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<超能力覚醒剤>
ジェイズ・ゲストハウスの3階にある自室で、ナタリア・クライニーは超能力覚醒剤を飲んだ。飲み込んでしまった。
見た目普通の薬であるが、それは前回、第2級と思しき悪魔、カスパールが彼女に渡したものだ。悪魔はまず間違いなく、人間の為になる事はしない。あらゆる行動が人間を破滅に導くという、その一点に絞られているからだ。礼儀正しく、やたら朗らかなカスパールにしても、その例外であるはずはない。それを分かりきっているはずのナタリアは、それでも超能力覚醒剤を飲んだ。
飲んでしばらく後、効果をナタリアは自覚した。
溶け出した何かが吸収され、やがて血流で全身を巡って行く様が手に取るように分かる。静電気が頭の上から下までを這い回る感覚。心臓の脈打つ音が、はっきりと聞こえる。五感の全てが精密に機能し、体にチューン・アップが施されているかのようだ。
「…ハハっ」
ナタリアは、意識せずに笑った。
感覚の先鋭化が収まった時、別物になった己をナタリアは其処に見る。
「やった!」
快哉の雄叫びを上げる。
「やった、やった、やったぞ! 悪魔に対抗出来る力を手に入れた! 強くなる、私は強くなったんだ!」
『多分、人の魂と引き換えにね』
突如脳裏に浮かんだ言葉が、浮かれるナタリアに茶々を入れた。周囲を見渡すも、誰も居ない。しかしナタリアは、声の主が誰かに思い当たった。ゲストハウスの主、キューと呼ばれている何者かだ。
『仕掛け罠に自ら入ってしまいましたね。多分貴女は、自らの行為を後悔しないでしょう。このままだと、後悔するという感情すら無くしてしまうのですから』
キューの声は平板で、単に事実を言っているという気配があった。それを聞くナタリアは眉をひそめる。
「ふうん。まずい事を私がしたと、あんたは言う訳だ。だったら何で止めなかったのさ?」
『私は人間に対しては不干渉主義でしてね』
「下らない事を言わないでもらいたいね。私に干渉するな」
『尤もですが、その悪魔臭い薬を飲んでしまったとあればそうはいきません。それを飲んだハンターを我が住処に居るのを見過ごすほど、吾も暢気ではありません。以前、似たような事がありました。吾の忠告を聞かず、遠い所に行ってしまった娘さんが居ましてね。しかし彼女は、少なくとも「何故、自分がそうしなければならないのか」を吾に告げましたね。しかしながら君は、力を求めただけですね? 悪魔を倒す為に悪魔から貰った薬を、考える事を放棄して飲みましたね?』
「だから、何?」
受けて立つナタリアは、不敵に笑って言い返した。
「敵は強い。強いんだよ、ゲストハウスさん。強い敵を倒す為に強くなる。それの何処が悪い。強くならなければ負けてしまう。負けてしまったら、何もかも終わりじゃないのさ! だったら、利用出来るもんは何でも利用して、奴等を殺してやる。カスパールの思惑だって、私は食ってやろうさ」
『そうですか。しかし私が貴女の言い分を理解する云々以前に、私は近い内に貴女がゲストハウスに出入りするのを禁止します。私の防衛本能に従ってね。ただ、もしもその気があるならば、飲んだ薬の効用をキャンセルする手段を探してみて下さい。その状況を見守る猶予期間を2ヶ月だけ取りましょう。でなければ貴女は、ミイラ取りがミイラになるでしょう』
<防衛戦会議>
庸の全幹部、十八氏が首魁・京禄堂の邸宅に集結するのは、孫・楊・黄の三氏背信が発覚した際の会食以来である。
此度のそれは定期会合ではない。緊急招集がかけられた深刻な集まりだ。既に庸の内部では、背信三氏の敵対の裏にある真実が、末端まで知れ渡りつつある。今一度意思統合し、今後起こり得る総力戦への対策を練る必要があると、京大人を始めとした庸の上層部は判断した。
しかしながら、其処に庸の部外者、ハンターが一枚噛むとなれば、動揺と反発が容易に想像出来る。
だからこの会議は、そういった閉鎖思考の持ち主に突きつける、最後通牒の意味合いも含んでいた。
「この事態は、庸内部の反乱とは全く違うものとは、既に各氏も承知の事であろう」
テーブルを囲む面々を前にして、王広平は朗々とこれまでの経緯を語った。この防衛戦会議の進行は、京大人の指名で彼に任されている。自らが積極的に前に出ない事で、幹部達から率直な発言を引き出そう、との狙いが大人にはある。
しかしながら幹部連の中には、最高幹部とは言え王が仕切る展開を快く思わない者も居た。
「既に少なからぬ犠牲が出ている」
3人の最高幹部の1人、陸立軍が口を挟む。
「相手は警察でもなければ兄弟(ヤクザ)でもない。人間ですらない。正直なところ理解し難い」
「その理解し難い出来事が地下で進行している。我々は本来の姿である自警組織に立ち返り、奴等に対抗せねばならない、という事だ」
「確か、普通の人間では連中に対抗出来ない、という事であったな?」
「そうだ」
「おかしな話だと俺は思う。俺達ですら勝てない相手に、何故そこまで積極的に歯向かうつもりなのだ? 自警組織に立ち返ると言うならば、最低限家族の身と我が街を守れればいいではないか。現状維持を俺は提案する。あのような輩に対抗出来る力を持つ者を、全面支援する点については賛成だ」
言って、陸は王の隣に座るクレア・サンヴァーニを見た。と言うより、睨んだ。
クレアはこの場の衆目が、進行役の王よりも自分に集中している事を自覚し、内心「ひええ」と怯んでいた。すまし顔を全く崩しはしなかったが。
この会議には、下界に関わったハンター達の中から、クレアが招待されている。こと下界に関して言えば、クレアは庸の人間を凌ぐ地理の知識を蓄えている。つまりはアドバイザの立場である訳だ。
(小娘風情が外部監査員とは笑わせる、とか思っているのかな)
負けん気に火がつく。舐めんな、と思う。
「足りないんですよ、人手が」
