<思い出>
なにゆえか。
と、主は尋ねられた。
常人ならば命を2日と保てない磔刑を、男は七日七晩耐え抜いた。しかしとどめの槍を脇腹に貰って、男がようやく死に至る寸前、その言葉が彼の脳裏に閃いた。
汝が言葉、後の世にあまねく広められよう。しかし言葉は歪み、人心を分かち、騒乱の源になりもしよう。汝が心を、その行ないを、後の世は省みつつも目を背けるであろう。悲しみは星の数ほどに繰り返されよう。
男は主の言葉を聞きながら、両の目を己が真下に向けた。男に槍を刺し込んだ兵士の顔を見る。兵士はその顔を畏怖と後悔で強く歪めていたが、男の死に逝く様を見届ける覚悟は、しっかと感じられた。男は微笑んだ。
なにゆえか。
と、主は再び尋ねられた。
男は最後の力を振り絞り、顎を上向けて天を仰いだ。そして曰く。
偉大にして唯一無二の主は、存在してより初めての驚嘆を覚えた。男は主に、空前絶後の言葉を述べたのである。
<ジェイズ・ゲストハウス4F>
「…で、一体男の人は何と答えたのですか!?」
「いや、其処までは分からんのだよ」
ジョーンズ博士のあっさりした回答に、勢い込んで身を乗り出した郭小蓮は、実に中途半端な気持ちで着座し直した。
聖遺物、ロンギヌスの槍に纏わる話の途上で、博士はジーザス・クライストの最期を教会の講話のように語って聞かせていた。この話のさわりは前にも聞いていたが、博士は相変わらず見てきたような言い方だ。博士は澄ました顔で語りを続けた。
「しかしどのような会話が交わされたのかは実に興味深いな。何しろ強大極まりない『名も無き神』の、その認識を引っ繰り返す程の回答であった訳だ。想像するだけで心躍る話ではないかね。さて、ジーザスに死を与えたロンギヌスの槍だが、そのインパクトも相まって超常的な代物として認識される向きが強い」
「ヒトラーの妄想みたいに世界を制覇する力とか、安い小説みたく神殺しの槍とかですかー?」
「はっはっは。実際は『木で出来た棒』であるぞ」
「あははは」
カラカラと笑ってはみたものの、郭は何となく不安に駆られた。ただの木で出来た棒では天使や悪魔に対抗する事が出来ない。神にすら影響を及ぼす慈悲の力と博士は言っていたが、そもそもの情報元は博士の言葉にしかない。博士の確信の根拠は何処にあるのだろうと郭は思った。
風光明媚な西海岸の街、サンフランシスコにロンギヌスの槍が眠っているという情報が、バチカンからの使者、ジョーンズ博士とファレル助手からもたらされ、都合この街の厄介な怪異に対処するハンター達も、何人かが探索行に参加する運びとなった。情勢は極めて厳しく、各所での猫の手も借りたい状況に終わりは未だ見えていない。しかしながら、聖遺物の情報は閉塞を打開する起死回生策にも成り得るだろう。期待値が高いのは当然だ。問題は、それが何処にあるのかさっぱり分からない点に尽きるのだが。
ゲストハウス4Fは、サンフランシスコにおいて霊的に最も安全な場所である。郭が会議室使用料として$100をキューに支払い、前後左右東西南北がひたすら真っ白な空間でもって、博士と助手と郭、それに留学生の神余舞と対吸血鬼で動いていたジョン・スプリングは、茶と菓子で打ち合わせの場を設けていた。ジェイコブ・ニールセンが冷凍食品を出そうかと言ってきたが、言下の元に却下である。
「そもそも、何でロンギヌスの槍なんですか?」
と、郭小蓮。
「聖遺物は他にも伝えられていますよね。聖杯、聖櫃、トリノの聖骸布とか」
「実はトリノの聖骸布、ありゃ真っ赤な」
あまりにも際どいので、博士の言葉は中途省略。
「とまあ、真の聖遺物は数える程しか残っておらん。現在実在が確認されているのは、エリア51に秘匿されている聖櫃、ぺトラ遺跡の太陽神殿最深層に埋もれた聖杯、そしてサンフランシスコにおけるロンギヌスの槍、という訳だ」
「素朴な疑問なんですがー、確実に在り処が分かっている聖遺物を手に入れた方が早いのでは?」
「聖杯は、何者の手をもってしても入手出来ない深みに落ち込んでしまったよ。そして聖櫃だが、場所が確定していながら天使や悪魔が手を出さない事には理由があるのだ」
「何でです?」
「圧倒的に過ぎるのだ。あれはジーザスの遺骸を収めた、神力の塊みたいなもんだよ。閉じていれば普通の石棺だが、開けたが最期、その場の全員がのべつ幕無しに昇天する羽目となるだろう」
「まさか、開いたところを見たんですか?」
「見ていたら私はこの世にいない。目を閉じ、聖櫃に邪な野望を抱いていないと証明し、辛うじて見逃して貰えたのだ。それはさて置き、ロンギヌスの槍が最も『手に負えそうな』聖遺物であると、バチカンと私は判断したのだ。正直、槍の『慈悲』がどのような意味を持つのかは判然としない。ただ、メタトロンは想像を絶するであろうとは言っていたな」
「…メタトロン?」
「バチカンの側に付いた天使達の1人だ」
