注意深く広間の面々を観察した。性別、年齢、それに国籍も、特定出来る方向性がある訳ではない。本当に何処にでもいる一般市民の寄せ集めという印象だった。
しかしエリニスは、何となくこの場の空気に馴染みきれていない一角を見つける事が出来た。次いで言えば、其処にいるのは自分の知り合いだ。品の良い制服の少女に、突き抜け過ぎた背丈の男。エリニスは挨拶もそこそこに、自らも作業に加わる振りをしつつ、その一角にしゃがみ込んだ。
「何やってんの、アナタ達。何時からボランティアに精を出すようになったのよ」
エリニスが肘で小突いたのは、黙々とティッシュフラワー作りに勤しむハンター仲間、エーリエルだった。その隣には折り紙の鎖が全く似合わないドラゴ。2人はエリニスに先行して、マーサの拠点に潜入していたのだ。2人は複雑な顔でエリニスを見遣り、揃って溜息をついた。
「滅茶苦茶気構えて訪問したはいいけれど、いきなりリーダーのカロリナに会う事になるとは思わなかったわ。そして今、何年振りかのティッシュフラワー作成」
「ケアハウス慰問の前準備だそうですよ。私は力仕事専門だというのに、今日はそんな仕事は無いと、これは残念至極」
「ところでさっきから気になってたんだけど、フレンドって何」
「マーサの正式な会員をそう呼ぶらしいわ」
「私達には、かような事は言わなかったですよ。貴方は余程カロリナに気に入られたのでしょうな」
そう言えばカロリナは、自分が必ずフレンドになる、という言い方をしていた。エリニスにとって、それは少し嫌な感触である。
3人は作業に没頭しつつ、小声でマーサについて分かった事を意見交換した。
まず、マーサにはリーダー的存在がカロリナしか居ない。ナンバー2や幹部という立場は存在していない。
カロリナは、誰か特定の人間に目をかけるような事をしない。自らも作業しながら1人1人に声を掛け、忙しなく動き回っている。その様には、落ち着きというものが全く無かった。
参加している者も、参加以前に悪い人間だったとは限らないようだ。この集まりには、何か特定出来るような方向性は全く見当たらない。
「それでも」
と、エーリエルは手作業を止めずに言った。
「送り犬が狙う者には何某かの方向性があるような気がする。まずは過去に負い目のある参加者の特定ね」
「おやおや、こちらはもう仲良しさんですか?」
横合いから唐突にカロリナが顔を出し、一同は思わず仰け反った。
「ところでエーリエルさん、ちょっと一緒に起立をお願いしますわ」
カロリナは戸惑うエーリエルの手を取り、大仰な咳払いをした。皆の耳目が、2人に集中する。
「ええっと、皆さん。こちらのエーリエルさんは、私達の為に友達と貯めてくれた$100を寄付して下さいました! ありがとう、エーリエルさんとお友達さん!」
一斉にありがとう!の声が響き渡る。エーリエルは何とか笑顔を取り繕おうとしたものの、この一糸乱れぬ明るさへの訝しさはどうにも拭えなかった。これでは、まるで。
(調教…)
「でも、エーリエルさん。まだまだ若いんだから、もっと自分の為にお金を使わないといけませんよ? まず自分が幸せになってから、少しずつ他の人に幸せを分けてあげましょうね?」
「はい。わたしはこの活動に感激して、微力でも役に立ちたいと考えたのです」
「そのお気持ちをありがたくお受けしますわ。こうして時々で結構ですから、奉仕活動のお手伝いに来て下さいね。お金の事は心配しなくても大丈夫!」
「何時も貧乏所帯だからな!」
「お金のかかる事なんてしてませんもんねえ!」
「まあ、手厳しいこと。そして大きな大きなドラゴさん、この方は何と、私と同じ元聖職者なんです!」
おお、とどよめきが響く。何だかんだで、ドラゴも立ち上がって挨拶する羽目になった。
