<反抗作戦会議>
致命的ではない。
致命的ではないが、前回の戦いで華人系武闘派組織、庸は追い込まれる状況に陥っていた。庸にとって下界戦争は貴重な人員をすり減らす消耗戦だが、カスパールの一党は配下を使い捨てにして無尽蔵に押し寄せる一方だった。その先の結末は、闇雲に戦いを継続すれば火を見るよりも明らかだ。
次の戦いを趨勢の転換点と、庸の京大人と幹部連は位置付けていた。庸のやり方、或いはあり方が、決定的に転換する戦いとなる。そうしなければ、庸は存続する事が出来ない。
しかし、次の戦いでまた人が死ぬ。多くの者が人間とこの世ならざる者達の差を思い知らされる羽目になるだろう。それでも幸いな事に、庸という組織は『何故?』とは捉えなかった。こうまで人的損失を被って、圧倒的な存在と戦い続けるのは何故?と。
それは庸の成り立ちに起因する。京の一族が群雄割拠の状態にあった黒社会を力で纏め上げたのは、地上へと君臨する気配を見せ始めていた下界を叩き潰す為だった。華人社会、ひいてはサンフランシスコそのものが、悪の温床に惑わされぬように。少なくとも一般市民が、健全な生活を送る事が出来るように。
目標が達成され、庸は他のマフィアがそうであるように、存続と支配を続行するだけの組織になりかけていた。しかし、今や本来の姿に立ち返ったのだ。促したのは彼等、ハンターである。
ハンターと庸はカスパール一党との本格的な対決に備え、双方による全面協力態勢を選択した。
緊急の会議は常に京大人の邸宅にて実施される。全幹部の招集は勿論だが、今やカスパール一党との戦いにハンターは不可欠の存在だ。当然のように、下界での戦争に関わるハンター全員が作戦会議への参加を呼び掛けられ、一行は京大人宅の門をノーチェックで潜った。
岩塩で仕切られた玄関を開くと、門番が恭しく一礼し、ハンター達を会議の場へと案内した。数ヶ月前から比べれば対応の差に大きな開きがある。それは共闘する者を迎え入れるから、というのが理由の全てではない。
「凄いのう、そなたは。クレアは、何だか遠い所へ行ってしまわれた気がするぞよ」
道すがら、感嘆の言葉を向けてきたジークリッド・フォン・ブリッツフォーゲルに、クレア・サンヴァーニはほとほと困り果てたような顔で応えた。
「いや、僕、幹部待遇であって幹部じゃないから。庸の一員になった訳じゃないから」
「ボディガードまで居るがのう」
「いやいや、命令してそうして貰ったんじゃないし」
彼女の言う通り、クレアは今や下界戦争に関して言えば、幹部級の意思決定権を所持している。京大人すら及ばぬくらい下界の地理を知り尽くしている点を鑑み、請われた地位だった。ハンターと庸の共闘を円滑に進める為には確かに有利である。
ただ、クレアは思う。人生はまだ24年しか過ぎていないとは言え、どう転ぶか知れた話ではないと。まさか自分が、マフィアの幹部として遇されるとは。ハンターの中からボディガードを買って出てくれる者まで現れて、益々逃げ場が閉じられて行く按配だ。そんな目線を察したか否か、ボディガードの山岸亮は鼻から抜けるような笑いを漏らした。ただしその目は笑っていない。
「気になさらずに。クレア・サンヴァーニを守るというのは、ちいと難易度の高そうなゲームだと私は認識しています。これを達成すれば、私の勝ち。それだけの事です」
「誰に勝つの?」
「自分に勝つのじゃろ」
「…楽しい内輪話は其処までにしときな」
雰囲気が砕け気味の彼女らに、ナタリア・クライニーがぴしゃりと言い放った。
「奴等は既に私らを見てんのよ。舐められたら、シメエさ。殊にマフィアって人種には。いざとなったら手前ら全員死ぬぞ?くらいの顔で挑んでくれ」
「ま、其処まで気負わなくてもいいだろうけど、ハッタリくらいはかましましょ。不敵にスマイルスマイル」
口角を上げる仕草をしてみせるラスティ・クイーンツに曖昧な笑みを返しつつ、クレアは一度深呼吸をして、会議室の扉の前に立った。ラスティの言う通り、別に気負う必要は無い。自分達は請われてここに居る立場なのだ。
ただハンターとは、戦って1人朽ち果てて行くという認識がある。戦うも1人。死ぬも1人。だから分類上の一般人である庸と組む展開は、ハンターの常道を外れている。庸の構成員にも家族が居て、特にクレアは彼らの生死も範囲に収めねばならない苦悩、責任を背負い込む事となった。
(しかし)
と、クレアは思い直す。
(しかし僕は、勝つ為にここまでやってきた)
クレアは顔から力を抜き、しかしその目に意思を込め、扉を押し開いて会議の場へと踏み入った。
戦闘に関するプランは、ハンターが提出する案を軸とする事となった。何しろ悪魔を中核とする一団に対しては、エキスパートの面々である。
クレアを中心にして提示し、可決した案は以下の通り。
1.華僑の中から道師を募る。
→下界同行は不可。ただしキョンシー等に対するアドバイザとして迎え、庸の一般戦闘員に事前知識をレクチャする。
2.4人一組を基本として行動する。
→大人数が一度に壊滅する事を防ぐ為。4人は各々異なる指向性の兵器を所持し、状況に応じた武器選択を行える事とする。
3.武装を『この世ならざる者』に対抗出来るよう、根本的に見直す。
→銃弾は岩塩弾の混入を基本とする。近接戦に備え、可能な限り銀製のものを配備。ただしこれらは、ハンターに比して一般戦闘員は100%使いこなせるものではない。自己防衛策と割り切る必要がある。
4.罠の設置はハンター案を全面採用とする。
→この知識に関してハンターは飛び抜けている。中核は上級者のラスティ・クイーンツとする。
実際は更に細かく対処方法が話し合われたが、要点は以上の通りとなった。
これを軸にしてハンターと庸が取る戦法とは、即ち撤退戦である。相手は前回以上の数的圧力を仕掛けてくる事が予想され、対策を複数講じても疲労困憊となるのは間違いない。つまり人員を拡散して廟を防衛するには限界がある。加えて敵の狙いは、メルキオールが施す最終封印の突破だ。ハンターと庸は相手に出血を強いながら、メルキオールの封印場所という最終防衛ラインを目指す事になるだろう。
しかし、彼らには重大な問題が控えていた。敵には明確にあって、彼らには曖昧なものがある。果たして戦いの落着点をどのように設定するか、である。
この命題を前にして意見が割れた。それは他でもない、ハンター同士で。
「つまりメルキオールの解放は、敵の目標達成を手助けするに等しいのよ。それは何としても防がなければならない」
「最後の一兵になってもか? この戦い、敵が御主とやらの復活を達成しただけでは終わらぬぞ。戦力を温存し、後々に対抗する為の策を得ねば、庸もハンターも完全敗北を喫するであろう」
クレアとジークリッドは、到達目標の設定においてぶつかり合う格好となった。普段は心安い仲の2人だが、この戦いには大勢の命がかかっている。意思を引っ込める頭は2人に無い。
「先にも出ていた通り、廟の完全防衛は、まず無理であろう。ならば早急に見切りをつけ、得体は知れぬが天使の力でも借りねば割に合わん」
「廟が壊されれば、メルキオールが御主、サマエルを封印し続けるのが困難になるのは分かるわ。しかし最後の封印と、最低限周辺の幾つかを守りきれば、まだ維持は可能だと思う。僕としては、それを達成する為の準備を話し合っている」
「敵が前回から単に数を増やしただけならばまだ見込みもあろうが、此度は遂にカスパールが相手ぞ…」
ジークリッドは組んだ掌を揉むようにし、先の戦いを思い返して苦い顔になった。彼女はナタリアと共に、ウェリネという第三級を相手にして、あと一歩で死というところまで追い込まれていた。その強さの程は存分に味わっている。しかしカスパールは、単に三級が二級になりました、程度の相手ではない。元来高位の天使だった者が、敢えて悪魔になったのだ。力量の桁は比較にすらならないだろう。
「だからせめて、カスパールと同等と目される者を味方にしなければならない。カスパール参戦の段階で、手は一つしか残されていないのじゃ」
「そして封印を失って次に出てくるのは、恐るべきカスパールが主と崇める、正真正銘の魔王、サマエルなのよ?」
