<2010年のエクソダス>

 1963年、ワシントンのグレート・マーチを思い出そう。キング牧師が参加し、公民権運動の高まりの象徴として行なわれた大行進は、20万人を動員した。

 1969年、ウッドストック・フェスティバルを思い出そう。今も語り草となっている伝説の野外フェスは、40万人を集めている。

 そして2010年。サンフランシスコの閉鎖された領域は、80万の人口を擁していたのだ。

 

 日本的表現を使うならば、それは「この世」から「あの世」への大移動である。

 サンフランシスコ全体の平時人口は80万強であり、そこに観光で訪れた旅行者が加わる。サマエルによる外界からの隔離はサンフランシスコ全域を網羅した訳ではないが、やはり北東区域には80万に匹敵する人口が押し込められているだろう、というのが市当局の見解である。だろう、という表現は曖昧だが、現実問題として正確な人口統計を行なえるだけの人員と時間は、今のこの街には無い。

 その人数を一箇所に集め、諸共「あの世」へ一時的に退避するという、常識を彼方へと逸脱した計画をハンター側から聞かされた時、ギャビン・ニューサム市長は苦笑せざるを得なかった。

「もう分かっているよ。冗談ではないのだろう?」

 

 北東区域に攻め込んでくるのは実質1人である。しかしその1人、吸血鬼の真祖ルスケスは、桁の外れた比類なき怪物だった。それなりに時間をかけさえすれば、街の人間全てを素手で殲滅する事が出来るだろう。そして普通の人間では対抗する手段が無い。しかし普通ではない者達がサンフランシスコには居た。ハンターとノブレムである。

 ルスケスを迎撃すべく、反真祖の吸血鬼とハンターが共同で準備を進めているものの、彼らをルスケスが突破すれば、簡単に万の単位で人が死ぬ。ルスケスの突破と防衛完遂を比較すると、残念ながら現時点では前者の確率の方が高い。

 ならば、人死にを抑える為の対策を可及的速やかに講じねばならない。それが「あの世」への全市民脱出作戦である。あの世とは、キューことケツァルコアトルがジェイズ・ゲストハウス4Fに構築した神の領域の事だ。ジェイズは建築物そのものが霊的に強力な結界に守られているが、その4Fは存在そのものが現世ではなく、ルスケス、又は更に上の存在であるサマエルですら介入が困難である。ただし困難というだけで、その気になれば常軌を逸した霊力を持つ彼らが侵入する事は決して無理な話ではない。それでも、ジェイズ4Fは今のサンフランシスコにおいて最も安全な場所と言えた。

 ケツァルコアトルは4Fを人間に全開放する事をハンターに明言し、有志はこれを受けて更に策を進め、ケツァルコアトルに以下の改良を進言した。

 まず、一時的にでも間口を広げる事。数十万の人間を、とある建物に入れて4Fに誘導するなど、時間が押している状況下では非現実的にも程がある。よって、4Fの領域を極力広げる。可能であれば、テンダーロインの区画限界まで拡大させるのが望ましい。

 そして、領域の中の状景をサンフランシスコ市街と同じものにする事。本来の景色は白の世界が延々と続く代物だったが、これでは予備知識の無い市民達が大混乱に陥る。加えて戦後というものを鑑みるならば、この異常な経験の記憶を出来るだけ軟着陸させるようにもしたい。

 この2点を、ケツァルコアトルは承知し、実際その通りに4Fのシステムを作り変えてしまった。

「楽な所行ではないが、ここは吾の領域である。特定領域下において、吾に出来ぬ事はほとんど無い」

 脱出作戦決行を間近に控えたゲストハウスの酒場で、今は少年の姿のケツァルコアトルが、上記提案者の庸所属、梁明珍に肩を竦めて言った。

「しかし、問題はそれ以前にこそあると思うが。何十万もの人員を一つ区域に混乱無く集めるなどは至難の業であろう」

「その辺りは、『半径500mの説得』を有効に使わせて貰うアル。こうした避難行動を滞りなく行なうには、やっぱり整然とした秩序が物を言うのコト。直径1kmの円形てのは相当な面積アルヨ。ざっと785000㎡。立錐の余地無く1㎡に1人の割合なら、『説得』1個でカタがつくネ」

「冗談のような光景が思い浮かんだぞ」

「冗談アル。だから複数個用意したのコト。市当局にはこの範囲に市民を誘導してもらうアル」

「その誘導もまた困難だ」

「ところがそうとも言い切れない」

 と、横合いからハンターのジョン・スプリングがケツァルコアトルに言った。

「サンフランシスコ市民は実に落ち着いていますよ。それはもう不自然なほどに。『例の槍』に影響を受けているんでしょうが、どうもそれだけではないらしい。その理由が何なのか、キューさんは凡そのところを勘付いているのでは?」

