<ラストプレイ>
「お待たせしました。それでは行きましょうか」
ジェイズ・ゲストハウスの1階酒場で人待ちをしていた少女が、当の男が自分に声を掛けつつ階段から降りて来るのを認め、椅子から立ち上がった。
ジークリッド・フォン・ブリッツフォーゲルと城鵬は初顔合わせであったが、共に庸という組織に深く関わっている。ジークリッドは長らく庸と共に悪魔達と死闘を繰り広げ、城は親ハンター派筆頭である王広平の配下である。むしろ初対面である事の方が意外だった。
2人は連れ立ってジェイズを出て、王の事務所兼住居があるジャパンタウンへと徒歩で向かった。彼らは此度、王と行動を共にする事となる。その目的は、とてもシンプルであり、危険極まりなかった。庸を去ってル・マーサの頂点に君臨した王如真に会うというものだ。
「…先程は何をされていたのじゃ?」
と、ジークリッドが城に問う。出立前に彼が階上へ行った事を指している。城は若干照れ臭く頭を掻き、ばつの悪そうな顔で言った。
「願掛けですよ」
「願掛け?」
「ええ。4Fの神様に、ちょっと挨拶も兼ねましてね。さて、ジークリッドさん。あなたは王先生と共に如真君に会いに行く訳ですが、会って何とするのです?」
ジークリッドは怪訝な顔を城に向けた。目的については王のそれと同様、既に城も把握しているはずだ。城という男については、意味の希薄な言葉を口にしないとの印象があったのだが。気を取り直し、目線を前に戻し、ジークリッドは噛み締めながらその言葉を口にした。
「如真を取り戻す。何としても」
「ふむ、成る程。直接その言葉を聞きたかったのですよ。言葉で決意の程を推し量る事が出来ます。まあ、頑張って下さい」
ジークリッドは、カチンと来た。
「その他人事のような言い方はどういうつもりじゃ。頑張って下さいだと? まるでそれが叶いそうにもないとも聞こえるが」
「はい、そうです。僕自身は無理だと考えています。王先生もあなたも、彼を取り戻す事は出来ないだろう、というのが僕の見解です」
真っ正直に答える城に、ジークリッドは唖然とした。王も自分も、如真に対しては深い思い入れを抱いている。その心をあっさりと度外視した城に対し、ジークリッドは怒ると言うよりもうろたえた。しかし城は続ける。
「彼は自ら望んでサマエルに魂と心を売りました。その結びつきは思いのほかに厄介でしょう。正当な手段では厳しそうですね。でも、人間の心というのは計算外であるとも考えています。王先生も、何よりあなたも、純真で誠実で情け深い。その思いの丈がどれだけの力を持っているのか、僕には想像が出来ません。あなたは、あなたにしか出来ない手段で彼に全てをぶつけるべきです。僕の想像を超えて頂ければ、それは心が踊りますね」
肩を竦める城を横目に置き、ジークリッドは城という男の立ち位置を改めて思った。王と自分は、如真へ強く心を寄せている。城はそうではない。一歩距離を置いた監察的役割を担おうとしている。癪に障るが、こういう冷静な人間は、如真との対面に際して必要なのかもしれないとジークリッドは考え直した。相手は如真であり、サマエルでもあるのだ。
<酒宴>
サマエルによる封鎖が敷かれたサンフランシスコにあっても、チャイナタウンはそれなりに活況を呈していた。
元々地元の華人相手の商売も比重が大きく、また観光客向けの商店にも、娯楽に飢えた市民達がやって来る。品揃えが一向に尽きないという理不尽な状況ではあるものの、差し当たって商売に打撃を被らないのであれば、華人達の割り切りは強みになった。
チャイナタウンのマフィア、庸の幹部が直営する中華料理屋は、昼の頃合を幾分過ぎても客でごった返している。とは言え、その日は何時もの一般客向けの営業ではない。庸が一店丸ごと借り切って、慰労の会を催していたのだ。
発起人はクレア・サンヴァーニ。前の決戦でまたも損耗を強いられ、激戦続きの構成員達を労う集まりは出来ないだろうか。そのように最高幹部の盧詠進に提案したところ、その結果がこれだった。実戦部隊がほぼ全員参加。幹部連が王を除いて勢揃い。総勢数百名、飲めや食えやの大パーティと化している。クレアは正直、血の気が失せた。
「無い、こんな大会に支払う金など無いわ!」
「何だ、そんな事を心配していたのかね。会は俺持ちだから安心するがいいや」
「随分豪気な事ね」
「金の使いどころを分からない奴は幹部なんぞになれないという事よ」
上機嫌の盧を、クレアは不思議そうに眺めた。加えて、酒宴に参加している面々にも注意を向ける。盛大に食と酒を楽しみながら大騒ぎをするその様には、凡そ悲壮感というものが感じられない。2度に渡る消耗戦を経て開き直った所以の明るさかと訝しんだものの、そうではないと思い直す。
つまりは突破口を見出した、という事だろう。これまで守勢の一方であった下界戦は、ようやく攻勢へと転じる。意気軒昂が伝播するのも分かる話だ。クレアは座上の女、と言うより女の形をした天使を視界に置いた。
宴の始まりから天使メルキオールは水しか口にしていない。彼女の周囲だけはぽっかりと空間が出来、気まずさが浮き上がってくるように見える。尤も、そんな事をメルキオールは気にも留めないだろう。本来ならば京大人が同席するところなのだが、衰弱しきっている庸の筆頭は只今療養中である。天使ならば彼を救えないのかと問えば、メルキオールは無表情顔で首を横に振っていた。
「話し掛けないんですか?」
と、クレアを戦闘面で警護する山岸亮が、彼女の傍に立った。クレアにしても、メルキオールとはコミュニケーションを取ってみたい腹はあったので、小さく頷いて歩を進めた。
「…メルキオール、こういう集まりには参加しないものだと思っていたわ」
言葉を投げてきたクレアを、メルキオールは上目で一瞥し、また水を含んだ。そして応える。
「確かに酒宴等というものに興味は無いが、彼らの状態を確認したかった。人間の力は心理面に大きく左右される傾向がある。戦いへの恐怖が希薄になっている今は好機だ。ただ、その意味でハンターと言う人種は普通の人間とは異なる。概ねの場合、お前達の心はどのような状況に対するでもフラットだ。実に興味深いと思う」
「意識してそうしなければ、直ぐに死んでしまうのでね。少し話をしたいのだけれど」
言って、クレアは了解を度外視してメルキオールの隣に座った。またその隣に山岸も着座する。彼にしてもメルキオールとクレアの対話には興味があるらしい。
「封印されていた間は、どの程度状況を把握していたの?」
「京禄堂を介して大体は承知していた。直接話すには特殊な儀式を介する必要があったのだが、こちらが知るだけならば手段はある。彼の妻の魂は私に取り込まれて久しいが、矢張り縁の深い者同士の繋がりは存在する。それを利用して状況を確認した」
「ならば、最終的に力を人間に分けてサマエルに挑む、という展開は承知のうえだったという訳?」
「左様。カスパールとバルタザールは、これまでのところ効果的に動いていた。この展開は半ば決定事項であると考えて、京の妻の体に身を降ろしたのだ。あ奴らに対抗し、上回る為だ」
「それが天兵、或いは天騎を人間に授ける、という事。この力、カスパール一党と戦うにはとても都合がいいわ。都合が良過ぎると言ってもいい。ただより高い買い物は無いって言葉もあってね。果たしてこの力、どのくらい反動が来るものなの?」
メルキオールはクレアの質問の意味が一瞬分からないようだった。が、直ぐに「ああ」と呟いて目を細める。その仕草に、僅かながら嘲るような雰囲気をクレアは見て取った。
「悪魔との契約のようなデメリットを想像しているなら、それは不敬というものだ」
「超能力覚醒剤を飲んだ結果は、どうやら厳しいようですよ」
山岸が口を挟む。今はこの場に居ないナタリア・クライニーは、物理的ではない、精神的な侵食が始まっている。山岸はそれを例に出した。
「心をメルキオール殿に束縛されるという事にはなりませんかね?」
「ならない。何故ならその力の出所は、私ではないからだ。世界だ。私は世界への扉を与えたに過ぎない。加えて、天兵と天騎では扉の大きさが異なる。溢れ出る力の許容量に差が出る、という事だ。ハンターという人種は、力の奔流を食い止める精神力を有しているので、天騎とした次第である」
クレアと山岸は顔を見合わせた。抽象的な言い方だったが、メルキオールは人間自身を世界の力とやらを具現化する媒介役とした、との意味合いで話をしていた。その内容は、自分達にとって随分有利に聞こえる。しかし、そんなはずはない。天使の権化とも言うべきメルキオールは、人間に対する気遣いを一切見せていない。そしてメルキオールは立ち上がり、決定的な言葉を口にする。