クレアは言った。言い返したという表現が妥当だ。
「敵は悪魔。そしてその下僕。連中は深く、大きく広がりつつあるんです。たかだか数人のハンターで抑え込める規模じゃありません。だから皆さんの助けが要ります。もしも下界を制圧されれば、それはサンフランシスコのあらゆる場所から連中の出入りを許す事になるんです。事はチャイナタウンだけを守れればいいという、小さな話ではありません」
案の定、陸の表情が次第に険しくなりつつあった。自分の考えを正面から否定されるのは、さぞかし面白くなかったのだろう。しかし横から、王が助け舟を出した。
「当初、我々はハンターに石橋を叩いて渡らせていた。そしてここまで追い詰められた今となっても、その姿勢を崩さないのか。情けなくないか、チャイナタウンを統べる者の分際で」
ぎょっとした顔を、京大人を除く全員が王に向けた。王の指摘は、当初の決定を下した京大人にも向けられていたからだ。対する王の表情は、抑え込んだ憤りを徐々に面に出している。クレアは思い出した。この鉄面皮は、結構熱い男であったのだと。
「情けなくないか。かつて強者に真っ向から挑んだ武闘集団を血筋に持つ者として。私達は、座すれば敗北する。敗北すれば、この街に災いが起こる。チャイナタウンではなく、サンフランシスコという巨大な街に。この先も庶民からなけなしの金を掠め取り、のうのうと生きられると思うのか。ここで戦わねば、何時戦うと言うのだ」
「まあまあ、抑えろよ、広平」
走り過ぎの気配を見せた王を、盧詠進が押し留める。彼もまた最高幹部であり、親ハンター派に鞍替えした者でもある。
「しかし、彼の言う通りではあるな。静観てぇやり方は、最早向こうが許さない。したらば乗らされるんじゃなく、仕掛けるんだよ、戦いを。戦い方はハンターに学ぼう。最低限、奴等に歯向かえる工夫は、俺達にも出来るよな?」
いきなり盧に話を振られて狼狽したものの、クレアは頷いた。
「塩、聖水、銀。やり方は色々ありますよ。それに庸には、豊富な武器と人員がある。物理的な面で対抗するのは可能です」
「だ、そうだ。やるよ、俺は。奴等に一泡吹かせてやる。大事な部下と可愛い娘を殺されて、一敗地にまみれた俺にゃあ、そうする権利がある。そうだろう、立軍?」
盧に笑顔を向けられ、陸は苦虫を噛み潰した顔で押し黙った。頃合良しと見て、王が宣言する。
「敵は背信三氏を乗っ取った、悪魔カスパールの一党。ハンターからの情報によって、あの者共は攻勢に転じる事が分かっている。庸はこれに対し、ハンターと共に総力をもって迎撃する。京大人、許可を願います」
王に促され、大人が腰を上げた。これに倣い、全幹部が起立する。ゆっくりと睥睨し、大人は静かに、重い言葉を述べた。
「恐らく、我々は更に同胞の死を見るであろう。しかしながら、敢えて言う。死よ、何程のものぞと。我々は、我々の本来あって然るべき姿に戻るのだ。これより下界防衛戦への準備を決行する」
これにて、庸の意思は徹底抗戦へと統一された。クレアが準備していた下界の地図をスライドでスクリーンに映し出し、多数のポイントを指し示す。
それらは下界に設置された廟の数々だった。敵は間違いなく、ここを狙って攻めて来るのだ。
<置き土産諸々>
ジャパンタウンの王広平の事務所で、ハンター一同は久々に1人を除いて集結していた。
その1人とは、郭小蓮である。当初から下界の事件に関わっていた彼女は、此度は別の件で他の仲間と動いている。強力な護り屋である彼女の一旦離脱は厳しいが、今の面々も優秀なハンターであった。
郭が出立前に残した置き土産は2つ。彼女が仲間の為に作り置いた中華料理の数々に箸を伸ばしながら、ハンター達はモニタに映る録画テープを確認している。これはフェアモントホテル・サンフランシスコの一室での様子を、アンジェロ・フィオレンティーノが録画したものだ。映っているのは吸血鬼のジルとエルジェ。彼等に話しかける1人の男。この男についての身元確認を、郭はハンター達に依頼したのだ。
「…しゃべっているのは孫明。庸の元幹部。声を聞けば間違いないわ」
「または孫明の体を乗っ取った悪魔だ。カスパールめ、モグラみたいに色んな所から顔を出す」
カスパールの根城、『パレス』で実際にカスパールと面会したナタリアとラスティ・クイーンツが、モニタの男に確証を出した。
カスパールという悪魔は、この街の色んな場所に出没している。場所、よりは場面と言った方が適切かもしれない。この街の各所で進行する事件の数々に、カスパールは尽く関わっているらしい。
「で、関わっている場所のひとつについてじゃが」
ジークリッド・フォン・ブリッツフォーゲルが箸を置いて掌を組む。
「わらわはミッション・ドロレスに目星をつけてみたのじゃ」
「ミッション・ドロレス? サンフランシスコで一番古い教会じゃない」
クレアは肉饅頭を齧るのを止め、目を丸くしてジークリッドを見た。
「何でまた教会へ」
「あそこは、ル・マーサが聖地認定しているという話を聞いてな」
「マーサ…王如真が関わっている組織か」
「左様。マーサも何やら色々と抱えている者達じゃ。如真がマーサのフレンドである事と、此度の下界での件には関連を見て良いやもしれぬ。で、行ってみたのじゃ。地味くさい女子高生の格好でな!」
「地味くさいって」
「髪も野暮な黒色に染めたぞよ」
「黒髪の女の子を敵に回したよ、今ので」
「そんな、カトリック板橋教会だったら夜間も礼拝者用に空いているものじゃ! もとい、ものなんですー」
「何処の教会ですか、それは」
シスター・アリッサは、夜更けにやってきた野暮な黒髪の地味くさい女子高生に、嘆息を漏らして『開門時間』の説明を行なった。
「あのね、お嬢さん。お嬢さんは礼拝者ではなく、一般の見学者ですよね? でしたら今の時期はPM16:00までですね。ホームページにも書いてあります。見たところあなた、その大きなスケッチブックを抱えている格好から察しますに、どう考えても礼拝者ではありませんよね?」
