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ボヘミア、1600年代 マックスとアガーテ

 スカートの裾をたくし上げ、マックスの手を引き、アガーテが夜の森をひたすらに走る。

 欧州内陸の森は深く、静かで、恐ろしい。闇に潜む者共の恐怖を人は恐れ、その恐れが森の暗さを更に深化させている。

 それでも、2人は森の中を逃げねばならなかった。もっと恐ろしいものが彼らに迫っていたからだ。

「信じられない」

 呼吸を荒げながら、マックスは無理繰りに引っ張ってくるアガーテに呼び掛けた。

「まさか、あのカスパールが。だって、カスパールなんだぜ?」

「ええ、あなたの親友だったカスパールよ」

 ようやくアガーテは速度を緩めた。息一つ切らさずに歩みを進め、アガーテはマックスの腕を抱え込み、含めるように言い聞かせた。

「あなたとは幼友達だったわね? でも、その時からずっと、彼は彼の目的を遂行する為に活動していたのよ。そしてそれは、私の目的でもあった」

「目的…」

 マックスは一時言葉を失った。アガーテから告げられた言葉の数々は、今もって信じ難い話である。

 自分は、彼女やカスパールの御主が、再び地上に君臨する為の器であるらしい。御主の名をマックスに問われると、アガーテは畏怖と共に小さく呟き、その後は決して口に出そうとはしなかった。ザミエルとかサマエルと言っていたようにマックスは記憶している。確かそれらは、マックスの拙い知識を辿るなら、悪魔か堕天使の名前との認識がある。マックスは震え上がったが、これを自分に打ち明け、共に逃げようと説得するアガーテの言葉は信じるに値すると思った。彼女は自分の、大切な恋人であるからだ。

「しかし君は、その御主とやらを裏切ろうとしている。何故なんだ?」

「それは、やっぱり恋人だからよ」

 俯き加減にアガーテの曰く。

「この感情は、ずっと昔の私には無かったものだわ。あなたに目的意識をもって接近した時だってそうよ。あなたを利用し、御主の器として捧げる事こそが正道であると確信していた。だからあなたの心を私達の側へ捻じ曲げて行く所行も、当然の事であるとも」

 アガーテは、マックスの腕を痛くなるほどに固く抱き締めた。

「でも、人の暮らしを続けて、あなたという人をどんどん知って、私もまた変わっていった。変化という事象が私のような存在にも発生し得るというのは、率直に驚いたわ。愛するという事。対象を上か下かの存在ではなく、対等に尊重して心を寄り合わせるという事。迷える子羊の美しさを知ってしまった時、天使が堕落したくなる気持ちも理解出来る…。マックス、本当の私は」

 其処まで言って、アガーテは顔色を変えた。マックスを引っ手繰るようにして抱え上げ、細身の体の何処に隠されていたのかと思うほどの胆力でもって、アガーテは先程とは比較にならない速度で飛ぶように走った。

「何だ!?」

「見つかった!」

 忸怩たる言葉を吐くアガーテに動揺の目を向け、しかしマックスはその目を自分達の背後に向けた。錯覚かと思ったが、違う。森の闇が明確な黒色を帯び始め、それがこちらに向かって着実に押し寄せているのだ。それは尋常の代物ではない。それが何ものであるのかを、ようやくマックスは理解した。この逃避行を決断させる際、アガーテはマックスに彼の正体を告げている。かつて偉大な三賢人と呼ばれながら、身も心も御主に投げ打った大悪魔、カスパール、と。

 2人は森を抜け、視界の広がる丘に出た。その頂上を目指しながらも、背後の闇は彼女の速度をものともせずに追いかけて来る。と言うより、彼女よりも圧倒的に速い。

 闇は瞬く間に彼らを追い越し、その行く手に立ち塞がった。そして一気に容積を凝縮させ、人間の形状を作り出す。それは静かに佇んで、静かな夜に一際乾いた拍手を2人に贈った。

「驚いたよ。驚いた。君達、まさか逃げるという選択を取るなんて。これにて君も堕落者の仲間入りという訳だ、天使アガーテ」

 地面に降ろされ、驚愕の目を向けてくるマックスに寂しい笑顔を見せ、天使アガーテは言った。

「まさか天使が、悪魔などと結託しているとは思わなかったでしょう? それでも、御主の下ではそれが成立するの。あの方は確かに天使と悪魔を、そして人間を差別しない。何故なら押し並べて平等であるから。自分と、更にその上に戴かれる御父上以外は」

 アガーテはキリと顔を引き締め、マックスの前に立ち、カスパールと対峙した。

「其処をおどきなさい、邪悪な者よ」

「これは手厳しい。悪魔とは言え、元天使の私に邪悪などとは。まあ、確かに悪魔が邪悪であるには違いない。しかしだね、君、かつての位を思い出すんだ。言っては何だが君は天使の一族にあって、かなりひ弱な部類に入るんじゃなかったかい? 引き換え私は、悪魔であるが控えめに言っても大悪魔だ。人間は第二位階級、Yと位置付けているね。多分無いよ。勝ち目は」

「どけ」

「どかない。本来であればマックスを取り戻し、君はお役御免のうえに魂まで焼き尽くされるのが常套であるが、それは恐らく御主様が望まれる展開ではない。君も貢献度小とは言え、御主様の反乱に参画した一員であるからねえ。君、心を変えようよ。そしてマックスと共に暮らすがいい。器としてやんごとなき御方の傍にこれからも居られるのだ。実に光栄な話じゃないの」

