ワルキュリュル 大詰め

 ドラゴとエーリエルの傍には、何時しか彼女らが付いていた。ヴァルキリー。ワルキューレ。彼女らは自身をワルキュリュルと呼称している。ルシファ一党と激戦を繰り広げ、滅び去ったアース神族の生き残りだ。

 彼女らの物語は広く人々の間に伝わっている。よって神としてのヴァルキリーの性向は相当に人間寄りで、極めて友好的である。そういう彼女らと2人のハンターは、互いが親しく接しつつ敬意を払い合うという、理想的な神と人の関わり合いを保ち続けていた。

 その交流が結実したのが、今だ。人は神の力を、神は人の力を得、表すその姿はヴァルキリーとハンターの、言わば合作であった。

 

 エーリエルとドラゴの体に、あたかもレゴブロックが当てはめられるかのような様が見えた。物理的な存在感を伴う訳ではないが、それはヴァルキリーによる武装を意味している。彼女らの本来の姿を、2人の姿を借りて表現する。つまり、神と人の同調を許される範囲まで高める所行である。そして2人は銀色に輝く戦鎧に身を固め、天使ガリンシャの前にその威容を現した。

(と言ってもこの鎧、フォログラフィー的なハリボテなのよねー)

 気合の高まる戦場を迎えながら、それでもエーリエルの傍に居るブリュンヒルデはほどほどに脱力する台詞を口にした。普段通りのコンディションを維持する為の配慮である事は分かっていたので、エーリエルは苦笑しつつも心の中で感謝した。

(それでも肉体は補強されました。神格も付与されています。これらは長く持ちません。とっとと終らせて、何か美味しいものでも食べましょう)

「終った後に昏倒するのが確定なのに、ですか?」

 澄ましたアルヴィトの言葉にドラゴも軽口で返す。これが彼らの、何時も通りのやり取りなのだ。そうやって彼らは、苦境にあっても戦いを継続してきた。たとえガリンシャという、一切の傲慢と隙を見せない新造天使が相手であっても、

それは同じ事である。

 ガリンシャが短剣を抜き、騎士のように眼前に立てた。応じてエーリエルも剣を立て、ドラゴは腰溜めに散弾銃を構える。

「それが君達の切り札なのだな?」

 ガリンシャの感嘆の言葉に、エーリエルも相応に敬意を込めた言葉で返した。

「色々策を立ててきたけれど、多分貴方に細工は通用しない。だから最強のカードを切らせて頂くわ」

「それでは始めましょうか。天使ガリンシャ殿」

 最後の対天使戦はドラゴによる短い挨拶によって、火蓋が切って落とされた。

 

 天使は人心を操作するのが上手い。上手いというよりは、常套手段ですらある。しかしながらガリンシャは、2人の強大な手合いに対し、精神攻撃を選択肢から除外した。今の彼らに通用し辛い事もあるが、それ以上に純粋な『格』を競り合う戦いを望んだからだ。言葉にすればシンプルである。果たして、より強いのは何れか。

 ガリンシャの攻撃は圧倒的な数量の短剣を、その切っ先を2人に向けてぐるりと取り囲むところから始まった。

 一斉に短剣が襲い掛かり、応じてドラゴが『盾』を半球状に展開。短剣が尽く吸い込まれるように消滅する。すさかすドラゴが反撃の散弾銃を発砲。避ける。発砲。避ける。また発砲。今度は跳躍。

 2人の直上にガリンシャが勢いをつけて落下。短剣を『盾』に捻じ込み、瞬時に破壊。着地。突っ込んで来たエーリエルの剣を短剣で弾き返す。ガリンシャの左腕がドラゴに向けられ、掌からPKが砲弾のように撃ち出される。常人が貰えば一撃で木っ端微塵だが、ドラゴは半回転して地面に激突するのみで異能攻撃を耐え切った。綺麗に設えた花壇を粉砕しつつ、ドラゴの体が軽く10mの地面を抉る。彼に注意を払いながら、ガリンシャは縦から振り下ろされた剣を短剣の根元で受け止めた。磁力が反発するかの如くエーリエルとガリンシャが距離を置く。其処からエーリエルの斬り込みが始まった。

 エーリエルの体格に比すれば長大な剣が、変幻自在の軌道でもってガリンシャに襲い掛かる。頭。胴。小手。膝。何れも一撃で屠るという意図の篭った斬撃を、ガリンシャは短剣持つ片手で的確に対応して一振りすら掠らせもしない。ヴァルキリーとの同調をもってしても身体能力は天使の方が上だった。が、それは手を合わせる前に承知している。ガリンシャの空いた左手が軽く握られる様を瞬時に判断し、エーリエルは『槍』を肩口に出現させた。ガリンシャが目を剥く。

 ガリンシャの『砲弾』とエーリエルの『槍』が衝突。無形のエネルギーが膨張して炸裂。エーリエルの体が紙切れのように吹き飛んだ。ガリンシャもまた爆風を浴び、両足で地面を削りながら両手を交差して下がる。が、背中に二つ目の『槍』が撃ち込まれ、呻きと共にガリンシャの膝が折れた。立ち直ったドラゴが仕掛けてくる事を忘却した己にガリンシャは失望した。次いでエーリエルも後転して剣を構え直している。彼女もまた『盾』を使っていた。

 即座に互いの背中を守り合うハンター達の挙動を見据え、ガリンシャは彼らの範囲内に必要以上の接近を行なうは愚挙と断じた。片足で地面を軽く蹴る。それだけで彼の体が5mほど宙に浮く。重力を無視して、彼の体が遥か後方へと退却。ドラゴとエーリエルの体が深く沈み、猫科肉食獣のスタートを切った。

 猛ダッシュで追い縋られる展開はガリンシャにとって予想の範囲内だった。ガリンシャが眼下の邸宅群に気をやる。人気無し。2人の接近の頃合を見計らいながら指で複雑な紋様を描く。そして人差し指を真下に振り下ろす。ガリンシャの体が更に上昇すると同時に巨大な球体が出現した。それは瞬く間に拳大のサイズに縮小し、代わって膨張したのは衝撃波だった。

 衝撃波が球体面積下半分の地面を家屋ごと抉り取る。立て続けて上半分に粉塵混じりの爆風が拡散。極大の風速が破壊の範囲を拡大。熱量を伴わない異様な爆発は地すべりのように爆風を広げ続ける。収まる頃には膨大な粉塵と、巨大なクレーターのようなものが残った。ガリンシャの視界にあるのはそれのみだった。しかしガリンシャは、これで勝ったなどとは思わなかった。

 粉塵煙の分厚い壁をエーリエルが破る。その体はガリンシャ同様に空のものである。

「『飛翔』という奴か」

 呻くガリンシャの胸元にエーリエルの体ごと剣がぶつかってきた。右肺から背中へと剣身が貫く。溢れた血が喉元から口内へ逆流して吐き出される。更にエーリエルの左腕が不自然に引いていた。腕には鎧とは異なる無骨な篭手。それが何なのかをガリンシャは知っていた。ラッセルとマルカムがどのように死んだかも彼は把握していたのだ。最接近して拳を捻じ込み、大量の散弾を発射する恐るべき代物。

 ブラスター・ナックルが脇腹に叩き込まれる。散弾への点火。エーリエルの左腕をナイフで肩口から切り落とすも、射出された散弾がガリンシャの腹を横から食い破って体を上下に捌く。

 エーリエルが失った左腕を求めて右手を空にやりながら、激痛で顔を歪めて自由落下する。瞬く間に体を溶着させたガリンシャがとどめの一撃を狙ってエーリエルを指差す。

 しかし輝く棒状のものが真正面から打ち立てられ、ガリンシャは身を捩って仰け反った。咆哮を上げて『槍』を打消し、ガリンシャが気付く。もう1人のドラゴが自身の認識外であったと。それは天使の認識すら欺く特殊な術式か何かだ。ドラゴが目前に迫る。散弾銃の構えと共に。ガリンシャは正面から放たれた散弾を冷静に避けた。次の瞬間にドラゴの右を取る。そして彼の右腕に掌を当てる。思惑を察してドラゴが退避。それは早かったが遅くもあった。右腕の肘から先が綺麗に消滅した事を知り、ドラゴは痛覚を思考から切り離した。片膝をついて不自由な身を起こすエーリエルの傍に降着。距離を取って同じく着地したガリンシャを認め、2人はバランスを失って傾ぐ体を無理やり立たせた。

 ガリンシャの体に揺らぎを2人は見る。何らかの極大攻撃の予兆を察し、ドラゴは盾を前面に立てた。

「攻撃を」

 ドラゴの言葉にエーリエルが頷く。直後、ガリンシャ自身が火球と化し、瞬く間に炎の壁が形成された。壁は範囲を広げながら2人の元に迫り、吹き荒れる業火となって呑み込んで行く。

 その様を見届け、ガリンシャはこの攻撃も向こうは必死に耐えているだろうと予想した。これを防ぐ為に手一杯になっていると。その炎を突如終息させ、虚を突いて一気に距離を詰める。今の彼らは共に片腕を失い、接近戦闘能力を格段に落としているはずだ。それをもって終らせ、一連の襲撃に決着をつける。かようなガリンシャの想定は、弧を描いて真横から突っ込んで来た『槍』の衝突で破算となった。

 ガリンシャが両膝をつく。両掌もつく。あまりにも攻撃を受け過ぎて意識が朦朧とし、それでもガリンシャは気を振り絞って言った。

「見事だ」

 とどめの『槍』が胸を撃ち抜く。目と鼻と口から光を放出しながら、ガリンシャは仰向けに倒れた。地面に壮大な両翼を打刻し、彼は死んだ。

 ドラゴとエーリエルは、2人で3体の天使を葬るという大仕事を成し遂げた。しかし払った代償は大きい。2人は互いの傷口に「治癒」を与えるも、損なわれた血液の多さは致命寸前である。

 それでも彼らは漠然とする思考の中で、ヴァルキリーの姿を見た。然程背格好も人間と変わらない彼女らは、確かに親しみを覚える姿形であった。その面立ちも見えているはずだが、どうしても具体的な顔の造形を認識する事が出来ない。ただ、口が開いて言葉を発するのは分かった。

『よく戦ったわ、私達が心から愛する戦士達。翻って私達には、苦難に報いる用意がある』

『これを差し上げましょう。助けになるはずです』

 ふと気が付くと、2人のヴァルキリーも各々片腕が無い事に気付く。

『寿命を全うし、幸せに息を引き取ったら返して貰うわ』

『大事にお使い下さい。それでは、また後で』

 不意を打たれ、ドラゴとエーリエルが正気付く。ドラゴは頭を振って、右手の指で目元を揉み解し、ギョッとした目を向けた。ガリンシャに破砕されたはずの右腕が其処にある。

「エーリエル」

 魂を抜かれたような声で、ドラゴはエーリエルに呼び掛けた。彼女もまた、切り落とされた左腕が再生している。エーリエルはドラゴの声に反応し、顔を上げた。それが今まで見た事のないような呆けた顔だったので、ドラゴは思わず吹き出してしまった。

 

アンチ・クライスト 天使バルタザール 大詰め

 シルヴィアを中心軸とする一連の騒動は、分裂した彼女の人格が一つになった今、決着を迎える事となった。彼女はハンター達との交流を通じ、サマエルの支配下にある重要な駒の一つという立場を打破したのだ。それはアンチ・クライストとして、一段階ステップアップした存在になった事を意味している。

 しかしながら、今しばらく戦いは続く。サマエルの君臨と統治が続行する状況にあっては、この街全ての人間が真の自由を得る事は不可能なのだ。シルヴィアはその意味するところを理解し、力有る者としての義務を果たすべく、戦うという選択肢を決意した。アルベリヒとビアンキ専務の奪還は、その先で始まる真の戦いに向けての第一歩である。

 

 アルベリヒ達が居る世界と『こちら側』を阻む扉を切り裂き、彼らを正常な空間の住人に戻す作業は、仕掛けた者がサマエルだけに、シルヴィアにとっては大仕事となった。中空に生じた漆黒の亀裂に両手を突っ込み、引き裂こうとするその間にも、目と鼻と口、耳から血が溢れ出す凄惨な姿をシルヴィアは晒している。それでも彼女の笑顔はひまわりのようだった。彼女は笑顔を仲間達に向け、確かな力を伴う言葉を口にした。

「エルダ。私を手伝ってくれる?」

「手伝うって、一体どうやって!?」

 そう言いながらも、エルダはシルヴィアの袂に走り寄り、見よう見まねで亀裂を引き裂こうと手を差し込んだ。手首から先が消え失せたような、不確実な感覚にエルダが怖気を覚える。空間の亀裂は物理的に認識出来る代物ではないはずなのに、腕を動かす事はびた一文叶わない。

「一体どうすれば」

 繰り返すエルダに、シルヴィアは言った。

「あなたの好きな人は遠くもあり、それでも直ぐ其処に居るのよ。だから彼に強く呼び掛けて。そうすれば、彼はあなたの事に気付く。結界を破るには、ここと向こう側を隔てる意味を希薄にする必要がある。縁でここと向こう側を繋ぐという事よ。それを糸口として、私は扉を開く。さあ、願って、エルダ!」

 シルヴィアの言う事はひどく抽象的だったが、求めてきた役回りはとてもシンプルでもあった。エルダは目を閉じて眉間に皺寄せ、強く念を込めた。

「しかし、シルヴィア」

 ぐったりとするエイクを抱いたままシュネルフォイアーを撃ち続け、彼女に呼び掛けるヴィルベートの声は半ば悲鳴だ。こうしている間にもフレンドは押し返されては寄せて、を延々繰り返してくる。エルダが抜けて、防御は更に緩む事となった。

「要蔵とクリス、それにブラザーズ。みんな必死に防いじゃいるが、もう限界に近い!」

「大丈夫。ほら来てくれた」

 シルヴィアの言葉が終わるタイミングときっかり同じに、ルカとガレッサ夫妻が背後からフレンドを蹴散らして雪崩れ込んで来た。これにて形勢は再度逆転する。ルカはあらん限りの声でシルヴィアに呼び掛けた。

