以心伝心・弐

 

 

 


 うひゃらへあぁ。

 等と凡そ人間とは思えないような叫び声が門の遥か向こう側から聞こえ、門手前に止められたワゴンから出てきた二人の女は、揃いも揃って背中を大きく跳ね上げた。その後は秋の虫の声が響くのみ。

「…今の悲痛な叫び声、兄様にとても似ていませんでしたか」

「母さんにどつき倒されても、兄さんはあんなだっさい悲鳴は上げません」

 妹、咲子の不安げな問いを即座に打ち消し、問われた女、香車董子は改めて門の向こうを見据えた。

 ここは北海道、山岳に潜む鬼哭谷研修所前。彼女等の血統の祖であるアナスタシアが立ち上げた、無数の血と汗とど根性を注ぎ込む修行場である。通常ここを訪れるのは基本的に修行を志す者のみであるが、彼女等は違う。

「特に監視されているような感じはありません。機械的な仕掛けも無いようですし」

 咲子は興味深げに周囲を歩き回り、立ち止まって門に手をかけた。無造作に開けて、中を覗き込んだりする。並の人間では動かす事も出来ない重さのはずだが、咲子も身内と同じく身体を鍛えられていた。首を傾げながら後ろの姉を見遣れば、董子は相変わらず難しい顔で向こう側を見詰めたままだ。

「姉様、もしかして修行をしたいのですか」

「まさか。私の行く場所はもう決まっていますから。ただ、兄さんがここに居るのだと」

「心配でしょうね」

「いいえ。どれほど腕を上げられたのか、それだけが気懸かりです」

 素っ気無い董子の答えに、咲子が肩を竦める。左右の森林にも目を配りながら、咲子は他愛ない話題を続けた。

「身近に宿敵が居るというのも、気の置けない話でありますよ。そういうのは、疲れませんか」

「むしろ喜ばしい事です。競い合う相手が常に間近に居て、尚且つ未だ追いつけない。向上意欲が衰える事はありません」

「…形意以外に取り柄の無い兄様を、随分と買われておいでのようで」

「充分ですよ。あの人は武術にかけては天才です。それは父も母も口には出しませんが、認める所でありましょう? 咲、あなたもね」

「それはもう。尤も、私には姉様も充分天の人だと思うのですが」

「いいえ。天賦とは限られた人のみが受け取るものです。私は違います」

 それは度が過ぎるのではないでしょうか、と、口に出さず咲子は思う。兄妹揃って軽口を叩き合い、拳術以外に応用の利かない兄を笑うものの、互いに敬意を払う。それが香車兄妹だと咲子は考えているが、兄との組み手を長らく続けてきた董子の方は、何時の間にか敬意を飛び越えて崇拝の域すら感じられる。ちょっといびつだと思わないでもないが、それが武術家同士というものだろうと、自らも武術家のはずの咲子は解釈していた。

「兄様は人懐こい野良犬のようです。それに比べて姉様は、檻に囲まれた虎ですね」

「その例えはどうでしょう。虎より強い犬は居ませんから」

「またそのような事を」

 と、咲子が董子の方へと振り返ると、彼女の斜め後方門の上で、何時の間にか男が一人座っていた。きちんとした身なりの、それでいて何処か使い込んだ様が見て取れる。

 咄嗟董子が反転し、肩口を落として手を下ろした。上体は不安定だが、腰から下には気が漲っている。香車千式という古流武術の、独特の構え。

「お待ちを。黙って後ろに回った非礼はお詫び致します」

 間を詰めてきた董子を制止し、男は慌てるでもなくそう言った。

「少々場を見ておこうかと…いえ、少し気晴らしでもしようかと思いまして。私はクルトと申します。クルト・シノブ・ツヅキ。お二人は修行希望の御方ですか」

「いえ、道に迷った挙句にここまで来たという次第でして」

「嘘ですね?」

「はい」

 調子よく愛想笑いを浮かべて咲子がクルトと遣り取りする間に、董子は取り敢えず構えを解いた。相手が自ら名乗ってきたのであれば、このままでは自分達の方に礼儀が無い、という事になる。

