<科学アカデミー:俺は「めくるめく即身成仏の世界」の受付をやる為に生まれてきたんじゃない>

 受付係員は、ばてていた。果てしなくばてていた。

 つい最近、ようやく「世界の豪快な生首展」が展示部長から打ち切り決定の処断を下され、その時は職員揃って小躍りで施設を破壊したものだ。一番弾けていたのは、他ならぬ受付係員である。誰も彼もが、あの意図不明の地獄のような企画を忌み嫌っていた。どう考えても科学アカデミーの趣旨に全くそぐわない、ベニヤ板で覆われた生首陳列コーナー。誰だ、「もしかして、本物が紛れているかもよ」等という邪悪な呷り文句を考えたのは。死ね。受付係員は思ったが、そんな黒い感情ともおさらばだ。その時は、そう思った。

 しかし展示部長は浮かない顔で、次のように切り出した。その一言一句を、受付係員は全て覚えている。

『代わって明日から、「めくるめく即身成仏の世界」を開催します。資材は揃っているので、営業時間終了後、職員全員で設置に取り掛かって下さい。みんな、ごめんね』

 ごめんね、じゃねえええええ。

 心の叫びではない。全職員が異口同音にその場で絶叫したのだ。あれ程認識が一致団結した事例が過去にあろうか。

 そして一度ぶち壊した展示施設を、再び設置する作業に取り掛かる。てきぱきと不思議に動き回る体とは裏腹に、皆の目が揃いも揃って死んでいたのは、受付係員にとっては忘れ難い。忘れ難いと言えば、こんな事も思い出す。

 この展示、要は世界のミイラの作り物を陳列する企画である。生首だけの生首展とは異なり、ミイラの全身が展示される訳だから、展示の規模としてはそれなりに大きい。だからどうした、という意識は勿論あるが。ちなみに「めくるめく即身成仏」というタイトルは間違っている。ここで展示されるのは日本のそれを模した「即身仏」であり、即身成仏とは生きたまま悟りを開いた状態を意味する言葉なのだ。しかしその決定的な間違いを誰も指摘する事無く、「めくるめく即身成仏の世界」の看板は掲げられてしまった。このやる気の無さは尋常ではない。そうして世界のミイラの作り物を運び込むという拷問に等しい作業を行なっている頃、1人の職員が『げあっ!?』という奇声を発し、一体のミイラを指差した。

『やっべ! これ、やっべ!』

 何だ何だと集まってみれば、それは日本の即身仏だった。通常即身仏と言えば、修行僧が箱に入り地中に埋まり、空気が出入りする管一本で瞑想に入り、瞑想の果てに仏さんと化したものを指す。だからしてその表情は無心とでも表現すべきものが多い。中には大変な経験をしたのだろう顔つきの仏さんもあるが。

 しかし『やっべ!』と言われたその即身仏は、確かにやばい代物だった。それは乾燥しておらず、蝋化した死体と言うべき状態である。全く意味が分からないのだが、何故か武者装束だ。東洋における端午の節句の嫌がらせバージョンかと受付係員は思った。日本では武者人形を端午の節句のお祝いに飾ると言うが、もしもこんなものがご家庭に飾られていたら、それは大変なルチオ・フルチだ。それに顔。やばいのは、その顔である。その無表情に比して目つきは狂気の一語に尽きる。

『これから沢山、人を殺しまーす』

 みたいな。

 誰だ、この狂人。そう思って受付係員は名札を見た。多治見要蔵、とあった。歴史上にこんな人物は居たっけ?

 そういう訳で、多治見要蔵を含めた世界のミイラ達は、ベニヤの囲いに秘匿された状態で、受付係員の後ろに陳列されている。

 早く終業時間になれと受付係員は祈った。今の所、誰もこの展示には近寄っていない。当たり前だ。このまま時間をやり過ごせれば御の字だ。知り合いに会うのが一番怖い。こんな仕事に従事していると知られるのだけは勘弁願いたい。そう思っていると、残念ながら見知った顔を受付係員は客の中に見た。

 あれは生首展を見に来た奇特な客である。やたらと美人だが、しゃべるとブッサイクな女と、ムスッとしていて機嫌が悪いのかと思えばそうでもなかった青年。2人はきょろきょろと周囲を見渡し、ふと受付係員と目が合った。

 笑顔で手を振りながら、女が駆け寄って来る。その笑顔が受付係員には凄惨なものに見えた。頼むよと。頼むから来ないでくれよと。でも彼らはやって来た。残念ながら。

 

「…まさか入館5分で彼女を見失う事になるとは思いませんでしたよ」

「駄目だ。行動パターンが全っ然読めない。アルベリヒが食らいついていてくれるといいんだけどね」

 ルカ・スカリエッティとヴィルベート・ツィーメルンは、休日の人出でごった返す科学アカデミー館内を、途方に暮れつつ歩いていた。ガレッサのシルヴィアとアルベリヒ・コルベも同行していたのだが、『ラフレシア見ねば!』の声を最後に彼女らは行方不明となって今に至る。

 そもそも科学アカデミー行きをシルヴィアに提案したのはルカである。さっさと「めくるめく即身成仏の世界」を彼女に見てもらい、あわよくばそれで満足して鬼畜展示が消滅しまいかとの思いもあった。が、本音で言えば久々に彼女と外出してみたかった、というのもある。つまりはデートなのだが、あれよあれよとハンター達が引き寄せられ、結局「即身成仏の世界」を事前調査するという、何とも真っ当な目的を持った行動となった次第。おまけにシルヴィアは何処かに行った。常識人であるルカの気苦労は大きい。

「ところで、エルダ・リンデンバウムちゃんはハバチョ? もしかしてアルベリヒの奴、彼女にやっちまった?」

「その言い草は品がありませんね。彼曰く、敢えて置いてきたそうですよ。生首からミイラへの流れは彼女にとって気の毒過ぎますからね」

 等々話している内に、探し物は向こうから現れてくれた。シルヴィアははちきれんばかりの笑顔で、馬鹿みたいな量の土産物を沢山携え、こちら目掛けて飛ぶように走ってきた。出来れば他人の振りをしたい体たらくだった。