「まあ、想像はついている」

 ケツァルコアトルが意味ありげに笑う。

「しかし確証のない持論を述べるつもりは無い。それより、君達もついてきなさい。他の皆々も既に呼んでいる」

 踵を返して階段に向かうケツァルコアトルの後姿を梁とジョンが追う。何事かと問うと、アステカ神話の神はこう言った。

「最後の出血大サービスだ」

 

悲喜交々

 月毎にケツァルコアトルは、余興としてくじ引きを催していた。出される品々は$2000がスカくじという内容だ。くじ引きのハズレが$2000などというのは無い。有り得ない。

 ならば大当たりは何かと言えば、それは4Fの神々が供する宝の数々だ。これまでは中々当たらなかったそれらが、決戦も間近という頃合で当選続出という間の悪さである。

 それら物品は全部で五種類。たったの五種類しか無かった。

「$2000!」

「また$2000! オモロな!」

「この期に及んでフカフカクッションとか」

「1ランクアップ来たよコレ。でも、アクト出し終えてるのに1アップとか言われても」

「$2000…。最後までこればっかり…」

 該当五種類から外れた面々のがっかり声が、4Fの駄々広い空間に木霊する。$2000と言えば2015年8月現在の円相場で25万円近くするので、そんなものが降って湧いた日にはヒルトンを予約して豪華国内観光旅行である。しかしこの世界での$2000は、狙撃銃と猟銃を買ってお釣りで拳銃を、あらら$200足りないよ、程度でしかない。理不尽の極みだ。

 しかしながら5つの大当たりというのも、それはそれで理不尽な物品ではあった。

 

○ヌァザ・アルガトラム御提供 : ゲイ・ボルグ

  ⇒アルベリヒ・コルベ

○伊邪那美命御提供 : 意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)

  ⇒ヴィルベート・ツィーメルン

○キルンギキビ御提供 : ンゴマ・ンゴマ

  ⇒ダニエル イゾッタ・ラナ・デ・テルツィ

○テスカトリポカ御提供 : ジャガーの戦士

  ⇒マティアス・アスピ

○伊邪那岐命御提供 : 逢神之斬逢魔之殺(神に逢うては之を斬り、魔に逢うては之を殺す)

  ⇒レヴィン・コーディル

 

「一品を除けば、それぞれが神器と言って良いだろう。何れも由縁のある物だ。必ずや汝らの力となろう」

「ゲイ・ボルグというのは知っている。英雄ク・ホリンが携えていた高名な武具だ。しかしこうして見ると、ちと地味だな」

 ケツァルコアトルから手渡されたゲイ・ボルグは、特筆すべきところの無い「ただの銛」だった。それでもアルベリヒは装飾を排除した無骨な力強さと、想定外の軽さに満足した。実用的という事だ。

「ありがとう。有効に使わせて戴く。しかし俺の相手はサマエルの本性だ。人の体がどれだけの事を奴に為せるのか、考えるほど危ういところだ。そういう意味では、ヴィルベートの桃の方が命を繋げられるかもしれん」

「首が千切れても、またくっつくとか? 何か、これを齧ったが最後、また一段と人間から遠のくような気がするんだけど」

 ヴィルベートがアルベリヒに苦笑を返した。意富加牟豆美命というのは、神力が宿った桃の事だ。食せば一時的に不死の体となる。首が飛んでも体が腐っても復活可能。げんなりと桃を見詰め、ヴィルベートはそれを懐に仕舞った。

 シルヴィア絡みで行動を共にする事が多かった2人だが、此度は目指す戦場を異にしている。アルベリヒはサマエルの本性。ヴィルベートはサマエルの意図が取り憑いたマックスの奪還。危険という言葉は何れが相手でも当てはまるが、より死に近いのは前者である。サマエルそのものが相手というのは、やはり桁が違う。

「何て言うか、心が残る。シルヴィアを頼んだよ」

「任せてくれ。未来の俺の雇い主を死なせはしない。共に行く仲間達も、愛する人も。幸いと言っては何だが、サマエルの本性相手には神器持ちが上手い事集まってくれたしな」

「私はサマエル相手に肉弾戦をやらかすつもりは無いんですがね…」

 マティアスは自らに託された猫科肉食獣の頭皮の仮面、ジャガーの戦士を手にし、苦笑気味の顔でアルベリヒに応じた。マティアスの言う通り、仮面を被れば確かに戦士の力量を身に宿す事になるのだが、ジャガーの戦士の真骨頂とは、邪な干渉一切から心と身を守る、局所的且つ強力な結界の機能にある。

「身を防ぐ手段が一つでも多くなったのは率直に言って助かります。それに怪我をしたら治してくれる癒術持ちもいらっしゃる」

「太鼓を叩いて歌って踊って、心と体を癒しましょうとか? 如何にもキルンギキビ様らしいっちゃらしいんだけど」

 小さな手持ちの太鼓、ンゴマ・ンゴマをトントンと叩き、イゾッタもまた微妙な顔である。ロンギヌスの槍という特級聖遺物を所持する彼女であるが、またも奇妙な物品を手にしてしまった訳だ。強力な治癒を心と体に施すというのは、唯では済まないだろう煉獄行きに際し、大きな助けとなるには違いない。イゾッタがケツァルコアトルに聞く。

