老神父

『愚かな』

「そうは思いません」

 老神父は小さな教会の前に立ち、目に見えぬ『何か』に答えた。

 後にミッション・ドロレスと名付けられたこの教会は、この地域に入植したスペイン人によって、建造されたものだ。都合、サンフランシスコで最も古い教会となるのだが、今の入植者達にとっては、ただただ礼拝を行なう場所が欲しかったという、それだけの意味でしかない。

 しかしながら実のところを言えば、この教会の存在には、また別の意味があった。この教会の直下に封印された災厄の躍動を、更に抑え込むという極めて重大な役回りが。老神父はそれを知る者であり、そして彼は少しずつ存在感が希薄になりつつある『災厄』と、最後の言葉を交わそうと試みたのだ。それは彼なりの慈悲であったのだが、理解出来る頭が『災厄』には無い。

『ただ、時間を延ばしたに過ぎません。それもほんの僅かな、些細な時間を』

「人にとっては、貴重な時間に成り得るのです。確かにこの程度の抑えでは、貴方の顕現を止められますまい。しかしですな、先の世で人々は気付くはずです。団結し、貴方に立ち向かわねばならないのだと」

『立ち向かう? 何故です? 人の守護者たらんと決意したこの私に、立ち向かう道理がありません』

「人の心は、がさつで乱暴で、そのうえ愛情に満ち溢れております。その激しさは貴方の想像の域を超えているのです。貴方は人の心を貴方の庇護の下で纏め上げようとお考えですが、ゆめゆめお忘れの無きよう。必ずや、それは破綻しますぞ」

『小さく、か弱く、憐れな者よ。自己という存在が如何なるものかを理解し得ない者よ。私は全てを、平等に救う理力があります。この教会を撤去なさい。お前達の時間で二百年の後に、未曾有の殺し合いが二度も発生します。ミカエルとルシファの決戦が始まる前に、断固としてこれを止めさせねばならぬのです』

「無理ですな」

『無理とは?』

「人の欲得、怒りと憎しみ、おぞましい感情の暴発。悲しいながら、これもまた人であるのです。人の引き起こす災厄を、貴方ほどの御方でも止める手立てはありません。それでも人は、自ら変わろうと努力致します。その努力を妨害し、頓挫させる動きもありましょう。それでも努力は延々と続けられるのです。そうやって、人の歴史は紡がれて参りました。もう、貴方は関わるべきではありません。滅びるも生き延びるも、それは人次第」

『その時人は悔い改め、更に大きなものへ救いを求めるでしょう』

 その声を最後に、『災厄』の声はぷつりと止んだ。

 老神父は悲しげに頭を振り、杖を突いて坂道を下って行った。

 

 坂道を登って来る一団は、壮年の神父を先頭にして、喜色満面の入植者達で溢れている。

 そうして彼らは、小さいながら白亜の綺麗な教会を見上げ、満足げに周囲と溶け込む景色の美しさに浸った。

「ふう、疲れた」

 男の1人が腰を下ろし、持参した水筒から水を汲む。神父にもそれを勧め、2人は汗を拭って教会を今一度見詰めた。

「しかし、神父様」

 男が問う。

「何でまたこんな所に協会をお建てになったんです? もっと港寄りの方が便利でしょうに」

「何で、と言われると、上手く説明出来ませんね」

 神父は首を傾げつつ、それでもある種の確信めいた言葉で続けた。

「ただ、ここが一番いいと思ったんですよ。教会を建てるなら、ここが最適なんだと」

「それは何とも目出度い思し召しですな!」

 顔を見合わせ、2人は笑った。

 

