されど人生は続く
慌しい月世界行を終え、今は日本、郷里の横浜に居る。
こうして雑踏のざわめきと実家の静謐を間近に感じていると、鬼哭谷からリューリク、そして月へと走り抜けた約1年間に、どうしてもリアリティが感じられず、果たしてあれは夢だったかと首を傾げてみたりもする。しかし、かの事件を巡って得てきた経験の結末は、私の体に明確な証拠として今も刻まれていた。私はアナスタシアのギフトを粗方失ってしまったのだ。
その顛末は後記に譲り、取り敢えずは月へ打ち上げられた私達が何を見てきたのかを、かいつまんで説明しよう。
マルヴァーン射出時のGで起こった振動により、後舁は固い拘束を解かれてしまったのだが、結局色々あって奴とは休戦の方向で手打ちをする事となった。仮に戦事が勃発した際の先鋒を担うつもりだった私は、これにて以降は傍観者的な立場となる。あの狭い船内で大乱闘というのも下策と言えばその通りであるので、これはこれで良かったのだ。そして最大の懸案事項を片付けた私達は、以後粛々とアナスタシアの解放へと至る。
本物のアナスタシアは、想像していた通りの暴れん坊だった。実の所を言えば、薄笑いの表情に獰猛な獣性を秘めていた、以前の、つまり後舁だった頃のアナスタシアの方が恐ろしい。否、今の彼女も恐ろしくはあるのだが、何と言うか、まるでコンドラチェンコ其の二だ。唐突に殴り、唐突に高笑い、唐突に走り去る。クルト辺りに聞いてみたい。そのアナスタシアでほんまにええんかと。私は目の前で繰り広げられる拳のスキンシップを眺めながら、ようやく自分の中で区切りをつけられたと安堵したものだ。等と感慨に耽っていたら、やっぱり私も殴られた。
これにて、鬼哭谷から月へと変遷した物語は一応の終わりを告げた。後の話は、所謂エピローグでしかないのだが、それでも一連の流れの中で3人が死んだ。それも自ら死を選ぶという格好で。私は彼ら一人一人を、今一度顧みる。
勝英・ドゥダエフスキーは月に残った。即ち酸欠で死に至る道を選んだわけだ。中々そうは見えなかったのだが、実は深い病に冒されていたらしく、死場として月面というのが如何にも彼らしい花道だった。
逢蒙はどうやら、己の死こそを最終の目的としていたようだ。アナスタシアと後舁の人格交換を行なった後、速やかに彼は退場して行く。或いは後舁を滅せずと私達が決断していなければ、彼は自害を選ばなかったのだろうかと、そんな疑問も今となっては無意味である。ただ、間違いなく言えるのは、後舁に束縛され続ける人生は苦しかったであろうという事だ。後舁から逢蒙へ向けられた過剰な思い入れは、後舁にとっては愛情であり、逢蒙からすれば虐待に等しい。この全く埋まらぬ深い溝は、全てのドレーガとロアドの関係にも通じている。同じ姿形とは言え、両者は決定的に違うものであると、忸怩たる思いを抱く顛末だった。
アーグニャは脱出カプセルに入れず、マルヴァーンと共に大気圏突入の摩擦熱で燃え尽きた。カプセルの定員がオーバーしていたからだが、マルヴァーンへの残留を決めたのは彼女の意思だ。今でこそ種の立場を違えど、アナスタシアとアーグニャは姉妹である。月に封印されていた姉の姿をアーグニャは求めて、それがまともに面と向かうことも出来ずに決別するとは余りにも寂しい。果たしてあのフェリオン嫌いは、アーグニャの話をどのような思いで受け止めるのだろうか。
鬼哭谷はアナスタシアによって再び運営される事となった。
リューリク宇宙基地は航空宇宙会社コースマスによってマスドライバー再始動の機会がもたらされた。
後舁の行方については、別にどうでもいい。逢蒙という最愛のロアドを失った彼は、さして注意すべき手合いではない。ただ、もし今後何か事を起こそうとするならば、ありとあらゆる手段で応じるまでだ。
逢蒙に人格を交換されていた山中敬子嬢こと山中ちゃんは、最後の最後まで地味な山中ちゃんだった。あんまり不憫な人だったので、彼女にはコースマス入社の勧誘をしてみたのだが、どうだったのだろうか。
かつての仲間達は、リューリクに残ったり、鬼哭谷でアナスタシアに血の汗を流されたり、或いは各々の望む道へと進んでいった。
みんなどうしているのだろうか。
私は、アナスタシアのロアドでありながらフェリオンと契約していた旨で彼女の不興を買い、ギフトを無くし、今一度稽古をつけてもらおうと、こうして実家に帰っている。
私は確実に弱くなった。アナスタシアが授ける血液の記憶は、私に尋常ではない反射能力を与えており、これが根こそぎ喪失したとなれば、拳術の力も鈍ろうというものだ。今や私の妹、董子と戦っても際どい試合になるだろう。
ただ、むしろ気分はいい。私はアナスタシアのギフトを持って生まれたから格闘技を始めたのではない。私は形意拳が好きでたまらないのだ。独特の踏み込みから加速力を拳に乗せ、腕力だけでは出せない力を爆発させる、この拳術が本当に好きだ。私は才能を失ったのだが、好きだからこそ積んできた研鑽と努力は、そのまま残っている。ならば天賦の才に頼ることなく、私はまた努力を重ねて行けるだろう。
アナスタシアに実力を認めてもらえればギフトは復活できるというが、恒久的にそれは無い。多分私は、もうアナスタシアに自ら会いに行く事も無いからだ。そしてフェリオンともまた契約する。今度は宇宙飛行士になる為に。
私はしばしの休暇を経た後、リューリクへ戻るのだ。そしてコースマスの一員として、再び宇宙を目指す。愛するマーハ・リーを思い浮かべ、誇り高きエレン・エレンジッタを相棒とし、これから人生を永らく共にするだろう鷹乃瞳と、次は火星にでも行こうか?
文責:香車仙輔