「いやー、買った買った。図録もお菓子も目一杯。従業員へのいいお土産になるわ」

「図録って、まさか」

 じゃーん、と言いながらシルヴィアは、カラー写真20ページ、$15、ミイラがどっさり掲載されている「即身成仏の世界」の図録を自慢げに見せびらかした。

「もう見てきたのかい」

「良かったわ。実に精巧な作りだった。特に『やっぱやだ。ここから出して!』と言いたげな即身仏の苦悶の表情は胸打つものがあったわ。あ、12ページの右段下の写真がそれね。ここで見る?」

「見ない。ところでアルベリヒは?」

「え?」

「…何でもない。さて、私も実地調査に出かけるとするか。ルカ、あんた展示なんて見るつもりはないだろ? なら、この姐さんの荷物を持ってあげて、先に一緒に帰っとくれ」

 ヴィルベートは有無を言わさず、身を翻してその場を立ち去った。通りすがりにルカの肩をポンと叩いて行く。

「どうしたのかしら。彼女、まるで生き急いでいるみたい」

「無理やりドラマティックを演出する事は無いんですよ」

 ルカは肩を竦め、内心ヴィルベートに感謝しつつ、シルヴィアと一緒に帰宅への途についた。道すがら、ルカがシルヴィアに語り掛ける。

「シルヴィア、私が貴女をどう思っているか、最近考えるようになりましてね」

「はえ?」

 間抜けなリアクションを返したシルヴィアは、その面構えも間抜けだった。怯まずにルカが続ける。

「それを考えるのと同じく、気になる事があるのです。ならばシルヴィア、貴女は私をどのように思っているのかと。やっぱり昔馴染みの兄妹でしょうか?」

 ルカとしては、彼なりに心を寄せる言葉だった。が、相手はシルヴィアだ。受けてシルヴィアは、少しずつ眉間に皺を寄せ始めた。どうやらウィットに富んだ返答を期待されたうえでのクエスチョンと判断したらしい。違う、違うんです。率直な言葉を聞きたいだけなんです。そんなルカの声無き声を無碍にして、案の定シルヴィアはこう言った。

「きっとあなたは、今日も何処かでデビルマン!」

「ウィット皆無ですよ、それ」

 

 アルベリヒは後からやって来たヴィルベートと合流し、「めくるめく即身成仏の世界」の展示施設に居た。とは言え、施設と言えるほど大層な代物ではない。せいぜい前回の生首展よりも、ベニヤ板の高さが増した程度である。場所は前回と同じ。バテ果てた受付係員も同じ。この周囲だけ全然人が集まらないのもご丁寧に一緒。

「これが多治見要蔵か」

 薄暗い施設の中、スポットライトに照らされる要蔵を前にして、アルベリヒは苦々しい顔になった。前回現れた時とは装束が異なるのだが、どうせ動き出せば右手に猟銃、左手に日本刀なのだろう。何しろアカデミーに出現するモンスターは、物理法則を無視して何でもありなのだ。

 そう、これらの現実化する非常識な事態の数々は、その中心域にシルヴィアが関わっている。それがハンター達の下した結論なのだ。そう考えれば、理を無視したこの世ならざる者の出現にも話の繋がりが出来る。理不尽な性格のシルヴィアが作り出した理不尽な世界。

 それにしても、かような能力はハンター達も知らない。超能力の類はハンターの身であるから、幾つか目にした事はある。だが、『無』から『有』を出現させる能力を、人々は奇蹟と呼ぶ。奇蹟を起こせる人間は、本来伝承の中にしか居ない。

「しかし、何か意図があるはずなんだ。こうして即身仏を陳列させた意図。シルヴィアは一体、何を望んでいるのだろう」

「まあ、ほかのミイラは次いでなのかもしれないね。本命は要蔵。こいつにだけスポットライトが当てられている。だったら、考えられるのは一つだろう」

 ヴィルベートとアルベリヒは要蔵を見上げながら、揃って肩を落とした。

「まさか本当に、『もしもクリストファー・ウォーケンの首無し騎士と、山崎努の多治見要蔵が戦ったら』を見たいだけなのか? それだけの為に、こんな大掛かりな代物を?」

「有り得る。だって、あのシルヴィアだよ?」

 

ガレッサBld:応接室

 そして『シルヴィア魔法少女化計画』はエルダ・リンデンバウムの提唱によってつつがなくスタートする。

 自分でも一体何を書いているのか分かりませんが、つまりはこういう事なのだ。

『アルベリヒさん曰く、シルヴィアさんの趣味はあまりにもアレ方面に偏り過ぎていると思うんです。アレというのをはっきり言うとシルヴィアさんには大変アレなんですが、つまり趣味が最悪。すっごく猟奇的な趣向をお持ちなんです。だから生首とかミイラとか、何かそういうアレな代物が出てきちゃう。だからですね、彼女にはもっと、清らかで優しい世界観に馴染んでもらうのがいいと思います。生首から花束へ、蝋化した死体から可愛い妖精さん的な、所謂コペルニクス転回を彼女の発想に及ぼせたらいいなーって思いました。だから魔法少女。魔女って言うと聞こえが悪いから魔法少女。魔女だと「イモリの干物を高速でみじん切り」とか、そういう事になってしまいかねませんし。魔法少女って響きは凄くいいですよね。分かり易いところで言うと魔女の宅急便かな。シルヴィアさんの力も魔法少女的に前向きな指向性を持って欲しいんです。だから楽しく歌を歌って、心躍るビデオでも観ながら笑って、みんなで一緒に綺麗な心の花を咲かせましょう!』

 そういう訳で、シルヴィア絡みの思惑が色々混ぜ合わされた結果、「ガレッサBldの応接室でホームパーティ」という結論に相成った。勿論終業時間後の事なので、社長のシルヴィアがGOを出せば応接室の使用は問題ない。かような企画にシルヴィアがGOを出さないはずが無いのだが。

 以下、無機質ではあるが、箇条書きでホームパーティの顛末を掲載。

 

『みんなで楽しくカラオケ大会!』

○エルダ・リンデンバウム : Alright! ハートキャッチプリキュア!(歌:池田彩 エルダのお気に入り)

○アルベリヒ・コルベ : ネバーエンディング・ストーリーのテーマ (歌:リマール ドイツ人なので)

○ルカ・スカリエッティ : デンジャーゾーン (歌:ケニー・ロギンス ルカは割と無難な選択をしそうだ)

○ヴィルベート・ツィーメルン : バッド・ロマンス (歌:レディー・ガガ 流行り物は押さえていそうだ)