ブラウン・ファレル

 電話の向こうの男は、その名をジョーンズ博士に出されても、しばし躊躇するような反応であったものの、すぐさま『ああ!』と得心の声を上げた。

『確かに、わしらのコミュニティの者ですよ』

「そうですか。いや、唐突な事を聞いて、申し訳ありませんでしたな」

 博士は礼を述べて公衆電話の受話器を切った。そして首を傾げて考え込みながら、ミッション・ドロレスに至る通りの雑踏をスルスルとかわし、歩を進めて行く。

 サンフランシスコ大学に客員教授として短期間招聘され、講義に研究活動にと多忙の日々を送る博士にとって、ミッション・ドロレスというサンフランシスコの名所の一つを訪問するというのは、とても珍しい事だった。余り良い言い方ではないが、ドロレスのように出自のしっかりした歴史的建築物に、博士は然程興味を示さない。博士の旺盛な好奇心を掻き立てるのは、未だ全容が明かされていない歴史的事実、まだ見ぬ秘境の遺跡、そして科学的な観点では説明のつかない様々な事象である。その意味では、ドロレスに居る依頼者が持ちかけた話は、デスクワーク三昧に辟易していた博士の心を揺り起こすインパクトがあった。

 ミッション・ドロレスに辿り着くと、博士は顔を上げて2つの建物を見上げた。右側の方が近年(それにしてもかなりの年月である)に建築された、壮麗な建造物だ。そして左側が、綺麗に手入れがされているものの、小さく古い教会である、本来のミッション・ドロレスとは左側の方を指すのである。

「ふむ。こっちの方が私は好きだな」

 そう呟いて、博士は躊躇無く左側に向かった。途中で寄付金$5を支払う途中、当の依頼者が驚いた顔で教会の中から出て来た。

「まさか、本当に来て下さるなんて!」

「呼んでおいて、その言い方は無いだろう、ファレル君」

「しかも$5を払わねばなりませんし」

「教会に寄付金を払うのは当然だが、強制徴収は余り聞かない話ではあるな」

「相場よりも若干高いとは思いますね」

 等々やり取りしつつ、博士と依頼者、サンフランシスコ大学の学生であるブラウン・ファレルは肩を並べてドロレスの礼拝室に向かった。

 一昨日、客員教授である自分に初見のファレルが面会を求め、一体何かと思えば、彼はとんでもない話を切り出してきた。オーロネというネイティブ・アメリカンの部族出身である彼が、代々祖先から担ってきた、アルカトラズ島の封印作業を手伝って欲しい、というものである。現状、アルカトラズは他のネイティブ・アメリカンによって人種差別抗議の為の占拠が続いており、同じ系統のファレルでもおいそれと近付く事は出来ないでいた。しかし博士は大学に三顧の礼で迎えられた世界的権威であり、その知名度から地方行政にも圧倒的に顔が利く、という訳だ。

 普通であれば、そのようなオカルト丸出しの願いを、名声高い人間が聞き届けるはずもない。何しろ名声に傷がつくかもしれないからだ。しかし、ファレルが頼み込んだジョーンズ博士という人間は、かような名声などこれっぽっちも有難がらない、むしろ冒険の邪魔と考える男だった。ファレルは実に正しい選択をしたと言える。

「ん?」

「どうかなさいましたか?」

 扉をくぐる際、ジョーンズ博士は足元が傾ぐような違和感を覚えた。しかし違和感はそれきりで続かなかったので、博士は肩を竦め、ファレルに先を促した。

 結構な観光客で賑わう、広いとは言えない礼拝室の中程に2人は着座した。程よく騒々しい礼拝室は、普通とは言えない、むしろ突飛と表現するしかない話題を切り出すにはもってこいである。が、それでも博士は問わずにいられなかった。

「しかし、どうしてミッション・ドロレスなのかね。カフェでもいいだろう。同じ$5でコーヒーとサンドイッチくらいは出してくれるからね」

「私にも、どう説明して良いものやら…。ただ、この場がいいと直感的に思っただけなのです」

 ファレルの答えはまるで当を得ていなかったが、博士は些細な事と脇に置き、改めて彼との本題に話題を移した。

 そもそも事の起こりは、然程大昔の話ではない。後にサンフランシスコと呼ばれるこの地に西洋人の入植者が入り始めた頃、1人の老いた神父がオーロネの集落を訪ねてきた。彼はアルカトラズ島の地の底に潜む災厄の存在を告げ、その封印実行を部族の長に頼み込んだ。長はこれを了承し、現在に至るも力有る者が封印を続けている、という話だった。

