<悔悟>

 槍を取り落とし、ローマ軍の百人隊長は、取り戻された視界を再び涙でぼやかし、膝を付いた。心中には後悔ばかりがうねりを起こし、衆目をはばからず、彼は嗚咽を漏らした。

 自らがとどめを刺したその男は、たった今息を引き取った。盲いた彼の目を癒すという奇跡と、その意思を置き土産にして。帝国に対する不穏分子という、百人隊長にとってただそれだけの認識でしかなかったその男は、自身の人生を大きく揺るがす圧倒的な存在となる。男の心を知ってしまったが故に。

「俺はちっぽけな1人でしかないんです」

 百人隊長は呟き、膝に手を付いて立ち上がった。

「何が出来るって言うんですか。俺は貴方のような方じゃないんだ。本当に、そんな事で」

 百人隊長が歩を進める。骸となった男を十字架から降ろす為だ。隊長はひたすら戸惑う言葉を口にしていたものの、癒された彼の瞳には、確かな光が宿っていた。後に聖人と呼ばれるに至った百人隊長は、聖人としての第一歩を、男の骸を労わりながら横たえるところから始めた。隊長が言う。

「そんな簡単な事で、少しはいい世界になるのでしょうか?」

 その『簡単な事』が、極めて困難な道行であった事を、今の隊長は知らなかった。

 

サンフランシスコ : 1862

 サンフランシスコもようやく街としての体裁を整え始めた昨今、南欧様式の家々が軒を並べるという風情有る状景に比して、唐人街、チャイナタウンの住居は如何にも粗末である。しかしながら馬車馬のように働く彼らは蓄財を重ね、ようやく商店街が賑わいを見せるようになった。消費が潤いだしたという訳だ。

 ある種の異国情緒を感じられるこの界隈は、うまくやれば観光向きの場所としてもやって行ける可能性を内包していたものの、白人達による強烈な差別感情はおいそれと失せはしない。加えて最近、中国人達は自警組織を立ち上げていた。彼らは迫害してくる白人を強く敵視している。小競り合いは増加の一途であった

 そういう諸々の事情もあって、この界隈は現地中国人以外が容易く立ち入らない区域と化していた。中国人達にもその自覚はあったので、この通りを歩く彼ら一行を目にしたその時、図らずも対応に戸惑う羽目となる。

 一行は異邦人であった。それもこの時代の人々ではない。ただ、『現実』はむしろ一行であって、そのサンフランシスコの方こそが『異界』である。

 

「見てよ、この集中する視線の数々。どう言っていいのか分かりません、みたいな雰囲気をビンビン感じるわ」

「そりゃそうだろう。自分で言うのも何だが、この面子ってどうよ?」

 カラカラと笑い扇子で扇ぐイゾッタ・ラナ・デ・テルツィを、真赤誓は呆れ顔で眺めた。そして今一度、自分達を省みてコメントに苦しんだ。

 総勢6人。人種構成は白人3人。中国・日本系2人。そしてネイティブ・アメリカンが1人。多国籍である。白人の方には、大仰な軍服に小太りの髭男と、白人なのに満州族上流階級然とした装束の年若い女が居た。目立ち方が半端ではない。悪目立ちとも言える。当の2人は、全く意に介してはいなかった。

「ふむ、中々の賑わい。旺盛な需要と供給。実に結構な事である」

「陛下のご威光がこの街にも輝き始めたという事ですよ」

「何の、まだまだこれからであるぞよ」

 陛下と呼ばれた軍服男、ノートン一世皇帝陛下は上機嫌でイゾッタと笑い合った。その笑い声がまた大きい。通りに居る中国人達が、少なからず肩を跳ね上げてビクついた。

「博士」

 真赤がやる方なく呟く。

「どうするよ」

「いや、これでいいと思うよ」

 ヘンリー・ジョーンズ博士は真赤にウィンクしてみせた。

「狭いこの街だ。下手に工夫するより正面からコンニチワとやった方が、警戒もほぐれ易いというものさ」

 博士の助手のブラウン・ファレルも「その通り」と頷いているので、真赤は難しい事を考えるのを止めた。と、粗末な身なりの少年が、トコトコとこちらに向かって走り寄る様が目に映る。現地の子供かと思ったら郭小蓮だった。

「はまり過ぎだろ、お前は」

「何です? いや、そんな事より、やっぱり聞き込みをしても教えてくれないんですよー、京大人の御先祖様の居場所」

 すっかり現地の少年になりきっている『少女』、郭は、小さく頭を掻いて困り顔になった。確かに彼女は中国系であるものの、この時代のチャイナタウンは現代以上に密度が高い。都合見知りか否かを判別するのも容易く、新顔に対しての警戒はあるという事だ。ただ、中国系同士という安心感は確かに存在していた。龍の刺繍が入った絢爛な旗袍という、この質素な街にアンタ何奴という出で立ちのイゾッタも、交渉の面では頑張っていた。高いコミュニケーション能力でもって、市井の人々にあれこれと話しかける事は出来ている。それでも、肝心のところはどうしてもはぐらかされてしまった。自警団のリーダー格である京という男は、それだけ街にとって重要な存在なのだろう。

「しかし、不思議なものよね」

 顎に手をやって考え込みつつ、イゾッタは真赤と郭に言った。

「こうして一直線に、この時代のチャイナタウンに向かって、自警団のリーダーである京氏とコンタクトを取ろうとしている。その行動は推論と想定の元に組み立てたものだけど、推論の根拠を何で知っているのかな?」

「何でって、知っているものは知っているんだから仕方ない」

「いや、仕方ないって事はないでしょ」

「何故知っている、と言うより、この事を私達は、一体誰から教わったんでしょーか?」

 思わず顔を見合わせた三人であったが、横合いの路地から掛かる抑えた声に気付き、揃ってそちらに目を向けた。見れば壮年の中国系男性が、強張った表情で手招きをしている。男は切羽詰った調子で言った。

「一体何をしている。早くこっちへ来るんだ」

 その勢いに押され、と言うより引き込まれ、一行は何となく彼の方へと歩みを進めた。男は一行を路地裏まで連れて行き、誰も居ないのを確かめてから深々と溜息をついた。そして開口一番、説教開始である。

「何て無警戒なんだ。この街は大人しい連中ばかりじゃない。血の気の多い奴は何をしでかすか分からない。俺が上手い事やるから、言う通りにここから逃げろ。其処の中国系とインディアンは問題無いが」

「いや、俺、日本人」

「そうなのか。珍しい。いや、それはさて置き、君達白人はまずい。ここ最近も大きな闘争があったばかりだから…」

 言って、男は呆気に取られた。視線はノートン皇帝一点に定まっている。男が相好を崩し始めた。

「皇帝陛下じゃありませんか! 覚えておられますか、少し前に貴方様に助けて頂いた者です!」

「はて。何せ数多の臣民と議論に興じるものであるから、容易く顔を覚えられぬのだ」

 首を傾げるノートン皇帝に、ひたすら頭を下げる男という絵面を、一行は何となく脱力して眺めていた。

 ここは現実ではない、1862年のサンフランシスコ。ロンギヌスの槍を求める異界への旅の、その第一目標。自警団のリーダー、京との面会は、向こうからやって来る形で達成された。

 

サンフランシスコ : 2009

 話は少し遡る。

 魔人、サミュエル・コルトの誘ないを受けて、ハンター達と彼らに協力するジョーンズ博士の一行は、いよいよサンフランシスコのパラレルワールド行きを目前に控えていた。今は郭の催しでジェイズの4Fの一角を間借りし、打ち合わせと対話の場についている。

 特級聖遺物、ロンギヌスの槍との邂逅へ至る為に、彼らはゾロアスター教における闇の最高峰、アンラ・マンユと対峙しなければならない。それは『慈悲を示す』という、条件のひどく曖昧な手段であった。だから、ハンターらしい駆逐を主としたこの世ならざる者への処し方は、この際捨て置く必要がある。言ってみれば、自分達がどのような意図の元でアンラ・マンユに向き合うかが、より重要なのだ。

 よって、彼らは考えねばならない。慈悲とは何ぞやと。

「アンラ・マンユが悪を象徴する神ってのは先刻承知だが、人智を超えた存在に悪性を付与する神話は世界中の其処彼処にあるもんだ」

 郭が持ち込んだ月餅をお茶で胃の腑に流し込みつつ、真赤が言った。

「思うにそいつは、人間の悪性の象徴なんだろうよ。 『身の内の悪は、圧倒的存在から影響を受ける事によって巣食っているんだから仕方ない』 そんな人間が作った設定によって、アンラ・マンユは『悪』になった」

