ヴァイラとエンリク

 見初められてサンフランシスコに移住し、会社社長の優しい夫と可愛い子供に恵まれ、そして親切な従業員達に囲まれ、ヴァイラ・ガレッサの生活は傍目に見れば幸せの絶頂であった。

 しかし彼女には、ここまでに至る全ての事が、まるで夢か幻のような出来事にしか思えない。インドの郷里の街は前時代的な身分制度が未だに残り、一生懸命勉強をして、何時かこの境遇から抜け出さなければと、常日頃考えていた。その意味では、アメリカ国籍を取得し、母親になると同時にガレッサBldという会社に勤める事が出来るのは、正に夢が叶ったという事なのだろう。

 ただ、それらの経緯は成り行きという他に表現が無い。あらゆる出来事がトントン拍子に進み、つまり自分の意思の関与する暇が何処にも見当たらないのだ。それは彼の夫、郷里でのエンリクとの出会いから始まった、心の奥底に抱える懸念だった。その懸念は徐々に黒く膨張し始め、愛し子のシルヴィアをあやす最中であっても、不意の強迫観念に襲われる事が近頃は度々である。

『子育てからくる情緒の不安定でしょう。周囲の人々に相談をして、助力を求めるべきです』

 周囲の人は、そう言っていた。精神内科の先生も。しかし、ヴァイラは気付き始めていた。そういう事ではないのだと。今日までの全ての出来事は、仕組まれたストーリーの渦中にある。その疑問の一端を肯定する出来事があった。

 

 ある時、眠りについていたシルヴィアが、何の前触れもなく目蓋を開いた。櫂を漕いでいたヴァイラも、ほぼ同時に顔を上げる。何か物音がしたとか、シルヴィアがぐずったという事も無い。昼下がりの部屋はしんと静まり返っており、ここには2人の他に誰も居ない。しかし、濃密な気配らしきものが感じられる。シルヴィアはもっと分かり易く、中空斜め上を澱み無い眼でもってじっと見上げていた。

『可愛い子です』

 確かに、その声は頭に直接響いてきた。ヴァイラが立ち上がり、周囲を見渡す。矢張り誰も居ない。幻聴かと思ったが、そうではなかった。その声をシルヴィアも聞いていたのだろう。彼女は小さな手を懸命に上げ、言葉になっていない声でもって、挨拶を返そうとしていたのだ。

 

 一部始終、自分と娘は何かに監視されている。あまりにも超常的な話で、自分はどうかしてしまったのかもと思わないでもない。しかし心の内の何かが囁くのだ。逃げろ、この街に居てはならないと。さもなければ、何か恐ろしい事に巻き込まれるかもしれない。

 逃げねば。しかし、もしも勘違いであったら。二律背反の板ばさみとなり、ヴァイラは益々追い詰められる。だから夫であるエンリクに、全てを打ち明けようと覚悟を決めた。それは彼女の人生における最大の賭けであった。

 ヴァイラはエンリクを掛け値なしに愛してはいたが、前々から思っていた。変人だと。出会った頃に、こんなエピソードがあった。

 

 ヴァイラが学費を稼ぐ為に勤めていたカフェに、顔の三倍はあろうかという巨大なアフロヘアの西洋系の青年が現れた。アフロもここまで大きいと、顔が髪の一部と化してしまっている。ヴァイラは物腰柔らかな青年に対して、笑いを堪えつつ注文を取り、マサラチャイを出し、何となく彼の一挙手一投足を見守った。カップを口元にやって香りを楽しみ、くいと一口飲んで、一言。

『んー、まったり!』

 そんなけったいな感想は聞いた事がない。その後も身振り手振りを交えたオーバーリアクションで、チャイを飲むだけの行為を至高のエンターテインメントにした挙句、青年は会計を支払う為に再びヴァイラを呼んだ。そして何をするかと思えば、アフロに手を突っ込んでガサゴソと探り、財布を取り出したのである。

