<ル・マーサからのいざない>
ヒッピー・ムーブメント発祥の地として世界に知られるヘイト・アシュベリは、今やその名残を個性的なショップとクラブが建ち並ぶ通りに留めるのみだ。しかしながらラブ&ピースの残滓は街の雰囲気を独特なものとしていて、今でも観光客の足が絶えない。
近場にはサンフランシスコのカレッジとユニバーシティがある。だから通りを歩く人々は圧倒的に若者が目立っている。彼らは通り一遍等のファッションやスタイルを好まないので、街の色彩は混沌としながらも、自由で活気があり、何よりも華やかだった。ある意味アメリカという国そのものの一面を、象徴する街なのかもしれない。
そんなヘイト・アシュベリの一角には、「ル・マーサ」という市民団体の活動拠点がある。ヘイト・アシュベリにおけるこの種の集まりは、かつてのコミューンを想起させるが、ル・マーサはそういう思想的な集いとは縁が無い。やっている事はと言えば世間一般のボランティア活動と変わらず、団体にはまって身を滅ぼすような事例も無い。見掛けは至って普通の市民団体。しかし他の団体と大きく異なる部分も、あるにはある。
それはたった一ヶ月の短期間で、飛躍的に会員数を延ばした点に尽きる。ル・マーサの代表、カロリナ・エストラーダの人間的魅力に負う所が大きいというのが、周辺住民からの専らの評判だった。
ヘイト・ストリートは一日中活気に満ちているものの、ひとたび通りを曲がれば街は閑静となって、サンフランシスコらしい欧州住宅がずらりと並ぶ風情を楽しむ事が出来る。
夕刻を過ぎて夜に差し掛かる頃合は、帰宅する人がちらほら見られるくらいで、人通りはそれ程多くない。大学生らしい2人連れが談笑しながら歩く姿は空気に溶け込むように自然で、まるで景観の一部のようだった。
「アンナ。その、ル・マーサってのは本当に月会費を取ったりしないのか?」
「まだ疑っているのね。マーサに会員からの徴収は無いわ。自主的に寄付する人も居るけれど、生活が苦しい人からはカロリナの方から寄付の申し出を断っているくらいだもの」
「しかし、そんなんでよく団体の活動が出来るな?」
「お金のかかる事なんて、何一つしてないのよ。マックス、さっきから心配事ばっかり。大丈夫よ、ちょっと覗いてカロリナの話を聞くだけじゃない。合わないと思ったら、適当に用事を作って途中退席しちゃえばいいんだから」
「そんな事はしないけど…会員の君が言うとは思えない台詞だな」
ル・マーサの会員であるアンナがマックスを「講話」に誘い出した時は、彼自身も少し身構えてしまったものの、彼女の口から語られる団体としての活動は、拍子抜けするほど健全だった。何よりアンナに、ル・マーサを、ひいてはカロリナを崇拝している気配が全く無い。ここまでざっくばらんだと、ル・マーサというのはどれだけフランクな集まりなんだと、逆に興味が湧いてくる。気を改めて、マックスは話題を変えた。
「それにしても、アンナは変わったな。とても丸くなったって言うか。以前はゼミの仲間内にも、こんな風に誘ってくれる雰囲気じゃ無かったよ。それに、言っちゃなんだけど、悪いタイプの連中とも付き合いがあったしね」
「そういう人達とは縁を切ったわ。私は確かに変わった。色んないい人達と語らう機会を得て、カロリナとも知り合えた」
「それはいい事なんだろうな。今の君は、とてもチャーミングだ。だから僕もついて行く気になったんだ」
「あらあら、私は口説かれているのかしら?」
「そういう意味じゃないよ。って言い方は失礼か。そう解釈されても、僕は大歓迎って言うか…」
しどろもどろになりつつマックスは頭を掻いた。困り顔でアンナから目を逸らし、ふと背後を見て、そのまま視線を凝固させた。歩いたまま。アンナが首を傾げる。
「どうしたの?」
「犬が居る。飼い主が居ないけど、どうしたんだろう」
その犬は坂道の上から、こちらを見下ろしていた。犬種はボーダーコリー。あまり毛並みは手入れされておらず、しかし顔立ちは利発な印象があった。その目は刺すように鋭い。犬の視線の先に居るのは、アンナだった。
「いや」
アンナは顔を強張らせ、額に汗を滲ませながら後ずさった。確かに鎖に繋いでいない犬だが、其処まで怖がる程の大きさではないので、マックスは目を丸くした。大丈夫だよと声を掛けようとした途端、アンナはマックスが聞いた事も無いような金切り声の悲鳴を張り上げた。
「来ないで!」
逃げようと身を翻すアンナよりも、圧倒的に速くボーダーコリーが襲い掛かる。マックスの反応はまるで遅い。彼の目の前で、アンナは喉元に喰いつかれた。
しかしボーダーコリーは、忽然と姿を消した。アンナが糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。マックスが咄嗟に手を差し伸べ、アンナの体を支える。恐怖に慄きつつ噛まれたはずの喉を見るが、傷口らしいものは全く無い。
突然巻き起こった騒動に、家々から住民が出て来た。不安な顔で近寄って来る目と目に囲まれながら、マックスはひたすら彼女の名を呼び、揺り動かす。その甲斐あって、ようやくアンナは薄目を開いた。
安堵するマックスを、しかしアンナは怪訝な目で睨んだ。そして体に回された手を認め、不愉快極まりない声でこう言った。
「何なのあんた。手を離してよ、気持ち悪い」
<ジェイズ・ゲストハウス>
「おおマックス、俺は君に同情するよ」
「酷えだろ? 折角介抱してやってたってのにさ。人が変わった良い子のアンナは、元の性悪に戻っちまった訳だ。ま、犬に噛まれたと思えばいいんだよ、マックスは」
「実際犬が出て来たし」
実の所この事件は、普通だったら怪異現象として取り上げる程のものではない。誰も死んでいないし、何しろ消えたボーダーコリーについて証言出来たのはマックスだけだ。当事者のはずのアンナは、どういう訳か前後の経緯を全く憶えていない。自分がマックスを誘った事は記憶に残っていたようだが、それも何故そんな事をしたのか後悔している風であった。つくづくマックスは浮かばれないと、ジョンは思う。
しかしながら、これと似た件が1ヶ月の間に数度起こっていたのだ。全てに関連しているのは幻のボーダーコリー。そして被害者は無傷のル・マーサ会員。しかも昔の自分に逆戻り。ここまで同じ内容が重なると、重い腰を上げざるを得ない。
「ル・マーサか。いい評判しか聞かないんだが、こうなりゃそれも疑って掛かるべきなんだろうな。で、ジェイよ。犬については何か思い当たる節はあるか?」
「送り犬というのが似てると思った」
「送り犬?」
「日本の妖怪さ。山道を歩いていると、不思議な犬がついて来るんだ。丁重に接すると、そいつは襲ってこない。無下に接すると食い殺される」
「しかしボーダーコリーは、何か理由があってマックスではなく、アンナを襲ったんだ。アンナの『今』を食い殺す理由が」
この事件の中心核にあるのは、間違いなくマーサなのだ。しかしカロリナを始めとする彼らの行動は善良そのものである。下手な干渉を行なうと、地域住民に悪感情を抱かれかねない。慎重に事を考えねばならないと、ジョンは思った。
初期情報:『ヘイト・アシュベリの送り犬』