<帳>
夜はヘンリー・ジョーンズ博士にとって危険な時間帯である。
ロンギヌスの槍という極め付きの聖遺物探索行の最中、彼はダエヴァという強力な悪神の標的に定められるという不運を被った。生来の散策好きである博士にとって、ひと所に留め置かれる状況は苦痛以外の何物でもない。
よって今のところ、ハンター達との会話が唯一の娯楽と化しつつある。この世ならざる者との戦を繰り広げ、この世ならざる世界を目の当たりにしてきたハンター達の経験譚は、博士の知的興味を存分に掻き立ててくれる、という訳だ。
しかしながら、今宵の相手は少々勝手が違った。繰り返し酒を飲み干し、呟くその言葉の端々には、凡そ会話を楽しむという腹積もりは感じられない。しかしながら博士は、人の話を聞いて自らの意見を述べるという遣り取りを尊い事だと考えている。彼女の話に耳を傾け、博士は代わりのバーボンをまた勧めた。
「確かに、体どころか心まで悪魔になる、というのは面白い話ではない」
注がれたバーボンをゆっくりと舐め、ナタリア・クライニーは奥歯を噛み締めるようにして言った。
「あのいけすかないカスパールの手下になるなんざ御免だよ。腐れ悪魔みたいに弱者をいたぶって喜ぶのもくだらない。ハンターとして戦い抜きたい。それだけ。私は確かに力を求めたよ。超能力覚醒剤という胡散臭い薬を飲んで。力を得たし、それを使って庸の連中とも手を組み、悪魔共と戦い、多くを殺し、こうして爺さん相手に酒を飲んでいるって訳だ。そして、その結果がこれさ。私には最早居場所が無い」
「居場所かね」
博士はグラスを置き、顎を撫でつつ先を促した。
「もう庸と悪魔の戦いには参画出来ない、という事かな?」
「ああ。メルキオールなんて代物が出てきたからね。それは博士、あんたも私に忠告した事だ。メルキオールは悪魔の臭いがする輩を断じて許さない。のこのこあの場に留まれば、私は真っ先に消されただろうよ。庸の連中も今やメルキオールに尻尾を振っている。さんざ私を使い倒した挙句の果てに、我ら天使の軍勢でございとはいい度胸だ。感謝は要らんが、リスペクトの欠片も無いってのは、命を張ってきた者に対してどうかと思う。盧春香って可哀想な女の子の仇は取ったんだから、もういいだろう。私は奴らに手を貸さない。好きなだけメルキオールに傅くがいい。で、だ。このままキューに出入り禁止を食らうのも困りものだ。博士、私に対して何か試したい事があると言ったよな? 乗るよ、私は。好きにモルモットにしてくれて構わない」
「モルモット云々の前に助言を一つ宜しいかな?」
博士は相好を崩し、言った。
「ハンターとして戦う為に、別段庸に肩入れする必要は無いさ。悪魔を打ち滅ぼすという方向性が合致する程度の認識でも、それはそれで構わないと私は思うよ。戦う為のスタンスは人それぞれで良い。最終目標を達成出来るのであればね。次いで言えば、メルキオールも今は猫の手が欲しいくらいのところじゃないかと想像する。何しろ敵は強大だ。付け入る隙はあるんじゃないかね」
「どういう意味?」
「庸の幹部級、例えば王氏や盧氏、何ならクレア・サンヴァーニに依頼するのもいいな。彼らを通してメルキオール、あの天使の権化と取引をするのだ。力を貸す代わりに、自身の存在を認めよと。あの大魔王を討ち滅ぼすまでは、と。その許可を得られれば、大手を振って君は戦場に戻る事が出来よう。また、他のハンター達と共闘も出来よう」
「そんな上手く行くもんか。それに私は、手を切ると言ったばかりなんだけど?」
「其処は工夫と説得力が物を言う。それに戦場は他にも、嫌な話だがこの街に山ほどある。選択は君次第という訳だ。そう、選択は常に自身が行ない、その責務を自身が負う。その数ある選択肢の中から、私の元にやって来るというプランを選んでくれたのは、私にとっては少しばかり嬉しい話であった」
博士は懐から小さな袋を取り出し、ナタリアの目の前に置いた。それは外気に触れさせぬように真空パックを施し、銀色でコーティングされている。
「これは?」
「私の血液から作った血清だ。静脈に注射器で打てば、君の中に巣食う魔に間違いなく何らかの影響が生じる。知っているかもしれないが、私の血液は聖杯の水を飲んだ事によって特別なものになっているのだ。ジーザスの記憶持ちという、悪魔にとって厄介なものさ」
「何らかの影響。つまり、何が起こるか分からないという意味かい?」
「左様。変容の発生は間違いないが、それがどういうものかまでは試してみないと分からない。だから私は、君に強制するつもりは無い。選んで欲しい、という事だ。私は生まれてこの方、他人を利用して自分に利するといった事をした事がないのが自慢でね。ナチスは別だが。だからナタリア、選ぶといい。賭けを打って人に立ち戻るか、蛇の道を究めて戦いの阿鼻叫喚に突入するか。自身が選択し、その責務を自身が負う。これぞ正しく、人間というものだよ。ただナタリア、私は君の事を心底人間なのだと思っている」
『或る意味、とても残酷な事をしましたね、君は』
血清を預けたナタリアが去り、また1人酒を飲み始めた博士に対し、キューが嘆息をつきながら脳裏へと話しかけてきた。
『君は彼女にその血清をすぐに打ちませんでしたね。想像するに、そう悪い結果にはならないはずです。にも関わらず、君は彼女に選択肢を供しました。自らの身を滅ぼすという選択肢を』
「彼女は悩んでいたよ。私は悩んでいる人間に、『こうすべきである』とは言わない性質でね。『こういう方法がある』と言うんだ。悩み、惑い、そして出した結論は尊重すべきなのさ。どのような結果になろうとも。勿論、私の案を選ぶ事を期待してるのだがね」
『次に彼女が血清を打たなかった時、私は約定通りに彼女を出入り禁止とします。恐らく彼女以外の全てにとって、とても危険な存在になり得るでしょうからね』
「そうかな? 重ねて言うが、それでも私はナタリアを人間らしい女性だと思っているよ。本当の意味で危険な者は、既にハンター達の中に潜んでいる」
『…かの者、ですか。自分で言うのも何ですが、あれ程の人外を吾は知りません』
「そう、人外だ。その人外と今一度話をしてみたい。ただ私は、彼女との会話を成立させる自信は無いのだがね」
<始めにして終わりの>
前回、聖遺物探索一行を窮地から救った、ジョーンズ博士曰く『善き幽霊』を、その風貌から『ジョシュア・ノートン皇帝』と見抜いたハンターは少なくない。と言うより、全員が看破していた。
