初志一貫

 

 

 


 鬼哭谷の夜の音と言えば、修行者の悲鳴か虫の声で騒々しいものだったが、季節が暮れる北海道の夜は厳しく、静寂は次第に深まりつつある。

 もうすぐ雪を迎える鬼哭谷の、修行明けの夜明け前。香車仙輔は疲労困憊の体を引き摺るようにして、白く濃い息を吐きながら、途或る大きめのテントの入り口をくぐった。

「こんばんは」

「どうも、こんばんは。診察でしょうか?」

 と、読み耽っていた本から顔を上げずに、胡坐の格好のまま応えたのは、クルト・シノブ・ツヅキ。鬼哭谷で唯一の診療施設を開く者である。

「客が居ねえな」

「皆、疲れておいでですので。起き上がる頃に体の痛みが分かっても、その頃合は私も眠っております故。昼も鍼灸院を開けられれば良いのでございますが」

「まあ、仕方無えさ。焼酎はどうだ。黒閻魔だぜ」

「外からの差し入れでありますか。お湯で割りましょう」

「熱いのをやろう。そいつは俺には度がきつい」

 言って、クルトは焚きこんだストーブにかけたヤカンから、カップに湯を注いだ。たまにではあるが、二人はこうして細々と酒を交わしている。仙輔が初めて鬼哭谷に来た頃は、ほとんどつるむのは幼馴染の鷹乃瞳だけであったが、最近は互いに親しい者も出来、少しずつ交友の輪が広がりつつある。

元々仙輔は、他人を蹴落としてでも、という鬼哭谷のコンセプトは理解出来ていない。武術の修行は自分の為にするものであり、人の頭を押さえ込む代物ではないからだ。無論、鬼哭谷の側は紋章持ちを選抜する事こそが最たる目的で、仙輔の考えなどは元より意に介する所ではない。

 黒閻魔をお湯に注ぎ、舐めるように呑んでからしばらく、黙っていた仙輔が億劫げに口を開いた。

「今度は子供が死んだな」

「はい。痛ましい事でございました」

「ここでの修行が命がけってのは分かるが、こういうのはな。前の月は仕方が無い。教官も火を止めて助けようとはしていたさ。しかし今回のは何なんだ。迂闊だったとか、最初からここに来なけりゃ良かったとか、言い草は幾らもあるだろう。でも、そんなのは知った事か。修行ってのは、未熟な自分の未来を切り開くものだ」

「仰りようは理解致します。さすがに此度は、些か度が過ぎておりますな」

「俺達は修行の裏で何が進んでいるかを知る必要がある…例の地下に行くんだろう?」

 これを聞いて、本題に入ったかとクルトは居住まいを正した。

「鷹乃様からは伺っております。地下研究施設とは、フェリオンを研究する場所でありましょう」

「修行で死んだ奴は、其処に集められていると思うか?」

 唐突に直球を投じられ、クルトは思わず掴み損ねた。突飛な考えではあったが、確かに持ち去られた死体が何処に埋葬されているかを知る者は居ない。研究施設というのがフェリオンの人工作成を視野に入れている可能性もある。

「俺はそいつを確かめておきたい。死体を弄繰り回そうってんなら、そりゃ修行で死んだ奴に対する侮辱だ」

「今やこの鬼哭谷が私達の修練を目的としているとは誰も思っておりますまい。香車様とて深く経緯に関わられ、それは承知の御身…敢えて重々の確認をなさるお考えは何ゆえでございましょうか?」

「きっかけが欲しい」

 カップを傍らに置き、仙輔が目を据わらせる。

「俺はこんな無茶な修練も、それなりに必死でやったつもりだ。身体的に成長した部分も確かにあった。正直な所、俺は鬼哭谷の修行に期待する向きが今も少しはある。だが、俺はこれから鬼哭谷のシステムに歯向かうのは間違いない。そいつを踏み切る為の確証を、俺はあの地下で見ておきたい」