○シルヴィア・ガレッサとスーパーブラザーズ : ジョーの子守唄 (歌:小池朝雄 明日のジョーのエンディングテーマ)

 

『みんなでビデオ鑑賞会!』

○ヴィルベート・ツィーメルンの持ち込み

・となりのトトロ

・アタック・ザ・キラートマト

・死霊の盆踊り

14日の土曜日

・魔法少女リリカルなのは劇場版1st

※幾ら何でもヴィルベートは守備範囲広過ぎ。

○シルヴィア・ガレッサの持ち込み

・スターシップ・トゥルーパーズ

※我等がバーホーベンおじさん監督作。会心の人体八つ裂き映画。

 

「スイッチ、オフ!」

 取り敢えずエルダは、シュジュミ(登場人物名)の手足が軽快に空を舞うシーンでDVDの電源をカットした。して、シルヴィアに詰め寄って曰く。

「若い女の子がこんなものを観てはいけません! でっかいクモと人間が競って五体バラバラになる映画なんて、悪趣味に過ぎます!」

 まるでお母ちゃんのような言い草だが、受けてシルヴィアは指を立てて横に振り、チッチッと舌を鳴らした。エルダの表情が凍りつく。長話モードのスタートだ。

「ポール・バーホーベンを、ただの悪趣味監督と思ってもらっちゃー困るわ。いい? バーホーベンはウルトラスーパー悪趣味監督なのよ! まず、このスターシップ・トゥルーパーズだけど、ハインラインの原作だと機動歩兵はパワードスーツが基本装備なのよね。でも、あんな状況なのに歩兵達はアサルトライフル一丁の軽装備。事前に空爆もしないでいきなり惑星へ降下。援護車両なしで歩兵達を放り出す。もう分かったでしょう。バーホーベンの狙い所が何処にあるか。 『もしかして、単に人が面白く死ぬ描写を沢山撮りたかっただけ?』 正解! あの人は人間の欲望を全く脚色なんか加えずに形にしてしまう稀有な存在よ。普通の監督だったら、もうちょっと自らの芸術性を発揮してみたくなるでしょうにねえ。画面に展開するのは阿鼻叫喚のオンパレード。インビジブルって映画は知ってる? 愚にもつかない駄作だったわ。人体実験で透明人間になった主人公が、一等最初にやった事と言えば、『寝ている女の乳を揉む』。いや、確かに見つからないんなら女子更衣室を覗いてみたいとか思うんだろうけどさ、男子中学生ならば。男子中学生が要らん知識を蓄えて、中学生魂のまま大人になった人がバーホーベンと言えるわね。彼については心温まるエピソードを知ってるわ。スターシップ・トゥルーパーズの新兵訓練シーン。男と女が一緒にマッパでシャワーを浴びているシーンがあったけど、撮影の時、俳優さん達が恥ずかしがったのよね。其処で我等がバーホーベン、見るに見かねてこう言った。 『お前達はそれでもプロか! 今から俺が手本を見せてやる!』 …ま、後の展開は分かるでしょう。ハートは熱いわ。目を見張るシーンを撮る事も出来る。でも、仕上がった映画は何か微妙。鍋底が抜けた鍋。私はバーホーベンの映画を観る事で、情熱を燃やし尽くすのも手段を取り違えると、何だかなあ、そんな風に自省するのよね。あらあら、綺麗に纏まったわね」

「気は済みましたか、シルヴィアさん」

 シルヴィアによるバーホーベン節を右から左へ聞き流し、エルダは彼女の肩にポンと手を置いた。エルダもH3の空気に随分染まっていた。

「あなたには力があるんです。お分かりですか? それはとても素晴らしい力です。周囲の人達を、きっと幸せにする力。でも、今のままじゃ、その力は黒い方向へ変容するかもしれません。だからなりませんか? 『魔法少女』に」

「いやー、お言葉はありがたいんですが、『少女』と言うにはとうが立った年齢なもんで。それは自覚しております、はい。だから『魔法女』ってとこでどうかしら?」

「ま、魔法女…。何でだろう、凄く湿っぽい語感。いや、そんな事はどうでもいいんですっ! ともかく大丈夫、こう見えても私、魔女の血統なんです。私自身も故郷に錦を飾れるような、立派な魔法少女を目指して日々鋭意努力中でありまして…」

「え!? エルダちゃんって、魔法少女だったの!?」

「いやだから、そういう存在になりたいと日々鋭意努力中でありまして…」

「凄い凄い! 遂に我が家にも魔法少女が来て下さったわ! 日本で言うところのかんばり入道みたいなものでしょう!?」

「かんばり入道が何かは知りませんが、多分断然違うと思います」

「とにかく粗茶ですがどうぞ。お菓子食べます? 何だ、ハーシーズしか無いわね。私も人生27年、魔法少女にお会いするなんて初めての事だわ。落ち着けシルヴィア。腹式呼吸腹式呼吸。それにしても、魔法少女と言うからには使い魔は何処? 居るんでしょ、使い魔。…ははあん、成る程ね」

 シルヴィアはにやりと笑い、ゆっくりと「そちら」に目を回した。彼女の視線を受け、アルベリヒがブンブンと首を横に振る。

「違う、違うぞ。俺は使い魔なんかじゃない!」

「大体からして使い魔はそういう事を言うのよねえ。この使い魔。普段から無愛想な顔して、本当は可愛い黒猫なんでしょ?」

 案の定。矢張り。当然のように。ホームパーティは全く収拾がつかなくなってしまった。コーラをストローでジュージュー啜りながら、ヴィルベートは真っ白になった脳で思いつく。

「もしかしてシルヴィアの趣味は、単に書き手の趣味が丸出しになってるだけなのでは?」

 すみません。その通りです。

 

 応接室の扉を閉めて廊下に出ると、ルカは色々と吐き出すように大きく息をついた。と、だれた空気が瞬時に冷え込んだと感じ、思わず背筋を震わせる。

「楽しくやっているようだね」

 何時の間にか廊下の端に、専務のマルセロ・ビアンキが立っていた。一瞬前まで、その姿は見えなかったはずだが。ともあれ姿勢を正し、一礼。

「申し訳ありません。夜中に騒いでおりまして」

「終業時間だから構わんよ。それにここは、昔からシルヴィアの家みたいなものだからね。君も少し羽目を外したまえ。私はそろそろ帰らせてもらうよ」

「あ…。専務、少しお話をして宜しいでしょうか?」

 好機だとルカは考えた。昼夜仕事の身としては、こうして専務と向き合う時間は中々取れないものだ。

 シルヴィアとは長い付き合いだが、案外彼女の身の上について知らない事も多いのだとルカは自覚している。とすれば、自分を除いて彼女について熟知している存在は彼しかいない。マルセロ・ビアンキ。