「しかしながら、世界を調和される御父の愛を、この先お前達は知るだろう。力を進めよ。悪魔を倒せ。堕天使を倒せ。さすればお前達は、人の身でありながら私達と同じ心を持つに至るだろう。光栄と踏まえて貰いたい」
立ち去るカスパールの後姿を見送り、山岸は鼻で笑った。クレアはと言えば、難しい顔で腕を組んでいる。
「光栄ねえ。光栄かあ。世界を御父君お一人が統べているとお思いでらっしゃる。どうも、一神教というのは苦手でしてね」
「…このまま加速すれば、名も無き神の忠実な下僕になれる、という事か」
ハンターの中でもクレアが幹部待遇であるのに対し、ラスティ・クイーンツは現場レベルの隊長的存在である。彼と組んだ隊が前の戦いで突出した結果を残した話は周知であり、彼の存在感は独特の容姿も相俟って非常に大きい。
「この格好で攻め込むわよー!」
と、ビン底眼鏡に白衣という、コンセプトが今ひとつ分かり辛い格好でもって、ラスティはクルリと回転しウィンクしてみせた。若干遅れて、劉紫命の部隊が「わー」と拍手する。1人2人と首を傾げていたものの、そんな事を気にするラスティ様々ではない。続けざま、彼はボストンバッグから5着のスーツを出してみせた。
「で、これは執事服というワケ。紫命達はこの格好で攻め込んで頂戴」
今度は「…わー…」と疎らな溜息が漏れた。
「ラスティ兄さん」
「姐さんと呼んでね」
「いや姐さん、さすがにこれは意味が分からないんだが」
「執事に囲まれる冴えない雰囲気のお嬢様、という設定を楽しみたいのよ。乗り込む先は『パレス』だし、郷に入りては何とやらでしょ」
「やっぱり意味が分からないんだが、まあいいや。要は気を楽にしろって事なんだよな?」
「え?」
案の定、ラスティは庸の若手実戦部隊と上手くコミュニケーションを取っている。ハンターは基本的に単独で戦い、連携行動をあまりしないのが常である。しかしながら、マフィアとは言え波長の合う一般人と共に戦う展開は、ラスティにとって貴重であり、有難い事であった。
だから彼らを、これ以上1人として失ってはならない。此度の襲撃に際して、ラスティが心に誓うのはそれだった。
「で、あんた達も天兵とかいう力を手にするワケだけど、あんまりそれに依存しちゃいけないわよ」
紹興酒を飲みながら、ラスティが普段着然とした口調で言った。劉達はその言葉の持つ意味を、少し遅れて理解する。理解したうえで、顔を見合わせた。劉が率直に問うてくる。
「何で? 悪魔を倒せる力なんだろ? あてしなきゃ、俺達は勝てないじゃないか」
「その力は借り物でしかないのよ。借り物には利子がつくわ。調子に乗っていると、返済出来ないくらいの利子に膨れ上がるでしょうね」
「俺達は金貸しもするけど、利子は結構待ってやるよな」
「酷い取立てとかしないよね」
「暮らし向きの苦しい奴には仕事とか紹介するぜ」
「天兵の貸し主は、庸ほどには優しくないのよ。だからお聞きなさい。私達の力は結束と創意工夫、培った戦闘能力を主体とすべきなのよね。借り物は、借り物よ。それに耽溺してはいけない」
言って、ラスティは先に帰るらしいメルキオールが颯爽と歩み去る姿を見詰めた。恐らく彼、ないしは彼女は、庸や自分達に対して腹に何かを抱えている訳ではない。メルキオールが目論むのは唯一つ、サマエルの抹殺だけだ。
しかし自分達は、その目論みを達成する駒と見られているのは間違いない。メルキオールに、駒の一つ一つを労わる考え方は無いだろう。グラスを傾ける手を止め、ラスティはハンターの役回りの難しさを改めて思った。天使というこの世ならざる者と、普通の人々との間に立つ。恐らくそれには、重要な意味があるはずだ。
庸とハンター達は、2つの重要な行動を取った。
一つは彼らの宿敵、カスパールの打倒。
もう一つはサンフランシスコにおける最大の存在、サマエルこと王如真との会合。
これらは同日に実行された。サマエルとの会合は昼間に。パレス掃討戦は夜間に。何れも街を影から動かしてきた強大なこの世ならざる者達だ。辿り着く結末は、この街の趨勢に大きく関わる事となる。
<如真とサマエル・其の一>
如真とのコンタクトは、王広平が独自のルートを使い、面会場所のセッティングは配下の城によって行なわれた。
こうして此度の面会の一から十までを、王とハンターが仕切る形を取った訳だが、如真は意見一つも出さずにそれら全てを受け入れた。王の一行は3人だが、如真はただ1人。尤も、何れが有利か不利かを鑑みれば、王の側が全てのハンターを総動員したところで、今の如真はその比較を無意味にする存在でもある。
それでも、3人は己の信条一つを武器にして、敢えてサマエルに立ち向かった。
面会の場は、城らしい意表を突くものだった。
金融街として名を馳せるフィナンシャル地区にあって、一際目を引く象徴的なビルがトランスアメリカ・ピラミッドだ。その名の通り一面が三角の形を成しており、やたら背の高いピラミッドという独特の姿である。
48階建てのオフィスビルは、原則として観光客が入れるのは1階までだった。強力なセキュリティに守られた2階から上は、IDカードを所持していない人間以外は立ち入り禁止。街の封鎖状況下で金融業が意味を成さなくなった昨今の状態であっても、それは変わる事が無い。しかしながらハンター達は、サンフランシスコ市長からの後ろ盾という強力な権限を所持している。市当局を通しての立ち入り許可は、滞りなく通過する運びとなる。
トランスアメリか・ピラミッドにも、実はかつて27階に展望台が存在していた。が、2001年の同時多発テロ事件によって封鎖され、今は単なる機材置き場と化している。基本的に誰も入って来ない旧展望台は、人目を避けるうえでも格好の場所と言えた。
王の一行は警備員に敬礼で見送られ、堂々とエレベータに乗って27階に到着する。扉が開き、展望が開けると、既にスーツ姿の如真が機材に腰掛け、広く区切られた窓から街の風景を見下ろしていた。当然ながら、彼は通行許可を経てここに来ているのではない。
如真と別れたのはつい最近であったのだが、彼の後姿が随分と遠いものに見えて、ジークリッドは言葉を失った。父親の王広平を横目に見る。彼もまた、あらゆる感情のこもった複雑な目を向けていたものの、やがて普段の無表情に戻り、先頭の第一歩を踏んだ。
「時間通りですね」
如真は景色を見下ろしたまま、彼らを一瞥もせずに言った。
「少しだけ早く来ていたのですよ。その間にこの街を見ていました。いい眺めです。あらゆる人種と文化が坩堝と化している。出発の地としては申し分ありません」
ようやく如真が振り返る。その表情は、曖昧な微笑をたたえていたものの、更に深まっているとも見て取れた。
と、ジークリッドが周囲に結界符を貼り付け始める。その行動を見、如真は小さく声を上げて笑った。
「それは果たして、どういう意味なのですか?」
「…他に邪魔をされたくない故じゃ。特にこの世ならざる者には」
「私は約定を必ず守ります。私を信じる者達は、この地区にすら近付かないでしょう。何しろ私がそう願っているのですから。よって、その結界に私は意味を見出す事が出来ません」
そう言われて、ジークリッドは困り顔で城を見た。ジークリッドも城に頼まれて結界を張った理由が良く分からないのだ。この結界は、実は『声』の行き来を遮断する為のものであり、それがここではない別の場所で重大な意味を持つ事を、城以外の誰もが知る由も無い。当の城は肩を竦め、椅子を指差して着座を促す。
既に如真が用意していたらしい簡素なパイプ椅子に、3人は揃って腰掛けた。如真も自らの椅子に座る。彼との距離は、凡そ3m。心を隔てる距離は更に遠い。
「先ずは面会を受け入れてくれた事に感謝する」
ようやく王が口火を切った。その言い方は、息子に対するものではない。
「私は『彼』と強く結びついております。故に彼の心は私の意思でもある、という訳です」
如真は口元を緩め、可愛い生き物を見るかのような目でもって応えた。
「父親であるお前を尊重します。そして心親しい友人であるジークリッドさんも。私はお前達を愛しているのです」
「おや、僕の存在は無視という訳ですか」
城の皮肉を、如真は苦笑で黙殺した。改めて王を正面から見据える。
「さあ、話をしましょう。私にはお前が、まるで今生の別れとの覚悟を秘めているように見えます。しかしそれは違います。こうして望めば、私は父親であるお前と何時でも会えますし、話す事が出来ます。滞りなく仕事が終われば、親子としての真っ当な暮らしを取り戻す事が出来るのです」