ノートン皇帝は、ユニークな人材を数多く輩出するアメリカの歴史の中にあっても、飛び抜けた存在だ。何しろ「合衆国」アメリカにおける、初代皇帝にして最後の皇帝である。彼が皇帝として在位した二十年と少しの間は、アメリカという若い国が大国へと駆け上がる途上に符合する。加速度的に成長し続けるアメリカ社会の中にあって、ノートン皇帝の存在は少しばかり心安らげるものであったのかもしれない。故に自称「皇帝」を、サンフランシスコ市民は笑顔で迎え入れられた訳だ。
ただハンター世界的に言えば、皇帝在位二十年余の期間が霊的に和やかな状況であったという話は見逃せないものである。聖遺物探索開始と同時に皇帝の幽霊が出現した点も注目に値する。
慈悲の心、その顕現は想像を絶すると天使メタトロンがジョーンズ博士に告げた特級聖遺物、ロンギヌスの槍。それと密接に絡むであろうノートン皇帝に面会するという此度の探索は、閉塞的状況に陥りつつあるこの街にとって、重大な打開点になる。ハンター達はそのように期待していた。
無論、「何だか面白そうだから」という動機付けも、それはそれでありだ。
例の如く、ジェイズ・ゲストハウス4F。
「取り敢えず、サイン下さい!」
イゾッタ・ラナ・デ・テルツィから差し出された色紙を受け取り、ジョーンズ博士は苦笑混じり照れ混じりにサインペンを走らせた。博士にしても裏の世界ではそれなりに名を知られているという自覚はあったものの、正面切ってサインを求められる機会は早々無い。色紙をイゾッタに返し、博士は鼻の頭を人差し指で掻きながら言った。
「ま、大層なもんではないと思うが、部屋の片隅にでも飾ってくれ給え。ナチス避けにはなるかもしれん。さて、こうして此度も聖遺物探索に同行して頂き、感謝を申し上げるよ。早速これからについての打ち合わせと行こうじゃないか」
上下左右、無限の白い空間にポツンと置かれた丸テーブルと椅子が六つ。その一つに博士が着座すると、合わせてブラウン・ファレル助手とハンター達も椅子を引いて腰掛けた。持参した茶と菓子を一同に配りつつ、郭小蓮が不安気な声で博士に問う。
「これから、と言ってもダエヴァに狙われ続けるという状況じゃ、落ち着いて探索も出来やしませんよー」
「それについては、恥ずかしい話だがハンター諸君が頼りになるな。幸い、イゾッタ君が良いプランを持ち込んでくれたよ。君、あれは奇抜で面白い策だった。不謹慎であるが、実行されるのが楽しみだ」
博士はイゾッタにウィンクし、サンフランシスコの地図を机上に広げた。
「まずは危険な夜のサンフランシスコを敢えてウォーキングだ。第一目標は、歴史上最も平和的であったと名高いノートン皇帝陛下との謁見である。しかしながらこの街は広い。ある程度的を絞って歩きたいと思うのだが、皆々方の意見を伺いたい」
「カリフォルニア州、コルマ、ウッドローン墓地というのはどうでしょう? ギリギリ行けるかどうか、ちょっと微妙ですけど」
控えめに挙手し、郭が提案する。対して博士は、顎を擦りつつ首を傾げた。
「半径10km圏内。確かに微妙なところではあるな。遺骸の眠る場所は本来鉄板なのだろうが」
「じゃあ、最初の埋葬場所であるフリーメーソン墓地の跡地は?」
「それは手近だ。行ってみる価値ありだな」
「始めに出会った場所はどうなんです?」
と、イゾッタ。
「先ずは原点に立ち返るというのが考察の基本でしょ?」
「確かにその通り。しかしながら、あれは散策の途上であったと考えた方がいいかもしれないな。何しろ皇帝はサンフランシスコ中を闊歩していたようであるし」
「そうなると、更に基本に立ち返る必要があるって事ですか。確実にここなら会える場所」
「だったら、一つしか無いんじゃねーの?」
と、会話に聞き入っていた真赤誓が、掌を揉みつつ口の端を曲げた。
「散歩に出掛けて、そのまま行方不明になったという話は、皇帝陛下に関しては聞かないな。伝えに拠れば散歩は日課みたいなもんだったらしい。特に幽霊ってのは、日常の繰り返しを飽きもせずに延々と繰り返すのは常道だ。だったら、家から出て、また家に帰って来る」
「…コマーシャルストリート、624番地ね」
腕組み、イゾッタが納得する。博士は目を丸くしてイゾッタに言った。
「驚いたな。番地までスラスラと出てくるとは」
「そりゃあサンフランシスコ市民ですもん。街の自慢の人は熟知してます」
ともあれ、行程は定まった。
まずはフリーメーソン墓地跡に向かい、その後に皇帝陛下が斃れたと思しき場所、科学アカデミーから皇帝の邸宅への道筋を辿り、最後に624番地へと赴く。それなりに距離を歩く事になる散策だった。ジョン・スプリングは若干顔をしかめた。
「正直、狙われ放題という印象ですがね。確か的を絞るって話だったような気もしますが」
「私としては絞ったつもりだよ」
とは、博士。
「それにいい加減、ジェイズで腐れているのもうんざりしていたところなんだ」
「やっぱり。それが本心ですか」
「君達の戦闘能力を強く信頼しているのだと考えてくれ給え」
話は纏まった。一行が各々出発の準備を開始する。ジェイズ4Fとは縁が深いイゾッタが、見えはしないが確実に近くに居る神々に向け、丁重に頭を下げた。
「長い事お世話になりましたけど、ちょっと出掛けてきます」
『より楽しそうな事を見つけた、という顔ですね?』
一等に語り掛けてきた伊邪那美に向け、イゾッタは満面の笑顔で答えた。
「はい。ジョーンズ博士と一緒に皇帝陛下にお会いするなんて、凄く面白そうだと思うんです!」
『いいですね。それがいいのですよ。楽しみを力に変えるのが、即ち人の力なのですから。イゾッタさん、行ってらっしゃいまし』
『私を、私をお見捨てにならないで!』
『はいはいキルンギキビ様、ダダをこねてはなりませんよ?』
「正直、遺憾の極みだよ。前線を退くってのは。サマエルとの対峙が激化しようって頃合で」
真赤が彼らしくない苦渋の面持ちを、ジョーンズ博士に見せた。
「しかしサマエルの良いようにされるのは有り得ねえ。俺を使って何をやらかすつもりなのかは知らんがね。俺には方向転換が必要なんだと思う。特級聖遺物が切り札になってくれると信じるのが、今のベターだと俺は思う」
「その選択は私もベターだと思う。今のところマーサ会員達のように、サマエルの尖兵になるとの気配は君には見受けられないが、今の君には打開策が必要との考え方に同意する」
ジョーンズ博士は『サマエルの実験』が進行しつつある、髪や瞳の色が薄まり始めた真赤を見据え、難しげに首をかしげた。
「私は今もって、サマエルの狙いを図りかねている。君を新種の人間に進化させようという試みはさて置き、自身に対して敵性的な君を、配下とする考えは無いと見える」