「わらわは、例えば博士や京大人が、場当たり的にメルキオールの解放しか手が無い、と言った訳ではないと思うのじゃ。最終的にこの集まりは、カスパールではなくサマエルの一党を相手にする集団となろう。と、わらわは見ているのであるが、大人、相違無いか?」
ジークリッドに促され、京大人は閉じていた目をゆっくりと開いた。双方の意見は、聞くべきところ多々ありである。ならばこの場を裁定出来るのは彼しかいない。京大人は、重々しく言葉を口にした。
「災厄の封印者は、3人居た」
大人曰く。
「それが2人抜け、残るはメルキオール1人となった。メルキオールが言うには、彼が居残ったのは役割を担っていたからだそうだ。災厄を抑え切れなくなったその時、これを討ち果たすという役割を。これは他の2人には無いものであった、とな」
「つまり、手段があると?」
「左様。こればかりはメルキオールに聞かねばならぬ。どういう手段かは知る由も無いが、かの者も天使ゆえ、決して嘘はつかない。それでは、一同起立」
京大人の命を皮切りに、幹部連が一斉に立ち上がった。遅れて何となくハンター達も従う。京大人は彼らに、最終の決を下した。
「敵に封印を悉く破られ、最後のそれも強引に解かれれば、庸とハンターは甚大な損害を被る事となるだろう。加えてメルキオールの力が減ぜられる可能性もある。これを阻止するには、正統な手段をもってメルキオールの封印を解除せねばならん。法印二百六十四種を用い、わしが封印の解除を実行する。されどこれには時間がかかる。諸君らは遅滞に徹し、ハンターの指示の元で防衛戦をやり抜いて欲しい」
つまり奥の手があるという事か。クレアはそのように解釈した。それならば、封印を解除する事を前提とした防衛戦にも大きな意味が出て来る。被害を最小限に抑え込む為に、出来るだけをやってみようとクレアは意を決した。
しかし、とも思う。封印解除については、以前京大人自身から聞いている。その儀式は手順の複雑さも去ることながら、最終的に術者の寿命を縮める事にもなるのだと。それを承知で京大人は事を起こそうと言うのだ。クレアのみならず、少なからずの者達が思う。
この戦い、勝つという結果は得られないかもしれない。しかしながら、決して負けてはならないと。
<王如真>
作戦会議は概ね方向性が決定付けられた。末端に至るまで指示を出すべく、ほとんどの幹部連が京大人の邸宅を後にする。
そして今、会議の場に残ったのは、京大人とハンター。ジークリッドは所要ありとの事で席を外している。加えてラスティのたっての希望で、最高幹部の盧詠進が着座したままだった。
「ハンターとねんごろの王ではなく、俺を残らせるたぁどういう風の吹き回しかね?」
相も変わらず人を食った調子で、盧がラスティに問う。
「ま、皆まで言わずとも分かる。大方奴の一人息子について、だろ?」
「あら、随分と察しの良い事ね?」
「如真については、庸の中でも知る人ぞ知る噂が持ち上がっていてね。ナイフ一本で悪魔を文字通り『殺した』とか。随分勇ましい話じゃないか」
ラスティは思わず舌を巻いた。先のル・マーサでの一件は、ハンター内で口外している者は居ない。庸はハンターの動向を、かなりの部分で掴んでいるらしい。尤も、それはハンター側が庸に対しても同じ事が言えるのだが。ともあれ、最高幹部クラスが先の件を認識しているのは、この集まりの打ち合わせを進めるにあたって話が早い。
即ち、王如真の処遇について、である。盧は掌を組み、深刻な声で言った。
「広平の野郎も頭が痛いだろうよ。知らぬ間に息子が対悪魔戦でハンターに互する存在になっていたんだからな。この話、庸の中では好意的に受け止める向きもあるが、俺は危惧している。たとえハンターでも、本来悪魔は地獄に返すものであって、殺す事ぁ出来ないはずなんだろ?」
「そう。余程特殊な武具を用いない限りはね。稀な例外もあるにはあるけれど」
言って、ラスティはナタリアを横目に置いた。超能力覚醒剤を飲み、悪魔殺しの異能を身につけたハンターを。当のナタリアは話に全く興味を示さず、素知らぬ顔でオレンジジュースをゆっくりとストローで吸い上げていた。ラスティが続ける。
「そう、盧さんの危惧は正解だと思うわ。彼の心は庸ではなくマーサにあって、彼自身が何処に行こうとしているのか見当もつかない。マーサは表面上で悪魔と敵対しているけれど、裏では悪魔との深い繋がりもあるらしいわ。彼、早晩あなた達に弓を引くかもしれないわよ」
「成る程ね。ハンターさん、ラスティ殿はどうすべきだと思う?」
「此度の戦い、泳がせた方がいいわ。彼は間違いなく次もマーサに合流する。彼への対処は、マーサの絡みで動いている者達に任せましょう」
「ちょっと待った」
黙って聞いていたクレアが、眉をひそめて曰く。
「彼を遊ばせる気? 確かにマーサの一員かもしれないけど、彼はそれ以前に『庸』よ。次の決戦級に組み込まないのは、大きな痛手になる」
「…何をしでかすか、知れたものではないのに?」
「現時点、彼が庸の仲間を皆殺しにする意味が無いわ。マーサの目標が庸の殲滅であれば、話は別だけれど。マーサはマーサなりの手段で御主とやらの再臨を目論んでいて、しかしその手段は悪魔達のそれとは違っていると思う」
クレアとラスティの意見は正面から対立した。どちらの言い分にも道理がある以上、それらを聞いて判断を出せるのは、先の通り京大人という事になる。盧は見解を出されるように、と大人に進言したものの、意外にも大人は首を横に振った。
「盧、お前が決めよ。お前の判断を尊重する」
「俺でいいんですかい?」
「お前の意見は、中庸のものと見た。わしと王は、どうしてもハンター寄りの考え方をしてしまうからな。お前は丁度中間に位置している。決定するがいい」
其処まで言われては、盧も断りを入れる訳にはいかない。盧は肩を竦め、ハンター達に告げた。
「矢張り戦力は必要だ。王如真はしばらく留めておくとしよう。ただ、俺の管轄に編入させる。真下界での一件で、人的損耗が激しいという理由でね。ただ、奴が戦闘中に動き出したら止めはしない。奴を縛ろうとして、手酷い反撃を貰う可能性も捨てきれんからな。こんなところでどうだい?」
双方の意見を取り入れた折衷案を、盧は提示した。ラスティとクレアにしても、京大人が託した最高幹部の意思決定を覆すつもりはない。
ただ、その案はしばらくの後、御破算の結末を迎える事となる。
事務所と住居を兼ねた王広平のビル、その一間で如真は椅子に座り、手紙を眺めていた。ハンターの郭小蓮からだった。ハンターと関わり始めた初期の頃、共に戦った仲間である。
如真は切々と綴られた文面を、しかし何の感情の色も見えない目で追っている。それは如何に彼を気遣っているかが伝わるものであったが、対して彼は目を細めて丁寧に折り畳み、デスクの引き出しに手紙を仕舞った。
と、ビルの正面入り口が開く音がした。入ってきた足音は二つ。出迎えようとノブに手を掛け、しかし如真は思い直し、その身を窓枠へと向けた。
「何だ。また何処かに出掛けたのか」
誰も居ない如真の部屋の扉を閉じ、王広平が客人のジークリッドを伴って居間へと戻る。
ソファに向き合って座り、王は何処か悲しげな顔のジークリッドを見、おもむろに口を開いた。
「如真について、何が聞きたい?」
「言いたい事は、それこそ山ほどにもあるのだが」
ジークリッドは言った。
「そもそも彼は、何故ル・マーサの門を叩いたのであろう」
「…あいつにとって、私はろくでもない父親だった。というところから話を始める」
それから王は、長い昔話を語った。
如真がずっと小さい頃に、王は妻と離縁している。少なくとも親権を得て彼女をほぼ追い出すという形である以上、大きな非が妻の側にあったらしい。しかしその後如真に対し、王はほとんど父親らしい事をして来なかった。多忙にかまけて養育を付きの者に任せ、つまり如真は常に孤独を抱えていたのだ。ジークリッドは少々たじろいだ。如真は明るい青年であり、父親との関係も極めて良好だったように見える。かような問題を抱えた親子とは、話を聞いた今でも思えない。