「如真の顔で、異質な物言いは止めてもらいたい」
自らの意図を見抜かれても、王は跳ね返すような目でもって言った。
「私の希望はシンプルだ。如真を返して貰いたい。あいつの声で話しているお前は、最早如真ではない。別の何かだ。それが父親にとってどれ程の苦痛か分かるか」
「申し訳なく思います。親子の情を一時的に断ち切る所行を為す事に。しかしながら、これは『彼』自身が望み、私を受け入れた結果でもあります。私はお前を尊重すると言いましたが、同時に『彼』と私を尊重して頂きたい。『彼』と私はお前を深く愛しています。その心を、お前は今まで度外視していました。それに対してもう一度向き合おうとするのは素晴らしい事です」
言って、如真は再び外の景色を目に留めた。その方角にはチャイナタウンがある。
「あの忌まわしい者は近くに居ますね」
「メルキオールの事か」
「封印を突破した私を滅ぼそうとしているのでしょう。全てが無駄であったと痛感しながら、滅びるのは憐れな彼の方です。そのような者に巻き込まれてはなりません。ですからお前達は、私の元に来られるべきです。さすれば幸せな未来が約束されます」
「如真を返せ」
「本来の愛しい人である、マックスが私の元に来るならば、直ぐにでも。そうだ、マックスを連れてきて頂く、というのはどうでしょう。私の愛する者達と共に。彼は厄介な者達に守られていますが、まさかハンターに近しい者から救いの手が出されるとは、彼らも想像出来ないでしょうね」
如真の瞳が、揺らいだように見えた。
咄嗟、ジークリッドは自らに『無心』を発動させた。如真が、と言うよりもサマエルが暗示をかけようとしている意図に気が付いたからだ。しかしその暗示は、今のところ王に集中しているようだった。
王は目を剥き、歯を食いしばり、額に脂汗を浮かべて膨大な圧迫に耐えている。ジークリッドは絶句した。その手段を使われてしまうのかと。今の自分に、暗示を断ち切る術は無い。
だが、王の心はサマエルの暗示を跳ね除けた。かは、と息つき、肩を揺らして、如真を睨みつつ王が言う。
「息子を返せ」
「成る程、親というものは」
サマエルが目を細め、王が自らの手を懐に突っ込む。が、それよりも早く、王のこめかみに銃口が突き付けられた。城がベレッタを王に向ける様を見、ジークリッドが声を上げる。
「何をするのじゃ!?」
「まあまあ落ち着いて、ジークリッドさん。王先生、あまりがっかりさせないで頂きたいものですね。懐の拳銃を渡して下さい」
王はうろたえたものの、やがて平常を取り戻し、無言で拳銃を床に置き、城の足元へと蹴った。拳銃を拾い上げ、城が撃鉄を戻し、自らのベレッタも仕舞う。
「先生はこの街に必要な御方なのですよ。取り戻せぬならばいっそ、という安易な結末を僕は許容しません。親子が殺し合うのは地獄ですからね」
言って、城は口元を歪めた。サマエルを見ると、彼は閉目して場の推移から距離を置いていた。が、僅かに歯を軋らせる様を城は見逃さなかった。殺し合う、という揶揄がどのような意味を持っていたかを、どうやらサマエルは理解したらしい。城は鼻を鳴らし、ジークリッドを促した。
「さあ、次はあなたの番ですよ」
ジークリッドは頷き、立ち上がった。
<悪魔カスパール・其の一>
戦いは静かに始まった。
庸とハンターからなる真下界への進出は、これが三度目である。地理的状況を事前に弁えているか否かは、侵攻を仕掛ける側にとって大きな意味を持つ。ハンター、庸の選抜からなる総勢19名の部隊は、真下界に築かれた模造の街を、整然且つ足早に突き進んで行った。
が、この隊の実質的統率者であるクレアの心は穏やかではない。彼女は2つの懸念を抱えていた。
天兵と天騎は総勢20名だが、天騎の1人、ジークリッドは此度別行動を取っている。そして前戦で存在感を発揮していたナタリアは、半ば袂を分かつ形で今は居ない。2人は悪魔との激しい戦いを継続するにあたって、強大な力となっていた。人数のうえではさして遜色ないこの一団は、実のところ大きく戦力を落としている。メルキオールの先制を受けて衰えたとは言え、カスパールとその一党は決して甘い手合いではない。
そしてもう一つは、この街の変わりようだった。
「何なの。何で誰も居ない?」
クレアは小さく呟いた。ラスティから聞いていた真下界の状況と、今とは大きく異なっている。かつては街同様に架空の住人達が配置され、随分と賑わっていたらしい。以前、悪魔と街で交戦した際は、街並と大半の住人達が消失したという。今は街並だけが残り、住人が何処にも見当たらない。斜め後ろを歩くラスティを見ると、矢張り彼も怪訝な顔をしていた。
もしもカスパールが街を作ったのであれば、架空の住人を出現させるほどの余力が無くなった、と捉えるべきだろうか?
否、とクレアは思い直した。真下界の通りは伊達と酔狂で作られていたはずがないのだ。何らかの意味を成していたはずである。余力が無いのであれば、街並も消してしまえばいい。それをしないからには、つまりこの街には役割がある。それを突き詰める考察を自分達はしてこなかったのだと、クレアは改めて思った。
しかし、考えねばならない作業は別にある。パレスに侵攻し、カスパールの首を獲る。その本願を遂げるべき場所、『パレス』が、一挙に開けた視界と共に一行の目の前へと出現した。ブロンズメダル持ちのラスティが居なければ、これを見る事すら出来なかっただろう。
豪勢な大理石造りの威容を前にしても、彼らからは驚きの声も上がらず、一様に口を固く閉ざすのみだった。と言うのも、ここに至るまで遂に1人の悪魔とも遭遇しなかったからだ。そしてパレスを前にしても状況は同じだった。どうやら悪魔達は、全員がパレス内部に引っ込んでいるらしい。
事前に打ち合わせた通り、クレアはハンドサインで全員に指示を出した。受けて天兵と天騎は二手に分かれた。遊撃を担うラスティ率いる6人部隊が身を隠しつつパレスを回り込み、クレアと山岸の本隊が突入口を捜して逆を行く。
「そう言えば、攻め込むって状況は初めてなんですかね?」
声を落とし、山岸が問う。クレアは首を横に振った。
「盧の部隊とハンター2人が真下界への威力偵察を試みた事があるわ」
「結果は? って、まあ聞くまでも無いのでしょうが」
クレアは押し黙り、己が散弾銃を手繰り寄せた。
白衣ビン底眼鏡冴えない女の子、彼女を取り囲む5人の執事、少女マンガ的雰囲気を楽しむ、という一から十まで意味不明のコンセプトの一団が、そろそろとパレスの庭木の只中を進んで行く。
ラスティの強化されたEMF探知機は、館内の悪魔達の存在を微弱ながら映し出していた。そう、微弱なのだ。
「どう考えてもおかしいわね」
ラスティは探知機の状況を凝視しながら、深く息をついた。2度に渡る大戦で互いが消耗を強いられたものの、悪魔の側は未だ相当の数を残している。そしてカスパールは手傷を負っていながらも健在である。ラスティは待機を命じ、自らも木陰に腰を下ろした。やけに晴れやかな青空を見上げ、それがとても不安定なもののように思える。
メルキオールからの攻撃を受けて撤退したカスパール一党は、一部を残して積極的行動を控えている。恐らく彼らは、メルキオールと庸・ハンター達が、畳み掛けてくる事を予想しているはずだ。つまり迎撃準備を整えていると考えるのが当然である。
「姐さん、どうやら1階の方は誰も居ないみたいだぜ」
双眼鏡を外し、劉がラスティに報告する。
「しかし中に居るには違いないんだろ?」
「ええ、まあね。もの凄く微弱な磁場の揺らぎだけど。まるで休眠状態のような」
「ちょっくら行って見て来ようか? 二階に窓があるだろ。其処から覗くんだ」
「どうやって?」
「趣味がフリークライミングなんだよ。あのくらい石に隙間があれば簡単に登れる。真面目にクラブへ通った甲斐があったぜ。未だ女の子とお付き合いは出来ないけど」
「それが主な動機という訳ね」
言う間に劉は靴を脱いで、素早く建物に取り付いた。して、慎重且つ器用に壁をよじ登って行く。動機は女であるものの、確かに劉は真面目に修練を積んでいた訳だ。その様を感心の面持ちで眺めつつ、ラスティは先程の考えを今一度纏めた。
(敵がどう出て来るか、という点について、アタシ達は考えが浅いのかもしれないわね)
それは戦をするうえでの基本中の基本である。これまでの防衛戦ではそれが出来ていたにも関わらず、此度の攻勢は不慣れの為か、総体的なプランが薄い。ラスティはこの隊と共に戦い抜けるだけのアイデアを持つ自負があったが、それは補助的であり、限定的でもあった。敵が何らかの思惑を抱いている、というのは厳しい。