「…凄いなー。カトリックの総本山とか関係無しなんだー。ちなみにロンギヌスの槍として展示されている、ウィーンのホープブルグ宮殿のアレは」
「ああ。ありゃ真っ赤な」
中途省略。
それから博士は郭が提案した、かつてロンギヌスの槍に関わったとされる過去の人物達のピックアップを開始した。何しろ「サンフランシスコ」以外のヒントが全く存在しない状況である。僅かな手がかりでも見出せれば御の字だ。
1:ジョージ・パットン : 配下の米軍兵士が発見。パットン将軍に手渡した30分後にヒトラーが自殺。
「…胡散臭いにも程があるな」
「胡散臭い事件に関わっている博士の台詞とは思えんですー」
2:アドルフ・ヒトラー : Uボートで南極に持ち出した。
「むしろ、これを思いついたのが何者かに強い興味がある」
「Uボートって万能潜水艦なんですね」
3:エイブラハム・ヘルシング : サンフランシスコ公共図書館に、彼の知識が封じられていた書物があった。
「差し当たって、ヘルシング卿とロンギヌスの槍の関連性は薄かろう。そも彼は欧州で戦死したのだから。しかし、思考の仕方としては面白いヒントになるな」
4:デブラ・シャロン : SNDB管理者
『え、私ですか!?』
「槍の在り処を知っていたら、包み隠さず言いなさい、デブラ君」
「言いなさいです」
『そんな無茶な』
「ま、シャロン女史は行方を知る由も無かろうが、私としては3番目の考え方に注目したい。ロンギヌスの槍が意図的にサンフランシスコに持ち込まれたのだとしたら、これまでの怪異と含めれば関連する人物も絞り込まれるはずだ。この地で起こり得る怪異への対処を講じた何者か。その者の足跡を調べる必要があるだろう」
神余舞は無駄口を叩かない。と言うより、そもそもこの場に居るのは聖遺物探索の為でもなかった。彼女なりの別の目的の為に、知識ある人々の助言を仰ごうと考えているだけだ。故に、軽妙と深刻を繰り返しながら進められる聖遺物論議から一歩身を引き、神余はノートPCのキーボードをひたすら叩き続けていた。
が、博士の言を耳にし、彼女はブラインドタッチの手を止めた。もしもこの街の状況を、遥か以前に予測出来た者が居たとしたら、それはハンター達の誰もが知っている、あの男を置いて他には居ない。
「キューさん」
不意に面を上げ、神余が言った。
「サミュエル・コルト。彼が所持していた可能性は如何?」
あ、と郭が声を上げた。サミュエル・コルトは、ハンター世界では魔人の二つ名で通る有名人である。サンフランシスコの怪異に対してゲストハウスを準備する周到な男ならば、聖遺物について知っている可能性は十分鑑みる事が出来る。
しかし神余の呼び掛けに応じたキューの答えは、何も其処までのアッサリ風味であった。
『いや、そういう物は持っていませんでしたね』
「超アッサリ」
『彼は放浪を続けていた吾に言いました。居場所を築き、祈りの力を供する仕掛けを吾の為に施す。その見返りとして、災厄に抗う者達の助けとなって欲しい、と。それ以外は特に何も言いませんでしたね。吾も聞こうとは思いませんでしたが。コルトは無駄口を叩かない男でしたよ。丁度君みたいに』
「Thanks」
『ともあれ、吾が新設されたゲストハウスに居ついて以降、彼とは袂を分かちました。彼には他にすべき事があるようでしたし、吾も慈善活動に勤しむ日々が始まりましたから』
「ただし金をふんだくる」
「他に何か思い当たる事は?」
成り行きを聞いていたジョンが、困り顔で口を開いた。
「ゲストハウス成立の前後に、何らかの異変は無かったのでしょうか?」
『ああ、そう言えば。君の言葉で思い出しました。そう、この街は1859年から1880年まで、驚くほどに異変が「ありませんでした」』
その言葉を聞き、一同は狐に摘まれた面持ちで互いの顔を見合わせた。おずおずと、ジョンがキューに言う。
「異変が無かった、というのが異変であったと?」
『言い換えますと、霊的に非常に安定していたというところですね。外の状況には然程興味もありませんでしたが、その21年間に関して言えば、この街は実に和やかだったのです。霊的な意味で。あ、もう一つ。基本的に他者との接触を必要最低限に留めていたコルトが、一度だけ自ら人を訪ねていましたね。破産した知人に会いに行く、とか。はて、何と言う名前であったか…』
それから、キューの意識の流れがプッツリと途絶えた。珍しく真剣に記憶を掘り起こしているらしい。
話の内容そのものは、どうでもいい事にしか聞こえない。しかしキューが真面目に考え込むというただ一点を根拠として、その話は重大な意味を持つのかもしれなかった。
「この世界は意外に霊的な存在の躍動が激しい」
お茶より酒と、博士はウィスキーのボトルを傾け、グラスに琥珀色をワンショット注いだ。
「キューの言う年代は、彼がゲストハウスの主に就いてから然程年月が過ぎておらん。彼が安定をもたらした、というのでもなさそうだな。キューの口振りからすれば。ふむ」
