<ノブヒルの惨劇>
サンフランシスコ中心部の一際高い丘の街は、ノブヒルと呼ばれている。Nabob、つまり大金持ちを意味する言葉が由来のノブヒルは、全米でも屈指の超高級ホテルが幾つかあり、また一般住宅も丘の下とは全く様相を異にした上品さがある。所謂社会的に成功した人々だけが住処に出来る街。それがノブヒル。
ノブヒルから見下ろすダウンタウンは絶景の一語だ。かつてケーブルカーが無ければ上り下りだけでも厳しかったこの街は、今では下世界の面倒事が一切入り込めない風情がある。面倒事の一つと言えば、犯罪もそうだろう。
ノブヒルはサンフランシスコで最も安全な街の1つだ。高い収入に合わせた防犯体制が至る所に敷かれ、また街全体に行き渡る高級な空気が、闖入者の存在を浮き立たせてしまう。
ここは湾を隔てたオークランドにあるような、重大犯罪とは無縁の街だ。誰も彼もがそう思っていた。ほんの6時間程前までは。
「アダム、おいで、アダム」
寝室の外から声が聞こえる。アダムはその呼び声に目を覚まし、目蓋を擦って半身を起こした。今年エレメンタリーに上がったばかりのアダムは1人部屋を両親から与えられ、ようやく1人寝の寂しさを克服したところだった。それでも母親が久々に一緒に寝てくれるのだと、アダムはそのように呼び声を解釈した。
ベッドから出て、両親の寝室に向かい、扉をノックする。反応が無い。
「ママ、パパ」
そう言っても、返事は無かった。扉を開く。ダブルベッドに、優しい彼の両親は見当たらなかった。首を傾げる。
「おいで。こっちよ」
その声は下から聞こえてきた。誘いに導かれてアダムは階段の手すりに手を掛けたが、何処か変だった。母親の声とは、どうも違うような気がしたのだ。それでもアダムは、2人が1階に居るものだと信じて、階下に向かう。階段のすぐ側のロビーには誰も居なかった。普段は家族でテレビを観たり、ゲームに興じたりする場所なのだが。
「こっちよ」
また声が聞こえた。ダイニングの方からだ。基本的に食事や間食の時以外に、家族はダイニングを使わない。アダムが置時計を見ると、針は既に12時を回っていた。父親は朝早くから出掛けるので、両親共にこんな時間に起きていたりしないはずだ。そう訝しく思いながらダイニングに向かうと、2人はテーブルを囲んで座っていた。
それはとても奇妙な風景だった。2人は寝巻き姿のまま、ホームパーティに使う三角帽を被り、項垂れた格好でアダムを見ようともしない。テーブルの上には、何か奇妙な料理が盛られていた。料理と言うよりは、素材そのものといった感じがする。何も手を加えていない山盛りの肉らしきものだ。そしてキッチンでは、見た事もない黒い服の女が包丁で何かを刻んでいる。
「誰?」
アダムは上ずった声を上げた。女は返事をしない。包丁で何かを叩く規則的な音がするのみで、ダイニングは4人居るとは思えぬ沈黙に包まれている。アダムは底無しの不安に駆られ、手近の母親の隣に回り、その顔を見た。
母親は目を閉じている。まるでアダムに気付かない風で、しかも肌の色が異様に青白い。向かいの父親も、同じような状態だった。
「ママ、ママ」
と、アダムが呼び掛ける。優しい彼女の優しい言葉は、その口からもう発せられる事はない。たまらずアダムが彼女の肩を揺り動かすと、母親の頭が、首からずれた。
「おっと」
落下する母親の頭が床に転がり落ちる寸前、キッチンに居た女が間一髪で拾い上げた。そして頭を首の上に置き直し、丁重に位置を合わせつつ三角帽を絞め直す。
その様を、アダムは呆然と見ていた。そして自分が床にへたり込んでいる事も知る。女はアダムの母を片付け直し、彼を見下ろした。照明の加減で顔立ちが全く分からなかったが、どうやら彼女は笑い掛けているらしい。
「私の誕生パーティにようこそ、アダム。ご両親にも出席頂いて嬉しいわ」