「何だかかわいそうな気もしますね…というのは、人間側の一方的な感傷なのかも」

 と、郭が少しばかり悄気げた声で言う。その様に引っかかるものを覚えながらも、真赤は頷いた。

「そういう事だ。ゾロアスターで言えば、善は悪よりも優勢だが、滅ぼすには至らない。まさにそいつは人間の事だ。生きている限り、どうやったって人間は、完全無欠の善になんかなれやしないんだ。きっとアンラ・マンユは、胸を張って言うんだろうぜ。我は悪なり、其方は更なる悪なりってよ」

「そう、善と悪は並立した存在よ」

 イゾッタが真赤の後を継ぐ。

「人間は、その悪にどうやって向き合うか。其処のところにサミュエル・コルトが言っていた『慈悲』という言葉が意味を成してくる訳ね。そう言えば、サマエルもよく『慈悲』を口にするらしいじゃない」

「サマエルの慈悲によって、城鵬さんは殺されたんでしょうか?」

 郭は深々と溜息をつき、先程からの心労の源を咄々と語り始めた。

「その慈悲によって、如真さんはサマエルの虜になってしまったんでしょうか? 私はそれが、間違いだと信じていたのに、全てが成り行きのままにサマエルの思惑通りに進んでしまっているんです。訳の分からない、遠く及びもつかない力によって。一体全体、何が正しくて、何が間違いだったんでしょうか?」

 イゾッタと真赤が顔を見合わせる。真赤に促され、イゾッタが郭の肩に手を置いた。

「結局サマエルの慈悲とやらは、自らの定めた善によって悪を駆逐するという意味なのよ。でも、それはひどく押し付けがましい所行だわ。その善とやらの定義を誰が認めたんだって、あたし達はまだ言えるじゃない。あたし達には戦う力がある。大昔のジーザス・クライストみたいにね」

「ジーザスみたいに?」

「彼は心一つで世の不条理に戦いを挑んだ人よ。彼の弟子達や後世の人々が、後付けで色んなエピソードと言葉をジーザスに関しては盛っていたけれど、これは間違いなく彼の思想そのものだった、っていうのがあるわ」

「ああ、あれだろ?」

 真赤が口元を綻ばせた。

「ちいと照れ臭い言葉だが、あの言葉ひとつで、少しはマシな世の中になるはずなんだけどな」

「そんな簡単な事が出来ないでいるから、人間はまだ人間が出来ていないのよね。それでもアンラ・マンユという神様に、あたし達はきっと慈悲を示す事が出来る」

「であれば、アンラ・マンユがどのような形で件のサンフランシスコに出現するか、自ずと分かるってもんだな」

「全く、厄介な話よね。でも、向き合わなきゃ。目を逸らしてはいけない。向き合う事であたし達は、あの言葉の持つ意味を体現する、第一歩を踏み出すのだから」

 

サンフランシスコ : 再び1862

 押される形で自警団のリーダーに納まってしまった男、京洛生は、何の変哲もない空き地だった唐人街の一角に、突如出現した屋敷を前にして立ち尽くしていた。開いた口もそのままであった。

 彼を話し合いの場に誘った一行はと言えば、さも当然といった顔でぞろぞろと屋敷の中に入って行く。「頑丈なオバケ屋敷」を異界サンフランシスコに出した張本人、イゾッタは、努めて笑顔で言ったものである。

「ささ、どうぞ。お入り下さい」

「嫌だ、入りたくない。これは魑魅魍魎だ。キメラハウスだ。中に入ったら家に食われてしまうんだ」

「大丈夫大丈夫。確かにこの家もあたし達も、ちょっと普通とは違うけれど」

 完全に腰が引けた京ではあったが、半ば強引に引っ張り込まれる形で屋敷に足を踏み入れる事と相成った。居間に通され、ジャスミンティーを出されてもソワソワと落ち着きが無い。が、京は穏健とは言えど、唐人街で一目置かれる存在だ。危険な場数を幾つも踏み、それなりに度胸も据わっている。それに、京が懸念を抱く案件について、彼らは的確に話し合いの必要性を請うているのだ。京は腹を括り、自らその案件について話を切り出した。

「君達の言う通りだ。この街の不平不満は爆発寸前なんだよ」

 ジャスミンティーを口にし、京は心苦しい面持ちで言った。テーブルを囲む一行は、年齢性別人種も雑多な面々であったが、一つだけ共通するものがあった。彼の話を真摯に聞き入れようとする姿勢である。それが理解出来たので、京は少し安堵した。心労を吐露する機会など、ここ最近では無かった事だ。

「白人達の嫌悪は日毎に凄まじくなっている。唐人街が街としての体を成すのに比例してね。俺達もサンフランシスコの一員だから、唐人街にばかり閉じ篭る訳にはいかない。しかし用向きがあって白人達のエリアに入ると、どうやったっていざこざが起こってしまうんだよ。汚物を見るみたいな目を向けられるのは、まだ可愛い方さ。最悪殴り殺される事だってある。俺達だって一方的に殴られるのは、そりゃ我慢ならないよ」

「嫌ってくる相手を好きになる事なんざ、普通は出来んだろうよ。しかし…」

「しかし嫌われるのは肌の色以外にも理由がある。それを俺達は自覚出来ていない」

 真赤は目を丸くした。京が一方的な被害者意識に囚われてはいない事に。京は真赤の目を見て言った。

「俺達は血族主義が過ぎている。だから一族郎党がこの土地の主という意識に凝り固まっているんだ。そうじゃない。俺達はサンフランシスコの一員なんだよ。俺達はこの街の発展にもっと貢献しなくちゃならないんだ。俺達は身内の中で篭り過ぎてしまった。だから何を考えているのか分からない大集団だと思われてしまう。もしも白人達の意識を変えたいのなら、俺達自身も変わらなきゃならないんだ」

「うむ。我が臣民よ、よくぞ言ってくれた」

 ノートン皇帝が感じ入ったとばかりに深く頷き、京の手を取る。

「そのような考え方を我は歓迎するぞ。共にこの街を、ひいてはこの国を栄えに導こうではないか」

「…皇帝陛下のように俺達を受け入れてくれる方ばかりなら、話はとても進み易いのですけどね…」

 苦笑する京を眺めながら、一行は顔を見合わせた。成る程、京という男は集団の統率者になる器だった。彼には何が問題かを冷静に見極め、改善しようとする心がある。それはリーダーである為の必須の素養である。

 しかしながら、やや疲れた彼の表情が物語っている。その考え方に賛同する身内は、ほとんど居ないのだ。

「洛生さんは、自警団を白人社会とのパイプライン的な組織にしたいのですね?」

 と、郭小蓮。京はその通りと頷いた。

「先ず彼らと肩を並べる立場になる必要があると考えて、俺は自警団のリーダーになったんだ。しかし白人達に伍するという段階が、目的そのものに摩り替わってしまったのが今の自警団さ。もう、俺一人で抑え込むのは難しい。小蓮、君、どうすればいいと思う?」

 いきなり困難な問いを振られて郭は戸惑ったものの、彼女の中では既に答えが出ている。郭は包み隠さず、それを口にした。

「今やらなければならないのは、暴動寸前の状況を具体的に食い止める算段を考える事ですよ。暴力の衝突が始まると、取り返しがつかないくらい溝が深まってしまうと思うんです」

「しかしそれでは、対処療法にしかならないんだよ」

「いいのよ、今は対処療法でも」

 如何にも焦る風の京を、横からイゾッタが宥めた。

「本当に残念な事だけど、人間に『違い』がある限り、差別は無くならない。それでもあたし達、それにあなたも、良くなろうとして前を向く事は出来るわ。信じて前に進むしかない。例え膝を屈したくなってもね。きっとあなたは大丈夫よ。だって見聞を広めて未来を広げようとする気概があるから。辛抱強く待てば、同じ意識を持つ人が白人達の中からも必ず現れる。その将来に繋げる為にも、今は状況の悪化を防ぐ事よ」

「…確かに、そうかもしれない」

 言葉にもどかしさはあったものの、京は賛同の意思を彼らに見せた。

「それでは、暴動の勃発をどのように防げばいいかを」

 と、其処まで言って、京が動きを止めた。皇帝陛下も同じくである。彼はジャスミンティーを飲む動作の途中だ。二人はまるで、一時停止のボタンを押されたかのように、場面のまま固まってしまった。その異様を即座に知り、ハンター達が椅子を蹴って立ち上がる。

