<南部方面防衛戦線 2>
遅滞戦は追い込まれる気配を見せ始めている。
シェミハザの侵攻はかなり奥深くまで迫っていた。具体的に言えば、防衛部隊はミッション・ベイの深く狭い湾を背中にしており、フリーウェイの終端まで残り500mを切るという状況だった。その先は避難民の区域だ。敵側の同時多発攻撃から逃げてきた彼らを、更に北へと退避させなければならない。そうなれば今でさえ厳しい人口密度が、限界を迎えてしまう。其処へシェミハザが突入してしまえば、一体何が起こるのかは明白だった。
よって、防衛部隊から警官隊の姿が消えた。後方の治安維持と退避活動への人手が全く足りなくなったのだ。フリーウェイ上でシェミハザを迎え撃つのは、庸の選抜部隊のみ。事ここに及んでは、数の暴力で銃弾を叩き込むより、天兵の力量持ちで固めた方が効率的である。
市警が残して行ったバリケードに身を隠し、クレア達は静かにその時を待った。先頃メルキオールからの支援攻撃があり、シェミハザは再生の為の停滞に時間を要している。その間に迎撃態勢を整えたクレア達は、初めて試みる罠でもってシェミハザを待ち構える事が出来た。
クレアの携帯電話が鳴る。ラスティからだった。
『ハイ、調子はどう?』
「絶望的に順調よ」
言いながら、クレアは視線を先に向けた。シェミハザに未だ動きは無い。そして敵が向かうその先に、一台のタンクトレーラーがフリーウェイを塞ぐようにして横付けされている。
「助言通り市当局に準備して貰ったわ。物凄く渋い顔をされたけど」
『ま、そうでしょうね。主要交通路がメッチャクチャになるんだもの』
「それでも百や千の単位で人死にが出るよりマシ。大分マシよ」
『全くもってその通りだわ』
「ごめん、そろそろ切る」
電話を畳み、クレアは傍らのオフロードバイクの後部座席に跨った。シェミハザが動き出す都度、こうして2人乗りのバイクでもって敵の進路を誘導するのは、半ば常套手段と化していた。シェミハザへの接近は即死の危険を伴う荒業であったものの、こうでもしなければ敵はフリーウェイを外れ、迎撃がままならなくなってしまう。この繰り返しで、シェミハザの侵攻速度を大きく削れたのは間違いない。
しかしながら、このようにシェミハザが囮につられて即物的反応を示し続ける事に、クレアは不安を感じていた。
敵は本体が別の場所に居る。あの死体の塊は操られて動いている訳で、自律稼動の効く代物ではない。だから、こうまで丹念に囮を追ってくる蒙昧さが逆に不自然であった。何か裏があるのかもしれないと思うも、クレアは頭を振って渡されたヘルメットを被った。
「出ますよ」
「GO」
庸のライダーがクレアの指示を受け、4気筒エンジンを目一杯回した。初動から一挙に加速し、オフロードがシェミハザ目掛けて突進する。瞬く間に件の威容が視界に迫り、何処が前面なのかも分からない敵の注意がこちらに向かった。
合わせてオフロードが急減速をかけ、ドリフトターンを切る。外向きのGに吹き飛ばされそうになる体を抑え、クレアは片手持ちの突撃銃で薙ぎ払うような銃撃を放った。狙いを定めるも何も無い。ただ一発でもシェミハザに掠れば良い。そしてシェミハザは思惑通り、3対の『足』を突出させた。
「地獄の鬼ごっこの再開ですね」
「フリーウェイから投げ出されるくらい加速して!」
再び全力で反転発進するオフロードに、シェミハザが恐るべき速度で迫ってきた。とは言え、さすがに時速100km以上をシェミハザとて出せる訳ではない。加えてクレアが阻止射撃をリズミカルに繰り返す成果もあり、バイクとシェミハザの距離は離れる一方だった。が、突如シェミハザが『足』の一本を墳進弾の如く伸ばして来た。
咄嗟に反撃の射撃を繰り出すも、『足』は肉片を散らすのみでバイクの速度をものともせず、一挙に距離を詰めてきた。突撃銃は弾切れ。クレアは鬼の形相で、物言わぬ遺骸の幾つもの目を睨み返した。自らの前面に防御をイメージする。『足』は到達寸前で弾き返され、地面にのたくる姿を晒した。
「さすが天騎の位」
「いいから全力で逃げなさい」
ライダーの軽口を黙らせ、クレアは別の携帯電話を取り出した。シェミハザは変わらぬ速度で追って来るものの、庸の陣地でバイクを止め、降りて状況を観察するくらいの猶予はある。そしてシェミハザの姿が、件のタンクトレーラーに最接近する様を見た。
「バーベキューになってしまえ」
携帯電話を送信。タンクトレーラーに仕込まれたIDEが作動。炸裂。
石油が詰まったタンクが直上目掛けて火柱を噴き上げた。間際に居たシェミハザも巻き込まれ、瞬く間にその体が紅蓮の炎に包まれた。
仲間達から快哉の声が上がる。シェミハザの動きが、目に見えて遅くなったからだ。撒き散らされた石油が付着した状態で体を焼かれれば、修復に時間がかかるのも当然だ。これで貴重な時間を再び稼ぐ事が出来る。と、クレアが安堵の息をついたのも束の間、その声が聞こえてきた。彼女だけではない。この場全員の脳裏へと。
『熱い』
『熱いよ』
『体が崩れる』
『誰か助けて』
それはシェミハザの、甘ったるい誘い声ではなかった。苦しみと嘆きのこもった怨嗟であった。まさか、と、クレアが戦慄する。
「これは、シェミハザに取り込まれた死人の声」
「嗚呼、可哀想に」
とある一室で、一人の天使が憐憫の溜息を深々とついた。
「可哀想な君達。さぞかし熱かろう。苦しかろう。しかし人よ、天使とは異なる者よ。君達は私達と違い、怒りと憎しみを力の糧に出来るんだよ。それはとてもとても、力強くて素晴らしいものなんだよ」
天使は閉目したまま、恍惚の笑みを浮かべた。
<その名は、Who 2>
避難してきた市民達が密集する北東地区にあって、その区画に人気が全く無いのは驚異的な事だった。尤も其処は市警が張った非常線の間際にあり、事と次第によっては即座に撤収せねばならない。だから市当局の人間が逗留する場所であり、よって市当局による一時的な退避命令が速やかに行き渡った訳だ。
