あずきとぐ

「何をしているんですか。何を」

「小豆をといでいます」

 いい月が出ています。暑苦しい夏も過ぎて風も心地良いです。そんな穏やかな夜に、無心でしゃかしゃか小豆をといでいる小柄なお爺さん、というのを見たからには、どうしても声をかけずにはおれませんでした。こうして要らん事に首を突っ込むのは私の悪い性分と言えましょう。こんばんは。ゲイッロンドゥルです。そして私は、着地点が見当たらない不毛な会話を続けざるを得ませんでした。

「小豆をとぐのですか」

「小豆をとぎます」

「とぎますか」

「とぎます」

「何故とぐのですか」

「そこに小豆があるからです」

「小豆が無かったら、どうしますか」

「小豆を探してとぎます」

「夕飯の時間も」

「小豆をとぎます」

「ルシファの軍勢が攻めてきた時はどうしていましたか」

「小豆をといでいました」

「小豆をとぐ事が戦いであるという意味ですか」

「小豆をとぐ事にそのような意味は無いと思います」

「またルシファ共が攻めてきたら何をするのですか」

「小豆をとぎます」

「皆が戦いを繰り広げているその時、あなたは小豆をとぎながら何を思うのですか」

「皆の無事を心から祈りつつ、小豆とがねばと思います」

「小豆をとぐ事が皆の無事に繋がるという意味ですか」

「小豆をとぐ事にそのような意味は無いと思います」

「ひたすらとぐのですか」

「ひたすら小豆をとぎます」

「頑張ってといで下さい」

「ありがとう。頑張って小豆をとぎます」

 小豆をとぐ手を全く止める気配の無い老人に頭を下げ、私は快い気持ちになって夜の参道をば再び歩きました。

 この老人は、「あずきとぎ」という妖の者でして、何をするかと言えば小豆をとぐのです。それだけです。信じ難い事です。

『夜の道を歩いていて、シャカシャカと何かを洗う音が聞こえたら、きっとそれはあずきとぎが小豆をといでいる音なんだよ』

 これだけ。何だそれ。たったこれだけの存在なのですよ、あのあずきとぎっていう方は。ここまで存在意義がようも分からん妖は世界的に見ても無いのでは。いや、日ノ本にはこういうのがわんさかと居るのです。

『便所で用足しをしていて背中がぞくっとしたら、かんばり入道の仕業だよ』 『便所覗く変態じゃないのか』

『目と鼻が無いけど、歯が真っ黒な化け物が居たよ。お歯黒べったりって奴だよ』 『特に何もしないんだよな』

『濡女子(ぬれおなご)って、単に全身ずぶ濡れなだけの女妖怪なんだけど』 『通り雨にやられただけじゃないのか』 『いや、笑いかけられて笑い返したら、一生つきまとわれるんだって』 『美人ならむしろつきまとわれたい』

 何だか混乱してきました。凄いなこれ。どいつもこいつも意味がありません。存在に意味を見出す事にこそ意味が無いのかも。基本的に妖というのは、人に害を為すか益を為すかの二者択一が、世界的常識って奴じゃないですか。意味は無いけど居る、っていうのは凄いなあ。本当に凄いなあ。

「…ま、そういう者達ばかりでもないのだけどね。妖怪の類という奴は。致命的な輩も居れば、人に寄添う者も居る。そして単に人をびっくりさせるだけの者も居るという訳だ」

 あ、月夜見宮の社からツクヨミさんが御登場です。ブリュンヒルデお姉様。略してブリ姉。ツクヨミさんとは、アマテラスさんの弟1にあたる方です。それだけ高い位にありながら、日ノ本の神話では一体何をしているのかさっぱり分からないという、奇特な御方でもあります。御本人曰く、要領良くやってきたんだよ、との事ですが。大体件の神話は、スサノオ氏が荒ぶり過ぎの目立ち過ぎなのですよ。

 ツクヨミさんは社に私を手招きし、拝殿の柵に腰掛けました。そうして自身の御髪を軽く手で梳いています。この方は所作がいちいち優雅です。おまけに物凄え美男です。あの姉と弟のサンドイッチがコレかよ、という感じです。ツクヨミさんは艶のある声音で私に言いました。