その思惑とは一体何なのか? 例えば自分達は怪我をしたら、普通は放置しない。治そうとするだろう。今のカスパールもそうだ。天使メルキオールの力を借り受けた、自分達に対抗し得るように。その為の、沈黙。
「まずい」
やおら立ち上がったラスティの元に、素早く壁を伝い降りた劉が音も無く駆け寄って来る。彼の表情からは、困惑しか見て取れなかった。
「居たよ、居た居た。凄く数が少ない。長い廊下に5人。それも全員、立ったまま寝ている」
「何ですって?」
僅かの間、ラスティは呆気に取られた。しかし彼はその意味を考える暇を自分に与えなかった。時間が過ぎるほど、自分達に不利な状況が訪れる事を確信したからだ。
「二階の窓は?」
「鍵はかかっていない。簡単に開くぜ」
「良し。紫命とアタシ、他に壁を登る自信のある者が同時に二階へ侵入。聖界煙幕でかく乱後に制圧を開始。極力音を消して臨む事」
手早く指示を出し、ラスティはナイフを取り出して刃を見詰めた。ぼんやりとであるが、刃に霞がかかったように見える。天使の理力の、発動。
<如真とサマエル・其の二>
「決闘を申し込む」
袋から剣を取り出し、鞘を掴み、ジークリッドはそれをサマエルに突きつけて言った。
拳で語り合うというやり方は、如何にも彼女らしい誠意の表れである。その誠意に対し、サマエルは困ったような笑い顔を浮かべ、諭すような口調で応えた。
「それに何の意味があるのです?」
「おぬしに言っているのではない。わらわは如真に言っておる」
「先程も申しました通り、私はサマエルであり、如真でもあります。私は天使であります故、憑依する者と約定を交わして魂を結び付けるのです。一心且つ同体と言えるでしょう」
「父親をお前呼ばわりするような輩が如真であるものか。凡そおぬしは、未だ如真との結び付きとやらが完全ではないのだろう。わらわはサマエルと話をする為に来たのではない。如真と剣を交える為にこの場に居るのだ」
「確かに仰る通り。如真は私にとって完璧な器とは言えません。しかし同時に、私の大事な愛し子の1人でもあるのです。その愛し子に決闘を申し込む意味が分かりません。そうする事で、お前と私達との間にどのようなメリットがあるのでしょうか」
「わらわは最早、語りを尽くしたと思っている。さすれば互いに武人として、武人に相応しい心の交わし方というものがある。おぬしにとって愛し子と申したか? ならばわらわや王殿にとっても、如真は大事な人なのじゃ。だから決闘に際し、賭けを提案する。わらわが勝てば、如真を返せ。どうせ自らの配下にマックスの奪還を命じているのであれば、如真の解放も近いのであろうが。おぬしにとって、何の問題もあるまい」
「成る程。で、私が勝ったら?」
「わらわの体を、如真の代わりに明け渡す」
「ほう」
サマエルは腕を組み、少し考える素振りを見せた。しかしその姿からは逡巡を経る様子が伺えない。サマエルは溜息をつき、あっさりとその言葉を述べた。
「お前の体は、要りません」
「な…」
「お前は何かを勘違いしています。私は約定によって器を担う人間との契約を結びますが、悪魔ではありませんので、私に敵愾心を持つ人間を無理に乗っ取るような真似はしないのです。そしてもう一つ。如真を返すという条件での決闘を拒否します。私にとって、何一つメリットを感じられないというのが理由です。もしも我が愛し子達が、マックスの奪還を失敗したとすれば何とするのです? 無論別の者と約定を交わすは問題無き事でありますが、これ以上の理力の低下を私は望みません」
ジークリッドは言葉を失った。サマエルは人間を一方的に見下す存在かと思っていたが、そうではなかった。この世ならざる者として最大級の力を有しながら、その行動は極めて慎重であり、人間への評価も高い。見誤ったか、と思いきや、不意にサマエルの鉄面皮が崩れ、躊躇の表情を見せる。
「…そうですか。それがお前の望むもの、という訳ですね」
サマエルが顔を上げ、ジークリッドに言った。
「良いでしょう。主導権を一時的にですが、如真に渡します。戦ってみなさい」
「まことか」
「ただし条件があります。お前が勝てば如真をお返しするというのは受け入れましょう。しかしこちらが勝てば、お前は私の下僕におなりなさい。我が意を忠実に守り、行動する私の下僕に。ハンターの力を、前々から手元に置いてみたいと考えておりましたので」
「…分かった」
ジークリッドの返答を皮切りに、サマエルは深く目を閉じた。そして再び目を開くと、確かに気配そのものが変化したように見える。目の前に居るのは如真だ。恐らく。
<悪魔カスパール・其の二>
ラスティの隊から二階制圧の報告を受け、クレアと山岸の本隊も行動を開始した。
1階には複数の客間がある。それら全てを丹念に調べ上げ、その中の一つ、二つには、矢張り数人の悪魔が居た。都度、天兵と天騎が理力の込められたナイフで喉元を切り裂き、それらをバタバタと薙ぎ倒して行く。こうして計十五体の悪魔を屠りながら、しかしクレアの表情は益々穏やかではない。
2階同様、全員が閉目し、死んだように眠っていたのだ。魂抜きの抜け殻かと思いきや、仕留める際に黒い煙を吐き、光が明滅して消失するという、悪魔特有の死に様をそれらは尽く晒している。のた打ち回るでもない。ただ眠るように悪魔は死んだ。
「…いよいよ訳が分からないわ」
ナイフに付着した血を布で拭い、クレアが唇を噛む。パレス内部に侵入し、一方的な死を悪魔にもたらしてはいるものの、その実これは想定された状況ではない。迎撃態勢を何ら整えていない、とは、先の戦の終わり方から鑑みれば有り得ない。この戦いは、未だ主導権をクレアの側が握れていないのだ。
「まるで負けを認めるような顔ですね」
隣の山岸が、使う機会が中々来ない突撃銃を肩に引っ掛け直し、苦笑を漏らしつつ言った。
「今回も勝利にチップを賭けています。勇ましい勝ち馬の顔でなければ困るのですが。何より兵士達が動揺します」
後ろ指を差す山岸に促され、クレアも庸の者達を見た。この戦いの推移が明らかにおかしい事は、彼らも十二分に分かっているらしい。皆が顔を見合わせ、戸惑いを隠せていない。まずい、とクレアは思った。
「敵は何処かしら、一箇所に潜んでいる」
余り大声を出さずに声を張るという難行でもって、クレアが庸の者達に告げる。
「これを迎撃するという形になるわ。その時は銃器を存分に使える。確かに妙な展開だけど、少なくとも敵の数を削っている。敵も本領を発揮していないけど、同様に自分達も真価を示していないのよ」
其処まで言って、クレアは弾かれたように階段へと銃口を向けた。ほぼ同時に山岸も射撃の構えを取る。が、直ぐに2人は銃口を下げ、肩を撫で下ろした。ラスティ隊が2階から降りてきたのだ。
ラスティからの報告によって、一部を除いてパレスのほぼ全域を掃討出来た事が分かった。が、全域掃討という輝かしい文言に、悪魔十五体という数は相応しくない。敵はまだまだ控えているはずなのだ。しかも真打のカスパールは欠片も姿を見せていない。
「残るは大ホールか、ないしは地下空間という訳ね」
ラスティは極度に緊張した目線でもって、その2箇所に至る道筋を見定めた。
地下空間は真下界の中核的な場所であるが、聞けば吸血鬼の真祖がティターンと称する化け物を出現させている。想像でしかないが、カスパール級を除いた悪魔達は接近出来ない可能性が高い。悪魔と吸血鬼は深く繋がっているものの、表面上では全面的な連携を組んでいる訳ではないからだ。
「そうなると、矢張り大ホールね」
「どういうところなの?」
「異様にでかいわ。フットボールスタジアムと同じくらい。そう言えばパレスの造りと、ホールの巨大さは不釣合いな気もするわね」
「広いのか。嫌だな。狭い空間の方が得意なのに」
「こちらの優位へ如何に持って行くかが戦いのコツってもんでしょ。取り敢えず、初手はラスティ様にお任せあれ」
大ホールへの入り口まで繋がる長い通路には、太い支柱が左右に複数建てられている。その影に庸の人員達は身を隠し、銃口を扉の方へと向けた。悪魔達が大ホールに潜んでいるのならば、これで一方的な集中砲火の態勢が完成した事になる。
ラスティの隊は彼と共に先行し、扉の近辺へと取り付いた。仲間達に待機を指示し、ラスティが拾っておいた石を弄ぶように握る。
「何をするんだ?」
「ちょっと、音を立てて試してみるわ。アタシ達は敵が悪魔だと考えているけれど、その悪魔の側にも色々と配下が居てね」
「ゾンビーとか?」