 マルセロは意外そうな顔になったものの、口の端を曲げて頷いた。

「良いとも。執務室でよければ、一杯やろうじゃないか」

 

 ストレートのウィスキーを傾けつつ、ルカはマルセロの執務室をそれとなく眺めた。手狭な部屋は以外にも物らしい物が無い。せいぜい仕事に必要な書籍や書類を納める棚があるくらいだった。ウィスキーをこっそり持ち込んでいたのは意外だったが。

 マルセロはデスクに腰掛け、グラスを揺らしながらルカに微笑みかけた。

「で、話というのは社長の事かね」

 見透かされた。顔には出さなかったが、ルカは若干うろたえた。時折専務は、こうして心中を読み取るような言葉を呟く時がある。気を取り直し、ルカは「そうです」と答えた。

「お聞きしたいのは、彼女と言うより、彼女の母親の事なのです」

「ほう。何故そのような事を」

「ハンター達の意見では、ここ最近のゴールデンゲートパークにおける怪異現象は、シルヴィアに要因があるのではないかと考えられています。彼女には何か特別な力がある。そしてその力の源は、インドが御出身の彼女の母親にあるのではないかと」

「ふむ、それは俄かに信じ難い、とても面妖な話だね」

 マルセロがグラスを置き、顎に掌を当てて首を傾げる。その反応は、この世ならざる者に関わりを持たない一般人のそれであったが、彼の仕草に僅かな芝居がある事をルカは見抜いた。

「ルカ、君は彼女のお母さんの事を覚えているかね」

「いえ、ほとんど。綺麗で優しい人だったんじゃないか、くらいしか」

「名前は?」

「さあ…」

「確かに綺麗で優しい人であったよ。ヴァイラ・ガレッサ。エンリク・ガレッサの妻。シルヴィアが2歳の時に、交通事故で2人とも亡くなられた」

 言われて、ようやくルカも断片的に思い出した。自分とシルヴィアはまだ幼く、2人の死の意味が理解出来ず、ただ沢山の人が黒い服を着ているなあ、くらいにしか見えなかった。それが記憶に残る葬式の風景だ。エンリクの事も。破天荒なおじさんであるが、とても気の良い、みんなに好かれる人だった。しかしヴァイラの事になると、どうにも霞がかかったようになって、脳裏に彼女の姿が浮かばない…。

「2人の出会いについては、エンリクがインド放浪の途中で見初めた、くらいしか私も知らないね。ともかく彼はヴァイラにぞっこんでね。まるで取り憑かれているんじゃないかと思えるくらいだった。ヴァイラはヴァイラで、何処か超然とした雰囲気があった。その美貌も相俟ってね。確かに、もしかしたら魔女だったのかもしれないね。しかし本当に魔女だったら、交通事故だって回避していただろう。そう、彼女は魔女ではない」

「いや、待って下さい」

 ルカの記憶の一部が、突如呼び起こされた。葬式の時に交わされた会話が、強く印象に残っていたのだ。

「死に姿が2人とも、とても綺麗だった…。そうだ。車は滅茶苦茶に壊れていたのに、中の2人はひっそりと息を引き取ったみたいに、綺麗に死んでいたと話していたんだ。でも、これは少し妙だと思うんですが」

「そういう事もあるのだろう。警察による検死も交通事故、胸部打撲による心肺停止と結果が出ている。警察が言うのだから間違いないさ。何にせよ、ヴァイラとエンリクには気の毒であったよ」

 マルセロが背を向ける。その一瞬、彼の横顔をルカは見た。口元が引き攣るように笑っていた。その笑い方をルカは覚えている。

 

 自分が乗ったベビーカーの傍に、マルセロが静かに佇んでいた。両親は居ない。恐らく写真を撮りにでも行って、自分をマルセロに預けたのだろう。目の前はウェディングロード。華やかに着飾った新郎新婦が目の前を過ぎる。

『よろしい』

 その声につられ、顔を上げた。マルセロも首を傾げ、ルカに微笑みかけた。口元を引き攣らせながら。

『それで良い。全ては御心のままに』

 

科学アカデミー:v.s.要蔵戦

「君達は何をしているのかね」

「搬送作業です」

 と、ヴィルベートは警備員に言い切った。

 確かに深夜の搬送業務とういうのも有り得る話なのだが、全館の照明が落とされて残業の職員も帰宅した今となっては、ヴィルベートを始めとする一行は犯罪者でしかない。しかし唯の犯罪者とは違う点があるとすれば、それはシルヴィアが同行している事に尽きる。

「そう、これは搬送作業よ。警備員さんは聞きたいのでしょうね。何でまた深夜の科学アカデミーで(以下略)」

 シルヴィアによる強引な説得がお約束通りに始まった。その内容に論理性は皆無なのだが、彼女の力の程はハンター達が一番弁えている。取り敢えず一行は警備員対策をシルヴィアに任せ、対要蔵戦に向けて簡易テントの設営に取り掛かった。袋から取り出すと一気に広がる、災害緊急用の手軽なものだ。

「小さいな。押し込まれたら終わりだ」

「押し込まれるのが狙いなんだよ」

「どういう意味だ?」

 難しい顔のアルベリヒに、ヴィルベートは自信有り気に答え、傍らの包みをポンと叩いた。包みの中には首無し騎士、クリストファーの生首が入っている。前回の戦闘における『戦利品』なのだが、若い娘が持ち運ぶ代物ではない。

 とは言え、これがある限り首無し騎士はヴィルベートに服従する。多治見要蔵という想像の世界から生まれた怪物を向こうに回すべく、こちらも伝説の悪霊をぶつける訳だ。これに加えて格闘戦の上手いアルベリヒが援護に入る。戦いを優位に進められる可能性は高そうだ。

「要蔵は右手に猟銃の男だ。しかも日本刀で武装している。盾にならないテントに突入されたら終わりだぞ」

「終わりになるのは、向こうさ。テントには仕掛けが施してある」

 と、シルヴィアが恵比須顔でこちらに戻って来た。警備員を丸め込む事に成功したらしい。警備員は「ビル・ゲイツにファンレターを書かねば」等と言いながらその場を立ち去って行った。

