<ノブレム・レノーラの自室>
サンフランシスコには全米の視点から見ても独特のスタイルがある。それは密接に隣り合った細身の住宅がずらりと建ち並ぶ景色だ。概ね大都市の集合住宅と言えばアパルトメントなのだが、ここサンフランシスコでは一軒家へのこだわりが見受けられる。
勿論、アパルトメントが無い訳ではない。学生や、単身者、低所得者向けの集合住宅も整備されている。が、矢張り人口が密集する大都市圏の中心ともなれば、アパルトメントと言えどスペースは限られる。そういう訳で、サンフランシスコのワンルームは思ったほど広くない。ただ、その分高さはあった。部屋が狭いから、建物は上へ上への背を伸ばし、サンフランシスコは細長い欧州家屋が個性的な景観を醸している。
ミッション地区にあるノブレムのアパルトメント、その頭目、レノーラの部屋も高さはあるが、大して広くはない。人が4人も入れば据わりの悪い思いを味わう事になるだろう。
レノーラは自室に、客人を1人迎えていた。客人と言っても彼女同様、吸血鬼の同志である。名はジュヌヴィエーヴ。階級は「月給取り」。ベッドにうつ伏せに寝かし、レノーラはジュヌヴィエーヴの背中に刺青を彫っていた。何処か知らない国の言葉を、レノーラはさかんに呟いている。これは吸血鬼同士の呪的処置だ。「皇帝のタリスマン」という儀式を背中に施せば、彼女の周囲に自然と人間が集まり易くなるのだという。
「ジューヌ、終わったわ。お疲れ様」
「ありがとうございました」
レノーラはジューヌの肩を叩き、ベッドから立った。起き上がって下着を身に着ける彼女から目を逸らし、受け取った謝礼の$100札を大事そうに、紙の包みに仕舞い込む。
「そのお金は、ご自分で使っておられないようですが、どうなさるのです?」
ジューヌが率直な疑問を口にした。確かにノブレムという組織は、恐ろしく貧乏だ。人間側の協力者、ジョン・マクベティ警部補の計らいで随分安価な公営住宅に住まわせて貰っているものの、日々の光熱費や家賃を賄うので精一杯の毎日が続いている。しかしながらその資金は、ジューヌのように外へ働きに出る者が何とか捻出しており、当座の資金繰りは赤く染まっていない。
この呪的処置を施す度に、レノーラが仲間から徴収する$100は、そんな訳で決して安い出費ではない。にも関わらず、その安くない金をレノーラが自分の為に使っているようには、ジューヌにはどうしても見えなかった。何しろ何時見ても、同じようなジーンズを履いている。化粧気も全く無い。尤も、化粧をせずともレノーラの肌は雪のように白く、肌理細やかなのだが。
「謝礼よ。私達に協力してくれる人間への、せめてものお礼」
「まさか、ハンターですか?」
「違うわ。一般の人間。自費で研究をしてくれている。もし時間が合えば、私と一緒に来るといい。ああいう人間が居ると知るのは、精神的にとても良い事。尤も昼日中に訪問するのだけれど」
「その時間は寝ていますね」
「そうね。あなたの働きに感謝する。今の仕事は?」
「24hのダイナーでウェイトレスをしています」
「人間と付き合うのは苦にならない?」
「全然。だからまじないを施してもらったのです」
「では、人間と居るのは好き?」
「好きというより、今は当たり前の事です」
「そう。良かったわね」
満足げに笑い、レノーラはジューヌが出る為に扉を開けようとした。が、携帯電話の振動に気付き、その手を止める。発信元は、レノックスという名前だった。しかしこれは偽名である。『酒場』の主、ジェイコブの使う仮名。レノーラの細い眉が歪む。彼から連絡があるのは、決まって普通ではない事態が発生した時だ。レノーラは携帯を繋いだ。
「…レノックス、お久し振り」
『レノーラ、挨拶抜きで事情を伝える。今日、ノブヒルで一家惨殺事件が発生した。恐らくハンター側は、これを吸血鬼によるものと判断するだろう』
「何ですって」
レノーラの声から、先ほどまでの愛想が消えた。側で聞いていたジューヌの肩が震える。通話口のジェイコブは、レノーラの変貌にお構いなく、事の仔細と犯人の根拠を事務的にしゃべり続けた。
聞いている側のレノーラは、彼の言句を一字たりとも余す事なく聞いていたが、自分の心は何処か別の場所に切り分けられたような気がしていた。一頻り伝えられたジェイコブからの情報を、レノーラは高速度で脳内反芻し、それでも口から出た言葉は、凡そ理性的な代物ではなかった。
「そんな。そんな馬鹿な! どんな空腹だろうが、子供には絶対手を掛けない。それが吸血鬼の鉄則だ!」
『しかし事実だ。話を聞く限り、状況は吸血鬼と考えざるを得ない。そしてハンターの目が向くのは、サンフランシスコの吸血鬼組織。君達だ』
「私達は、未だ信用などされるはずがないという事ね」
『…ああ、俺も当初はあんた達を信用出来なかった。あの兄弟の口添えがあったとしてもだ。しかしあんたは、あんた達の変容を実証してきた。だから俺も考えを改めたよ』
それを聞いて、猛り始めていたレノーラの心は、幾分かでも和らいだ。そう、普通の人間や、不倶戴天の敵同士であるはずのハンターの中にも、彼女の考えを認めてくれる者が、やっと出て来たのだ。先の協力者然り。ジェイコブ然り。マクベティ警部補然り。ウィンチェスター兄弟然り。
ウィンチェスター兄弟は、ハンター間どころか吸血鬼の世界でも、恐るべき殺し屋として有名だった。数少ない吸血鬼達を問答無用で狩り立てて行く彼らではあるが、それでも訴えを聞き届けて、自分から手を引いてくれたのだ。そして逃走先として、ジェイズのあるサンフランシスコを紹介してくれもした。希望はあると、レノーラは気を取り直した。
「私達は努力している。あなた達のような人間が居る事も、私は心強く思っている」
『しかし其処に来てあれだ。間違いなくハンター達は動く』
「どうすればいい?」
『取り返しのつかない事になる前に、あんた達は身の潔白を証明する何かを見つけてくれ。こちらも可能な限り協力する』
「分かったわ。ありがとう。取り敢えず他のハンター達には、ある程度目処が立つまで攻撃は控えるように伝えて。私も抑え込む。一度戦端が開かれたら、もう戦争を止める事は私やあなたにも出来ないのだから」
『…ああ、分かった。また連絡する』
携帯を切って、レノーラは深く呼吸した。隣では心配げに、ジューヌが彼女を見ている。レノーラは傍らに彼女を抱き寄せた。
「大丈夫よ。私達はきっと切り抜ける。今も、そしてこれからも」
その言葉は自分に向かっていると、レノーラは承知している。そう、悲観していては、その先には悲劇的な結果しか待っていない。
初期情報:『吸血鬼の道 前編』