そして如真がエレメンタリーに上がる手前から、英才教育が始まる。勉学ではない。如何に効率良く戦い、手早く対象を抹殺するかを手解きする、各氏精鋭の1人とする教育である。元々口数の少なかった如真は、ノミで氷を削り取るように顔から表情が消えて行った。
事其処に至って、王は自身の判断違いに気が付いた。自分は庸の者であり、また如真もそうであるなら、つまり自分と彼は同一のものである。そのように何時の間にか考えていたらしい。しかし如真は一個の独立した人格を有している。その事実に対してあまりにも無頓着であったと、王は思い知る羽目になった。
「出来る限り、あいつと接する機会を持とうとした。しかしあいつの作る表情は何処か芝居じみていて、本心というものが見えてこなかった。だが、ほんの先頃から、裏表の無い顔を見せるようになったのだ。よく笑ってよくしゃべり、近所の子供達ともよく遊ぶ。私は驚いたよ。何故、と考えて私は調べた」
「その結果、ル・マーサに足を運んでいると知ったのじゃな?」
「そうだ。当初は胡散臭い宗教集団にはまったかと思ったのだが、やっている事はボランティア以外の何物でもない。だから私は咎めもせず、むしろ人らしく変わって行く姿を嬉しいとさえ考えていたよ…」
「しかし違う。違うのじゃ、王広平殿。マーサは非常に、非常に危険な組織であった。心を弄繰り回して、魂と体を御主の奴隷とし、その所行を絶対正義と考えているような奴原であったのじゃ。このままでは、何れ庸とハンター、あまつさえ親父殿にも牙を剥きかねん。どうにか引き止める手立てを考えねば」
「分かった」
言って、王は立ち上がった。
「私は、親として為すべき事を放棄して、マーサに委ねて貰う選択を取った。如真から目を背け、楽をしようとしていたのだ。私が間違っていた。如真と今一度、腹を割って話し合わねばならない」
「よくぞ言われた」
王の意を受け、ジークリッドは携帯電話を如真のそれへと繋いだ。しかし返事は無い。彼女は王に留まるよう言い置き、自らは外へと飛び出して行った。家に居ないのであれば、如真の行く先は一つしかない。ル・マーサの本拠だ。
「如真、戻れ、如真」
走りながら、何時の間にかジークリッドは呟いていた。
「お前を本当に大事に思っている者の元へ。今ならまだ間に合う」
「いや、大丈夫ですよ」
脇から不意に声が掛かり、ジークリッドは急制動をかけて声の主を見た。
如真が居た。その顔に満面の笑みを貼り付けて。
王如真はジークリッドの間近に居る。
しかし、その物理的な距離感とは裏腹に、ジークリッドは彼の心が一段と離れて行くような気がした。如真の人好きのする表情と態度は変わっていないにも関わらず。
否、とジークリッドは思い直した。自分は切迫を露とし、心からの心配を如真に向けているというのに、彼の不動の反応は余りにも非人間的であった。ジークリッドの逡巡を全く意に介さず、如真は路地裏から通りへ出て、改めて彼女を見詰めた。そして言う。
「聞いていましたよ、先程の父さんとの話は」
「何だと」
ジークリッドは、その後の言葉を失った。如真が続ける。
「概ね父が言っていた通りですよ。僕の家族って奴は。しかし訂正をしなければなりません。僕は父さんと母さんを恨みがましく思った事は無いんです。ただ、かつての僕は感情を表現するのがとても苦手で、父には随分と心配をかけてしまいました。でも、ル・マーサに入って、僕はようやく本来の自分を取り戻す事が出来ました。仏頂面で一言もしゃべらないよりは、今の僕はずっといい」
「…帰るのじゃ、如真」
「お別れです、ジークリッドさん」
如真は笑ったまま、決裂の言葉を口にした。
「なあに、しばしの間です。もう直ぐこの街は変わります。漠然とした不安や恐怖に怯える必要の無い世界になる。御主の心がこの街を包まれたその時、僕はまた会いに来ますよ。そうだ、父さんも迎えに行かなきゃ。きっと庸なんて組織も無くなっているでしょうから、身の振り方を考えないとね。そう、庸はこの先の世界に必要ありません」
「如真、そなたが身を張ってわらわの命を救ってくれた事、片時も忘れてはおらん。心から感謝している。だからこそ如真、そなたをマーサには行かせぬ。彼奴らが言う微笑の楽園とやらの、其処までに辿り着く手段と結末は」
ジークリッドは息を呑み、言葉を打ち切った。目の前から如真が掻き消すように居なくなったのだ。何の前触れも、脈絡も無く。今の如真が尋常の存在ではない事を、ジークリッドは改めて知った。
「御主、サマエル」
歯を軋らせ、ジークリッドが怒声を吐く。
「如真をどうするつもりだ!」
その日その時を境に、王如真は庸から姿を消した。
最高幹部の子息、各氏精鋭の1人。公になれば、これから決戦を迎える組織への打撃は深くなる。故にこの事実は、ハンターと京大人、最高幹部以外に口外される事無く伏せられた。
最早如真の行方を突き止める為の、追っ手を差し向ける余力も無い。これから戦いが始まる。人間とそれ以外の、血で血を洗う戦いが。
<アンダーワールド・ウォー>
戦端が開かれるまでの静寂は深い。
カスパール一党の軍勢は前回の襲撃以来、下界に全く姿を現さなくなっていた。その間隙を縫うように、庸とハンター達は下準備を網の目のように張り巡らせ、迎撃の準備をほぼ整える事が出来た。前のような力のぶつかり合いとは訳が違う。
問題があるとすれば、何時カスパールが攻めて来るか。その一点のみにおいて彼らは主導権を握られていると言っていい。この問題は、京大人によるメルキオールの封印解除に大きく絡んでくる。
当然ながら、災厄の封印そのものは時間の許す限り温存する必要があった。しかし先の反抗作戦会議で、数と力を背景にした敵の攻勢を受け止めきれないとは、既に認識されている。よって敵の侵攻とメルキオールの解放は同時にスタートを切る事となった。苦肉の策だが、ハンターと庸には戦力をこの先に繋げるという共通認識があった。
京大人が寝起きの場を下界最重要拠点、メルキオール封印位置に変えてから五日余り。
合わせて庸の人員と一部のハンターは、一日のほとんどを下界で過ごしている。即応態勢は万全に近い。加えてカスパールの一党が襲い掛かってくる時間帯については、凡その見当がついている。朝から夕方まで、陽の出ている間だ。この世ならざる者達が躍動を開始する時間帯は、深夜が通例なのだが、しかし下界は下界である。かような常識は頭から外す必要があるのだろう。
ただ、敵が律儀に昼を選んでくるには、実は理由があった。その方が『もう一方の側』、つまりル・マーサの人員が揃い易いからである。カスパールとマーサの関連は、余りにも根深い。
「どうした? シケたツラ晒してさ」
その言葉と共に横肘で小突かれるまで、ジークリッドはナタリアが何時の間にか隣に座っている事にすら気付かなかった。二人は下界空洞の一角で、庸の人員が目の前を慌しく行き交う様を眺めつつ、しばしの小休止を取っている。ジークリッドはナタリアを横目に置き、また視線を戻して焦点を泳がせた。
「別に何でも…」
「如真の事かい?」
ナタリアは容赦なく図星を突いてきた。ジークリッドは肩を一度だけ跳ね上げたが、観念して思うところを口にする。
「結局彼の心は、誰であろうと変えられなかったのだろうか」
「分かんないね。しかしだ、あんたは兎にも角にも奴の心の内を奴自身から聞いた。その上で奴は、あんたや親父さんが差し伸べようとした手を振り解いて、自分の思う道を選択したって訳だ。人は自らの選択に自らが責任を負わねばならない。ってのは、誰の受け売りだったかね。私には耳の痛い話だよ」
言うだけ言って、ナタリアは肩を竦めてその場から歩み去った。残されたジークリッドは、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。恐らく次に会う時は、如真が立ち塞がってくる可能性が高い。その時、自分の取る選択肢は?
(果たして今の如真を救う事は出来るのか? 否、そもそもそれを如真は救いと解釈するのか? 決定的に対立するならば、彼を討つ事が果たして出来るのか?)