 しかし島は軍事基地や刑務所等、様々に開拓され、封印自体の効力を維持する事が難しくなってきた。そして文明化の波と共に、オーロネの封印者も徐々に力を弱めて行く。あたかも、これが運命であったと言わんばかりに、災厄は再び世に出ようとしているのだ。

「それを何としても抑えねばなりません。少しでも時間を稼がないと」

 拳を握り締めるファレルに、博士はふと疑問を呈した。

「時間を稼ぐ? つまり、未来であれば対処が出来るという事かね?」

「はい、必ず。私の中の封印者としての血が、そう言っているのです」

「何とも良く理解出来ない根拠だが、極めて魅力的な話であるな。しかし、其処へ来て例の占拠事件か」

 熱弁を振るっていたファレルが、博士の一言でしおしおと肩を落とした。が、博士は博士らしい魅惑の笑みでもって彼を見遣り、その肩にポンと手を置いた。

「私が行政にかけあって、船でアルカトラズに行ける段取りを講じてみよう」

「本当ですか!?」

「ジョーンズ家の男に二言は無い。やると言ったら、逃げ回って地べたを這いずり回っても必ずやり遂げる。しかしもしも断られたら、その時は覚悟をしてくれ給え。法を度外視する手段に打って出る」

「え」

「昔から泥棒紛いの所行で生き抜いていてね。世界的権威などと、鼻で笑う話だな」

 ジョーンズ博士はフェドーラ帽を被り直し、ファレルを促して席を立った。事を始めると一度決めれば、博士の行動力は破壊的である。実際に様々なものをぶっ壊してもいる。恐らくファレルは、博士に引き摺り倒される羽目に陥るだろう。

 帰途の扉をくぐり、博士は再び建物を見上げた。先に覚えた違和感が、再びやって来たからだ。

「先の話だが、対話にこの場が『選ばれた』理由というのは…」

「博士?」

 不思議そうに問うファレルに、博士は不敵な笑みを見せた。何か圧倒的なものに相対すると腹を括った時、ジョーンズ博士はこのような顔になる。

「もしかしたら、宣戦布告という事なのかもしれないな」

 

中年主婦

 誰にも見付からぬようにドロレスの教会へ駆け戻ると、シスター・カロリナは自室に飛び込み、慌しく扉に鍵をかけ、ベッドに顔を突っ伏して全身をガタガタと震わせた。

 つい先ほど、彼女は無為な殺生をしでかした。自分に吠え掛かってきた犬だ。そしてその犬は、彼女にとってただの野犬ではない。

「ジョンジー、ジョンジー、ごめんなさい、私は何という事を…」

 悔悟の言葉を延々と繰り返すカロリナに、フラッシュバックが容赦なく襲い掛かってきた。

 ジョンジーというボーダーコリーは、昔、サンディエゴ時代の彼女が飼っていた犬である。その頃の彼女は両親からの凄まじい暴力を一身に浴びる悲惨な境遇であったが、ただ一匹、ジョンジーだけは彼女の友であり、味方であった。家庭内暴力が頂点に達し、警察が介入してくるほどの騒動の渦中で、カロリナとジョンジーは離れ離れとなる。神学校に通わせて貰い、こうしてミッション・ドロレス付きのシスターとなる過程の中で、何時しか彼女はジョンジーの事を記憶から忘却してしまっていた。しかし、ジョンジーの方は彼女を忘れてはいなかった。

 サンフランシスコのミッション地区でジョンジーに出くわしたのは、カロリナにとって全くの偶然である。しかしジョンジーにはそうではない。心親しいものに追い縋る犬の力は、人間などとは比較にならない強さがあるのだ。

 しかしカロリナは、ジョンジーに再会出来た喜びよりも、心に広がる当惑に囚われる事となる。こうして自分に出会う為、サンディエゴからサンフランシスコまでという壮大な距離を旅してきたジョンジーは、剥き出しの敵意を示して自分に吠えてきたのだ。