「こちらの方はお任せ下さい! きっちり仕事を終えられるまで、屋台骨は支えますから!」

「何時もと同じね」

「そういう事です」

「頼りにしているわ…パパ、ママ」

 シルヴィアから向けられた目にエンリクとヴァイラも気付いてはいたが、今は娘の大仕事を守る為の戦いに没頭し、2人が彼女に応える事は無い。それでもシルヴィアは構わず続けた。

「私の心の中に、ずっと居てくれてありがとう。私の人格が分裂したその時に、私を助ける為に2人が出て来てくれた事、気付けなくてごめんなさい。生まれた時から、私をずっと守ってくれてありがとう」

 エンリクとヴァイラは、シルヴィアの切々とした吐露を一言一句余さず受け止め、顔を見合せて笑った。

『ヴィルベート』

 エイクがヴィルベートの頬に力なく掌を当て、心で声を発してきた。ヴィルベートが反射的に強く手を握り返す。

『そのまま手を握っていて』

「それだけでいいのかい」

『それだけでいい。僕が僕の存在を強く認識出来るように。でなければ力を出せない。あともう一息だ』

「エルダ!」

 シルヴィアの叫びを受け、エルダが目を見開いた。そして言う。

「アルベリヒさん」

 

「俺にも聞こえたぞ!」

 押し込まれた短剣を跳ね除け、アルベリヒはビアンキと、すぐ其処に来ている仲間達に向けて吼え声を上げた。

「突破したか」

 淡々と、何処か嬉しそうにビアンキが呟く。しかし切り掛かる攻撃の手は、サマエルの支配が続行する中では一切緩まない。既にアルベリヒの持久力も限界を越えていたが、それでも彼は力を振り絞って、縦横無尽に切り裂いてくる白刃を避けた。

「恐れ入ったよ」

 一旦短剣を引き、ビアンキは態勢を立て直した。それはアルベリヒにも猶予を与える配慮である。

「君もそうだが、彼らも彼らだ。相手は、あの御主なのだぞ? 君達はあの御方に、どうやら勝つつもりでいるらしい」

「何を今更。勝てない戦いを続けた覚えは無い。俺達は戦い勝つんだ。人と人との繋がり一つを武器にして」

 アルベリヒが地を蹴り、ビアンキも滑るように距離を詰める。突出してきた短剣を寸前でかわし、半回転の勢いを乗せたアルベリヒの肘がビアンキの脇に入る。フッ、と呻くビアンキの視界に、持ち上げられたアルベリヒの爪先が映る。側頭目掛けて放たれたハイキックをかろうじてガードしたものの、ビアンキの体はアルベリヒの脚力でもって勢い良く床に叩きつけられた。これにて、千載一遇の貴重な間をアルベリヒは得られた。

「何処に居る!?」

 片膝を立て、起き上がろうとするビアンキを横目で注視しつつ、アルベリヒは再度呼び掛けた。返事は無い。しかし部屋の片隅に、ホログラフのように浮かび上がる人の手首をアルベリヒは見た。何かを求めるように開き、握られるその掌目掛けてアルベリヒが疾る。立ち直ったビアンキも追い縋るが、アルベリヒの方が明らかに速い。戦士の反射で防御の構えをビアンキに向け、アルベリヒは空いた片手で掌を掴んだ。そして至極間近から声が迸った。

『あった、確実なものが!』

「俺はここに居るぞ、エルダ!」

 途端、自分の立ち位置が揺さぶられる感覚に囚われる。それも一瞬の事であり、気が付けばアルベリヒはエルダの手を握り締めたまま、元の空間への帰還を果たしていた。

 ここまで驚くかという顔で、エルダは呆然と立ち尽くしている。自分もまた同じような顔をしているのだろうと、アルベリヒは未だ切迫する状況を忘れてぼんやりと思った。しかし2人は、発せられたシルヴィアの声で我に立ち返った。

「専務、動かないで」

 何時の間にかアルベリヒを刺殺出来る位置まで詰めていたビアンキが、シルヴィアの一言で固められたように動作を停止した。シルヴィアが更に続ける。

「あなた達も」

 同じくフレンド達も一切動けなくなり、尽く床に転がって行く。シルヴィアは大きく息をつき、虫の息のエイクの袂にしゃがみ込んで、彼の額に掌を当てた。

「ぎりぎりのところまで粘ってくれて、ありがとう。助かったわ」

「どういたしまして」

 むくりと身を起こしたエイクを見、ヴィルベートが仰天した。

「何の脈絡も無く復活!?」

「アンチ・クライストだからね、彼女は。この位は朝飯前」

「私の涙を返せ」

「いいものを見せて頂きました」

 2人は笑い合って、しかし疲労困憊の体も露に互いの身を寄せ合った。それを皮切りに、その場の全員がバタバタと床に崩れ落ちて行く。アルベリヒはエルダをぎこちなく抱き寄せ、しかし2人も例に漏れずしゃがみ込んでしまった。

「君の声が聞こえたよ。だから俺はここに居られるんだ」

「私も聞こえました。2人で呼び合う事が出来たから」

「エルダ」

「はい」

「それにしても、ブラザーズとか要蔵・クリスも疲れ果てて寝転がっているのだな。この世ならざる者なのに。あ、サダコとジェイソンもだ」

「容赦なくフラグへし折りましたね、アルベリヒさん」

 2人の様を見、ルカは苦笑しつつ身を起こした。そして動作をシルヴィアに封じられたビアンキの元へと歩を進める。彼の傍に立ち、ルカは何時も通りに頭を下げた。

「お疲れ様でした」

「この場にあっては面白い挨拶だな」

「皮肉ではなく、心からですよ。よくぞサマエルの束縛を耐え凌いでくれました。専務の努力もまた、この結果の一助になったはずです」

「私は未だ束縛されている。しかしその言葉、今はありがたく頂戴しよう」

 ビアンキは少々悲しげに言った。そしてシルヴィアを見据える。彼女も同じくビアンキを見返していたが、先ほどから一言も発していない。

「集中を切らさない為だ」

 独り言のようにビアンキは言った。

「彼女は独立した。御主の力が支配する本部の中で、アンチ・クライストとしての力量を発揮出来る事が、その事実を雄弁に物語っている」

「ただ、彼女は苦心をされていると?」

「そうだ。御主の力に対抗しながら、フレンドはおろか私をも抑え込むという離れ業を見せているからね。随分辛い事であろう。お陰で、僅かながら隙が生じた」

 その言葉を聞き、シルヴィアはハタと顔を上げた。愕然の表情も露に。

「しまった」

 アルベリヒの懐から一本の短剣がひとりでに飛び出す。天使殺しの短剣、エンジェル・ダスターは、切っ先をビアンキに向けて一直線に飛翔し、彼の胸に突き立った。

「何だと!」

「専務!?」

 意表を突かれたアルベリヒとルカが一斉に驚きの声を上げ、その唱和を微笑ましいものと感じたのか、ビアンキは笑った。

「これで私も『サマエル』から解放されたよ」

 彼の口から、光が漏れ始めた。

 

サンフランシスコ市民戦争

 ジェイズ・ゲストハウス攻防戦における斉藤の働きは献身的だ。彼はこの作戦行動の全てに関わっていた。

 作戦における実質的指揮者であり、ハンターではない多くの者が参加するに際し、バックアップを徹底的に心掛け、その気配りは敵であるはずのフレンドにも回されていた。彼らはサマエルに支配されている人間である、との認識の元で、極力フレンドが自爆に至らぬように斉藤は最善を尽くしてきた。

 しかし、遂にスーサイドアタックが実行されてしまった。これをもって斉藤はバックアップの役回りを捨て、フレンドの只中への突入を選択した。少しでも彼らの行動が遅延するように。それもまたフレンドの為であるのだが、彼の心を慮る頭が、今のフレンド達には無い。

 

 左手からどす黒い球体が浮かび、消失する。跡地には何も無い。あるのは散らばった肉だ。その場で囚われていたはずの何人かのフレンドは、木っ端微塵の肉片となって路面に散乱するという結末を迎えた。

「三度目」

 小さく呟き、斉藤は走った。突撃銃でフレンド達を撃ち倒し、縦横無尽にイエローゾーンを駆け巡り、何時終るとも知れない遊撃戦を、それでも彼は継続する。

 防御用のオバケ屋敷は、既に3つが自爆攻撃によって破壊されていた。複数のフレンドを巻き込むという乱雑な手段を、彼らは躊躇無く実行している。戦力を無駄駒扱いにする愚かな戦法だが、敵は数に任せて着実にゲストハウスに接近していた。加えてその情け容赦の無さは、防衛側、特に市警の面々に恐怖を覚えさせるに十分である。色々な意味でそうはもたないと、斉藤は理解していた。

 自身の目の前で、フレンド達が無数の菱に襲われ、足止めを食う。斉藤による、自律反応型巻き菱だ。この世ならざる者達の接近を察知し、浮遊して自ら敵に突き刺さる。ダメージは微々たるものだが、何しろ数が多い。敵を足止めするには十分使える。そうして突き刺さってくる菱への対処に狼狽するフレンドを、自身や市警からの射撃によって昏倒させる。この戦い方で、既にレッドゾーンに到達されてもおかしくなかった状況を、斉藤は辛うじて防ぐ事が出来ていた。

 逃げ屋の力量を活かし、斉藤が建物の隙間に滑り込んで身を潜める。弾層の交換をする傍ら、斉藤はボニー&クライドの状況をMEWSで確認した。尤も、ここからでもゲタゲタと笑う声が聞こえるからには、今のところ戦場で維持は出来ているらしい。キュー謹製のこの世ならざる者は、マシンガンを手に縦横無尽の暴れ様であるが、彼らもフレンドを根本的に殺せる存在ではない。むしろ着々とフレンドによる異能攻撃を受け続け、打撃が蓄積しているはずだ。そう考えると、先の笑い声も若干やけになった印象を覚えるから不思議だ。

 と、斉藤は反射的に仕込みのスイッチを押した。またオバケ屋敷の1つで指向性地雷が炸裂する。これでまた時間を稼げるだろうが、状況はいよいよ手数が限られる展開を迎えている。斉藤は準備を終え、再び通りに躍り出た。市警の狙撃。うろつきながらも狙いを定めて行動するフレンド。PKで吹き飛ばされるボニー。そんな事はお構いなしに機関銃を撃ちまくるクライド。

「それでも恋人かお前は」

 斉藤は巻き菱をばら撒いてその場を離脱した。自分に気付いて追いかけてきたフレンドが、案の定引っかかる。彼らへの狙撃は市警に任せ、斉藤は更に転進を試みようとした。が、ふと違和感にかられる。

 本当に僅かながら、フレンドからの圧迫が緩んでいるのだ。錯覚かとも思ったが、斉藤は横合いから飛び出してきたものを見て考えを改めた。

 T字路の向こうから、ナタリアがフレンドともつれ合いつつ、共に路面へと倒れ込んで来た。そしてフレンドの額を掌で掴む。ただそれだけでフレンドの目と口から光が迸り、ひくりとも動かなくなった。

「ナタリア!」

 何が起こったのか皆目理解出来ない顔で、フレンドを引き摺るナタリアを斉藤が手伝う。すぐ傍に彼女が臨時で作ったらしいオバケ屋敷が、路上に不自然な形で聳えていた。気絶したフレンドを、その中に収容するつもりらしい。道すがら斉藤がナタリアに問う。

「一体、このフレンドに何をやった」

「こいつはフレンドじゃない。ただの人間さ」

 ナタリアは高揚する声で斉藤に返した。

「私には二つ異能がある。天使とか悪魔に取り憑かれた連中の、人間の方を表に引き摺り出せる。その隙にさっきみたく、憑依したものをデリートする事が出来る。戦っている内に気付いたよ。そうやって悪魔の部隊は壊滅させてやった。尤も対象は1人に限定されるけどね」

「何だと」

 勢い良く元フレンドを屋敷に放り込み、早口で捲くし立てるナタリアに、斉藤は驚嘆した。更にナタリアが続ける。

「もう何人か元に戻したよ。彼らの回収は例の三人組がしてくれている。事前にあつらえた避難用の屋敷を使ってね。さあ、もう一仕事しないと」

 アグレッシヴに通りへ向かったナタリアに追随し、斉藤は必死に考えをまとめた。彼女が自身の異能について語った事は真実である。ナタリアはジーザスの記憶持ちであるジョーンズ博士の血清を打った身だ。悪魔になりかかっていた体が化学反応的な変容を起こしたとしても、それはハンターの常識として異様な事ではない。望外の打開策が現出したのはむしろ喜ばしい。

 問題があるとすれば一つ。フレンド達は現れた天敵に、どのようなリアクションを取るだろうか?