「いやー、物分かりの良い警備員さんで助かったわ。少々大きな音がしても、作業だから気にしないようにとも言っておいたし」

「そう。これで何があっても、警備員がこっちに来る事は無いのだろうね…。ところでマリオ&ルイージ」

 ヴィルベートはシルヴィアの脇に控える2人の下僕に声を掛け、その肩に両手を置いた。

「今から、この世ならざる戦いが始まるけれど、シルヴィアを護ってやるのは何時だってあんた達だ。気を入れて行こうじゃないか」

「任せな、姐さん!」

「あっしらも頼りにしてますぜ、姐さん!」

「いや、姐さんとか呼ばないで欲しいんだけど」

 ヴィルベートは頭を掻きつつ、件の包みに手を置いた。

「出て来い、騎士クリス。御婦人を護るのは騎士の誉れであろう」

 言い終えると同時に、馬の歩む音が背後から聞こえてきた。黒い甲冑に身を包んだ首の無い騎士が、ゆっくりと彼女らの傍らを通り過ぎ、聳える壁のようにして前面に立つ。これにて、役者が全員揃った。

「うひゃあ、いよいよだわ。前代未聞のモンスターバトル!」

 期待に満ち満ちた声音でシルヴィアとブラザーズが後方に陣取り、ヴィルベートもそれに続いた。エルダは若干躊躇した後、アルベリヒの許に駆け寄った。すぐ傍に居る首無し騎士は怖いが、それでも渡しておきたいものがある。

「はい、御守りです。袋に薬草と、まじないをいっぱい詰めました。きっと災いから護ってくれますよ」

「ありがとう。頼りにする」

「それから、クリスさんもどうぞ」

 エルダが恐る恐るの按配で、騎士クリスにもカードを差し出す。無視されるかと思いきや、意外にもクリスは手を伸ばしてカードを受け取り、鎧の隙間に仕舞い込んだ。

 自分達に手を振りながら後退するエルダを見送り、それからアルベリヒは馬上の騎士クリスを見上げた。刃を交えた時のような鋭い雰囲気を、今はクリスから感じられない。自分達を仲間だと認識したのだろうか?

(気性の変化はシルヴィアが影響しているのかもしれない。頼もしい味方という設定に、彼女自身が切り替えた可能性がある)

 つまり、敵も味方も思いのままという訳だ。幸いな事に、シルヴィアは素っ頓狂であるものの、性根は善良な女性だった。しかし、もしも彼女が敵に回ったら一体どうすればいいのだろう。アルベリヒが幾分覚えた焦燥は、スラリと大剣を抜き放つ音で霧消した。

「来るのか」

 ククリナイフとH&K・USPを交差する格好で構えると同時に、館内におどろおどろしいBGMが流れ出した。そして右から左へ流れる桜の花びら。広いスペースの闇の中から、日本刀と猟銃を携えた妄想の産物が、こちら目掛けて走り寄って来る。戦いは狙い澄ました9mm弾による猛攻から始まった。

 小刻みにUSPのトリガを絞り、アルベリヒが丹念に、容赦なく銃弾を要蔵へと叩き込んで行く。幾分身を仰け反らせつつも、要蔵の進撃に陰りは無い。それでもアルベリヒは右に迂回しながら射撃を続行。相対する格好のクリスが大剣を肩に担ぎ、騎馬による突撃を開始。

 要蔵が立ち止り、猟銃を構える。発射。その一発をクリスが胸に貰う。銃弾は鎧が弾いたものの、衝撃でクリスが落馬した。走り抜ける馬を無視し、要蔵が早足でクリスとの間を詰める。縦から両断の太刀筋をクリスは辛うじて受け止め、弾き返し、横に大きく薙ぎ払う。が、既にその場に要蔵は居ない。摺り足でクリスの背後に回り込んでいた。

 一瞬で掬い上げられた白刃の残像と共に、切断されたクリスの右腕と剣が宙を舞う。要蔵が猟銃をクリスに向ける。そのトリガが引き絞られる直前、要蔵はくるりと刀を逆手に持ち替えた。

 渾身の力で押し込んだククリナイフを、要蔵はあっさりと片腕で受け止めてみせた。同時に発砲。間隙を突いてクリスは離脱し、転げ回りながら大剣を残った左手で取った。が、いちいち狙いを定めてくる猟銃に阻まれ、クリスは思うように前進出来ない。そうこうする内に、要蔵はゆっくりと顔をアルベリヒに向けた。

 その表情にはゾッとする。怒りも憎悪も何も無い。感情が消し飛んだその顔は、ただ殺戮を繰り返す戦闘人形を思わせた。一度身を引き、ありとあらゆる角度から、アルベリヒがククリナイフの斬撃を繰り出す。それらを刀で尽く受け止め、しかし突如要蔵は無防備な背中をアルベリヒに向けた。

 瞬く間の事だった。勢いの乗った回し蹴りがアルベリヒの脇腹を抉る。ミシミシと何かが砕ける音を聞く。気付いた時には、自分の体はとんでもなく遠い場所に叩きつけられていた。しばらく呼吸すら出来なくなったものの、その苦痛が速やかに治まる。どうやらエルダのお守りが力を貸してくれたらしい。

 それにしても要蔵は出鱈目に強い。騎士クリスとアルベリヒの同時攻勢を、相手はたった一人で凌ぐどころか上回ってみせたのだ。幾ら何でも、映画の方ではここまで人間の胆力を凌駕していない。これならば首無し騎士を相手にしていた時の方が、まだ勝負は成立していた。

(敵対する怪物の力が、日を追う毎に増しているという事か)

 よろめきつつも身を起こし、アルベリヒが冷静に考える。騎士クリスは仲間になった時点で、対戦した際の強さに踏み止まった。それ以降の要蔵はと言えば、また更に力を増してくるかもしれない。ここでケリをつけなければ事態が悪化する。そう思いながら、ふとアルベリヒが気付いた。

「まさか、力を増しているのは彼女自身なのか?」

 しかし踵を返した要蔵を認め、アルベリヒの頭が現実に立ち返った。その行く先には待機する仲間達が居る。脱兎の如く走るアルベリヒと共に、立ち直ったクリスも追走を開始。しかし要蔵はこちらに全く顔を向けず、後ろ手に猟銃を撃ってきた。咄嗟に伏せるアルベリヒの隣で、クリスがもんどり打って背中から転倒。今度は弾が鎧を貫いている。クリスは起き上がろうとするものの、蓄積した打撃があまりにも深い。そして要蔵は、遂に仲間達を捕捉した。