「全く、けったいな話だよな。しかし其処に隙があるようには思う。曰く、奴は俺に期待しているんだとよ。こうして生き続け、進化し続けてくれるだろうとよ。生かしておいた方が得策と考えているんなら、そいつは大間違いだったって思い知らせてやる」
「…成る程な、そういう事か」
「何だ?」
「反抗的であり、かつ戦闘意欲旺盛で強大な力を持つ人間。あらゆる種の存在に対抗出来る力の付与。君が選ばれた理由が何となく分かったぞ。しっくり馴染むと考えられたからだ。最終的に、サマエルはサンフランシスコの封鎖を解く腹のはずだ。その時、襲い掛かる敵に対し、立ち向かうこの世ならざる者と人間達。しかし脆弱な人間には強化が必要だ。君はそういった人間側のプロトタイプなのだと思う」
「この俺を、俺達を、ルシファかミカエルの軍勢と戦わせようとしているのか」
「それにしても、随分戦闘的な構成になりましたね、聖遺物探索一行は」
面白そうに呟くジョンに対し、郭は若干鼻白みつつ言ったものである。
「聖遺物探索については、あんまり好戦的な表現は似合わないと思うんですけどー。出来ればジョーンズ博士と愉快な仲間達ってスタンスでありたいです」
「まあ、愉快には違いありませんね」
「大体真赤さんはともかく、イゾッタさんはハンターではなくマフィアに属する方ですし」
「彼女の立てた対抗策は、それこそ愉快ですよ。妙に戦い慣れた感がありますね。とは言え、最も好戦的なスプリングめを頼って頂きたいものです。いやはや全く、楽しみな事だ」
「相手は腐っても…って言い方は失礼か。元神様とやり合うのを楽しみとは思えませんけどねー」
郭は肩を竦めて気を取り直し、改めて何も無い空間へと向き合った。そして神の1人に語り掛ける。
「すみません、ケツァルコアトル様」
『キューと呼んで頂きたいものです』
姿は見えないが、何となく胸を張って答えるキューの姿が思い浮かぶ。
「じゃあ、キューさん。前回質問自体がまるっと無かった事になってしまった事項について、改めて問いたいんです。ハンターの力って、一体何処から来ているんでしょーか?」
郭は体を小さくし、不安を隠さずに続けた。
「不思議なんです。とても。ハンターが持つ力は、もう超常の領域なんです。たまに人間が持っていい力ではない、って言い方をキューさんもしますよね? 今の私達だって、十分限界を突破していると思います。もしもこの力の源が神々から授けられているとしたら、じゃあ、って気持ちになるんです。じゃあ、神が殆ど死んだのに、この力は何処から得ているのか? 悪魔祓いは名も無き神が手助けをしているんですか? 一匹狼のハンターは、絶望の中でも神への信仰心を捨てていないと? キューさんはアステカの儀式を踏まえねば、本来は力を発揮出来ないのでは? つまるところ私達は、神様の掌の上でじたばたしているだけなんじゃないかって」
『ふむ、何故?の嵐ですね。如何にも人間そのものという印象ですよ』
ふと、郭は隣に誰かが腰掛けたような気がした。腰掛けると言うには、それは余りにも巨大な存在感であったが。そしてキューが向けてくる感情は、真摯で誠意に満ちるものだった。
『単刀直入に言いましょう。君達は、この世界が持つ力を媒介する者です』
「世界の力?」
『尤も、それは人間だけに限りません。あらゆる動植物が世界から力を引き出し、生命力を発揮しています。中でも更に具体的な思考を持ち、飛び抜けた想像力を所持しているのが人間という訳です。月に行くとかいうとんでもない事もやってしまいましたしね。故に超常的な力を発揮するとすれば、それは神からの授かりものではない、君達自身が引き出す力そのものという訳です。悪魔祓いを例に例えれば、こういう段取りを踏んだのだから、必ず悪魔を祓う事が出来る、言わば思い込みと根性で悪魔を叩き堕としていると、そんな感じなのです。たまに根性を出し切れずに失敗する事もある訳ですが。ただ、君達は君達が肉体を持つ存在であるが故に、本能的に自らの限界を設定している。君達はこの世界の一員であり、世界の調和を乱さぬよう、ここまではしてはならない、という風に。吾が君達に「魔術植物の調合」とか色々面白い事をやっておりますのは、比較的安全に限界を超える為の手助けをしている、という訳なのですよ。これが「神が力を貸す」という実態のからくりです。ちなみに格闘人形ですが、限界を突破した代物を供する事で、超人度をギャグの領域にまで持って行っております』
「えーと。その、つまり、神自身には言うほど力が無いって事なんですか?」
『力自体はありますよ。しかし君も承知している事でしょうが、吾等の力の源は、即ち人間の思いそのものに拠ります。だから心臓の代わりに銭を毟り取る事でも、吾はキュー足り得ている、という訳です。「こんだけ身銭を切ったんだからさあ!」とかそんな悲喜交々のお陰さまで吾はのうのうと存在しております。その点で言えば、前に城君が言っていた通り、吾等は本来この世界のものではないのでしょう。吾等は君達の想像力によって導かれ、君達を見守る為にこの世界に居ます。煉獄という完璧な異世界からの使者を忌み嫌うのも、今ならば何となく分かりますね。だから郭小蓮、小さく可愛い娘よ、神の掌の上という想像は、吾にとってとても悲しい事なのです』
<サンフランシスコ・ナイトウォーキング>
夜間外出禁止令が公布されたと言っても、或る程度の時間が過ぎれば決まり事はチラホラと効力を失いつつあった。
一点を中心に半径10kmの八方を、物理的かつ霊的に分厚い霧が封鎖するという、これ程の異常はあろうかという極限状況下にあって、今もって真の意味で危険な場所はアウターサンセット周辺域に限られている。それ以外、この街には何も起こっていない。何も。物資は尽きる事無く補充され、ガス・水道・電気は滞る事無く、生きるだけならば全く問題ない日常が延々と繰り返されるのみだ。ただし、今のところは。
衣食住足り得れば、当初は怯えていた一般市民にもゆとりが生じるし、気も緩む。SFPDの警邏網にも限界があり、その隙を突いて夜間の外出を試みる者も当然出てきた。サンフランシスコは夜も楽しい街なのだ。警官達はと言えば、そんな者達をいちいち捕縛していると、留置場が幾らあっても足りはしないものだから、厳重注意を施して家に追い返すのが関の山であった。
しかしながら夜の街を自由に闊歩出来る例外が居る。IDカード所持者、表向きは政府機関の人間とされているハンター達がそれだ。IDカードの効力は大したものだった。聖遺物探索の一行は、時折思い出したように警官の尋問を受けるも、その都度彼らは敬礼を残して去って行く。
