<庸の困惑>
サンフランシスコのチャイナタウンは規模でこそNYに劣るものの、その伝統において全米で屈指の華人街である。ここはかつてカリフォルニア方面の鉱山開発の人足として移住した、苦力(クーリー)と呼ばれた人々の子孫が寄り集まった街だ。
その頃のアメリカは人種偏見が現在の比ではなく、華人達もまた他の有色系移民と同じく虐げられた存在だった。都合、同じ民族として助け合う互助団体が出来、それらはマフィアの原型となった。20世紀初頭のサンフランシスコの治安は最悪で、チャイニーズ・マフィアもその一翼を担っていたという訳だ。
乱立したマフィア同士は抗争に継ぐ抗争を重ね、しかしそれは2度目の世界大戦が終わってからしばらく後、ようやく1つの強大な組織によって幕を下ろした。マフィアを統一し、圧倒的な力を背景に君臨したその組織の名は「庸」。今もってSFPDによる最重要警戒集団なのだが、庸はチャイナタウンの暴力的な犯罪者を厳しく律する組織でもあった。その治安維持機構をSFPDは黙認し、今は互いが息を詰めて、出方を探り合う状況である。
雑貨、土産、料理屋がこれでもかと立ち並ぶ、赤と漢字の派手な表通りを横に逸れ、細い路地を右へ左へと歩けば、簡素な二階建て一軒家に辿り着く。そこが庸の首魁、京禄堂の住居だった。サンフランシスコの中華系を束ねる男の家としては何とも地味なのだが、京の人柄がそのまま表れたとも言える。
この家では月に一度、定期的に各地域の縄張りを担当する幹部級が集まり、会食を行なう。京大人自身の手が入った料理を振舞う趣向だが、幹部達は全員参加が絶対原則という厳しいものだった。これは庸の結束を確認する為の集まりである。理由も無く参加しなければ、反逆の意思ありとみなされてしまう。
ただ、此度の会食は定期ではない。幹部達に緊急招集がかけられたのだ。
「さて君達、そろそろ本題に移ろうか」
会食は四川料理のコースを一通り済ませ、お開きと相成った。京大人は両の掌を組み、ラウンドテーブルをぐるりと囲む部下達を睥睨する。その眼力は、でっぷりと太った外見と相俟って、異様な迫力を伴っている。この目で見られる事は、組織の中で半ば死を意味する。そういう目を京大人は、幹部全員に向けていた。
「この会食は21人集まるはずではなかったのかね。正確には4日前から20人だが。それがどうだ、18人しか居ない。由々しき事態だと思えるのだが、どうであろう」
幹部達は一様に顔を見合わせ、言葉を発せずにいた。不用意な事を言って、京大人の逆鱗に触れるのが恐ろしいのだ。しかしこのまま何も言わねば、更なる怒りを呼び起こす事となろう。幹部の1人が遠慮がちに席を立ち、京大人に相対した。
「昨日未明、ハンターズ・ポイントの孫明への処断は、失敗に終わった模様です」
「ほう。勝手に配下を銀行へ襲撃させて、罪も無い警備員と老婆を射殺したクズへの制裁が失敗したと? 楊元達と黄迅は有能だと思っていたのだが。まさかそれを恥じて、2人とも来ない訳ではあるまいな?」
「はい。両名、彼らの家族諸共連絡が取れません。家屋は家財を残したままです。恐らく、返り討ちに遭いました」
会食の場は始まりから静かだったが、今や沈黙のみが場を支配している。この場で言葉を出せるのは京大人くらいだが、京も掌を揉み合わせながら、考えあぐねている様子だった。それでも京は、率直に疑問を呈する。
「情報は断片的に聞いていたが、只事ではない。返り討ちなどと言うがね、君、此度の処断は一昔前の武力抗争段階だぞ。何故彼らは、かようにひっそりと孫に負けたのだ」
「それが…。戦いの痕跡が何処にも見当たりません。楊と黄は、恐らく戦わずして負けました。彼らは孫の仲間になったのです」