「自然への崇敬と闇への畏怖によって生まれ出でたのが彼らだ。だから牙を剥く事もあれば人の役に立つ事もある。勿論、無害であるというのも、それはそれで有りだ」

「人間の想像力に導かれた者、という事は、つまり神々と同じなのですか?」

「同じだ。彼らもまた、土着の神なんだよ」

「妖と神が同じであるというのは、中々受け入れ難い感覚です。しかし、畏れの象徴という割には、比較的穏やかな印象がありますね、日ノ本の妖には」

「それも矢張り、民の認識が反映されているのだ。ほら、見上げれば月が美しい。夜には静謐で穏やかなイメージもあって然るべきという訳さ。私は、夜が出来るだけ乱れぬように見守る者なのだ」

『とは言え、貴方も姉弟同様、荒魂を抱える者ではなかったかしら?』

 と、いきなり女の声が割り込んで来ました。拝殿の奥、本殿から巫女装束の者が…って、黄金の髪ですよ。凄いなあ、金髪巫女とか。しかし人間です。人間の肉体を持つ者? その割に、私達の姿が見えているのは、どういう意味だか分かりませんが。ツクヨミさんが小さく笑って曰く。

「案ずる事はない、ゲイ殿」

 ちょっとイラッときました。

「人と約定を結び、かの者に憑いた天使だ。元天使と言うべきか。名をベリアル。四人の貴公子が1人という話である」

 

べりあるさん

 さっきからずーっと聞こえていた小豆をとぐ音が聞こえなくなりました。虫の音の響きも止みました。この辺りから音という音が無くなりました。多分、それは私のせいだと思います。

 私の名前はゲイッロンドゥル。槍持ち突進する者というその名の通り、私の本分は戦にあるのです。槍を持って敵陣を突き破り、大将の心の臓目掛けて穂先を打ち立てる。そんな生来の野蛮な血が、この仇敵を前にして煮え立つ感覚に囚われました。

 この堕天使、ベリアルは北方欧州に住まう私達を攻め滅ぼした軍団に属する者です。ルシファの仲間です。ギッタギタのグッチョグチョにしても飽き足らぬ最悪の敵です。こやつを殺せ。素っ首切り落とし槍に突き刺して晒せ。心の中がそんな喚き声で満たされたのですが、ふと思い直すと、私はベリアルに対する戦意を霧消させてしまいました。で、私はツクヨミさんに言います。

「どーしてこの人はツクヨミさんと御一緒なのですか? お互い敵同士だったと思うのですが」

 そう言うと、ツクヨミさんは少し驚いた表情を浮かべ、問いには答えず感心したように言いました。

「見事。御見事だ。そなたには理性で情動一切を打ち消す素晴らしい才覚がある」

 よく分かりませんが褒められてしまいました。でへ。しかし隣に立っていたベリアルが、冷笑を浮かべて水を差してきましたよ。

「私に戦意を向けるとは勇気のある事。矛を収めて命を拾うのも良い選択。たかがお茶汲みの女神風情にしては上出来」

 ゴスッ。

 と、ツクヨミさんが皆まで言わせず、裏拳をベリアルの額にぶつけました。げあ、と呻き、膝をついて額を押さえ、涙目のベリアル。あ、ちょっとスッとしました。

「そなたは一言多い」

 鼻を鳴らし、ツクヨミさんが言いました。

「それに寛容さに欠ける。まだまだ神の域には程遠い」

「私は神になるつもりはない。私の神は御一人だけだ」

「其処の辺りを理解出来ぬようでは、そなたの歩みも道半ばという事さ…さて、ゲイ殿」

 ツクヨミさんは向き直り、先の問いの答えを私に述べました。

 