「歌って踊るのは結構なんだけど、何を歌ってもいいの? AC/DCのサンダーストラックとかでも?」

「何でも構わないという事だ。太鼓と歌と踊りが呪力を引き出す為のファクタである事は、世界中の土着信仰において通例である。つまり救わんとする心が伴えば何でも良い。気合を入れればイヨマンテの夜でも効果が有ろう」

「いや、それはちょっと」

「これ、吸血鬼が使って吸血鬼が対象という状況でも効果はあるんですか?」

 ダニエルが躊躇しつつも口を挟む。彼は極めて安全な月給取りの階級だが、見紛う事無き吸血鬼でもある。吸血鬼の大元の由来が天使にあるという理由で、4Fの古い神々は概ね彼らに対して敵対的な意識を持っていたはずだ。対してケツァルコアトルは、若干申し訳なさそうに言った。

「懸念する通り、この期に及んでも天使の眷属を忌避する、古い神々の指向性に大きな変化は無い。ただ、そういうところに止まって良しとするようであれば、忌避対象の天使と同じという事になる。これらの神器は変化の証と認識戴きたい。必ずや吸血鬼にも使いこなせるであろう。さて、吾は神器と申したが、一品のみそうではないものがある。伊邪那岐尊に奉納された人の手による産物。神殺しだ」

 ケツァルコアトルは神妙な面持ちで、逢神之斬逢魔之殺の銘が切られた一振りの日本刀をレヴィンに手渡した。受け取るレヴィンは、しかしもう一つピンときていない風である。

「つまり、他のみたく神々が作り出した物じゃないんでしょ?」

「そうだ」

「人が作った物なのに神殺しなの? いや、これはこれで立派な刀剣だと思うけど」

「人が作った物だからだ。踏まえるが良い。真の意味で神殺しを為せるのは人間なのだと。吾等をここではない何処かから呼び寄せ、また名も無き神を創造したのは人間である。神々における生殺与奪の権限を持つのは、実のところ汝らである」

「自分達、こんなに追い込まれてしまっているのに?」

「確かに追い込まれた状況だな。しかし心の持ち方一つで、存外この様は引っ繰り返るのかもしれぬ。例えばそれを作り出した刀鍛冶は、人も魔も神も差別なく斬り捨てられるよう、人生の総決算という腹積もりで逢神之斬逢魔之殺を打ったと言う。そして刀を授けられた先代の剣士もまた、刀鍛冶に劣らぬ天才だった。俗世の誘惑や情念の纏わりを一切排し、己の技を極限まで追求する求道者。まるで剛直な刀が手足を生やして歩くかの如しとは伊邪那岐殿の言葉だ。そして彼はベルゼブブを再起不能に追い込んだのだが、それはつまり、彼がベルゼブブほどの大悪魔を欠片も恐れていなかったからだと吾は考えている。人間の身で帝級吸血鬼と渡り合ったブラスターナックルの所持者も、恐らくは剣士と同じ気構えの持ち主であったのだ」

「だからサマエルやルシファを恐れるな、って事? 現実に、あれだけ力の差を見せ付けられているのに」

「ハンターという人種がこの世ならざる者に対し、まがりなりにも勝負に持ち込める理由を考える事だ。ハンターは悪魔や天使、あるいは神が相手でも、必要に迫られれば戦うという選択を躊躇無く取る。オカルトに爪先から頭頂まで浸かりきりながら、オカルトに心を囚われず、それを戦いと生存の道具として割り切る合理性。そして孤立主義でありながら、危急時には即座に社会性を取り戻せる。吾はサマエルを蛇蝎の如く嫌うが、ハンターの特異性を見出したという点はルシファなどよりも評価出来ると思う。汝らは自身が想像する以上に、実を言えば彼奴らと吾らにとって手強い者達だ」

 そう言いながら、ケツァルコアトルはジーザス・クライストを思い出した。神の身体を持ちながら、心は人間から逸脱しなかった天才の事を。天使がジーザスを畏れる根本的な理由と、ハンターの強さには重なるところがあるようだ。それをハンター達が理解出来たなら、彼らはこの戦いに負けはしない。ケツァルコアトルは、そのように確信していた。

 そして不意に顔を上げる。彼だけではなく、周囲のハンター達も同様に。更には北東区域全体の人間達が、突然頭の中に割り込んできた大声に耳を疑った。しかしその野卑極まる言い方を、人々はこれまでに幾たびも聞かされていた。ケツァルコアトルが舌を打つ。

「ルスケスという奴ばらか」

『一丁、最後通牒って奴を行ってみようかええ!』

 文字通りに頭の割れそうな哄笑がゲタゲタと脳裏に響いてきた。ルスケスはこの期に及んでもルスケスであった。

 

 

<H0-8:つづく>

 

 

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ルシファ・ライジング H0-8【しばしお待ちを】