(…これ程警官の目を気にしないで済むハンター活動も今まで無かったな)
「sorry」を残して立ち去った警官達を横目に、ジョンは自嘲気味に苦笑した。そしてぞろぞろと歩き出した一行の殿を勤めつつ、これみよがしな溜息をついた。
既にジェイズを出てから1時間が過ぎている。コースは予定通り、フリーメーソン墓地跡に出向いて科学アカデミーへと舵を切り、今は其処から件の624番地へ赴く道すがら、である。その間、ダエヴァは「だ」の字の気配も見せていなかった。これだけ露骨に動き回る釣り餌も無いのだが、ダエヴァは頑として食いつかなかった。ゲストハウスを出た瞬間にパクリ、という状況も有っておかしくはなかったはずだ。
まさか、博士の追跡が解除されたのか。という思い付きをジョンは即座に打ち消した。サマエルは蛇蝎の如く博士という存在を忌み嫌っている。そしてこの世ならざる者は、余程でない限り一度決めた事を中途で止めたりはしない。ましてや相手はダエヴァだ。
「まてよ」
ジョンが呟く。
「攻撃してこないのではなく、出来ないのでは?」
「はいっ、ここがかの有名なエンパイヤ・パークでございます!」
唐突に声を張り上げたイゾッタに驚き、ジョンは思考をリセットしてしまった。何時の間にか、コマーシャルストリートに辿り着いていたらしい。
「エンパイヤ・パーク。これが帝国公園ですかー…」
何処となく脱力した面持ちで、郭が言うのも無理は無い。小さいのだ。余りにも。名前負けしていると言うより、最早名前詐欺である。帝国の名を冠せられたその公園は、そこら辺の憩いの場所以外の何物でもなかった。それでもイゾッタが得意満面で曰く。
「コマーシャルストリートは陛下の住居があった場所だから、縁あるこの場所の公園設営時にその名を与えられた、というワケ。このちんまい感じが皇帝の人柄を表現しているみたいで、中々オツでしょ? それじゃ、一休みといきましょうか」
イゾッタが設えられたテーブルに、持参したお茶とサンドイッチを準備する。こうまで襲撃の気配が無いのなら、歩こうがサンドイッチを食おうが大した違いは無い。一行は歩き疲れもあって、ヤレヤレと思い思いに腰を下ろした。
茶を飲みながらサンドイッチを齧り、取りとめも無い話題に花を咲かせるその間も、ハンター達はEMF探知機のチェックを忘れていない。現状、異常無し。不審に思う気持ちも勿論あるのだが、何処かしら安堵出来るのは否めない。敵は元神様だ。ハンターの通例として、そんな代物とまともにやり合うくらいならば、普通は逃走を選択するものだからだ。
「…本当の事を言うなら、飛躍的な手段が欲しいところではありますねー」
気疲れからかテーブルに突っ伏し、郭が半ば嘆きの声を発した。
「博士、天使メタトロンの手を借りる事は出来ません? 無理でしょうけど…」
「うむ、無理だろうな。何せサンフランシスコは物理的かつ霊的に封鎖されてしまったからな。直接来る事も出来まい。しかし声を届けるくらいなら出来るかもしれん」
「と言うと?」
「ジェイズ4Fだよ。向こう側の世界だ。直接の到来は不可能だが、声を届け、且つ声を聞く事が出来る可能性はある。と言うのも其処なイゾッタ君が、日本の神の1人と声だけのコミュニケーションが取れるらしいと知ったのでね。尤も、彼女と月読の縁は『この世界』でも行なえるくらい強固なのだが。イゾッタ君、月読殿の声は今も聞こえるかね?」
博士に促され、イゾッタは神妙な面持ちで夜空を見上げた。くっきりと浮かぶ半月を眺め、拍手を2回。
「かしこみっ!」
最早呪文である。しかし偉大な夜の神は、即座に返事をイゾッタに寄越してきた。
『呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン』
「飛び出ていませんけどね。月読様、この前はお助け下さってありがとうございました。お陰さまで今日も元気にやってます。テレビは届きました? クロちゃんとあたしの給金を後払い、月読様経由でクロちゃんの一族にお知らせして、向こう側で買って貰って寄進をするという、実にややこしい手順を踏んだテレビは」
『おお、気遣いに感謝を申し上げる。アクオスのでかい奴を有難く戴いた。最近のテレビは実に愉快だね。朝のBSワールドニュースを毎日見ているよ。当初は衛星放送の繋ぎ方がさっぱり分からなんだ故、ベリアル奴に丸投げをしたらば上手く行ったよ』
「あ、やっぱり月読宮に行ったんですか!」
『かの者に変化を促したのはそなたであったからな。取り敢えず馬車馬の如くこき使っているが、妙に晴れ晴れとした顔ではあるよ。何れあの者には、何時ぞやのそなたへの無礼を謝らせねばならぬ』
「良かったらお伝え下さい。とても興味深く、面白い会話だったと。ところで、あたしは先刻まで夜のサンフランシスコを歩き回っていたんですが、何か奇妙な点には気付きませんでしたか? 例えば、霊的にとても和やかだった、つまり不自然なまでに何も無い場所は」
『ふむ』
問われて、月読はしばらく考え込んでいる風だった。近場の友人とおしゃべりをしているかのような神との対話は、他の者にとって驚き以外に無い。そして月読は返答した。
『そなたの心を辿った。霊的な影響は、何がしか心に波紋を及ぼすものだ。しかしながらそなたの居る街は、気付かぬかもしれぬが実に騒々しい。よって騒々しくない場所、というのは逆に目立つものなのだろう。日ノ本で言えばかみやしろのようなものだ。イゾッタ、そなた、その場をくるりと回ってくれないか?』
その言葉に従い、イゾッタは起立して体をゆっくりと回転させた。して、『止まりなさい』の呼び掛けで停止する。方角は、ほぼ北西である。
『そちらに向かうといいよ。その先は、確かに静かと思える故』
月読の話は、其処で終わった。内容を克明にイゾッタが皆に伝えると、1人、真赤が肩を揺らしてくぐもった笑い声を上げた。
「当たりだ。ほぼ読み通りだった」
「どういう事かね?」
目を丸くする博士に対し、真赤は未だ肩を揺らしながら話を切り出した。
「俺は探索行当初から、仕掛けを探すべきだと考えていたんだ」
「仕掛けかね」
「サマエルは言ったそうだな。聖遺物など、この街にはありませんってね。確かに奴は最大級の化け物だが、その化け物の認識を眩ませる代物が隠されているとなりゃ、そいつはそう、メルキオールの封印に匹敵するかそれ以上の仕掛けが施されているに違いない。そうなると、他に思いつく手の込んだ仕掛けは、限られてくると思うんだ。例えばヴラディスラウス・ドラクリヤ。死にながら生きていた反逆者の隠匿。こんな芸当が出来るのは、理由があるからだ。隠された聖遺物が関わっているかもしれん。場所はカーラ邸跡地か、その近辺だ」