その誰も居なくなった区画に、フウは現れた。ぎっしりと人で埋まったユニオン・スクエアに比して、余りにも不自然な状況の変化である。しかしフウは、凡そ心を動揺させる事が無い。彼は無表情な顔のまま、言われた通りにこの場所を訪れただけである。
フウは着信音が鳴った携帯電話をポケットから取り出し、己が耳に当てた。
「多分君は気付いていないと思うが」
フウは相手が喋る前に自ら切り出した。
「君が携帯電話をポケットに捩じ込んだ一連の動作は把握していたよ。私はどうも注意力が鋭いようだから、次からは気をつけた方がいい」
電話の相手はしばし絶句していたものの、気を取り直したのか幾分明るい声で言った。
『はは、どうもスリの才能は無いみたいだ。僕の事はサイモンと呼んで欲しい』
「偽名だな。しかし、それは別に良い事だ。こんにちは、サイモン」
言って、フウは体の向きを変えて軽く手を挙げた。然程距離を置かない位置のビルの一室で、人影が窓から退く動作をフウは見た。話し相手が其処に居る事をフウは理解したのだが、それが何故かは分からない。自身の感覚が人間の域ではない事に、彼は無自覚だった。お構いなしにフウが続ける。
「君が誰で、何者であるかは別に良い。要は私が誰で、何者であるかだ。君は私に携帯電話で連絡を取り、こうしてこの場所に誘ってきた。まず、ユニオン・スクエアでなくどうしてこの場所なのかを教えて欲しい」
『…それは、この街にとって貴方はあまり安全な存在じゃないからさ』
僅かに震える声で、サイモンが答えた。フウが首を傾げる。
「どういう意味だ?」
『話をする前に、まあ一杯やろうじゃないか。其処から真っ直ぐに進んで、曲がり角の紙コップを見つけるんだ』
フウは言われるままに歩を進め、程なく紙コップを見つけた。手に取ると、中にはどろどろした赤黒い液体が入っている。フウは顔をしかめたものの、それがこの上なく渇きを癒してくれる至上のものにも思えた。震える手で口元に運び、一口喉元へ流し込む。胃の腑に馴染むには、その液体は唐突だった。激しくむせ返るフウを宥めるように、サイモンがまた話しかけてきた。
『気をつけろ。ゆっくりと飲むんだ。それで君の空腹も少しは和らぐはずだ』
「どうした事だ…。何も食えなかったこの私が。これは何かの血じゃないのか」
『牛の血だよ。魔法の粉で臭みを抜いているから飲み易いだろう?』
「どうしてそんなもので、私の空腹が満たせるのだ」
『フウ、ここからが本題だ。聞いてくれ。今度は傍の植え込みの写真を見るんだ』
当惑しながらも牛の血を全て飲み干し、フウは紙コップを折り畳んでポケットに捩じ込み、指示通りに写真を手に取った。1人の女性が写っている。誰だ、と思った途端、得体の知れない感情が荒波となって押し寄せてくる。
「誰だ!?」
携帯電話にフウが怒鳴った。これまでのぼんやりした調子が消え失せ、その声は明らかな激情にかられている。
「教えてくれ。この人は誰だ!」
『落ち着くんだ、フウ。落ち着いて。もう少し時が経てば、君は彼女に会う事も出来るだろう。彼女は君にとって、きっと命に代えても守りたい大事な人なんだ。でも、その彼女が何者かの手によって命を落とす可能性があるとしたら、君はどうする』
「助けに行く」
全く迷い無く、フウは言い切った。
「彼女の為に戦う。それが私の存在意義だ。何故かは分からんが、強くそう思う」
『その何者かは強いよ。神様ではないけど、神を想起させる恐ろしい存在だ。それでも守れるかい?』
「守る。私ならば守れる。必ず守れるはずだ」
『…いいだろう、フウ。貴方は今、心に大きな変容が発生している。唐突な出来事の連打を前に躊躇をしているだろう。だから、しばし待つんだ。まだ君が動く時じゃない。必ずこちらから連絡する。悪いようにはしないよ』
遠めに見ても、フウの纏う雰囲気には凄みが追加されていた。アンジェロは身を翻して立ち去るフウ、ジル・ド・レエの後姿を見送り、ヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。自分の位置を把握されているのは承知しており、ジルがその気になればこちらに向かってくる事も出来たのだ。それは、彼の覚醒が未完成である事を意味している。アンジェロは震える指で、携帯電話を別の番号に繋いだ。
「やあ、エーリエルさん」
『お疲れ様、アンジェロ。上手くいったのね』
「何で分かるんだい」
『生きているからね』
「そりゃひどい」
アンジェロはカラカラと笑った。度を越えた緊張感から解放されれば、出てくるのは突き抜けた笑い声である。笑いながらアンジェロは、確かな手応えに浸った。あのジルを、自分は言葉で誘導する事が出来たのだ。しかし写真たったの一枚で、彼のスイッチが入りかけた事に対して慎重に対処する必要があると、アンジェロは心の冷静な部分で認識する。戦いは始まったばかりであり、ジルに仕掛けられた罠は未だ残存しているのだ。
<満月の日>
吸血鬼の長、ルスケスは出鱈目な性格であるものの、「やる」と言った事は概ねその通りに実行するものだ。
血の舞踏会開幕刻限、満月の日の朝が明けた。それからの凡そ12時間は、今も過酷な闘争を繰り広げている対シェミハザ戦を除き、意外な程に静かであった。
ルスケスによるサンフランシスコ全市民を対象とした宣戦布告に関しては、当然ながら誰しもが知っている。聞き逃す、等という逃げ道をルスケスは許さなかった。しかしながら外敵の襲来という現実への実感を、未だ人々は持つ事が出来ていない。アウター・サンセットを壊滅に追いやった大破壊を、爽やかにさえずりながら人間をその身に取り込み続けるシェミハザの狂気を、そして人間を生きたまま捕食する吸血鬼の脅威を、大半の人々はその目で見ていないからだ。