「もっと厄介なものよ。カスパールが手負いの状態ならば、そいつが護衛についているのは間違いないわ。ブラックドッグ。不可視の猛犬。地獄の番犬。屋敷の他の部屋に見当たらないとすれば、どうやらそいつも扉の内に居るらしい。アタシだったら、屋敷に放しておいて接近するものを噛み殺すよう命令するのだけど、どうしてもカスパールは手元に置いておきたいらしいわね」
「手負いだからだろうな」
「そうだといいけど」
言って、ラスティはEMF探知機を再度確認した。先に感知した微弱な反応、つまり昏睡状態の悪魔達のものとは質が異なる異常が扉の向こうに感知出来る。この反応は悪魔以外の可能性が高い。こうして比較的高い反応が出るのは如何にも唐突であったし、ブラックドッグが磁場異常をコントロール出来るという話はついぞ聞いた事もない。
「さあ、腹を括りなさい。今までみたいな暗殺紛いの手段はブラックドッグには通じない。メルキオール印の銃弾を捩じ込まなきゃ勝てないわ。それはつまり、でかい音を立てて攻撃の口火を切るって事よ。向こうも本格的な応戦を挑んでくるはずだわ。その時、今までの沈黙の意味をアタシ達は知る事になるでしょう」
ラスティは探知機を床に置き、シュネルフォイアーを片手に携え、石を扉に向かって放り投げた。カラカラと音を鳴らして石が床を滑る。案の定、探知機の波形が跳ね上がった。扉は開かなかったが、何かが音を立ててひたひたと近寄って来るのが気配で分かる。読み通りのブラックドッグだ。姿が見えず、物理的手段や悪魔祓いの一切が通用しない恐るべき敵。しかし今のラスティ達には、ブラックドッグの位置がある程度理解出来た。そしてブラックドッグに死を与え得る力は、既に備わっているのだ。
『何か』は突然加速した。荒げる呼気が徐々に大きくなる。『何か』はラスティの姿を認めたらしい。カーブを切りながら回り込みを仕掛け、横合いから盛大に跳躍してきた。6m強を一息で飛んで来る『何か』に対し、ラスティは極めて冷静に対処した。
「カスパール」
ラスティがその言葉を呟くと、『何か』の跳躍が鈍った。すかさずソロモンの環、第五段階の発動。
『何か』、ブラックドッグは空中に縫い付けられるかの如く停止した。その位置の三方を、宙に浮かぶソロモンの環が取り囲んでいる。3点同時使用で封じられた状況でも、ブラックドッグは身を捩って暴れ出した。本職の「護り屋」であれば完璧に抑え込む事も出来ようが、「罠屋」のラスティにはブラックドッグ相手にこれが精一杯である。しかし、それでこの場は十分だった。
シュネルフォイアーの発砲と同時に、ラスティ隊の一斉射撃が始まった。銃弾が空中に次々と食い止る。それはブラックドッグの体に珠が食い込む様だった。ブラックドッグが悲鳴を上げてのた打ち回る。天使の理力が有り得ぬはずの死へとブラックドッグを追い詰める。特にラスティのシュネルフォイアーは、銀化が最高の状態まで達している。額の位置に拳銃弾を捩じ込まれ、ブラックドッグはうな垂れた。ソロモンの環の解除と共に地上へ落下する。やがてブラックドッグは、この世界から完全に消滅した。
基本的に敵としてはならないブラックドッグを、あっさりと片付ける力量を得た今となっても、ラスティの心に高揚は無い。彼は無言で拳銃を扉に向けた。合わせて隊の仲間の銃口も翻る。背後の本隊も一斉射に向けて構えている。発砲音は既に轟いており、我等ここに在りと叫んでいるようなものだ。
やがて扉が、少しずつ、ゆっくりと開かれた。
<如真とサマエル・其の三>
「今の僕は、昔と然程変わりがある訳ではありません。そして御主様の御覧になる世界について、価値観に相違がある訳でもありません」
穏やかな目で、淡々と語りかけてくる如真に相対し、ジークリッドは無言で剣を顔の横まで持ち上げた。剣尖を如真に向け、体を沈ませる。如真は続けた。
「こうして御主様にお許しを頂戴し、ジークリッドさんと向き合うのは、これで満足を頂けるものと考えたからです。僕は色々なものを断ち切って、今この場に立っています。しかし今までの繋がりを切ったままにするつもりもありません。僕は何れ帰りますよ。父の呼び声は僕の心にも届きました。とても嬉しい事でした。ジークリッドさんも来て下さった。だからこそ僕は、念の為に申し上げます。退いてくれませんか、ジークリッドさん。僕の父と共に。そうして頂ければ、先の約定を御主様もお取り消しになるでしょう。僕は皆さんの価値観を否定しません。しかし価値観を共有して下さるといいなあ、とも思っています。どうするのですか、ジークリッドさん。このまま戦って、僕の仲間になってくれるおつもりはありますか?」
「自分の勝利を信じて疑わないようだが、其処までわらわも弱くはない」
構えのまま、じりじりと距離を詰め、ジークリッドは怒気の孕んだ返事をぶつけた。
「わらわは、おぬしの事が今もって良く分からん。分かるのは互いが戦に身の浸かった者同士、という事じゃ。ならば戦人に相応する会話というものがある。如真、戦おう。そうすれば互いの心が見えてくる。わらわの命を救ってくれたあの姿こそがまことであったか、今一度確かめたい」
ジークリッドの決意の程が変わらぬと知り、如真は首を振って組んでいた両手を両脇に落とした。そして腕を上げ、右手を丹田の上に置き、左手をジークリッドに向け、重心を曲げた右足にかける。その様を見、ジークリッドは怪訝の表情を作った。
「素手だと?」
「気をつけろ。形意拳の三体式だ」
王広平が、掠れた声で警告を発する。
「銃でも暗器でもない。形意があいつの真骨頂なのだ」
ジークリッドが頷き、全神経を如真の挙動に集中させる。如真はリラックスしているかのような姿勢のまま、ただジークリッドだけを見詰めていた。
一旦の間を置き、両者が動く。
最短距離を詰めて来る如真に対し、ジークリッドは横っ飛びに跳躍した。生半可な距離では如真の範囲から逃れられぬと判断したからだ。そのまま水平に剣を一閃、構え直す。案の定転進して来た如真が弧を描いて避ける。ジークリッドが剣を下段から掬う。如真が退がる。畳み掛けて剣を斜めから落とす。更に後退。容易に間を制圧出来ないと悟り、如真は大きく距離を取り直した。応じてジークリッドも追撃を止め、みたびの構えで出方を待つ。
「陣取り合戦ですね、これは」
「一撃で人間を殺せる者同士の戦いは、こうなる」
高速度で繰り広げられる格闘戦を前に、感心しきりの城に対して王が難しい顔で言う。
「彼女に頼まれ、如真の戦い方を伝えた。奴が本当に素手で応じるとは思わなんだが。しかし奴には、戦いに最短距離を追求する気性がある。直線的で手強いが、渾身の一撃をいなされればボロも出る。高い技量の持ち主と相対するならば尚の事」
「成る程。しかし、素人目ではありますが、これは如何にも厳しいように思えます」
城の呟きに、王は応えなかった。
両者が真逆のサイドステップを踏む。互いを正面に見据え、今度は避ける事無く距離が詰まった。縦からの斬撃に対して踏み込むと同時の下段から拳。槍のように突き出て来る如真の拳に対し、ジークリッドは剣の軌道を一気に狭め、迫る二の腕目掛けて柄と剣身を諸共盾とした。弾いた腕を引く回転力を片方の腕に乗せ、如真の横拳がジークリッドのこめかみ目掛けて飛んで来る。
如真としては、それはブラフだった。詰め切った間合いで大剣は不利であるのは明白だ。その不利の根本でもって、ジークリッドは更に防ごうと剣を上に出すだろう。都合胴体はがら空きになる。横拳を一挙に後ろへ引き、壊滅的な破壊力の崩拳を腹に撃ち込めば、この短い戦いは終わる。間違いなく致命傷をだが、きっと御主様が以前の自分同様お救い下さる事だろう。その思考は瞬時であった。が、ジークリッドのアイデアは如真の予想を裏切った。彼女は剣を捨てて組討を仕掛けてきたのだ。
首を腕で極め、股に足を捩じ込み、ジークリッドが全体重をかけて足払いを仕掛ける。諸共床に叩き付ける勢いを如真は殺げず、2人はもつれ込むように倒れ伏した。ヘッドロックで背後から拘束する格好のまま、ジークリッドは彼にこう言った。
「こうした抱擁も1度はあったかのう」
「多分かつて1度もありません。あなたの頭上に血反吐をぶちまけた事はありますが」
言って、如真はジークリッドの手首を掴んだ。恐るべき腕力が、完璧に極めたはずのヘッドロックを徐々に浮かそうとしている。筋肉に食い込む握力の苛烈さに顔をしかめながら、ジークリッドは呻くように言った。
「こうして向き合い、戦い、挙句にわらわがおぬしを死なす結果となり、その時は恨みません、等と申したな? ふざけるな馬鹿野郎。誰が殺してたまるものか。ジークリッドは、必ず如真を救う。ハッピーエンドだ」
「この状況で、言う事ですか」