 鍛錬というものに対して少々純真に過ぎるきらいはあるが、若さという事だろうとクルトは解釈する。既に仙輔は修行者達の中にあって異端的な行動をし続けているが、それを修行の一端ともしていた。この修行が、少なくとも鬼哭谷側が紋章持ちを選抜するという行いの以外が、全くの無意味であると認識するのは、仙輔にとって辛い事なのだ。

「それでは具体的に行こう」

 既に両者の手にお湯割りは無い。息を詰めての話し合いが始まる。

「クルトは夜に行動するのだろうが、あの洞窟の虎を退治するのは、昼になるのかな」

「通常考えれば、確かに。教官の目を盗み事を起こす。猫科動物は夜が本領。なればやるのは昼」

「他の修行者達の考え如何だな。俺も昼が良いと思うが、そうなるとクルトの行動は微妙になる」

「そうでもありません。私はコンドラチェンコ教官に事前に謁見して、立ち入る許可を得るつもりです。彼には差し支えない程度の事情を話し、願わくば味方に引き入れたい所存でございます。これを如何思われますか?」

「悪くないと思う。彼はアナスタシアだけが第一の男で、今の彼女の有り様に疑心を抱いている。クルトが何処まで話すか知らんが、彼を潜在的な味方に引き入れればでかい」

「実に。さすれば、仮に昼の実行となった場合、私が行くは既に事が済んだ状態となりましょう」

「昼と夜の違いはあるかもな。修行者達が動き易い昼よりも、実際の研究所は夜に稼動している事は考えられないか? 他にも、教官に許可を得ての立ち入りは、むしろ隙を打っての行動よりも得られる所が大きいかもしれん」

「賭けでございますね」

「賭けだな。俺達は一体、あそこで何を見るのだろう…」

 そうしてしばらく話し込み、陽が上る前に仙輔はテントを出た。

 この時間帯は寒さが厳しい。鍛えているとは言え北海道の冬を今の状況で越える事を想像すると気持ちは萎えるが、更にその先の我が身を想像すると、寒さを忘れるほどの焦燥も感じられる。

 仙輔は岩場の平らな所を選んでだらしなく座り、ポケットから中南海を取り出して、のろくさと火をつけた。本数がしれたものだから、頭に回るニコチンは相当に効く。際どい修行から得られるアドレナリンを除けば、鬼哭谷での快楽と言えば仙輔には煙草しかない。

「また煙草なんか吸ってさ。それでも修行者の端くれ?」

 と、後ろから声を掛けられたと同時、ひょいと中南海が一本抜かれた。鷹乃瞳が一旦前に回って己が煙草を燻らせ、仙輔の隣に座る。

「クルトとはいい話が出来た?」

「まあな」

「そう」

 しばらく黙って中南海を口にくわえ、二人は何となく明け方を眺めていた。少しずつ辛くなる眩しさに目を細め、煙草がフィルターまで燃え落ちるのに数分間。

「何だかヤバイ所まで来ちゃったわね」

 努めて明るく瞳の曰く。

「本当、最初に来た頃はこんな展開は考えてなかったな。仙輔は紋章を背負って、あたしは後舁の深い所に関わるなんてねぇ」

「そうだな。何か違う意味で命がけだよなあ」

 カラカラと二人が笑う。とは言え馬鹿笑いという訳でもなく、何処か乾いた感のある。

「瞳」

 目を拭って仙輔が言う。

「死ぬなよ」

「あんたもね」

「…もし俺が、この紋章のせいで俺が『黒』になってしまったら」

「仮定よ、そんなの」

「そうなんだが、もしそうなったら、お前は俺を殺してくれると言ったよな」

「言ったわ」

「俺は御免だ。お前に殺されるくらいなら、死んだ方がマシだぜ」

「どっちなのよ」

 

<続>

 

 

 

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