<げにをかし>
ブリュンヒルデお姉様ことブリ姉におかれましては如何お過しでしょうか。私、ゲイッロンドゥルは今日も張り切ってお茶を汲んでいます。いとわろしです。
相変わらず敵さんは来ないのですが、日ノ本の神さん達も遊んでいる訳ではありません。更なる結界の構築に余念なく、また蟻の通る隙間もないくらいの警戒網を敷いて、クソ野郎ルシファの影響力排除に日々勤しんでいるという状況です。
昔とは違って、昨今は海を跨いだ人の行き来が活発でありまして、つまり人にくっついて妙なものが人の世に入り込む事があります。日ノ本の戦も、当初は水際作戦が専らだったのだそうですよ。で、ルシファの息のかかった奴ばらは、問答無用で引き摺り出され、口では言えないような酷い目に合わされます。そいつが泣いて謝れば寛大に許し、八百万の一柱に加えて更なる力へと転化させる一方、どうしようもないのは本当にどうしようもありませんので、きっつい封印食らわしてコンクリ詰めにして大阪湾に沈められます。海に纏わる日ノ本の神は、スサノオ氏を始めとして凶暴な方々が多く、敵が下手に結界破りを試みれば、「うひゃほう」言いながらボコりまくりという末路を迎えるのです。やっている事がヤー公と変わりません。
先頃では、遂にヤツマタ殿とスサノオ氏が遠征の途へと出撃されました。それもドツキ合いを繰り広げながら。こうして外征の余力も着々と蓄えつつ、いよいよ意気軒昂の日ノ本神軍でありますが、最近私が出入りしております月夜見宮は大変静かです。静かというのは戦事とは関係ありませんでして、ただ参拝客が来ないのです。
凄いとは思います。アマテラスさんのおわします宮は最高位の格式があり、尚且つ土産物屋だの食べ物屋だの赤福餅だのがズラズラズラズラと軒を並べています。お参りして清々しい気持ちになりながら、物欲と食欲も満たせるという、まさにエンターテインメント神宮です。当然ながら大盛況です。次いでアマテラスさんの御飯係であるトヨウケさんの宮も、一応「トヨウケ→アマテラス」の順番で挨拶をするのがお約束になっていますから、こちらもまた大層な人の入りとなります。雰囲気が凄くいいですしね。
で、月夜見宮ですよ。
ここの祭神は、立場的にはアマテラスさんに匹敵するツクヨミさんなのですが、かなり人が来ません。理由は色々と考えられます。周囲に土産物屋が一つも無い。割と地理的に中途半端。そして肝心の社殿が、何と言いますか、その。
「まあ、侘しいとしか言いようが無いとは思うね」
と、社殿を見上げていた私の隣に、いきなりツクヨミさんの御登場。超ビックリです。ビックリついでに、私はかねてからの疑問をツクヨミさんに聞いてみる事にしました。
「日ノ本の神社って、神域の面積は広いのですが、肝心の住宅が何か地味ですよね? 皇大神宮ほどではありませんが、月夜見宮だって結構広々としていますのに」
「日ノ本の精神性の根幹を成すものに、質実と剛健がある。華美壮麗を飾り立てても、何れ人は死ぬものだ。ただ春の夜の夢の如し、ひとえに風の前の塵に同じなのだよ」
「平家物語ですね」
「ゲイ殿は勉学熱心であられるな。法師が詠う日ノ本言葉は私も好きだ。話を戻すが、勿論この八州にも東照宮といった、贅を極めて人目を楽しませるものがある。しかしながら、八州は激烈な自然現象の破壊を受け続け、その都度再生するという歴史を紡いで参ったのだ。さすれば、庶民が住処に質と実を求むるは必定となる。社殿が質素な佇まいを見せるは、その象徴たるという訳さ」
「成る程ですね」
「次いで言えば、遷宮の際に建て替える手間が多少は省かれる」
「実も蓋もないですね」
「とは言ってもゲイ殿、社殿が単なる『玄関口』でしかない事は、お茶汲みで来られる際に重々承知であろう。おお、そうだ。こうして出て来たのは他でもない。ゲイ殿に面白いものを見せようと思ってね」
「面白いもの?」
「私の数少ない、昼間の娯楽だ。興味深い参拝客の1人にスポットライトを当て、徹底的に観察するのだ。凄く楽しいよ」
三人姉弟の中では一番普通と思っていたツクヨミさんですが、偶にこうしてアレな面を見せる事がありますね、この方も。
ん?