「何を根拠に言うのかね」
「地元の住民の中に、孫と楊の配下が並んで歩み去る様を見ている者が居ました。そして彼らは向かったのです」
「それは何処だ?」
「マンホールの蓋を開け、それから」
発言していた幹部は言葉を切り、おずおずとテーブルに目を落とした。否、彼が見ているのはテーブルではなかった。床下。その先の、もっと下。無表情だった京大人の顔色が、ようやく憤激で赤く染まった。
「下界に向かったと言うのか!? 愚か者どもが、わしが悪徳の温床を、何の為に塞いだと思っておるのだ!」
京が激怒するのも無理はなかった。彼が庸の首領に収まってから真っ先にした仕事は、サンフランシスコの地下に広がるもう一つのチャイナタウン、下界の封鎖だったからだ。
下界は抗争たけなわの頃、各組織が地下に張り巡らした地下街のようなものだ。それらは成り行きで接合し、下水道とも組み合わされ、西はプレシディオ手前、南はミッション地区まで、サンフランシスコ一帯をほとんど表に出ずに行き来する事が出来る規模となっていた。
かつて下界ではあらゆる犯罪行為が行なわれていた。禁輸品の売買、売春窟、人身売買。そこに基本的人権などは存在しない。正に犯罪集団が作り上げた、近代のソドムである。京はマフィアをマフィアなりに健全化させるべく、総力を挙げてそれらを叩き潰した訳だ。その苦闘は、京の憤りを見ても察するに余りある。
「命令を下す」
京大人の一喝を受け、幹部達が一斉に起立した。
「禁を破った孫明、楊元達、黄迅の三氏は全員殺す。配下と家族は、状況に応じてわしが裁断を下そう。しかしながら、わしが号令を出すまで戦闘は仕掛けるな。彼奴等が下界に居るのは間違いないが、不用意に攻め入るのは危険だ。十八氏は各々1人ずつ選りすぐりの武人を出し、連携して下界に潜入せよ。敵の本拠を探り当て、何が起こったのかを確かめるのだ」
京が軽く手を振って会合の終わりを告げると、幹部達はきびきびと部屋を辞して行った。が、その内の1人が踵を返す。京が目でもって、彼を呼び止めていた。
「何でしょう?」
「王広平よ、これはただの反乱ではない。孫明は決して銀行強盗を配下に命令するような者ではなかった。楊や黄にしてもそうだ。彼らの忠誠を、わしは高く買っておる」
「…『この世ならざる者』、ですか?」
「何とも言えない。が、それを認識する必要はあろう。『酒場』に情報を伝えよ」
「何処までを?」
「全てだ。こちらもそれなりの誠意を見せねば、ハンターは自主的に動いてくれん」
<ジェイズ・ゲストハウス>
「…おいおい、内々の戦にハンターを利用しようってのか? 京の奴め、大したブタ野郎だぜ」
「酷い言い草だ」
「じゃあ、筋金入りのブタ野郎」
「本当に嫌いなんだな、京の事が」
「まあな。しかし筋が通っているのは認める。まさしく筋金入りって奴だ」
ジョンはメモを取る手を止め、ウィスキーで喉を湿らせた。
ジェイズにマクベティ警部補が来ている事は、京大人も承知しているはずだ。それを踏まえて、彼はジェイズに内紛の情報を提供してきた。つまりは先の銀行強盗に、配下が関与している事実をも認めた事になる。そのデメリットを被ってでも、彼はハンターの助力が欲しいのだ。京の突き出た腹が括られた訳だと、ジョンは思った。
「で、実際どうなんだ、この事件は」
ジョンがジェイコブに問う。
「まだ何とも言えないが、銀行強盗が発生した日の先日に、局地的な雷を伴う嵐が観測されている」
「…マジかよ」
ジョンはグラスをテーブルに置いて、頭を抱えた。
「初手からいきなり、敵は悪魔なのか?」
初期情報:『チャイナタウン・アンダーウォー』