 フレンド達の視線が、丁度中央に突出した斉藤とナタリアに集中する。彼らの感情など読み取る事は出来ないが、排除すべし、との方針転換は理解出来た。

「やべえ」

 ナタリアが絶句する。しかし斉藤は躊躇無く近場に緊急用のオバケ屋敷を出現させた。

「入れ。一時この中に立て篭もる。立て篭もって連中をおびき寄せる」

「自爆攻撃をかまされたらどうする」

「また別の手を考えるまでだ」

 斉藤はナタリアを屋敷に引っ張り込み、突撃銃の狙いを定めた。

 事態は重要な局面を迎えたのだ。つまり、敵の攻撃行動に一貫性が無くなった。状況は相変わらず苦しいが、ナタリアという特異体が登場したおかげで、まだまだ時間を稼ぐ事が出来る。斉藤は今一度己の心を奮い立たせた。

 

 チャイナタウン、京大人の住居にて、いよいよ山岸は事態の変貌を覚悟した。

 雄弁に語っていたメルキオールがピタリと口を閉ざし、京もまた半身を起こして閉目し、こちらも沈黙を貫いている。先にクレアからシェミハザの侵攻に乱れが生じたとの連絡があった。それを受けてからこの状態である。恐らくメルキオールは、機を得るタイミングを推し測り始めたのだろう。シェミハザへの援護射撃すら停止してしまっている。

 何をしようが山岸の知った事ではない。とうとうと述べていた「メギドの火」とやらで何かをメルキオールは企んでいるのかもしれないが、それも興味が薄い。ともあれ、この場に居ても無駄であると山岸は解釈した。クレアの援護に向かうべきと考えて腰を上げたその時、メルキオールの口が再び動いた。しかし言葉は、山岸を呼び止める内容ではない。

「それでは進めよう。預けたものを返して貰う」

「分かった」

 目を開き、京が頷く。

「それを抜けば、お前は程なく死ぬであろう」

「約束を違えないと誓うか」

「私は嘘をつかない。そもそも嘘をつくという概念が分からない」

「何ですって?」

 山岸は驚いた。淡々と交わされる話は具体的な意味を呈していないが、確実に分かるのは、これから京大人が死を受け入れ、双方が当然の事と認識している点だ。彼に対して山岸は何ら個人的思い入れが無いものの、目前で人が死を選ぶ様には違和感を覚える。当惑する山岸に目を向け、京が言った。

「結局、如何様に利用するかに尽きる。諸君等は『それ』に縋るな。利用するのだ。さすれば己を維持出来る。そして維持出来なければ彼奴に真の意味では勝てん。よくよく含め置くように」

「それでは始めよう」

 京の言葉を遮るように、メルキオールが起立した。尤も彼女には遮る意図も無かったであろう。人と人とのやり取りに、彼女は最後まで興味を持つ事は無かった。メルキオールは無造作に袖口を捲り、京の喉元に掌を当て、肉体にめり込ませた。げふ、と、京が咳き込む。そしてメルキオールは、京の体から一振りの固形物を取り出した。ベッドに突っ伏した京の容態を見ようと傍に立つも、山岸はその奇妙な代物に目を奪われてしまう。

「何だ?」

「エンジェル・ダスター」

 山岸が問い、メルキオールが答えた。それは良く見れば短剣のような形をしていたが、輪郭がぼやけた代物でもあった。存在感が不確かという言い方も出来る。メルキオールは詠うように言った。

「天使殺しの短剣を、京の体を使って変容させたのだ。この者の妻、宋紅怜から私が引くにあたり、体に傷一つつけないようにする為に」

「メルキオール…あんたは、自決するつもりですか」

「そうではない。天使にとって自決は禁忌だ。それをやれば天使としては堕したものという事だ。私の場合は、『分ける』のだよ。これは禁忌にあたらない。そもそも御父上が私に与え給うた力ゆえ」

 言って、メルキオールは一切の情感を見せずに、エンジェル・ダスターを己が胸に突き立てた。

「光あれ」

 メルキオールの全身から光が飛び出した。内1つが山岸に直撃し、衝撃で彼の体は壁まで吹き飛ばされた。他は全て外へ飛び出し、各々が求める方角へと散って行く。光の放出を終え、メルキオールは、と言うよりメルキオールだった宋紅怜は力なくその場にしゃがみ込んでしまった。

「痛いな、クソ。どういうんだ」

 山岸は立ち上がって、光弾が直撃した胸の箇所に手を当てた。今のところは何もない、先の話から察するに、メルキオール曰くの『コア』が自分達にも分け与えられたという事なのだろう。差し当たって大きな変化を山岸は自身に感じられなかった。サマエルと正面切って対抗する為の『メギドの火』であるというのに、不思議ではある。

 と、京大人が、傍らにしゃがんでベッドに顔を突っ伏す紅怜の頭を撫でた。それを受け、紅怜の顔が持ち上がる。淡白なメルキオールの表情とは異なる、今にも溢れ返りそうな万感の想いがその顔にはあった。

「あなた」

「よく帰ってきた。しかしもう直ぐさようならだ」

「はい」

 山岸は背を向けた。そのくらいの気遣いはしておいても良い。何せ公的には死亡扱いの宋紅怜と、京大人は数十年振りに再会したのだ。そしてしばらく後に、また別離の時がやって来る。

 

 クレアは気を取り直し、一箇所に留まって無闇に暴れるだけのシェミハザを注視した。

 本体に対して、ラスティとジークリッドに任せる以外の選択肢は無いのだ。今は気紛れを起こしたシェミハザが再度侵攻を開始する芽を絶つ必要がある。幸い、錯乱状態に陥ったシェミハザを前に、自分と庸の一党は態勢を立て直す事に成功している。加重攻撃を実行してシェミハザを沈黙させ、少しでも時間を稼ごう。そう思った矢先、目の端に幾筋もの光線が映った。その内の一つがクレアに命中する。

 咄嗟に腰溜めの姿勢を取り、その瞬間激しい衝撃に襲われる。クレアは膝を折って腹を擦った。痛みも何も無い。ただ光線が自分の体を貫いて行っただけだ。

「今のは一体」

 立ち上がった後、クレアの携帯電話が鳴り響いた。庸の天兵達からだ。受信してから相手は開口一番、狼狽しきった声で喋り出した。

『クレアさん、何が起こったっていうんです!? 光が飛んで来て、私達に当たって!』

「落ち着いて。状況説明。誰か怪我人は」

『…何人か吹っ飛ばされましたけど、居ません。大丈夫です』

「痛みみたいなものは」

『ありません。普通です、多分。他の仲間達も』

「ならば良し。先の現象についてはこちらで詳細を調べておく。立て直して警戒を続行。追って加重攻撃の指示を出す。それまで待機」

 必要事項を淡々と述べ、クレアは携帯を切った。自身が覚えた動揺を露出すれば、天兵達に不必要の動揺を与えてしまう。クレアは努めて冷静を心掛けたが、競り上がる不安はどうしても打ち消せなかった。先のような不意打ちの現象は、完全に想定外である。この戦いそのものが、また別の進展を迎える予兆ではないかとクレアは思った。

 

天使シェミハザ 大詰め

 シェミハザに纏わる伝承と、現実の間には他同様の乖離が見受けられる。ただ幾つかの共通点があって、その内の一つに注意を払わねばならないものがあった。

 それは、シェミハザがミカエル達に封じられたという話である。伝承ではエグリゴリ一党が全て封じられ、現実にはシェミハザだけが封印されている。その他は全員が抹殺された。

 ミカエルが倒し切れなかったのか、或いは名も無き神の意向であったのか。シェミハザだけが封印された理由については分からない。断言出来るのは、シェミハザという天使の存在意義が、サマエルやルスケスに劣るものではないという事だ。ここに来てハンター達は、また新たな恐るべき敵の存在を前にしたのである。

 

「おや、切れてしまったね」

 座り込んだまま身動き一つ取れないラスティの傍に立ち、シェミハザは携帯電話を返すべく、懐に戻してやった。そしてさも愉快そうに、炎の円で囲んだ範囲に身を置く一同を眺めた。

「聖油かぁ。アガーテ、面白いものを持っていますね」

「これを使うのは2度目です」

 アンナはシェミハザを真っ向から見返した。

 聖油はアンナが物心ついた時分から、銀のロケットに収めた御守として所持していた。聖油を燃やせば、天使は燃焼する範囲に近付く事が出来なくなる。使い方を工夫すれば結界のように侵入を阻む事も、天使を輪の中に閉じ込める事も可能だ。たとえ相手がシェミハザほどの天使であったとしても。しかしシェミハザは、後ろ手を組んでのんびりと歩み去り、また元の位置に座り直した。聖油で身を守る彼らの事を、歯牙にもかけない気配が見受けられる。

「しかしアガーテ、それはしばらくしたら燃え尽きてしまうじゃないか」

 シェミハザはつくづくと溜息をついた。

「まあいいよ。私は別に危害を加えるつもりは無いのだからね」

「嘘だ」

 切れ切れの呼吸と共に、マックスが吐き捨てる。

「騙されてはいけない。この人の考えている事は何となく分かる。僕らを虜にするつもりだ。ラスティさんと彼の仲間達みたいに」

「騙す? という概念を私に当てはめるのは心外だなぁ。ただ私は、私の中に君達を取り込んで、語らいを楽しみたいだけなんだよ? ほら、こんな風に」

 言って、シェミハザは掌を己が胸の前に掲げた。ちらちらと光る幾つかの玉のようなものが浮かんでいる。

「彼らの魂ですか」

 アンナが息を呑み、おぞましい、と呟いた。シェミハザが首を傾げる。この生き物は何を伝えたいのだろう? そのような意図が表情からは窺えた。

「それはさて置き、マックス君。君はサマエル様の愛し子でありますゆえ、残念だけど私とは一つになれないね。その他の皆さんは、その邪魔な炎が消えたら私の元にいらっしゃい。ゆっくりと待ってあげるから」

「…カロリナに指一本触れないで。ただじゃ済まさないから」

 カロリナの前に立ちはだかり、エリニスが毅然として言った。からからとシェミハザが笑う。嫌味ではない。ただ面白いと感じたから笑っただけである。

「カロリナ・エストラーダは興味深いな。ジャンヌの半身を持つ人間なのだろう? エリニス・リリー、君もだ。彼女との精神的な結びつきの強さは、人の心の美しさを如実に表現している。私が君達を永遠の安らぎに導いてあげよう。しかし吸血鬼君、君は駄目だ」

 聖油の輪の中にあって、反攻の機を伺っていたヴィヴィアンを、全て見透かすようにシェミハザが言った。

「君の魂は穢れている。とても可哀想だけど、私としてはこの世に居ない方がいい存在だと思うな。尤も、サマエル様の定める世界の規則に従って、人間の『障害』として役割を担うならば話は別だよ? いや失敬。その面構えから察するに、とてもその気は無いらしい」

「分かっているなら言うなよ。ペラペラと煩い奴め」

 毒づきながら、ヴィヴィアンは瞳を僅かにずらした。ラスティ達と同じく倒れ伏しているジークリッドを視認する。

 視界に収まる全員の魂を奪うという、得体の知れない力を行使して来たシェミハザに対し、自分達は聖油によって一時的にも免れる事が出来た。しかしジークリッドもまた、シェミハザの力から逃れている事をヴィヴィアンは察知していた。「無心」という能力を彼女は使ったらしい。ジークリッドは無力化された振りをしているのだ。しかし、シェミハザがそれに気付くのも時間の問題である。

 そして懸念していた通り、シェミハザは掌を再度見て、「おや?」と呟いた。

「おかしいな。1人足りない」

 顔を上げる。倒れているのはラスティ達6人。聖油の範囲外に居たのは7人。しかしもう1人の姿が見当たらない。しかし見当たらない、という表現は正確ではない。彼女は其処に居るのだ。ただシェミハザが、彼女の存在を察知出来ないだけだ。汝、その瞳に曇り有り。

「しまった」

 シェミハザの絶句と同時に、ジークリッドが剣尖を彼の胸にねじ込み、一気に刺し貫いた。剣身を引いて更に腕を叩き斬る。その一撃で囚われていた魂達が拡散し、元の鞘へと戻る。ラスティと劉部隊が正気付く。

「痛いなあ」

 真っ向から唸りを上げて振り下ろされるジークリッドの剣を空いた手で掴み、シェミハザがトホホと苦笑する。ジークリッドの表情が凍り付いた。何時の間にかシェミハザの傷痍が全く見当たらなくなった、からではない。

「此奴」

 一気に退いたジークリッドと入れ替わり、突出したヴィヴィアンが無数の光弾を繰り出してシェミハザに集中攻撃を加えた。新祖から新たに得た力、ウィル・オ・ウィスプが、立体的に全方向からシェミハザを撃ち抜いて行く。その間に立ち直ったラスティと劉部隊が銃砲火の嵐を見舞う。場は静寂から一挙に暴力的躍動へと転換した。

「気をつけろ、あ奴、何かおかしい!」

 ラスティの傍に回り込み、ジークリッドが怒鳴り声を上げる。

「どういう事!?」

「人を斬った感触が無い! あれは人間に憑依していないぞ!」

「その通りだよう」

 銃弾の嵐を目の前でピタリと止め、シェミハザが間延びした声で言った。ヴィヴィアンが盾にもなるウィル・オ・ウィスプを一旦引かせ。劉部隊も弾の無駄使いを止める。またもこの場は静かになった。

「アガーテが言ったよね。私は人を監視する為に遣わされた天使なのだと。その折に御父上はこの世界向けの体をお授け下さった、という訳さ。だから普通の天使とは一味違う。サマエル様とも違う。様々な工夫を施した武具をお使いのようだけど、残念な事にメルキオール印の打撃もかなり通り難いのだよ」

 シェミハザの言葉遊びを、対抗する者達は度外視した。

 ジークリッドが「幻魔」を行使する。シェミハザの手前に霞のかかった何かが出現した。どうやらそれはシェミハザ言うところの「御父上」であるらしい。しかしシェミハザは、肩を竦めて手を振り上げた。作り上げた「何か」が瞬く間に消失する。瞬時に偽物と見切られたのだ。シェミハザが拍手する。

「面白い手品だね」

 皆まで言わせず、劉部隊が再度銃撃を敢行。対してシェミハザは掌を掲げ、それら全てを食い止める。しかし銃撃は囮だった。「真上」から炸裂した指向性地雷の銀散弾を浴び、打撃は無いもののシェミハザが若干うろたえる。ジークリッド同様にシェミハザの目を眩ませたラスティが至近距離に着地し、シュネルフォイアーの連打を叩き込む。天騎の力に圧され、シェミハザが一歩身を退く。ジークリッドが切り込んで斬撃を浴びせ、至近距離からヴィヴィアンが散弾銃を縦横無尽に撃ち尽くす。矢継ぎ早の攻撃をこれでもかと浴びながら、シェミハザはと言えば微笑んだ。

「まずい」

 ウィル・オ・ウィスプをジークリッドとラスティにも回し、ヴィヴィアンは行使された圧倒的なPKに耐えた。その防御が無ければ八つ裂きにされていたところだ。しかし3人の体が軽々と吹き飛ばされる。床面を盛大に転がされ、またも距離を置かれてしまった。