「どうされた、ゲイ殿」
「いえ、そう言えばもう一つ、ややこしい事に月読宮がありますよね。皇大神宮のお近くに。何でまた月夜見宮の方ばっかりお住まいにしておられるのかなと」
「月夜見宮の方は名前が洒落ていて、いい感じなのだ。侘び寂び極める社殿も悪くない。それに」
「それに?」
「こっちの方が姉上から離れた位置にあるしね」
「お察しします」
<むくつけきまれびと>
ブリ姉。私は今、ツクヨミさんの社殿の『中』に居ます。此処こそが本来神さんの住まう場所なのです。鳥居を抜けてからが『神域と現世の中間』とすれば、此処は正しく『神域』と言えるでしょう。私達ワルキュリュルの集合住宅があった場所と、意義としてはおんなじですね。
ただ、この『神域』という場所も、やっぱり地味なとこなんですよ。この矢鱈に広い空間にあるものと言えば、卓袱台と小さな箪笥が一つ。ツクヨミさんも寝る事がありますが、その際は板間の上で横になるそうです。神話が地味なら、暮らし振りも地味。参拝客ー。もうちょっとお賽銭を奉じて下さいよー。赤福に舌鼓打つのもいいですけどー。
と、そんな地味間に燦然と輝きを放って鎮座しているのが、大型液晶テレビ。シャープのアクオスです。アクオスだけ、存在感が浮き過ぎです。私はツクヨミさんに聞かざるを得ませんでしたね。
「何スか、これ」
「縁ある者から貰ったんだよ。お陰で私の暮らし振りは総天然色さ。偶の贅沢品というのも、心が踊るものであるよ」
ツクヨミさん、何だかとても嬉しそう。アマテラスさんのお部屋はプロジェクターを駆使したホームシアターと化していますのに。ちょっと目頭が熱くなりました。
ツクヨミさんが慣れた手つきでリモコンを操作しますと、モニタに映像が映し出されました。内宮からちょっとだけ離れた場所にある駐車場です。何でまた駐車場。いや、そもそもこれは中継映像らしいのですが、一体誰が中継をしているのでしょうか。
「ああ、ベリアルにビデオカムで撮ってもらっているんだよ」
…四人の貴公子の1人なのに。彼女が今、どんな気持ちでカメラを回しているのかを想像すると。あ、いけない。笑いが込み上げてきました。あははは。
やがてモニタは、駐車場から出て来た1人の男を映し出しました。男、何でか歩行速度通常の1.5倍。他の参拝客はのんびりと散策を楽しんでいますのに、何でか歩行速度通常の1.5倍。何で?
「あの駐車場、1時間までは無料だからね」
と、ツクヨミさん。セコい。セコ過ぎです。あまりのセコさに冷笑すら浮かんで参ります。どうやら彼が、ツクヨミさん言うところの「スポットライト」のようですよ。この一心不乱さは、楽しむのではなく「参る」事に一点集中している様を表しており、確かに興味深いものがあります。テレビから『チッ』という舌打ちが聞こえてきました。多分ベリアルです。歩行速度が半端に速いせいで、カメラを回しにくいのだと思います。駐車場料金節約の為に1.5倍速で歩く男。それと同速度でカメラに収める元四人の貴公子の金髪巫女。繰り広げられているのは、そんな絵面。
「ゲイ殿、笑い転げる間にかの者、五十鈴川で手を洗っているぞ」
いけないいけない。場を弁えずに転げ回ってしまいました。多分手水舎が人で一杯だったのでしょう。男は内宮傍の五十鈴川で手を洗い清め、また猛然と歩き出しました。
「作法的にどうなんですかね、これは」
「いや、別に構わないよ。左手を清め右手を清め、然る後に左掌に受けた水で口を漱ぐ。なんて作法も、遥か昔の禊を簡略化したものだ。五十鈴川で全身水洗いというのは大変過ぎるであろう。要は身を清めて参ります、という気合を私達は尊重する。敬意あらば、何れ作法も身に付くものだ。かの者些か雑であるが、敬意は感じられる。礼儀に対して、相応の礼儀で私達は応じるものだよ」
「じゃあ手も洗わない、騒ぐ、挨拶もなっていない、ただ敬意もなく観光に来ただけという輩には、やっぱり相応に対する訳ですか? 祟るのですか?」
「滅多とそのような事はしないよ。ただ、情操教育が失敗した可哀相な子、という印象しか抱かないな、私は。しかしながら神とは言えど、虫の居所が悪い時もあるので注意が必要だ」