「いや、待った」

 成り行きを見守っていたジョーンズ博士がハンター達を制止した。続けてファレル助手が居間の扉の方を指で示す。

 男が居た。濃い髭を蓄えた古めかしい姿の紳士が。

『初手の介入に関し、見事と言わせて頂こう』

 男がゆっくりとした足取りで歩み寄る。

「サミュエル・コルト」

 誰かがその名を口にすると、コルトは小さく頷いた。そして彼らの傍に立ち、ふと驚いたように目を丸くしたものの、直ぐに不思議な笑みを口元に浮かべ、丁寧なお辞儀を皆に寄越した。

 

「初めまして、郭小蓮っていいます。あなたにお土産を持ってきました!」

 全く想定していない状況からのコルト登場に慌てふためきながらも、郭は挨拶もそこそこに持ち込んだ荷物をバラバラと机上に並べた。出るわ出るわ、シングルアクションリボルバー。パターソン、M1847、M1848、M1849、M1851、計五丁。イゾッタが目を丸くして覗き込む。

「よく集められたわね、こんな古典のものを」

「いや、フツーにアイテムとして買いましたよ」

 実も蓋も無い。

 コルトはそれらを手に取って、しげしげと眺めた。

『懐かしいという事は無いな。ただ、銃はいい。創意工夫と機能美がこのサイズに凝縮されている。人として面白い仕事をしてきたのだと、改めて感じられた。君、ありがとう』

「あなたは、誰なのですか」

 礼を述べられた郭が慎重に問う。

「神様なんでしょーか?」

 コルトは、チラと上目を遣い、フッ、と抜ける笑みを漏らした。

『違う。私はただの人間だよ。既に死んではいるがね。この年、1862年に』

「1862年。サンフランシスコがその時代設定になっているのは、そういう意味があったんだ」

 得心した面持ちでイゾッタが言った。コルトが続ける。

『そうだ。1862年で止まった時間。それがこの世界の正体だ。尤も、私が死んだのは全く別の場所であるから、『今』の情勢に関しては彼が闊歩したサンフランシスコの絵姿を活用している。彼は後世においてどのように伝えられている?』

「とても愛されているぜ」

 真赤がノートン皇帝とコルトを見比べながら言った。

「ただ、米相場の取引に失敗して精神を病んだ人間、という事にはなっている」

『成る程。まあ、普通はそのように思えるだろうが、事実は異なる。彼はその程度の事でめげる男ではなかった。すこぶる付きの欲深い者だったよ』

「そんな俗物にロンギヌスの槍を託したのか?」

 真赤は呆れた調子で言ったものだ。

「彼にロンギヌスの槍を渡したのは、あんただろう」

『渡した、と言うより授けられたと言うべきだろうな。相場に失敗した彼に槍の真の在り処を教えたのは確かに私だ。彼は喜び勇んで旅に出掛けたよ。本物の聖遺物であれば、その価値は生半可な代物ではない。ロンギヌスの槍とて、彼は金儲けの手段としか思っていなかったのだ。しかしロンギヌスはノートンを選んだ。ノートンもまた、ロンギヌスの心を知った。彼の奇矯な振る舞いは、ロンギヌスの意思を彼なりの解釈で実現しようとした結果である』

「欲得を認めよう。身の内の悪と向き合おう」

 イゾッタが身震いする。彼女は事前に『慈悲』の解釈について深い想定をしていたのだが、コルトの語るノートン皇帝とロンギヌスの槍についての経緯は、その想定に限りなく近付くものだった。

「そのうえで、人は何とする? それがロンギヌスの心」

『俗物そのものの彼ではあったが、そんな彼だからこそ槍を所持する意義があった。俗意の塊みたいな人間でも、自らに変革を起こして人の心を動かす事が出来る。変革こそが神を凌駕する人間の力だ。そして君達が居るこの状況、人種による差別と、膨張する双方の憎悪に対して、変革を起こせるか否か。其処の男、京洛生だけが変革の手段を模索しているが、彼が諦め、絶望した時点で勝負はアンラ・マンユの勝ちだ。この世ならざる者を切り離せる場所に一旦彼を隔離するという行動を、私は高く評価する。少女よ、君は京洛生をアンラ・マンユの誘惑から、初手の段階で守ったのだからな』

 コルトはイゾッタに微笑みかけ、しかし直ぐに口元を引き締めた。

『だが、アンラ・マンユは次の一手に移る。それが何なのかを君達は優れた洞察力によって折込済みである。よく考え、対処せよ。しかしその前に、私がこの街でしてきた幾つかの仕事をお見せしよう』

 コルトは、指をパチンと鳴らした。

 

『ここが吾の、仮初の居場所という訳か』

 帽子を深く被り、その顔を決して人目に晒さぬようにしている少年が、コルトを見上げもせずに言った。

 テンダーロイン地区に建てられた屋敷を前にして、コルトは先の少年と共にただただ佇んでいた。少年が言う通り、ここはコルトが彼の為に建てた屋敷である。小さな少年に丸ごと屋敷を与えるその様は、異様の他に言葉が無い。しかしコルトは、当然のように丁重な言葉を返した。

『左様であります。ここを根城に、貴方は力をお蓄え戴きたい。先ずは知り合いのハンターを管理人として、彼を通してハンターが寄り集まる『酒場』として機能させる。貴方は金銭の対価を得て、彼らに力を貸し与える。さすれば普通ではないこの酒場の事が、ハンターの内々にも知れ渡る事となるでしょう』

『敵にも知られる事になるであろう』

 少年は自嘲気味な笑いと共に呟いた。

『汝は性格が曲がっておる。それも織り込み済みなのだな?』

『左様であります。対抗する者の存在を知れば、彼奴の動きも慎重となります。つまり更に時間を稼げるという事です』

『まるで先の展開が分かっているかのような物の言い』

『ただ予想し、対策を打ったまでの事。分かりませんよ、未来などは。たとえ神ですら』

『神。神か。確かに神でも分からぬ。この世の未来がどうなるのかを』

『ケツァルコアトル様。貴方にはかつてのように、人間を愛して頂きたい。その心一つでも、見通しは明るいものだと私は信じています。それでは、所用がありますので一旦失礼します。屋敷は自由にお使い下さい』

 頭を下げ、コルトはその場を辞して行った。少年、ケツァルコアトルという古い神が、彼の後姿に今一度呼び掛ける。

『汝に智慧を与えた者も、未来を見通せぬと申すか?』

『無論』

 立ち止まり、コルトが笑った。

『未来は、人それぞれの中にある』

 

『行くのか』

『ああ、こうしてはおれん。即断即行が俺のモットーだからな』

 慌しく身支度を終えたノートンがコルトに答えた。特級聖遺物、ロンギヌスの槍の在り処を教えた今、ノートンは米相場を見誤った屈辱を、遥か彼方へと置き去りにしたかに見える。調子の良さと欲深さに苦笑しつつ、更にコルトが問う。

『槍を手に入れて、然る後どうする?』

『さあな。物の価値が分かる奴でも探して、せいぜい高く売り払ってやるさ。少なくとも負けた分は全部取り返すぞ』

『ロンギヌスの槍と見抜ける者が見つからなかったら、その時は?』

『その時は、散歩のお供にでも加工し直してやろう』

 

『無駄だ。どうせ見つからぬ』

『メルキオール殿、何故そう言えるのです?』

『私が感知出来ないからだ』

『恐らく貴方には、この先も知る事は出来ないでしょう。そして槍というものの何たるかを理解出来ないでしょう』

『構わぬ。既に消えた「あの男」の力など当てには出来ん。私は、私のやり方で大逆者を討ち滅ぼしてみせる』

『メギドの火、ですか。名も無き神より授けられた御力』

『名も無き、という無礼な言い方は改めよ』

『失敬。ただ、私は貴方に期待しております。貴方の力もまた、何れ必要不可欠となるのです』

 

『怖いか?』

 人気の無い夜道を歩きながら、コルトは誰に言うでもなく、そのうえで語り聞かせるように呟いた。

『しばらく出ては来れまい。少なくとも私が居る間は。何故私が怖いのか、カスパール、お前はきっと分からないだろう。否、理解を拒否するという言い方が正しいかな?』

 