それらを極力見せないようにすべく、ハンターと彼らに纏わる者達が血を吐いて続ける努力を人々は知らなかった。皮肉な事だが、その努力が人々の不安を必要以上に薄めている、とも言えた。市当局によって治安維持が徹底され、最前線のハンターがこの世ならざる者達の侵攻を抑え、死体の数は最小限に食い止められている。おかげで人間の領域に押し込められた人々は、非常時ながら以前と変わらぬメンタルでもって民度の高い生活を維持出来る。もしかすれば、外敵など恐れるに足らずではないか。そういう向きも、当然ながら出てくる。
しかし、満月の日がやってきた。人間の価値観を大転回させかねない、人外との戦争が始まる日が。
朝日がようやく顔を出した頃合に、三人連れの男女がル・マーサ本部の扉を叩いた。1人の壮年の男性が中から顔を出し、三人連れに丁寧な挨拶を寄越してくる。
「おはようございます。どうかなさいましたか?」
「申し訳ありません、一時休ませて頂く事は出来ませんでしょうか」
と、三人の中から硬質な雰囲気の女性が、面立ちに合わぬ狼狽した口調で願い出た。
「私達、市が発令した避難勧告に応じられなかったのです。何せ弟が対人恐怖症なもので、人でごった返す避難生活には耐えられそうにありませんでしたし。でも、周囲に誰も居ないのはあんまり怖いものですから、ル・マーサのお宅ならば、どなたか居て下さるのではないかと」
「怖いよー。人が怖いよー」
「嗚呼可哀想なお兄ちゃん。迷子の小鳥のようなその姿」
掌を組んで頼み込む長姉の隣で、フードを頭からすっぽり被った弟が震え、妹が引きつり気味の顔で彼の背中を擦っている。応対したマーサの男は眉根を下げ、それは大変ですね、と言った。
「分かりました。どうぞお入り下さい。マーサは頼ってくる方々を決して拒みません。お部屋は沢山空いておりますから、一室お貸し致します。そうそう、私はガリンシャと申します。以後お見知りおきを」
『ありがとーございます』
三人は機械仕掛けの人形の如く、寸分違わぬ角度で頭を下げ、案内するガリンシャの後をついて行った。通りすがるマーサの会員と会釈を交わしつつ、長姉がガリンシャに問う。
「部屋が空いていると仰いましたが、大体の方は避難されていらっしゃるので?」
「ええ。市の勧告には従いませんとね。でも、こうして皆さんのように逃げられない方が尋ねて来られる事もあります。その為に私達は逗留しております」
「やはりル・マーサは素晴らしいです。フリスコ一番の善い人達ですね」
「怖いよー、人が怖いよー」
「嗚呼可哀想なお兄ちゃん。捌かれる寸前のイカの如く寂しい目」
ガリンシャは三人を二階へと連れて行き、階段間近の一室に案内した。其処は数ある客間の一つという事らしい。ガリンシャは後からお茶をお持ちしますと言い置いて、部屋を辞して行った。彼の足音が遠くに去るのを聞き届け、三人はガチガチに固まった姿勢を一息にほぐし、椅子やソファ、或いはベッドで、だらしない格好でくつろいだ。
「下手。演技、下手過ぎ」
椅子からほとんどずり落ちそうになりつつ、ヴィルベートが額を押さえて言ったものだ。
「もうちょっと自然にしないと。エレメンタリーの演劇の方が、断然見応えがある」
「仕方ないでしょうが。大体私は、こんな行動をアクトに書いておりませんので。そもそも私の方が年上なのに、何で弟役?」
「私、末っ子で妹馴れしているんですけど駄目ですか。お兄ちゃん居ませんので若干不自然でしたか?」
弟ことルカ、そして妹のエルダが、揃って疲労困憊の声を上げた。
かような顛末を迎えたには理由がある。
オペレーション:オルレアン。その初手の段階として、ヴィルベート達は先行して侵入を果たす事に成功した。尤も、本来「心が弱った可哀想な男性」役は、ヴィルベート配下の多治見要蔵が担う予定だったのだ。ところがマーサ本部周辺には、次席帝級すら跳ね返す強力な結界が施されている。よってこの世ならざる者に絡む存在は、全てアウトである。アンチクライストのシルヴィアとエイクもアウト。シェイプシフターのマリオとルイージ、当然アウト。入れるのは人間だけ。その事実がある方面から仲間内に知らされたおかげで、彼らは一の手からいきなり戦闘勃発という状況を防ぐ事が出来た次第である。
「私がここに居るという事は、要蔵とクリスも結界内に入り込めたって訳だ。ルカ、あんたのホラーキングとクイーンもね。こいつは凄くでかいと思う」
「しかし、我々の素性は本当に気付かれていないのでしょうか?」
と、ルカがヴィルベートに問う。
「敵はあまりにも深い。常に最悪の状況を考えておいた方がいい」
「そうだね。相手は天使達だ。私達の最大戦力も、結界を突破出来なきゃ中にすら入れない」
「私達は完璧な連動が出来なければ、恐らく勝つ事が出来ないでしょう」
「…勝ちましょう、何としても」
エルダが起き上がり、部屋の周囲を見渡した。
この屋敷の何処かに、専務と、それにアルベリヒが囚われている。シルヴィア達が居なければ、彼らの位置を特定する事すら叶わないだろう。それでもエルダは心を寄せる男の姿を探して、視線を虚空に漂わせた。
「来た。情報が来たぞ」
マーサ本部に先行して潜入を果たしたヴィルベートから、此度の騒乱に対抗する者達の元へメールが一斉に送信されてきた。フレンドによるジェイズ襲撃に備える斉藤には、喉から手が出るほど欲しい情報である。
文面を読み耽る内に、神余とナタリアも階下の酒場へと降りてきた。都合この酒場には、3人の中心核に助っ人のマイケル達が3人、ジェイコブ、SFPDから派遣された選抜10人。現時点で総勢17名がひしめく状態である。
「大繁盛だね」
「誰も酒を飲まんけどな」
ナタリアと軽口を叩き合いながら、ジェイコブがミネラルウォーターの栓を派手に開ける。各々がテーブルに着座し、ジェイズ・ゲストハウス防衛作戦、「バストーニュ」の指揮者、斉藤が中央に立った。
「案の定高級フレンドは大半が本部から出奔しているらしい」
ミネラルウォーターを飲みながら、斉藤が告げる。
「マーサ高級会員、フレンドの残存人数は90人弱。その内8割ほどが本部襲撃に向かうと見ていいだろう。人数は70人前後。結構なもんだ」