『我ながら素晴らしいアイデアです。まさかスリも頭の中に財布があるとは思いますまい』

 青年こと、エンリク・ガレッサは勝ち誇ったような顔で言った。

 

 エンリクという男は、一事が万事この調子であった。ガレッサBldでは社長という身分だが、従業員からは『やっぱり社長だよねぇ』呼ばわりである。しかし、皆から愛されている。彼は偉ぶった事は言わないし、周囲の人を怒る事もしない。飄々と仕事を獲得して、現場の輪に入って行く事が大好きであった。笑われつつも尊敬を受けるという、非常に奇特な人徳の持ち主である。そしてヴァイラ自身も、そんなエンリクを心から愛していた。自分が腹を痛めて生んだシルヴィアの事も。

 それは現実と非現実の差が曖昧な今の状況にあって、ほとんど唯一の確実である。だから逆に、勇気が必要となる。もしも私の心をエンリクに笑われてしまったら、一体どうやってこの先を生きていけば良いのかと。

 

「分かった。逃げよう」

 実にあっさりとエンリクの曰く。ヴァイラは腰が砕け、その場にしゃがみ込んだ。

「そんなんでいいの!? 自分で言うのも何だけど、私、すごく変な事を言ってると思う。逃げるって、私と?」

「勿論シルヴィアも一緒だよ」

「そんな、家族3人、どうやって暮らして行くつもり? それに会社は。あなたの社会的地位は」

「こつこつ貯めたお金もそれなりにあるし、仕事は選ばなければ、何とでもなるさ。2人を養っていけるように頑張るよ。会社に残すみんなが気がかりだけど、うちの社員は全員素晴らしいし、ビアンキ専務は極めて優秀だ。大体からして、彼の方が社長の器だと僕は思うんだけどね。僕が居なくても、問題なくガレッサは継続する」

 等々言いながら、エンリクは早速私物を纏め始めていた。ヴァイラは開いた口が塞がらない。自分がおかしくなっているのかもしれないし、このままでは取り返しのつかない迷惑をかけるかもしれない。だから私はガレッサに居るべきではない。そういう話を切り出そうと考えていたのだが、エンリクは間の逡巡を全て飛ばし、3人で街から出ようとの結論を提示した。ヴァイラは心の何処かで、彼がそう言ってはくれまいかと期待する向きがあったものの、それが現実になると躊躇を覚えざるを得なかった。

「ガレッサは、長く続いた家なのよ」

 ヴァイラはソファに腰掛け、ぽつりと呟いた。

「それを捨ててしまうなんて。こんな事をしたら、取り返しがつかなくなる」

「ヴァイラ、君は不思議な事を言うね。この街から出たいと願っていたのに、今はそれを引き留めようとしている。自分の心に、もっと素直になるべきではないかな?」

 言って、エンリクは彼女の隣に座った。ヴァイラの髪を撫でながら、彼はベビーベッドの中でもぞもぞと体を動かしているシルヴィアを、満面の笑みでもって見詰めた。

「実は、私も多少は思うところがあった。どうも話が出来過ぎている。インドへ行ったのも何処か憑かれたような感じだったし、君との出会いにも奇妙な魅惑が感じられたよ。そして万事滞りなく進行し、アクシデントというものが全く存在しない。まるで、目に見えない巨大なものに守られているみたいにね。いや、管理されている、と言うべきかな」

 ヴァイラは驚いて顔を上げた。のんびりとした雰囲気を纏わせているエンリクが、自分同様の鋭い勘を保持していた事に。エンリクが続ける。

「でも、私は君とシルヴィアを愛しているよ。この気持ちだけは絶対に確かなものだ。大体だね、こんな美人の嫁さんに逃げられたら、恐らくこの先にこれ以上の出会いは無い。私は一生独り身になるだろう。自慢ではないが、私は欠片もモテない男であった」