ジークリッドは、まだ若い。しかし少女らしい躊躇を許す程には、現実は優しくもない。物事の変化は、唐突で容赦の無いスタートを切ってくる。ジークリッドの心は、突如鳴り響いた甲高い緊急警報音で方角を捻じ曲げられた。
敵襲の第一報はマリーナ地区の守備隊から入ってきた。前回の経験を踏まえれば、件の一党がマリーナ地区のみに留まらず、同時多発的に仕掛けてくる事は間違いない。クレアは冷静に下界全図を脳裏に思い浮かべ、まずはマリーナの状況把握を開始した。
「敵の種別は?」
『ゾンビです。銃砲火でどうにかなります』
「弾切れに注意して。敵さんは使い捨てで消耗させてから、多分本命を出してくるわ」
それからクレアは、全地区に向けて無線を繋いだ。敵側が使う『扉』は、その全てを庸が押さえている。溢れ出すこの世ならざる者を片端から薙ぎ倒す陣容であるものの、火器が通用するのは動く死体が相手の場合のみである。それ以上の手合いが来れば、戦況は容易く引っ繰り返される。
「動死体以外の何かを見た時点で『扉』での迎撃を放棄! 各自設備を使用して遅滞戦を開始! 1時間守り抜けば勝てる! 一人十殺の心意気で各自鋭意奮闘努力せよ!」
1時間、である。
クレアは無線を切って、短くも極度に長くも感じられる時間を思い、心が焦燥に駆られた。それは京大人による、メルキオールの封印解除に要する刻限である。クレアは傍に控える山岸に問うた。
「京大人の様子は?」
「既に儀式を始めてますよ。あの馬鹿みたいな量の符を事前に貼り付けといたのは正解でしたね。正確には残り57分と28秒」
「そう。山岸、あんたも前に出て警戒を始めて」
「言われればやりますが、1人で大丈夫ですか?」
「人員は限られている。有効に活用しないと」
「分かりました」
前進する山岸を見送り、クレアは自らも散弾銃を引き出した。一直線100m弱の空洞に居るのは自分1人。彼女の200m後方では、少数の護衛を連れた京大人が封印解除の儀式を始めている。これを突破される事は、ただの敗北を意味しない。庸とハンターが諸共に絶滅するのだ。
事態を引き伸ばす為に、考え得る事は全てやった。だから結果は、必ず自ずと付いてくる。クレアには、そう信じるしか無かった。
EMF探知機を作動。表示されるこの世ならざる者達は、簡素な画面に真っ赤な扇状を形成していた。
案の定、全地区で攻勢が始まった。
敵は主力を動死体で押して来ている。9割ゾンビ、残り1割が殭屍(キョンシー)という配分である。言い方は妙だが、作成単価の低いこの世ならざる者から、敵は並べ立てて来ているようだった。庸の人員でも、それら相手ならば勝負になる。何しろゾンビは動作が遅く、キョンシーは並みの人間程度にしか動いて来ない。対人戦の修練を積んだ庸ならば、それらは動く標的でしかない。ただしその数は、前回とは桁が違っていた。
天井から大量の岩塩が落とされたところで、動死体共は特段苦しむ事も無い。塩には穢れを祓い清める効力があるが、あの下等な動く死体は自分自身が穢れているという認識すら持ち合わせていないのかもしれない。床にピアノ線を引き、引っ掛かれば塩の雨が降るという罠を張っていたラスティは、対悪魔用の仕掛けが台無しにされる様を、舌を打って見詰めた。
「なるほど。こちらの罠を使い捨て共に被らせた後、悠々本隊が進軍するという訳ね。アタシ達には出来ない所行だわ」
「ラスティさん、感心していないで銃でも撃って下さいよ!」
各氏精鋭の1人、劉紫命が仲間と共に悲壮な声を上げた。その合間にもゾンビ達は、手足を吹き飛ばされてもがく同類達を乗り越え、文字通り腐った目をこちらに向けて歩んで来ている。ゾンビ達は無限に湧くが如く数が減らない。土嚢を積んだ庸の陣地まで、距離が20mを切っている。貸し与えられた猟銃で言われた通り迎撃を開始するも、ラスティは溜息をついて言った。
「駄目。ジリ貧。後退しましょ、後退」
「まだ距離がありますよ」
「そう考えて道路を渡ると車にはねられるワケ。後もう少しなんて考えたら死ぬわよ。しかし、易々と撤退するのは芸が無いのよね」
劉紫命以下4人を促し、ラスティはマッチを摺って火を点けた。放り投げられた火が床に触れ、それは事前に撒かれていた油に引火する。噴き上がった炎は瞬く間に通路を逆走し、迫り来るゾンビを呑み込んで行った。ゾンビとはいえ、稼動するには腐っても筋肉を用いて来る。炎は全身の筋組織に満遍なく打撃を与える故、ゾンビ相手には有効な対処手段だった。次々と朽ちて行くゾンビ共を後目に、ラスティは後退しつつ『例の歌』を歌った。
「燃ーえろよ燃えろーよー」
「いや、歌っている場合じゃないでしょう。つうかゲホッ、ゲホゲホゲホッ!」
「あ、トンネル火災の致死率は頭に無かったわ。ゲエホゲホッ!」
「嫌だなあ、人の死体の焼ける臭い。何でこんなにクセエんだろ」
「牛は旨そうなのに何故だろうね」
と、ラスティ一行が暢気な台詞と共に2つ目の土嚢に身を隠す。続いて迎撃という段で、ラスティは炎の中に揺らめく人影を見た。
それは死体を踏みしめ、着実な足取りを見せていた。のろくさとしたゾンビでもなければ、奇矯なキョンシーでもない。それが何であるかを、ラスティは見抜いた。悪魔だ。ラスティの顔から、余裕の笑みが消える。
ラスティはブラックライト照明のソロモンの環を即座に準備し、庸の仲間と更に後退した。
ソロモンの環は悪魔の足止めする点においては最高のものだが、バラ撒ける代物でもない。出した1つか複数の環に対し、術者の集中が大きく傾けられる事になる。
だから、出現し始めた悪魔の進撃を局地の面では効果的に食い止めていたものの、庸のみの人員が守る区域は着実に押し込まれ始めていた。ただ、庸は未だ人的損失を被っていない。悪魔と思しき手合いとの交戦は徹底して控えるよう、事前に周知されていたからだ。塩と聖水の使用を組み合わせ、クレアやラスティが施した仕掛けを駆使し、決して無理を通す事なく、彼らはどうにか生き延びていた。
ただ、それは庸による対悪魔戦の重視は、当の悪魔も承知している。つまりそれを覆す手段を準備している、という事だ。
ジークリッドによる単独奇襲攻撃は、その戦いにおいて完全に功を奏した。
後退する庸と追い込む悪魔という状況に、横合いからジークリッドは聖界煙幕を投擲した。聖界煙幕は、この世ならざる者の視界を捻じ曲げる欺瞞煙幕に、効果的に聖水が含まれたものだ。かような閉鎖空間内で悪魔を相手にするには非常に使い手が良い。
噴き出す煙の中で激しく咳き込むのは、6体中3体。ジークリッドはとどめにソロモンの環を広範囲に発現させ、抜刀しつつ斬り込んだ。
恐るべき速度で小柄な塊が走り込む様を認めた時点で、それが悪魔達の最期となる。ジークリッドは1体を袈裟斬りにし、残る悪魔も剣を振るって続々と叩き伏せた。銀の強化が極度に施された剣の力は、悪魔を殺せないまでもたちまち虫の息に追い込んで行く。洗脳された人間と思しき3人を剣の峰で昏倒させた後、ジークリッドは口早く福音を唱えた。
悪魔の口から黒い煙が吐き出される。普段であれば地獄送りの恐怖にもがき苦しむ様が展開されるのだが、あまりの打撃の深さにその余裕すら失われたのだろう。悪魔達は3体揃って、静かに身動きを停止した。斬り込み開始から、その間僅か1分足らず。
「四級以下じゃな」
剣にこびりついた血を布で拭い、ジークリッドは顔をしかめた。
「三級が相手では、こう易々とはいかぬ」
と、後退していた庸の者が、手を振りながらジークリッドの元に駆け寄って来た。皆笑顔だ。自分達では殺せないものを倒せる力を持つ人間が、仲間として居るのは心強い事である。
「さすがだな、ジークリッドさん。恩にきるよ」
洗脳されていた者を続々と縛り上げる傍ら、庸の者の1人が労いの言葉をかけた。
「おかげで前線をもう少し維持出来る」
「ここに留まるのか?」
「ああ、少しでも時間を稼がないと」
「無理は禁物じゃ。危険と思わば、即座に退くが良い。この攻勢、未だ序の口であるぞ」
「勿論。俺にも妻と子が居るんだ。こんなところで、死んでたまるかってんだ」
再び持ち場に戻った庸の者達と別れ、ジークリッドは再び遊撃を開始すべく、来た道を戻って行った。が、その歩みをピタリと止める。声が聞こえたのだ。微かな声が。
『ジークリッドさん』
声は、そのように言っていた。
『僕です。ジークリッドさん。何処ですか』
ジークリッドは、ゆっくりと振り返った。今し方の声は、先に居た場所の更に向こう側から聞こえている。遠目に見える庸の者達も、その声を聞いて沸き返っていた。
「王如真だ!」
「こっちに合流して来たか。俺らはツイてるな」