『お初にお目にかかる』

『随分と風光明媚な場所に屋敷を作ってくれたものだ』

 海風が吹く小高い丘の、端正な屋敷の入り口に2人は立っていた。コルト、そして人の形を取りながらもこの世ならざる者、ヴラディスラウス・ドラクリヤ。

『ハーカー家の人々には、しばらく後に土地屋敷の権利譲渡の書面が届くはずだ』

『今はベイカー家だ。こうして段取りを組んで戴き、感謝を申し上げる。まさか人間から、かような接触を図られるとは思わなんだが』

『何時滅身されるか』

『明日には。しかし汝は、概ねの状況を理解していると見受ける。何ゆえ、と問う』

『予想出来るはずだ。貴方ほどの御方ならば』

『実に頼もしいが、しかしそれ以上の助力は無い。自ら助くる者を助く。違うか?』

『それも理解して戴けるものと信じる。既に私達は、生きる事そのものを託されて久しい。人の力を信じよう』

 

「…暴動の勃発をどのように防げばいいかを、具体的に考えて行こう」

 言って、京は訝しい顔になった。郭、真赤、それにイゾッタの3人が、心ここにあらずの風であったからだ。

「どうした?」

「いや、何でも」

 3人は頭を振って、京との話し合いに本腰を入れた。

 

サンフランシスコの騒乱

 きっかけは些細なものだった。

 日常茶飯と化している白人と中国人のグループの間で起こった小競り合いは、今ではどちらが先に仕掛けたのか誰にも分からない。ただ、かつて泣き寝入りするしか手立てが無かった中国人達は、既に大所帯となっている自警組織を後ろ盾に、徹底して歯向かう姿勢を見せた。

 向こうが頭数を揃えるならば、こちらもそれ以上の人数で対抗する。そうやって対立しあう双方は、歯止めの利かぬ暴力の応酬を開始する。それがまた、加速度的に互いの憎悪を膨張させる。

 結果、唐人街とその周辺を巻き込む形で、この街は警察もたじろぐ程の騒乱状態に陥る事となった。しかしながら、これ程までに冷静さを失ってしまうのは、明らかな異常事態である。何が彼らを暴力へと煽り立てたのか。それを知るのはこの街の異邦人、ハンター達だけだった。

 

「待ちやがれ!」

「このクソッタレチンクがッ!」

 待てと言われて、はいそうですかと待つほどに真赤は聖人ではない。

 唐人街は血の気の多いプア・ホワイトの大集団に包囲されていた。何者かの統率によって、彼らは包囲を敷いているのではない。集まってきただけだ。集まって、出て来る中国人を半殺しにしてやろうという、彼らの頭にあるのはただそれだけである。その人数は、唐人街に住む中国人達の半数に匹敵している。事態は完全に常軌を逸していた。

 血が上りきって煮えた頭では、暴力を振るう相手を選別する理性が損なわれもする。都合彼らは、ただ興味本位で街を出て来た、年端も行かない子供達すらも標的にした、という訳だ。周辺を警戒していた真赤が介入しなければ、ただでは済まなかっただろう。

「お前ら、俺が引き付ける隙に、真っ直ぐ街へ駆け込め。何処でもいいから家に入れて貰え!」

 真赤の怒鳴り声に泣いて震え上がりながらも、子供達は言われた通りに力の限り駆けて行った。言った手前、真赤は白人達に立ち向かう羽目となる。たかだか自分と子供3人に、押し寄せる荒くれ者は少なく見積もって30人以上。馬鹿が。クソ馬鹿が。と、真赤は毒づき呆れ果てた。

「お前ら、頭冷やして落ち着きやがれ!」

 通りの真ん中を陣取り、真赤が仁王立ちで大音声を発した。対して白人達は好き勝手に怒号を上げて、距離を詰める一方だった。聞く耳を持つ姿勢は皆無である。

 多分無駄。絶対無駄。そう思いつつ、真赤は言った。

「何もしていない子供をブン殴るつもりだったのか? そして目の前の俺は1人だ。ちっとは恥ずかしいたぁ思わねえのかよ!?」

『死ね!』 『殺してやる!』 『臭えんだよ、お前らは!』 『街から出て行け、このゴキブリ共!』

 全然駄目だ。真赤は溜息を吐いた。

 真赤はハンターであり、優秀な「点取り屋」である。加えて言えば、サマエルによる厄介な「実験」の被験者でもあった。真赤の持つポテンシャルは、上級の悪魔と正面から勝負出来るほどに高い。その気になれば、この人数相手でも渡り合う事が出来たはずだった。

 しかし真赤はそれをしなかった。血の気の多さでは負けていない彼であっても、今の状況で選択したのは「非暴力」である。真赤は咳払いし、両手を広げて言った。

「良かろう。右の頬を打つがいい。然る後に俺は左頬を差し出そう」

『死ねーッ!』

「やっぱり駄目だ」

 真赤は暴徒が到達する寸前で身を翻し、それ迄とは桁外れの速度で遁走した。

 

 唐人街は唐人街で、黙って怯えているはずもない。

 確かに女性や老人、それに子供達は家に引っ込み、息を詰めてやり過ごそうと腐心していたものの、怒れる自警団の若者達は違う。寄り集まって怒号を張り上げ、それに同調する男達も加えて人数を膨張させる始末であった。最早殴られっぱなしの自分達ではない。人数が増える分だけ、かような集団心理が群集を包み込み、恐怖を忘れさせている。理性もだ。

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 郭は徐々に動き出した中国人の集団に歩調を合わせ、必死の面持ちで言った。

「このまま出て行ったら、酷い喧嘩になりますよ? 向こうも沢山居るし、きっと怪我だけじゃ済みません。とにかく落ち着いて下さい!」

 切々と訴える郭を見下ろしつつ、手近の男達は怪訝な顔を見合わせて、内1人が郭の頭にポンと手を置いた。

「坊や、危ないから早く家に帰るんだよ? 外の悪い奴らはおじさん達が全員ぶちのめしてくるからね」

「其処まで年齢は子供ではないのですけどー。いや、だからその、とにかく話を聞いてくださあい!」

 当然ながら、誰も郭の言葉など聞いてはいない。自警団のリーダーである京の制止すら振り切っていた。聞く耳を持つ冷静さがあれば、そもそも死人が出かねない勢いの喧嘩などをしようとは思わないだろう。

 とは言え、郭もこうなる事は承知のうえだった。何しろこの騒乱には、アンラ・マンユが一枚噛んでいる。自分達一行が逸早く京洛生を囲い込んだ時点で、彼を利用して暴動を引き起こすというアンラ・マンユの算段は喪失していた。それはイゾッタの推論であったが、現在、結果としてその通りの状況を迎えている。そしてその先の展開がどうなるかも。

 この騒乱には、白人、中国人、双方にいわゆる扇動役が居ない。ただのヘイトスピーチが暴動へと繋がるには、煽り立てる存在が不可欠だ。何しろ人間は痛がりであり、普通であれば暴力行為には関わりたくない。しかし躊躇を消し飛ばすくらいの興奮があれば話は別、という訳である。

 興奮を引き起こしているのは、間違いない、アンラ・マンユだ。本来強大な力を持つ悪神は、悪の名の通りに人間の凶暴性を引き上げるのも容易い。何処にも姿が見当たらないが、恐らくは間近に潜んで、彼は双方を激突へと導こうとしているのだろう。

 EMF探知機をON。郭の愛らしい面立ちが歪む。磁場異常は周辺全域に広がっていた。つまり、中国人達の心はアンラ・マンユに乗っ取られたに近い。それは恐らく、白人集団の側もだ。

「来るぞ、シャオ!」

 郭の間近に真赤が飛び込んで来た。周辺状況を警戒していた彼であるゆえ、端折った言い方でも言葉が何を意味するか、郭にも分かった。

「やっぱり実力行使になっちゃいそーですね…」

「分かっていた事だぜ、そんなもん。相手は落ちぶれたとは言え、神だからな」

 2人は頷き合い、一旦その場を離脱した。

 いよいよ歯止めの効かなくなった白人と中国人が、通り一本を挟んで接近した。エリアは罵詈雑言喚き散らす人、人、人で埋め尽くされ、少なからぬ者が棒や刃物を手に持っている。後一押しで流血の大惨事が始まろう、というところで、しかし一人の男が通りに進み出た。京洛生が対峙し合う位置のど真ん中を陣取り、仁王立ちで双方を睨みつける。