女は、あと少しで心が決壊しそうなアダムに優しく言って、両親と同じ三角帽を彼の頭に被せてやった。包丁は手に持ったままだ。否、包丁と言うより、もっと凶悪な、大型の狩猟ナイフのようなものを。
「オードブル、美味しかった。前菜もなかなか。メインディッシュ、凄く楽しみよ」
<ジェイズ・ゲストハウス>
「ゲイリー・マクダネル、38歳。カレン・マクダネル、34歳。アダム・マクダネル、たったの6歳。真面目で実直なゲイリーが無断欠勤したんで、上司が心配してノブヒルの自宅に訪問したところ、ダイニングで3人が死んでいたそうだ。首無しの死体が食卓に座らされ、三角帽を被った頭が皿に盛り付けられていた。中央の大皿には切り刻んだ内臓が山積だ。第一発見者の上司はショックで病院送り。鑑識の若い奴等が全員嘔吐した。俺もあんな凄まじい殺し方は見た事が無え。これが先に言った、今日起こったばかりの事件の顛末だ」
其処まで言い切ると、ジョンは黙ってグラスを前に差し出した。注がれたウィスキーを一息に呷り、ジョンは虚空の何かを睨み据え、言った。
「俺はこの世に、法の裁きを受ける必要の無い奴が居るって思うんだ。そいつぁ人を面白がって殺す奴の事だ。特に子供を楽しみながら殺す奴とかな。そんな野郎の手足を八つ裂きにして内蔵を引き摺りだせるなら、俺は刑務所でホモにケツを掘られたって構いやしねえ」
「ホモは御免だが、八つ裂きは同感だな」
「もし人間だったら、同僚が発見する前に俺がぶち殺してやる。しかし敵は只者じゃない。恐らくこの世ならざる者だ」
「確かにこの世ならざる事件だが、犯人をそう言い切れる根拠は?」
「3人とも、体中の血液が全部抜かれていた。何しろ3人分の血だ。そんなものを運び去るのは至難だろう。それに注射器を使った形跡が無い。代わりに首回りから唾液らしいものが検出された。今、鑑識が過去の犯罪者のデータベースを洗ってDNA比較を実行している。しかし照合データなんざ、多分無えんだろうよ」
「まさか」
ジェイコブは声を上げかけて、慌てて口を閉ざした。とは言え、これだけの事件だ。遅かれ早かれハンター達は動く。しかしジョンが言わんとする敵の想定を、この場で口にするのは憚られた。現状のサンフランシスコにおいて、それは敵ではなかったはずだからだ。ジェイコブは声を潜めて言った。
「敵は吸血鬼だと言うのか。ノブレムは人間への吸血を放棄したんだぞ」
「俺も頭目のレノーラがどういう奴かは知っている。それに吸血鬼だって、死体を弄ぶような事例は無えよ。しかし敵は、人の肉を全く喰らっていない。血だけを綺麗に吸い尽くしてやがる。吸血鬼の仕業と考えて、ほぼ間違いないだろう」
「まずい。協定破りが確定したら、人間と吸血鬼の全面戦争が始まるぞ。レノーラはそんな馬鹿じゃない。それに『リーパー』が動き出す」
「リーパー? あの吸血鬼専門の殺し屋か。どういう奴なんだ?」
「俺にも分からん。だが偶に差出人不明の手紙で連絡が来る。ノブレムの事も気にかけていた。俺が抑え込んでいたが、下手を打てば止められん。ノブレムにコンタクトして、身が潔白ならそれを証明させる。電話をしていいな?」
「よかろう」
ジェイコブは切羽詰った面持ちで、厨房に引っ込んで行った。
ジェイ、それは優し過ぎだろうと、ジョンは思った。どれほど崇高な理念を掲げても、その理念に賛同する集団であったとしても、不平不満の種は時間を経るとすくすく育つものだ。人間の血を放棄し、代わりに不味い牛の血で飢えを凌ぎ続けるノブレムの中に、そういう考えを抱く者が居ても不思議ではないのだ。
ただ、深い悲しみに満ちたレノーラの目を、ジョンは覚えている。叶うならば双方に良かれの顛末であって欲しいと、切に願うばかりだ。
初期情報:『我が愛しの夜の世界』