「でも、あなたの顔、とても綺麗なのに」

「はっはっは、御冗談を」

「もしかしたら、その性格のせいかも」

「君、僕から顔のみならず性格まで取り上げないでくれよ。それはともかく、こうして家族として私達は結ばれたんだ。君と一緒になった時、そしてシルヴィアが生まれた時に、私は2人を守って行くと心に誓った。その誓いまでもが仕組まれたものだとは思わない。だからヴァイラ、一緒に行こう。君が悲しい顔をしているのなら、君が笑顔のままでいられるよう、私は頑張らなければいけないね」

 ヴァイラは泣いた。エンリクは相変わらずの笑顔で彼女の肩を抱いた。

 

St.メイフェア・アベニューを南に向かって

 エンリクという男の行動力は、一旦「そうする」と決めてしまえば爆発的だった。

 丸一日で身辺整理を終え、ビアンキ専務への権利移譲を書面化し、自分が居なくなる事で起こり得る混乱を、出来る限り逓減する布石を打った後、ヴァイラが相談を持ちかけた次の日の真夜中には、サンフランシスコ出立の車がメイフェア・アベニューを走っていた。もしかして、自分は置物になってしまったんじゃないかとヴァイラは思った。

「取り敢えず、休みながら明日の昼くらいまで走り続けよう。シルヴィアへの負担を考えねばならないが、それでも500マイルくらいは走れるんじゃないかな。そしてお馴染みのモーテルに泊まるんだ。何だかワクワクしてきたぞ」

 ハンドルを握りながら、エンリクは努めて明るい様子だった。それが自分を気遣っての事であるとは、ヴァイラも承知のうえである。

 この逃避行を開始した直後から、彼女は形容のし難い不安に襲われていた。この期に及んで血の気の失せた顔をエンリクに見せたくはなかったので、彼女は手に抱いたシルヴィアに視線を落とし、焦燥をどうにか忘れ去ろうと努力した。

「どうかしたのかい?」

 と、空気を読まないエンリクの台詞で、彼女の緊張の糸が切れた。その顔に恐怖をまざまざと貼り付けながら、ヴァイラが応える。

「怖いのよ」

「何が? 果てしなく広がる無限の未来がかい?」

「ジュブナイル・フィクションじゃないんだから。そういう事ではなくて、もっと具体的なものよ。ごめんなさい、エンリク。私、結婚するにあたって、あなたに隠していた事がある」

「私は18歳になるまで、クイーンというバンドには、対になるキングが存在すると思っていた。ちなみにキングは全て女性で構成されている」

「いや、あなたの秘密なんてどうでもいいから。実は、私は人の心がかなり読めるの」

 言って、ヴァイラはエンリクの反応を伺った。ほー、と間抜けな声を上げて驚いた風に見えるエンリクは、本当にただ驚いているだけだとヴァイラは理解した。非常に珍しい事に、彼は表の感情と心の中が、一から十まで完全に一致する人間なのだ。だからヴァイラは、エンリクとリラックスして話す事が出来る。

「凄いね。でも、それじゃ日常生活が大変だろう。色んな声が聞こえてきて」

「意図的にシャットアウトする事も出来るから、それは大丈夫。でも、強い感情は飛び込んで来る事がよくあるわ。汚らわしい感情は特にね。あなたに出会う前、私も結構男に言い寄られていたものだけど、そういう連中の浅ましい性根が見えたから、一言も話なんてしてやらなかったわ」

 ちなみにエンリクと出会った時は、『チャイ美味しい。超美味しいです』と、それ以外何も考えていなかったとヴァイラは記憶している。人間の思考は雑多なものであるから、ある意味凄い事である。

「…ここからが、もっと奇妙な話なのよ。そうやって近寄る者を拒絶していた私だけど、向こうから壁をよじ登ってくるような輩が居てね。そういう連中は、大抵上のカーストだったわ。上は下に対して何やったって許されると、頑なに信じている馬鹿者達。実は私、レイプされそうになった事が五回もあるのよ。その五回とも、私は逃げ切る事が出来たわ。でも、最後の五回目が妙だった。向こうは五人くらい居て、私みたいなのは取り囲まれたら絶対逃げられないはずよ。でも、逃げた。どうやって逃げたのか、よく覚えていないけど。で、次の日に大きなニュースが出ていた。男性五人が建物の屋上から、全員首を吊って死んでいるのが見つかったって。そいつらの顔写真を見たら、私を襲おうとした連中だったのでびっくりしたわ。私は何だか看過出来なくて、以前の連中はどうなったんだろうと思って、調べてみたのよ」