「こんな事は止めるんだ!」

 京があらん限りの声を発した。

「さもなくば、実力でお前らを止める事になる!」

「実力だと!?」

 応じた何者かの声を皮切りに、ドッと嘲笑の波が広がった。あろう事か、仲間内であるはずの中国人からも。しかし京は怯まなかった。

「そう、実力だ。何回聞いても、何をやろうとしているのかサッパリ理解出来なかったが、彼らは本気だぞ! 踏み止まらぬと言うなら、もう説得はしない。俺は彼らに賭ける!」

 言うだけ言って、京は身を翻した。その先に居るのは、ハンター一行である。彼らもまた、対峙の真ん中に割って入ったのだ。

『こんな平日の真っ昼間から、暴動でストレス解消たぁ良い御身分であります事! しかしこんな生活圏で、迷惑千万このうえ無い!』

 一行の1人が拡声器による大音声で打って出た。前進。腰に手を当て、意気軒昂のイゾッタ・ラナ・デ・テルツィ。純白のゴシックロリータに身を包んでいます。

「何でゴスロリ?」

「何か意味があるそーですよ」

 後ろでヒソヒソと耳打ちする真赤と郭を他所に、イゾッタは益々高らかに言ったものである。

『宜しい、そちらがその気なら、こっちにも考えがある。そっちがお祭り騒ぎで殺し合いをやろうってんなら、こちとらはそれを上回る、真の大祭りを見せてやるわ!』

 つまりアレである。不条理な事態に対して更に桁の外れた不条理を見せる事によって、不条理そのものの意味を無くし、何だか訳の分からない状態に持ち込んで一件落着という奴だ。イゾッタならば、それが出来る。何しろ彼女は、色々と変なものを異界サンフランシスコに持ち込んでいたからだ。

 

チャイナタウン・フェスティバル

 初手はマジックから始まった。

 正確に言えば、郭が『魔術植物の調合・第五段階 幻魔』を行使した訳だが、通りのど真ん中に巨大な老人の姿がニョッキリと立ったのだから大変だ。暴徒は双方、腰を抜かした。否、腰を抜かすだけでは済まなかった。老人の厳格な立ち姿を見上げ、おこりのような震えに1人も余さず囚われている。

「アフラ・マズダーか」

 ほくそ笑みを口の端に浮かべ、真赤が言った。

「やっぱりアンラ・マンユの影響下って訳だ」

「だったら、こっちも効果があるかもです!」

 ここぞとばかりに、郭は次の一手を畳み掛けた。

 『幻魔』を消し、煙玉を白人と中国人の双方目掛けて放り込む。噴出する白煙が充満するにつれ、暴徒が軒並みガクガクと膝を屈し始める。

「あ、頭痛が」

「何か腹が痛え」

 等々口にしながら。

 郭が使ったのは『欺瞞煙幕・第五段階』、この世ならざる者に病を罹患させる、呪いの煙玉である。本来であれば人間には無害な代物だが、アンラ・マンユに取り憑かれている暴徒の霊体には作用する。事、之に至って、最早暴動どころではなくなっていた。

 とは言え、欺瞞煙幕の効果にも限りがある。憑依によって変異した白人と中国人の心もそのままだ。心に変容を及ぼさなければ彼らは再び立ち上がり、もう一度始めから暴動をやり直す事だろう。

 それでも郭による初手の干渉によって、双方の動きが食い止められたのは間違いない。ハンター達は矢継ぎ早の手立てを事前に講じているのだ。

「イゾッタ、出番だ! 連中に考える暇を与えるな!」

 振り返って叫んだその先に、イゾッタは居なかった。真赤の顔が引き攣る。

「おいおいおい!?」

『失敬ね。まさか逃げたとでもお思い?』

 と、先の拡声器よりも更なる大音量が真赤と郭の耳を打つ。

 キャラキャラと無限軌道が路面を削りつつ、十字路の陰からのっそりと「そいつ」は現れた。

 「そいつ」は全身が鉄で出来ている。キャタピラが支える巨体から二本の巨大なアーム飛び出し、傍目に見れば不格好な怪物だ。否、間違いなく1862年の人間にとっては怪物そのものであっただろう。重機と言えば日本製。それもとびきり奇妙な形をした奴。日立建機アスタコNEO。

 イゾッタと皇帝陛下はアスタコの天辺にどっかと座ってカンラカラカラと高笑いし、真下の操縦席には京洛成が置物の如くちょこんと座っていた。その眼はまるで、達観した坊さんの如くである。

 理解の範疇、という表現でもまだ足りない領域すらすっ飛ばした代物を前に、暴漢達は腹痛と頭痛を忘れてひたすら魂消た。そしてアスタコはとどめとばかり、アームを変な威嚇のポーズ状にジャキンと振り上げたのだった。

 こんにちは、みたいな挨拶程度の挙動であったが、双方の荒くれ者達が少女のように悲鳴を上げるには十分である。

「シャオ」

「何でしょうか」

「座ろう」

「はい」

 真赤と郭は言葉少なに、路傍で体育座りを決め込んだ。多分、否、間違いなく決着はついた。後は阿鼻叫喚のオンパレードを、ただただ見守るだけである。

「お茶、持ってきたんですけど」

「貰うよ」

「何か凄い事になってきましたね。もう暴動なんてしてる場合じゃないですよ、白人と中国人の皆さん」

「しかし逃げていない。あんな双腕の怪物が登場した時点で普通なら逃げるぜ。逃げないのは、まだアンラ・マンユに心を囚われているからだ」

「束縛された心を解放する為に、鉄の百鬼夜行で更に心を蹂躙する訳ですね」

「言い方は悪いが、概ねその通りだな。あ、ボニー&クライドだ」

「ゲタゲタ笑いながら機関銃ブッ放してますよ」

「空に向けているのが良心的だよな」

「皆さん逃げ惑ってますが、決してこの場から離れませんね。根性があるのか無いのか分かりません。皇帝陛下も拍手している場合じゃないでしょ」

「呪い凄え。アンラ・マンユの呪い凄え」

「うわっ、ローター音が聞こえてきました」

「ああ、あれね、キルゴア中佐。安穏な日常生活をロケットで木端微塵にする人」

「ロケットを撃っちゃダメですよー。代わりにカードを上空からばら撒いてますねー」

「デスカードか」

「みんな死んでませんけどね」

「双椀の鉄塊よりも、ぴちがいハッピートリガーカップルよりも、どう考えてもわざわざヘリでカード配る方がどうかしてるだろ。それでもまだ逃げねえか」

「ああ、イゾッタさんがスタングレネードを投げ込んでます。自業自得と言えばそれまでですけど、あの人達、悲惨の一語ですよー」

「もう止めてやろうぜ。あいつらのLIFEは限りなくゼロだぜ?」

「これ、どこが着地点になるんでしょうか。状況は最早、戦国自衛隊のハリボテ戦車に追い回される足軽」

「妖婆・死棺の呪いの第三夜。いや、ああ見えてイゾッタは、決着地点を予め設定している。こうして暴動そのものの意味を粉砕し、目的遂行に多大な支障を発生させて、これを受けて双方の衝突を企図した奴は何とする?」

「…成る程、目論見通りに、現れましたね」

 郭と真赤がやおら立ち上がり、同時に面白お祭り騒ぎもピタリと止んだ。サミュエル・コルトが出現したその時のように、ハンター以外の一切の動作が停止するという、異常現象を伴って。

 イゾッタはアスタコから降り立ち、軽く膝を曲げて挨拶をした。彼女から少し距離を置いたその先に、炎の如く真っ赤な鱗を持つ、巨大な蜥蜴が居る。

「初めまして、ではないわね? 私の名は」

『知っているよ。それに後ろの2人も。お互いの事を、僕達はかなりのところまで認識している』

 アンラ・マンユは恐ろしい姿とは裏腹の、知性に満ちた穏やかな声でイゾッタに応じた。

 

アンラ・マンユの心

 3人の異邦人を前にして、同じく異邦のこの世ならざる者、アンラ・マンユは戦意を見せる素振りを全く見せず、その場に腹を付けて彼らを見下ろした。アンラ・マンユが努めて冷静に言う。