ウィスキーを飲みながら首を傾げる博士に対し、ジョン・スプリングが肩を竦めて言った。
「キューの話と聖遺物探索に関連があるのかは分かりませんが、話を詰めるにしても少々毛色を変えた方が宜しいんじゃないですかね?」
「ほう。と言うと?」
「取り敢えず、街を歩いてみましょう。どのみち目的地すら絞り込めないんですから、歩きながら話して気分を入れ替えるのも悪くないと思いますがね」
「成る程、それはいい提案だ」
「ちょ、ちょっと」
郭が慌て気味に間へ入った。
「博士、御自分の立場とか分かってます? 不用意に出歩けば、悪魔のターゲットになりかねないんですよ?」
「ま、私が護衛をやるんですから大丈夫ですよ、多分」
「多分て」
「ジョン君はハンターとして頼れると私も思うよ。彼は優秀な点取り屋だ。それに助手のファレル君も、戦いに関しては相当であるしな」
博士の後ろで佇んでいたファレル助手が、日焼けした精悍な顔を崩し、挨拶がてら膝を曲げる。郭は困り顔で頭をぽりぽりと掻いていたが、結局は折れる事にした。当然ながら、自分もついて行くつもりである。護り屋としてはハンターの中でも、それなりの位置に居るという自負が郭にはあった。
それでは、と一同が腰を上げようとした時、神余が黙って片手を挙げた。少々お待ちを、と神余。
「…こうして知識人が集結しているのは、とても良い機会。見て頂きたい物がある」
言って、神余はノートの液晶画面を一同に向けた。画像には得体の知れない、紋様とも文字とも取れる形状が映し出されている。
「何かね、これは」
博士が背を折り曲げて画面を凝視し、神余が問いに応える。
「これはラスティ・クィーンツさんが提供した画像。カスパール一党の本拠地、真下界、パレスの地下にある謎の石柱を撮影した物」
おお、と博士が感嘆の声を上げた。その被写体は極めて貴重な代物である。何しろ並大抵の手段では接近すら許されない『パレス』の、謎の真髄とでも言うべき地下空間のモニュメントである。後ろの方で、ファレル助手が「始まったよ…」と溜息交じりに呟いた。どうやら博士は、かような謎に満ちた物品には目がないらしい。
「ふむ、ラスティ君は良い機転を利かせたな。文字である事は間違いないが、人間が呪的な儀式を執行する際に用いるものでもないな。思いつく限り、私の知っている言葉に該当するものが無い。これは恐らく、人間が使う文字ではないな」
「ラスティさんのインプレッションも同じ。出来れば複数の人に鑑定をお願いしたい」
「良かろう。シャロン女史に回すのは鉄板だな」
結局その画像は、デブラ・シャロン、キュー、そして神余の希望で吸血鬼研究家のカーラ・ベイカーにも送信され、確認を請う運びとなった。件の石柱は、吸血鬼サイドからも目撃の情報が得られている。敵性吸血鬼の住まう古城の地下に、そのようなものがあったとの事だった。パレスと古城では明らかに場所は違えど、何しろ空間そのものが捻じ曲がった真下界である。同じ代物である可能性は高いと見ていい。
いよいよ出発と相成り、ゲストハウス4Fから1人、また1人と一行は姿を消し、最後に郭小蓮がその場に残った。帰ろう、と思えば何時でも出られるゲストハウス4Fであるから、つまり郭には用件があるのだ。それに気づき、キューが『ん?』と声を漏らした。首を傾げる雰囲気も、姿が見えずとも郭には理解出来る。
『どうしました、お嬢さん。吾に何用かおありかな?』
「…実はそれ程重要な事でもないのかもしれません。だって、キューさんは何処までもキューさんなんですから。それでも、名前はたった一つである事に尊さがあるような気がします。今からキューさんの、本当の名前を当てて見せますね」
そして郭は、その名をキューに告げた。
キューはしばらく黙ってから、フ、と空気の抜けるような笑い声を空間に響かせた。笑い声には、少々照れ臭そうな気配がある。
『御名答。座布団一枚』
<サンフランシスコ・そぞろ歩き>
そして郭小蓮はキューから座布団をもらった。
「うう。馬鹿でかくて邪魔ですー」
彼女の上半身を覆い尽くす勢いの座布団を折り畳み、小脇に抱えて散策に同行していた。ゲストハウスに置いておけばいいじゃない、という向きもあろうが、彼女の自宅はチャイナタウンにある。ちなみに座布団には、キューらしい呪的な仕掛けが施してある。何時間正座しても足が痺れず、かつ二つ折りにして枕代わりにすれば速やかな安眠が得られるとの事だ。四苦八苦する彼女の様を面白そうに眺めながら、博士が曰く。
「あの神さんは、基本的に善意が行動の基準なのだろうな。ただ、その善意をストレートに表現する才能が無いだけだ。君が彼の名を当てた事は、ちょっとばかり嬉しい出来事であったのだろう」
「それにしたってリアクションが自由に過ぎます。何て言うか、QUEだけにQue sera sera…うわっ!?」
座布団が分裂して二枚になった。山田君、座布団もう一枚というところか。