あ、ちょっと怖い。ここの神さん、大らかな方が多いのですが、その分怒らせると際どい事になりそうです。あんまり細かい事には突っ込まず、次行ってみましょう、次。
件の男は、樹齢五百年とか千年の巨木の参道を脇目も振らずに突き進み、拝殿に至る階段をガシガシ登って行きました。もうちょっと神宮の雰囲気を楽しめばいいのに、感性いとわろしな男であります事。男は拝殿前で財布を取り出し、十円玉を選ってポケットに突っ込み、如何にも大急ぎの二礼二拍一礼を試みようとしたところで、ギョッとした顔を隣に向けました。私もギョッとしました。男の隣で、両手を広げて何やら呪文のようなものを呟いている立派な出で立ちの男性が居ましたよ。ええっ?って思いますよね。ええっ?って。
「…この方、アマテラスさんのお友達さんですか?」
「いや、姉上の声が聞こえるような気がしているだけの人だ」
バッサリ。
男は気を取り直し、願い事とか心構えの宣言とか、一切せずに賽銭入れて挨拶をしました。多分、「こんにちは」って言っているだけですよ、この人。わざわざ皇大神宮まで来て「こんにちは」とか。あ、画面にアマテラスさんが映りました。ものごっつい怪訝な目で男の顔を覗き込んでます。やっぱり見えないんですね、人間に神さんの姿は。私も何だか、この男に興味が湧いてきましたよ。
男は挨拶をするだけして、一目散に来た道を戻って行きました。見送るアマテラスさんも微妙な表情です。
宇治橋を渡って、そろそろ寒い時期に汗だくとなりつつ、男は一心不乱に割と離れた駐車場へと向かいます。急げ男、頑張れ男。早くしないと駐車料金無料が反故になりますよ。
しかし男は、ふと足を止めました。彼の目の前には、何と赤福本店。
「まさか」
「入るつもりか、この者は」
呆気に取られる私とツクヨミさんを後目に男は暖簾をくぐり、「赤福餅3ヶ・番茶付 @280円也」を買い、約45秒ほどでそれらを平らげ、次いで折箱12ヶ入りを買い求め、凡そ2分足らずで店を出て行きました。何だか出てくる言葉がありません。
男は料金無料反故まで残り10分足らずで駐車場に辿り着き、自動車で慌しく出発致しました。道路を懸命にひた走る小さな車をぼんやりと眺めながら、私は首を傾げます。で、ツクヨミさんに聞きました。
「まだカメラを回すのですか?」
「一部始終を堕天使にカメラで撮られていると知ったら、かの者卒倒するであろうな」
「いや、そういう事ではなく」
「そういう事なのだよ、ゲイ殿」
と、ツクヨミさんが笑って曰く。
「この者、真に参る所存であったのは、この月夜見宮なのだ」
「マジですか」
「だから興味深いと申した次第」
男、月夜見宮の周囲を無駄に一周し、鳥居前の道路に車を停めましたよ。そしてパーキングメーターに硬貨をば入れようとしたのですが。
「硬貨投入口が塞がっていますね。何故でしょうか?」
「私もさっぱり分からぬ」
男はパーキングメーターの周りをオロオロと歩き回り、「えいやっ」とお金を入れずに鳥居を潜りました。
が、慌てて外に出て一礼して行きました。一生懸命な抜け作さんというのは見ていて飽きないものがあります。男はその過程で月夜見宮専用駐車場を発見して、期待通りに絶句です。男は気を取り直して今度こそ手水舎で作法通りに清め、拝殿の前に立ち、しばらく呆然と眺めていました。
「多分。多分ですが、この人失礼な事を考えていますよ」
「皆まで言わずとも良い」
男はハタと正気づき、賽銭を入れました。何と百円玉ですよ。皇大神宮では十円だったのに。アマテラスさんが知ったら、イラッとされるかもしれません。
二礼、二拍の後、男は深く頭を垂れました。今度は「こんにちは」ではないようです。それが証拠に、ツクヨミさんも身を乗り出し、男の言葉に神妙な面持ちで耳を傾けています。そして男は一礼して、参道を慌てて戻って行きました。きっと違法駐車になる事を恐れていたのでしょう。全く、一から十まで慌しい男です。
男の車が出立したと同時に、『部屋』の中へベリアルが戻って来ましたよ。案の定、憤懣やる方なしの顔で。私は慰めの言葉をかけました。
「気は済みましたか」
「それは慰めの言葉ではない」
