<イーライとフレイア、そしてロマネスカ>
ミッション地区にあるノブレムの公営住宅、と言っても住人は吸血鬼しか居ないのだが、その1階には応接室がある。吸血鬼達は本来の用途ではなく、専ら食堂として利用していた。食堂と言っても、彼らの食事は血を飲むくらいでしかない。それも牛の血だ。他には酒を少々。アルコールならば、若干の酔いを楽しむ事が出来る。
彼らは人の血を飲む事をやめた。しかしそれは、吸血鬼の中の最強類、「女帝」レノーラに言われたからだ。勿論、彼女の意に賛同して吸血を封印した者が大半だが、中には彼女の言葉を、力を背景にした強圧と捉える者も居る。その筆頭は、まだ若い吸血鬼だった。
氷を一杯に入れたタンブラーグラスにウォッカを注ぎ、レモンを絞る。そしてとどめに牛の血をぶち込んで、フレイアは一気にグラスを呷った。
「これが本当のブラディ・メアリー」
「旨いのか、それ」
「まずいに決まっているだろう、こんなもん」
イーライの突っ込みを不機嫌に返し、フレイアはグラスをテーブルに叩きつけた。彼女は今日もすこぶる機嫌が悪い。そして恐らく、明日もそうだろう。
イーライとフレイアは、共に戦士級の吸血鬼である。イーライは古くからレノーラと同志だったが、フレイアがノブレムに加入したのは、然程昔の話ではない。
フレイアはレノーラに会い、初めて女帝級という存在を知った口だ。その底無しの力に心惹かれ、彼女の仲間になった。しかし待っていたのは吸血鬼が吸血鬼である為のアイデンティティ、吸血を捨てるという方針だった。フレイアは戸惑った。そして疑念を抱く。最後には怒りに変わった。これ程の力を持ちながら、人間に膝を屈するのかと。レノーラに心酔していた分、裏切られた気持ちになれば、その反動は大きい。
「クソ、クソ、クソが!」
湿気た床を蹴飛ばし、フレイアは叫んだ。レノーラに聞こえても構わない。むしろ自分の吼え声の何たるかを考えろ。
「やめないか、はしたない」
「イーライ、その原初の人類顔で『はしたない』なんて言葉は似合わないねえ。あんたもレノーラに調教されたクチかい?」
「…愚痴を言うなら、俺だけに留めておけ。貴様の戯言ならば、幾らでも聞いてやる」
「ふん、戯言か。じゃあ聞け。ああ、飲みたい飲みたい血が飲みたい。旨そうな人間の、鉄の匂いがツンとくる奴を、思う存分貪りたい!」
イーライは黙って、真空パックの血をフレイアの目の前に投げた。牛の血・真空パック。一袋$10也。
「それでも飲んで、とっとと寝ろ」
「ふざけんな、レノーラのバタードッグ! 今はまだ夜だ!」
パックを乱暴に払い除け、フレイアはイーライに食って掛かった。対するイーライは慣れたもので、彼女の激昂を気にも留めていない。それがフレイアの怒りに火を注いだ。
「牛の血を飲んでも、死なないだけだ。精神的な充足は得られない。それ以前に馬鹿みたいに不味い。正気の沙汰じゃないよ。これを食料にするなんてさ。私達は食物連鎖の天辺に居るんだ。何しろ人間を食うんだからな。それがどうだい。あれだけの力を持ちながら、人間と同じ場所に立とうとする女が頭目だとさ!」
「ならば、出て行けばいい。無理してこんな事に付き合う必要は無い。さっさと出て行って、ハンターに追われながら思う存分人間を狩ればいいだろう」
フレイアはイーライがそう言う事を予想していたらしい。にやりと口の端を曲げ、彼の鼻面すれすれまで顔を寄せて、フレイアは言った。
「やなこったい」
「駄々っ子か?」
「子供扱いすんな。私は待っているのさ。レノーラが絶望する所を。駄目だよ、人間は。どこかの時点で私達は、一気に押し潰される。人間は凶暴な野蛮な生き物だからね。そうなった時のレノーラが見ものだよ。あれが怒り狂えば、『酒場』の1つや2つただじゃ済むまい」
やれやれと、イーライは頭を振った。そしてゆっくりと立ち上がる。彼が何をしようとしているかを察し、フレイアも席を立った。
「実は貴様を地面に這いつくばらせたいと思っていた」