「描きたいんです、絵が。ドロレスの絵を描きたくてたまらないんです。でも、昼は学校だし夜しか時間がありません。どうか迷える子羊に愛の手を!」
「…土曜か日曜に来れば…」
「今描きたいんですー!」
結局女子高生ことジークリッドは、シスターの困惑を力技で押し切った。絶対静粛を条件に、学生用$3の入館料を払い、ジークリッドはミッション・ドロレス内に立ち入る事に成功したのであった。
ミッション・ドロレスには教会が2つある。正面から見て右側、薄いピンクのかかった大きな教会が主として礼拝に利用されている。そして左側の小ぢんまりした白い教会が、サンフランシスコにおける最古の教会、であるとの事だ。
この教会に、あまり考えたくない事ではあるが、悪魔の手先が潜り込んでいる事はあるのだろうか。自身は最低限、逃走に使用出来るアイテムしか持ち合わせていない。ジークリッドは腹を括り、ipod型EMF探知機のスイッチを入れた。
「で、どうだったの」
「なーんも怪しい人や物は見つからなかったのじゃあ」
ばててテーブルに突っ伏すジークリッドの頭を、クレアは宥めるように撫でてやった。結局、ミッション・ドロレスという中心核には、悪魔の気配は一切感じられなかった。むしろ清浄で、敬虔で、崇高な場所という印象ばかりが思い出される。ミッション・ドロレスは此度の件からは決して無関係ではないはずだが、ともかく一同は来たる下界戦への対策を優先する事にした。庸と協議をしてきたクレアが、地図をテーブルの上に広げる。
「まず廟の位置はハンターズ・ポイントを除いて、庸の各氏が担当する地区に2~3ずつ存在している。それら全ての廟を、壁に模した布でカバーしたわ。そして各地区最低一つの廟は、鉛で入り口を封鎖してもらった」
「鉛だって? よくもそんな時間が」
「庸の突貫工事。本当は全てを封鎖したかったんだけどね。とにかく、防衛は各地区の担当の戦闘員が担って、僕達は遊撃的な役割になる。守備範囲が広大だし、地区毎に守備の人員を割り振らねばならないとなったら、敵は必ず何処かから一点突破を図ってくると思う。敵の出入り口は目処を立てているから、そうした場所にも人員と罠を置く。でも、それも破られるんだろうね。そうなった場合の敵の最大目標は、ここだ」
言って、クレアは地図の一箇所を指差した。其処は庸の京大人言うところの、天使メルキオールが眠る場所である。
「ここは庸の人間でも、正確な位置を知っているのは京大人くらいだ。だけど凡その位置を把握している者が、私達以外にもう1人居るよ」
クレアは其処まで言って、地図を閉じた。階段を上がってくる足音が聞こえたからだ。
足音は部屋の前で止まり、扉をノックする音がした。
「失礼します、入りますよ。打ち合わせ、ご苦労様です」
王如真だ。
如真はコーヒーと茶菓子をトレイに載せ、愛想の良い笑顔で部屋に入って来た。迎えるハンター達は些かぎこちなかったのだが、彼がそれに気付いている素振りは無い。飽く迄如真は普段通りの暢気な風情であった。
(ぬしは、果たして獅子身中の虫であるのか?)
コーヒーと菓子を配る如真の様を見詰め、ジークリッドは面に出さずも気はそぞろだった。何れ、彼と割った話をしなければならないと、それは固く思っている。
<戦いの手前>
敵は、何時攻めてくるかは分からない。
既にハンター達と庸の戦闘員は来たるべきカスパール一党の襲来に備えている。庸が繰り出した人員は総数200名。しかしながら、サンフランシスコ下界を区分する地区は10箇所に渡り、それらに人員が分散されるとなれば、防御力は少々心許ない。
「敵の出方を見極めねばならない」
チャイナタウン直下の下界で、王広平を始めとする最高幹部の歴々と、ハンター達は顔を合わせていた。クレア作成の地図に見入りながら、王が点在する「廟」の確認をする。
「この戦いは一度の襲撃では終わらない。長期戦の覚悟が必要になる。ただ、京家封印直下の『何か』による災厄の封じ込めを不可能とさせるには、もしかしたら廟の幾つかを破壊すれば事足りるのかもしれない」
「つまり?」
「この戦い、どうやっても最終的には敵が目標を達成する事となるだろう」
一同が、ギョッとした顔で無表情の王を見た。さすがに盧が口を挟む。
「おいおい、敗北必至とは勇ましくないな? 大人相手にすら一喝かました気迫は何処へ行った?」
「無論勝つ。しかし先も言ったように、この戦いは長期戦になる。緒戦は人員と武器を揃えた我らでも、圧倒されるのは必定であろう。何せ今まで戦った事が無い手合い故な。であれば、力を温存しつつ機を伺い、カスパール奴の首を獲る。それはハンターにしか出来ない仕事だ」
最高幹部の3人が、ハンター達を顧みた。今や下界戦の趨勢は、ハンター達が握っていると言っても過言ではない。この世ならざる者との戦いを熟知し、悪魔相手に致命的な一撃を与えられるのは、彼等を置いて他には無いのだ。その認識は、既に大人や最高幹部達の間で一致している。
「任せな。悪魔は殺す。尽くぶっ殺す」
据わった目で、ナタリアの曰く。
「そういう力が、私にはある。前の私じゃア無いんだ」
それが超能力覚醒剤の服用を根拠とした台詞であると知っているのは、この場においてはラスティただ1人である。それがどれだけ危険な所行であるか、とも。
「…アタシは襲撃の時に、今一度パレスへの潜入を試みるわ」
気を取り直し、ラスティが言った。
「あれがカスパールの本拠地であるのは間違いないもの。王さんの言うように、守勢だけでは確かにジリ貧ですものね。だったら、攻勢の糸口を探らないとね」
「それは有難い。是非に頼む」
王がラスティの手を力強く握る。と、其処へ京大人が幾人かの配下を伴って現れた。幹部3人が直立不動の姿勢で出迎える。大人は片手を挙げて配下を下がらせ、自らは用意された椅子に腰を下ろした。一同は大人が何を言うのかと居住まいを正したのだが、その前に彼はジークリッドに耳打ちをする。