<集結>
マリーナと言えば、前回の次席帝級強襲によって破壊されたカーラ・ベイカー邸が存在した地区だ。存在した、と言うのは、「作り、維持して、ぶっ壊す」が社是のガレッサBldによって既に解体されているからである。その際、カーラ邸地下に仕組まれていた堅牢な空間にも手が入った訳だが、其処から何か貴重品が出て来たという知らせは、ガレッサ社員のイゾッタも聞いていない。
「…ただ、確かに奇妙ではありますね、この界隈は。電磁場異常が完全に収まっている」
既に更地状態となったマリーナ地区、カーラ邸を前にして、ジョンはぴくりとも動かないEMF探知機の針をしげしげと見詰めた。今のサンフランシスコは、少なくとも霧の範疇にあっては全域が異常な状態である。この世ならざる者が近辺に居らずとも、多少は「振れ」というものがある。然るにこの地には、それが無い。
「ここいらはハンター・ノブレム連合が、ヴラドや新祖を巡ってルスケス一党とやり合ってた場所なんだろ? そんなとこにヴラド以上の秘密が隠されていたなんざ、敵さんもよもや思うまい、ってとこか。なあ、ヴラドの仮初の入滅と、皇帝陛下の在位期間は、もしかして重なっているんじゃねえのか?」
「可能性としては、有りですねー。皇帝陛下とヴラドに接点を見るならば、それを関連させたのはきっと彼ですよ」
真赤の問い掛けに、郭が応じる。
「ロンギヌスの槍と皇帝陛下を結び付ける切欠が作られたのだとすれば、それは間違いなく魔人、サミュエル・コルトに拠るものです。キューさんが言っていた、コルト氏の『破産した友人に会いに行く』ってやつですね。かつてこの街でコルト氏がした事の全てが、今の状況に対抗する為のものだった、っていう節もあります。ヴラド復活劇に一枚噛んでいてもおかしくないですよね。5つの例外を除いて全てを抹殺する銃。ワイオミングの大結界。古い神々の奮起。ヴラド公。ロンギヌスの槍。ジョーンズ博士、一体サミュエル・コルトという御人は、何故このような大事に関わったのでしょーか?」
「その件については前回言った通り、名も無き神の関与を想定するね」
郭に話題を振られた博士が、邸宅跡地を興味深く歩き回りながら言う。
「あの神様は思うところあって何処かに引っ込んだものの、『これはまずいかもしれない』という時にお節介を焼くところがあると思うのだよ。コルトの働き振りは人を超えて精力的だ。ならば、人智を超えた何者かの助力と助言を受けていた、と見る向きが妥当だろう」
「…と言っても、コルト氏がどのような思惑で裏の偉業に挑んでいたかは、今となっては分からない話ですねー…あれ?」
言って、郭は周囲の気配が若干変化したように感じられた。本能的に危険と判断出来ない変化であったものの、ハンター達は「異なる」という状況に対して敏感だ。各々がEMF探知機を取り出し、確認する。
「でかいですね、これは」
ジョンがメリケンサックを握り締める。が、その手をすぐさま緩めた。カーラ邸の手前の通りを、左から二匹の犬を連れて闊歩する、シルクハットに大仰な軍装の紳士を見たからだ。
「そうか」
ジョンは当初の疑問を思い出した。夜歩きを続けていながら、何故ダエヴァが出て来られなかったのかを。
「ずっと皇帝陛下と一緒に歩いていたからだ。EMF探知機にすら引っかからない陛下と。そして目的地に到着したから、姿を現したのか」
「注意事項其の一。陛下の前では決してこの街を『フリスコ』と略さない事。言ったが最期、罰金$25を国庫へ収めなきゃならなくなるわよ」
イゾッタは緩みそうになる口元を震えつつも堪え、こちらに近づいて来るノートン皇帝を凝視した。何しろ陛下への謁見は、サンフランシスコ市民である彼女にとって光栄の極みである。イゾッタは更に続けた。
「其の二、あまり哲学的かつ観念的な話はしない事。脱線し放題になるかもしれないから。其の三、陛下の臣民であるあたし達は、最大の敬意を陛下に寄せる事」
受けて博士もフェドーラ帽を取り、一同も居住まいを正す。腰を折り曲げ、深々と一礼、そして唱和。
『皇帝陛下におかれましては、御機嫌麗しく存じ上げます』
『うむ、気を楽にしなさい。今宵は良い月である事よ』
皇帝はうろうろと歩き回る愛犬達に「おすわり」を命じ、自らも瓦礫の上に腰掛けた。
『しかしながら、昨今は些か騒々しい。ゆっくりと眠る事も出来ん。本来ならば夜のそぞろ歩きは、良好な治安を保つ意味では好ましい話ではない。しかしながら海外からの使者を迎えるに当たっては仕方無き事であるよ。合衆国皇帝にしてメキシコの護国卿が述べ伝える。その方、用向きを申せ』
皇帝は大仰な仕草でジョーンズ博士を見下ろし、言った。どうやら博士は他所の国から使節という設定になっているらしい。同じアメリカ人なのに変だな、と郭は思う。恐らく皇帝は、バチカンの意図を携えたジョーンズ博士の到来をもって覚醒したのだ。市国を守護するメタトロンやサンダルフォンといった天使達の御印的な意味合いを、博士の中に見出したという所か。博士は一歩進み出、恭しく言葉を述べた。
「陛下、私は特級聖遺物、ロンギヌスの槍を探索する為にこの地へ参りました。御心当たりはございませぬか?」
博士は装飾を排し、単刀直入に聞いた。しかしながら陛下は首を傾げ、質問の意を測りかねる風だった。イゾッタが博士の隣に歩を進めて後を継ぐ。
「無礼をどうかお赦し下さい。陛下の臣民、イゾッタと申します。昨今のこの街、仰られた通り騒動の渦中にあります。無辜の民が数多く命を落としており、この状況を打開する為に陛下の御力をお借りしたいのです…。そうだ、差し出がましい事でありますが、どうかこれをお使い下さい。無くされて、不自由をされているとの事でしたから」
イゾッタは陛下の前に傅き、持参した杖を掲げた。イゾッタが自作したもので、心の込められた一品である事を陛下は汲んだらしい。頷き、イゾッタから杖を受け取り、ノートン皇帝はゆっくりと立ち上がった。
「とてもいい杖だ。善き娘よ、配慮に感謝する。杖で思い出したが、私もそれを探している。それまでの代用として使わせて頂く。そして本来の私の杖を見つければ、ようやく旅も終わりという訳だ」
陛下が何を言っているのか、イゾッタは少しばかり戸惑いを覚え、皆の方を顧みた。その瞳を受け、郭は息を呑んだ。