 なんで、とカロリナは思った。

 なんで、そんなに怒っているの、と。だって、仕方ないじゃない。あんな地獄みたいな家から連れ出されたのも、神学校に通ったのも、ドロレスに居られるのも、とにかくサンディエゴから逃げなければ、自分は何時か殺されるところだったんだから。逃げたって、いいじゃない。それをなんで。

 ジョンジーの吠え声が、ふと、両親の金切る喚き声に重なったその時、カロリナは持っていた果物ナイフでジョンジーを滅多刺しにしていた。

 カロリナは悲鳴を上げ、外に音が漏れぬよう敷布を頭から被って、更に悲鳴を上げた。そうしなければ、ジョンジーの断末魔が頭の中にエンドレスで響いてくる。一頻り狂ったように叫びながら、不意にカロリナは喚くのを止めた。

 そして顔を上げる。表情は虚ろで、陰湿な笑みすら浮かんでいた。

「お許し下さると、御主様」

 カロリナは、ふらふらとした足取りで立ち上がった。そして床に跪き、両掌を合わせ、何処かに居る彼女の『御主』との対話を試みる。

「一切の過去を、切り落とせば良いのですね?」

「過去の私は、本来あるべき私ではなかったのですね?」

「私は、人々に明るく楽しく正しく生活する術を伝えねばならないのですね?」

「そして私は、もう一つの場所で活動を開始すれば良いのですね!」

 カロリナは飛び上がって喜んだ。いっそ踊り回りたい気分であった。ここしばらくの間、彼女に囁きかけていた声の主が、明確にその意思を彼女に提示したのだ。カロリナはそれをひたすらに喜んだ。御主の祝福を受け、これから自分は、正しい行ないに邁進出来るのだ、と。

 カロリナは満面の笑顔で部屋を飛び出して行った。自らを拘束する枷の一切を外し、身軽になった体を自覚し、カロリナはそのまま飛んで行けるかもしれないと考えた。考えれば考えるほど、自分は何と幸せなのかとも思う。こんな感情は、これまでの人生では有り得ない至福である。そのように、彼女は思い込んでしまった。

 が、教会から出た途端、危うく通りがかった中年の女性にぶつかりかけた。

 びっくりしてよろめいた彼女を慌てて支え、カロリナは張り切った声で「ごめんなさい!」と謝罪し、深く頭を下げた。女性が目を丸くしてカロリナを見る。

「まあ、カロリナさんではありませんか。何時も大人しいのに、今日は一体どうした事なんです?」

 そう言われて、カロリナは顔を上げたものの、親しく話してくる女性が誰なのか分からず、僅かに戸惑った。しかし、日曜礼拝に毎回参加する近所の主婦であると思い出し、瞬時に笑顔を形作った。

「良い事があったのです。これから急いで出掛けませんと! でも、こうして人にぶつかりそうになってはいけませんし、私、注意して歩きますね!」

「…ああ、お待ちになって」

 忙しなく背を向けたカロリナを、女性は今一度呼び掛けてその場に留めた。

「その笑顔、何かお辛いように思えますよ」

「え?」

「立ち止まって、お考えなさって。自分の本当の気持ちを。これで良かったのかと。その軽やかな足取りは、何かを踏み躙って歩を進めていないのですか?」

「凄いですね。まるでシスターみたいですよ? でも大丈夫。私、今、本当に幸せなんですから!」

 もう一度ペコリと頭を下げ、カロリナは手を振りつつ、ヘイト・アシュベリへと向かって行った。

 女性は物言いたげな目で見送っていたものの、やがてホウと息つき、カロリナとは逆方向の通りを歩き始めた。

 その途上、公園の一角で、スコップで懸命に穴を掘っている少女を見掛けた。少女は泣きながらスコップで地面を抉り、やがて傍らの犬の骸を引っ張り、穴に納めてやった。

 その一部始終を見守り、女性は再び通りを歩いた。その顔に、憐憫の情は些かも無い。

 

 

 

 

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ルシファ・ライジング 第六回より【ドロレス・ストーリーズ】