「まだだ」

「まだ行けるわよ!」

 怯む事なく立ち上がり、突撃せんと身構えた2人の頭上から、突如光線が降り注いだ。劉部隊にも。浴びた者達が軒並み床へ叩き付けられる。

「何事じゃ!?」

 と、ジークリッドが驚いて周囲を見渡す。自分の身は何とも無い。劉部隊も狼狽しながら、すぐさま起き上がっていた。しかしラスティの様子がおかしい。

「…まだ行けるわよ…」

 ゆらりとラスティが立ち上がった。ジークリッドが、場を弁えずに目を擦る。彼の背中から、何対かの翼が生えたように思えたからだ。その意味するところを察し、ジークリッドが悲鳴を上げる。

「いかん、ラスティ! それはいかん!」

「あ、これはまずい。まずいなこれは」

 ラスティを見据えるシェミハザの顔から、奇妙な頬笑みが消えた。

 

 メギドの火という呼称を、後に天騎と天兵達は山岸から知らされる事になる。簡単に言えば、それはメルキオールのコアを分け与えられた存在だ。

 この世界の生き物に押し並べて魂が存在するように、天使にもまた似たようなものがある。メルキオールは分かり易く伝える為か、コアという言い方を遺した。コアは名も無き神が天使を創造する際に、俗な表現をすれば最初に準備した基幹部材だ。其処から名も無き神は人間に似せて天使を形作った。神や天使に似せて人間を作った、というのは誤りである。神という概念を作り出したのは人間に他ならないのだから。

 コアが何によって形成されているか。

 あるハンターが、人間による想念の産物とされる名も無き神の一党は、どのようにして物理的に存在し得るのかについて疑問を抱いた。これに対する明確な回答は無い。非常に理不尽な話だが、名も無き神自身すら、自分が何故存在しているのかを完璧に得心している訳ではないからだ。

 居ると思われているから居る。乱暴であるが、名も無き神とその眷属が実在する唯一の根拠がそれだ。その理屈で言えば、コアは人間の想念の権化である。天使とはかくあるものである、という人間の想いの塊だ。

 神や天使は人間が及びもつかない圧倒的な存在だと、当の人間がそのように考えている。しかしながら神殺し、天使殺しを真の意味で遂行出来るのは、彼ら自身を除けば造物主である人間だけだ。それでも大多数の人間が不可殺と考える以上、やはり可能性はゼロに等しい。飛躍的な手段があれば話は別だが。

 メギドの火は、数少ない飛躍的手段の一つである。想念の産物に対し、人間の想念を具現化した力でもってこれを打ち消すという事だ。ならば相手が化け物のようなサマエルやシェミハザであっても通用するという理屈である。これにて天騎と天兵は、少なくとも天使殺しを成し得る集団と化した次第である。

 ただし力を得れば相応のリスクを抱えるのが世の法則だ。何せコアは、あのメルキオールのものである。名も無き神に絶対的忠誠を誓い、サマエル打倒以外の頭が彼には無かった。メギドの火の称号者は、力を受け容れるほどそのような思考形態に接近して行く。だから、敢えて過剰な受容をしなければ思考形態の変容は回避出来る。現にコアを浴びたほとんどの者に激烈な変化が起きなかったのは、天騎や天兵の力に敢えてのめり込もうという考えが無かったからだ。ただ1人の例外を除いては。

 ラスティ・クイーンツはシェミハザという、カスパールを凌駕する脅威に対し、最終手段として心の扉を開く決断を下した。開いた扉に入り込んだのは、メルキオールの恐るべき思考形態である。即ち、あらゆる障害を排除して敵を滅せよ。受容も度が過ぎれば、容易く人としての自己が崩壊する諸刃の剣。

 

 シュネルフォイアーが一発の銃弾を放った。銃弾はいとも簡単にシェミハザの防御を撃ち抜いたが、シェミハザ自身は首を傾けてあっさりと避けた。しかしその表情に余裕は窺えない。

「メールキオールー」

 奇妙な発音で呟き、間髪入れずに撃ち込まれるラスティからの銃弾を途切れたフィルムのように避け、シェミハザはラスティに語り掛けた。

「それが君の狙いだったのかぁ。自分単独では勝てないから、スペックダウンしてでも数を揃えてみましたと。さすれば隙を生じさせ、何れかの刃が届くと。凄い事を考えるんだね。凄いよメルキオール。君を抹殺出来ずに思う通りの結果とさせてしまったのは私の大失態だ。忸怩たる思いと共に認めるよ」

 何時の間にか両者は距離を詰めていた。鉄の塊がぶつかるかの如く激烈な異音と共にシェミハザとラスティが衝突し、挙動が凝固する。間近で叩き込まんとしていたシュネルフォイアーを持つ手を捩じ上げ、逆に首を掻き獲ろうと放った腕を抑え込まれ、シェミハザは表情の無いラスティの顔を覗いて哂った。

「しかしシンプルに格が違う」

「御主の御意思のままに」

 ラスティが、恐らくは彼自身も聞いた事のないような声を発する。

Memento angelus casus quia pulvis es et in pulverem reverteris. (踏まえよ堕天使。塵同様のお前は塵へと返るべし)」

Quid de quoque viro et cui dicas, saepe videto. (誰に向かって誰の事を言っているのか、言葉に気をつけ給えよー)」

 

 戦いは完全にラスティが押されていたが、それでも戦いとして成立している。ハンターと吸血鬼の共闘集団は、焦燥にかられつつ2人の激突の推移を見守った。そして一様に理解したのは、この戦への介入が実に困難という事だ。

「連携が取れねえ」

 呆然の面持ちで劉紫命が呟いた。シェミハザとラスティは各々の異能を無視し、縦横無尽の高速格闘戦を繰り広げている。途轍もなく早い挙動であるものの、ジークリッドやヴィヴィアンは勿論、劉のレベルでも動きが全く追えない訳ではない。本来ならば援護が出来るはずであり、又はそうすべきである。

 それが出来ないのは、ラスティに援護を受けるという頭が無いからだ。彼は周囲に仲間が居るという心強い事実を忘れ去っている。つまり自分1人で戦いを進行させているのだ。よって下手に介入をすれば巻き込まれるうえ、ラスティの挙動を阻害して更に不利を強いてしまう。そもそも挙動を阻害されたラスティが、仲間にどのようなリアクションを取るのかを想像すれば、凡そ最悪の顛末を迎える事となろう。今のラスティは、ラスティ・クイーンツの形をした別の何かだった。

「力に呑み込まれるなって、姐さんが言ったんじゃないかよ」

「どうする?」

 ヴィヴィアンがジークリッドの肩に手をかけて言った。

「それでも援護するしかないと思う。今なら届かない相手じゃないさ」

「倒せる可能性はあるが、間違いなく何人か死ぬ」

 ジークリッドが唇を噛み締め、答える。

「そしてシェミハザを倒した後、ラスティが味方のままで居てくれる保障は無い」

 言う間に叩き伏せられたラスティが、シェミハザの無造作な蹴りで高々と宙に放り上げられ、ジークリッド達の間近の地面に激突した。弱る体を少しでも持ち上げようと試みるラスティと、彼の仲間達に向け、シェミハザは涼やかに笑いつつ言った。

「大丈夫だよ。彼は完璧に呑まれた訳じゃないよ。理性がまだ伴っているよ。だって思想と行動に理知があるからね。理知があるという事は、自制が利くという事さ。だから単独で私に勝つ事は不可能であるのだよ? それでは、そろそろ本気を出そうか。『メルキオール持ち』諸君、君達の魂は私の友達としては不適格だ。よって君達は蒸発し、気化し、空気となって漂い、世界をまんじりと眺めているのが望ましい。嗚呼、残念ではあるけれど」

 来る。

 と、ジークリッドは腹を括った。応戦の準備をラスティ、ヴィヴィアン、劉部隊が続々と取るものの、シェミハザ曰く『メルキオール持ち』となったのが先程という状況では、戦法を駆使して戦えたものではない。それにシェミハザは強い。恐ろしく強い。

 対抗するには、自身も『メルキオール』にのめり込むしか無いのではないか。

 かような思考をジークリッドは即座に打ち消した。それだけは駄目なのだ。それだけは。それをやってしまえば、自分が以前、王如真に吐露した心の全てを嘘にしてしまう。それだけは出来ない。

 と、横からアンジェロがひょこひょこと進み出て来た。

 彼はナイフを手に持ち、空いた片手の掌に切れ目を入れた。流れ出る血が指先から滴り、据わった目をシェミハザに向ける。その行動はあまりにも唐突で、仲間達は、ラスティでさえも一時対応を見失った。敵であるシェミハザも、また同じく。暢気にアンジェロに問いかける。

「何をしているんだい?」

「こうするんだよ」

 アンジェロは服の襟を掴み、力任せに破り捨てた。そして露出した胸部に血塗れの手を当てる。その瞬間、彼の胸から鋭い光が八方へと飛び散った。

「ガブリエルとな!?」

 絶句したシェミハザが、光の奔流に呑み込まれ、そして消えた。同時に奇妙な花畑と青空が消え失せ、陰湿な地下室が一同の前に出現する。

 アンジェロを除き、誰もがそのような戦いの終焉を想定していなかった。天使という存在の恐ろしさの片鱗を見せていたシェミハザは、全貌を曝け出す前に彼らの目の前から消失したのだ。辛うじて持ち堪えていた気力が途切れ、劉部隊がバタバタとその場に座り込み、或いは倒れて行った。それでも紫命は足を引き摺り、立ち尽くすラスティの顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか?」

「ええ、何とかね。全く、ざまあ無いわ」

 ラスティは正気を取り戻している。彼は常日頃、力に取り込まれぬよう劉部隊に促していた。他者への気遣いという人間性が残っていたからこそ、ラスティは身も心も『向こう側』へ行かずに済んだのだ。紫命は心から安堵の息をついた。しかしこの事態は後々、メギドの火という名を得た者達に、取捨選択を突きつける先駆けとなったのは間違いない。

 一方、アンジェロも笑い始めた膝に耐え切れず、その場にへたり込んでいた。顔から血の気が失せているのは、比喩の表現ではない。ジークリッドが彼に肩を貸し、立たせてやった。そして問う。

「あのまま戦っていたら、良からぬ結末も有り得た。礼を言おう。しかしそなた、一体何をしたのじゃ?」

「『天使返し』を使ったんだよ」

 アンジェロは無理やり口の端を曲げてみせた。

「天使ガブリエル謹製でね。胸骨に直接特殊な紋様が描かれているんだ。胸に自分の血を押し付けると紋様に仕込まれた効力が発動する。そして天使とその眷属を異空間にぶっ飛ばす。しかし立ち眩みがひどいや。もしかしたら、血液が少し消えてしまったのかもしれない。連発は無理だろうね」

「なるほど、一時的に消えて貰うという訳か。しかし彼奴を仕留める事が出来ぬでは、南部方面の奴の分け身を封じるも難しい…」

「いや、祭壇を潰せばどうにかなるかもしれないよ?」

 ヴィヴィアンが後ろを親指で示し、2人の会話に入った。

「奴がわざわざ祭壇前を陣取っていたのは、守備以外にも理由がありそうだ。何せフレンドを操る力の出所なんだろう? ならばシェミハザもその力を利用していたという理屈が成立するかもしれない。まあ、結末を見守ろうじゃない」

 何時の間にか、カロリナがエリニスを伴い、前へと進み出ていた。そして祭壇の前に立ち、しばらくそれを睥睨する。

 祭壇は大仰な代物ではなく、質素で品の良い作りをしていた。ル・マーサの精神性を表すものだと、会員達は言っていたものだ。しかしながら祭壇は、フレンドというシステムを維持する為のアンテナのような代物だった。かつてエリニスは一時的にフレンドとなったのだが、それはこの祭壇の前で行われた講話を始まりとしている。壇上に立ったのは、当時のリーダーだったカロリナである。2人にとって、祭壇は破壊すべきシステムであるうえに、業が形を成したような代物だった。

「こんなもののせいで、とは言わない。私が選択して、間違いをしでかした。事実はそれだけ」

 血を吐くようにカロリナが言った。エリニスが彼女の手を取る。

「決着を。カロリナ、自分の力で。贖罪の長い旅路の、これが第一歩よ」

 頷き、カロリナは幾筋かの涙を流し、祭壇を力任せに蹴倒した。

 

南部方面防衛戦線 大詰め

 やりたい放題に暴れていたシェミハザの動きが、まるで電池切れを起こしたかの如くピタリと止まった。そしてその巨体を構成する数多くの死体が、バラバラと崩落を開始する。古い記録映像で似たようなものを見た事があると、クレアは呆然の面持ちで眺めつつ思った。絶滅収容所の遺体をブルドーザーで穴に落として行くというものだ。それは地獄さながらであったが、目の前の状景もまた凄まじい代物だった。

 ここにきてようやく、死臭が催す生理的嫌悪を覚え、クレアは正気づいた。携帯電話を庸の最高幹部、盧詠進に繋ぐ。

「シェミハザが活動を停止したわ」

『ああ、こちらからも確認したよ。まるで滝みてえに人間が落ちて行く様をな。ともあれ、よくやってくれたよ』

「自分達が倒した訳じゃないけどね」

『しかし確実に市街中心への侵攻を遅らせた。それなりに被害が出たかもしれんが、最小限と言えよう。そいつは誇っていい。もう直ぐ市警がバックアップで来る。休めるんなら、休んどくれ』

「ありがとう」

 携帯を畳み、クレアはしゃがんでアスファルトに腰を落ち着けた。一向に減らない土くれを掘り返すような戦いだったが、ようやく底が見えた。疲労困憊の脳で思考が麻痺しかけている今は、この場やマーサ本部で戦った者達に労いの言葉を送る気力も無い。とにかく休みたいとクレアは思った。本当に僅かな休みであるとしても。

 ふと、群衆の安堵の声をクレアは聞いたような気がした。周囲にそれほどの人影は無い。しかしその声の出所はクレアには分かっている。

 シェミハザの束縛から解放された、数多の魂達に違いない。

 