「MEWSはマーサの出入りも監視していて、昨晩に不審な出方をしたマーサ会員を捕捉している。その人数は想定と合致して70人程度。その後の足取りはほとんど掴めず。相当の監視網を張っているのに、何故?」
神余が挙手して問う。
「MEWSのEMF探知は、散発的な波形異常をミッションからテンダーロイン間で夜間に察知している。何処かで身を潜めているには違いないが、探知後にカメラに写らなくなった理由は不明だ。狙いは一点であるにも関わらず、その大人数が1人たりともってのがおかしいぜ。徒歩なりでこちらに来れば、誰かが写っているはずなんだ」
「つまり、徒歩じゃないかもしれないな」
「どういう事だ?」
怪訝な顔を向ける斉藤に、ナタリアが難しい顔で答えた。
「瞬間移動。結構位の高い悪魔も使う例のアレさ。高級会員なら、使って来る事は考えられるんじゃないかい」
斉藤が眉をひそめ、その場は静かになった。SFPD選抜の1人が、おずおずと手を挙げる。
「瞬間移動、とはどういう意味なんですか?」
「言葉通りだよ。その場からある地点まで、距離を無視して一瞬で移動出来る。私らが相手にしようとしてんのは、そういう連中」
ナタリアの言葉を受け、選抜隊は憑き物が落ちたようにどよめいた。話だけ聞けば眉唾ものだが、市当局上層部からはハンターが言う内容の全てが真実であると、固く念押しされている。つまりその言葉を信じざるを得ないのだが、それにしてもであった。
「いきなり消えて現れる相手に、一体どうやって狙いをつけりゃいいんです?」
「そもそも一挙に押し寄せてきたら元も子もないよ」
「ストップ。そうした手合いの対処も当然考えているぜ」
ざわめき始めた酒場が、斉藤の一喝で静かになった。
「この周囲には容易く接近出来ない。敵が尋常ではない手合いであれば、こちらの対抗手段も尋常じゃない。しかし結局、頼りになるのは人間の力だ。SFPDの参戦はその意味ででかい。人間ならではの創意工夫を見せてやる」
と、ジェイズ前の道路で車両の制動が聞こえてきた。ゴツゴツと重厚に掠れる複数の足音で、斉藤は誰が来たのかを理解した。
「ラストピースのお出ましだ」
「遅くなりました」
斉藤の声と同時に、ラウーフ分隊長と彼の部下達が大きな足取りで酒場に入ってきた。現状市警側で最も人外との戦いに習熟している5人が、大量の物資を床に置いて一糸乱れぬ敬礼を寄越す。斉藤が進み出、ラウーフと硬く握手を交わした。
「ミスタ・カザマの指示に沿い、我々はミスタ・サイトーの指揮下に入ります」
「いや、ミスタは省いた方が俺も風間もありがたい。ともあれ参戦を歓迎する。しかし、凄まじい武装だな」
「貴方も事が勃発すれば同じ格好になりますよ」
補助動力機構が施された漆黒のプロテクターを着込んだ彼らの姿は、フリッツヘルメットも相俟って、最早重装の軍人である。
「ミスタ…もとい、カザマから支援を戴いたものです。私達は彼の配慮に感謝せねばなりません。その他にも武器類を預かっております」
言いながら、SWATの面々が武器類を机上に並べ始めた。何れも呪法を施した、この世ならざる者を相手にする為の銃器と戦闘服だ。SFPD側にも着々と行き渡る武装の数々を見ながら、しかし斉藤の胸に去来するのは昂揚ではなく、一抹の焦燥だった。
これだけの前準備を施した市警とSWATの一同であっても、敵は彼らと同じ立ち位置に居ない。桁違いの連中なのだ。こうして彼らの命を預かるからには、自身も相応の腹を括る必要がある。人知れず斉藤は、いざという時の覚悟を決めた。
「あ、ちょっと待った」
唐突に神余が声を上げた。イヤホンを耳から外し、MEWSと連動するノートを立ち上げる。そしてモニタを凝視し、淡々と事実を告げた。
「EMF反応確認。来た」
「フレンドか!?」
手近に居たナタリアもモニタを覗き込む。そして小さく舌を打った。
「違うね。固有電磁場の判定が悪魔って言っている」
ノイズが大きく入るモニタ内で、亡霊の如く1人の男が立っていた。歪な笑みを浮かべるその男は、ついと顔を上げてカメラの位置を見据えた。次の瞬間、ブラックアウト。
「クソったれ。カメラを壊された」
神余が控えめに罵り、席を立つ。それと同時に防衛部隊が一斉に行動を開始した。壊されたカメラの位置からジェイズまでは離れているものの、その物理的な距離は悪魔にとって意味を成さない。つまりどのタイミングで仕掛けてくるかは分からないのだ。今しばらく後か、それともたった今か。
先ずは悪魔。恐らくそれと同期してフレンド。多方向から押し込む形をジェイズは取られつつある。無論それはオペレーション:バストーニュの想定の範囲内だ。互いの手札を出し合う頭脳戦の、これが始まりだった。
白壁の家々が鈍い黄金色に染まる朝の道を、漆黒の男が一心に歩いて行く。片手には一枚の手紙を握り締めて。
その男、ジルは、定期的に連絡を寄越してきたサイモンことアンジェロの送ってきた手紙を読んで、再び行動を開始した。此度もジルが進む先ではSFPDの警戒が解かれており、非常線を越えれば無人の野だ。誰も居なくなった大都市を1人歩く絵姿は映画さながらであったが、そうした奇妙な感傷をジルは持ち合わせていない。考えるのはただ一つ、手紙の主のみである。
携帯電話が鳴る。取り出して出る。アンジェロからだった。
「サイモンか」
『やあ。手紙は読んだかい?』
ジルがその場に立ち止まる。一息大きく吸い込んでから切り出したその言葉には、怒りは無いものの異質な迫力が感じられた。
「サイモン。私は、彼女に会わねばならない。この手紙を書いた彼女が、私に助力を求めている。つまり危急の最中にあるという事だ。私は彼女に会って、助けねばならない」
『直接会う事は控えてもらいたいな。いや、してはいけない』
「何故だ」
『君に施された制約が外れつつあるからさ。それはとても危険な事だ。彼女にも害が及ぶかもしれない』
「私が彼女に危害を? どういう意味なのか想像出来ん」