そろそろ陽が沈みそうなユニオンスクエアの通りを、一行はただただ歩いていた。目的は、特に無い。景色を楽しみつつ、しゃべりながら散歩を楽しむだけの道行である。しかしながら想定していなかった気付きというものは、こういう時にこそ湧き出るものだ。
「異常無し、と」
「同じく」
そんな中でも、ジョンと神余はEMF探知機のチェックを怠っていなかった。この世ならざる者達の暗躍が、徐々に表社会へと露見しつつある昨今であるにも関わらず、一見の平穏は相変わらず保たれたままだ。稀に神余のデータグラスは固有電磁場の識別表示を拾う事もあったが、それはノブレムの安全な月給取りであった。妙だな、とジョンは思った。
「平穏に過ぎるってのも、考え物だとは思いますね。まるで短距離走のスタート1分前という雰囲気ですよ」
「嵐の前の静けさかもしれん」
博士が応える。
「これまでは準備の期間だったのだろう。早晩事は、風光明媚なユニオンスクエアをも巻き込むさ」
「ハンターってのは、そうした騒動を未然に防ぐのが戦いの常套なんですがね。敵に良いように動かれたのは痛恨の極みではありますね」
「既に戦端は開かれています。真祖一党然り、下界戦争然り」
下界での戦いに身を投じる仲間を思い、郭は小さな体を震わせた。彼女の頭に、博士がポンと手を乗せる。
「何、悪いようにはならん。確かに敵は強大だが、君の仲間達とて十分強い。さて、いい加減『向こう側』にも食いついてもらいたいもんだが、中々思うようにはいかんな、ジョン君?」
にやりと笑って話を振ってきた博士に向け、ジョンはひどく嬉しそうに口の端を曲げた。
「奇遇ですね、同じ気持ちですよ。まどろっこしいのは苦手だ。何しろ博士は、この街の特異点的な存在です。あの賢しい連中が無反応であるはずがない。どんな手を差し向けてくるか、スプリングとしても興味があります」
「君は自称する際にスプリングと言うのか。まるでYAZAWAかオードリーの片割れだな。奴らがおいそれと尻尾を出さない理由は、まあ分からんでもない」
「どういう意味です?」
「それは後々の楽しみに取っておこう。ちゃんと話さねばならん時が来るさ」
「ところで、聖遺物についてですけれど」
郭が博士を見上げて曰く。
「現存する聖遺物は3つ程と先に聞きましたがー、そもそもバチカンには聖遺物は無かったのですか? 何か、世間で言われている話とは全然違うんですけどー」
「ある、という事にしておいた方が、やっぱり箔がつくからな」
博士は際どい事を言った。
「いや冗談だが、実際のところあれは贋物があまりにも多くてな…。かつては本物も多々あったはずなのだが、散逸を重ねて粗方土くれに返って行ったのだろう。実はバチカンの聖遺物とされる物品も、天使達に鑑定して貰ったのだよ」
「結果は」
「×。聖職者達が一斉に落胆する様は、スペクタクルの極みであったな。ま、バチカンそのものが強力な聖域である事は間違いない」
「世界中の信者達が、そう認識しているからでしょうか?」
「左様。思いというのは事ほどかように強い。その思いがルシファといった連中を強力にしているのは、実に皮肉な話だ。世界は規定路線を歩みつつ、何れ破滅へと向かう。そのように漠然と考えているのも、また人であるのだろう。もしかするとルシファや上級天使達は、それに従って行動しているだけなのかもしれん」
「運命必然論ですね…。でも、サマエルやカスパールは、それに抗おうとしているのでしょうか。黙示録遵守の否定、運命論から外れた独自の楽園創生」
「どっぷりと『名も無き神』の影響下にありながら、よくも頑張っているとは思うよ。問題は、奴らに共生の概念が欠如している事だ。奴らは運命から離脱し、新たな運命を自ら作り出そうというのだよ」
「クソッタレですね」
「クソッタレだ。私達は自ら責任を負って、自らの運命を切り開く生物なのだ。その先にある結果が如何様になろうとも。だから、恐らくジーザスは」
「はい、お話は其処まで」
神余がピタリと歩みを止め、片手を挙げて皆々を制した。ジョンも同じく、周囲に注意深く目をやっていた。既に両手にメリケンサックを装着している。
「残念。10フィート棒よりもEMF探知機が先に反応しましたか。気をつけて。いきなりでかいのが来ましたよ。マイ君、識別はどうです?」
「不明」
と答えた途端、神余はデータグラスを引き千切らんばかりに外した。淡々としていた彼女の顔が、驚愕で歪み切っている。
「性能の限界を越えた!?」
「こっちもです。くそ、探知機が壊れちまいましたよ。直すのだってタダじゃないのに」
博士を中心に円陣を組み、ファレル助手を含めたハンター達は歩道の真ん中で臨戦態勢を取った。
既に敵は間近に居る。郭は一つの思い付きを得て、戦慄のあまり血の気が引いた。彼女は吸血鬼の真祖という、それまでで最大の脅威と呼べる存在と接触している。しかし、真祖を前にしてもEMF探知機が機能不全に陥るまでには至らなかった。率直に言って、接近を図っている敵は真祖以上の代物である。思いつく限り、そんなものはこの街に一つしか居ない。