「どうだったんだい?」

「全員死んでいた。死に方は様々だったわ」

 シルヴィアは大きく身震いした。たった今、ヴァイラの抱えている不安が、その時に感じていたものと酷似しているからだ。

「私は、一体何者なんだろう。ヴァイラという名ではあるけれど、実は全く別のものなんじゃないかしら。私は怖い。本当に怖い。お願いだから、ずっと傍に居てね」

「大丈夫だよ、ヴァイラ。昔も今も、君は君なんだから」

 其処まで言って、エンリクは顔をしかめた。唐突に腕の自由が利かなくなったのだ。そして両手は、勝手にハンドルを右へと大きく切った。

「やばい」

 車がガードレール目掛けて、容赦なく突進する。

 

ガレッサの娘

「ヴァイラ、ヴァイラ」

 肩を揺さ振られ、ヴァイラは目を覚ました。ぼんやりとした視界に、ひびが入ったフロントガラス、やけに盛り上がったボンネット、そして夜の状景が少しずつ、くっきりと浮かび上がり始めた。自分達が一体どのような状況に置かれているかを即座に理解し、ヴァイラは目を剥いて我が子と、そしてエンリクを凝視した。

「ヴァイラ、大丈夫だよ。シルヴィアも私も、そして君も怪我一つしていないから」

「怪我って、そんな」

 誰も傷ついていない事への安堵よりも、言い様のない不気味さがヴァイラの心を占めて行く。

 車は相当の勢いでガードレールに衝突したはずだ。車のフロント部分は大破の状態であるし、サイドドアもひしゃげてしまっている。凄まじい衝撃が車中にかかっていたはずなのに、特に寝息を立てたままのシルヴィアというのは非現実的だった。

 非現実的、という言葉に思い至って、ヴァイラは唇を噛んだ。自分と娘は監視されている。その懸念は正しかったという訳だ。そして監視者から自分達は、遂に逃れる事が出来なかったのだ。

 エンリクがヴァイラの手を取り、静かに言う。

「君の言う通りだったな。私達は何かの掌の上であったらしい。その何かは、シルヴィアの健やかな成長を求めている。それが叶うなら、恐らく何かにとって、私達は必要のない存在らしい。何かが、そう言っている」

 エンリクは自身の背後を親指で指し示した。

 其処には、何かが居座っていた。状景の一部分だけが振動し、ブレを起こしているかのように見える。これが、こいつが、と、ヴァイラの喉元に激しい嫌悪がせり上がる。何かは、エンリクに言った。

『お疲れ様でした』

「いや、まだすべき事がある」

 それを境に、エンリクは目を閉じて項垂れた。

 その様が何を意味するのか、ヴァイラに分からない訳がない。もう何一つ自分とシルヴィアに語る事が出来なくなった彼を見詰めながら、ヴァイラの体の中心から悲しみではなく、怒りが膨張する。

「よくも、私のささやかな夢を奪ったな」

 張り裂けそうな笑みを伴い、ヴァイラは自分自身も聞いた事がないような潰れた声で、呪詛を呟いた。

「絶対に殺す。お前の一族は皆殺しだ。お前が存在し続ける限り、私はこの世にしがみついて、お前への恨みを何時か晴らしてやる」

 ヴァイラは、歪み切った顔のまま息絶えた。何か、は、彼女の言葉を何も聞いていなかったものの、その死に顔の醜さには辟易した。筋肉の硬直に干渉し、ヴァイラの顔を能面のような表情にしてやってから、彼女に抱かれて眠るシルヴィアを覗き込む。何かが言う。

『おやすみなさい、破壊者。良い夢を』

 

 

 

 

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ルシファ・ライジング 第六回より【ガレッサの二人】