ゲストハウスの攻防 大詰め

「撃ち方止め!」

 ラウーフ分隊長の豪声が轟き渡り、ゲストハウスからの応射が一斉に止まる。

 戦況の変化は劇的だった。フレンド達はわざわざ的になり易くするかのように緩慢な動作を晒していたが、ほとんど立ち止まる事は無かった。それが、一斉に行動を停止したのだ。同時にMEWSの電磁場異常の固体識別表示が全て消滅した。神余からの市警の各指揮者とハンターにその事実が伝達されるも、戦闘モードへのスイッチが入った人間、特にこの世ならざる者と初めての交戦を経験した一般人を止めるのは難しい。しかしながらハンターとラウーフ分隊による呼びかけもあって、ようやく事態は沈静化した。

「大丈夫か?」

 斉藤がフレンドの1人の傍に寄り、肩を軽く揺すってやった。壮年に差し掛かると見えるヒスパニックの男は、躊躇の眼差しを斉藤に向け、うろたえながら言った。

「あの、ここは一体、何処なんだ?」

「テンダーロイン地区だ。直ぐに市警が来るから、しばらく待ってろ」

 男の肩を叩き、足早に歩んで場を離れ、斉藤はラウーフにヘッドセットの無線を繋いだ。

「脅威は無くなったよ。市警に動員をかけてくれ。彼らの保護を依頼する」

『了解しました』

 無線を切り、斉藤はしばらくしてから続々と外に出て来る市警の面々を眺めた。棒立ちの元フレンド達が警官に抱えられて行く様を眺め、ふと斉藤は顔を傾けた。ナタリアと神余がこちらに近付いて来る。

「やったな」

「ああ」

 ナタリアと短く言葉を交わして拳を軽くぶつけ合い、斉藤は神余に問うた。

「双方の被害状況は?」

「こちらはラウーフ分隊に軽傷が3人。フレンドと悪魔の混合部隊は壊滅。死者は、最低に見積もって8人といったところ」

「これだけ派手にやりあった割に、その人数で済んだのは僥倖と言えるんじゃないのかい?」

 ナタリアが斉藤に言った。彼女の言葉以上に、この防衛戦は完勝であった。ハンターと市警側には死亡者が一切出ず、自爆能力を保持したフレンドも出来る限り死なせぬように配慮出来た。裏手から侵攻した悪魔を全て返り討ちにもしている。恐らくはXclassisを中核とした手合いだったはずだ。

 強固な防御網を惜しみなく敷き、連携を密とし、何より個人の能力が存分に高められたうえでの応戦である。勝敗の行方がマーサ本部における祭壇の破壊に左右されるとは言え、其処に至るまでの防衛維持能力は極めて高かった。なるべくしてなった結果である。

『ありがとうございました』

 と、脳裏にキューの声が響いてきた。ハンターだけでなく、元フレンドを保護する市警達にもだ。彼らは一様に驚いた表情で周囲を見渡しているのだが、それも無理はない。

『結界ごと剥ぎ取ってくるあの自爆攻撃、恐らく吾は防げなかったでしょう。ゲストハウスの崩壊は、君達をサポートするという役回りが完全に損なわれるところでした。そして吾自身の死も十分有り得たはずです。皆さんに敬意を表します』

 珍しくキューが率直に謝意を表明していた。しかし疲労も露わの顔で、斉藤は誰に言うともなく呟いた。

「それでも思うんだよ。あんな訳の分からない爆死なんて最期を聞いた、フレンドの遺された家族達の事を」

 そう、サマエルにとってフレンドは駒の一つでしかない。しかしその駒にも家族や血族、それに友人といった繋がりが広がっている。サマエルのやった事は、そういった繋がりを木っ端微塵に粉砕する所業であるのだ。

 やはり奴を許してはおかないと、斉藤は固く決意した。

 

マーサ本部にて

 仰向けに倒れて行ったビアンキ専務の傍に、アルベリヒが慌しく駆け寄った。ビアンキの目から漏れ出る光は、確実の明度を増している。天使としての死を迎えようとしているのだ。アルベリヒは痛恨の言葉を絞り出した。

「これは俺や仲間達が望んだ結末ではない。あなたはまだまだ、俺達と会社にとって大事な存在であるはずだ」

「君達と会社の者達を大事に思う気持ちに些かの偽りも無い。これが最善の結末であるのだよ」

 ビアンキが静かに答える。

「私はサマエルという存在が消滅するまで、彼の下僕で在り続けただろう。カスパールと同じく、そういう存在にされてしまったのだ。よって最後の戦いにまたも立ち塞がるはずだった。本意ではない事を強いられるのは苦痛だ。だから、これでいい」

「あなた抜きでどう戦えばいい。俺達は、あんなサマエルと」

「君は既に分かっているはずだ。サマエルを倒すのは人間の役回りなのだよ。アルベリヒ、注意しろ。エンジェル・ダスターはサマエルにも通用するが、一撃で葬れる事は有り得ない。奴はルシファに比肩する魔王、サタンでもあるのだから。しかし恐怖する必要はない。君には仲間が居る」

 そしてビアンキは、ガクガクと小刻みに体を揺らしつつ、不自由な仕草でシルヴィアと彼女の両親を見た。悲痛の面持ちであったが、事実を受け入れてもいるシルヴィアと目を合わせ、ビアンキが頷く。

「私は君を、誰よりも長く偽ってきた」

「でも、出来る限り自我の喪失を防ごうとしてくれたわ。ハンターとの交流を積極的に認める事で。それに私の両親が逃げるのを見逃そうとも」

「しかし助けられなかった。今も心が残る」

『それでもこうして、成長したシルヴィアに会う事が出来たわ』

『あなたは娘をよく育ててくれたよ』

 そう言われて、ビアンキはようやく胸のつかえが取れたようであった。いよいよ迫る終焉を直前とし、ビアンキは最期の言葉をルカに向けた。

「経理部長、会社と社長を宜しく頼む」

『お任せ下さい、専務』

 ビアンキが選択したのは、ガレッサBldの一員としての、人間としての今際であった。彼は他の天使達同様、目鼻口から膨大な光を放出し、巨大な翼の影を床に打ちつけ、そのまま静かに息絶えた。

「羨ましいな」

 ポツリと呟いたエイクの言葉に、ヴィルベートが怪訝な顔を向ける。

「どういう事?」

「彼は最期に、求めてやまなかっただろう自由を得たんだよ。僕は未だにアンチ・クライストから逃れる事が出来ていない」

「死と自由が等価というのは、やっぱりやりきれないじゃないさ。エイクはコゾーなんだから、まだまだ生きていい男にならなきゃね。それに、アンチ・クライストの消滅の芽だって、随分花開いていると思うよ」

 言って、ヴィルベートはエンリクとヴァイラに抱擁されるシルヴィアを眺めた。そして2人の姿が消滅する。最後の戦いに向けて、彼らも一時の休息を取るつもりなのだろう。

『それではマスター、また後ほど。私達も少し休ませて頂く』

『わしらは必要あらば参上する。また共に戦おうぞ』

 クリスと要蔵も、言葉を残して姿を消した。彼らに手を振り、ふとヴィルベートの顔が訝しいものになる。

「あれ? あの2人、何時の間にしゃべれるようになってたの?」

「ヴィル姐さん、フレンドの皆さんはどうします?」

 と、マリオが小太りの体を揺らして凝固したフレンド達を指し示した。ルイージが1人1人の容態を診ている。こいつらはシェイプシフターなのに、人助けをしようとは気の良い連中だと、今更ながらに思う。

「…マリオ、専務が亡くなられたけど、これからどうするんだい?」

「俺もあいつも、専務にはお世話になっていましたからね。幸い、シェイプシフターの本性も金輪際出る事はなさそうだ。これからも社会に貢献するガレッサの一員でありたいと思っていますよ」

「並みの人間より優等生じゃないのさ」

 不意にルイージが、「うわっ!?」と声を上げて飛び退った。固まっていたフレンド達がバタバタと倒れて行ったのだ。同時にシルヴィアも崩れ落ちた。異変かと皆が慌てるも、何の事はない。シルヴィアはでかいいびきをかいて寝ていた。同時に、この本部を支配していた圧迫感が、何時の間にか霧消している。地下組が祭壇の破壊に成功したのだと、口に出さずとも全員が知った。

「アルベリヒさん」

 ビアンキ専務の遺体を見下ろしたまま佇むアルベリヒを、エルダが労わるようにして腕を絡めた。

「帰りましょう」

「…ああ、そうだな」

「まだまだ残務処理もありますけどね」

 人の姿に戻ったルカが、内容不明の寝言を呟くシルヴィアを腕に抱き抱え、肩を竦めて皆に言った。

「これから市警を呼びますよ。この人達の救済は、彼らでなければ出来ない事です。当方は市警への応対を致します。定時には少し早いですが、皆さんは我が家へお帰り下さい」

 

 地下からの階段を先頭に立って登ってきたジークリッドは、ホールに2人の女性が佇む姿を見た。

 時代がかった、それでいて美しい銀の光沢を放つ甲冑を身にまとい、長い白髪を後ろに束ねている。仲間内の誰でもないが、敵ではないとジークリッドは悟った。彼女らの醸し出す雰囲気は、親しくもあり清廉であったからだ。

 件の2人はジークリッドに気付いて振り返った。見えているはずなのに、不思議と面立ちを認識する事が出来ない。彼女らはジークリッドに向けて片手を挙げ、挨拶を寄越してきた。

「お疲れさま、ジークリッド」

「首尾良くやり遂げたようですな」

「あ、あれ?」

 目の前に居るのはエーリエルとドラゴだったので、ジークリッドが思わず目を擦る。自分は疲れているのだろうと納得させ、彼女は改めて挨拶を返した。そして3人は各々が経てきた状況を語り合った。

「しかし、天使を全て倒すとは」

「正面戦闘では大苦戦よ。手段を間違えていれば、簡単に全滅していたでしょうね」

「シェミハザは、また一味違っていたようですな」

「強かった。そのうえ倒しきれなんだ。アンジェロが居らねば酸鼻極まる結末であったかもしれん。凄まじいものじゃ、天使というのは」

 3人は遅れてやって来た地下組を出迎えるべく、踵を返して歩んだ。

 

「ジル…」

 首と胴が切り離された異形の躯の傍に膝をつき、えもいわれぬ複雑な悲しみに満ちた顔でカロリナはジルを見下ろした。カロリナの肩に手を置き、エリニスがアンジェロとヴィヴィアンを見遣る。彼らも当惑の表情を浮かべていた。

「この結末は導こうとしていたけれど、目の当たりにすると言葉が無いな」

「僕もだ」

 唇を噛むヴィヴィアンを横目にし、アンジェロは溜息をついた。ノブレムにとっては不倶戴天の敵であった次席帝級であるが、このように唐突な死を目の当たりにするのは吸血鬼として戸惑うところもあるのだろう。

「この吸血鬼が人間であった頃の心は、正にアンジェロが接触した時のフウと同一だったのでしょうね」

 エリニスがアンジェロに言う。

「穏やかで気品があり、他人を尊重して、強くて優しい。カロリナの半分が覚えているジルの人となりを、今のアタシなら分かるわ」

「そうは言っても、こいつは指折りの殺人鬼でもあったんだ。哀れむ必要は無い。無いんだよ、エリニス」

 頷くエリニス同様に、アンジェロは自身を納得させた。そう、これ以外の上等な結末は無かったんだと。

 それにしても恐ろしい戦いをしてきたものだと、アンジェロは改めて振り返った。

 ジルほどの怪物が、新造天使2人がかりで倒されてしまった。逆にこちらはジルを利用し、且つエーリエルとドラゴの手で4人居た新造天使を全て滅してしまったのだから、これも途方もない事だ。

 しかし、次に控える相手は桁が違う。アンジェロは心が黒雲に覆われたように思えた。

 

「大丈夫、南部方面のシェミハザの分け身はバラバラに砕けたそうよ」

 クレアに繋いだ携帯電話を切って折り畳み、ラスティは無理のある笑顔を浮かべた。

「大丈夫か? まだ無理をせぬ方が良いぞ」

 劉の支えなく立っているラスティに、ジークリッドは気を配った。案の定足元が覚束ない状態だったが、それでもラスティは意識を保とうと気を張っている。気を抜けば、メルキオールのコアに精神構造を組み替えられそうに思っているのかもしれない。そう考えると、ジークリッドの心は痛んだ。どうしても如真の成り行きを想起してしまうからだ。

「しかし、シェミハザは一体どうなったんでありましょうな?」

「異空間に飛ばすとは言え、街は既にサマエルの結界に覆われているわ。それ以上の遠くには行けないでしょう。予想外に早く復帰してくるかもしれない」

 エーリエルとドラゴは、既に頭を切り替えている。彼らの言う通り、倒しきれなかったシェミハザの帰還が成れば、この落着が覆るのは間違いない。もう直ぐ『神降ろし』を実行した2人のブーストは切れ、経験不足の状態でメルキオールのコアに頼るのは危険だ。アンジェロの天使返しも二度目は困難で、シルヴィアとくれば健やかに爆睡中である。市警の車両が到着し、解放された元フレンド達を回収する様を見ながら、一行は速やかな撤収を開始した。

「ジェイズに戻りましょう。少しくらい、打ち上げをしたってバチは当たらないわ」

「その頃の私達は、ベッドで伏せる事になるでしょうな」

 苦笑し合うエーリエルとドラゴに率いられ、本部襲撃に参加した一同が続々と車に乗り込んで行く。

「マックス、どうしたよ?」

 不意に立ち止まったマックスが立ち止まり、アンナは首を傾げて振り返った。

「気分でも悪いかい? もう、フレンドや天使なんざ居ないのにさ」

「…いや、何でもない。急に色んな事が起こったから、ちょっと疲れたみたいだ」

「ふうん? まあいい、行くよ。置いてけぼりなんてゴメンだからね」

 アンナは緩慢なマックスを急き立てるように腕を引っ張った。しかしアンナは、マックスの表情がいよいよ恐怖に満ちる様には気付いていない。

(嫌な予感がする。凄く嫌な予感がするんだ)

 それは心の奥底からせり上がる、マックスの本能的な勘だった。

 

最終段

『で、どうなんだ。マックスとはよろしくやってんのか?』

「開口一番それかい」

『仲良くしてんのかって言ってんだよ。最初の頃に比べりゃ、お前も随分丸くなっているからさ』

「…今なら分かるよ。やたら私があいつを避けていた理由が。怖かったんだ。自分の中に別の自分が居て、そいつが命を投げ出してでもあいつを守りたいと思っているのがさ。私は他人と精神的に深く繋がるなんてゴメンだったし、精神の病にでもかかってるんだろうと思ってた。でも今は違う」