『今はまだ分からなくてもいい。其処で一旦立ち止まって欲しい』
言われた通り、ジルは十字路の手前で止まり、アンジェロからの指示を待った。しかし次に声を発してきたのは、彼が望み焦がれる女からである。
『ジルさん、ですか』
「ピュセル!」
それはジルにとって、脳天に雷が落ちてくるに伍する衝撃だった。彼は自身が吸血鬼の身に至る手前までの記憶を、その一瞬で取り戻した。つまり段階を踏んで、ジルの記憶が再構築されているという訳だ。
彼の精神は虚無の神によって、徹底的な破壊を受けた。しかし精神の核と呼べるものは残されており、つまりそれはピュセルへの思いそのものだった。彼を再び使える道具に戻す為、ルスケスはそれを利用したのだ。彼女に纏わる要素に触れる度、彼の精神に復活の芽が出る事をルスケスは把握し、彼を街中へ放り込んでハンターとの接触を図らせた。ピュセル、と彼が呼ぶカロリナと直接会う事にもなれば、恐るべき次席帝級が人のエリアの只中で復活を遂げる。これが、ルスケスがジルに仕込んだ罠だったのだ。
しかしアンジェロと仲間達はルスケスの意図に乗らず、賢明に行動した。その最後の一線を越えさせない工夫に腐心し、それは功を奏しつつある。ジルは未だ人間側の理性を感じさせる口振りでカロリナに語り掛けた。
「何処にいるのだ、君は。何処に囚われている? 今直ぐにでも救いに行くぞ」
『私は何処にも囚われておりません。既に私は救い出され、これより戦いに赴こうとしております』
「そうであったか。敵はイングランドか? それとも君を陥れた奴ばらか?」
『後者です。私は、私を散々利用してきた者に対して一撃を加える所存です。しかし生死は期し難い。故に、最後となるかもしれないあなたとの対話を望んだ次第です』
「最後などと無体な事を言うな。ピュセル、ジャンヌよ、私は何時だって君の傍らに在って、君を守ると誓ったではないか。その戦い、私も馳せ参じる」
『その相手は、あなたが仕える方でもあるのですよ。それでも?』
「戦う。騎士に二言は無いのだ」
『…それがまことでありますなら』
カロリナはジルに、マーサ本部への襲撃と刻限の頃合を教えた。これにてハンターの陣営は、敵とするにはあまりにも強大に過ぎるジルを、そもそも人間の領域に不発弾として送り込まれた彼を、一時的にでも戦力として加えるという大仕事を成功させた。しかしながらそれは、僅かなきっかけでジルを元に戻してしまうという薄氷を踏み進むような賭けであり、実際にジルの力量は覚醒寸前のところまで来ている。そして彼の鋭敏に過ぎる感覚が、カロリナが匿われている「頑丈なオバケ屋敷」の位置を捕捉した。
「君、見つけたよ!」
然程遠くない位置にオバケ屋敷は在った。カロリナとの通話が即座に断ち切られると同時に、ジルが弾丸の速度で間を詰めた。扉に向かって突貫するも、中に入り込んだと同時に濃厚であったカロリナの気が失せた。合わせて手馴れた素早さで退避する複数の人間の気配。
「何故だ。何故私から逃げるのだ」
ジルは当惑したが、直ぐに気を取り直した。何しろ彼女と再び絆を交歓出来る素晴らしい戦場が、あと少し先に控えているのだ。また彼女を守って、存分に戦う事が出来る。それ以上の幸せが他にあろうか。
そして彼は大いに笑った。その笑い声は屈託なく、喜びに満ち溢れ、そして確実な狂気が含まれている。哄笑に圧倒されたかの如く屋敷は崩壊を始め、その只中でジルは張り裂けんばかりに笑い続けた。
ロンパールー○。名称だけを取れば悪い冗談そのもののアイテムだ。しかし対象者をクマ人形に変えて本人を任意の場所に飛ばすという効能は、あらゆる場面で応用が利く。
突如寄せてきたジルに対し、エーリエルがカロリナを逃がす為に使用した訳だが、此度もロンパールー○はその役回りを完璧にこなす事が出来た。ジルの飛び抜けた感覚を完璧に欺き、カロリナは今、新たな移動本部であるピックアップトラックに飛ばされていた。勿論こちらもオバケ屋敷化されている。
「カロリナ!」
ジルから退避した内の1人、エリニスがトラックのドアを急ぎ開き、呆けた顔で座り込むカロリナを覗き込んだ。どうやら彼女らが戻るまで、しばらくの間は茫然自失であったらしい。カロリナは幾度かの呼びかけにようやく反応し、2、3回まばたきした後、不安げな面持ちをエリニスに向けた。
「彼は私に協力してくれます。間違いなく。これで、本当に良かったのでしょうか」
「カロリナ」
言って、エリニスはカロリナの肩に手を置いた。
「駄目よ。カロリナ、アタシはアナタの考えている事が分かる。彼に救われる道は無いのかと迷っている。でも、そんな風に心を寄せても、彼の本質的なところをアナタは理解していない」
「本質、とは何なのでしょうか。本質とは。私は彼が、かつて救国の英雄の1人であった事も知っています。彼が自ら望んで吸血鬼になったのではない事も。そしてジルが狂乱に陥るに至った根源には、私の、ピュセルの狂乱も絡んでいるのです…」
「だから、私には彼を救う責務がある。そう言いたいの?」
と、横合いからエーリエルが話に入ってきた。
「この戦いに参画して頂く前に、念を入れて言った事を繰り返すわ。彼に残された道は二つに一つ。無惨な死を遂げるか、意味のある死を迎えるか。ジルは既に後戻り出来ないところまで来てしまった。ひとたび吸血鬼に戻れば改心は有り得ない。否、彼が殺戮してきた数多の命が、改心など許すはずもない。それよりもあなたには優先すべき事があるでしょう? サマエルに心を束縛されたとは言え、フレンドを作り出す手伝いをしてしまった、その事に対する贖罪を。サマエルに束縛された人々を、解放するという償いを」
畳み掛けるエーリエルの言葉を聞き届け、カロリナは押し黙り、痛恨の意を眉間に浮かべた。エリニスは安堵する。カロリナの意思がフレンドの解放に集中すべきと考え直す、その表れであったからだ。
昨日までは景気良くしゃべり倒していたシルヴィアが、今日この時になって先程から厳しい顔を保っている。ルスケスが宣告した血の舞踏会の開幕が迫り、いよいよマーサ本部に対し一手を仕掛けるというその時から。