「サマエル」
時間が極度に進み、周囲は夜の帳に包まれた。同時に通行人が早回しのように現れては消え、ビデオのポーズの如くその動きが止まる。そして一行以外の目視出来る全ての人間が、一斉に視線をこちらに向けた。
『招かれざる者よ』
市民達の声が、唱和した。
よくカスパールが用いてくる、対象外の人間の一切が消え去る異界出現を、彼は「ずらす」と表現している。しかしながら、今や一行が只中に置かれた状況は所謂「ずれた世界」ではない。
実際に時間が進められ、周囲の人間達も幻の類ではなかった。彼らは一瞬にしてサマエルの支配に囚われ、その目と口を彼の為に供している。それだけでも破格の異能と言えたが、実のところ、更に恐ろしい事実をハンター達は思い知らされる事になる。
「サマエルが復活したという情報は?」
「無い」
周囲を間断なく警戒しつつ、ジョンと神余が言葉をやり取りする。郭は小刻みに震える手で符を握り締め、結界の準備を開始した。守護の力が何処まで通じるかは分からない。何しろこれだけの状況を顕現させながら、相手は復活すら遂げていない底無しなのだ。
『去りなさい、騒乱の源よ』
また大量の声が唱和した。
『このまま黙って背を向ければ、慈悲の心で見逃しましょう。居座り続けるならば排除します』
ジョンと神余、そして郭は、彼等が守る対象であるジョーンズ博士を顧みた。サマエルの言葉は、間違いなく彼に向けられている。恐らくサマエルは、この集まりが聖遺物の探索を目的としている事を、既に把握しているはずだ。しかしサマエルの言い様は、聖遺物云々よりも博士の存在自体をひどく嫌っている気配がある。受けて博士はフェドーラ帽を被り直し、暢気な声で応えた。
「何、探し物を見つけて事を済ませれば、また探検にでも出掛けるさ。もう少し待って貰えないかね?」
『聖遺物などは、ありません』
「何故そう言い切れる?」
『私が感知出来ないからです。この街に私が知らないものは無い』
「ふむ、おかしいな。バチカンに就いた天使達は確信していたのだがね。思うに彼らは、『彼』を畏れつつも敬愛しているからなのだろうな。対してお前は、『彼』に恐怖するばかりだ。よって千里眼に陰りが出来た。そんなところだろう」
『私はあの男を恐れてなどいません』
「みんなそう言うよ、お前達は。駄々っ子のルシファも多分そうさ。しかしだね、こうして罪も無い市民達の意識を乗っ取って、安全な場所から警告を発するだけのやり方が雄弁に事実を物語っている。お前達は『彼』を『あの男』呼ばわりするよな。その名を脅威に感じ、口に出すのも憚られるからだ。そんなに怖いのか、ジーザス・クライストが」
『黙りなさい』
「何が怖いんだ? ジーザス自身は遥か昔に逝去されているというのに。勢い余って、私にすら恐れを抱くとはな。ジーザスが愛用していた杯で水を一杯飲んだだけの、たかが私という存在を」
固まっていた空気が再び動く。棒立ちのまま一行を睨んでいた市民達が、動き出した時間と共に躊躇無く歩みの流れを作り始める。結局サマエルは一行に何らの干渉も加えず、黙って立ち去って行ったのだ。一様に膝の脱力を必死に堪えるハンター達を傍目に、博士は肩を竦めて言った。
「貴重な機会であったのだが、残念だ。もう少し話をしてみたかったよ」
「…博士は、聖杯で水を飲まれていたのですか」
ほとんど息も絶え絶えながら、郭は驚愕を伴って博士に言った。博士は苦笑しつつ頷いた。
「ああ。全くの成り行きではあったが。実は、私の年齢は今年で110歳になる」
「嘘」
「本当。寿命が尽きるのは、まだ随分先のはずだ。聖杯の水を飲んで得たのは長命と、若干のジーザスの思い出くらいなのだがね」
「だからか」
神余が納得した顔になる。
「だから、ジーザスに纏わる話に奇妙な臨場感があった」
「あれは彼の目線の話だ。次いで言えば聖杯というのは、彼が自分で作った木製の質素なカップであったよ。彼はあのカップで水か、時には果実酒を人から施してもらい、その旨さを堪能して礼を述べるというやり取りに幸福を感じていたようだ」
「博士の心の中にある思い出に、サマエルは恐怖を覚えた訳ですか。それでは、博士はジーザス同様、何らかの力が授けられているのでしょうか?」
ジョンの問いを、博士は明確に首を横に振った。
「長命と思い出以外、特別なものは何も無いな。授かり物の奇蹟を顕現させなかったジーザスの影響かもしれない。自在に使えるものを一切使わずに終えるというのは、矢張り驚異的な事だよ。特に名も無き神を絶対的な存在としている、天使や悪魔達に取っては」
「博士、長話も結構ですが」
ファレル助手が割って入って来た。その表情は、博士程に余裕は無い。確かにサマエルは立ち去ったが、彼の緊張は未だ持続されたままと見える。