『違うとは?』

「もう1人の幸薄いアガーテちゃんも、ひっくるめて私なんだろうと思うわ。だから、何て言うか、まあ、アガーテもマックスも全部認めるって事」

『そうかい。そう思うようになったんならそれでいい。良かったよ。あの時、あの教会で、マックスのドたまを拳銃でブチ抜かなくて』

「さらっと恐ろしい事を言わないで欲しい」

『ともあれ、記憶の彼方にあるアガーテとマックスの成り行きを知ってしまった俺としては、お前達が具合の良いところで落着するハッピーエンドを見てみたいのさ。しかしアンナ、そして今のマックス、これからの事は他ならない、お前達次第なんだよ。未来を選べ。じゃあな』

 言うだけ言って、真赤誓は一方的に電話を切った。アンナは苦笑しつつ携帯電話を眺めて懐に仕舞った。多分真赤は照れ臭かったのだろう。

 多方面同時一斉攻撃の終結から数日。ここ最近のサンフランシスコの状況は奇妙な平穏を保っている。無論サマエルは未だ健在で、聞くところによればツイン・ピークスでこの世のものではない戦争を繰り広げているとの事だったが、そちらの方角も別段変化は見当たらない。拍子抜けもいいところだとアンナは思った。

 それよりも気になるのは、マックスの様子である。ル・マーサ本部から帰還して以降、彼は目に見えて元気を無くしていた。理由を聞いても曖昧な笑みを浮かべるだけである。どうやら彼自身も理解していないらしい。

 であるから、アンナは取り敢えずライトミールをこさえてみた。食事を作るなどという事は今まで経験した事がなく、結果恐ろしく不恰好なハンバーガーが出来上がった。口下手を自覚していたので、こういう事しか出来ないんだよ。と、アンナは自分自身を弁護した。

『そのハンバーガー、明らかにバンズと肉のバランスがおかしいよ』

『うるせえ。いいから食えよこの野郎』

 等というくだらないやり取りを想像して笑みを浮かべ、アンナはキャンピングカーのドアを開いた。

「マックス! 飯だよ飯!」

 声を張り上げて覗き込んだ車内に、小一時間ほど前には居たはずのマックスは何処にも見当たらなかった。

「マックス?」

 アンナが首を傾げる。躊躇するその表情は困惑を深め、やがてアガーテの意識が表出し、明らかな恐怖が表に引き摺りだされた。

 

 マクシミリアン・シュルツは略取された。

 彼が逗留していたキャンピングカー周辺にも、ハンターの風間が中核となって張り巡らせたMEWSの監視網が存在している。アンナが車を出て、ほんの半時間後に戻って来るまでをカメラは捉えていたのだが、マックスが外出する様子は一切見当たらなかった。次いで言えば、EMF反応も探知されていない。

 とどのつまり、マックスは車内で神隠しのように忽然と消え去った、という訳だ。ハンター達に気付かれる事無くかような芸当を出来る者は、そう滅多と居ない。が、非常に限定的ながらこの街には存在している。

「畜生、キャンピングカーで飯を作りゃ良かったよ」

 痛恨の面持ちで頭を抱えてしゃがみ込むアンナに対し、ドラゴは肩を軽めに叩いて慰めた。

「相手はサマエルです。致し方ありませんな。マックスと一緒に居たところで、人攫いを止める事など誰にも出来なかったでしょう」

 ドラゴは立ち上がり、相棒のエーリエルと目を合わせた。次いでアンジェロとも。実のところ当惑の度合いは、三人ともアンナと同じようなものである。

「何故、今になって」

 狼狽をおくびにも出さず、エーリエルが言った。

「マックスがサマエルにとって最適の器。彼が自らの足で赴き、サマエルと約定を交わす。それを遂げる為に、サマエルも相当の努力をしてきた訳よね?」

「でも、サマエルは自分から横紙破りを実行したんだ」

「横紙破りを承知のうえで、それでもマックスを袂に置かねばならないと。何やら非常事態が発生したと見て良いでしょうな」

 アンジェロとドラゴ、それにエーリエルの認識は、ある一点で一致した。人間の範疇を飛び越える存在に成り果てたバーバラ・リンドンが、サマエルとの戦争において敗北を喫したのだと。そしてサマエルは勝利を代償に、恐らく甚大な損耗を被っている。そうであれば今の器、王如真と決別した可能性が高い。エーリエルはエリニスに伴われてきたカロリナ・エストラーダに、天使について質問をした。

「カロリナ、あなたはサマエルと相当に近しい位置に居た人で、いわゆる『器』の有力候補だったのだけど、当然器の側も、サマエルをその身に降ろすか否かの権限を持っているのよね?」

「ええ、持っています。尤も、ル・マーサのフレンド達はサマエルによって魂のレベルで汚染された人々です。拒否する、という頭はそもそも有り得ません」

「マックスは、最後までサマエルとの同化を拒否してくれたわ。その彼が屈服する可能性は?」

「無いとは言えません。しかしマックスさんは強靭な意思をお持ちです。それに下僕としての正統な手続き、『講話』を経験していません。易々と攻略される事は、まず無いと思います」

「なるほど。つまり彼を我が物にするにも確実に時間がかかる、という事ね」

「ただ…」

「ただ?」

「マックスさんを仮初の器として利用する事は可能なはずです。器の正式な許諾を得て、天使は初めて真の理力を発揮するのですが、強制憑依という強行的な手段を取る事だって出来ます。勿論その際は、力の全貌を得る事は出来ませんが…。多分マックスさんは、既にサマエルが憑依している状態なのではないでしょうか。王如真さんが未だサマエルの支配下にあるのなら、そもそもマックスさんを焦って略取する必要などありません」

 その場の全員が顔を見合わせた。天使は人間と契約を結ぶ事で、その者を器とする事が出来る。あのルシファやベリアルにしても、それは例外ではない。しかしながら、強制的に人間の体を乗っ取って、恐るべき異能を行使するこの世ならざる者は居る。

「悪魔だ…」

 アンジェロが身震いと共に呟いた。

「名実共に、サマエルはサタンと化したんだ。きっと奴自身も、それを自覚していないんだよ」

「天使を出自としながら、悪魔に至る道に片足を突っ込んだ、という訳ね。ならば、わたし達の持つ攻撃手段の全てが通用するという事だわ」

「強大ではありますが、手が届かぬ相手でもない、という事ですか。長い道程でしたが、ようやく仕掛ける機会を得られましたな」

 額に手を当て、ドラゴが頭を振って言う。

「かような結末を予め予想し、バーバラ女史は戦いを挑んだのではないでしょうな?」

「まさか。とは言い切れないかもしれないわね、あの人の場合」

 エーリエルは寂しく笑って閉目した。そして心の内の尊い者に呼び掛ける。

(ブリュンヒルデ様、わたし達はあんなサマエルと…サタンと戦って勝ち目があると思いますか?)

(勝てる! という楽観的な断言は出来ないわね)

(むしろ戦って死ぬ確率の方が圧倒的に高いのではないかと)

(もう少し楽観的な励ましがあると、人間はやる気が出るのですが)

 アルヴィトとドラゴも心話に参加してきた。まあまあ、と宥めつつ、ブリュンヒルデが諭すように曰く。

(恐れる必要は無いわ。サマエルとの対決に力を注いで来た、ありとあらゆる生体力の存在を、私は幾つも感じ取る事が出来る。彼らも私達に負けないくらいに強いわよ)

(私達がそうであるように、彼らもまた単独の存在ではない、という事です。それが私達と敵との大きな差になるのです)

(それに、私達にも喜ばしい出来事があったのよね)

(彼女の帰還を心から祝福しましょう)

 其処で不意に心話が止まった。

「最後のは、どういう事?」

「さあ?」

 首を傾げるエーリエルとドラゴの差し向かいで、エリニスが呆けた顔で目を虚空に向けていた。アンジェロに肩を叩かれ、エリニスが驚いた顔で彼を見る。

「一体どうしたんだい?」

「え? ええ、何でもないわ」

 

 王如真の身柄確保と病院収容の知らせが庸の上層部に届くまで、然程に時間はかからなかった。

 収容とは言っても、何しろ人口が北東区画に集約されたサンフランシスコである。物資の不足が不自然にも発生しない状態ながら、完全封鎖が長期化する途上で心と体のバランスを逸した人々、ないしはこの世ならざる者の襲来によって大小の怪我を負った人々、加えて住む場所を追われ、風雨を凌ぐ為に滞在を余儀なくされた人々がごった返し、最早野戦病院さながらの状況が先進的な都市の各所で繰り広げられていた。

 相部屋の収容人数限界を越えて敷かれたベッドの一つ、溢れる患者に紛れて王如真はその身を横たえていた。彼の元へ逸早く駆けつけたのは、最上級の三幹部、重篤状態の京禄堂に代わり、首魁の代理を務める宋紅怜、そしてハンター達である。

「如真…」

 ジークリッドはそれ以上に言葉が続かず、ただ彼の顔をじっと見据え、力を失った手を強く握り締めた。如真はジークリッドの呼びかけに応じず、ぼんやりと白い天井を見上げている。正統な別離の手続きを踏まずに天使の憑依から解除された人間は、概ねこのようになる。医師の見立てでは、身体機能は何ら損なわれていない、という事だった。しかし精神のダメージは余りにも根深い。はっきり言えば、深い傷を負っているのは魂なのだ。人間の精神医療では、手の施しようのない状態である。

「私の息子は、どうなるのだろうか」

 王広平がぽつりと呟いた。

「魂の抜け殻のまま、何れ内臓器官が働きを止めて、静かに息を引き取る。普通であれば、そんな感じじゃないかしら?」

 クレアが容赦無い言葉を口にするも、彼女は王を励ますように手を彼の肩に掛けた。

「でも、回復の見込みはあるわ。多分彼は、最後に自分の意思でサマエルと離れたのよ。でなければサマエルが易々と彼を手放すはずもない。つまり、如真には意思の力が残っている。生きようと思えば、彼はまた立ち上がる事が出来るかもしれないわ」

「もし甦ったなら、俺がまた永遠の眠りにつかせてやる」

 最高幹部の1人、陸立軍が吐き捨てる。

「この裏切り者のおかげで、どれだけ庸とそれ以外の人間が死んだのだ。外道のうえに役立たずめ。むしろ今すぐにでも処断を下すべきだ」

「庸がそういう考え方の集団だから、王如真がここまで追い詰められたのだと何故思わんのだ」

「ま、仮に如真君がサマエルの器にならなくとも、遅かれ早かれこういう状況になっていたとは思いますけどね」

 ジークリッドと山岸が、努めて冷静に陸を黙らせた。人間の側がそのような対立をしている場合ではないというのは、さすがに陸も踏まえている。

 しかしながら、今後の如真の立場が微妙であるのは本当だった。何れ彼の帰還は庸の全体に知れ渡る事になる。陸のように彼に対して敵愾心を抱く者は少なからず居るだろう。今は「それどころではない」で押し通せるかもしれないが、仮にこの戦いに終止符が打たれた後、憎悪の目が如真へと向かう可能性は非常に高い。もしも庸がこのままの違法戦闘集団であったならば、である。

 そして助け舟は、想定外の者から出される事となった。三幹部の盧詠進が、ハンターと陸の間に入って曰く。

「それこそ今言う話でもないのだが、まあ陸も聞いてくれよ。庸だけどな、この戦いが終ったら解散する方向になりそうなんだ」

 雑然とした室内の中で、如真を中心とした一角だけが静寂に包まれた。見る見る内に青ざめる陸が、血走った目を王に向ける。彼は頷き、盧の提案に同意する態度を見せた。たまらず陸が言葉を吐き出す。

「貴様ら、結託したのか」

「まあ聞け。今は大手を振って武器弾薬を使い放題だが、事が済み次第それらは全て没収って約束を市と交わしている。しかし連中がそれだけで済ますはずも無い。これを機会にSFPDが全面介入してくるぜ。俺達は大人の意向もあって、麻薬には絶対手を出さない集団だが、色々バレるとやばい仕事を抱えているだろ。この戦いを勝ちで終えりゃ貢献するところ大として、直後であれば市当局の覚えも目出度いはずだ。その隙にすかさず庸を解体する。これにて堅気の商売人になるって寸法さ。ま、商売の下地は充分築いてきただろう。にっこり笑ってお客さんに頭を下げて、たんまり金を儲けるのも面白え人生じゃねえか」

「それにこれは、盧と私の突出による方針ではない。宋紅怜様の御意向に従っての決断である」

 王に言われ、陸は躊躇と共に宋を見た。彼女の白い顔が陸の当惑を受け止め、しっかりと見返してくる。メルキオール憑きの時のような剣呑さは見当たらないものの、首魁の妻だけに落ち着いた物腰であった。つまりこれは京大人の意向でもあると、彼女の態度が言外に示している。陸は大きくため息をつき、頷き、盧と王を見た。

「王、築いてきた歴史が終るのだな?」

「またこれから各々が歴史を紡げばいい」

「盧よ、武闘派の急先鋒だったお前が、変わったものだ」

「変わるさ。一人娘を失いもすれば。それに俺は、こいつらを敵に回す未来絵図が想像出来なくなったのでね」

 盧はクレアの肩にドンと手を置き、カラカラと笑った。そして不意に、笑い声が途切れた。

 途切れたのは盧の呵呵大笑のみではない。何時の間にか病室内のざわめき一切が消えていた。盧はクレアの肩に手を置いたまま微動だにしていない。王も、陸もだ。その他、室内の人々も。動けるのはハンターと宋のみ。ハンター達は即座に臨戦態勢を取ったが、難なくと彼らの前にその姿を現したのは、現時点において最悪に次ぐ存在である。