『もう、暴動も何もあったものではない。ここまで桁の外れた手段を使うとはね。僕は、僕の目論見が脆くも崩壊し、君達に敗北しつつある事を認めよう』

 3人は思わず顔を見合わせた。確かに相手は神だが、人間の「悪」に働きかける、文字通りの悪神だ。しかしアンラ・マンユの纏う雰囲気に凶暴な気配は一切無い。

「善と悪の両立」

 真赤が言う。

「しかし最後は善が必ず上回る。つまり自分は、必ず負ける。アンラ・マンユ、あんたはどうやら、敗北の美学の信奉者らしいな?」

『美学、と言うよりは真理なんだよ。ゾロアスターの定義だ。人間は乗り越えるべき己の悪、或いは不可避の災害の根源を、彼らも知らぬ内に超常の存在へと求めた。どうしようもないものを、彼らはどうにかしたいと願ったのだね。ダエヴァは敢えてそれに応じた者達なんだ。怒りと憎しみと悲しみ。それに天変地異と疫病。僕らはその全てを背負い、人間が恐れを抱く姿形となって、善性の神々と戦い、そして敗北する。それが人間にとって、苦難を乗り越える糧になると信じてね』

「しかし、今は悪魔の一種、邪教の怪物とみなされ、呼び出されては災厄を及ぼす存在にされてしまったのですね」

 郭が歩み寄り、躊躇いがちにアンラ・マンユの腕に手を掛けた。

「さぞ、お辛かった事でしょう」

 アンラ・マンユは彼女の労りを拒まず、長く生きた亀のように優しい目を向けた。

『屈辱の極みだったよ。ただ人間を殺し回るだけの化け物とされたのは。しかし神としての僕達を、人々は忘れて久しい。これがなるようになった、今のアンラ・マンユという訳だ』

「…曰く、『汝の隣人を愛せよ』」

 イゾッタがアンラ・マンユの正面に跪き、言った。

「名も無き神に仕えたある方の、思想の真髄とも言うべき言葉です。私と貴方は全く違う存在ですし、同じ人間同士でもここまで互いを差別しています。しかしその人は、異なるという事実を認め合おう、と仰っていたのですよ。認めたうえで理解に努めようとも。それを曲解した挙句の果てに、同じ神を信奉しながら一向に殺し合いが止まないのが今の世界です。その煽りを食って、理解されない貴方は悪魔の一種という事にされてしまいました。でも、アタシは貴方の事を、同じ世界に住む隣人だと思えます」

『隣人?』

「例えばアタシは、貴方の事を忘れません。この街の事件が落着して、何処か違う場所に行ったとしても、アタシは出逢う人々に貴方の事を語り継いで行きますよ。進んで悪の名を引き受けた神様として」

「私は、アンラ・マンユさんの事を受け入れます。善悪両方を併せ持つ神様として」

 イゾッタと郭の言葉を受け、アンラ・マンユは短く『ありがとう』と言った。が、敢えて瞳を絞り込み、2人から目を逸らして冷厳に宣する。悪神としての勤めを果たす為だ。

『僕は敗北しつつある、と言った』

「つまりそりゃ、まだ負けてないって事だな?」

 真赤の言に、アンラ・マンユは頷いた。

『未だ彼らは、彼らが抱える怒りに突き動かされている。僕が増幅した暴力的感情を、君達は最終的にどうやって締め括りとするのか?』

「それは、お任せあれ」

 イゾッタが進み出、胸を張った。

「その前に一つお願いがあります。彼らの注意を、私に向けて戴けますか?」

 

 止められた時間が再び針を刻むと同時に、白人と中国人の大騒ぎも再会と相成った。

 どうするのこれ。どうやって収拾つけるのこれ。そりゃ思う。誰しも思う。その問いにイゾッタは、恐るべき力技を行使した、という訳だ。

「何だあれは」

「そんな馬鹿な」

Jesus Christ!」

 等々、ベタなリアクションで元・暴徒達が指差す先にイゾッタが居た。空に浮かんでいた。どういう訳か後光の如く月光が彼女を照らし、有り難いのかイリュージョンなのか、良く分からない御姿を呈していた。

「飛翔、使ったんですね。こうなるとゴスロリ衣装も妙に説得力がありますね」

「あの後光、もしかして月読尊か? 何処まで相性がいいんだ、あの2人」

 何となく脱力してしまった郭と真赤を他所に、イゾッタは芝居がかった口調で言った。

『私はアンラ・マンユから遣わされた天空の御子!』

 ハッタリは大事だ。

『白い者達、仕事も無く、窮に貧したとて東の大陸の者達を責め立てても身の上は変わりません。そして東の大陸の者達、窮状を理解しますが、理解されようとする心の有りや無しや? よって汝ら、教育を受けなさい。理解に努めなさい。未来を描くのです。汝らの豊かなる未来が為、託宣を下します。ここより南東の地。カーン郡の地中深くに地の宝あり。見つけ出せば孫子の代まで潤うであろう。それでは去らば、去らば』

 ヲホホホ、と笑いながら、イゾッタは昇天した。

「いや、本当に昇天したら大変だろう。しかしとことんデウス・エクス・マキナだったな」

「混迷した話に終止符を打つ為、機械仕掛けの神様が舞台に登場、どっとはらいって訳ですね。ところで最後の地の宝って何です?」

「イゾッタが言ってたよ。ミッドウェイ・サンセット油田の事だと。大体30年後に見つかるんだそうな」

 場は完全に毒気を抜かれた。

 魑魅魍魎のオンパレードに加えて天空の御子である。ここが現実であれば、世界三大珍妙事件簿の一つとして数えられていただろう。しかし、これで白人と中国人は振り上げた拳を下ろす事となった。

「何か、疲れちゃったよ」

「もう帰ろうぜ。明日も仕事探しで忙しいし」

「南のお宝って何かな」

「この辺り、まだまだ採掘の余地があるぞ」

 口々に言いながら、2つの集団は矛を収め、三々五々と帰途についた。アスタコから出て来た京洛成は、若干顔が青ざめていたものの、それでも安堵の溜息をついて郭と真赤の前に立った。

「今、恐ろしく躊躇している自分が居る訳だが、それでもありがとう。訳の分からない手段でよくぞ助けてくれたよ」

「うむ。合衆国皇帝にしてメキシコの護国卿の威光、かくも凄まじきものであるぞよ」

 横合いからふんぞり返って皇帝陛下再登場。あなた、何もしていないでしょうが。そんな郭と真赤の声なき声に呼ばれたか、同じく何もしていない2人組がおっとり刀で駆けつけた。

「やあ君達、お疲れであったな」

「ご苦労さんだったね」

「…博士と助手、今回は本当に何もしなかったな」

「前にも言ったろう。車輪を回すのは君達だと」

 と、皇帝陛下が得心顔で拳を掌に合わせた。

「いい事を思いついたぞ。互いの理解を促進する良い手段だ。臣民京洛成よ、汝、何か催し物を開くのだ。食い物が良かろう。チャイニーズフードフェスティバルである。パンみたいなものに肉を捩じ込んだアレは旨かったからな。宣伝を打って白人を呼び込むのだ。わしが市当局に命令を出し、公的な催しにしてやろう。わしが関わっていると知れば、白人にしても敷居が低くなろうしな」

「しかし、自警団の連中が…」

「警備の人手に丁度いいではないか。中国人には商売になる。白人は興味深い異文化を体験出来る。双方お得なうえに、相互理解も促して一石三鳥」

「そうか…、確かにそれは良い考えですね。よし、唐人街の仲間達に掛け合ってみましょう!」

 

 其処で唐突に、また時間が止まった。両手を突き上げて快哉を上げる格好のまま微動だにしない京の隣に、何時の間にかアンラ・マンユが姿を現している。

『彼が希望を抱いたか。この戦いは僕の敗北だ。良かった、本当に負けて良かった』

 アンラ・マンユは、ようやく駆けつけてきたイゾッタを迎え入れ、改めてハンター達の前に立った。そしてひどく人間らしい仕草で、丁重に頭を下げた。

『感謝を申し上げる。これで僕も、ようやく違う場所に行けるよ』

「違う場所?」

『ここではない何処かへ。むしろ帰ると言うべきかな。しかしその前に、僕達にはやらねばならない事がある。そうだろう? 魔人、サミュエル・コルトよ』

 アンラ・マンユの言葉と共に、サミュエル・コルトもまた姿を現した。一同、拍子抜けである。

「もしかして、最初から手を組んでいたんですか?」

『正確には、彼を私のテリトリーに引き摺り込んだ時からだ。その時点で、彼はサマエルの縛めから解放されていたのだよ。しかし君達をたばかった訳ではない。そもそもアンラ・マンユは極度の疑心暗鬼に陥っていたからな。私と、そして人間そのものに対してね』