「そろそろ戻りましょう。奴は『排除する』と言った。言った事は必ず実行するのが連中です。多分、何かを差し向けてきます」
「小間使いの下っ端悪魔をかね?」
「茶化さないように。悪魔如きは博士に近寄りすらしませんよ。恐らくジーザスを畏れる頭が無い、キリスト教的世界観から外れた怪物か何か」
其処まで言って、ファレル助手は鼻をヒクつかせた。そのリアクションの意味をハンター達は察し、反射的にEMF探知機を確認する。が、先のサマエルとの遭遇で、機能不全に陥っている。見えないものを見る目が損なわれてしまった。
「来たか」
博士は不敵な笑みを浮かべた。
「あの腰抜けめ。ナチスの方が、まだ肝が据わっている」
「そんな事を言って、長命と思い出以外は博士だって普通の人でしょうに。大体、気に入らない相手に喧嘩腰で応じるのは博士の悪い癖ですよ」
ともあれ一行は、そそくさとユニオンスクエアを立ち去った。
そしてファレル助手が言うように、『何か』は着実に追跡を開始していた。それは極めて危険な、サマエルの拒否反応を如実に示す代物であった。
<影と狼、そして幽霊>
ダエヴァ、という悪神が居る。
ユダヤ教にも少なからずの影響がある、善悪二元論のゾロアスター教の、所謂「悪」の方だ。善と悪、若干善が優位であるものの、双方の均衡によって世界の運営が進行するという思想に基づいた存在であり、つまりダエヴァは人が普遍的に想像する悪の姿とは異なるものだ。それが今や、圧倒的多数を誇る某宗教派閥的世界観によって、ダエヴァは悪魔の一種という烙印を押されてしまった。
ダエヴァの召喚には、本来正当な儀式を経なければならない。人間が執行するのは不可能な儀式で、ごく稀に強力な悪魔が命の危険を伴いつつ執り行う事があった。つまりまかり間違えれば、悪魔でも簡単に制御が効かなくなる程に、ダエヴァは強力な存在なのだ。
しかし、サマエルはお構いなしだった。儀式を飛ばしリスクなど鼻で笑い、まるで鬱憤を晴らすかのように、ダエヴァを顎で使って来た。
ダエヴァは実体が無いにも関わらず、その影を目視する事が出来る。その数は7体。ジョンの動体視力が、全力疾走しながらもその数を認識する。そう、最早一行は、全力で逃走しなければならなくなる程に追い込まれていた。通り過ぎる人々が怪訝な目を向けて来るも、そんなものを気にしている暇は無い。何故なら、死んでしまうからだ。
「ダエヴァ、ダエヴァ、ダエヴァ」
文系ながら「逃げ屋」らしい逃走速度で、神余は呟きつつ知識の中からダエヴァとの数少ない遭遇例を検索した。
ダエヴァは影のみの姿で押し寄せる。悪神とは言え神と呼ばれていた頃の異能の類は一切使えなくなっているものの、その力は人間をズタボロに引き裂く程度は容易い事だ。対処策は2つ。強力な光源を直接照射すれば一時退避する。ただし街灯程度の輝度ではどうにもならず、少なくともハロゲンビームくらいの強さが必要だ。しかも一時の対処でしかなく、狙いを定めた対象物をダエヴァは地の果てまで追跡するので、根本的な解決には至らない。
もう一つは儀式に用いた祭壇を破壊する事だ。これによってダエヴァはコントロールを失い、追跡から逃れる事が出来る。ただ、ダエヴァを使ってきたのはサマエルであり、恐らく儀式など用いず力でダエヴァを捩じ伏せている。
つまり一旦狙われてしまった一行には、戦って討ち滅ぼす以外に選択肢が無いのだが、過去にそのような例は存在していない。神余は検索を止め、深く溜息をついた。
「駄目。ジェイズに篭るしかない。自分一人なら撒けたかもしれないけど。スプリングさん、タクシーを呼んで」
「無茶言わんで下さい。立ち止まって手を上げて、乗り込む前にボロ雑巾ですよ」
走るには大層邪魔そうな10フィート棒を握り締めつつ、ジョンが声を張り上げて言い返した。老境ながら走る速度はハンターにも劣らない博士が、不思議そうに彼を見遣った。
「敢えて今まで突っ込みはしなかったが、何の棒なのかね、それは」
「ああ、この棒は」
※注
アクトに書かれていた10フィート棒につきまして、当方は「ダウジングに使うL字ロッドみたいなものか」と、素で勘違いしておりました。
正しくは、棒で歩く先を突付いて罠を回避する為のアイテムだった訳です。たまたま検索して初めて知りました。しかしそのような認識の下で判定をしてしまいましたので、何食わぬ顔で進行致します。
「ダウジングに使うL字ロッドみたいなものですよ」
「そうなのか」
「郭小蓮、1分ほど結界で時間を稼ぐ事が出来るかい?」
と、ファレル助手が郭に深刻な声で問う。郭は一瞬言葉に詰まったものの、力強く頷いた。
「出来ます。やれます! 何か策があるのですか!?」
「ちょっとばかり無茶をしてみる」