「近くに彼が居る。しばらく相手をしてやってくれい」
大人の言う「彼」が誰かを、ジークリッドは即座に理解した。ジークリッドが場を辞して行くのを見届け、大人は改めて一同の面前に向き直った。
「厳しい戦いとなろう」
大人は言った。
「防ぐだけならば、しばらくは持つかもしれん。しかしながら、戦いを決着させるには改心の一撃を彼奴等に加えねばなるまい。今のハンターと庸の力では些か厳しい。彼の力を借りる事になるであろう」
「彼、とは?」
「メルキオールだ。それはつまり、封印の維持が放棄された事も意味する、諸刃の剣である」
一瞬、ほんの一瞬であったのだが、何時もにこやかな如真の顔から一切の表情が消えた。それをジークリッドは見逃さなかった。
その原因は自らの質問にあるのは承知の上で、ジークリッドは再度同じ問いを如真に発する。
「その首にかけたドラゴン十字。そなた、マーサのフレンドであろう? 何故マーサに入ったのか、差し支えなければ聞かせて欲しい」
「ええ、確かに僕はマーサの会員ですが、何故そんな事を聞くのですか?」
如真は何でもない調子で、逆に質問を返してきた。それこそが心に秘め事を抱く者の証であると知りながら、ジークリッドは率直に答えた。
「ハンターの中には、マーサという存在を怪しむ者が居てな。正直なところ、かような組織に身近な者が関わるのは不安なのじゃ」
「不安? ああ、そういう印象を抱く方が居るとは聞いた事があります。確かその筆頭が、バーバラ・リンドンさんでしたか? しかし僕等は、やっている事と言えば至って普通のボランティア活動なんですよ。それに、僕等に理解を示してくれるハンターだって居ます。例えばエーリエル・レベオンさんは親身に協力してくれますし、エリニス・リリーさんはマーサのフレンドになってくれたじゃないですか」
ジークリッドは、絶句した。案の定ではあるものの、こちらの内情をフレンド達はかなり理解しているらしい。彼女の動揺を知ってか知らずか、如真は背を向けて言った。
「僕は一応、各氏精鋭の1人です。でも、別にそれはなりたいと思ったからじゃない。そうなるように、子供の頃から鍛えられたんです。僕は銃やナイフ、徒手空拳の戦闘技術を小学校に入る前から父親に叩き込まれました。で、ある時思いました。嫌だなあ、って。こんな風に人を殺すのが上手くなるだけなんて、本当に嫌だとね。マーサに入ったのは、偶々の偶然です。でも、あそこは、あそこだけは本当に心から安らげます。自分が黒社会の一員である事を忘れさせてくれるのです」
「そのような事が…」
「マーサには理念があります。ただ、みんなで仲良く幸せに暮らしましょう、そういうシンプルで大切な理念が。然るに庸はどうなんでしょうね? 昔より柔らかくなったとは言え、相変わらずみかじめなんてものを中華系の人から取り上げて、しかもそれは暴力を背景にしたものですよ。自分達が肥える為に。自分達が支配者の地位にあると勘違いして。僕は庸なんかより、マーサの心の方を守って行きたい」
其処まで言って、如真は自分がしゃべり過ぎたと気付いたのか、笑みを浮かべて振り返った。
「なあんて、これから戦が始まろうとしているのに、詮無い話でしたね。とにかく僕も戦いますよ。庸には守るべき人が居ます。ジークリッドさんだってそうです」
その言い様に、嘘は含まれていないとジークリッドは感じた。しかし、それでも、ジークリッドは自らの懸念が何れ現実化する事になると確信せざるを得なかった。
王如真は何処かの段階で、必ず庸に弓引く立場となるだろう。
<防衛戦・1>
差し当たって庸の人間は、EMF探知機を所持していない故、この世ならざる者が到来する手段を知る術が無い。ただ、クレアはカスパール側の「通り道」も全て把握している。敵の出入りが其処からとなるならば、効果的な迎撃の位置を陣取る事が出来る。
敵の出入り口は各地区に1箇所ずつ、つまり計10箇所にもなる。これらから一斉に敵が湧き出したとなれば、事は重大だ。しかしながら背信三氏の手勢は、これまでの小競り合いから差し引きすると60人前後といったところだろう。数の上であれば庸が投入した人員は3倍以上であり、更に予備戦力が控えている。
問題は敵の中に、どれだけの悪魔が紛れているかだった。悪魔は下級の者であろうと、戦力差を引っ繰り返す力を所持している。何しろ悪魔は、普通の手段では死なないからだ。ナタリアとラスティがパレスで見た悪魔達の総数は、最低でも20人以上。これは希望的観測の数字であり、実際は恐らく想像以上の頭数が控えている。それら全てを投入してくるか否かは、実に微妙なところだった。敵も悪魔の数に関しては、無尽蔵という訳にはいかないだろう。そう、悪魔に関しては。
そして事は、リッチモンド地区から始まった。
「敵襲!」
チャイナタウン直下の下界に陣取る本部に、リッチモンド地区からの緊急通信が飛び込んだ。すぐさま王が駆けつけ、通信員からヘッドセットを引っ手繰る。相手は劉氏配下の精鋭、劉紫命。
「状況を知らせ!」
『敵は20以上。ショットガンと機関銃で応戦しています。しかし、中々倒れません!』
「悪魔か!」
『違います。あれは恐らく、殭屍(キョンシー)です! 死体の癖にかなり早い。変な札を額に貼ってます!』
「キョンシーだと!?」
王の怒鳴り声を聞き、ハンター達は呆気に取られてしまった。キョンシーは中国における伝説上の動死体である。しかしながら、そんなものを西洋概念の悪魔一党が駆使して来るとは聞いた事が無い。無線の向こうの紫命は、しかし気丈に言葉を続けた。
『しかし、手足や頭を吹き飛ばせば、さすがに動かなくなります! 殺れます!』
「絶対に噛まれるな! 話の上では、噛まれた者もキョンシーになる。もしも噛まれたら、女と交わった事の無い者の血で傷口を洗え!」