苛々を更に加速させてベリアルの曰く。
「全く、馬鹿馬鹿しい。月読が徹底マークしろと言ったから、只者ではないと踏んでいたのだけどね」
「只者でしたね」
「只者だ。あのような者を付け回した意味が分からない。このやるせない気持ちを一体どうしてくれる」
ベリアルは厳しい目をツクヨミさんに向けました。対してツクヨミさんは、腕を組んで思案の風情です。私達は顔を見合わせました。
「成る程ね」
呟いて、ツクヨミさんは組んでいた胡坐を解いて起立しました。
「それでは、出迎えに参ろうか」
ツクヨミさんが軽く人差し指を振ると、私達は社殿の外に出ていました。そうして待つ事しばらくの内に、先の男が、あれ、また来ましたね。どうやら何処かに車を停め直したみたいです。
男は鳥居をくぐらず、その手前でひたすら立っています。やがて彼の背後に、ぽつりぽつりと影が浮かび上がりました。その数は瞬く間に増えて、軽く百を越えています。
「見誤った」
自らの眼力が曇ったと判断したのでしょう、ベリアルが唇を噛みました。そうする間にも影は明確な形状を作り出していました。狗です。それも相当でかい。いや、フェンリルほどではありませんが、向こう側の格式は恐ろしく高いです。私も「しまった」、でした。実に奇妙な奇襲ですけれど、私は完全に虚を突かれた気分です。あれが一斉に来るのは少々まずい。いや、相当まずい。
そんな私とベリアルの動揺を他所に、ツクヨミさんは『よっ』と片手を上げて彼らに挨拶を送りました。対して狗達が一斉に頭を下げましたので、私は腰が抜けましたよ。
<いぬ>
そのサブタイトルは適当過ぎやしませんか。
さて、どうやらツクヨミさんとは見知りであるらしい狗ちゃん達は、のそのそと鳥居をばくぐろうとしておりました。が、男が彼らを押し留め、先ずは鳥居に一礼しないと駄目、みたいな事を言っています。まあ、礼儀正しいと言えばその通りなのですが、いい加減話も巻きが入っているこの状況、ツクヨミさんは若干苛々している御様子です。ちなみに男には私達が見えておらず、しかしあの奇妙な狗達は視認しておりました。何か特別な縁で彼らと結ばれているのでしょう。
整列。ぺこりんと頭を下げ、男を先頭に狗達がゾロゾロゾロゾロと参道へと入って参りました。そして一直線にこちらへ向かってくるのかと思いきや、男、手水舎前にて停止。また清めていますよこの人。ツクヨミさんが、これみよがしに足先でリズムを刻んでいます。早うしてたもれ。そう言いたいのでしょう? でも残念でした。男は間抜けな事に、柄杓を持って狗達の前に立ちましたね。男は若干得意げに言いました。
『左手を清めて、右手を清めて、そして左掌に受けた水で口を漱ぎます。はい、やって下さい』
『しかし柘植よ』
狗達の統率役らしい立派な体躯の御方が、困惑ありありの声で応えます。
『わしらの足では柄杓を掴めぬ』
『しょうがないなあ。じゃあ、1人ずつ並んで下さい。俺が足を洗って水を含ませてあげますから』
正気か。101匹ワンちゃん全員を清めるおつもりか。日が沈んで夜が明けますよ。このアドリブの効かない杓子定規加減は芸術的、とまで言ってしまいましょう。
ツクヨミさんは、案の定疲れ果てた溜息を吐きました。そしてパチンと指を鳴らします。直後、私達と男と狗達は、神域に身を置いていましたとさ。
ここは誰。私は何処。等と狼狽してみたところで状況は変わらない。つい先頃まで何とも味のある月夜見宮社殿前に居た俺は、気が付いたら駄々っ広い、金輪際見た事も無い広間に身を置いていた。傍らには卓袱台と小さな箪笥。それに何でかアクオス。何でアクオス? 俺の思考は完全に停止していたのだが、それでも半ば本能的に山田さんに声をかけていた。ちなみに山田さんというのは、山犬の皆さんの長の事だ。名前は無いと仰るので、俺がつけてみた。俺の地元、山と田んぼしか無いからだ。当の山田さん、何とも嫌そうな顔をしていたのが心に残っている。
「山田さん、ここは誰。私は何処」
「落ち着くのだ柘植。わしらに参集を呼び掛けた御方、夜の君、月読尊のおわす尊い場所である。先ずは主が改めて挨拶をするが良い。くれぐれも粗相のなきよう、心からの敬意を払う事だ」