「嫌だよ」

 2人の対峙に、マックスの声が鋭く割り込んだ。カスパールは不思議そうに彼を見詰め、諭すように言った。

「嫌って、何が? 御主様の器だよ? 人を遥かに超越した存在であり、君も副次的に永遠の命を獲得出来る。こんな幸運は、歴史上のどの独裁者も得られなかったものだ。それが嫌だなんて、そりゃまた何で?」

「がっかりだよ、カスパール。親友だと思っていたのに、そんな事も理解出来ないなんて。自分が、自分以外の何かになる。そんなものが幸運であってたまるか。僕はアガーテと共に生き、そして死んで行くんだ。もう心に決めたんだ。君らの思惑になんぞ、乗ってたまるものか」

 カスパールはマックスの言葉に困惑した。それは理解に苦しむという意味ではなく、本当に何を言っているのか分からなかったからだ。そしてそれが、千載一遇の機会をアガーテに与える事になる。

 懐に隠し持っていたロケットペンダントを取り出し、アガーテは仕込まれた液体を自分達の周囲を一回りさせて振り撒いた。液体はすぐさま気化し、即座に炎を纏い始める。行動開始から数秒もしない内に、アガーテとマックスの全身が炎で覆い隠された。

「聖油か」

 カスパールの声から余裕が消えた。

「一体そんなもの、何処から手に入れたんだ」

「反乱の折に宝物庫からくすねたのよ。これであなたはおろか、御主すらも私達に干渉出来ない」

「確かにそうだな。しかし聖油とて燃え尽きるぞ。時間稼ぎにしかならないじゃないか。何より君自身も、其処から一歩も動けはしまい。天使である君にはな」

 それはカスパールに指摘されるまでもなく、アガーテにも織り込み済みの展開であった。そのうえで、彼女は起死回生の手段を用意していた。それをマックスに告げるのは、ひどく勇気が必要であったが。

「マックス、マックス。私達は、残念だけどこの世界で結ばれる事は出来ない」

「アガーテ?」

「これから私とあなたで、飛躍を試みようと思う。時間と空間を飛び越えて、この時ではない、ここではない何処かへ。また新しい肉体を伴って、其処で私達は生まれ変わるのよ。私のありったけの力を飛躍に注ぎ込むわ。だから天使の理力もその時には失われてしまう。でも、きっとあなたを見つけ出してみせるから」

 必死に言い募るアガーテの唇を掌で宥め、マックスは静かに応えた。

「それが唯一の手段なのか?」

「ええ、そうよ」

「分かった。また会おう、アガーテ。ここではない何処かで」

 マックスはアガーテを掻き抱き、アガーテもマックスの背中に固く手を回した。

 

 聖油の炎が収まると、もう2人はその場から消えていた。

 カスパールは深々と溜息をついたが、落胆の顔を晒しはしなかった。憐れな、と思う。アガーテは御主の凄まじさを理解していない。彼女は逃げ果せると信じているようだが、アガーテが死力を振り絞って行使した『飛躍』は、恐らく御主に捕捉されて、その掌の内に呼び寄せられる結末に至るだろう。

 カスパールは肩を竦めた。既に入手している紛い物とは次元の異なる、本物の器を一時でありながらも取り逃がし、事の順序に大きく狂いが生じてしまった。それでもカスパールは、少しばかり心が浮き立つ感覚に浸る。

「何時か、幸せになれるといいねえ」

 と、カスパールは呟いた。

 

サンフランシスコ、2009年 マックスとアンナ

 大あくびと共にアンナは目覚め、乱れ放題の髪をボリボリと掻き毟りながら、ふと己が掌に目を留めた。

「あ? 何だこりゃ」

 其処には、銀製のロケットが握り締められている。こんなもの、自分は持っていたっけ? 等と疑問に思いつつも、アンナは得をした気分で上着のポケットにそれを仕舞い込んだ。

 ベーコンを焼く香ばしい匂いが寝床に漂ってくる。起き抜けで腹が減っている訳でもないが、食欲を覚醒させる魅力があった。匂いにつられるようにして、アンナは足をよろめかせつつも台所へ向かった。マックスの背中が忙しく台所を動き回っている。それなりの人数に朝食の準備をしなければならず、朝も早くからマックスも大変だ。が、彼は愚痴もこぼさずにテキパキと働いている。さぞやいい「奥さん」になるだろうと、アンナはふと思った。

「うぃす」

「あ、おはよう、アンナ」

 だらしない朝の挨拶に、マックスは張り切った声で返してきた。二日酔いには堪える代物だ。アンナは痛む頭を抱えて、椅子から落ちそうな座り方で天井を仰いだ。

「アンナ?」

 と、マックスが戸惑う声音でアンナに呼び掛けた。舌を打って、面倒臭そうにアンナがマックスを見返す。

「何? 話しかけないでくれる? あんたの声が頭に痛いんだから」

「いや、何で涙を流しているのかと思って。眼病かもしれないよ?」

 そう言われて、アンナは慌てて目を擦った。そしてようやく、先程から涙が頬を伝い続けているのだと知った。

 

 

 

 

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ルシファ・ライジング 第六回より【ジャンピング】