「いやあ、私も神父をしておりましたが、人生色々プロテインも色々と言いますか、こうして野に下った次第。いやはや、ル・マーサの地に足付いた活動は素晴らしい。同じ元聖職者として励みになりますな!」
「光栄ですわ。明るく正しく生きる事は宗教に関わらないものだと、私は思っているんです! さて、エリニスさん」
不意にカロリナに話を向けられ、エリニスの肩が跳ねた。
「この後、『講話』に参加なさいませんか?」
どっ、と拍手が巻き起こった。合わせてエリニスの口元が引き締まる。エリニス自身は、元からこの『講話』に参加する腹積もりであったのだが、カロリナの方から水を向けられる形になった。
隣に座るエーリエルが、エリニスのジャケットの裾を強く引っ張る。彼女はこちらを見ていないが、『やめろ』と言外に言っている。しかしカロリナは薄っすらと笑い、小さく口にした。
「虎穴に入らずんば、よ」
起立し、エリニスはカロリナの手を取って、同意の旨を告げた。
またも拍手に包まれるエリニスとカロリナを、エーリエルは不安交じりに見詰めた。が、エリニスの近くに居る男が、深く頷きながら何かを言っている。
「素晴らしい事だ。あんたも俺のように、世界が美しく見えるようになれるよ」
エーリエルがドラゴとアイコンタクトを取る。彼女は『送り犬』の標的候補に目星をつける事が出来た。
今宵の講話には、今日の初参加者の過半数を含む、20名が参加する事になった。
講話は邸宅の地下室で行なわれている。と言っても怪しい雰囲気はまるで無く、金持ちが道楽で作った、気安いレクリエーションルームである。
楽しげに談笑しながら部屋へ向かう人々の列の中に、幾分固い表情のエリニスが居る。講話はル・マーサにあって特別なイベントらしい。其処で何が行なわれているかを知る事は、今後ハンター達の対処に意味のある結果をもたらせるはずだ。
と、部屋の付近でモップ拭きをしていた恰幅の良い黒人女性が、一行を見掛けるいと満面の笑みを浮かべてお辞儀をしてきた。
「すみませんねえ、お掃除が随分長引いてしまって。皆さん、これから何かされるの?」
「今から『講話』があるんですよ、バーバラさん」
朗らかなバーバラ・リンドンに応じ、こちらも明るくカロリナが言った。
「まあ、講話ですか。何時もされている訳ではないのね」
「ええ、機会を見て開催しているんです。私もなかなか話すネタが見つからなくって。あら、カーペットが敷いてありますね」
「すみません、水をこぼしてしまったんですよ。綺麗に拭き取るまで、皆さん、この上をお歩きになってね」
口々に労いの言葉をかけ、人々は部屋の中に入って行った。その都度笑顔で見送っていたバーバラであったが、エリニスと顔を合わせると、一瞬だけ顔を強張らせた。それはエリニスも同じくだった。2人は既に顔合わせをしている。ここではなく、ジェイズで。バーバラもハンターであり、ボランティアの家政婦としてマーサに潜入していたのだ。
バーバラも口には出さなかったが、その目はエリニスを強く制止していた。しかし、エリニスの腹は括られている。マーサの最も深いところをこの目で確かめるのだと。
扉が閉められ、バーバラは頭を振った。慎重に動くのが身上の彼女ではあるが、この先に即、まずい展開が起こる確証も無い。エリニスもこの道のプロフェッショナルなのだから、ここは彼女の判断を尊重しようと、バーバラは考えを改めた。
「それにしても」
バーバラは呟き、モップの先でカーペットをどけた。其処には白いチョークで、円形の複雑な紋章が描かれている。ソロモンの環だ。悪魔や悪霊の行動を制限し、封じ込める事が出来る。
「敵は悪魔ではない。という事は」
<ヘイト・アシュベリの、とある通り>
日が暮れかけた頃合、真赤のバイトもとっくに終わっていたのだが、彼は甲斐甲斐しく通りの掃き掃除に勤しんでいた。真赤はマーサに直接関わっておらず、詰まるところこれは、自主的な奉仕作業という事になる。