『じゃあ俺の血を使います。童貞暦28年』
無線を切り、一先ず王は落ち着いた。リッチモンドを守備するのは劉と金の部隊だが、状況を察する限りはどうにか持ち堪えられそうだ。しかしこの襲撃が、リッチモンドのみで収まるはずは無い。口火は切られた。敵は他方からも出現する。
「何処かから本命が出て来るね」
言って、クレアはチャイナタウンの出入り口を地図上で指差した。そう、この間近にも敵の出入り口は存在する。尤も、この地区の防御の固さは敵も承知の上であろう。それに廟の破壊を優先するならば、この場所に拘らずとも良い。もしも出現するならば、救援を出し辛い周辺域からか? クレアの読みは、直後に現実となった。
「マリーナ地区に襲撃有り! 敵は…何だって、ゾンビ!? 押し返せるか!?」
「サウス・オブ・マーケットも敵が到来しました!」
矢継ぎ早に2地区から襲来の知らせが入る。敵はキョンシー、ゾンビと、察するに如何にも「使い捨て」な手駒で襲撃を開始していた。マリーナは優勢な防衛戦を繰り広げているらしかったが、サウス・オブ・マーケットの様相を伝える通信員の声音は、徐々に深刻な色を帯び始める。
「敵は何だ、状況は!」
『まずい。弾が全部食い止められる。通用しない。うわっ、やめ』
無線が途切れた。マーケットの部隊が何を相手にしているのか、最期の言葉を聞けば容易に想像出来る。ナタリアは拳を打ち鳴らし、己がショットガンを手に取った。
「さあ、殺そう。殺しに行こう。悪魔共は皆殺しだ」
ジークリッドが、眉間に皺を寄せる。
「…ナタリア、かように逸るでない。死にたいかえ?」
「冗談でしょ」
「クレア、最重要拠点の防衛は任せたぞよ。それから王殿、如真はマリーナに居るのじゃな?」
「うむ。あれも良く戦っているはずだ」
「ゾンビ程度なら、ハンターでなくとも何とかなろう。何しろ重武装であるしな」
安堵の顔を残し、ジークリッドはマーケット地区の救援の為に離脱した。続けてナタリアも後を追う。
ここで、守備側の庸は一つ失敗を犯した。
全地区への状況確認を、彼等は直ちに行なうべきであった。そうすればミッション地区の壊滅を、しばらく後に知る事も無かったはずである。
<パレス・1>
カスパール一党の侵攻開始を無線で確認し、ラスティ・クイーンツは即座に行動を開始した。
『真下界』への侵入手段を、経験者であるラスティは既に心得ている。何の問題も無く、ラスティは架空の人々が行き交う賑やかな虚ろの世界に降り立った。
さりげなく建物に身を隠しながらラスティが進む。相変わらず騒々しい人波が途切れないのだが、この中に悪魔が混じっているとも限らない。EMF探知機をON。今のところ反応無し。
前回の真下界行を踏襲し、ラスティは慎重に先を急いだ。向こう側での襲撃が何時終わるか分からない。こうしてある程度の人員、悪魔達が真下界から払底した今の間ならば、安全に敵の本拠を調査出来る確率が高まるはずだ。
しばらく歩き続け、ようやくラスティは本拠地、パレスへと辿り着いた。
相変わらずパレス周辺は地下でありながら屋外の様相を呈しており、胡散臭い事この上ない。背後にあったはずの真下界とも隔絶された、不思議な場所だ。ここに辿り着くには、恐らくラスティが所持しているメダルが必要となるのだろう。これが無ければ、異界の中の更に異界と言うべきパレス周辺には接近すら出来ないかもしれない。妙だとはラスティも思った。人間の立ち入りを許すこのメダルを、カスパールが与えた意図が分からない。少なくとも敵対する同士であるならば、このメダルを提供する事で得られる悪魔側の利点が想像し難い。
ともあれ、ラスティはパレスへの侵入を開始した。尤も、カスパールに招待された時のような正面入り口からの入館は却下だ。元来得意とする建造物侵入技能、手っ取り早く言えば泥棒技を駆使し、壁を伝って二階から潜入。バルコニーに一旦陣取り、ラスティは大急ぎで着替えを開始した。そして数分後。
(じゃーん。ラスティ・クイーンツ女給さんバージョン!)
勿論声には出さないが、ラスティはくるりと回転して可愛いっぽいポーズを決めた。尤も、女給さんの格好をしていようが、悪魔自身に見られれば一発で人間だとバレるのだが。
気を取り直し、屋敷への侵入を開始。ウィンドウには鍵がかかっていない。やたらに豪華なカーペットを敷き詰めた2階を歩き回る。部屋は、ざっと数えて15部屋はあった。それら全てに複数のベッドが設えられている点を察するに、どうやらそれらは居住区のようであった。それもカスパールが使役する悪魔達の。悪魔の分際でベッドに寝るとは生意気な、とは、思っても口には出さない。部屋には各々調度品が飾られていたり、それなりに見た目は整っているものの、不思議と生活感のようなものが見当たらない。悪魔とは凶暴で、がさつな者が大半であり、むしろスラムがお似合いの腐れた生活環境が的を射ているのだが、この秩序は案外カスパールの支配下にある所以かもしれない。
結局2階には悪魔の姿が1人も見当たらなかった。案の定、ほとんどの者達が出払っているらしい。螺旋階段を下り、いよいよラスティは1階に降り立った。
前に通された客間付近を除外し、ラスティは更に奥へと目指す。程無くして、身の丈の倍近くはあろうかという扉を見つけた。そしてその近くに、下りの階段があった。どうやらそれは、地下へと繋がっている。
まずラスティは、扉を少しずつ押し開いた。ゆっくりと、軋み音一つ立てず。そうして出来た僅かな隙間から、ラスティは中の様子を伺った。
恐ろしく大きなホールであった。赤いカーペットが敷き詰められ、その広さはフットボールスタジアムに匹敵する。一番奥には、ホールに見合う巨大なフレスコ画が掲げられていた。描かれているのは、荘厳な立ち姿の天使である。三対六枚の翼。熾天使だ。そしてフレスコ画の前で跪き、祈りを捧げる男が1人。
(カスパール)