助手が何を試みようとしているのかは分からなかったが、彼の瞳は自信に満ちている。その目を郭は信じ、符を懐から取り出して地面に叩き付けた。その範囲内で彼らは一斉に制動し、待機してダエヴァの出方を注視した。ダエヴァが一行を包囲しているのは間違い無い。しかしその影は建物の狭間に潜んでいるらしく、肉眼で姿を見る事は出来ない。襲撃に備えて郭は精神を研ぎ澄ませた。今の郭は、ソロモンの環を複数繰り出せる護りの上級者であったが、これを出した途端に結界は霧消する。今は仲間を信じて護りに徹する以外に無い。
「ちっ。銀の銃弾も、実体が無ければ当てようがありませんよ」
懐の拳銃に手を伸ばすも、ジョンは舌を打つしかなかった。その途端、無形の壁に衝撃波が激突した。振動が結界に篭る一行にも伝播する。郭は苦しそうに顔を歪めるも、初回の激突を防ぐ事が出来た。しかしこれが7体全てから繰り出されれば、どうなるかは分からない。
頼みの綱は、策があると言ったファレル助手だが、彼は座り込んでパイプに火を入れ、閉目して煙を吹かしている。それが儀礼用のパイプであるのは分かるのだが、切迫する状況に比して牧歌的過ぎる点は否めない。本当に大丈夫なのかこの人、との疑問がハンター達の脳裏を掠める。そして博士が自信満々に告げたフォローは、彼らの戸惑いに拍車をかける代物だった。
「君達には、一時的に『狼憑き』になってもらう」
「何ですかそれは」
「ほら、有名な『狼男』の原型だよ」
ジョンと神余が呆気に取られる。郭も大概驚いていたが、防御に手一杯でリアクションの仕様が無い。その間にもダエヴァは徐々に間隔を狭めて衝突を繰り返してくる。博士は構わず話を続けた。
「そもそも正統アメリカ人にとって、狼は好敵手であり、敬意を表する対象でもある。メディスンマンの中には狼のマニトウと交信する力を持つ者も居るが、ファレル君もまたその1人なのだ。気高い狼の力を体に呼び込む。もしも不浄の性根があれば、決して降りてきてはくれん。悪魔の手が加わっている狼男とは、意味合いが全く異なるもので…」
博士が講釈する間にも、彼の体に少しずつ変化が現れ始めていた。腕から薄茶色の獣毛が浮き上がり、鼻先と口が心持ち前面に迫り出しつつある。ジョンと神余は、慌てて自分自身を確認し、絶句した。郭はと言えば、半泣きの顔であった。さもありなんである。
「この体になれば、ダエヴァに勝てるというのですか!?」
ジョンが博士に問う。
「いや、逃げるのだよ」
「何だ、逃げるんですか」
「物凄く速く走れるようになるぞ」
確かに純粋な自己防衛であれば、マニトウとやらも確実に降りてくれるだろう。ジョンは些か拍子抜けしつつ、ふと10フィート棒がカタカタと揺れている事に気がついた。ダウジングのL字ロッド的なものが、何かに反応を示している。ダエヴァ以外の、別の何かに。
「駄目です。次の衝突で結界が壊れます!」
郭は警告と同時に、次の準備に掛かる腹を括った。結界の突破直後にソロモンの環を繰り出せば、最低三体は足止めが出来る。ただ、ふさふさした毛に包まれた指先の爪が有り得ない程に変形し、何気に出し入れ可能になっている点が大変気掛かりではあったが。
一行の体は、人狼のようなそれへと完全に移行していた。皮膚を毛皮が包み、牙が迫り出し、その姿は怪物以外の言葉がはてはまらない。しかし人の意識を完全に保っている点で、所謂狼男とは存在意義が全く異なっている。跳ね上がった身体能力を自覚し、いよいよ彼らは遁走のスタートを切らんと前屈みになった。しかし、その現象は横合いから、唐突な形で現れた。
強い光が間近で一瞬明滅する。包囲を狭めていたダエヴァ達は、地表の影からムクリと身を起こしたように見え、すぐさま掻き消すように退散した。
最高の瞬発力を発揮しようと身構えていた狼憑き達は、危うく前のめりの格好で倒れそうになった。周りを取り囲んでいた圧迫感は既に無い。
「何だ? 何が起こった?」
さすがに博士も目を白黒させて、しかし通りのすぐ脇を歩く半透明の人間に目を留めた。
率直に言って、それは幽霊だった。金モールの付いた青い軍服、大仰なシルクハットを被った小太りの男が、二匹の雑種犬を連れて飄々と闊歩している。ふと軍服男は立ち止まって、掌をじっと眺めた。
『ふむ。ステッキが無いと、どうにも歩き辛い』
後を付いていた二匹の犬が、狼憑きの一行の姿を認め、尻尾を振って近付いてくる。
『これ、犬が苦手な市民も居るのだから自重しなさい。こんばんは、諸君。今日も良い夜である』
軍服男はシルクハットを取り、軽く振って挨拶を寄越してきた。そして犬達と共に再び歩み始める。そしてその姿は、夜闇に溶け込んで消えた。
「…誰?」
「さあ?」
「しかし、これはチャンス。早くタクシーを呼んでジェイズにトンズラ」
「ファレルさん、もう元に戻して貰っても大丈夫ですよー」
そう促されたものの、ファレル助手は困ったような表情を浮かべ、鼻筋をポリポリと掻いた。
「実はこれ、丸1日くらい抜けないんだよね」
それからの悪戦苦闘は言葉にする必要が無い。何しろ狼男と狼女が、人目につかぬようにサンフランシスコを走り回る羽目に陥ったのだ。