『しかしそれも解消されたよ。今一度悪神として正しく敗北する事が出来た。君、あのような手段で捻じ伏せてしまうとはね』

 アンラ・マンユがイゾッタを軽く小突く。

 それはひどく牧歌的な情景であった。しかし彼らは、未だ本題の回答をコルトから聞いていない。即ちロンギヌスの槍を持つに値うか、否か。

『さて、それでは槍の処遇についてだが』

 その言葉を皮切りに、くつろいでいたその場の空気が張り詰めた。コルトは宥めるように手を挙げ、厳かに告げた。

『それにあたり、今一度彼にも登場してもらおう』

 

ロンギヌスの心

『全く、よくよく回りくどいやり方を好むものだな?』

 その声の主を見て、皆が呆気に取られた。ノートン皇帝が停止した時のくびきから外れ、苦笑混じりに歩み寄って来る。しかしその仕草は、皇帝陛下と呼ぶには些かざっくばらんに過ぎていた。語り口調も。

「まさか」

 勘の良い真赤が真っ先に気付いた。

「あんた、まさか、生前も皇帝陛下を演じていただけだったのか!?」

『演じると言うより、成りきっていたという方が正しいな。あれがロンギヌスの心に対する、私なりの解釈という訳さ』

 皇帝陛下ことジョシュア・ノートンは、悪戯めいた笑みを浮かべつつ、コルトの隣に立った。ノートンとアンラ・マンユに挟まれる格好で、コルトは初めて含みの無い、満面の笑顔を浮かべた。

『君達は良くやった。私の謎かけに対して的確な回答を準備し、そしてそれ以上に虚を突いてくれた。そしてロンギヌスの槍の何たるかを深く理解してくれた。礼を言おう。ありがとう、君達』

「じゃあ…!」

『槍をお渡しする。その前に、郭小蓮』

「は、はいぃ!?」

 いきなり名前を出されてうろたえる郭の目の前に、アンラ・マンユが鼻先を突き出して彼女の視界を奪った。あくまで穏やかに、アンラ・マンユが告げる。

『僕を受け入れると君は言ったね? ならば旅立つ前に、君に力を貸そう。しかしこれはサマエルへの報復の為ではない。僕が今一度尊厳を取り戻す為。そして君達に謝意を示す為』

 アンラ・マンユの姿が一挙に凝縮し、郭の左腕目掛けて雪崩れ込む。突然の事に成す術も無かったが、郭は不思議と心地良さを感じていた。人が神を慕い、神が人を愛するという事を、郭はその左腕で体現させたのだ。

『続いて、真赤誓』

 コルトが真赤を指差す。ドン、と風圧のようなものを全身に受け、真赤の体が傾ぐ。踏み止まって、己の腕を見、真赤は目を丸くした。肌の色がごっそり抜け落ちている。試しに髪を一本引き抜くと、それも真っ白になっていた。

「何だ、こりゃ」

『人々がルシファの軍勢に対抗する尖兵、進化人類へと至らせる為の実験体であったな、君は。たった今君から、サマエルの呪いの一切が消滅した』

 事も無げにコルトの曰く。

『しかしながら、その力は役に立つだろう。故に残しておいた。サマエルという存在は、力だけではどうにもならない。しかし力を助けにする事は出来る。力が持続する期間は限定され、それが無くなれば君の姿は元に戻るので、安心するといい。最後に、イゾッタ・ラナ・デ・テルツィ』

『コルト、其処から先は私に言わせてもらうぞ』

 コルトを遮り、ノートンがにこやかにイゾッタへ問いを掛けた。

『何処にも無く、その実何処にでもある。イゾッタ、君は杖の在り処が分かったかな?』

 イゾッタは言葉に詰まったものの、やがておずおずと己が掌を見詰めた。何処にも無い。それは目に見えない。しかし何処にでもある。ならばそれは、自分の直ぐ間近に。

『正解だ。これでようやく、私の旅も終わるという事だ』

 ノートンはイゾッタの肩に手を置き、僅かに名残惜しそうな顔になったものの、笑顔で別れの言葉を告げた。

『去らばだ。私はジョシュア・ノートン。合衆国皇帝にしてメキシコの護国卿。私の名は、ロンギヌス』

 ノートンの姿が、百人隊長のそれへと変化する。

『俺の名は、ロンギヌス』

『私もまた、ロンギヌスである』

 一同の目の前から百人隊長とコルトが掻き消され、代わりに更地の敷地が視界に広がった。其処はカーラ邸の跡地である。彼らは2009年の現実に戻ってきたのだ。

 イゾッタは、何時の間にか自分が握り締めていた物を見詰めた。

「これが特級聖遺物、ロンギヌスの槍」

 それは、使い易い杖へと綺麗に加工されている。かつてジーザスを刺し殺した伝説上の聖遺物は、ひどく俗物的な姿形になり、それでいて何処かしら温かみすら感じられた。

 

最終段

『なるほど。この女性が性を売って日銭を得るのが汚らわしいから、石礫を投げていたと。姦淫の悪徳を、善良なる諸君は許さないと。だったら君達、生まれてこの方一度たりとも悪徳を行なわず、しかも思った事すらない者だけが私に石を投げなさい。さあ、この私に石を投げてみせるが良い!』

 当然のように愚昧な民が、一斉に我が御子へ石を投げつけた。

『あたっ、あ痛! おい君達、本当に投げる奴があるか! こりゃ一本取られたよ、とか空気読んで言えんのか!?』

 投げるであろう。何しろ愚昧なのだから。生まれた瞬間から諸々の悪を背負う、己の罪深さを知らぬ愚か者達。そ奴らをまとめて塩柱と化すなど、汝には容易い。汝、無礼を為す者を滅ぼすがいい。

『君達、もう一度考えてみようじゃないか。春をひさいで必死に日々生きているこの者と、怯える無抵抗な女やガリガリアゴヒゲ兄ちゃんに容赦なく石をぶつける君達、どっちが恥ずかしいか考えてみようじゃないか。ええ?』

 姦淫、暴力、何れも等しく罪深い。我が御子よ、浄化せよ。悪徳一切合財を浄化せよ。然るに汝は、理解を得られぬ対話を何ゆえ通そうとする。愚民どもが肩を竦めて立ち去るは、汝の言う事を聞いたからではない。馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。それは我にも同じくである。何ゆえ汝は。

『やれやれ、やっと行ってくれたか。さあ君、立てるかい? 私が家まで送ってあげよう。怖がる事はない』

 触らせるな。穢れる。そのものは売女だ。

『大丈夫だ。君自身と君の心は、これっぽっちも穢れてなんかいないんだよ。君は生きる為に出来る事をしている。そう、君は生きねばならない。君の幼子の熱病は事のほか重い。君は薬を買わねば我が子が危うい。君の行ないはあまりにも尊い』

 女は驚いて我が御子を見上げた。その程度の洞察など、我が御子ならば出来て当たり前だ。宜しい。汝、奇蹟でその者の息子の病を癒し、慈悲の心を知らしめんとするがよい。

『私にも多少薬の持ち合わせがある。効くかどうか分からないが、試してみる価値はあるんじゃないかな』

 何ゆえか。

『あの、すみません』

『おお、君は先刻、先頭切って石を投げまくっていた青年ではないか。頼むからとどめの一撃はご勘弁願いたい』

『もうしませんよ。先ほどは申し訳ありません。頭を冷やして考えれば、確かに俺は恥ずかしい事をしでかしました。で、罪滅ぼしって訳でもないんですが、話は聞かせてもらいました。俺も熱さましの薬を持ってんです。良ければ彼女にお分けしたいんですが』

 何ゆえか。

『これはありがたい。是非お願いしますよ。こうして助け合いながら、私達は少しずつ幸福な人生に近付いて行くでしょう。さて御主、何ゆえと問われておられましたね?』

 

 イゾッタは机に肘つき頭を抱えつつ、毎日のように見る夢の話を仲間内に話した。

 ロンギヌスの槍を一行が見つけ出して以降、実のところ状況に大きな変化は無い。ルスケス一党とル・マーサ、シェミハザによる多方面同時一斉攻撃の終結から数日が経過。旺盛だったこの世ならざる者達の躍動は一旦影を潜め、サンフランシスコは奇妙な平静を保っている。『四階』のキューやジョーンズ博士が言う、ツイン・ピークスの異界化は持続したままだが。