見たものをそのまま頭に思い浮かべ、ラスティはまた音も無く扉を閉じた。隠身の技能に長けたラスティは、この世ならざる者の認識から隠れるコツも承知している。つまり、心に波を立てず、この世ならざる者への興味の一切を失う事だ。
カスパールが何をしているのかを考察するのは、取り敢えず後回しだった。ラスティは次なる調査をすべく、地下への階段へと忍び足で向かった。
<防衛戦・2>
サウス・オブ・マーケットの守備隊は、ものの5分で壊滅した。
敵は悪魔を中核とした、洗脳された背信三氏の配下達である。数の上では守備隊が上回っていたものの、戦力の質は圧倒的と言うしか無い。守備隊は敵の中に悪魔が居た場合は無理をせずに退くよう周知されていたのだが、現実的には悪魔が居たと分かった時点で、壊滅は決定的である。矢張り普通の人間が悪魔に対抗するのは厳し過ぎた。
「さて、この地域の廟は残り1つという所かね」
自分達の背後をどんよりとした眼差しで着いて歩く元・庸の人間達を満足げに見やり、4人の悪魔の内の1人は口の端を曲げた。目の前にはマーケット地区の最後の廟が鎮座している。悪魔が顎をしゃくると、人間達はぞろぞろと廟を取り囲み、緩慢な動作で打ち壊し始めた。
悪魔は、先程狩った守備隊の1人の首をぶらぶらと揺らし、おもむろにそれを眼前に掲げた。いい顔をしていると悪魔は思った。この女は守備隊の中でも突出して動きが良かった、言わば精鋭の類である。そういうエリートの、自らの力が何程も及ばないと思い知らされた絶望感が、強く死相に張り付いている。この女の事を悪魔は知っている。自身も庸の人間を乗っ取った身空であるので、その者の記憶をある程度受け継いでいるのだ。
「こいつ、お高くとまった奴だったんだぜ。俺なんかカス以下に見られてたぞ。そんなクソ女も、今や魂の抜けたゴミクズだもの。笑えるよ」
引き攣り気味の笑顔を、悪魔は仲間の2人に向ける。彼等もまた、狂気の笑みを浮かべていた。
「返す返す、時間が無いのが惜しかったな。もっともっと、えげつない事をしたかったな。しかしまあ、こんな不細工顔で死ぬなんざ、こいつの人生って何だったんだろうなあ?」
からからと笑う悪魔達の気を抜いたひと時は、突如投げ込まれた欺瞞煙幕によって終わりを告げた。
うろたえ、周囲を見渡す。しかし煙の中で方向感覚を阻害された状況を、下級の悪魔程度では突破出来ない。そうこうする内に、悪魔の1人が銃声と共にもんどり打って倒れ伏した。
ナタリアがショットガンを連射しつつ接近する。その傍らをすり抜けるように走り、ジークリッドは大剣をくねらせながら振り回した。その一撃で残る2人を弾き飛ばす。並みの人間ならば胴体が真っ二つに泣き別れていたが、悪魔相手には傷を負わせる程度である。それでも、霊的に強化された剣は少なからぬ打撃を悪魔自身に与えていた。2人の奇襲は、完全に功を奏した。
「廟が壊されておる。間に合わなんだ!」
ジークリッドが舌を打つ。既に廟は大半がガラクタと化し、洗脳された庸の者達は、それでも破壊する手を止めていない。命令を下す悪魔達が昏倒したからだ。
彼等に向けて、ナタリアがショットガンの銃口を向ける。ジークリッドは息を呑んだ。
「何をする、こやつ等は操られておるだけぞ!」
「悪魔の手先が」
ショットガンが、5回火を噴く。その早業は、ジークリッドが割って入る隙を与えない。5人の男達は散弾によって尽く致命傷を負わされ、倒れ伏したまま動かなくなった。
「何という事を」
「集中しろ!」
ナタリアが怒声を発し、立ち上がりかけた悪魔の腹に散弾を食わせた。ジークリッドも獣の反射で傍らの悪魔に剣を突き立て、地面に縫い付ける。その途端、倒れ込んだ2人の悪魔の周囲を、ソロモンの環がぐるりと取り囲んだ。ナタリアが発動させたものだ。これで悪魔達は身動きが取れなくなったが、ジークリッドは念押しに岩塩を頭から被せてやった。激痛の咆哮を上げる彼等を見下しつつ、ジークリッドは訝しい顔をナタリアに向けた。
「どういうつもりじゃ。環の範囲から1人残したのはワザとか?」
「試したい事がある。ジークリッド、そいつらに悪魔祓いを執行しな」
ジークリッドは何か言いかけたものの、時は危急を要する。言われた通りに聖書を懐から取り出す彼女の脇を抜け、ナタリアは壁を背中に立とうともがく、環の外に居る悪魔の頭を掴み、力任せに地面へ叩き付けた。悪魔が呻く。
「何を…」
「いいから死ねよ」
ナタリアの目蓋が、裂けんばかりに見開かれた。眼球に血の筋が浮かぶ。かはあ、と口から大きく息が漏れる。
それと同時に、悪魔が悲鳴を上げて暴れ始めた。この世のものとも思えぬ絶叫が轟き渡る。やがて悪魔の口から黒い煙が吐き出され、しかしそれは悪魔祓いの時のように地面に吸い込まれる訳ではない。静電気が爆ぜるように煙は発光し、やがて黒煙は霧消した。悪魔は、身じろぎ一つしなくなった。
肩を落とし、息を荒げるナタリアの傍らに、2体まとめて悪魔を祓い終えたジークリッドが立った。彼女の背筋に悪寒が走る。ナタリアが超能力覚醒剤を飲んだ事は知っていたが、その効用を実際に行使する姿は、まるで。
しかしジークリッドは、ハタと気付いた。
「ナタリア、おかしいぞよ。悪魔は4体居たはずじゃ」
「…ああ、おかしい。最後の奴は、例の独自波形。クソアバズレがまだ残っている」
パン、パン、パン。
勿体ぶった拍手が、彼女等の前方から聞こえてきた。拍手の主は艶然とした立ち姿で、さも面白そうに彼女等を見下している。ジークリッドは溜息をつき、念の為にEMF探知機を作動させた。この3人とは桁違いの反応。データグラスに個体名が表示される。第三級、ウェリネ。
「おめでとう」
ウェリネは腰に片手を当て、ツイと顎を反らした。
「おめでとう、色々な意味で」
<パレス・2 : その雄叫びを聞く>
地下の状景は圧巻だった。ラスティは出来る限り脇目も振らずに歩いたのだが、嫌が応にもそれらは視界に飛び込んで来る。