夕刻になってからの掃き掃除というのも少し妙ではあったが、それでも掃除に励む者を怪しく見る人間もそうは居ない。よって真赤に親しく声をかける者も少なからず居て、その都度彼は世間話を交えつつ様々な情報を得る事が出来た。有体に言えばル・マーサについて、である。大体以下のような按配で。
『マーサは言わばオレのライバルだ。こうして通りを移動しながら掃除をしまくる芸当が、彼らに出来るのか? 出来るのかな!?』
『掃除はマーサのお家芸よ。奉仕清掃でかなりの人数を繰り出してくるもの。おかげでこの街は何時も綺麗で本当に助かるわ』
『むう。そんなに沢山居るのか。大体何人くらい居るんだ?』
『正式会員の数は知らないけど、出入りしているだけで、もしかしたら1000人くらい居るんじゃないかしら』
『そんなに居るのかよ!? さすがに1000本の箒には苦戦するな。素晴らしい団体じゃないか、ル・マーサは! それにしても、最初は何人くらいから始まったんだ』
『勿論、カロリナが1人で始めたのよ。一ヶ月ちょっと前くらいにね。いきなり団体を立ち上げて、今ですものね』
『何でまたそんな勢いで』
『さあねえ。まるで伝染病みたいね。言い方が悪いけど』
『カロリナは最初からああいう人だったのかな?』
『? そうだけど』
『それ以前の彼女ってのは、どうだったんだろうな』
『ミッション・ドロレス教会のシスターだったんでしょ。その頃の彼女だったら、やっぱりドロレスの人が知っているんじゃないかしら』
『しかし大体1000人。1000人て。そうなると会員は、ヘイト・アシュベリだけにゃ留まらねえんだろうなあ』
『それはそうよ。結構色んな場所から来ているはずだから』
真赤は掃除の手を止め、ちょっとばかり考え込んだ。こうした形の慈善団体が、1ヶ月と少しで1000人を集めてしまうのは、矢張り異常以外の言葉が無い。そのからくりを一般の人々からの情報で類推するのは、難しいという印象である。
と、向かいの通りに見知った顔を見付ける。エーリエルにドラゴ。もう1人は知らない男だ。真赤は手をブンブン振り回して駆け寄って行った。
「よう、お前ら、奇遇だな」
「何か凄く手抜きな再会よね」
「私もそう思いますぞ!」
ティムと名乗る中年のマーサの男は、一から十までよくしゃべる男だった。エーリエル達との会話が楽しくて仕方ないという風で、その内容は取りとめも無い世間話ばかりである。マーサでの活動についても、その内容は真っ当なボランティア団体のそれであり、さして注意を払うべき点は見当たらない。それでも話が『講話』に差し掛かると、皆の注意が一斉に引き締まった。
「講話はカロリナが楽しくしゃべるだけだ。別にありがたい説教なんてしないよ。しかし妙に心に染み入る。不思議な話術があるもんだね」
「でも、その講話であなたは、その、『世界が美しく見えるようになれる』と?」
「そうさ。俺も刑務所上がりで大抵の悪さには手を染めたが、カロリナと面と向かって話をすると、心がスッと楽になるんだ。真っ白になるのさ。そして新しい自分になったのが分かる。素晴らしい体験だ」
ふむ、とドラゴは鼻を鳴らし、腕を組んで考え込んだ。聞く限りは、典型的な洗脳話術である。人格のクリアとリ・ストラクチャー。しかしそうした人格改造セミナーと違うのは、その講話とやらに参加していない面々も、一糸乱れぬ性格の方向性を植えつけられる点だ。先のマーサ訪問において、その糸口は見つけられなかった。
「で、ティム君。貴方はそれを機にフレンドになった訳ですね? 講話を聴いた人がフレンドになると」
「ああ、そうだよ」
「見たところ正式会員・フレンド以外の人も大勢居るようですが、フレンドになるには資格か何かが必要なんでありましょうか?」