「何度でも言う。おぬしを救う。澱んだ世界。善悪の境目が曖昧な世界。この世界で先人達は生き抜き、これからも自分達が生きて行く。人と社会は前に進んで行く。そんな大事な諸々を絶ち、閉じた世界を作り上げ、完璧に管理された社会の下、特定存在の意のままにされる事を良しとするのか。それが人間と言えるのか」
「僕はとっくの昔に人間ではありませんから」
怒気がこもった如真の声を、ジークリッドは初めて聞いた。
「戦闘機械なんですよ、僕は。言われた通りに人を殺し、それを何とも思わない欠如した感性。どう考えても狂っている。狂っていると御主様だけが教えてくれました。だからあの御方に仕え、何もかもを正しい方向へと舵を切り直す。そうすれば父とも、あなたとも、きっと上手くやって行く自分になれる」
「すまなかった」
青ざめた顔で王が言う。その言葉を聞き、如真の顔色が変わる。
「如真、すまなかった」
「すまなかった、だと? そんな事を言って、今の僕を否定するな!」
「如真、落ち着け。如真。落ち着くがいい、如真」
跳ね返されようとする拘束を、最早ジークリッドは気に留めなかった。悲壮な気持ちもとうに失せ、今は沸々と、母性のようなものが心に染み渡ってくる。彼の本当の声を聞いたからだ。自分は彼に、言わねばならない。
「昔も今も人間じゃ。か細い心の持ち主じゃ。傷つき、悩み、それでも良くあらんとするには、どうすればいいのかを考える。答えが出せぬであれば、人に寄れ。悩んでばかりの人間に。悩みながら、支え合いながら、私達は生きて行く。王殿も、わらわも、如真の傍に居ろう」
そしてジークリッドは、如真の耳元で小さく呟く。それと同時に如真は拘束を外し、ジークリッドの小柄な体ごと立ち上がり、彼女を力任せに投げ飛ばした。受身も取れずに背中から壁へと叩き付けられ、ジークリッドが前のめりに倒れ伏す。しかし如真は、それ以上の事はしなかった。ただ大きくうろたえていた。
「御主様、あの2人と僕達は違う価値観を持っています。しかし共に生きる事が出来る。彼女が、僕にそう言った」
が、如真の気配が即座に変わる。深く溜息をつき、目を細める。
「茶番はこれまでにしましょう。決着はつきました。如真の勝ちです」
主導権を取り返したサマエルが、ジークリッドに向けて歩を進める。えずきながらも落とした大剣に手を伸ばす彼女を見下ろし、サマエルが小さく微笑んだ。
「手加減されていたのはお分かりですか? 私抜きでも、今の如真は基礎体力が常人の数倍なのです。実はお前には、最初から勝ち目がありませんでした」
「この戦い、僕の負けです」
「聞き分けるのです、如真。それではジークリッドとやら。約定通り、私の物におなりなさい」
咄嗟、王広平がナイフを抜く。サマエルが小さく息を吹く。王は首元を押さえ、顔を黒く変色させつつ跪いた。
「呼気を止めました。親が子に刃を向けるとは、人の業の恐ろしき。さあ小さな子よ、我が掌へ」
「御主様、どうか容赦と御慈悲を!」
「如真、これが私の慈悲なのです」
人差し指をジークリッドに向ける。自信に満ちた面持ちは、しかしやがて曇り、少しずつ疑心を表し始めた。ジークリッドが「無心」を行使したのだ。それはあらゆる精神干渉を無効にする。サマエル程の者が相手でも。
人差し指をサマエルが下ろす。既に奇妙な微笑は失せていた。代わりにもたげてきたのは、魔王と呼ばれる所以の冷徹な眼差しである。
「違えましたね。約定を」
大ホールの扉が少しずつ開かれ、いよいよ悪魔共が雪崩を打って飛び出して来るものと腹を括り、庸とハンターの一団は銃口を固定し、トリガに指をかけた。
しかし予想された攻勢ははぐらかされた。何者も出て来ないのだ。代わって扉の内に見えるのは、何処までも続くと思しき深遠の黒である。咄嗟、ハンター側がEMF探知機を作動させる。ブラックドッグを滅ぼした後という事もあって、反応はまたも微弱になっていた。しかし、件のホールには何かがある。それは確定的だった。確定的なだけに、一行はホール内部への突入を控える。それは敵の真っ只中に身を晒す事を意味しているからだ。
と、捻るような足音がホールの奥から、靴底の甲高い音を立てて響いてきた。EMF探知機は未だ無反応に近い。しかし、この場存在し得る人間は、一行を置いて他に居ない。悪魔だ。
闇から浮かび上がるようにして、些か力の無い拍手を一行に送りつつ、白いスーツ姿の男がゆっくりと姿を現した。やつれてはいたが、男は相も変らぬ微笑を湛えている。愛しい人を待ちわびるかのような風情があった。その男、カスパールは言った。
「矢張り来て下さいましたか、ハンターの皆さん」
返事の代わりに一斉射撃が始まった。膨大な弾幕がカスパール1人に襲い掛かる様は圧巻である。掃討部隊に選抜されるだけの技量は狙い違わず弾丸をカスパールに集中させ、且つ全員がメルキオールからの理力持ちだ。
しかしながら対してカスパールは、不可視の壁を目の前に作り出し、暴力的な数の弾丸を尽く食い止めている。恐らく並の悪魔相手ならば、防御を抜いて数十数百の穴を体に穿っていただろう。Yclassisのカスパールは、それでも彼らの攻撃に耐えてみせた。
全員揃って発砲訓練でもしているかのような状況に陥りつつある様に舌を打ち、山岸は突撃銃の弾倉を交換した。再度水平射撃を行いながら、以前の遭遇の折を思い返す。あの時は生身に銃弾を浴びて平然としていたカスパールだが、今は弾が到達しないように腐心している。この攻撃は、矢張り彼にとって脅威なのだ。
「尤も、当たらなきゃ意味が無いんですがね」
そう呟いた途端、そこら中でハンマーを高速連打するような騒音の只中に、カスパールの声が滑り込んできた。
「しばしお待ちを」
その言葉を受け、射撃がぴたりと止む。止める謂れは無いはずであるのに、部隊はカスパールの言葉に従ってしまった。彼の声は、静かでありながら圧倒的な迫力を伴って更に続いた。
「少しお話をしましょう。昔話をね。これが皆さんとの最期の戦いになるかもしれませんから、私にも伝え置きたい事柄があるのです」
「悪魔の言う事なんざ、聞く耳持てないわね」
カスパールとの距離を最も詰めているラスティが、声を低めて言い放つ。そちらに顔を傾け、カスパールはにこりと笑って会釈した。
「まあ、そう言わずに。私達、つまり三博士と皆さんが呼ぶ3人の天使達が、御主、サマエル様を監視する役回りを得て地上に降り立った事は、既に知識として得ているでしょう。そして三者三様に御主様と関わりを保つ事となる。その過程で、何故私が悪魔になったのかをお話致します」
銃口は尽くカスパールを捉えて放さなかったが、それでもハンターと庸の面々はカスパールの言葉に聞き入った。話の内容が興味深いのも然る事ながら、彼の声にはある種の愛惜が含まれており、話を聞こう、という気にさせてしまったからだ。恐らくカスパールは、声に呪的な魅了を含ませていない。
「忠誠を誓った御主から、私は役回りを受けました。この街を、かような状況へと滞りなく運ぶ事。人という種に対して、立ちはだかる存在である事。そして何時か、その壁を乗り越えさせる事。御主様の御意向は、つまり私に悪魔へと身を堕としなさいと、かように述べられておりました。確かに天使にとって、悪魔になる事はこの上ない苦痛でありましたが、それでも私は御主様と、一点において強く志を共にしておりました。その思い一つで、私は悪魔にでもなれた、という訳です。御主様、そして私は、心から人を愛しています」
「ふざけるな」
クレアが怒声を放った。
「これだけの出血を仕組んでおきながら、人を愛するだと? お前はただの変態野郎よ!」
「いいえ、クレアさん。愛にもこのような形があります。貴女達は何時か、恐ろしいルシファの軍勢と刃を交える事になるのです。しかし今のままでは到底勝ち目がありません。貴女達は進化する必要があります。その時まで人を守り、人を救い、人を導く。そのように御主様は決意されました。例えどのような犠牲を強いてでも。あらゆる憎悪を向けられようとも」
「つまり、最初から最後まで掌の上を睥睨する、という訳ですか」
哂う山岸に対し、カスパールは苦笑でもって応えた。それを境に、彼の瞳の色が変わる。正確には、眼球全体が深緑に染め上げられていた。言いたい事は言い終えたらしい。
「さて、皆さん。壁としての役目は、私個人としてはそろそろ終わりに近付いております。今しばらく聳えられるか、或いは崩壊するのか、皆さんの力量次第という訳です。それでは人よ、烈火の如く戦いましょう。ここで勝たねば、次の壁を乗り越える事は出来ません」