「しかし奴の受け持ちはどうなったんだ?」
声の主を迎えるべく、庸の者が続々と持ち場を離れる様をジークリッドは見た。
「違う」
ジークリッドが呟く。
王如真の離脱は、彼らのような一般戦闘員には伏せられていた。だから戦場にあって如真の声に親しみを覚えるのも無理は無い。しかしジークリッドは『違う』と言った。
あれは、自分の名前を呼んでいた。彼とは今一度会いたいと思っていたから、ほんの少しは心が揺らいだ。だが、その声は『違う』。声質や響きは全く同一と言って差し支えないのだが、根本的な情感が損なわれた酷薄さが感じられた。まだ如真には心があるとジークリッドは信じている。故に、その声は如真のものとは『違う』。
「違う! おぬしら、違うぞ!」
全速力でもって、ジークリッドは疾った。人の声を模せるこの世ならざる者と、彼女は一度交戦している。それがどれだけ危険な代物かは、心と体が覚えていた。ジークリッドは身を震わせ、この世ならざる者の名を口にした。
「ウェンディゴ」
曲がり角を高速で走り抜けようとしながら、しかしジークリッドは急制動をかけた。少し先で、庸の者達が全員爪で切り裂かれ、倒れ伏していたからだ。そして死んだ1人を頭から貪り食う巨体が一匹。その怪物、ウェンディゴとジークリッドの目が交差した。
死体を投げ捨て、ウェンディゴが大股で向かって来る。剣を正眼に構え、ジークリッドが相対する。基本的にどのようなこの世ならざる者とも、正面から一対一で相対してはならないのがハンター世界のセオリーだ。それは彼女も承知している。しかし、ここには身を隠す場が無い。走る速度が桁違いのウェンディゴ相手に、逃げを打つのも不可能だ。ジークリッドは懐の欺瞞煙幕を手にやり、思考を高速回転させ、この状況を制する手段を模索した。が、それは唐突にウェンディゴが転倒するという顛末から、一気に事態がジークリッドの有利へと進む。
ジークリッドは身を翻し、庸の者が守っていた陣地へと飛び込んだ。そして着火用の発炎筒を握り、取って返す勢いでウェンディゴ目掛けて突進する。ウェンディゴは足に纏わりついた網を外すべく、四苦八苦の体を見せていた。その時点で、勝負は決着した。
がら空きの頭に、遠心力を込めたジークリッドの剣尖が叩き落される。顔半分を割られ、銀の熱と痛みに耐えかね、ウェンディゴがおぞましい悲鳴を轟かせた。
剣を引き抜き、肩を力一杯足蹴にして引っ繰り返し、ウェンディゴの心臓のある位置を、全体重を乗せて刺し貫く。また絶叫。
梃子の原理で肉を大きく割り開き、ジークリッドは心臓を露出させ、その傷口に火を起こした発炎筒を捻じ込んだ。激痛と恐怖の雄叫びと共に、ウェンディゴは盛大にのた打ち回る。発炎筒を引き抜かれぬよう、ジークリッドが転がるそれの両腕を正確に斬り落として行く。凄惨な殺しの修羅場は、やがて速やかにウェンディゴが動作を止め、終わった。
大きく呼吸を荒げつつ、ジークリッドは動かなくなったウェンディゴの巨大な足を蹴飛ばした。そして両足をがんじがらめにした網は、庸の1人が放ったネットガンによるものだったと彼女は知る。
ネットガンの引き金を絞った格好で、彼は既に息絶えていた。クレアが配布を推し進めた猛獣捕獲用のネットガン、そしてこの男にジークリッドは救われたのだ。彼は妻と子が居ると言っていた男だった。
ジークリッドの心に、不意打ちの悲しみが溢れ返る。死んだ庸の者。その男。彼の家族。如真の曖昧な微笑み。何もかも。
「大丈夫じゃ」
顔を真っ白とし、それでもジークリッドは立ち上がった。
「大丈夫。わらわは、まだ戦える」
次なる敵を求め、ジークリッドは一歩を踏み出した。彼女の言う通り、戦いは未だ終わっていない。
「ウェンディゴですって…」
その怪物が複数出現した知らせを、クレアは忸怩たる思いで聞いた。当然ながら、ウェンディゴについては自身も交戦経験があるので知っている。ただ、ウェンディゴはかなり希少なこの世ならざる者であるはずだ。そんなものを複数繰り出してくるとは。と、クレアが唇を噛み締める。
しかしながら彼女がネットガンを準備する事で、庸は相当の部分で救われた。網は猛獣を抑え込める強度があり、簡単に引き千切れる代物ではない。庸にとってウェンディゴはどうにもならない手合いだが、上手くネットガンを駆使すれば、倒れた隙に離脱する事が出来る。現にそうやって、無事に後退出来た守備隊も居た。
だが『居た』と言うからには、その逆もある。各所で守備隊が惨殺され、突破の憂き目を次々と見、庸はウェンディゴの投入によって雪崩を打つが如く死体の数を増やして行く。それに合わせて守備範囲も、着実に狭まりつつあった。
『こっちに一体、猿の化け物が向かっているそうですよ』
山岸から無線が入る。つまりそれは、早々に最終防衛線を突破された事を意味している。クレアは落ち着き、突破された防衛線の再構築を庸の者達に打診した。
『侵入したウェンディゴはどうするんですか』
「こちらで何とかするしかないわ。敵の後続は?」
『不明ですね。勿論突破後に進入された可能性はあります』
「了解」
無線を切り、クレアは軽く準備運動をするナタリアに声を掛けた。
「頼める?」
「上等、上等。ああ、肩がこってやがる。きついバイトも考えもんだねえ」
「こういう激しい戦いの時は、消耗する仕事は控えた方がいいわよ」
「とは言え、一銭にもならない仕事が本業でね」
軽口を叩き、掌をヒラヒラと振って、ナタリアはウェンディゴが侵攻する区域に向かって歩んで行った。
如真が抜けた今の庸とハンターにあって、尋常ならざる者は彼女しか居ない。超能力覚醒剤をその身に取り込み、悪魔同様のPKを手に入れたナタリアは、悪魔やウェンディゴと正面から戦う事が出来る。しかしその力は消耗が激しい。今の今までナタリアという大きな戦力が、出し惜しみされていたのはその為だった。
と、通路の向こうから何者かが走って来る。ナタリアは緩慢な仕草でショットガンを向けたものの、矢張りまた緩慢に銃口を下ろした。やって来たのは人間であり、山岸だったからだ。
「私とした事が。危うく人間を穴だらけにするところだったよ」
「そいつはどうも。来ますよ、もう直ぐ」
「そうかい、そうかい。ライターと火炎瓶、持ってる?」
山岸はナタリアにそれらを手渡し、自らも突撃銃を通路向こうの闇に構えた。
「援護しますよ」
「要らない。アンタ、クレアのガードだろ。彼女のところに行っとくれよ」
「いいんですか?」
「むしろ危険だ。決定打を捩じ込むまで守れる自信が無いからさ」
「1人ならば勝つ自信があるという訳ですか」
「まあね。さあ、早く」
「それでは」
山岸は立ち上がり、ナタリアに言われた通り素っ気無く後退して行った。その割り切りの早さは良いものだとナタリアは思う。
そして規則的ながら重い足取りを、ナタリアの聴覚が察知した。此度は先とは異なり、素早く散弾銃を構える。合わせて走り込んで来る巨体が、彼女の視界に侵入して来た。ヒョウ、とナタリアは奇声を上げた。
「ヒャハハ。怖え、超怖えよ」
後退しつつ散弾を放つ。ポンプアクション。再度銃撃。ウェンディゴは大きく身を捩るも、それだけだった。むしろ被った打撃に比例して、募る怒り感情が空気を振動させるかのようだった。ナタリアは、また笑って引き金を絞った。
全弾を撃ち尽くし、ナタリアは散弾銃に装填すべく後退を止めた。それは普通のハンターであれば、やってはいけない所行である。自らを追跡するこの世ならざる者を前に立ち止まる等と。しかしナタリアは狂声を上げて襲い掛かってきたウェンディゴに対し、ちょっと待て、とでも言うように掌を向けた。
残り一跳躍というところで、ウェンディゴの突進がいきなり食い止められた。それどころか、空中に固定されたように微動ともしない。明らかに驚愕しているウェンディゴに相対し、装填を終えた散弾銃を肩に引っ掛け、ナタリアは懐から煙草を取り出した。そして煙草を指揮棒のように小さく振る。
同時にウェンディゴの分厚い胸板が、ばくりと裂けた。堪らず怒声を放つも、暴れられるのは声だけだ。体は不可視の力で固定され、ビタ一文動かない。ウェンディゴの見る前で、火炎瓶の布栓が一人でに引き抜かれ、中からガソリンが不思議な弧を描きつつ宙に噴出した。
ナタリアは煙草に火を点け、軽く一口吸ってから、無造作にそれを指で弾いた。ガソリンに引火。炎の塊が宙に浮かぶ。そしてそれは、ウェンディゴの体内に吸い込まれるように収まった。心臓部位を中心に、ウェンディゴが炎に包まれる。ウェンディゴは、声を出す事無く地面に倒れ伏した。速やかに喉元を焼き尽くされたからだ。