「別にそういうのは無いなあ。カロリナが乗りで選んでいるようなものだからなあ。別にフレンドとそうでない人が扱いで区別されている事も無いね。あんた達、お仲間さんだけがフレンドに選ばれたのが悔しいのかい? だったら俺が、カロリナにとりなしてやるよ」
「はは、それはまたの機会に」
笑ってごまかし、しかしドラゴは気がついていた。カロリナがフレンドにするのは、後ろ暗い過去を持つ人々である。ドラゴも大概の辛い経験をしているが、今の自分は胸を張っている、と言うより張り切り過ぎている自負がある。そう言えば、エリニスは何処となく陰のある女性だった。それが、カロリナがドラゴやエーリエルではなく、エリニスを選んだ理由の一つなのかもしれない。
(そしてフレンドを、送り犬が狩る、か)
「ところで、フレンドならではの仕事というものがあるの?」
とは、エーリエル。
「正式会員になったからと言って、特別な仕事なんてものは無いよ。しかし、奉仕活動を楽しみながら出来るよう、積極的に声をかけたりはしているさ。ちょうど俺があんた達にしているみたいにね」
傍で聞いていた真赤は、ゾッとした。恐らくフレンドを通じて、一般の人々に性格の一定方向が波及して行くのだ。マーサに関わる人間の飛躍的な増加のからくりは、どうやらここにありそうだ。そして今、自分達も感化の初歩段階に片足を突っ込んでいる。
と、前を歩いていたエーリエルが立ち止まった。
「EMFの反応大」
呟き、iPodに偽装した探知機のイヤフォンを外す。持参していた細長い袋の、結わえた紐を解く。ピッコロと共に銃剣の柄がまろび出る。彼女が見据えた目の先で、それは唐突に現れた。白と黒のツートンカラーの、大型ではないが精悍極まりない四本足の獣。幻のボーダーコリー。送り犬。マーサ達の「今」を殺す犬。
「ひっ」
ティムが声を呑んだ悲鳴を上げた。じりじりと後じさり、恐怖の声を張り上げて、彼は狼狽も露に来た道を逃走する。
「しまった」
エーリエルが舌を打つ。これでは塩の結界をティムの周りに張れない。それでも塩をぶちまけて道路を遮断し、エーリエルはエルマー銃剣を抜いて彼の後を追った。同時にボーダーコリーが前足で地を蹴り、圧倒的な瞬発力で追走を開始する。
塩の壁にぶつかり、犬が遮断し切れなかった境目目掛けて回り込んで来る。その隙に、ドラゴは聖書のページを貼り付けたカードを地面に置き、三角形を形成した。彼が用いる独特の霊符結界だ。そして犬は目論み通り、その三角結界の真っ只中に飛び込んだ。合わせて福音を唱える。犬の動作が食い止まる。しかし。
「なんと!?」
驚愕するドラゴが見る前で、結界はものの数秒で閃光と共に破られた。どうやら存在の強さは向こうが桁上らしい。
「ほらほら、ビーフジャーキーですよー」
ちらちらとジャーキーをちらつかせるドラゴを、ボーダーコリーは盛大に無視した。
「おいっ、止まりやがれ!」
犬の進撃の前に真赤が立ちはだかる。持っていた箒を威嚇気味に掲げるものの、それでどうこう出来るとは真赤は思っていない。ただ、ボーダーコリーの出方を見たい。真意を知りたい。
「お前は一体、何がしてえんだ!」
出鱈目に振り回した箒が唯の牽制である事は、犬の方も承知である。ボーダーコリーは特に避けもせず、正面から突っ込んできた。尋常ではない跳躍力で、真赤の頭上を飛び越える。その途上で真赤は、犬の目にたぎるものを知る事になる。
呆然と見送る真赤を後目にして、遂にボーダーコリーを遮る者は、エーリエルのみとなった。エーリエルは走りながら、聖水の入った小瓶を後ろに放る。それは狙い違わず犬に命中し、一瞬その姿を揺らがせたものの、迫り来る速度に衰えは無かった。遂にエーリエルは、レッグホルスターから拳銃を抜いた。S&W
M60、レディ・スミス。岩塩のスラッグ・ショット。急制動し、エーリエルが半回転して狙いを定める。そして彼女も、真赤と同じものをボーダーコリーに見た。
『戦う』
