<2009年6月>

 夏に差し掛かる時期のサンフランシスコは、一年を通じて気温変化の少ないこの地域でもそれなりに暑くなってくる。ただ朝晩の冷え込みは厳しく、都合太平洋からの暖かい西風が山々に向かって流れ込み、それらはサンフランシスコ名物の霧になる。

 今宵の霧も、深く、重い。視界の数十メートル先を閉ざす霧は、喧騒を吸収してしまったかのように、街を白く静かに包んでいる。夜更けの時間は近寄り難いテンダーロイン地区の通りも、見た目には何処か優しい。

 ゆっくりと通り過ぎる車のヘッドライトを横目に、男は雑居ビルが立ち並ぶエリス・ストリートを黙々と歩いている。時折シャッター前で寝転ぶ飲んだくれ達が男に暗い目を向けるものの、彼の顔を一瞥しただけで軒並み目を逸らした。額が禿げ上がり気味の、突き刺すような目つきの白人。男は彼らにも顔を知られている。SFPDの刑事だった。それも彼らにとって、かなり厄介な手合いの。

 男はついと路駐車の隙間を縫って、エリスを横切った。そして真っ暗なビルの前に立つ。

 1つ目の扉を開くと、奥にもう1つ扉がある。男は片手を上げ、扉を叩いた。不規則なリズムで10回近く。これがビルの中に入る為の合図なのだ。合図とは、人に対するものではない。ビルそのものに向けての合図である。そしてビルは男の進入を許可し、鍵を解いた。

 扉を開けると、黒く佇むビルの外見とは裏腹に、その中には広く空間を取られた賑やかな酒場があった。扉の開け閉めは大きな音を立てた雑なものだったが、中の客達は男に全く注意を払わず、自らの作業に没頭している。拳銃、散弾銃、猟銃の手入れ。刀剣の曇りを拭う者。何れも法律違反の所行だが、刑事であるはずの男はそれらに目もくれず、真っ直ぐ店内を歩いた。使い込まれたカウンターに肘を乗せ、頭を掻き毟りながら曰く。

「ジェイ、いつものだ。頭痛が酷え」

 ジェイと呼ばれた酒場のマスター、ジェイコブ・ニールセンは、既に分かっていたようにグラスとウィスキーのボトルを手にしていた。男にグラスを出してツーショットを振舞いつつ、ジェイコブは言った。

「何か食うかい、ジョン。少し酒を薄めた方がいい」

「冷凍食品なら俺でも作れるぜ」

「じゃあ、酒よりアスピリンだろう。飲み過ぎは全身に毒だよ」

「酒場の親父が親切にどうも」

 ジョン・マクベティ警部補は顔を傾けて店内を凝視した。相変わらず客達は飲み食いを忘れて仕事に勤しんでいる。人数を頭の中で数え終え、ジョンはこれ見よがしな溜息をつき、向き直った。

「今日はライフル協会のパーティでもあるのかい?」

「ライフル協会に顧客は居ないな…奴等は呼びもしないのに集まってくる。『ハンター』の嗅覚は犬以上さ」

「『この世ならざる者』限定だがね」

 テンダーロインに隠れ家の如く在る酒場、ジェイズ・ゲストハウスに普通の客が来る事は有り得ない。客はごく一部を除き、ほとんどがハンターと呼ばれる者達だった。

 ハンターと簡素に呼称される人々は、野生動物を狩っている訳ではない。狩るのは「この世ならざる者達」だ。人間社会の暗闇に潜む、普通の人間では太刀打ち出来ない者達。怪物、悪霊、そして悪魔。ハンターだけが、それらに対抗出来る。

 ジェイズのような酒場は全米、ひいては全世界に存在している。それぞれが強力に連携している訳ではない。ほぼ、酒場毎の単独の活動に近い。

 行動範囲内の酒場を熟知しておくのはハンターにとって常識である。ハンターは酒を飲み飯を食うが、このような「酒場」は専ら拠点扱いだった。情報収集と、事前準備の為に利用している。都合、街から街へ旅をするハンターが一時の休息場とするのが専らなのだが、ジェイズの2階、簡易宿泊用の部屋は結構な数が押さえられていた。つまり長期滞在。腰を据えて、事件に関わるという事だ。ハンター達が戦う舞台はこの街、サンフランシスコ。

 ジョンは老若男女、雑多そのもののハンター達の顔をしっかり脳に叩き込んでから、へらへらと笑った。ジョンのその笑い方は、彼が悠長な気分ではない事を示している。と、ジェイコブは古い付き合いから知っていた。ジョンが言う。

「多いな。これだけのハンターを見たのは初めてだぜ」

「それだけまずい状況にあるんだよ」

「そうかもな。まずい状況。狼男と狼女の事件以来か。しかし今回は、複数の怪異現象ときたもんだ」

「そんなものは、俺だって経験した事が無い」

 通常「この世ならざる者達」が引き起こす事件は、数年から十数年単位のスパンを置き、1つの街で1つの事件が起こる程度である。2007年にワイオミングの地獄の門が開放されてから、悪魔や悪霊の大発生期を迎えたものの、それにしてもアメリカは広い。統率の取れない「この世ならざる者達」が一箇所に集結するのは極めて稀だ。

「今日だってあれだ、凄え事件があったんだよ。こいつもどうやら『あっちの事件』くさい」

「まだ聞いてないな」

「1時間ほど前に鑑識の現場検証が終わったとこだ。署から抜け出るのに往生したぜ。明日のCNNにゃ速報で出るだろうが、あんたには先に動いといてもらいたかったんだ。まずはシスコで進行する怪異現象を、今一度おさらいしてみるか」

 ジョンは懐からメモを取り出した。用紙には5つの事柄が系統立てて書いてある。つまり、1つの街に同時多発した5つの奇妙な出来事。確かにそれは、只事ではなかった。

 

 

 

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初期情報:『ジェイズ・ゲストハウス』