その言葉に含みを感じ、ラスティは顔色を変えた。先程から気にはなっていたが、カスパールが回復している気配は無い。満身創痍のまま戦に及ぼうとしている。それは自分達にとって千載一遇の機会であったが、ならばその貴重な時間を何に費やしたのだろうか。
「次の壁。まさか」
息を呑むラスティの目の前で、カスパールが深々と一礼を寄越してきた。
<如真とサマエル・其の四>
サマエルの狙いは王如真という器を、より完成の域に高める事にある。彼の肉親、王広平が面会を求め、サマエルがこれに応じたのは決して善意からではない。受け入れるからには、サマエルにも目的が存在するという事だ。
恐らく王が銃口を向けて来る事は、サマエルにとって予測の範囲内であっただろう。それがサマエル自身には意味の無い一撃だとは承知のうえだが、王を返り討ちにする名目が立つ。しかし目の前で、父親が「正当に」殺された息子の気持ちはどうなるのだろうか。行き着く先は、サマエルへの更なる依存である事は想像に難くない。
もう1人の縁者、ジークリッドは何とする? 彼女を手元に置けば、心親しい如真の精神安定剤的役割を担ってくれるはずだ。だから彼女を必ず篭絡しようとする。しかしながら、彼女には精神的干渉を跳ね返す手段が備わっていた。思う通りにならないのであれば、矢張りサマエルは依存を深める為の行動に打って出る。
城鵬という男はそれらを全て事前に想定し、その想定を全て当てていた。つまりサマエルの思惑を上回った、という事だ。キューが賞賛する城の飛び抜けた洞察力は、当然ながら想定への対処もぬかりなく行なっている。それは実に、ジェイズに関わる男らしいやり方ではあった。
サマエルの目の前に、都合クマのぬいぐるみが2つ転がっていた。それを見下ろすサマエルは狼狽しなかったものの、瞳には躊躇の色が伺える。
この場でサマエルと唯一人差し向かいの格好となった城は、鼻歌を歌いながら2つのクマ人形を拾い上げた。
「はいそれまでよ、という訳です。どうです、面白いでしょう。『ロンパールー○』っていうヘンテコ呪術です。王先生とジークリッドさんは人形に挿げ替えられて、今頃街で一番安全な場所に飛ばされています。いやはや、キュー殿は一々奇妙で面白いアイデアを出してくるものです。何処かの誰かとは違って、苦境でも遊びを入れる大切さを御存知だ」
口元にこれみよがしな笑みを浮かべ、城が煙草を取り出して火を点ける。サマエルは見下ろした格好のまま、城に一瞥もくれず呟いた。
「ここは禁煙です」
「何処も彼処も禁煙ですよ。愛煙家のアメリカ暮らしは肩身が狭いものです」
言いながら城は、サマエルの意識がゆっくりと、着実にこちらへと向かって来ていると自覚した。想定は、もう一つある。ジークリッドがサマエルに持ちかけた取引を、都合彼女は破る形になった。天使とか悪魔といった超常の者達は、契約の類を極めて重要視するきらいがある。だからこの場を先の手段で逃れても、ジークリッドに約定を果たさせるべく、サマエルはあらゆる手段を使ってくるかもしれない。それは、矢張り当たりである。その対処も、城という男は当然のように考えていた。余りにも献身的な手段であるが。煙草を燻らせながら、城はサマエルではなく『如真』に言った。
「二つの心が一つになって、なんて薄気味悪い事にならなくて良かったですね、如真君。心は完全に独立していて、そして支えあうからこそ尊い。その尊さを、君の父さんとジークリッドさんが教えてくれた、という訳です。ほら、君はサマエルを差し置いて独自の物言いが出来るようになった。あの2人と君の心が、サマエルに勝ったのです」
そう言うと、『如真』は困惑の表情を浮かべた。そして城に何かを答えようと彼の顔を見る。が、開きかけた口が真一文字に閉じられ、酷薄な視線を城に向ける事となる。『サマエル』が『如真』を制したのだ。
「ところでサマエルさん、言いたい事が2つあるんです」
城は煙草をもみ消し、つかつかとサマエルの元へと歩み寄った。
「ジークリッドさんに取引を成立させない為の手段をそそのかしたのは、実は僕なんですよ」
「ほう。つまり約定は、お前が破らせたという事ですか」
「破らせたと言うより、僕が破りました。それからもう1つ」
城はサマエルの眼前に顔を近付け、心底馬鹿にする声音で言った。
「脳子有水神経病 去死吧西洋鬼子 (頭に水でも溜まってんのかキチガイ。とっととくたばりやがれ西洋悪魔)」
<悪魔カスパール・其の四>
烈火の如くとカスパールは宣告し、戦いはその言葉通りの展開を迎えた。
ラスティによる聖界煙幕投擲が戦闘の火蓋を切る。合わせて再度の一斉射がカスパール目掛けて叩き込まれた。が、ものの二秒とかからずにカスパールは聖水含みの煙幕を突破し、飛ぶようにして距離を詰めてくる。ラスティを掌打で壁に叩き付け、更に本隊のクレア達の眼前に一瞬で現れる。
それよりも早くクレアの結界が発動。カスパールの行く手はそれで阻害されたものの、今度はがら空きの背後へと現れた。最後尾の天兵達が即座に反応して銃口を翻す。が、カスパールは内2人の首を大型ナイフの一閃で切断した。
そして業火がカスパールを中心にして吹き荒れる。渦を巻く炎の嵐が空間を瞬く間に埋め尽くし、クレアの結界をも破壊する。メルキオールの強化が施されていなければ、その一撃で全滅は必至であった。
炎の中から先陣を切ってクレアが突進する。右に回り込んだ山岸が援護射撃でカバーし、庸の者達も高い連携でもって扇状の包囲を形成。対してカスパールによるPKの発動。八方360度に押し寄せる破壊の波が、柱を壁を破壊する。しかし天兵と天騎はPKをものともせず、銃を構え、執拗な連射で反撃した。少なからぬ命中弾を貰い、カスパールが飛び退る。呪的な力はほとんど通用しないと悟り、彼は深々と溜息を吐いた。
「疲れるんですよ、肉弾戦は」
言って、カスパールはナイフを逆手に持って盾とした。クレアの銀化ナイフが勢い良く衝突し、刃同士が火花を放つ。ナイフを押し込ませたまま、クレアが突撃銃を至近距離から片腕で発砲。短い連射を捩じ込まれ、遂にカスパールが吐血する。が、突撃銃とナイフを跳ね上げ、カスパールは震脚と共に拳をクレアの腹にめり込ませた。天騎の位を持たなければ、その一撃で腰から上が木っ端微塵に吹き飛んでいた事だろう。
クレアの体が軽々と吹き飛ばされ、滑るように床へと叩き付けられる。その空隙を山岸の射撃が埋める。庸の者達も一切の躊躇を見せていない。防御が遅れたカスパールは、銃弾の破壊力でもって踊るように身を捩らせた。
カスパールが地を蹴る。壁を蹴る。天井を蹴る。直下に居た天兵の1人を踵で押し潰し、返す刀で両腕を竜巻の如く回転させ、更に2人を肉片へと変える。
それでも部隊は立ち止まらない。反撃の手を緩めない。高位悪魔にひたすら圧倒されるという図式は、この戦いには当てはまらなかった。天使から悪魔に至り、幾多の血を見てきたカスパールとて、これ程までに強力かつ執念深い攻撃を一身に浴びた事は無いはずだ。既に全身に凄惨な銃創を穿たれながら、カスパールは衰弱した体を奮い起こし、この場を離脱する為だけのテレポートを成立させた。
その距離は余りにも短い。先に出て来た扉の付近で、カスパールは体をよろめかせつつ二本の足で屹立した。そしてそのまま、一歩たりとも動けなくなった。
何時の間にか、自身の三方を囲むようにして、ソロモンの環が浮かび上がっている。カスパールは肩で大きく息つきながら、苦笑交じりにシュネルフォイヤーを己に向けるラスティを見た。
「駄目ですね、どうも。この調子で貴方達と戦うのは厳し過ぎました」
返事の代わりに、ラスティは発砲する。その一発でカスパールは片膝をついた。立ち直ったクレアが腰溜めに銃を構えて接近し、山岸もヘッドショットの狙いを外していない。天兵達はと言えば、ようやく銃を下ろして状況を観察するのみである。戦いの行方、その先の結末は誰の目にも明らかだった。
「ごきげんよう、皆さん。さようなら、皆さん。次の戦いも頑張って下さい。戦いは続くのです。延々と続きます。そしてどんどん強くなって下さい」
3人の天騎達は一切の返答を寄越さず、ひたすら弾をカスパールに捩じ込み続けた。両膝をつき、やがて頭から斃れ伏しても、彼らは一切容赦をしなかった。この悪魔の為にどれだけ人の死を見せられたか。それを思えば、ここでの手加減は彼らに対する無礼である。
カスパールの体から、黒い煙が立ち昇る。煙は弱く明滅し、元来天使の出のカスパールは、悪魔としての完全な死を迎える事となった。しかしその顔に悔悟は無い。あるのは恍惚とした笑みだけだった。
「サマエル様、貴方様を心から愛して」