「やあ、こんにちは」

 異形としか言い表し方の無い美貌の天使、シェミハザが至近距離に居た。一斉に向けられる銃口と剣尖に対し、シェミハザが掌を向けて彼らを制する。

「待ちなさい、皆々方。一戦交えに来た訳ではないのだよ。天使返しの術式を凌いで帰還後、サマエル様の御意思を確認したかったのだが、私にもかの御方の様子がよく分からない。で、色々と調べてみようと思った訳だが」

 シェミハザはひょいと顔を傾け、ベッドに仰向けの如真を見遣った。シェミハザはニイと口を曲げた。

「なるほど、器を変えられたという事か。新しい器は、予定通りマックス氏なのだね。しかし馴染むにも時間がかかりそうだ。であれば私としてもサマエル様を御守りする必要がある」

 何時の間にかシェミハザは位置を変え、ラスティの目の前に立っていた。自分と真正面から激突した人間を、彼は興味丸出しで覗き込んでいる。受けてラスティは、ほぼ同じ高さの目線を合わせ、一切動じずに言い切った。

「もう用事は終ったんでしょ? 帰れば?」

「そうさせてもらうよ。君、楽しみだなあ」

「『メギドの火』を持つ者達は」

 今まで黙っていた宋が、シェミハザを見上げて冷静に言った。

「対天使戦の特性に限定すれば、この街において最強の集団です。サマエルの盾になると仰る。ならば彼らは盾ごとサマエルを撃ち抜く矛となるでしょう」

「尚のこと楽しみだよ。人間はとてもいい。悲喜交々を経て団結し、一つところに向かい行く様はとても美しい。そしてそれらが朝露の如く消えて行く様は、途轍もなく美しい」

 その台詞を置き土産に、シェミハザの姿が掻き消える。同時に止まっていた時間が流れ出し、場の慌しい雰囲気がいきなり始まった。

「何にせよ、未来を勝ち取るにはサマエルを倒さねばなりません」

 宋は時間を食い止められる前の会話の流れを自然に繋ぎ、皆に向けて語り始めた。

「そのサマエルの前に、更にシェミハザが立ちはだかるというのなら、庸の『メギドの火』はシェミハザを相手としましょう。ハンターの皆様は、私達と共にシェミハザに対するも良し。飛び越えてサマエルに向かうも良し。選択は皆様にお委ね致します」

「…ならば、僕もシェミハザと戦います…」

 そのか細い声を聞き、ジークリッドと王はギョッとした目を下に向けた。今まで魂が抜けているように見えていた如真が、必死に身を起こそうとしていた。その目には既に明確な意思が戻っている。王とジークリッドは躊躇無く彼の背中に手を回し、その身を2人で起こしてやった。

「如真」

「申し訳ありません、父さん、それにジークリッドさん。皆さんにも、本当に」

「戦うなどと、そのような身で!」

「この体はもう直ぐ回復します。サマエルの力が、まだ少し残っているんです。もうすぐ消えそうですけれど、理力と呼べるものが未だ僕には多少備わっています。出来る事をやりたい。皆さんが前進する力に少しでもなれるのならば」

 間近で彼の言葉を聞いていた陸は、僅かに苦い顔をしていたものの、頭を振ってやる方ない気持ちを吹っ切った。少なくとも、他の者にはそのように見えた。

 これにて王如真個人を巡る一連の事件は、一応の区切りがついた。尤も、その先の結末が良かれと言えるか否かは、戦いの趨勢如何である。

 

 マルセロ・ビアンキは簡素な葬式を執り行われた後、湾を見下ろす北の区画にある墓地に慌しく葬られた。色々と逼迫した今の状況では、ガレッサBldの功労者である専務とはいえ、これが出来る精一杯だった。

 最後の土くれをスコップでかけた後、アルベリヒは十字を切ってロザリオを握り締めた。隣にエルダが居て、周囲にはシルヴィアを始めとするガレッサの面々、ハンター達も居る。皆、各々の流儀でビアンキ専務の弔いを心の内で述べていた。何処かの道端で転がって死ぬハンターの終り方に比べれば、とても幸せな事だ。そう思うと無性に虚しさが押し寄せ、アルベリヒは図らずもエルダの手を握った。

「どうしたのです?」

「いや、そろそろ潮時だと思ったのさ。この戦いが終ったら、俺はハンター稼業から足を洗おうと思う」

 おお、と、呻きとも感嘆とも取れる声が端々から上がる。しかしそれだけだ。今この場で、彼の決めた事を受け入れるのは実に自然な流れだと思えたからだ。アルベリヒが続ける。

「自分は怖いもの知らずだと思っていたが、最近は臆病になってしまった。俺は失うのが恐ろしい。こうなるとハンターとしては失格だ。失って恐ろしいと思えるものが出来てしまってはな」

「いやあ、照れちまいまさぁ」

「ルイージ、あんたの事じゃねーよ」

「いや、ルイージも大事な繋がりの一つさ。俺が得てきた沢山の繋がりを断ち切ってはいけない。だから俺は、幾ら正しい決断であったとしても、専務が自決を選択した事を許容しない。俺は絆を強く結んで、これからも生きて行く。だからエルダ、君、全てにかたがついたら俺と結婚してくれないか」

「はい、私でよろしければ。謹んでお受け致します」

「ありがとう」

「でも、魔女としての修養は今後も続けますが如何ですか」

「夕食にイモリの黒焼きを出すのはご勘弁願いたい」

 二艘の船が舳先を同じ方角に向け、長い航路を共にする。結婚という人生の大きな分岐点が、いともあっさりと一同の目前に展開した。手を取り合うアルベリヒとエルダを囲む周囲の視線は『唖然』である。前々から良い仲だと自他共に認めていた2人であるので、そういう流れになっても驚く事ではない。が、童話の一部を切り出したような結婚の取り交わしを目の当たりにすると、グウの音もでない。たまらずシルヴィアが声を張り上げる。

「負けぬ!」

 何に。

「実は私も婚約したのでしたーッ! 誰だと思う?」

「ルカさんでしょ?」

「何で知っているの」

「いや、今までの流れからして、分からんはずはない」

「あらそうなんだ。いやはやこれは参ったわね」

 カラカラと大笑し、シルヴィアは薬指にはめた銀の指輪を誇らしげに掲げた。「さあ、ルカも」と言外に促すシルヴィアに押され、ルカも照れ臭そうに頭を掻きつつ、同じ意匠の指輪を皆に見せた。

「長く兄妹のように暮らしてきましたので、少々情緒に欠けるような気もしますが…。まあ、そういう事です。この人と共にこれからも生きて行こうとは、ずっと前から決めていました。こういう道筋を歩く事が出来て、今はとても幸せです。尤も、ここに至るまでの描写を振り返ると、色気もへったくれもあったもんじゃありませんが」

「書いている奴がそういう微妙な心模様を表現するのを不得手としているからな」

「ともあれ、おめでとうございます!」

「おめでとうでさあ」

「おめでとうございます! いや、目出度い。これでガレッサBldも安泰ですよ」

「アルベリヒ、ハンター辞めるんならウチに来ない? ラテン気質にゲルマン風味が加わると変な化学反応を起こして面白そう」

「面白いって理由はちょっと。しかし助かる。ありがたくそうさせて戴きたい。結婚、いきなり無職では甲斐性なさ過ぎだからな」

「これからは金勘定に頭を抱える人生ってワケね。そうだ、いい事思いついた。ダブル挙式ってのはどうか。場は盛り上がるわ、お金を節約出来るわで一石二鳥!」

「シルヴィア、落ち着きなさい。結婚式という大事なイベントに対して、ざっくばらんにも程があります」

「書いている奴がそういう微妙な心模様を表現するのを不得手としているからな」

 弔いの場が一転し、朗らかな笑い声に包まれた。もしもビアンキ専務がこの様子を見ていたならば、やはり微笑みながら見守っている事だろうとヴィルベートは思った。ふと、肩を竦めて苦笑するエイクに目を向ける。

「どうしたんだい?」

「何だか最後の戦いを前にして、死亡フラグをバンバン立たせているような気がしてね」

「物騒な事を言うんじゃねーの」

 エイクの頭に軽く拳を置き、つられてヴィルベートも苦笑した。

 エイクの言う通り、まだ最後の戦いが控えている。シルヴィアは「破壊者」の役回りから離脱し、既に彼女自身の心は解き放たれて自由だ。それだけに、もしもサマエルが力を取り戻すならば、彼女の存在を許容する可能性は皆無である。否応無く怒涛の流れに巻き込まれるその前に、何としてもケリをつけなければならない。

「勝てるのかね?」

 ヴィルベートは簡潔な言葉でエイクに聞いた。アンチ・クライストとして、この先の未来をどのように見通すのかと。

 当然ながら、そんなものは彼にも分かるはずがない。それを承知でヴィルベートは問うたのだ。よってエイクは、回答ではなく意思で彼女に応じた。

「勝つよ」

 これもまた、簡潔な言葉だった。

 

ツインピークスの黄昏 其の二

 この世ならざる者達の襲撃が終結してしばらく、敵側からの能動的な気配は一切絶たれている。大攻勢の多くを返り討ちにしたからというのもあるが、矢張り真下界における石柱の機能が著しく損なわれたのが大きい。この世ならざる者が無尽蔵に繰り出されるシステムは停止し、つまり新たな敵が出現する機会は、一時的であるかもしれないが失われたという訳だ。

 しかしながら、この一連の戦いの末に残された既存の敵は、煮えたぎらせた挙句に壷の底に残った、濃度の高い毒液のようである。何れも危険極まりない、桁外れの存在ばかりだ。

 その中で最も濃い毒、サマエルは、虚無の神との決戦を勝ちで終えた後、ツインピークスから外に這い出た形跡が無い。未だかの場所に留まっているのは明白だが、その状況が如何様なものかは分からなかった。

 それでもサマエルとは雌雄を決する必要がある。あれをどうにかせねば、ラストストーリーに完の一文字を穿つ事が出来ない。以前に増して立ち入りを厳禁とされたツインピークスに、ハンター・斉藤は有志を募って調査を買って出た。彼は以前、アルカトラズ島の真租封印の場を偵察するという大仕事を担ったが、本質的な危険度を言えば此度は度を越えている。

「何だこりゃ」

 ツインピークス周辺の道路を一周しつつ、斉藤はこんもりと積まれた白い粉の塊が幾つか散見される場に出くわした。手にとって、まじまじと観察する。

「塩だと? 何で塩の柱が?」

「博士達が言っていた」

 同行者の1人、神余が吐き気を堪えるような顔で言った。

「ツインピークスにおける最初の異変発生時、封鎖を担当していた警官が何人か逃げ遅れて行方不明になったとか」

「まさか、人間の成れの果てかよ!」

 慌てて手を払い、斉藤は一歩退いた。名も無き神がソドムとゴモラを焼き尽くした際、禁を破ってその様を見たロトの妻に処した制裁と同じだ。

「いや、真実は違う。名も無き神は許しを与える事を検討していたが、遣わした2人の天使が先走った挙句にああなっちまったんだ」

「いきなり何言い出すんだよ、サイトー。ともあれこの所業、正しく敵は天使ってワケだ」

 ナタリアが十字を切り、忌々しくツイン・ピークスを見上げた。

 風光明媚なその丘は、件の異変発生以降、凡そ定型を為していない。まるで蜃気楼に包まれているかの如く、絶え間なくその姿を揺らがせている。その現象は、彼女が立つ正に10mと満たない場所で起こっているのだ。泥を啜ってでも生き延びるハンター的な勘どころからすれば、放置して遁走すべき状態である。

「で、サマエルのヤローをどうにかするには、この中に入らにゃならんと。そいつをやり遂げようにも事前確認の為に、これまたやっぱり入らにゃならんと。生きてきて最大の罰ゲームだわ」

「そう言うなよ。じゃあそろそろ行くか。みんなで」

「斉藤さん、逃げ屋兼探り屋が本業の斉藤さん」

「何が言いたい神余」

「戦闘を一切控えて調査を主眼とするなら、極力人数を排して挑む方が確度の高い仕事が出来るものと考えた由。手早く言えば実験台になってくれませんかって事」

「手早く言い過ぎだろ」

「塩の柱になる為の人生は勘弁」

 と、ナタリアの携帯電話から着信音が響き、地味なせめぎ合いを始めていた2人に手を挙げて黙らせた。相手はヴィヴィアンだった。ノブレムの吸血鬼である。本隊から離れてハンター達と共闘していた彼は、今度も調査行動に助力していた。

 ナタリアはほとんど聞き取れないくらいの声で素早くヴィヴィアンと話し、5秒とたたない内に電話を切った。そしてバツの悪そうな顔で曰く。

「あの坊主、ツインピークスに潜入開始したってよ」

 

 塩の柱と化した骸を目の当たりにしたところで、ヴィヴィアンならば「かわいそうに」と呟くも躊躇無く歩を進めるだろう。ハンターとは異なる形で幾多の修羅場を潜り抜け来た、彼もまた上位戦士階級であるからだ。

 ツインピークス一周の散策のみで済ます頭はヴィヴィアンには無い。この手の潜入行を彼は昔から得手としている。周囲の茂みが微妙にぼやける中、彼は目視と生来の勘を頼りに頂上目指して進み続けた。その道すがらで分かったのは、携帯電話でのやり取りが正常と異常の狭間に位置するツインピークスでも可能という事だった。このような状況でも離れた場所から連携を取れるという一点は、大きなアドバンテージを取れるはずだ。

(連携ねえ)

 ハンターの女に繋いだ電話を切り、ヴィヴィアンは目を細めた。自分が何ら問題なく侵入していると分かった今、彼らも躊躇を捨てて行動を開始している事だろう。さすがにサマエルが控えていると分かりきったこの場所を、単独で行動するのは些か心許ない。

 不思議なものだとヴィヴィアンは感嘆した。自分は人間どころか、同属の吸血鬼相手でも決して社交的には接しない者だと考えていたのだが、今はこうして人間を頼りにしようという思考に至っている。レノーラの影響かとも思ったが、それは小さなきっかけに過ぎないと彼は考えを改めた。これは見紛う事無き自分自身が起こした変容なのだ。自分が行動をし、結果こうなった。それは実に悪い事じゃないと、彼は自負した。