地獄の状景をナタリアが見下す。瞳にゆらめく炎を映し、歪んだ笑顔を貼り付けたまま、ナタリアは同じくうつ伏せに倒れて行った。
複数の足音が聞えて来る。それはナタリアにも聞えているはずだが、体を痙攣させるナタリアは、足音が間近に迫っても無反応であった。足音の一つが彼女の直ぐ傍に止まり、無造作な足蹴りを腹に入れて来た。
「あは。力尽きて倒れている。こいつ、想像以上の間抜けだわ。あはは」
再びナタリアの腹を蹴り上げ、配下を4人引き連れた悪魔、ウェリネは耳障りな笑い声を上げ続けた。一頻り笑った後、最早ナタリアには興味を示さず、ウェリネはツイと顎を先の道に向けた。
「さて、一番乗りは貰ったわ。後は人間共を蹴散らして、メルキオールの封印を滅茶苦茶にしてやるだけ。そうすれば、私達でもメルキオールをブチ殺せる。悪魔が天使を殺すなんて最高だわ」
「ウェリネ殿、この女はどうします?」
「ああ…。首を刈り取って、その辺にでも飾っておけば?」
くだらなそうに言い捨て、ウェリネは再び歩き出した。命を受けた配下が、ナタリアを仰向けに返す。ナイフを取り出して首元に当てようとする手前で、しかし悪魔は目を剥いた。ナタリアの瞳が、白目の部位諸共に鮮血の色で染まっていたからだ。ナタリアは、口の端を曲げた。
ウェリネの背後から、突如煙が噴き上がる。身を翻すも、もう遅い。欺瞞煙幕の範囲内に巻き込まれ、ウェリネは方角を見失った。そして肉が潰れるおぞましい音が一つ、二つと聞えてくる。四つ目が終わり、薄れ行く煙の中から、ウェリネの胸元に散弾銃の銃口が突きつけられた。
ドン、と重い音と共に、ウェリネの体が軽々と吹き飛んだ。しかし背中が見えない壁に叩きつけられ、勢い突っ伏す形で地面に転がる。口から大量の血を吐き出しつつ、ウェリネは指で地面をなぞった。何時の間にかソロモンの環が、地面に穿たれていたのだ。
「こんなもの」
「どうするって言うんだい?」
右の拳に銃口が当たり、火を噴いた。ウェリネの掌が木っ端微塵に吹き飛ぶ。続いて左。そして両足の膝。胴体。銀の痛みは、悪魔にとって精神の痛みである。大量の銀に蝕まれ、ウェリネは涙を流して絶叫した。ナタリアは丹念に銀の散弾をウェリネの体に捻じ込み続け、その間もカラカラと笑っている。ウェリネは激痛を堪え、言い放った。
「この下等生物め、殺してやる」
「一体どうやって?」
四肢の動かないウェリネの顎を持ち上げ、ナタリアは真っ赤な目を細めた。
「PKで潰してやろうかと思ったけど、止めた。もっと苦しんで貰う。地獄に堕ちろよ、アバズレちゃん」
その一言で、ウェリネの顔が恐怖で歪んだ。ナタリアは満足げにその様を見、聖書を開いて福音を唱えた。
が、違和感にかられる。悪魔を地獄送りにする福音の高揚感が、何ら湧き上がって来ないのだ。そして現実に、ウェリネの口から黒煙が吐き出される気配が一切見えない。何故だ、と思った途端、ナタリアの体が盛大に壁面へと叩き付けられた。今度はナタリアが大量の血を吐いた。
「そういう事。悪魔祓いが、出来ない体なのねえ」
ソロモンの戒めを突破したウェリネが、五体不満足な体を宙に持ち上げ、勝ち誇ったように言った。
「ハンターである証も失って、悪魔のようなものに成り下がって、そのうえ死ぬのよ、お前は。何て無様な最期」
そのまま圧死させようと気を込めたウェリネが、しかし体をガタガタと震わせ始める。物理的に、精神的にも圧壊する感触を覚え、ウェリネは血走った目でナタリアを見た。獣同士の瞳が交差した。
「打撃が深過ぎたのさ」
しわがれた声で、ナタリアが曰く。
「打撃を貰い過ぎたよ、ウェリネさん。多分、本当はアンタの方が私よりも強い。でも、先手を取った私の勝ちだ。死ね」
「ま、待って」
「とにかく死ね」
ナタリアの眼前で、ウェリネの体が木っ端微塵に吹き飛んだ。返り血と肉を頭から浴び、ウェリネのPKから解放されたナタリアもその場に崩れ落ちた。正に満身創痍の体であったが、それでもナタリアは冷静に腕時計を眺めた。メルキオールの封印解除まで、残り10分弱。
「時間は、稼いだ…宝石のような時間をさ」
ナタリアは体を引き摺り、下界から離脱するべく歩き出した。メルキオールが顕現すれば、間違いなく今の自分は見逃して貰えない。あの奇妙な博士の言う通り、容赦なく。悪魔祓いを執行する力も消え、代わりに得たのは強大な悪魔のPKである。
しかしナタリアは安堵する。味方が勝つ算段を優先出来る心が自分にはあるのだ。間違いなく、自分は人間だった。今のところは。
大柄な鉄の筒を構え、劉紫命は狙いを迫り来るウェンディゴに定めた。そして叫ぶ。些か間抜けに。
「食らえ! 必殺、鉄甲衝撃波!」
「普通にカール・グスタフって言えよ」
無反動砲が轟音と共に砲弾を射出する。狙い違わずウェンディゴに命中。頑強極まりないウェンディゴであるものの、戦車の装甲を撃ち抜く砲弾を食らって何ともないはずは無い。爆発と共にウェンディゴの体が粉々に引き裂かれ、劉一行は快哉の声を上げた。が、ハンターのラスティが彼らに冷水を浴びせる。
「駄目。それでも死なないの、この世ならざる者って奴は」
「嘘」
「本当」
ラスティの言う通り、粉微塵の肉片が再びウェンディゴの体へと形成されつつある。紫命は頭を抱えて「アイヤー!?」と叫んだ。
「畜生め、あいつは白乾児か!?」
「奴らを殺すには手順が必要なの。でも、今がチャンス! 全員発炎筒と鉄パイプを持って突撃よ!」
『合点!』
殺!のウォークライと共に、まだ立ち上がれないウェンディゴを取り囲み、庸の面々が腕から足から滅多打ちにし始める。その間にもラスティはウェンディゴの上半身を押さえつけ、心臓を守る胸筋を切り開き、露出した心臓に発炎筒を押し込んだ。
心臓を焼かれながら暴れ回るウェンディゴから距離を置き、ラスティと劉一行は形だけ手を合わせ、その後に石ころを片っ端から投げつけた。
ラスティと庸の一部隊は、こうして相当数の押し寄せる敵を撃退している。サポートに徹するはずのラスティではあったが、その配慮は庸の中でも攻勢的な集団と、異様なまでに合致していた。おまけにこの部隊は、各所が悲惨極まりない状況にありながら、妙に笑顔が絶えていない。つまりラスティ・クイーンツと劉紫命は、絶望的な状況をプラスに転じる変人同士であった。
「何て強くて格好いいんだ、俺達は!」
紫命が弾んだ声で言う。
「俺とお前達、それに偉大なオカマさんが居れば無敵だぜ。みんなで一緒に立身出世間違いなし。きっとその内彼女も出来る!」
「いいぞ、兄貴!」
「よっ、童貞暦28年!」
万歳三唱を繰り返す劉一行を後目に、ラスティはEMF探知機に目を落とし、フッと息を吐いて彼らに言った。
「最終防衛ラインまで撤収して頂戴。アタシはここに残るから」
万歳の声が、ピタリと止まった。
「え?」
「何で?」
「そんな、ここまでやって来たのに」
「まだまだ戦えますよ、俺達は」
「…ちょっと厄介なのが来るのよ」
ラスティは肩を竦め、リーダーの紫命に向き直った。
「多分、そいつには今迄のやり方が通用しないわ。きっとアナタ達の生き延びるチャンスが無くなる」
「ラスティさんはどうなるんだ」
「むしろアタシ1人の方が何とかなると思うわ。つまり、アナタ達まで守り切れないって事」
「勝算は」
「ま、何とか」
紫命は言葉を続けようと開きかけた口を閉じ、首を振って仲間達に言った。
「野郎共、撤収するぞ。ラスティさんがこうまで言っているんだ。この人に間違いは無い」
名残惜しさを露骨に見せながらも、紫命と部下達は最終ラインへの撤収を始めた。その道すがら、紫命がラスティに声を掛ける。
「今度飯でも奢るよ。旨い日本料理を食わせる店を見つけたんだ。ラーメンって言うんだけど」
「微妙だわ。微妙過ぎるわ紫命。そんな調子だから28にもなって童貞なのよ」
言い返しながら、ラスティは笑った。そして彼らの姿が完全に視界から消えたと同時に、顔から笑みを消して正面に向き直った。
既に其処には、悪魔が居た。それが何者かは、極大のEMF反応からして事前に承知している。悪魔は一礼した後、乾いた拍手をラスティに送った。
「いいですね、君、いいですね。その献身振りが素晴らしい。人として尊敬に値します」
「悪魔に尊敬されてもね。でも、1人の方が色々やり易いってのは本当」
「ほう。確かにその手腕は興味深い」
「改めて御久し振り。カスパールさん」
この場にはラスティと、カスパール以外に誰も居ない。カスパールは首を傾げ、小さく笑ってみせた。
<大詰め>
「そう言えば君、今日は変な格好をしていないですね。ふむ、タクティカルベスト。ハンターとしては極めて普通です」