 よって特級聖遺物探索一行が出来る事と言えば、イゾッタが見る夢について意見を交わすくらいである。尤も、その夢に出て来る人物が誰なのか、分からぬ者はその場に居ない。

「びっくりするほど普通の人だな、ええ?」

 真赤は座る姿勢を崩し、半ば呆れた調子で言ったものである。が、考え直して言葉を続けた。

「いや、普通ではないな。その話から察するに、既に彼は名も無き神から理力を授かっている。それこそルシファだのサマエルだのを小指一本で捻じ伏せるくらいのさ。にもかかわらず、彼は『普通』を最後まで貫きやがった。ある意味途方もない事だぜ」

「それにしても、そうやってロンギヌスの槍が夢を見せる意味って何なのでしょーね?」

 郭が持参したプーアルを皆に勧めつつ、小首を傾げた。

「金の亡者だったノートン皇帝陛下が、その認識を大きく変えたのは槍の影響によるものという事で間違いないですよね。だったらイゾッタさん、自分自身の心境に何かこう、変化みたいなものはありましたか?」

「それが全然」

 頭を上げ、困惑の面持ちと共にイゾッタが応えた。

「自分は相変わらず自分のままだわ。『私はアメリカの女王陛下!』とか自分が何時言い出すのかとビクビクしていたんだけどね。正直言えば、この槍の『想像を絶する』ところが未だに理解出来ていないのよ。あれだけの大仕掛けで託されたからには、この散歩のお供がロンギヌスの槍であるのは間違いないけれど」

「思うにイゾッタ、君に野心が無かったからではないかな?」

 と、今まで成り行きを黙って聞いていたジョーンズ博士が、口角を上げて楽しげに言った。

「ジョシュア・ノートン氏は、ロンギヌスの槍でもって一山当てるという、俗物意識の塊でもってそれを手にしたはずだ。翻って君は、その槍を使ってサンフランシスコを救うという『野心』すら無かったはずだ。違うかい?」

 そのように指摘され、イゾッタは若干驚いたものの、得心した。確かに彼女は槍を発見して状況を改善したいという気持ちはあったものの、その槍を自分が獲得するという意識は一切持っていなかった。むしろ誰かが手にする助力をしたいと、考えていたくらいである。

「所持する者の野心に槍が呼応する…。そしてロンギヌスの槍は、その者の野心を呑み込み、かの者の世界への認識すら変えてしまう」

「そして彼によって、周囲の人間も徐々に変容を起こして行くのだ。合衆国の皇帝陛下という珍妙な存在を、サンフランシスコが受け入れ、愛し、微笑んだ。それがロンギヌスの槍の持つ、真の力だと私は思うね」

「確か第三帝国のチョビ髭伍長も、アーネンエルベにロンギヌスの槍を探索させていましたよね? もしも伍長が槍を手にしていたら、一体世界はどうなっていたんでしょうか」

「考えるに、そいつは実に面白い展開を引き起こしていたと思うよ。『やっぱりユダヤ人も、愛すべき隣人だよね』なんてな」

「だったら、あの途方も無い数の人々が死んだ悲惨な戦争も起こらなかったでしょうに。何故、チョビ髭伍長は槍を手にする事が出来なかったのかな」

「超常的な力でもって、世界の危機が救われる。なんて展開を槍自身が望んでいなかった、というのはどうかね」

「あんなにも沢山の死人を出して、つまりそれを見捨てたって事かよ?」

「傍観し、行く末を見定めたと言い換えるべきだろう。滅びも栄えも、全ては自分達次第。どうやら『彼』の思想の根幹は、それで一本筋が通っているらしい。それでも、天使達によって人間の理解の度を越えた干渉が始まった昨今、槍は今一度世に出る事を望んだのかもしれないな。さてイゾッタ、その槍は恐らく君が所持したままだと、その者の認識をがらりと変える凄まじさを発揮しない。だから渡してしまうといい」

「誰にです?」

「この街一番の野心家、これほどの大混乱を引き起こした全ての元凶だよ。サマエルに渡すのだ」

 イゾッタは椅子からずり落ちそうになった。真赤と郭の仰天する様も大概である。つまり博士は、この街どころか全世界規模で見ても最大級の理力を所持する堕天使に、ロンギヌスの槍を手にして貰いなさい、と言っている。

『無茶言うな!』

 三人の悲鳴が見事に唱和した。対して博士は人差し指を立てて横に振り、諭すように曰く。

「まあ、『どうぞ』『はいそうですか』が通じる手合いではないのは確かだ。しかし君、その槍が持つもう一つの力は、恐らく所持する者を確実に守ってくれるはずだ」

「と言うと?」

「この街は奇妙な平静を保っている。そいつは連中の大攻勢を凌いだからだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。サンフランシスコは皇帝在位の一定期間、霊的に穏やかだった。それが今も再現されている。ロンギヌスの槍の力によってね」

「この世ならざる者達の力が、槍によって抑えられているのですか?」

「それに加えて、彼らは畏れている。特に天使の眷属はたまらないだろうな。彼らが一番怖がる者の、槍は言わば残滓みたいなものだ。尤も、サマエルを始めとする強力な連中は、膝を抱えてガタガタ震えるようなタマでもあるまい。確実に次の行動を起こすだろう。しかしながらその槍は、『霊力』や『理力』といった非物理的な干渉一切を受け付けない。つまりそれを所持する限り、天使達は持ち主を倒す事が出来んのだ。けれども注意は必要だ。非物理的干渉を弾くとは言え、物理的な、例えば岩を飛ばして押し潰すなんて事をされた日には、間違いなく死ぬ」

 真赤と郭、それにイゾッタは顔を見合わせた。話の内容もさる事ながら、堰を切ったようにしゃべる博士がどうにも不思議だった。実のところ、博士の言う内容の幾つかに根拠は無い。それでも博士は、ほとんど力技で三人に槍の特性を納得させてしまった。まるで槍がどのようなものかを一から十まで知っているかのようだが、しかしほんの少し前までは違っていたはずだ。

「重ねて言うが、サマエルに槍を渡す事だ。恐ろしく困難ではあるが、不可能ではない。サマエルに対抗しようという力有る者達と共に道行けば」

「しかしイゾッタは、郭みたいな神憑きでもなけりゃ、俺のように進化人類とかいうけったいな力が有る訳じゃない。ハンターカテゴリーからも外れた普通の人間なんだぜ」

「それだ。多分、普通の人間である事が最大の肝なのだと思う。イゾッタ、君が槍を託されたのは、その槍を真の意味で取り扱える存在だからだ。しかし実を言えば、その槍を持つのは別に他の者でも構わない。野心を持たない普通の人間であれば」

「…野心はともかく、何だか普通の人間も少なくなってきたような気もするけど」

「別のパートではケンタウロスの失敗作が出現したそうですよ」

「ひでえ」

「まあ、考える事だ。何が最善策かを考える時間は、今しばらく有る」

 バタン、と大きな音を立て、扉が些か無礼に開かれた。強張った表情のファレル助手が、大股で博士達が打ち合わせる室内に入って来る。表情から察するに、これから伝えんとする事態は尋常ではないらしい。

「博士、どうやら時間はあまり無さそうです。警部補の車で参りましょう。どうやら始まったようです」

「始まるとは?」

 そう言いかけて、ジョーンズ博士の表情が歪む。コートを着込み、慌ただしく出立の準備を始めた博士を前に、イゾッタ達は言葉が無い。

「ど、どうなさったんですか?」

 恐る恐る郭が問う。博士は郭の頭にポンと手を置き、一言、『大丈夫』と言った。

「ツイン・ピークスの警官隊を助けてやらねばならない。今ならまだ間に合うだろう」

「一体何が」

「受肉だよ」

 ファレル助手が博士の後を継いで言う。

「サマエルが新たな肉体を得るんだ。しかしそれは、もうサマエルと呼べる代物ではないだろうね」

 ファレルの表情は、何処かしら悲しげに見えた。

 

 

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・郭小蓮(クオ・シャオリェン) : ガーディアン

 PL名 : わんわん2号様

・真赤誓(ませき・せい) : ポイントゲッター

 PL名 : ばど様

・イゾッタ・ラナ・デ・テルツィ : マフィア(ガレッサ・ファミリー)

 PL名 : けいすけ様

 

 

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ルシファ・ライジング H1-7【ロンギヌス】