問題はゲストハウスの主が素直に中へ入れてくれるか否かであったが、その心配も必要無かった。理由はシンプルだ。
『面白そうだから』、である。
<ジェイズ・ゲストハウス>
ハンターと博士はダエヴァの対処法調査をシャロン女史に依頼し、ようやく彼らは酒場でひと心地つく事が出来た。酒とソフトドリンクで軽く乾杯をする傍ら、ファレル助手が3人分の小さなパイプと煙草の葉をテーブルに並べている。
「これを持っておくといい」
ファレル助手は言った。
「恐らくダエヴァとやらの狙いは博士1人だから、私達と同行しない限り、君達が襲われる事はないだろう。しかし念の為、簡易的に狼憑きの儀式を執行出来るパイプを渡しておこう。ただし使えるのは1回のみ、しかも丸1日効果が持続するから注意するんだ。尤も、今後も私達に付き合うならば、必要ない物品だと思うが」
この時間は、狩りや調査を終えてきたハンター達がそれなりにたむろする時間帯である。かようなやり取りをする一行を、ハンター達は複雑な面持ちで眺めていた。彼等が入ってきた時は、危うく臨戦状態に陥りかけたものだ。即座にキューの介入で事なきを得たものの、自分達の間近で人狼が話し合いに耽る様は見ていて据わりが悪い。そんな微妙な空気をお構いなしに、博士は爪先で器用にグラスを傾けた。
「加えて、ダエヴァが出現するのは必ず夜だ。それは踏まえておき給え。これからも我々の調査活動は、主として夜間に行われる事となる」
「何故、敢えて夜間に」
「あの幽霊が気になる。正体は分からんが、結果的に彼は絶妙のタイミングで私達を救ってくれた。善き幽霊、という訳だ。聖遺物を探索する者と、それを阻止する思惑の者との対峙に介入してきたのは、偶然とは思えないな。今一度彼に会う必要があると思う」
「聖遺物探索の突破口?」
「そう願いたいね」
と、博士の携帯にシャロン女史からのコールが入った。しかしそれは、ダエヴァについての回答ではない。博士は携帯電話を神余に渡し、話をするよう促した。内容が他の者にも聞こえるようスピーカを操作し、神余が電話に出る。
『依頼を受けていた、件の言語の事だけど。申し訳ない、私自身は全く糸口が掴めなかったわ』
「そう、残念」
『と、結論付けるのはまだ早いわ。私とキュー氏には理解出来ない代物だったけど、カーラ・ベイカー先生は心当たりがあると言っていたわ』
「本当?」
『古吸血鬼語と同系列、だそうよ。しかしその差は、例えれば英語とアラビア文字ほどに開いていて、解読不能との事だったわ。それでも、その文字の正体をベイカー先生は或る程度推測されているわ。これは先生の造語だけど、煉獄文字』
「まさか、こことは違う世界の文字、という事?」
『道理で私やキュー氏では理解出来ない訳だわ。私達はこの世界の住人なのだから。だから、もしも煉獄文字を解読出来る可能性があるとしたら、分かる範囲で3人ね』
「誰?」
『吸血鬼の真祖・ルスケスと、それに大きく関係する魔王サマエル。直属の部下であるカスパール』
神余は丁重に礼を述べ、電話を切って溜息をついた。さすがに彼らに直接質問する事など出来はしない。詰まったな、と神余は思った。
しかしその後、煉獄文字に関しては別方面から大きな進展を迎える事になる。それは石柱を目撃したノブレムの吸血鬼、ロティエル・ジェヴァンニによってハンター達にも情報がもたらされるだろう。
「さて、明日から仕切り直しだ。君達のおかげで、色々と糸口になるものが見えてきた。私と助手だけでは、こうはいかなかっただろう。矢張り餅は餅屋だ。礼を言うよ」
博士はハンター達に頭を下げ、指を鳴らしながら誰も使ったことの無いグランドピアノのチェアに腰を下ろした。
「何だ、ジェイ、調律師も呼んでいないのか」
「ハンターにピアノの調律が出来る者は早々居ませんよ」
博士とジェイのやり取りを聞き、郭が目を丸くして起立する。
「博士、ピアノも弾けるのですか?」
「サックスとピアノは、トップアマチュアレベルの自負があるよ。君、確か最近ピアノを習い始めたのだったな? 楽器を嗜むのはとても良い事だ。よければ弾き方のレクチャをしてあげよう」
郭は博士の厚意に甘える事にした。勧められたチェアに座り、博士を見上げて曰く。
「何でも出来るんですね、博士は」
「いや、長生きして経験を積んだだけだ。人間には手の届く範囲が決められている。だから何かを成し遂げるには、手を繋ぎ合って出来る範囲を広げねばならない。人間は、それがいいんだ」
博士は片目を瞑って、軽やかに鍵を叩いた。
<H1-5:終>
・神余舞 : スカウター
PL名 : 時宮礼様
・郭小蓮(クオ・シャオリェン) : ガーディアン
PL名 : わんわん2号様
・ジョン・スプリング : ポイントゲッター
PL名 : ウィン様
ルシファ・ライジング H1-5【雲を掴むよう、とはこの事】