「予想外に阻む壁が大きいわ」
モーターハウスの天井で胡坐をかいているシルヴィアが、厳しい目で本部が位置する方角を見据えた。今の彼女が表に出しているのは、冷静沈着な3番目のシルヴィアである。
「僕と彼女の2人がかりならば、結界を破るのは難しくない。でも、少し時間がかかりそう」
シルヴィアの隣に控えるアンチ・クライストのエイクが呟く。その台詞をジークリッドは聞き逃さなかった。
「時間とは、どのくらいなのじゃ?」
「多分、5分以下」
返答を受け、ジークリッドはラスティと顔を見合わせた。2人の表情が冴えないのは、そのタイムラグが重い意味を持っているからだ。
既に襲撃計画は、初手の段階から補正が加わっている。シルヴィアとエイクという2人のアンチ・クライストが、先行潜入を果たしたエルダ、ヴィルベート、ルカ達と行動を共に出来なかった時点で、外部2箇所、そして内部からの同時加圧攻撃へと手段が移る事となった。戦いが進行すれば、祭壇破壊、シェミハザ撃破、アルベリヒとビアンキ専務の奪還という流れになるのは変わらないが、その流れへと至る速度が鈍化するのは間違いない。ジークリッドは親指の爪を噛み、小さく唸った。戦を制するのは先手速攻というハンターの不文律を、彼女は身をもって経験している。
「まあ、そう深刻になる事もないわよ」
ラスティが微笑みながらジークリッドの細い肩に手を置いた。
「流動的な状況の変化なんて慣れっこじゃない。考え方を変えればいいのよ。内と外からの同時攻勢が、三方向の一斉攻撃に変容したと。つまり一層敵の分散化を招く事が出来るってワケ」
「それもそうであるが、矢張りシルヴィアとエイクが心配じゃ。結界破りをするにも守りは手薄になるでな。2人の力は強力じゃ。天使にも対抗出来るであろう。それでも、其処を突かれると痛い」
『その件に関しては、僕に任せて欲しいな』
と、装着しているヘッドセットから、吸血鬼ヴィヴィアンの声が聞こえてきた。彼は会話に参加していないはずだったが、やけに当意即妙な話の切り込み方である。それを問うと、今度はモーターハウスの背後から「やあ」と声が発せられた。
「気配を消してみんなの後ろで佇んでいたよ。あ、牛の血を沢山飲んでいるから結構大丈夫」
「でも、大丈夫? 天使が相手になるかもしれないのだぞ?」
「吸血鬼って奴は呪法の類にはかなり耐性があるのでね。尤も、相手が天使じゃそれも限度はあるだろうけど、多少食い止める事は出来るんじゃないかな」
パン、と拍手し、天井のシルヴィアがヴィヴィアンを覗き込んできた。同時にヴィヴィアンが帽子を深く被って目を背ける。彼の気配りにも遠慮をせず、シルヴィアは屈託なく言った。
「その時は、出来るだけ援護するわ。何といっても、アンチ・クライストは私とエイク君の2人が居るんだし」
「同じく。危急の際は、僕かシルヴィアさんのどちらかが結界破りを維持すればいいと思う」
エイクはヴィヴィアンに目を合わせず、親指だけを立てて寄越した。
上手く纏まりつつある連携に、ジークリッドとラスティは取り敢えず安堵した。「オルレアン」の作戦進行は、各々が持てる力を最大限に発揮出来る環境が整いつつあるという実感を持つ事が出来る。敵は強大だが、対抗出来るという気概も持てる。後は、他の班が進めている最強のトリックスターの参画だ。それの有る無しは間違いなく趨勢に莫大な影響を及ぼすだろう。
そして、情報が彼らの元にも届いてきた。
「成功したそうよ」
信じられないという面持ちで、ラスティがヘッドセットを外した。受けてジークリッドも目を丸くする。
「次席帝級の吸血鬼が、我々の戦列に加わるのじゃな。今更言うのもあれであるが、信じられん」
彼らの言葉を聴いて、ヴィヴィアンはカラカラと笑い声を上げた。人間というのは、本当に面白いなあ、と。
<3つの対話>
「メギドの火、ですか」
メルキオールと京大人を前にして、山岸は顎に手を当てて思案した。
メギドの丘は、善と悪の最終戦争、ハルマゲドンにおける決戦の地、という設定になっている。とは言え、そもそも交通要所であるメギドは古い時代に度々人間同士の戦争が行なわれていた。つまりハルマゲドンという概念はそれら歴史的事象にあやかったもので、言わば人間が想像して作り上げたものだ。最終的に善は神の御許に導かれ、悪は地の底に沈む。善とは敬虔なキリスト教徒。悪とはそれ以外の全て。異教徒。
(多分、そんな決着をジーザス・クライストは露程も考えていなかったと思いますがね)
心の中で冷笑するも、善悪を一刀両断して全てにケリをつけるという解釈が、現実に世界そのものを追い込んでいる現状に、山岸は嘆息した。思想、宗教が絶対に統一される事無く混濁した世の中を、一挙に解決させたいと願った人々の心が、最悪の形で具現化しつつあるという訳だ。
「メギドの火。そりゃつまり、最終戦争に用いる兵器みたいなもんですかね?」
「その解釈は少々違う」
メルキオールは顎を逸らし、目を細めて答えた。その姿は如何にも誇らしげである。
「御父上の力の程は、絶大という言葉でも全く足りていない。世界そのものであると言えよう。例えば、そう、多少でもその気になられたなら、御父上は北米全体を丸込め海にするも容易い」
「そいつは凄いや」
「敬意が見受けられない物言いだが、無礼は見逃してやろう。翻って私達天使の一族にも、比較するのもおこがましいが、御父上に分け身として作られた故の力が備わっている。その力には根本要因、分かり易く言えばコアが存在する。コアはお前達の臓器のように、目に見えて其処にある訳ではない。魂の概念に似るだろう。コアから天使達は力を引き出すのだ」
「そのコアって奴の大小が、天使の位階を定めているんですかね?」
「否。コアは押し並べて同一だ。位階は力を引き出せる許容量によって分けられる。ミカエル、それにルシファやサマエルは、許容量の桁が他の天使とは決定的に違う。私から見ても化け物だ。私などでは、本来全く相手にならん。本来であればな」