 ヴィルベートのシュネルフォイアーが火を噴く。それで行く手を阻まれる要蔵ではない。ヴィルベートは舌を打ち、申し合わせた通りに仲間をテントへと促した。

「対決を見りゃ、満足してくれると思ったんだけどさ!」

 当初の浮かれ加減は何処へやら、今はすっかり慌てふためくシルヴィアからは、事の原因たる姿を伺う事が出来ない。ヴィルベートは訝しく思ったものの、ともかく逃亡は手筈通りに進み、全員がテントへと退避する。当然のように要蔵は後を追い、刀を振りかざしてテントの中へと踏み込んできた。

 が、中には誰も居ない。テントは裏口が開いていて、その向こうでは先程の面々が、外からこちらを覗き込んでいる。更に踏み出そうとして、要蔵は足を止めた。床を見る。其処には複雑な紋様が描かれた敷布が広げられている。

「ソロモンの環だ」

 声と共に、要蔵のこめかみに拳銃の口が押し当てられる。発砲。反動で体を弾かれ、無形の壁に衝突し、要蔵はたまらず片膝を付いた。アルベリヒは銃口にフッと息を吹き、慎重にナイフを構えた。剣を杖代わりに向かってくる騎士クリスへ、片手を挙げて快哉の意を示す。これにて、戦局は一旦落ち着きを取り戻した。

 

「クリスさんの腕がくっつきました! 私やりましたよ、アルベリヒさん!」

「エルダ、肩口が若干ずれているように見えるのだが」

 エルダの治癒で腕を元に戻してもらい、騎士クリスは帰ってきた馬を引きながらテントへと歩んで来た。そしてアルベリヒの反対側に立ち、大剣を要蔵に向けたまま姿勢を固定する。こうして接近戦の猛者2人が囲む形になるのなら、これから畳み掛ける状況になってもおかしくない。が、彼らはその選択肢を取らなかった。このまま剣で斬り付け、とどめに悪魔祓いを執行したところで、この戦いに決着はつかない。それは騎士クリスとの一戦目でも実証されている。

 そういう訳で、ヴィルベートの出してきた案に一同は乗る事にした。要蔵の遺体の確保だ。

 悪霊は通例、自らの遺骸に執着している。これが人間の手に落ちる事は、悪霊にとってチェックメイトを意味する。塩を撒かれ火で燃やされれば、強制的に浄化されてしまうからだ。これを材料に、一同は要蔵に対して交渉を行なう腹積もりだった。上手くやればクリス同様、味方についてくれるかもしれない。首無し騎士とナショナル懐中電灯の鬼という、知る人ぞ知る悪夢のタッグが実現する訳だ。

 そしてヴィルベートが「めくるめく即身成仏の世界」の展示施設から戻ってきた。青白い顔の彼女の姿を認め、皆が首を傾げる。心なしか、手ぶらのように見えるのだが。

「皆さんに重要なお知らせ」

 俯いたまま、ヴィルベート曰く。

「要蔵の死体が消えています。多分、其処に居るのと展示されていた奴はおんなじ」

「と、言う事は?」

「打つ手無し」

 言い終えた途端、要蔵が刀を何も無い空間に突き刺した。そして下から上へ、何か固いものを切るように、ゆっくりと刀を動かしてゆく。切っているのは、恐らくソロモンの環の縛めだ。『護り屋』であるヴィルベートの力を持ってしても、要蔵の力を抑え込む事は出来ないらしい。皆の顔が青ざめた。

「祠を建ててお祭りするからさ、まあ落ち着いて」

「要蔵、日本酒はどうだ。一杯やろうじゃないか」

「懐中電灯を頭に巻くなんて、変わった余興ですね」

「………(お前も仕える身になってみろ。案外楽しいぞ)」

 等々口々に説得を試みるも、土台が狂っている要蔵には何一つ耳に入っていない。縛めが突破されるのは、最早時間の問題だ。アルベリヒと騎士クリスが仕方なく得物を構え直す。またも戦いが、もう一度最初から始まってしまう。

(何処かの時点で、退避を考えねばならんか)

 その手段を忙しく考えながら、アルベリヒは傍らの一升瓶が手に取られた事に気がついた。

 シルヴィアがコップになみなみと日本酒を注ぎ、それを一気に飲み干す。あまりにも突飛な行動に、一同は危機的状況を一時忘れて彼女を凝視した。

 そしてシルヴィアは今一度注ぎ直し、それを要蔵に差し出し、こう言った。

『まあ、一杯やろうじゃないの』

 その声は、声と言うより腹の底から響く振動音のようなものだった。対する要蔵は、その言葉で動作が止まり、体を硬直させた。ガタガタと大きく震え、そして何事も無かったかのようにコップを受け取り、日本酒を飲み干した。その様を満足げにシルヴィアは見る。

『その力、私に敵対する者に向けて振るってみない? きっと敵は強いわ。私と共に、世界の為に戦うのよ。この街には、私と肩を並べる2つの巨大な敵が居る。奴等には組織があるが、私には無い。もっと仲間を作らねば。対抗する為には更なる力を要する。その礎におなりなさい』

 ヴィルベートは狼狽した。シルヴィアは自分が言おうとした事を引き継いでいるものの、意図しなかった話もしている。2つの敵。その組織。と、袖口が引かれた。マリオとルイージが冷や汗を流しながら、後ろに控えている。

「おかしいよ。あれ、俺達の知っているマムじゃねえ」

「ヴィル姐さん、マムの瞳を御覧なせえ。ありゃ人のもんじゃござんせん」

 言われて初めて気がついた。シルヴィアは黒目と白目の境が無くなり、眼球全体が銀色に変色しつつある。

『要蔵に命令する。ヴィルベート・ツィーメルンに仕え、騎士クリストファーと共に良く働くがいい』

 要蔵は即座に刀を納め、ヴィルベートに向かって土下座し、額を地面に擦りつけた。その様を見下し、シルヴィアは呵呵と笑った。笑ったまま、飛ぶような速度でその場を走り去ってしまった。