皆まで言わせず、ラスティがカスパールの額から脳天を撃ち抜く。煙の明滅は一度だけ大きくなり、それきり途絶え、カスパールは物言わぬ骸となった。
クレアが銃を支えにして、その場に座り込む。そして誰に言うとも無く呟いた。
「手負いの悪魔を一匹。それに対して、また大事な人達を5人も失ってしまったわ…」
クレアが項垂れていた顔を上げると、既にパレスの状景は消えていた。真下界の街並も霧消している。ここは唯の、殺風景な下界である。主、カスパールの死と共に、この街もまた死を迎えたのだろう。
「…分からない事だらけだわ」
仇敵を抹殺した高揚を欠片も見せず、ラスティは弾倉への補充をひたすら続けている。
「手下の悪魔達は何処へ行ったのか。魂抜きみたいになっていた連中は何だったのか。そして街から住人だけが居なくなったのは何故なのか。アタシはカスパールが、人間の魂を補給して力を復活させようとしていると思ったの。悪魔から人間の魂を抜けば、動力源が外れて抜け殻みたいに見える。そして街の住人は、もしかしたら死霊の群れだったのかもしれない。あの街の役回りは、死霊に普通の生活を繰り返させて、魂を正常な『美味しいもの』にする為だったのかも。だけど、メルキオールに受けたダメージそのままだったのよ、あいつは」
「つまり、そりゃどういう意味です?」
山岸の問いに、ラスティは肩を竦めた。そして大ホールのあった方角へとシュネルフォイヤーの銃口を合わせる。
「つまり、それだけの魂を引っ掻き集めて、別の何かを作っていたんじゃないかってね。奴が言っていた、『次の壁』を」
ラスティの予告は、次第に現実味を帯び始めていた。EMF探知機が異常を捉えたのだ。それは磁場異常を極力抑えるというような、生易しいものではない。途方も無い存在を表す大反応を容赦なく示していた。
<如真とサマエル・大詰め>
王広平とジークリッドは、つい先程までトランスアメリカ・ピラミッドの旧展望台に居た時と同じ格好のまま、何時の間にかジェイズの酒場に戻っていた。がらんどうの店内にいきなり出現した2人を見て、掃除の途中だったジェイコブ・ニールセンがモップを放り出して腰を抜かした。
「お前達、一体何処から出て来たんだ!?」
「いや、何処からも何も、えーと、あれ?」
驚きの度合いではジークリッドも負けていない。ほんの一瞬前までの修羅場から日常へと強制的に戻される展開に、頭がどうしても追いつかない。傍らではサマエルに呼吸を止められていた王が、呪縛から解放されて大きく息を荒げている。王は息も絶え絶えに水を所望し、ジェイコブは面食らいつつもミネラルウォーターを差し出した。
「…まるで夢うつつの出来事のようにも思えるが、こうして死に掛けたのは現実だ」
「では、如真は一体どうなったのだろうか?」
ジークリッドの問いに王は苦い顔を見せ、再び水を口に含んだ。
彼に一騎打ちを挑み、その最中で確かに如真は彼本来の言葉を発し、そして自分達と心を通わせる気配を見せた。それはサマエルへの追従一辺倒だった如真に対し、大きな変化を促す展開だったに違いない。しかし。
「如真を取り戻す事は、終ぞ出来なんだ…」
「それでも、私達はサマエルから如真を引き摺り出す事が出来た」
王が落胆するジークリッドの肩を叩き、小さく慰めの言葉を発した。
「今はそれで良しとしよう。今の内だけは。何れ本当の意味であいつを取り返す、その切欠は間違いなく君のお陰で作られたのだ。それに引き換え私は息子に対して、とんでもない間違いをしでかすところだったよ。君や城が居なければ、私は取り返しのつかない愚行を」
其処まで言って、王が硬直した。ジークリッドも同じく顔を引き攣らせる。同時にジェイズの建物に、何かが衝突したかのような地響きが轟いた。
「な、何だ!?」
うろたえつつも、ジェイコブが外の様子を見る為に飛び出して行く。ジークリッドと王も頷き合い、続いて扉を開く。そして彼らが見たものは、呆けたように2階の辺りを見上げるジェイコブの姿だった。つられてそちらを見て、2人は絶句した。
胸に黒い槍のようなものを突き立てられた城鵬が、建屋に串刺しの格好で宙に浮いている。がくりと項垂れたその顔を見る事は出来なかったが、彼は指先一つ動かしていない。
「そんな」
ジークリッドがその場にへたり込む。と、その時強い光が彼を中心に瞬き、その後彼の姿は消えていた。
それはジェイズの主、キューが彼を4Fに引き入れていたのだと後になって分かった。
そしてキュー自身から、2人は城鵬の死を告げられる事となった。
<悪魔カスパール・大詰め>
事態は唐突に訪れた。『それ』が彼らの前に姿を現すに際し、電磁場異常以外の前触れは一切無かった。
率直に言って、『それ』は醜悪極まりない姿をしていた。『それ』は人間の体が寄り集まって形成されている。とは言っても、姿形は所謂定形を成していない。『それ』は膨大な数の人間の死体がただくっついているだけの、それでも蠢き、歩く事が出来るおぞましい肉の塊だった。
「何だ、これは」
我に返った山岸が、奥から迫り来る『それ』に対して発砲を開始。合わせて正気付いた仲間達も火線を『それ』に集中させた。
膨大な銃撃を浴びながら、『それ』はただ肉片を撒き散らすだけで、歩みに一切の衰えを見せていない。ただ、その速度は人間の全力疾走よりも遥かに劣るのんびりしたものだった。部隊は急ぎ後退しながら、ひたすら弾幕を張り続けた。
「天使の理力が通用しない。どういう事?」
クレアが努めて冷静に疑問を呈する。が、その答えは直ぐに分かった。銃撃で四散した肉片は、たちまちの内に元に戻っているのだ。つまり打撃を加えても、『それ』は尽きる事無く再生して来る。そして『それ』は、更におぞましい所行を彼らに見せた。
『人間よ。愛しい愛しい人間よ』
その声は、恐らくここではない何処かから発せられ、彼らの脳裏に響いてきた。その声と同時に、『それ』は腕のようなものを伸ばして、庸の仲間の死体を我が身に取り込んでいる。取り込み終えた後、『それ』は更に体を大きくしていた。
「どうするの?」
「撤収する」
ラスティの問いに、クレアは据わった目で応じた。
「今は手立てが思いつかないわ。こいつが外に出て来ない事を祈るだけよ」
しかし『それ』は、下界を駆け上ってハンターズ・ポイントの外気に身を晒した。
その一帯は元々人の気が無い故、その異形の塊とも言える化け物が出現しても、騒動にはならなかった。しかし、ほんの一時間もすれば、街は大混乱に陥る事だろう。生き死に関わらず、人間を取り込みながら突き進むのだ。その目指す先は一直線、チャイナタウンである。
そしてその方角から、一筋の光が『それ』を撃ち抜いた。
瞬時に『それ』は粉微塵となるも、また同じように再生する。猛スピードで逃走する車列の最後尾から、ラスティがその様の一部始終を目撃した。
「メルキオールの攻撃だわ。でも、彼女でも通じない程の相手とは」
と、隣のクレアの携帯電話に着信音が鳴り響く。通話を繋ぐ。メルキオールからだった。
『取り敢えず、速度は鈍らせた』
淡々とメルキオールが言う。
『こうして攻撃を繰り返せば、市外への到達を遅らせる事も出来よう。しかし私でも倒すに至らない。手段を探す必要がある』
「そんな、一体どうすれば。そもそもあいつは何なのよ!」
『…恐らく、エグリゴリのシェミハザだ。攻撃の感触で見当がついた。あんな隠し玉を潜ませていたとはな。人間を異様に愛し、滅びに追いやった馬鹿な堕天使の群れの長。そ奴の意思が塊となっている。あの肉塊を撃ち抜けば殺せると踏んだのだが、手応えが無い。面妖な事だ』
「何を暢気な事を。あれを倒せなければ、街一つを食い尽くして更に巨大化してしまう」
「…待って」
ラスティが手を挙げ、思案に暮れた。そして面を上げて呟く。
「規模は全然違うのだけど、倒しても倒しても尽きない敵、という奴と戦った記録があったような。そいつと何だか、凄く似ている気がするのよ」
<H2-6:終>
※残念ですが、PC:城鵬氏は死亡しました。再登録の手段につきましては、後ほど連絡をさせて頂きます。
加えて、特殊リアクションが一部PCに発行されますので、こちらも後にアドレスをお知らせします。
○登場PC
・クレア・サンヴァーニ : ポイントゲッター
PL名 : Yokoyama様
・城鵬(じょう・ほう) : マフィア(庸)
PL名 : ともまつ様
・ラスティ・クイーンツ : スカウター
PL名 : イトシン様
・ジークリッド・フォン・ブリッツフォーゲル : ポイントゲッター
PL名 : Lindy様
・山岸亮 : ポイントゲッター
PL名 : 時宮礼様
ルシファ・ライジング H2-6【レクイエム】