「つくよみ…」
月読尊って。あの神話で今ひとつ何してるか分からない月読尊? 凄いな。居るんだ、本当に。びっくりだよ。いや、俺の体の数倍はある山犬の神さんが101匹、俺の前に出て来た時点で何が居てもおかしくない訳だけど。しかし言われてみると、俺の真正面に巨大な靄みたいなもんが見えるような気がする。これか。これっていうのは失礼か。それに傍らに居るのも、負けないくらい存在感がある。こっちの方は、ちょっと嫌な感じがするのは気のせいか? 次いで一回り小さいのも居るが、こっちは分からん。何が何だか分からん。とにかく挨拶だ。
「えー。あの。かけ、かけまくもかしこき月読尊に、かしこみかしこみ、かしこみかしこみ、かしこみの後は何て言うか御存知ですか?」
『形式張った挨拶は抜きにしよう』
ここは誰。私は何処。
『申し訳ない、加減を誤ってしまった』
聞いた事のある声が頭の中に響いてきた。これは月読尊の声だ。あ、段々と分かってきた。どうやら俺は、意識が一瞬飛んじまったらしい。声だけで卒倒したのかよ。神さん怖え。超怖え。月読尊は随分と優しい声音で語りかけてくれるが、それでも全身がビリビリ震えてくる。さっき怖いって思ったが、よく考えてみると、この感覚はちょっと違う。じゃあ何だ。適切な言葉があったような。分かった、畏れだ。俺は月読尊を畏れているんだ。
『困ったね。桑港の縁者とは問題なく話す事が出来たのだが。思うにこれは、素養という奴なのだろう』
月読尊が頭を掻きつつ言った。頭を掻いている姿なんざ実際見えやしないんだが、どういう訳か分かるんだよ。
『神々と、と言うより、人間以外のものと意思疎通を成立させる素養が、君は些か薄いのだ。かつての君達の祖先が誰しも持っていた超自然的感覚が、ここ200年を境として急速に磨耗しつつある。これが成り行きというものだから、それは仕方無い。しかしながら、君は狗神との強固な縁を繋いでいる。しばらくもすれば、私との対話も差し障りなく行なえよう。それでは柘植という人よ、改めて私に挨拶をしてくれまいか? 君との縁を結ぶ為に必要な事なんだ』
「…普通の挨拶でもいいですか?」
『それがいいんだよ』
「それでは。初めまして、柘植と申します。どうも自分の先祖が、こちらに居られる山田さん達と何らかの契約を取り交わしたらしく、代が移って私がその役回りになったとの事です。以後、宜しくお願い致します」
『ありがとう。私は月読。日ノ本を代表する三柱がひとり。かの一族をよくぞ連れて来て下さった。御礼申し上げる』
何かが肩に触れた気がした。どうやら俺の肩に手が置かれたらしい。それを境に、俺の緊張は一挙に解れた。ほっ、と息つく俺の後ろで、今度は山田さん達が一斉に傅いたよ。傅くって言っても、何せ犬だから『おすわり』なんだけどね。
で、月読尊と山田さんが挨拶を交わしているのだが、何を言っているのか全然分からん。祝詞の「かしこみ」とか、そんなんじゃない。言ってみれば、楽器の音色みたいなもんだ。山田さんが重低音の打楽器なら、月読尊は落ち着いた弦楽器ってとこだ。何とも優雅で、崇高な雰囲気がある。これが神々の対話か。今更だが、凄い体験をしているぞ俺は。
『それでは柘植殿』
いきなり月読尊が話題を振ってきた。
『事の始まりを私に聞かせてくれないか? 君がどのようにして彼らと縁を結ぶに至ったのか、興味深いものがある』
「え? それは山田さんの方が詳しいのでは?」
『人の言葉で聞いてみたいんだ。良かったら聞かせて欲しい』
こうして傍目で見ているとつくづく思うのです。ツクヨミさんは本当に人間が好きなのだなあ、と。身振り手振りを交えて懸命に話す、何だかパッとしない柘植という人間の男に対し、彼を見るツクヨミさんの目は、まるで子供の学芸会を見守る親のような按配でした。考えてみれば、確かに日ノ本は人間と神さんの距離が非常に近いお国柄です。例えば「ちょっとお参りでもしようかな」と人間が思い立ったらば、其処彼処の歩ける距離に神さんの縄張りが存在していますね、日ノ本ってとこは。それも特別な儀式も必要とせず、賽銭投げて手を合わせれば、神さんに会う事が出来るという訳です。差し詰め会いにいける神々。どっかで聞いた事のある話ですね。しかしこの距離の近さには、ちょっと妬けるものがあります。私の郷里にはワルキュリュル神社なんてものは存在しませんので、直接人間が訪ねてくる機会などというものは、まずありません。そんなツクヨミさんと柘植の様子を、ベリアルは何ともつまらなそうな目でもって眺めておりますが、成る程、確かにこの人、未だ道半ばという印象ですね。