「負けたのですか!?」

 ベリアルが眉をピクリと動かしましたが、彼女の苛々に頓着する余裕は私にはありませんでした。

 早い話が、ベリアルは人間に負けて思うところあり、日ノ本を訪れたという事なのだそうです。

 ブリ姉、私は大層驚きました。控えめに見ても、ベリアルは恐るべき存在です。その位階はあのルシファに次いでおり、そんなベリアルが人間に敗北を喫するとは晴天の霹靂って奴ですよ。

「そう。この者は人間に負けたのだよ」

 ベリアルの目が吊り上りました。案の定ですが、ツクヨミさんは意に介した様子は全くありません。

「でも、あのベリアルですよ? 翻って人間は、何と言うか、まあ、割と怪我し易いですよね。一体どうやったら負けるっていうんです?」

「其処は人間も色々工夫を凝らしていてね。彼らは何処かの神が作った依り代に身を移していたのだ。そなた、何故人間には限界が存在すると思う?」

「何故…と言われても。出来る範囲というのは、限られて当然なのでは? そもそも神さんにだって出来ない事は山のようにありますし、強い相手とやり合えば死んでしまいますよ」

「私達に限界が存在する理由は、人間の想像力の範囲内に縛られているからだ。そして人間自身が後一歩を越えられないのは、彼らが肉体を持つ存在であるからに他ならない」

「ああ、それは分かります。人間の体というものは、どうも鈍重で非力という印象がありますね。その重さに想像力が引っ張られている、という言い方は合っていますかね?」

「合っている。彼らは時間と空間を超越する自分自身を想像する事が出来るのだが、知力に加えて肉体的・物理的な限界がそれらを不可能と判断する。肉体による枷がかけられている状態だ。安全弁と言い換えて良いかもしれない。しかし、もしも肉体を維持したまま、限界の突破に成功したら」

「成功したら?」

「人は神になる。ただし、それは極めて危険な所行だ。恐らくかの者、自己崩壊へとまっしぐらに突き進むであろう。だから先の依り代は、人間が安全に神の域へと近付く為の創意工夫という訳さ。かの依り代には操り手の無尽蔵の想像力が詰まっている。ベリアルが負けるも、さもありなんだよね」

「成る程、人間による神鳴る力に負けたのですか。ざまあみろと思いますね」

「…先程から言いたい放題にしているけれど」

 負けた負けたをわざと連呼するように心掛けておりましたが、思った通りベリアルが不満も露に申しました。ふふ。

「確かに私は勝負に負けた点を認めたわ。しかしそれは局所の一点での出来事に過ぎず、私自身は存分の余力を残したまま身を引いた、という事。本腰を入れて再戦すれば、敗北する要素は何処にも見当たらない。これは傲慢ではなく、事実を述べているに過ぎない、という事」

「その気位の高さは八百万の中でも頭一つ抜けているな。まあ、構わぬ。参道を掃き清め、社殿を拭き清め、日々暮らすが良い。その繰り返しに、そなたは答えを見出すであろう」

「答え、とは?」

 ツクヨミさんの言葉に、私は興味を惹かれました。何故だか私も分からないのですが、それは常日頃抱く私の疑問と同じではないかと思えたのです。本殿に戻る道すがら、肩越しに振り返ったツクヨミさんが言いました。

「自分とは何者であるか。その答えである」

 ツクヨミさんが引っ込んで、何となく私とベリアルはその場に仲良く残されてしまいました。当初の戦意はとうに失せ、不思議な事ですが、私はこの奇妙な堕天使に共感めいたものを感じております。不思議な事です。一族を滅亡に追い込んだ軍団の者でありますのに。で、私は聞いてみました。

「ベリアルとは、何者なんですか?」

「いや、それを見出す為に道半ばであると、先程も話題に出ていたと記憶しているけど。お前、ゲイッロンドゥルという名前だったわね?」

 と、不意にベリアルは私を眺める視線に興味を絡ませてきました。いや、それ以前にこの人は、私の名前をきちんと発音してくれましたよ! もしかすると、いい人なのかもしれません。

「自分が何者であるのか、答える事が出来る?」

「現時点ではお茶汲みを司る者です!」

「それでいいのか」

 

 

 

 

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ルシファ・ライジング 第六回より【日ノ本要塞:つくよみさん】