「在位21年弱。その間は霊的に和やかだったサンフランシスコ。ロンギヌスの槍の力が影響を及ぼしていたとすれば、まさか陛下は、ロンギヌスの槍を杖にして街を歩いていたんですか!?」
ふっ、と博士が笑いを漏らした。失礼にならないように声を殺し、それでも込み上げる可笑しさに耐えられない様子で博士が呟く。
「成る程な。槍を杖にしていたのか。かつて自らを刺し殺した槍が、千数百年を経て散歩のお供となった訳だ。ジーザスが聞いたら微笑む事であろう」
「だったら、遺品を集めた記念館に遺されているのでは?」
イゾッタの問いに対し、博士に代わって真赤が首を横に振った。
「これだけの仕掛けだ。シンプルに見つかるもんでもあるまい。思うにこれは、皇帝陛下も含めてテストの一環だ。あれだけの代物を、果たして託すに値するか否か」
色めき立つ一行を前にし、陛下は澄まし顔で1人1人を指差した。
「汝らに通行の許可を与えよう。それでは先で待っておるので、準備が整わば来られるがいい。私と共に杖を探しに行くのだ」
博士が二匹の飼い犬に指示を出す。犬達は各々一行から距離を置き、ちょこんと隣り合って座った。その間を、丁度扉くらいの大きさの空間が聳え立つ。其処だけは刈り取られたように違う景色が映っていた。夜ではない、昼間の。向こう側に見える風景は街並みだった。しかし、どこか古めかしい。
ノートン皇帝はシルクハットを取り、軽く振って一同に挨拶を残した。そして犬達と共に『扉』を潜り、その姿を消した。しかしながら入れ替わるように、人影が向こう側から浮かび上がる。コート姿の、濃い髭を蓄えた、奥深い瞳の色を持つ男だった。男は言った。
『後から準備を整えて来なさい。授けられた御印によって再び扉は開く。この先は現実ではない。現実ではないが、1862年のサンフランシスコだ。其処で私の旧友と共に杖を探すといい。さすれば望みは叶うだろう。しかしながら、杖は何処にでもあって、その実何処にも無い。手に入れる手段は一つ。君達は慈悲を示す必要がある。その対象は、そ奴だ』
言って、男は虚空を掴むようにした。受けて一行の背後から、一つの影が強制的に引き上げられた。暴れ回りながらもその影は、自らに行使される力に対して成す術が無いらしい。それを見、ジョンは顔を真っ青にした。
「ダエヴァだ。陛下が居なくなったから肉迫して来たんだ」
ダエヴァの一体は、徐々にその真の姿を露出し始めた。真紅の鱗を持つ、異様な大きさの蜥蜴のようなものへと。
「アンラ・マンユ」
郭が引き攣りながら曰く。男が自身の背後を指差すと、アンラ・マンユは勢い良く『扉』の中へと引き摺り込まれた。そして『扉』は徐々に小さくなって行く。完全に消え去る前に、男は皆々に冷厳たる面持ちで言った。
『奴の真の姿を解放した。ああなれば光も通じない。更に恐ろしいものとなった。その恐ろしいものを相手に、君達は慈悲を示す事が出来るか。慈悲を言葉尻のみで捉えてはならない、とだけ言っておく。これだけの段階を踏まえねば、かの物を託す事は出来ない』
『扉』が強い光の明滅と共に消え、夜はまた静かとなった。一行は顔を見合わせ、今起きた事を無言で確かめ合った。
「今の人って、もしかして」
「間違いない。サミュエル・コルトだ」
「ダエヴァの一体を元に戻すって、どういうつもり?」
「慈悲を示せだと? 随分過酷なテストだな、そりゃ」
「…話し合いも結構ですが、そろそろ現実に立ち返りましょうか、皆さん」
ジョンは今度こそメリケンサックを装着し、次いで拳銃を取り出した。彼の目の前で、ざわざわと何かが蠢き始めている。ダエヴァだ。
「引き摺り込まれたのは1体。残り6体を、矢張りどうにかしなくちゃならないって訳ですよ。これもテストの一環と言うなら、いい性格をしてますよ、あの髭親父」
<ダエヴァ戦>
とは言え、彼らはダエヴァが攻め寄せる展開は最初から承知していた。
ハンターが最も恐れるのは、突如勃発する状況変化だ。この世ならざる者を相手にした場合のその変化には、概ね致命傷に至る過酷さがある。それを未然に防ぐ眼力を持つ者だけが勝利し、最低でも生存する事が出来る。此度の場合は、来る事が分かっているのだ。故に危険極まりない手合いであるものの、彼らは冷静に対処行動を開始出来た。
敵、ダエヴァは向かいの通りの、街灯が作り出す陰の中から這い出そうとしている。
しかしながら、一行が立つこの場所は、イゾッタのプランにとっては好都合である。跡形も無く家屋が撤去された元カーラ邸の敷地は、見晴らしが良く影らしい影も無い。イゾッタは地面に手を当て、意気軒昂に言い放った。
「ビルド!」
と、何も無い敷地にいきなりノッポの家屋が脈絡なく出現した。「頑丈なオバケ屋敷」は別に合言葉を唱えなくとも問題なく使えるのだが、とどのつまり気は心である。一行は一目散にオバケ屋敷の中へと逃げ込み、申し合わせた通りハロゲンランプの投光器を慌しく設置し始めた。その間も監視カメラから送られる外の状景を、イゾッタはつぶさに確認する。
「来ました来ました。影がうねるような感じで。あ、磁場の異常で何も見えなくなった」
「そろそろ下がった方がいいんじゃないですか!?」
声を裏返して郭が言うのも尤もだ。ダエヴァの挙動は、気が付いたら距離を詰められていた、という予測不能な面がある。もしも視界から消えてしまえば終わりだ。その時ダエヴァは真後ろに居り、影で出来た爪を振り上げている事だろう。一行は即座に階段を駆け上って行った。
踊り場で3人が立ち止まる。イゾッタが銀化を施したミニミを設置し、弾帯を装着してフィードカバーをセット。その隣をジョンが拳銃を構えてカバー。郭は正対化霊天真坤元霊符を壁に叩き付け、口早に護りの言葉を紡ぎ出す。これにて初段の足止めは準備完了。流れるような一連の動作を目の当たりにし、2階居間に身を潜めていた博士は口笛を吹いて感嘆した。
「いや、大したものだ。錬度を重ねた人間の挙動は美しい。さすが、この状況を戦い抜いて来ただけの事はある」
言って、しかし博士は、幾分困ったような顔で背中越しに「彼」を見た。合わせて何とも言えない目でもって、イゾッタ達が「彼」を見詰める。博士の背中に隠れていた「彼」こと真赤誓は、その視線の意味するところを重々承知している。承知の上で、ぶんむくれた。
「いや、仕方ねえんだよ! 戦いに参加した日にゃ、サマエルの実験が加速するんだから!」
「でも、ポイントゲッターが博士の背中に隠れるっていうのはどうなの」
「敵と相対する状況に陥って、実験が自動的に発動したら大変ヤバイんだよ」
「ダエヴァの最重点ターゲットは博士なのですが…」