「今回ばかりは、服を選んでいる余裕が無かったのよ。全米100万人のコスプレラスティファンには申し訳ないのだけど」
状況としては、ラスティの絶体絶命であった。こうして戦う者同士として対峙すると、カスパールの桁違い振りがよくよく理解出来る。第三級、例えばウェリネ辺りの悪魔とは、存在感も内包する力の総量も次元が違う。正直な所を言えば、ラスティは膝を屈して倒れてしまいたかった。しかし少なくとも、心で負ける訳にはいかない。悪魔を相手にする際は、決して自ら心を折ってはならないのだ。
「今回は、特に隠し立てもせずに現れたのですが」
カスパール曰く。電磁場異常をわざと抑えなかった事を言っているのだろう。
「退いて下さいというメッセージだったのですよ。私は下等悪魔とは異なりますから、無駄な殺生を好みません。惨殺を楽しむ悪趣味も持ち合わせていません。ただ、此度は立ち塞がるならばどいて頂く、という訳です。ラスティ君、どいて頂けませんか? 君はもう少し長生きして欲しいなあ。その方が楽しいですから」
「つまりそれは、負けろと言っているワケね」
「そうですよ。でも、あの時負けて良かったと、きっと思う世界が到来します」
「そうなりゃ完全敗北だわ。ハンターってのは、負けず嫌いが人間の形をしているようなものでね。だから、出来れば一泡吹かしてやりたいの」
「ほう、それは如何にして?」
その問いに対し、ラスティは小さく口を開いた。何事かを言ったのだが、カスパールの耳には届かない。顔に「?」を貼り付けつつ、カスパールはラスティの間近まで歩いて来た。
「何と言ったのですか?」
「ジーザス・クライスト」
カスパールの不動の笑顔が引き攣った。同時にラスティの胸元から、轟音と共に大量の鉄球がカスパール目掛けて打ち出される。それもただの鉄球ではない。臨時の銀化をゲストハウスの主に施された、悪魔殺しのクレイモアである。ラスティはこれを上着に隠し持っていたのだ。
双方が逆方向に吹き飛ぶ。ラスティは背中から落下したものの、かろうじて立ち上がる事が出来た。カスパールを見れば、全身くまなく銀化された球を浴びたせいか、ぴくりとも動かない。おかしい、と思う。この程度で?とも。しかしラスティは躊躇無く逃走した。
胸板は鉄板で守ったものの、やはり爆発の運動エネルギーをまともに食らったせいか、呼吸がし辛い。尤も、そうは言っても立ち止まれば終わりだ。ラスティはありったけの力を振り絞って最終ラインへと走り抜いた。が、それも大した時間を走らぬ内に止める羽目になる。
突然、スーツの男が現れたのだ。カスパールだった。彼はラスティの遥か後方で昏倒したはずなのに。カスパールは軽く咳払いをして、苦笑いの顔を見せた。
「驚きましたよ。ちょっと痛い玉コロではなく、あの名前を脈絡もなく出された事に。しかし、私とやり合うにはまだまだ厳し」
皆まで言えず、カスパールは口から血を溢れ返させた。同時に胸から剣尖が突き抜ける。最終防衛ラインのガードに回っていたジークリッドが駆けつけてくれたのだ。恐らく劉一行から話を聞いたのだろう。
だが、ジークリッドの表情は絶望に満ちていた。その攻撃は、カスパールにほとんど痛痒を与えていない。強力な剣で刺し貫いたジークリッド本人が、その事実を柄の感触で思い知っている。案の定、カスパールは刺さった棘を取るが如く、後ろ手で大剣を楽に引き抜いた。
「素晴らしい畳み掛けでした」
言葉とは裏腹に、カスパールはひどく残念そうに言った。
「惜しいです。根本的な力の差に開きがあり過ぎましたね」
言って、カスパールは両手の人差し指をヒョイと上向け、おもむろに指先を地面に下ろした。ラスティとジークリッドが、糸の切れた繰り人形のように、まるで足の支える力を失ったように、その場にぐしゃりと倒れ伏した。2人は、何が起こったのか分からない顔で事切れていた。
「申し訳ないですね、本当に」
カスパールは頭を下げ、2つの死体を避けて歩を進めた。
しかし、不意にカスパールは立ち止まった。そして片膝を地面に付け、頭を深々と下げる。誰も居ない前方を見据えながら、カスパールは心からの敬意を伴って語り始めた。
「…はい、承知致しました」
「しかしながら御主様、御意向に疑問を呈する無礼を、どうかお見逃し下さい。私自身への制限は解除なされる旨を、御主様からお聞きしたのですが」
「…なるほど、そうでありましたか。尊重なさるのですね、『彼』の意向を」
カスパールは物言わぬ骸となったジークリッドを見詰め、納得した顔になった。
「慈悲深き方。御主様」
カスパールは、パチンと指を鳴らした。
ラスティとジークリッドが、揃って上体跳ね上げた。続いてむせ返りつつ激しく咳き込むのも同時。2人は顔を見合わせ、互いが生きているのだと確認した。
「何が起こったのじゃ?」
と、ジークリッドが疑問を口にする。対してラスティも、答えに要領が伴っていない。
「さあ、一体どうしてしまったのだか。『あ、これは死ぬ』と思ったところまでは覚えているのだけどね。多分アタシ達はカスパールに、本当に殺されてしまったのだと思うわ」
「しかしこうして生きているのであるが」
「ワケワカだわね」
2人は首を傾げるも、矢張り同じタイミングで時間を確認した。既に所要時間の1時間を越えている。どうやらメルキオールは、未だ解放されていないらしい。
つまり戦いは、まだ終わっていなかった。ラスティとジークリッドは、よろめく足を叱咤して、最終防衛ラインへと向かった。
何も無い所からユンボを出現させるという、如何にもゲストハウスの主らしい異常な力を顕現し、クレアは天井部に油圧クラッシャーを叩き付けた。こうして天井を崩して、行く道を潰してしまうというのが青写真だったのだが。
「げっ、壊れない!?」
「はは、この程度で下界の壁は壊れません。サンフランシスコの大震災でもヒビ一つ入りませんでしたからね」
カスパールの言葉にリアクションを返す余裕は無い。ならばとクレアは、クラッシャーをカスパールの脳天目掛けて叩き落す。しかしカスパールはその打撃を片手で難なくと受け止め、あろうことか巨大なクラッシャーをアームから引き千切ってしまった。
結局、最終防衛ラインを破ってきたのは、カスパールによる単独侵攻だった。最も相手にしたくない者と、クレアは対峙する羽目になる。
ユンボを打ち捨て、カスパールは前進を再開した。その間も山岸による歯止めの狙撃が繰り返されるも、歩みの速さに全くブレが生じていない。空になった弾層に銃弾を詰め直す山岸は、最早薄ら笑いを浮かべるしかなかった。
「駄目ですね、どうも。物理法則を無視していますよ、あの悪魔は」
「ならば、物理法則を度外視した力を捻じ込むまでよ」
言って、クレアは傍らの簡素なリモコンのボタンを押した。カスパールの両側面から、隠匿されていた2つの指向性地雷が鉄球を噴出する。クレアとジークリッドが、最終防衛ラインの切り札として仕込んでおいたものだ。共に銀の強化が施されている。それなりの悪魔でも、まとめて一時行動不能に追い込める程の。
確かにカスパールは、初めてグラリと傾ぐ様を見せた。しかし、其処までだった。どういう訳か穴一つ空いていない背広を直し、またゆっくりとした足取りでこちらに向かって来る。
「何て奴なの」
クレアは呆然と呟いたものの、ハンターの本能で自らも散弾銃を構えた。
各所は後退しつつも戦線を何とか維持していたのだが、メルキオールの封印場所に至るまでの通路という絶対防衛圏は、よりにもよってカスパールに突破されつつある。恐らく人員使い捨ての大攻勢は、この高位悪魔1人を押し通す為に実行されたのだ。駆けつけた庸の者達が、クレアと山岸の周囲に続々と陣取り、各々銃を構えて行く。2人は最早、それを無駄な所行と留める事は出来なかった。
「いい防御でしたよ」
カスパールの声が、直接頭の中に響いてくる。
「傲慢に私1人で向かっていたら、力尽きていた可能性があります。君達は惜しげもなく銀を使い、強化を施し、絶え間なく罠を張り、最大限の出血を狙った。実際、我々も大損害です。虎の子の配下やウェンディゴがかなり死にましたから。しかし、戦いは終わりです」
山岸がカスパールの額を、寸分違わず突撃銃で撃ち抜いた。銃弾が食い止りもせずに後ろへと突き抜ける。しかし後頭部は破裂しない。額から出血しない。そもそも銃創が見当たらない。カスパールは微笑んだ。それを合図に、場を陣取る者達が一斉射撃を開始した。
機関銃が唸りを上げ、サブマシンガンが弾を吐き続け、拳銃の弾層が空になるまで撃ち尽くされる。対してカスパールは、膨大な弾幕を全てその体に飲み込んでいるかに見えた。塩を踏み抜き、ソロモンの環を越え、浴びせられる聖水を涼しい顔で受け止める。そして、その歩みは全く鈍る気配が無い。