其処はパレスという建造物の地階ではない。区画の区切りが肉眼では見渡せない、広大かつ異形の空間であった。そして床面には、数え切れない数の棺が等間隔で並び置かれている。常人が見れば正気を失いかねない有様であったが、現にこの場を取り巻く嫌な空気は只事ではない。
棺の間を歩みながら、ラスティはEMF探知機を確認した。反応は、全く無い。ここは磁場云々を言う前に、世界そのものが狂っているのかもしれない。そういう場所だった。
(地獄、かしら)
しかしラスティは、自分の考えを打ち消した。ちょっと違うと、我ながら思う。地獄は死者でなければ逝く事は出来ない。世界中にある地獄行伝説において、生者は現世と地獄の狭間を行き来するしか出来ないのだ。生でもなければ、死でもない。虚ろの世。ここもそういう場所なのかもしれないとラスティは思った。
試しに幾つかの棺を開けてみたのだが、入っていたのは案の定死体であった。白骨死体、半腐りの死体、液状化するまで完全に腐乱した死体まで、ありとあらゆる人の死が棺には詰め込まれている。ラスティがハンターであるのは幸いだった。死を隣り合わせとするハンターの感性を持たねば、間違いなく気がふれる。
ラスティはひたすら先を進んだ。そうして歩みを止めないのは訳がある。棺の群れが埋め尽くすこの世界にあって、一点のみ違う光景を見たからだ。
それは鈍く光を放っていた。しかしながら物理的な輝度の感じられない、精神的に昏い光であった。其処に辿り着くまではかなり歩かされたのだが、ラスティはようやく間近で光の大元を確認する事が出来た。
石柱だ。表面にびっしりと複雑な紋様が描かれている。よくよく見れば、それが紋様ではなく文字の類だと分かった。しかし、使われている文字は象形に似て非なる代物で、何を書いてあるのかはさっぱり理解出来ない。直感がラスティに言う。これは人間が使う文字ではないと。
この石柱の意味するところをラスティは考えた。これは、パレスや真下界を維持するうえで、重要なファクタであるのかもしれない。
と、ラスティは近くの棺が開いたままになっている事に気が付いた。中を覗き込むと、他の棺のような死体が無い。更に注意して周囲を見れば、同じく開いたままの棺が相当数視認出来た。
「まさか」
ラスティが呻く。無くなった死体は、あの悪魔達が兵力として使ったものなのか? その気付きを深く考える暇は、突如脳裏に轟いた雄叫びによって掻き消された。
『素晴らしい朝が来た!』
<防衛戦・3 : その雄叫びを聞く>
ジークリッドは無形の強大な力で壁に押さえつけられたまま、身じろぎ一つ出来なかった。彼女の面前に立つのは、ウェリネだ。ウェリネが唇を真っ赤な舌でひと舐めし、ジークリッドの細い顎を軽く撫でてやる。
「綺麗な髪ね。銀色なのね。でも、赤く染めた方が似合うかも。もうすぐ深みの赤に変えてあげるわ。お前と、あの娘の血を使ってねぇ」
言って、ウェリネはゆっくりと振り返った。視線の先には、ふらつく足をどうにか踏張るナタリアが居る。左腕から大量の血が滴り落ち、全身の其処彼処に打撲の痕を作っている。それでもナタリアは、殺気の篭った目でウェリネを睨み、人差し指を彼女に向けた。対してウェリネは、ひょいと自らの指を横に振る。たったそれだけで、離れた位置のナタリアが壁面に叩き付けられた。
どうと倒れ伏す彼女の傍に、ウェリネが歩み寄る。はは。あはは。耳障りな笑い声が聞こえてきた。ははは。あはあは。と。
「カスパール様に貰った薬は堪能した?」
ナタリアの脇腹を蹴飛ばす。
「でも、飲んだばかりで私を倒そうというのは、ねえ。下っ端どもは殺せても、私がお前等言うところのXclassisであるのはお忘れかい? 前は不意を食ったけど、正面から当たればこうなるのよ。今のお前の力なぞ、私には取るに足らない。次は頑張りなさいな。まあ、死ぬんだから頑張れないけど」
哂いながら、ウェリネは爪先で何度も脇腹を抉った。が、最後の力を振り絞り、ナタリアは蹴り込まれる寸前の足を掴み止めた。
「殺してやる」
呟く。
「殺してやる。殺してやる。殺してやる」
「あーあー、悪霊になる素養は十分だわ。もういい、死ね。散弾のお返しをしてやる」
ウェリネが強大なPKの行使を指先にイメージする。それを一振りすれば、ナタリアの頭蓋は木っ端微塵に吹き飛んでいただろう。
しかし、その雄叫びは場の面々を硬直させるだけのインパクトを持って、彼女等の脳裏に響き渡った。
『素晴らしい朝が来た!』
「何…これは、まさか!」
ウェリネはナタリアを放り出し、呆然と立ち尽くした。その拍子にPKによるジークリッドの縛めが外れる。ウェリネはそれにも気付かない。
「カスパール様…撤収せよと!?」
続けてウェリネは虚空に向けて何事かを訴えようとしたのだが、背中に突き立てられた熱い塊に言葉を失った。剣尖が胸から突き抜ける。血の泡が口から吐き出される。咳き込みながら、ウェリネは背後を見た。決死の形相のジークリッドが、剣を更に押し込んで来る姿が其処にある。
「このっ…餓鬼が!」
反転してジークリッドを殴り倒し、ウェリネは刺さった剣を胸から抜いた。そして身を翻すと、もう彼女の姿はその場から消えていた。
尻餅をついた格好から、ジークリッドはかろうじて両足を立てた。そして気絶したナタリアを背負い、剣を拾って杖の代わりとする。
「あの声は、何だったのじゃ?」
結果的には、その声によってジークリッド達は窮地を脱した格好となった。しかしそれが救いであるとは、ジークリッドは思わない。何しろかの声は、恐ろしかった。人としての本能が言うのだ。その声は、人間の天敵が「我ここに有り」と発したものだと。
仕込んでおいた指向性地雷の炸裂を確認し、クレアは現場へと赴いた。その地雷は最重要拠点、メルキオールの封印場への侵攻を阻止する為の罠である。現状において、悪魔達はチャイナタウンエリアの「出入り口」は使って来なかった。防御が固いと踏んでの事だろうが、次回もそうとは限らない。