「ま、それはともかく真赤君。称号『サマエルの実験』の解説項には『力を得物に込める事が出来る』とある。つまりこれは自分の意思で力を使えるという解釈が出来る。よって『実験』に頼らない戦い方を意図する事も可能なので、次回アクトの参考にしてくれ給え」
「博士、話し合いは済みましたか? それでは諸君、狼憑きを実行する。全員、出来るだけ身を守る事だけを考えてくれ」
ファレル助手が強引に会話を打ち切らせ、自らはパイプを吹かして儀式を開始した。これによって、この場の全員の運動能力が格段に跳ね上がる。引き換えに全身毛むくじゃらが丸一日。
「いいなあ、あのパイプ。あたしもあれ、作ってみたい」
「残念ながら不可能であろうな。あれはファレル君が祖先から受け継いだ力そのものだからして」
「言うてる間に来ましたよ!」
ジョンの叫びと同時に、6つの影がぞろぞろと一階へと雪崩れ込んで来た。全てが入り込んだ頃合を見計らい、イゾッタが玄関の投光器を作動させる。強力なハロゲンビームが出入り口を遮断し、都合ダエヴァはオバケ屋敷の中から出られなくなる。更に室内の至る箇所に隠れたダエヴァ目掛け、別の投光器が狙い済ました照射を畳み掛ける。たまらずダエヴァが2体、むくりと影身を起こす。
銀の祝福を受けた機関銃と拳銃が、立て続けに火を噴いた。霊体であっても銀は確実に効く。しかも機関銃の方は限界まで強化を施した代物だった。ダエヴァは苦痛で身を捩じらせ、再び床に身を沈めた。が、一階のほぼ全域が銃弾の範囲にあり、かつ至る箇所に投光器は設置されている。ハロゲンビームを浴びせられては身を起こし、銃で狙い撃ちにされるというパターンに、ダエヴァは完全にはまってしまった。
本来であれば、ダエヴァ程の霊格を持つ存在は、この包囲を強行突破するだけの力を有している。しかしながら、彼らが引き摺り込まれた場所は尋常ではなかった。其処はこの世ならざる者の方向感覚を狂わせる、呪力の篭ったオバケ屋敷なのだ。つまりダエヴァは、自らが仕掛けた時点でイゾッタ達の罠に引き摺り込まれたと言っていい。
それでも、元は神である。ようやく一体が突破口を見出し、踊り場目掛けてチャージを仕掛けた。が、郭の張った強力な結界に弾き飛ばされる。
しかしながらイゾッタは、1階の放棄を即断した。出口を見つけられたからには、ダエヴァは短時間で踊り場に殺到するだろう。郭の結界が効力を発揮する間に、2階での迎撃準備に掛からねばならない。
「軽い、身が軽い! 月に向かって吼えたい気分だわ!」
既に狼女と化したイゾッタが、ミニミを軽々と取り回しつつ喜色満面で言う。そして掌を見る。
「あ、肉球」
「呪術は一日抜けませんから、後で肉球触り放題ですよー」
「…そろそろ冗談も言ってられない状況になりましたが」
ジョンはピンと立てた耳を、突進を繰り返してくるダエヴァ達に向けた。未だ方向感覚は正常ではないが、郭の符は既に黒く変色を始めていた。突破は時間の問題だ。
ごきげんよう、さようなら。
一行はそんな意味合いの遠吠えを唱和させ、一斉に次の階段目掛けて遁走を開始した。そして次の踊り場で、また同じく迎撃を開始するのだ。
こうして足止めを繰り返す戦いの、行き着く先は唯一つ。時間の無駄使いである。ダエヴァにとっては、時間の消耗は致命傷になり得るのだ。
<来光>
ダエヴァとの戦いが始まってから2時間が経過していた。
かの怪物と至近距離で向き合い、これだけの時間を戦い抜いた事例は未だかつて無い。大げさに言うならば、史上初である。
ただ、ダエヴァは並大抵の手合ではない事も事実だった。概ねオバケ屋敷はこの世ならざる者に対して強力に作用出来るのだが、一定の段階を超えて来るものにはその限りではない。
ダエヴァは矢張り強敵だった。方向感覚の阻害に対して徐々に慣れ、追跡対象の位置を明確に捉えるに要する為に、2時間は十分な猶予である。つまりダエヴァは、ハンター達への肉迫を開始したのだ。
郭の張った結界から、ジョンが文字通り獣の速度で飛び出してきた。ダエヴァは影身の体であるが、対象を死に至らせるその手段は、爪で八つ裂きにするという物理的なものである。つまり対象に最接近しなければならない。そうなれば接近戦闘を得手とし、かつ狼化しているジョンの身体能力が物を言う。ダエヴァの力と速度は脅威であったが、ジョンのそれも現時点では比肩していた。
床を這い回りつつ包囲を仕掛けるダエヴァに対し、ジョンは室内を縦横無尽に走り回り、追随を許さない。時折ハロゲンビームの照射を貰って身を起こしたものを狙い、拳銃弾を叩き込む。メリケンサックで切り裂く。そうして1体でも動きが衰えて床に引っ込めば、ジョンは圧倒的に不利であるはずの乱戦を五分に纏める事が出来る。加えてイゾッタからの援護射撃は丹念且つ執拗だった。向こうから襲い掛かってくる展開を予想しなかったダエヴァは、これにて一時であるが総崩れとなる。そう、一時だけは。
「アメフトで鍛えに鍛えた肉体美を御覧あれ! 今は狼毛で筋肉見え辛いですが」
と、威勢良く雄叫びを上げるジョンにしても、言う程に余裕があるとは見て取れない。さすがに6体を一手に引き受けるのはあまりにも難儀である。
(そろそろ手数も限界に近いかな)
ミニミを小刻みに連射しつつ、イゾッタは内心舌を打った。
こうして打って出るという手段を選択したのは、選択せざるを得なかったからだ。足止めをしては階上、ないしは階下に撤退するという展開を延々と続けた結果、ダエヴァに追いつかれる間隔は確実に狭まりつつあった。同じ空間で戦闘を交えるというのは、つまり自分達が追い込まれた事を意味している。ジョンが優勢に戦っているように見えるのも、ダエヴァにとっての最重要ターゲットが彼ではないからだ。本格的な排除を決断すれば、異なる展開になるに違いない。この場を逃げ果せても、次の足止めは苦しくなるだろう。
「小蓮、時間はあとどれくらい!?」
新しい弾帯を引き摺り出しながらイゾッタが怒鳴る。
「もう少し、あと15分です! 持ちますか!?」
時折衝突して来るダエヴァを退け続ける郭が、必死の形相で怒鳴り返した。
持つか、持たないかと言えば、それは微妙なところである。イゾッタの目の前で、遂にジョンが吹き飛ばされた。体当たりらしく、ジョンは怪我一つ負っていない。すぐさま跳ね起きて縦横無尽の挙動を再開する。とは言え、捉えられた事実は重い。しばらくもすればジョンの抹殺にかかるだろう。イゾッタの決断は早かった。
「ジョン、結界に戻って!」