送り犬の目が言っていた。その断固たる意思を前にし、それでもエーリエルはハンターとして引き金を絞り込んだ。発砲音と共に塩弾が拡散。ボーダーコリーを真正面から撃ち抜く。その一撃で犬の姿は一時砕け散ったものの、すぐさま元に戻り、エーリエルの脇をすり抜ける。
こうなると無人の野であった。送り犬はあっという間にティムへと追い縋り、その背中に全身ごと突っ込んだ。犬の姿は掻き消え、合わせてティムの足取りは覚束なくなり、そのまま倒れ伏した。駆け寄ろうとするエーリエルだったが、その肩を掴まれ、押し留められる。真赤が首を振っていた。
「行こう。発砲の音が響いちまったぜ。それにどうせ、ティムは死んじゃいない」
3人のハンターは、騒ぎを聞きつけて扉を続々と開け始めた住民達の目をかわし、その場から逃亡した。しばらくもすればティムは近隣住民に介抱されて、目を覚ますだろう。そして刑務所上がりの育ちの悪さが、また復活する。道すがら、ぽつりとエーリエルが呟く。
「戦うのだと、彼は言っていたわ」
「何と」
「さあ」
「少なくとも、邪悪なものとは見えませんでしたな。塩や聖水が効いたのは、単に彼が霊体だったからでしょうな」
「邪悪。邪悪か」
真赤は分からない顔になって、人の目を撒いた背後の上り坂を顧みた。
「なあ、邪悪なものの定義ってのは、一体何なんだ?」
ジェイズの扉は呪的な封印が為されている。一旦通過の許可をゲストハウスが下せば、定義された合図を間違えない限り、通れなくなる事はない。
ところが聞こえてきたノックの合図は、2回3回と繰り返し打たれ、4回目にしてようやく扉が開かれた。
「ただいま!」
と、元気の良い帰宅の挨拶がジェイズの店内に響き、ハンター達がぎょっとした顔で声の主を見た。ガレッサのシルヴィアでもあるまいし、かように健康的な挨拶で入ってくる者はハンター達の中には居ないはずだ。ましてやエリニスは、つい先日までそういうキャラクタではなかった。
「…エリニス!」
エーリエルが驚いて席を立ち、彼女の元へと駆け寄った。件のマーサに関わった面々の中で唯1人、エリニスは『講話』に参加したのだ。
「大丈夫だったの!?」
「何が? ああ、講話の事ね。凄く楽しい話だったわ」
「話って、何の?」
「楽しい話よ。ブリトマート、今日も髪が輝いているわね!」
エリニスはウィンクを残し、ジェイズ2階に間借りする部屋へと駆け上っていった。
エーリエルは、ドラゴと真赤に不安気な顔を向けた。想定されていた事だったが、行く行く懸念すべき材料になるかもしれない。仲間の1人が、ル・マーサの「フレンド」になってしまったのだから。
エリニスは着替えもそこそこに、設えたベッドへ身を投げた。バウンドする自分の体の、その様が楽しい。ろくなインテリアも無い殺風景な部屋だが、ここは天国のように思えた。
目を瞑って、エリニスはカロリナの笑顔を思い浮かべた。そして自分に好意を寄せてくれるマーサの仲間達。それらが目蓋の裏に浮かんでくる毎に、エリニスもまた自然と笑いがこみ上げてきた。
きひ。ひひひ。
「お兄ちゃん、アタシの居場所が見つかったよ。アタシ、また頑張って生きて行けるわ」
きひひひひひ。
<宣戦布告>
大学の講義が終わり、帰り支度を整えていたマックスの肩が叩かれた。誰かと思えば、この講義を履修する学生だったが、マックスは首を傾げた。彼とはろくに話した事も無い。
「よ、マックス。これから帰りかい?」
「ああ、そうだけど…」
「ちょっと俺たちと付き合わない? いい話を聞けるところを知っているんだ」
見れば、何時の間にか5人程の学生達が、笑いながら自分を取り囲もうとしている。マックスは己の全身が総毛立つ気がした。
「ごめん、用事がある」