 草木を掻き分け一頻り勾配を歩き詰め、程なくヴィヴィアンはツインピークスの開けた場所の、一歩手前に到達した。ツインピークスは小さな山であり、切り開かれた頂上付近以外はささやかな森で覆われている。ここからの眺めは特に夜景が最高だ。市民の憩いの場であると共に、観光客にも人気のスポットである。それなりに広い公園のような頂上付近に至るには、道路が一本しか通じていない。尤もヴィヴィアンは安全を鑑み、道なき道を敢えて進んだ訳だが。彼はその慎重さを損なう事無く維持し、その場に息を詰めて待機した。

 視力が極度に発達した彼でなくとも、遠目にその姿を確認出来る。サマエルが居た。事前の情報通り、今はマクシミリアン・シュルツに憑依している。一見、特徴的な印象の無いその青年は、綺麗な姿勢で立ち尽くし、閉目するのみだった。強制的な憑依であるからには、何らかの異変を体で表現してもおかしくないはずだが、あまりにも奇妙な静謐さをマックスは保っている。

 ヴィヴィアンは静かに携帯電話を取り出し、先のハンター達現状を報告した。程なく彼らも、自身の居る場所にやって来るだろう。携帯電話を仕舞い、ヴィヴィアンは気配を極力消してその場に留まった。

 サマエルが彼に気付いているとは、どう観察しても思えない。このままじっくり見るに留めるのも、あまり意味の無い事だとヴィヴィアンは思った。故に彼は、ほんの少しだけ接近を試みる事にした。それでも慎重に慎重を重ね、彼は一切の物音を立てず、茂みと公園との境目から静かに一歩を踏み出した。

 そして同時に、マックスの姿をしたサマエルがヴィヴィアンの目の前に立っていた。

 

 ヴィヴィアンとは別ルートの、頂上に至る道路をハンター達は駆け上がる。そして目指すその区域から、青白い閃光が発する様を彼らは見た。

「何だよ!?」

 と、ナタリアが叫んだ直後、彼らの視点からほぼ真横一直線に、一筋の光線が文字通り光の速さでツインピークスの斜面を舐め、更に剣を下段から振り上げるように空へと立ち昇った。

 その一撃が薙いだ麓の建物は瞬時に消え去り、その痕に塩の粒がさらさらと宙を舞う。当然ながらツインピークスの斜面も塩の道と化していたが、僅かな間を置いて元の木々が復元された。

「一体これは」

 何なんだ。そう続ける事も叶わず、ナタリアの目の前が真っ白になった。斉藤と神余も同じく。彼らは体の内側から血液が沸騰するような感覚を最期の記憶とし、即死して塩と化した。

 

 そして気付いた時には、寸分違わぬその場に立つ自分自身をハンター達は確認する。何が起きたのかを理解する為に躊躇するその間に、彼らの元へヴィヴィアンが滑り込んで来た。

「戦士級が人間の間近に居て大丈夫なのか?」

「斉藤、冗談を言っている場合ではない」

 普段の冷静沈着さが完全に損なわれた凄まじい形相で、ヴィヴィアンは斉藤に言葉を返した。

「あんなものが相手では。あんなものを前にすれば、それ以外のどんな生き物だって友達さ」

「落ち着く落ち着く。コンセントレーション」

 神余は深く呼吸を繰り返し、改めて周囲の状況を確認した。

 途絶した記憶が定かであれば、サマエルが放った光は、その射線上の山肌を確かに蒸発させたはずだ。今は嘘のように木々が復元し、しかしながらツインピークスの麓の建物は塩と化して崩れ去ったままだった。あの可哀想な警官達の末路のように。そして目も眩む輝きが自分達目掛けて。

「ちょっと待て。じゃあ私達も」

「一度死んだよ。僕もだ。一発目でやられた。そしてたちどころに蘇生したんだ。その直後の二発目で、君達が塩と化して生き返る様の一部始終を見た。我が身に何が起こったかを知った訳さ」

「何故生きている」

「あの木々のように復元したんだ。何故かって? そんなものはサマエルに聞かないと分からないよ。一つ言えるのは、こんなところに居たらまた塩にされるって事だ」

「今日は随分饒舌だね」

「神余、冗談を言っている場合ではない」

『ハンターかい!?』

 神余とヴィヴィアンの会話に、異質な声が割り込んできた。その場の全員の背筋が震え上がる。声の主はマックスである。

「ならばサマエル」

 神余の呟きに、マックスの声は応じなかった。代わりに返してきたのは、否、と絶叫する強固な意思そのものだった。僕は正真正銘、マクシミリアン・シュルツなのだと、彼は言葉にならなくとも信じるに足る心をハンターと吸血鬼に示してきた。

 そして一行の脳裏に、怒涛の勢いでもって情報が流れ込む。マックスが体験した一連の出来事を、それはつぶさに教えていた。

 

 当初モーターハウスに居た彼は、気が付けばツインピークスの頂上に立っていた。そして指一本動かす自由すら束縛されている状況を知る。

 こんな力技を瞬時に実行出来る存在をマックスは承知している。当の存在、サマエルは、最も危惧していた彼への憑依をどうやら実行したらしい。しかし何かが決定的に違う。その違いは直ぐに分かった。マックスは自分を取り囲むようにして張り付くサマエルの気配を濃厚に感じていたが、其処に心が見当たらないのだ。サマエルの抜け殻に自分は拘束されている、という表現が正解かもしれない。ならば奴は何処に居る、と思い至ったところでマックスの体が勝手に動き出す。

 周囲の気配を探り出した自分自身にマックスは驚いた。異物を排除するという意図がその行動に込められている。無論、そんな事を自分は全く考えていない。行動を起こしたのはサマエルのはずだ。しかしこの場に居ないのに何故だ。マックスは怒声を放ったが、それも声にはならない。

 突如視界が魚眼のように広がる。人間が捉えられる感覚では有り得ない景色を前に、危うく恐慌に陥りかける。しかし彼の目は容赦なく、しかも自由自在に周辺の状況を確認し始めた。

 そこから一歩も動かずに、視点だけが一挙に俯瞰の位置へ飛ぶ。上空からツインピークスを眺め、瞬時に降下して麓を矢継ぎ早に映し出す。警官隊が何組も配置されている。それらはサマエルにとって全く脅威に成り得ず、むしろ守護すべき人間達であるはずだ。まさか、とマックスは思う。サマエルの意図が排除を選択するとは。

 自身の体から溢れ返る理力がマックスにも理解出来る。逃げろ、と叫ぶも声が出ない。先ずはツインピークスそのものを我が聖地と化す。ツインピークスという限定された区域において、マックスという脆い人間の体に一切の傷痍を及ぼさないようにする為だ。しかしそれが副次的に、その区域内の全生命を高い確率で不死とする効果を波及した事に、サマエルの意図はさしたる注意を払わなかった。続けざま八方へ理力を放射し、麓に居る人間達を余さず消滅せしめんとする直前、マックスはこちらに接近してくる異物を察知した。

 博士と名乗る奴ばらか。

 ようやく口に出来た言葉は、マックスのそれではない。ただ、博士とサマエルが称した異物の他に、もう一つ奇妙な違和感をマックスは覚えた。何だ、と思った直後、マックスの意識が途絶した。

 次に気付いた時、マックスは区域内に居る複数の生命体を察知した。今居るハンターと吸血鬼の事だ。多かれ少なかれ、彼はその者達を見知っている。それは混濁する灰色の世界に差し込んだ、幾筋かの光明であるとマックスは思った。もうすぐ自意識が再びサマエルの意図に呑み込まれるだろう。その前にマックスは、あらん限りの心で知り得る限りの警告と助言を発した。しかしながらマックスの意思は、何処かしら溢れ返る言葉を代弁するかのような気配があった。

 

 サマエルの魂はここに無い。あるのは意図と理力だ。これは自分に接近する者を排除する為に施した罠だ。

 普段の意識は闇に落ちている。しかし頂上の区画に一歩でも侵入すれば、「サマエルの意図」はツインピークス区域内の全ての存在を知る事が出来る。察知したが最期、攻撃行動を開始する。件の放射攻撃も間違いなく使ってくるだろう。

 攻撃行動の終了条件。

・頂上の区画から『意図』が敵性と看做した全ての存在が立ち退けば、その内に収まる。しかし再び区画に足を踏み入れればもう一度始めからだ。

・マックスの意思を、一時的にでも覚醒させる事だ。そうすれば短時間、マックスが自身の体の支配権を取り戻す事が出来る。

 ツインピークス区域内において高確率で死ぬ事が無いのは、ここがサマエルの理力に満たされたフィールドだからだ。ただ、その不死性が『高確率』である点に注意しなければならない。つまり、運に見放された時は死ぬ。人間だろうが不死身のこの世ならざる者だろうが、死ぬ時は容赦なく死ぬ。

 マックスに憑依した「サマエルの意図」は破格に強い。勝つ為にはどうすればいい?

 マックスの意思を完璧に覚醒させる。これしか無い。

 マックスの体を完全にマックスのものとさせる。どうやって、と問われれば、彼の意思を出来るだけ長時間引き摺り出す努力をする事、と答えよう。ハンターの中には精神に作用する力量を保持する者も居るし、これまで築いてきた彼との繋がりは君達にとって宝に成り得るだろう。

 しかしそれだけでは「サマエルの意図」を抑え込むのは困難である。よって力を行使する事だ。今の彼には熱核反応をもってしても傷一つ負わせる事が出来ないが、ハンター達の力は「サマエルの意図」を弱める事が出来る。弱めれば、マックスの意思を表出させる機会が生まれる。銃で撃とうがナイフで切りつけようが、マックスは決して死ぬ事は無い。ただ、今の彼の運動能力は度を越えている。非常に厳しい戦いを強いられるだろう。

 それでも手段はある。理力の放射を遮る盾は2つ。1つは人。もう一つは物。盾を利用すれば、攻撃は決して不可能ではない。

 マックスが支配権を取り返せば、ここではない何処かに居るサマエルは、その魂の行き場を失うはずだ。つまり地上に君臨する機会を喪失する。魂そのものを封じねば、また「器」を獲得する企みが継続するのだが、当座の危機を凌ぐ事は出来る。

 もしもマックスの覚醒に失敗すれば、彼の意識はサマエルに取り込まれる。そうなればサマエルは帰還を果たし、今のルシファを凌駕する存在になる。

 何が正しく、間違っているのか。その判断を尊重しよう。

 

「ふむ。どうも妙だな」

 今はジェイズ・ゲストハウス。ツインピークスから帰還した人々の話を一通り聞き終え、ジョーンズ博士は思案に耽った。

「妙とは?」

「いや、事ここに及んでこのような事を言うのもあれだが、怒涛の勢いで反攻の手段を整えつつあるものだ、とな。それではその情報について興味深い点を話そう。先ず、件の桁が外れた理力放射だが、盾に成り得る2つの内、人というのは多分この私だ。次にマックス確保の為に戦場へ向かう際は、私も同行して盾となろう。ブラウン君、止めても無駄だからな」

「今更止めはしませんよ。それでは私は、当初の予定通り市警と共に避難民の警護に当たります」

 ファレル助手が肩を竦めて苦笑した。

 ほう、と、感心したような声がハンター達の間から漏れる。確かに聖杯で水を飲んだジョーンズ博士は、悪魔はおろか天使すら直接の接触を忌避する存在である。彼に放射攻撃を当てないとすれば、やはりサマエルも名も無き神に畏れを抱いている、という事実を根拠としているのだろう。

「そして『物』だが、まあ、これは皆も想像がつくはずだ」

「ロンギヌスの槍?」

「正解。現時点、サマエルを始めとする天使達への決定打になるのは、それだからね。しかし件の槍、何れに持ち出すかを思案せねばなるまい。サマエルの魂は、ここではない何処かにあるという。そ奴への対処も苦心惨憺の展開になるだろう。ロンギヌスの槍を、どの戦場に持参するか。これはイゾッタ君を始めとした諸君らの判断に委ねよう。して、如何にしてマックス君の意思を覚醒させ、主導権を奪い返すかについてだが…」

 博士は口元に手を当て、また考え込んでしまった。

 こればかりは、確たる正解がある訳ではない。話の中では、これまでの彼との繋がりが鍵になる旨を示唆していた。勿論それは貴重であるが、ひどく曖昧な言い回しとも言えた。結局はハンター達が如何に考え、行動するかに全てがかかっているのだろう。

 それでも、精神に作用する手段というものを、懐刀として携えておくべきだ。そういう力をキュー経由で得ている者は居るし、他にも興味深い才能を授かったハンターが居る。博士はふと、ナタリア・クライニーを見詰めた。

 

 

<H234-7-4:終>

 

 

 

○登場PC

H2サイド

・クレア・サンヴァーニ : ポイントゲッター

 PL名 : Yokoyama様

・ラスティ・クイーンツ : スカウター

 PL名 : イトシン様

・ジークリッド・フォン・ブリッツフォーゲル : ポイントゲッター

 PL名 : Lindy様

・山岸亮 : ポイントゲッター

 PL名 : 時宮礼様

 

H3サイド

・アルベリヒ・コルベ : ポイントゲッター

 PL名 : なび様

・ヴィルベート・ツィーメルン : ガーディアン

 PL名 : 森林狸様

・エルダ・リンデンバウム : ガーディアン

 PL名 : appleman様

・ルカ・スカリエッティ : マフィア(ガレッサ)

 

H4サイド

・アンジェロ・フィオレンティーノ : マフィア(ガレッサ・ファミリー所属)

 PL名 : 朔月様

・エーリエル・”ブリトマート”・レベオン : ポイントゲッター

 PL名 : けいすけ様

・エリニス・リリー : スカウター

 PL名 : 阿木様

・神余舞 : スカウター

 PL名 : 時宮礼様

・斉藤優斗 : スカウター

 PL名 : Lindy様

・ドラゴ・バノックス : ガーディアン

 PL名 : イトシン様

・ナタリア・クライニー : ポイントゲッター

 PL名 : 白都様

・ヴィヴィアン : 戦士

 PL名 : みゅー様

 

 

 

 

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ルシファ・ライジング H234-7-4【サンフランシスコ市民戦争・4】