叫んだイゾッタが符を床に叩き付ける。飛び込んで来たジョンと入れ違いに、わらわらと華人の人形達が出現した。庸御用達の変態アイテム、人海戦術の行使である。
ただでさえ騒々しかった戦の場が、アルヨ達の出現でもってアルヨアルヨの大騒動となった。これにはダエヴァも相当に面食らったらしい。人形の手足を首を盛大に切り飛ばしながら、その実は右往左往に蠢くのみである。一行は空隙を縫って階下への撤収に成功した。
ここは3階。複数設えた階段を上り下りし、これが4度目の3階である。もう踊り場での迎撃は出来ない。全員が郭の結界内に収まっていなければ、突破したダエヴァから身を守る術が無いからだ。
「博士、あいつらが来たらこれを使って下さい!」
イゾッタが一枚の札、使用者の人影を10体作り出せるタイプの欺瞞煙幕を博士に手渡し、腰溜めにミニミを構えて銃口を階段に向けた。博士は札を手に取り、しげしげと複雑な紋様が描かれているそれを眺めた。
「ふむ。幾何学的であるが、あまり見た事の無い紋様だな。札自体は切欠を引き起こす役回りに過ぎず、矢張りこの力そのものの出所はキューではなく、人間自身の」
「いや、知的興味とか今はどうでもいいっての!」
場違いな思考に耽溺する博士に対し、堪らず真赤が声を荒げた。かく言う彼も、得物のハルバードを携えている。博士の抹殺という最終目標を達成する為、ダエヴァは既にこの場の皆殺しを決定していた。追い詰められたが最期、戦いを避けるという選択肢は死を意味する。真赤は呼吸を整えて平静を取り戻す努力をし、ふと傍らの博士が札を紙飛行機にしてヒョイと放り投げる様を横目にした。
紙飛行機は階段付近まで飛んで床に落ち、其処から膨大な煙が吹き上がる。そして6つの影が、わらわらと煙の只中へ突っ込むのも同時。
ダエヴァは案の定、欺瞞煙幕の只中で出現した博士の影達を追い回し始めた。ハロゲンビームの照射。数体が身を起こす。狙撃が始まる。
「もう日の出は過ぎました」
腕時計をちらちらと伺い、結界への集中を維持したまま郭が言う。目の前で繰り広げられるダエヴァの混乱状態は、比較的速やかに終わりそうだった。博士の影が一つ二つとダエヴァの攻撃によって消え去り、身を起こした瞬間を狙われる状況を敵は熟知し、銃弾を高確率で避けられるようになっていた。そして煙が晴れれば、一気呵成で押し寄せる。
「良し、今よ」
言って、イゾッタは機関銃を引き起こし、封鎖された窓の一つを指し示した。郭が結界を解くと同時に、一行が其処を目掛けて走り出す。郭は呪い袋に念を込め、背中越しに放り投げてから窓に体当たりを敢行した。
欺瞞煙幕を破ったダエヴァ達は、光輪を背負った威厳の塊のような男に行く手を遮られ、またも大いにたじろいだ。魔術植物が作り出すその幻は、ゾロアスターの最高神であるアフラ・マズダを模している。善悪を超越し、全てに決裁を下す最大の存在。確かにそれは幻で、短時間で見破られもしよう。しかし一行が破格の身体能力で壁を伝い下り、地上へ到着するまでには十分な時間であった。
最後に地上へと降り立ったイゾッタが、日差しを強める早朝の太陽を背にして、声高に言い放った。
「バルス!」
平和、という意味らしい。
その掛け声と共に、ダエヴァとの危険な遅滞戦の舞台となったオバケ屋敷は、バタバタと畳まれるように姿が刈り取られ、遂には消失する。3階からいきなり地上へ放り出された形となったダエヴァ達は、サマエルによって強制的に課せられたヘンリー・ジョーンズの抹殺を、遂に達成する事が出来なくなった。燦燦と輝きを増す太陽が、遮蔽物に遮られる事も無く強い光を放射し、地上からせり上がり始めていたからだ。
ダエヴァは往時の力を失って久しい。本来は善と悪の「悪」、光と闇の「闇」という役回りを担う存在の彼らは、決して闇に蠢くだけのこの世ならざる者ではなかった。陽の光を浴びたぐらいで、どうとなる事もなかっただろう。だが、今は違う。
ダエヴァ達は消滅する直前、一瞬ではあったが本来の姿を一行に見せた。それらは異形の群れとしか言いようの無い代物だったが、ダエヴァ達の目と目には何処かしら安堵の色が伺えた。その姿が完全に無くなり、イゾッタが自然と掌を合わせる。
「誇り高い神々が、使い走りの道具にされる屈辱から、ようやく解放されたという訳ね。安らかに、違うステージへ辿り着ければ良いのだけど」
「でもアンラ・マンユは、かつての力を取り戻したみたいです。ゾロアスター、闇の最高峰。そんなのと相対しないと、聖遺物が手に入らないなんて…」
郭の言葉で、ダエヴァ戦の決着に没頭していた一行が、また異なる厄介な現実に立ち戻った。
ここではない何処かにある、現実ではない1862年のサンフランシスコ。その異界へ赴き、ノートン皇帝と共に街を歩き、アンラ・マンユに慈悲を示さねばならない。それが納得出来る行動と結果であれば、サミュエル・コルトの幽霊はロンギヌスの槍を渡すと言う。
「あれ、何だか面白そうですね」
郭は首を傾げて呟いた。好奇心が人の形をしているイゾッタは、興奮混じりに言ったものだ。
「1862年! 何て言うか、乗りとしてはBTTFのパート3みたいなもん?」
「確かに冒険らしい話にはなってきたな」
つかつかと一同の前に進み出、ジョーンズ博士は彼らに頭を下げた。
「先ずは礼を言わせて頂こう。君達のお陰で命を拾う事が出来た。イゾッタ君、ダエヴァを屋敷に閉じ込めて、畳んでから朝日に晒すというアイディアは、斬新かつ見事だったよ。さて諸君、私がこの街に来た役回りは、どうやらこれで終わりらしい。私の到来がノートン皇帝を呼び覚まし、ロンギヌスの槍へと至る異界への入り口を開いた訳だ。後は君達が車輪を回すのだ。恐らくコルトは、適格と看做さなければ槍を渡すつもりはない。彼の言う『慈悲』には、多分これといった答えが無いんだ。君達、1人1人が考えなければならない。そしてロンギヌスの槍を手にし、何を為すのかを思い描いてみ給え。さあ、何処か開いているカフェを探して、私の奢りでブレックファストと洒落込もうじゃないか」
博士は皆を促し、晴れやかな面持ちで朝の通りへと足を踏み出した。
<H1-6:終>
・郭小蓮(クオ・シャオリェン) : ガーディアン
PL名 : わんわん2号様
・真赤誓(ませき・せい) : ポイントゲッター
PL名 : ばど様
・イゾッタ・ラナ・デ・テルツィ : マフィア(ガレッサ・ファミリー)
PL名 : けいすけ様
・ジョン・スプリング : ポイントゲッター
PL名 : ウィン様
・ナタリア・クライニー : ポイントゲッター
PL名 : 白都様
ルシファ・ライジング H1-6【見つけにくいものですか?】