山岸は眉をひそめてメルキオールを見据えた。どうやらここからが、彼女の本題らしい。
「御父上は、私にお許し給うた。私のコアを人間に分け与える術を。サマエル顕現の暁には、これをもって彼奴を討ち滅ぼさんが為に。私という存在は消滅し、代わりに剥き出しのコアを配分された人間が彼奴を討つ。先も言ったが、コアそのものは同等だ。コアをぶつければサマエルとて傷を負う。攻撃を続ければ最終的に致命へと至る。メギドの火というのは、つまりお前達の事なのだよ」
「…じゃあ、天騎やら天兵とは」
「コアを受け容れる為の前段階と考えて貰って結構だ。今は理力を授けたに過ぎないが、メギドの火となれば訳が異なる。サマエルを倒し、人々を救うのだ」
メルキオールの組み立てたストーリーを、山岸は知った。知ったうえで、唾棄したい思いに駆られた。この天使は自分自身を駒の一つとしか見ていない。自分すら駒扱いする者が、人間をどのように認識するかは明らかだ。が、本腰を入れてサマエルと喧嘩をする腹であるなら、メギドの火へと至る変貌を受容するという考え方も、残念ながら出来るのだ。それが両刃の剣に等しくはあっても。
「メギドの火を授ける対象は?」
「天騎と天兵の全て。力の差は歴然であるが」
「受容しない、という意思を尊重するんですかね?」
「意思を尊重するとはどういう意味か?」
「いや、もういいです。しかしメギドの火っつったって、やっぱり元は人間でしょうが。サマエルを上回れるんですかね?」
「あの化け物相手に単独で上回れるはずもない。しかしお前達には複数という強みがある。勝機は必ずある」
犠牲が続出するのが前提なのかよ。山岸は密かに毒づいた。
「加えてメギドの火となった己を最大限に受け容れれば、力は飛躍的に増大する。彼奴に迫るは無理としても、相当の域にはなろう」
つまり、メギドの火を存分に受容し続ければ、人の身で天使に近い存在になる、という事なのだ。間違いなくそれは、人間としての自我の崩壊に繋がるだろう。ふと山岸は、先程から黙っている京大人が、強い視線を自分に送っている事に気がついた。鵜呑みにするな。彼の目はそう言っているのだと山岸は解釈した。
それにしても、である。
メルキオールは徹頭徹尾真実のみを話している。よって「御父上がコアを人に分ける術を許した」というくだりも、また事実なのだろう。山岸は舌を打った。恐らく名も無き神は、この戦いの渦中で人間をも試そうとしているのだ。
守護せんと誓う純粋な心も、理を失えば欲望に至る。人よ、力という名の欲望に呑まれるか、否か。
『残念ですが』
「そう」
ジェイズ・ゲストハウスにおける防衛戦、その配置が着々と進んで行く最中、神余はジェイズの主、キューと頭の中で短い会話を交わしていた。
彼女はキューに、自らの提案が却下された事に落胆はしなかった。代わりにもたげてきたのは好奇心である。何故キューは、自分との同化という案を断ったのか? キューが丁寧に言葉を繋いできた。
『理由は3つ。一つは、君と同化する事で吾やジェイズの安全が保たれる、という君の前提には誤りがあります。君を含めたハンターが、サマエル配下の抹殺対象ではない、というのは既に覆ったと見ていいでしょう。彼らは時間をかけた準備を終えて、実行を移す段階にあります。準備の過程で自由に泳がせていたハンターを、サマエルは『私に与する者』『そうでない者』とに仕分けしたと考えられます。才気の塊だった城鵬君が容赦なく殺された点を見ても、間違いないと断言出来ますね。つまり君、吾と君は『そうでない者』なのです』
「成る程。二つ目は?」
『極めて危険だからです。仮に今のまま君と同化するとしたら、それは私が君を完全に制圧するという事になります。神余という少女は消滅し、代わりに私がその姿を獲得する。端的に言えばNPC化です。吾はそのような所行を絶対に行ないません。ただ、神と人が同化を試みるという例は昔から幾つか見受けられるようです。そして今も、どうやら北欧とゾロアスターの神が、それを成功させつつあるらしい。それを比較的安全に実行出来た理由は、何となく分かります』
「と言うと?」
『縁ですよ。彼らは古い神と縁を結んでいます。残念ながら君と吾は、その縁が薄いのです。だから同化は君を確実に崩壊させます。尤も、その縁を結んだ者達に対し、古い神は随分と気を使っています。憑依の刻限を限定的に留めたり、また体のごく一部に宿ってみたりとか、なかなか涙ぐましい努力が成されているようです』
「そして戦闘人形は、人の自我を崩壊させずに神々と癒着させる工作物というワケか。如何にも技術の神らしい産物ね」
『それはどうも。そして最後の三つ目。私は昔から、既に具現化する術を持っています』
「何と。一体どうやって」
言って、神余はキューが言う「昔から」という箇所に気づき、次いで己が足元に目を落とした。
キューはジェイズ・ゲストハウスの成り立ちと同期してサンフランシスコに在った。それは、つまり。
「イタリア北方の貧乏貴族であったガレッサ家に接近したのは、諸君らの時間的概念で言えば随分と昔の事だったよ」
マーサ本部、幽閉を余儀なくされたその一室で、バルタザールはアルベリヒを相手に語りを聞かせた。その言葉の端々に人間的な情けをアルベリヒは感じ取っている。翻って何れ剣を向け合う者同士の対話とは、どうしても信じ難い。バルタザールはグラスに残ったウィスキーを飲み干し、また続けた。
「御主からの啓示に従ったのだ。何れこの家は、桁違いのアンチ・クライストを生み出す人材を輩出するという。その者と異教の神の魂を引き継ぐ者とを引き合わせ、婚姻を結ばせ、生まれ出たその御子は御主の素晴らしい右腕となられる。私はこの家の使用人と盟約を結び、ガレッサ家を守護し、来るべき時に備えたという訳だ。ずっと、この姿のままでね」