言って、マックスは強引に人の輪を抜けた。一切振り向く事無く早足で校舎を駆け下りる。その道すがら、幾つかの視線が向けられたように思える。錯覚だろうか。そうであって欲しい。口の中がカラカラに乾く。マックスはキャンパスを出て、通りをひたすら真っ直ぐ走り、ようやく息をついて周囲を見渡せば、其処はよりにもよってヘイト・ストリートだった。ル・マーサの本部がかなり近所にある。
おかしい。何かがおかしい。自意識過剰もいいところだとマックスは思った。それでもあの事件以降、このような形で人が不自然に接近してくる状況を、今や両手の指では数え切れないくらい経験している。切っ掛けはアンナが作ったのだが、そのアンナも家に閉じ篭ったままだ。1人暮らしを始めて2年だが、今、自分が殊更にたった1人であると痛感する。
「あなたがマックスね」
不意に背後から声を掛けられ、マックスはみっともなく飛び上がった。振り返ると、知った顔ではない初老の黒人女性が、にこやかに笑みを浮かべている。一瞬腰が引けたが、すぐにマックスは気を取り直した。彼女の笑顔は、気圧されるものではない。ごく自然に湧き上がる親しみからくるものだと気がついたからだ。彼女は大丈夫。そう思えた。
「わたしはバーバラ。バーバラ・リンドン。マーサの人間ではないわ」
「何故それを」
「歩きながらお話しましょう。少し変な話になるかもしれないけど、今は聞き流してくれてもいいわ」
バーバラはマックスと肩を並べ、夕暮れ時の通りを歩いた。さすがにメイン・ストリートだけあって、人波はそれなりのものだ。しかしその中でも、マックスはまた視線を感じ取っていた。右へ左へと心配げに顔を向けるマックスに対し、バーバラは元気付けるように腰のあたりを軽く叩いてやった。
「そうなるんじゃないかと思っていたけど、こうして一緒に歩けば分かるわ。あなたはマーサに目を付けられてしまった」
「僕が? 何でです?」
「まだ見えていないわ。でも、わたしはちょっと、突拍子も無い仮定を立てているの。恥ずかしいから、この仮定は折を見て話すわ。ところでマックスは、ル・マーサについてどう思っているの?」
そう言われて、マックスは優しく朗らかな、そしてその後の険しく情けないアンナの顔を思い浮かべた。マーサに居た頃は自分にとても親しく接してくれた彼女だが、ありのままのアンナとは、今、部屋で不機嫌そうにビールを飲んでいる彼女なのだろうと、今にして思う。
「上手く言えないけど、マーサは違う気がする。マーサでアンナは笑っていたけど、結局あれは、何も克服していない笑顔なんだ…」
「そう。マックスは聡明ね。あなたは決してマーサに近付いてはならない。わたしもマーサが、講話で何をしているのかを知ったわ。あれは心の蹂躙よ。何か、得体の知れない巨大なものを背景にしている」
バーバラは自分の携帯電話の番号を書いた紙を渡し、マックスの手を取って、少し力の篭った握手をした。
「今のわたしはあなたにとって、唯の怪しいお婆ちゃんでしかないけれど、もしも駄目だと思ったら、電話を頂戴。必ず助けるわ。こう見えても、意外と動作は機敏なのよ」
マックスに別れを告げ、1人通りを歩き出す頃には、バーバラはハンターの、戦士の目になっていた。
「わたしはル・マーサと、戦う」
そう呟くと、目の前に白と黒のボーダーコリーが姿を現した。バーバラを見上げるその目には、彼女と同じ意思の光があった。
<H4-1:終>
※エリニス・リリーさんとバーバラ・リンドンさんには、後日特殊リアクションに繋がるアドレスを連絡致します。
○登場PC
・エーリエル・”ブリトマート”・レベオン : ポイントゲッター
PL名 : けいすけ様
・エリニス・リリー : スカウター
PL名 : 阿木様
・ドラゴ・バノックス : ガーディアン
PL名 : イトシン様
・真赤誓(ませき・せい) : ポイントゲッター
PL名 : ばど様
・バーバラ・リンドン : ガーディアン
PL名 : ともまつ様
ルシファ・ライジング H4-1【ル・マーサの優しい声】