「奇遇だねえ、私もだよ」
一頻り睨み合ってから、2人はゆっくりとテーブル周りで弧を描いた。イーライとフレイアという戦士級同士の喧嘩は過去に2度行なわれ、2度ともイーライが勝っている。それでもフレイアは負ける気が無いらしい。今少しでどちらかの鉄拳が飛ぶ。という頃合を見計らったかのように扉が開いた。仕事帰りの「月給取り」が、ひょっこり顔を出したのだ。
「ただいま、お2人さん。喧嘩はほどほどにしなよ」
その間延びした声が2人の戦意を大きく削ぎ、どちらから言うともなく彼らは再び着座した。声の主、ロマネスカは、口笛を吹きつつ冷蔵庫に貯蔵した赤い水のピッチャーを取り出した。そして牛乳を飲むように、旨そうに飲み下す。フレイアの顔がげっそりと歪んだ。イーライもだ。
「まあ、そんな顔をするなって。レノーラ曰く、月給取りは吸血鬼の最新進化形態らしい」
「最新モードって、はは。馬鹿じゃねーの。力を落として牛の血を美味しく飲めるって、何のバツゲームだい」
「こうして吸血鬼としての特性を薄めて行き、僕らが最終的に辿り着く姿を彼女は夢見ている。いつか人間に戻れるんじゃないか、とね」
ロマネスカの言葉を聞き、イーライは内心で舌を打った。レノーラとの付き合いが仲間内で一番長く、戦友めいた共感を彼女に抱くイーライだが、その意向に全面的に従うつもりはない。特に彼女が取る融和路線は、過度であり早急であると、常日頃考える所だ。
(優しさでは、世界は優しくならないぞ、レノーラ)
と、フレイアが腰を上げた。くだらなそうに鼻を鳴らし、自室で読書をする為に本を小脇に抱える。ドストエフスキー、罪と罰。朝になる頃にはぐっすり眠れる催眠本との事だ。
しかし廊下への扉は、彼女が手を掛ける前に向こうから開いた。フレイアがたじろぐ。レノーラが鬼の顔で立っていた。
20人近くの仲間達を全員招集し、レノーラは先の事件の詳細を告げ、1人1人の行動を確認した。自己申告ではあるが、事件の時間帯にノブヒルへ出向いている者は居ない。勿論、自ら「私が子供殺しをやりました」等と言う者も居ないだろう。つまり仲間の仕業でない証拠はと言えば、仲間達自身の証言しか無いのだ。これではハンター達は納得しまいと、レノーラは溜息をついた。ただ、彼女は仲間を信じており、彼らの言に嘘がないと確信している。仮に吸血鬼であったとしても、恐らく他所からの凶暴な流れ者なのだろうと。決を下す。
「まずは普段通りに生活しましょう。『酒場』には私から、ノブレムは一切関わり無い旨を言っておく」
「それで奴等が黙っているのか? あの理屈の通用しないハンターが」
イーライが問う。
「差し当たって、向こうもこちらを犯人とは断定していない。根拠も無く正面きって喧嘩を仕掛けてくる事も、恐らく無いでしょう。ただ、犯人の正体が何なのかは私も知りたい」
「それじゃ、各自で情報収集をしてもいいのかい? ひと家族まとめて遊びながら殺すような輩は許せないな。何物であろうと、裁きを受けるべきだ」
ロマネスカの言葉に、レノーラが頷く。
「構わないわ。ただし各々で注意して。私達も不死身の体ではない事を、知っている者達が居るのだから」
「敵が『この世ならざる者』だったら、どうする?」
「ハンターに情報を流して、この件から手を引く」
「じゃあ、本当に吸血鬼だったら」
「私が子供殺しの首を」
レノーラは自らの喉に親指を当て、横一文字に掻き切る仕草を見せた。
敵が吸血鬼だとするならば、その所業は正に血族の面汚しである。そのようなものと同類に見られ、積み上げてきた努力が易々と崩壊する展開をレノーラは恐れた。
(長い時間をかけて、ようやくここまで辿り着いた)
それは長く険しい道だった。そしてこの先にも道は続いている。その行程に立ち塞がるものは避けて通れないのだろう。だからレノーラは、何物が相手でも立ち向かうのだと腹を括った。
<初期情報 : 吸血鬼篇 幕>
初期情報:『吸血鬼の道 後編』