自分も含めて庸の部隊の全てが先に聞いた、頭の中に響いた雄叫びは、恐らく敵側も聞いていたようだ。その声を切っ掛けに、攻勢がピタリと止んだのだ。向こうはかなり押し込んで来る勢いがあった。現にクレアの罠にはまった「何か」は、こちらの防御網を掻い潜ってチャイナタウンエリアの深いところまで侵攻して来ている。運悪く地雷に引っ掛かり、撤収出来なかったらしいが。
例の声には、その勢いを削ぐだけのインパクトがあった、というところだろう。面妖な話だとクレアは思う。
現場に辿り着く。その場には3人の悪魔が半死半生で倒れ伏していた。恐らくマリーナのゾンビ達に紛れて防御を出し抜いた連中である。守備隊は優勢な戦いをしていたはずなのだが。
普通の人間ならば、ばら撒かれた高速鉄球で挽肉になるところだが、悪魔達はさすがに辛うじて五体を維持している。しかし乗っ取られた人間は助からない。クレアは心を鬼にして聖書を取り出した。悪魔祓いの執行開始。
「カスパール様、あと少しでしたのに」
クレアの詠唱と共にのた打ち回り出した悪魔達の内、1人が恨みがましい声を漏らした。
「何故なのです。それ程に順序が大事なのですか。それが御主の御意思だと?」
悪魔が何を言っているのか、今はクレアには分からなかった。しかしながら、思考の乱れで詠唱を緩めさせるつもりは彼女には無い。クレアは最後まで意識を集中させ、3人の悪魔を地獄送りにした。
戦いは悪魔側の撤収によって、なし崩し的に終わった。敵味方双方、被害は甚大であった。悪魔と思しき者の遺体を13人ほど確認し、洗脳されていた庸の人間を20人、ゾンビやキョンシーに至っては50体以上を屠ったものの、庸の死者は39人、重軽傷合わせて30人以上である。総人員の3割という損失を被ってしまった。サウス・オブ・マーケットとミッションでの壊滅が大きい。
しかしミッション地区では不思議な事に、ハンターが居なかったにも関わらず、悪魔が殲滅されていた。何か不確定な要素が発生したらしいが、その裏に合った出来事を、後々ハンター達は知る事になる。
一連の戦いの中で幸いであったのが、破壊された廟が5つ程度と思いのほか少なかった事であった。これならば封印は維持出来ると京大人は言う。しかし大人の表情に楽観的な色は無い。
このままではジリ貧は間違いない。悪魔、庸とハンターの双方にとって、次が正念場となるだろう。
<パレス・3>
ラスティは帰還するタイミングを逸してしまった。続々と悪魔達が戻ってきてしまったのだ。パレス1階へ至る階段に身を隠してどうにかやり過ごすも、これでは動くに動けない。
しかし、悪魔達は予想外の動きを見せる。全員が例のホールにぞろぞろと入ってしまったのだ。またもパレスは、ホールを除いて人影の全てが消え失せた。脱出するには最高の機会であるものの、中で何が行なわれているかは興味深い。ラスティは忍び足でホールへと接近し、扉に耳を当てた。
『諸君、もうご存知だと思いますが!』
いきなり声が轟いた。カスパールのものだ。心なしか、声音に若干の震えが感じられる。人が憤る際の、どうやらそれらしい。あの余裕綽々を地で行くカスパールが?
『順番が狂いました! 狂ってしまいましたよ! この街の調和を司るルスケスの覚醒後、創造者たる御主がお目覚めになるという筋書きが! 些か役者不足でありますが、ルスケスの下僕達に本腰を入れて貰わねばならないでしょう。それに合わせて、次は何としても下界の制圧を完了させねばなりますまい。さあ、失敗は許されませんよ。怪物共を惜しみなく投入しましょう。諸君等も全力で当たって下さいね!』
ラスティは扉から離れ、不図思案した。
自分はこのまま留まるか、或いは一旦戻った方がいいのか?
<ジェイズ・ゲストハウス>
初老のインディアンが注いだテキーラを飲み干し、博士はグラスを今一度差し出した。
「飲み過ぎですよ。歳を考えて下さい」
「何、あと40年は生きられるんだ。人生は楽しまねばならんよ」
博士は注がれた何杯目かのテキーラを嘗めつつ、手帳に幾つかの単語を書き込んだ。
「下界に纏わる事件…カスパール、それにメルキオール。興味深い単語だな」
「所謂三賢人ですね。もう1人は?」
「多分何処かに居るのだろう。メルキオールが抑え込む災厄。それを解放したいカスパール。災厄がカスパールの御主という訳だ。思うに、恐らくこの御主という奴が、サンフランシスコにおける一連の事件において最大の存在なのだろうな」
「どうして分かるのですか?」
「まあ、勘だよ、勘。どうも血がざわついて仕方ないんだ。その災厄について考えるとね。下界の戦いは、恐らくメルキオールが鍵になるだろう。今ならばメルキオールは力を保ったままだ。しかし、仮に廟が封印の維持を不可能とするまで壊された時、恐らく力の放出が始まる。つまりメルキオールの力が減じる」
「廟を最後まで守り抜くか、災厄の目覚めというリスクを負ってでもメルキオールに起きて貰うか。苦しい選択ですね。しかし後者の場合、メルキオールとハンター、それに庸は、災厄とカスパールに勝てるでしょうか?」
「道行きは困難だが、前者よりはチャンスが広がるかもしれない。それに、私達も手助けし易くなるというものさ」
<H2-4:終>
※PC:ラスティ・クイーンツ氏は、次回の行動を「地上」「パレス」の何れかから選択する事が出来ます。アイテムの購入等については、何れの場合でもアクトで使用する事が可能です。
○登場PC
・クレア・サンヴァーニ : ポイントゲッター
PL名 : Yokoyama様
・ラスティ・クイーンツ : スカウター
PL名 : イトシン様
・ナタリア・クライニー : ポイントゲッター
PL名 : 白都様
・ジークリッド・フォン・ブリッツフォーゲル : ポイントゲッター
PL名 : Lindy様
ルシファ・ライジング H2-4【メスカリン・ドライブ】