 直後、ドシンと地面が揺れた。呆気に取られていた一同が、その音で我に立ち返る。そしてまたも地面の揺れ。まるで何か巨大なものが歩いているような。

 慌てて館外に飛び出した彼らが見たのは、屹立する異形の怪物であった。

 手の先から伸びる鋭い爪。耳元まで裂けた口。その隙間から覗く無数の牙。何を考えているのか分からない朴訥な瞳。全体的な造形は、出来損ないのミミズクと言っていいだろう。推定身長50mはありそうな所を除けば。

「そんな馬鹿な…。ありゃトトロじゃないか」

 そんな馬鹿なものが、本当に現れた。

 

「♪トットロー、トットーロー」

「まずい、エルダが現実を見ていない」

 巨大な怪物を見上げて体を前後に揺らすエルダを支えてやり、アルベリヒは切羽詰った顔でヴィルベートを見た。

「どうする!?」

 呆けていたヴィルベートもその声で我に返り、気を取り直して彼女に従う2体の下僕を指差した。

「あれを退治して!」

「(無理無理)」

「(無理無理無理)」

 クリスと要蔵が揃って掌を横に振った。ヴィルベートも何をどうして良いのか思いつかないらしい。アルベリヒは脱力しそうになる膝を踏ん張り、困り果てた顔でトトロ状の化け物を睨んだ。いい加減、目撃者も出始めているだろう。騒動になるのはもう間違いない。しかし一番恐ろしいのは、このまま市街に出てしまう事だった。そうなれば大災害だ。

「あの、アルベリヒさん」

 エルダの上ずった声が聞こえ、アルベリヒは思わず肩を跳ね上げた。その声には只事ではない雰囲気がありありと含まれていたからだ。

「私の杖の先から、その、何て言うか、ブラシが出て来たんですけど…」

 そう言って彼女が見せてきたのは、何処からどう見てもホウキそのものだ。2人は揃って嫌な予感を憶えるが、それはけだし大当たりであった。

 ほとんど引っ手繰るようにして、ホウキが己の身にエルダを跨らせ、ふわりと宙に浮いた。

「わっ」

 とエルダが驚くと同時に、ホウキは垂直に上昇を開始。これで悲鳴を上げねば嘘である。

「おお、エルダ、ドップラー効果と共に」

 ここに至って、ようやくアルベリヒはホームパーティの一件を思い出した。件の怪獣はビデオで見た代物だし、エルダは見事魔法少女へとステップアップした訳だ。これら全てが、シルヴィアの仕業なのだ。ここまでタガが外れていると、最早どうやって対処すればいいのか検討もつかない。

 エルダは空高く舞い上がってしまった。ホウキに跨って自由闊達に飛び回る姿はとてもファンシーだが、当のエルダが気絶していないかどうか心配だ。それにしても、どうも目に映る景色がおかしい。色素が抜け落ちて白黒に近いような気がする。

「…アルベリヒ」

 声を掛けられ、アルベリヒはヴィルベートを『見上げた』。不思議に思う。確か自分は、彼女よりも一回り背が高かったはずなのだが。

「あんた、意外に可愛い姿をしているのね」

「いきなり何を馬鹿な事を」

 言いながら、アルベリヒは己が目を擦った。そして掌を見詰める。肉球がちょこんと埋まり、黒い毛に覆われた細くしなやかな自分の手を。

「猫か俺は!?」

「猫だよ。黒猫。多分、正確にはエルダの使い魔」

 と、そこに強烈なハロゲンビームが照射された。慌しいエンジン音と共に、一台の車が猛スピードでこちらに向かっている。その車には見覚えがあった。ガレッサの社用車だ。乗っているのは恐らく、ルカ・スカリエッティ。危急に気付いて駆けつけてくれたのだろう。この状況にあって人手はあった方がありがたい。頼もしい思いを2人はルカに抱き、しかし急停車した車から彼が降りる姿を認め、思った。『駄目だ』と。

「こんばんは、悪魔人間です。すみませんが、助けて下さい」

「出来ません」

 ルカはルカで、某漫画の主人公、アモンのような姿になっていた。凶暴な目に獣の爪と牙、そして忌まわしいコウモリの羽。しかし中身は常識人のルカ。とは言え、漫画の設定通りならばデーモンの中でもアモンは最強クラスだ。もしかすると、大トトロをどうにか出来るのは彼かもしれない。しかしそう言われると、ルカはあっさりと否定した。

「無理ですよ。だって、単に姿形がこうなっただけで、私は相も変わらずルカなんですから。でも、一つだけ異能力を授かりました」

「どんな?」

「この姿になると、聴覚が破壊的に増すみたいです。正にデビルイヤーは地獄耳」

「使えねえ」

「いや、そうでもないです。見つけました。社長はあちらにいます!」

 言って、ルカは科学アカデミーの屋上に佇む人影を指差した。この事態を収拾するには、シルヴィアをどうにかするしかない。一同は脱兎の如く、科学アカデミーへと駆け戻って行った。

 

 これで荒井由美の「ルージュの伝言」がバックグラウンドに流れていれば爽快な空中散歩だったかもしれないが、直下には歩行を再開した大トトロが居る。ほとんど気を失いかけていたエルダではあったが、間近に眺める街の灯と大トトロを見比べ、強引に意識を覚醒させた。これを街の方に行かせてはならない。初めて乗るホウキではあったが、エルダは思い通りに大トトロの面前へと回り込むことに成功した。そしてあらん限りの声で叫ぶ。

「お願い、止まって!」

 言葉の意味が分からないのか、分かっていてもその気が無いのか、大トトロが動作を止める気配は全く無かった。気ばかり焦る状況だが、それでもエルダは身を翻し、科学アカデミーへとホウキを飛ばした。この場を収められるのはシルヴィアだけだと考えたからだ。

 そして程なく、エルダはシルヴィアを発見する。彼女はアカデミーの屋上で、歩み去る巨大な怪物の背中を眺めている風だった。ホウキを寄せて彼女に接近し、エルダはゾッとした。銀色の目は酷薄そのもので、口元の笑みも実に虚ろなのだ。こんな顔の彼女は見た事が無い。それでもエルダは勇気を振り絞り、切々と彼女に語りかけた。