そうそう、柘植が必死こいてしゃべっている内容というのは、大体こんな感じでした。
ある時、寝入り端と目覚めの直前に、犬の吠え声が聞こえるようになりました。幻聴かと思いきや、それが段々と明確な言葉に化け始めるのです。
『我ら一党、参集に応じんが為に自由を欲す』
何だか怖くなりましたが、頑強に幻聴説を唱えて耳を閉じる日々を続け、それでも『声』は次第に大きくなる。しまいには哀願口調で頼まれる始末。さすがにどうにかせねばと考え、彼は『声』が導いた古い社へ赴き、然るべき手続きを経て封印を外しました。そして101匹ワンちゃん大登場。男卒倒。目を覚ますとやっぱりワンちゃん101匹。もう一度卒倒しようとするも、さすがにそれはワンちゃんの方が許しませんでした。
ワンちゃん曰く、我等は紀州から大和にかけて放浪していた狗の一党である、とな。その昔、柘植の祖先である草共(忍者の事だそーです)と合力し、猫の怪をば討ち滅ぼし、見返りに男の祖先が所有していた山一つを譲り渡されたとの事。この先永劫に人の入りを禁制とするオマケ付き。定住の地を得られ、殊の外嬉しく思った彼等は言いました。
『きちんと奉ってくれたら、ここの山菜取り放題である』
けれども獣や鳥とかは我等のものであるからね?
つまり、言外にそう言っていた訳ですね。聞かされた柘植の御先祖さんは、何とも微妙な気持ちになったんだろうと想像致します。で、しばらくは癒しに集中する為、柘植の祖先にその地に封じて貰った、との事。そしてツクヨミさんにお呼ばれしたはいいものの、独力では出る事が出来ません。以上、最初に戻るという顛末。
「成る程。そなたはいにしえのものと面白い縁を持っているのだな」
一通りの話を聞き終えて、ツクヨミさんは満足そうに頷きました。
「それではかつての約定に因り、紀勢主狗神を我が袂に置き、以後共に外敵を討ち滅ぼす同胞とならむ」
どうやら紀勢主狗神って方々は、その昔ツクヨミさんが苛烈な戦を交えたお相手らしいです。道理で激ヤバな霊格をあの方々に感じた訳ですよ。
「純粋な霊格を言えば、人間よりも動物の方が強い。特に狗や猫は情感が豊かゆえ、その力破格也」
とは、ツクヨミさん曰く。
「私が説きに出向いた頃、あの者達は民を食い殺す危険な神々だったのだよ」
「食うのですか、人を。全然そうは見えませんでしたが。柘植の後ろでちょこなんと座っとりましたが」
「かつては知恵をつけた野生のものだ。人に従う道理を持たぬという訳だ。して、降伏の際にこちらが条件を出した。余程の無礼が無い限り人を許容せよ。そして人を食うなとね」
「そうやって土着のばけものを、貴方達は征服して回った、という事」
お茶を飲みながら、若干勝ち誇ったようにべリアルが言いましたね。ワルキュリュルの中でも鈍チンナンバーワンと賞賛される私でも、それは大層な嫌味だと分かりました。何だかんだ言って、世界規模で自分達がやってきた事と、大して変わらないじゃないと。対してツクヨミさんは、特段反論はしませんでした。
「まあ、そうだ。話し合いだけで完全な融和を果たす事は難しい。出来れば戦いは避けたかったのだが。思うところを為そうとすれば、必ず敵に回るものが出る。これも人の世の映しなのだろうね」
調子が狂ったのか、ベリアルはそれ以上突っ込まず、気まずい顔で茶をば啜っておりました。
珍しい。凄く珍しい事ですが、ツクヨミさんが弱音みたいなものを口にしましたよ。日々至ってマイペースなこの方にも、悩みがあったとは。
「今、ひどく失礼な事をお考えだね?」
「いえいえ、左様な事は微塵も」
<終>
ルシファ・ライジング 第六回より【日ノ本要塞:まろうどきたる】