クレアはナイフを抜いた。銀の強化を施したものだ。死の塊のようなカスパールを相手とするには、真骨頂の接近戦で挑む以外、クレアには手段が残されていなかった。必死の形相で弾幕を張り続ける仲間達を眺めてから、クレアはナイフを眼前に構えて福音を唱えた。
しかし絶望的な防衛戦は、意外な形で終結を迎える事になる。
着実に距離を詰めていたカスパールが立ち止まった。迎撃途上のクレアや山岸達も、戦場の只中である事を忘れたかのように、カスパール同様、背後の通路を見詰めた。
女が居た。年の頃は二十後半、中華系の小柄で地味な印象の。女は目を細め、眉間を軽くさする。そして全く場にそぐわない第一声を放った。
「目が痛い。誰でもいい、後で目薬をくれ」
「ずっと暗闇の中だったからでしょう? 私もそうでした」
カスパールが親しく女に語り掛ける。対して女は、悠然と応えた。
「おはよう」
「御久し振りです」
女の体の周りに、斑点の如く無数の光の玉が浮かび上がる。カスパールの顔が、明確に青ざめた。そして叫ぶ。
「全員撤収!」
その場から消え去る寸前に、カスパールは筋を描いて襲い掛かって来た光弾の一発をまともに貰った。それらは諸共人間の体を撃ち抜いていたが、痛みも無ければ傷跡も残らない。むしろそれは、不思議に温かかった。
女が鼻を鳴らし、腕を組んで半身を壁に預ける。呆然と見てくる人間達に対し、女は閉目して事務的な言葉を発した。
「奴等はもうすぐ、全員この場から退く。見事な逃げ足だと言っておこう。私のハッタリを、あ奴は真に受けてくれたらしい。私の疲労は未だ深いが、カスパールも甚大な打撃を被った。少し休めれば、また機も伺えよう」
遅れて駆けつけたジークリッドとラスティが、異様な沈黙に包まれた場の雰囲気に飲まれ、思わず目を合わせた。同じく立ち尽くすクレアに声を掛けると、彼女は親指で先の女を指し示した。
「若干遅れたけれど、間に合ってくれたらしいわ」
「それじゃ、あれが」
と、女の後方から京大人が共の者に付き添われ、足を引き摺りつつこちらにやって来た。術の行使で憔悴し切っており、普段の威厳は大きく損なわれていた。命を削るというのはまことの話であるらしい。女は京大人に目をやった。
「苦労であった。この状況にあって、正当な手段で私を解放したのは正解である」
「力を貸してくれるか、メルキオール」
「私は今や、サマエルを討伐する為に存在する。是非も無い」
言って、メルキオールと呼ばれた女は、再び目を閉じた。どうやら立ったまま眠ってしまったらしい。ジークリッドは京大人の元に駆け寄って、容態を気遣いながら思うところを口にした。
「この女性が、メルキオールか。しかし、この姿は一体?」
京大人は深く息をつき、複雑な顔を眠り続けるメルキオールに向けた。そして忸怩たる思いを込め、曰く。
「この体は、わしの妻のものだった。しかし彼女はメルキオールに、自分の全てを明け渡したよ。この街を護る為だ」
<大嵐前兆>
以降京大人の邸宅と、庸という組織そのものには2人の主が君臨する事となった。
従来の主、京大人は、先の儀式強行の身体的負担が未だ深い。第一線で陣頭指揮を執る姿が減少し、それでも会合の場には足を引き摺ってでも参加する姿が痛々しい。その京大人に代わり、実質的に主として君臨したのはメルキオールである。かつてその体は、宗紅玲という京大人の妻のものだった。天使が降臨した所以か、彼女は見た目には往時の年齢を維持している。
京大人の妻の顔を覚えている者は、世代交代を経た庸の者達の中には居ない。故に突如メルキオールが頂に立った事実に対し、動揺するのは当然だ。しかし京大人がそれを認め、かつ悪魔達に対抗するには彼女の力を借りるしかないとの状況は、彼らも身に染みて知っている。
庸は上から末端まで、一斉にメルキオールに傅いた。勝つ為だ。
「…呼び出したのは他でもない。本日、定石通りサマエルが復活を遂げた」
メルキオールの第一声によって、緊急総力戦会議の場は瞬く間にどよめきに包まれた。カスパール一党を主敵と認識して戦い続けた彼らも、更にその上の存在は常に自覚していた。これまで『災厄』と呼んできたものだ。メルキオール解放の段取りで避け得ぬ事態とは承知していたものの、改めてメルキオールの口から聞かされ、身震いしないものはこの場に居ない。
メルキオールはざわめきが収まるのを待ち、片手を挙げて耳目を一身に集めた。
「私は今やサマエル打倒の為だけに存在しているが、減退した力を回復せねばそれも適わぬ。しかしながら刻々と時間を浪費する暇も無い。よってその間、諸君らに攻撃の続行を希望する。カスパール一党を攻め滅ぼせ」
「何だって!?」
たまらず盧詠進が椅子を蹴った。王広平や京大人を差し置いて意見するのは憚られるものがあったが、今の内容は盧にとって、ないしは庸全体に捨て置けぬ内容である。膨れ上がるだろう不安のはけ口を自ら買って出、盧はメルキオールに抗議した。
「あんた、俺達を滅ぼす気か? 2回の防衛戦だけで、どれだけ仲間の死体の山を築いたと思っているんだ。敵は俺達を遥かに凌駕するんだよ。一体全体、どうすりゃいいのか教えて欲しいもんだ」
「それをこれから教えてやろうと言う。座れ、粗忽な人間よ」
窘められ、盧は渋々着座した。何事も無かったようにメルキオールが続ける。
「庸の兵力が、あれだけの総攻撃を貰って未だ健在である点は評価に値しよう。諸君らの人的資源は、私の考え得る力となる。これより私は、諸君らに聖戦を発動する」
聖戦という言葉を聞いて、ハンターや幾人かの幹部連が顔を見合わせた。その言葉が持つ宗教的意味は、異教徒を根こそぎ断絶する厳しいものだ。如何にも天使らしい物言いだが、メルキオールのそれは実質的な意味をも伴っていた。
「諸君らを正式に、我が天軍の者とする。悪魔どもを尽く滅ぼすのだ。その為、選抜者20名に天兵となって貰う。彼奴らの異能から身を守る鎧を与えよう。彼奴らに打撃を与える剣を進呈しよう。敵は悪魔、神に背を向けた破戒者、カスパール。あの者は今、私の攻撃によって大きく力を殺いでいる。諸君らの力で首を掻き取るは、今ぞ」
メルキオールは、悪魔に対抗し得る剣と鎧の提供を申し出て来た。その数は20人。それを持って、メルキオールは真下界、パレスへの侵攻を行なおうと言うのだ。メルキオールは一同を指差し、その先を1人の男に向けた。ラスティ・クイーンツに。
「え? 自分?」
「そなたの持つメダルが突破口となる。あ奴の築いた虚城には、それ無しでは入れぬ故な。そなたと共に突入すれば、天兵全てがパレスとやらに入り込むも可能。ラスティ・クイーンツ。次回の戦いにそなたは必須である。そしてハンター諸君、そなた達の働き振りは私も承知している。そなた達が侵攻に参加するならば、天兵を上回る天騎の武装を授ける。以上だ」
と、今まで黙って聞いていた王広平が、すくと立ち上がった。そしてメルキオールではなく、その隣に座る京大人に目を向ける。そして簡素に言った。
「京大人、御命令を」
王はメルキオールからの下命をという形を、敢えて捻じ曲げた。庸が京大人を頭目とする組織であると、今一度示す為に。
京大人は王の意図を汲み、疲れ果てた目を一杯に見開き、か細くも力を込めて言った。
「座して死なぬ。戦って生きる。諸君、戦おう。この美しい街に住む者の誇りを賭けよう」
一同は言葉をしかと受け止め、一斉に起立した。
総力戦会議の終結後、ジークリッドは先に帰った王の住むビルへと向かった。
既に如真は、庸の者ではなくなっている。その処遇については騒動の渦中にあって有耶無耶となっていたが、事の真相は少なくとも最高幹部以上、ないしはハンター達も承知していた。ジークリッドは、今一度如真の事を王広平と話そうと考えたのだ。
彼の部下である城鵬に、広平の居室へと通される。広平は背を向けたまま、ようこそ、と言った。
「実は私も君に用事がある」
王は何時も通りに表情の薄い顔で、先程から手入れをしていた拳銃を、胸元のホルスターに仕舞った。
<H2-5:終>
※一部PCに特殊リアクションを発行しております。
○登場PC
・クレア・サンヴァーニ : ポイントゲッター
PL名 : Yokoyama様
・ラスティ・クイーンツ : スカウター
PL名 : イトシン様
・ナタリア・クライニー : ポイントゲッター
PL名 : 白都様
・ジークリッド・フォン・ブリッツフォーゲル : ポイントゲッター
PL名 : Lindy様
・山岸亮 : ポイントゲッター
PL名 : 時宮礼様
ルシファ・ライジング H2-5【生来必殺】