「もういいんですよ、シルヴィアさん。あなたには人を幸せにする力があると思います。でも、これは違うんです」

『違う?』

 シルヴィアは顔を傾け、エルダに応えた。

『だって、面白いじゃない、あれ』

「…あれがこれから進む先には人家があって、踏み抜かれる家には家族が暮らしています。この力で人は幸せになりません。あなたが持つ力とは、明るさとか前向きとか、優しさとか、心そのものなんですよ。今は、ただ自分が面白ければいいと考えていますね? 本当のシルヴィアさんは、決してそうではありません!」

『本当の私?』

 ほとんど能面だったシルヴィアの表情が、僅かに戸惑いの色を見せた。が、即座に鬼のような形相へと変貌する。

『やめなさい!』

 怒声と同時に、大トトロの姿が消失した。直後にシルヴィアも膝から崩れ落ちる。慌ててエルダが彼女の身を抱えると、ようやく仲間達も屋上へと駆けつけてくれた。

「どうしたんだ!?」

「分かりません。いきなりシルヴィアさん、倒れてしまって…え? 猫?」

 猫のアルベリヒと魔法少女エルダの遣り取りが、どういうものになるかは検討がつく。悪魔人間のルカはそれをさて置き、注意深く周囲を観察した。こうして大トトロが消えてシルヴィアが昏睡したのには、当然理由があるはずだ。力を使い果たしたか、或いは外的要因があったのか。そしてルカは、発達した聴覚で小さな声を聞き取った。

 多分2日くらいで、目を覚ますよ。

 声のした方向へと走り寄り、ルカは地上を凝視した。公園の林の中に、こちらを見上げる少年が居る。年の頃は10歳くらい。何処からどう見ても普通の子供だったが、普通の子供がかような深夜の公園で、林の中に佇んではいまい。

 気がつけば、少年の姿は見えなくなっていた。先の大トトロの如く、視界から消されてしまったかのように。

 

ガレッサBld:二日後

 前日はサンフランシスコでかなりの地震があった。

 この街はかつて大震災に見舞われた事があり、年配の市民には往年の恐怖を抱かせたものだが、幸いこの地震での人的被害は数人程度の軽症で済んだ。しかし幾つか崩れた建物があり、総合建築業のガレッサとしては腕を捲くる状況である。

 しかし肝心の社長はと言えば、実は未だ大いびきをかいて眠ったままだ。それに経理課のルカも、こんな時期に有給を取っている。尤も彼の場合は、取らねばならぬ理由があるのだが。

「…各地域の被害報告。ミッション・ドロレスの旧教会に修理が必要。高速道路が補修のため、あと2日通行止め。ピア39の桟橋に被害。観光船の運行、修理が完了するまで無期限停止か…これは痛いな」

 本社ビルの裏手の隙間に身を潜めながら、ルカは新聞をじっくりと眺めていた。相も変わらず、姿は悪魔人間のままだった。こんな格好で出社出来るはずもない。

 と、鋭敏な聴覚が走ってくる猫の気配を聞き取った。角から躍り出てきたのは黒猫だ。正確には使い魔アルベリヒ。

「ルカ、助けてくれ!」

 言って、アルベリヒがルカの肩に飛び乗った。その後に続くように猫達が何匹も現れ、ニャアニャアと哀切極まる鳴き声でアルベリヒに呼び掛けてくる。

「おや、ガレッサの飼い猫ではないですか。確か設計士のイゾッタが世話していましたかね?」

「あの地震以来、妙に頼られているんだ。猫は嫌いではないが、無尽蔵の体力に付き合うのは些か辛い」

 こうして姿が元に戻らないまま二日目となった。さすがに心労がたたりそうな状況である。これをどうにかしてくれそうな存在と言えばシルヴィアだが、彼女も健やかに爆睡中だ。

(…いや。もう1人、居るかもしれない)

 ルカは2日前の少年の顔を思い出した。暴走状態に入ったシルヴィアを食い止めたのは、状況から察するに彼である可能性が高い。今一度自分達の前に現れてはくれないだろうか…。

 と、思った瞬間、ルカの獣の腕がスーツの袖を通す我が身に戻った。同時に肩の重みで地面に押し付けられる。アルベリヒも猫から人間となったのだから、それは当然の結果である。猫達が驚き、「ミャッ!?」と唱和する。

「痛てて」

「あ、すまん。しかしやったぞ、元に戻れた。いきなり何故なんだ?」

「分かりません。でも、もしかしたらあの子が間近に居るのかもしれません」

 砂を払って立ち上がり、ルカとアルベリヒが表に出る。そして2人は、彼を見た。ポケットに手を突っ込み、じっとこちらを眺めている少年を。

「一応元に戻したけど、自分がなろうと思えば、またなるから」

 少年は言った。

「それから、あの女の人だけど。これ以上、無闇に力を発揮させないようにした方がいいよ。必ず不幸になるもの。僕みたいに」

 そのまま立ち去ろうとする少年を、ルカは我に返って呼び止めた。

「待って下さい。君は、誰です?」

「あの女の人と同じものだよ。しばらくこの街に居て、あの人を抑え込んであげる。でも、何れ彼女が力を上回るよ。それに出来れば長居したくないんだ。この街、悪魔臭いからさ」

 そしてあの時と同じように、少年は視界から消失した。

 

「起床ーっ!」

 と叫んでシルヴィアは飛び起きた。相も変らぬ唐突さである。つきっきりで看病していたエルダは、いきなりの事に目を丸くしたものの、ワッと声を上げてシルヴィアに縋り付いた。

「良かった、本当に良かったです」

「え? え? これは何? 何ドッキリ? TVカメラは何処?」

「あんた、何にも覚えてなさそうだね」

 付き添っていたヴィルベートが、呆れた調子で物を言う。と、一緒に来ていた専務のマルセロが、こちらに背を向けて窓辺に立っている事に気がついた。シルヴィアがようやく目を覚ましたのに、随分情の薄い反応ではないか。そう思ってマルセロに気を向けると、彼が何某かを小さく呟いたのが聞き取れた。確かにマルセロは、このように言っていた。

「予想外の異端分子か。排除せねば」

 

 

<H3-3:終>

 

 

○登場PC

・アルベリヒ・コルベ : ポイントゲッター

 PL名 : なび様

・ヴィルベート・ツィーメルン : ガーディアン

 PL名 : 森林狸様

・エルダ・リンデンバウム : ガーディアン

 PL名 : appleman様

・ルカ・スカリエッティ : マフィア(ガレッサ)

 

 

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ルシファ・ライジング H3-2【ガレッサ・ファミリーと多治見要蔵】