「つまり、マルセロ・ビアンキという人間が元々居たという事か。ずっと同じビアンキ氏が存在し続けられたのは何故だ…いや、考える程でもないか」
「そう。私にとって、人の認識を欺くなど造作もない。私がマルセロ・ビアンキに天使という出自を明かしてガレッサの守護を担いたいと申し出た時、彼は殊のほか喜んでそれを受け入れてくれたよ。マルセロは仕えるガレッサ家を心から愛していて、暮らし向きは随分貧相ではあったが、献身的に支えていた。だから、その愛情が私に大なり小なりの影響を与えていたのは間違いない。ただ、私は彼の心をたばかった。本当に申し訳ない事をした」
「それが言えるならば!」
アルベリヒは席を立ち、勢い込んでバルタザールに言った。
「天使にも変革の目がある、という事だ。己の心の赴くままに従うんだ、バルタザール。マルセロ・ビアンキ」
バルタザールは答えず、アルベリヒと同じように起立した。その気配に不穏なものを感じ、アルベリヒが一歩身を退く。バルタザールは瞳に若干悲しげな色を湛えて言った。
「私は制御されている者だ。よって自由は存在していない」
懐からナイフを取り出し、バルタザールは半身とナイフを持つ右腕をアルベリヒに向けた。イタリアンマフィアのナイフ戦闘術の構えで、バルタザールはアルベリヒに対抗しようというのだ。遂に、その時が来てしまった。
アルベリヒは大きく息を吐き、呼応してナイフを正面に構えた。その様を見、バルタザールは言葉を失う。それは彼に与えた天使殺しの剣、エンジェル・ダスターではない。彼が以前から所持する普通のナイフだった。
「専務、これが俺の心だ」
アルベリヒは、静かに言った。
<勃発直前>
天使ガリンシャは邸宅の外に出て、庭から空を見上げた。本日はとても良い日和であった。まるで戦の直前とは思えない程の。
天使達は濃厚な戦意の気配を察知し、しばらくもすれば攻撃が仕掛けられるものと認識している。高位フレンドの大半がハンター側の根城の制圧に向かった時点で、この時がやって来るのは折込済みでもあった。問題は、既にこちらが迎撃の準備に入っている事を、ハンター側が想定している可能性について、である。
ガリンシャはサマエルが作り出した新造天使だが、仲間達よりも考慮が深い。それは恐らく、憑依した人間の影響を受けての事なのだろう。
人間は脆弱だ。多くの野生動物と比較しても、徒手空拳の一対一であれば負ける場合が大抵である。だから数を揃え、武装する。それでも届かない相手には戦術を駆使する。局所で負けても最終的には勝ちを拾う、などという理解し難い戦い方もしてのける。絶対に舐めてかかってはならない。先に死んだ2人の天使は全く真価を発揮出来ぬまま、策略のみで首を狩られた。敗因は慢心であるとガリンシャは認めている。
この戦いが御主に企図された、ル・マーサの思想に従わざる者を一網打尽にする罠だと、敵が承知のうえであったなら? それは紛う事無き強敵であり、どのような機略を用いてくるかは懸念すべきだとガリンシャは思った。
(思うに、かの者達も機略の一つであるのだろうな)
ガリンシャは地上から邸宅の2階を見上げた。そして庇護を求めてやって来た件の3人の居る部屋を見詰める。
彼らがハンターの手の者である事は当初から分かっていた。この方面も市警に包囲され、全域が厳戒態勢に入っている。それを抜け出して本部を訪れる一般人というのは奇妙なものであり、またハンター独特の気配に関して彼らは無自覚だ。分かっていて招き入れたのは、その方が効率的に対処可能と踏んだからである。
さて、如何にやって来る? ガリンシャは思案する。
しかし彼は、未だ理解していない。内に居る彼らも、また外から寄せて来るハンターも、ガリンシャの慎重な想定を更に上回る行動力を有する者達であった。
エーリエルとドラゴの班に、ジークリッド達が合流し、これにて準備は整った。
仲間達が着々とピックアップトラックに乗り込む様を、エーリエル静かに見守った。もう語りは尽くしたし、やれる事は全てやったという実感が彼女にはある。ただ、一言は述べねばならない。
「ありがとう、みんな」
と。
自らも助手席に乗り込み、エーリエルは運転席のドラゴとアイコンタクトを交わした。出会った期間は決して長くはないのだが、もう随分とコンビネーションを共に積み上げた実感がある。阿吽の呼吸という奴だ。
「それでは参りましょうか」
ドラゴは何時も通りの頼れる笑顔を浮かべ、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。
<H234-7-2:終>
○登場PC
<H2サイド>
・クレア・サンヴァーニ : ポイントゲッター
PL名 : Yokoyama様
・ラスティ・クイーンツ : スカウター
PL名 : イトシン様
・ジークリッド・フォン・ブリッツフォーゲル : ポイントゲッター
PL名 : Lindy様
・山岸亮 : ポイントゲッター
PL名 : 時宮礼様
<H3サイド>
・アルベリヒ・コルベ : ポイントゲッター
PL名 : なび様
・ヴィルベート・ツィーメルン : ガーディアン
PL名 : 森林狸様
・エルダ・リンデンバウム : ガーディアン
PL名 : appleman様
・ルカ・スカリエッティ : マフィア(ガレッサ)
<H4サイド>
・アンジェロ・フィオレンティーノ : マフィア(ガレッサ・ファミリー所属)
PL名 : 朔月様
・エーリエル・”ブリトマート”・レベオン : ポイントゲッター
PL名 : けいすけ様
・エリニス・リリー : スカウター
PL名 : 阿木様
・神余舞 : スカウター
PL名 : 時宮礼様
・斉藤優斗 : スカウター
PL名 : Lindy様
・ドラゴ・バノックス : ガーディアン
PL名 : イトシン様
・ナタリア・クライニー : ポイントゲッター
PL名 : 白都様
・ヴィヴィアン : 戦士
PL名 : みゅー様
ルシファ・ライジング H234-7-2【サンフランシスコ市民戦争・2】