「…こちらで修行されているとお見受けしました」

「そうです。まだ若輩でございますが」

「私は香車董子と申します。向こうに居るのが妹の咲子。こちらで修行をしている身内に会いに参りました」

「香車様の…?」

 目を見開いたクルトの様子に、董子が即座に反応する。

「兄を御存知でしょうか?」

「それはもう、存じております。そうですか、御兄妹であられる。しかし、この中に入るのは如何かと思われますが」

「何故でしょう」

「修行に関わられるつもりのない方には、ここは危険な所でございます。少々セキュリティに難のある施設ではありますが、それでも無差別に人の出入りがある事を、そろそろ教官もお許しにならないかもしれません。一旦そうと考えれば、あの人に容赦は無い…しかし、今日の修行は終わりましたし、教官の目も届きますまい。短時間ならば大丈夫でしょう。或いは私が香車様をお呼びする事も出来ますが、如何なされますか?」

「いえ、矢張り出過ぎておりました。何れの機会に、出直したく思います」

「そんな、姉様、折角北海道の山奥まで来て」

 言い募る咲子をやんわりと退け、董子は優雅に一礼した。受けてクルトも丁寧に御辞儀をし、不図明るみの見え始めた空を見上げる。

「さあ、疲れた体を休めねば。それではこれにて失礼致します」

「お待ちを」

 門から飛び降り、身を翻えそうとするクルトの背中に、董子がもう一声を掛けた。

「兄の修行は、如何程のものでしょうか」

 肩口から顧みる格好のクルトが董子の真っ直ぐな目を見、口の端を僅かに上げる。

「同期の中で、最初の月に最優秀の評価を受けておいでです。そして次月が私でございます」

 董子が両の拳を握り締める姿を、咲子が後ろから眺める格好となる。溜息が一つ。ここからは見えないが、董子がどんな顔をしているのかは大体想像がつく。今度こそクルトが走り去り、合わせてくるりと向き直った董子の顔は、何時も通り冷静そのものだったが。

「先刻の演技、中々でしたよ」

「演技ですか?」

「ほら、折角山奥までという」

「あれですか。あれは本気ですよ。こんな観光にもならない北海道の山奥まで来て、兄様の顔一つ見て行けないでは、つまらないではありませんか」

「咲…」

 如何にも呆れたという風に髪を掻き回し、董子はワゴンの後部ドアを開けた。

「私達の目的を忘れた訳ではないでしょう? この方を隠密裏に修行場へお届けする目的を」

「私、アレクサでもなければPRAでもないのですが」

「それでは何故一緒に来たのかが良く分かりませんが」

「だって面白そうでしたし」

「二人ともご苦労さん。咲ちゃんは後でゆっくり札幌観光でもすりゃあいいさ」

 太い声が割り込んだ。シートを倒した後部座席から、鋭い出で立ちの男が這い出てくる。弓月亮介。PRエージェンシーの代表にして、潜入工作のプロ。この鬼哭谷でPRAが行なう小規模な作戦の指揮を取るべく、彼自らがここへ足を運んだという次第である。

「監視カメラも無ければ、人影もありません。あのクルトという方は、確実にここから離れておいでです」

「やれやれだな。こんな凝った事ぁしなくて良かったかな。あのクルトって奴、別にこっちの潜入をバラしても良かったかもしれん。後で瞳経由でナシでもつけとくか」

亮介はシートからツールの一式を取り出し、手早く装着して行く。その間も口が休む事はない。

「アレクサへの参加とウチへの入社、御両親が何も言われなかったのはどうしてだと思う?」

「何故です?」

「もっと広く世界を見て欲しかったのさ。お前の見ている、今の世界は狭い」

「私は少々戦事にこだわり過ぎているという事でしょうか」

「勘がいいな。親御さんが大学にやったり色々学ばせたのは、そういう所を薄めたかったのかもしれねえな。お母ちゃんがこぼしてたぜ。気性の激しさは私の若い頃以上だってな」

「…それはちょっと心外でありますが」

「ま、しばらくは平泉でオレの可愛い子供達を守ってくれや。きっとお前にとって、いい事があるぜ」

 言うだけ言って、亮介は森林の中へと消えて行った。これにて香車董子の初ミッションは、終了の次第である。肩を軽く叩かれ、見れば咲子が太陽のように笑っていた。

「ススキノラーメン」

「岩手に直行です」

「ならば盛岡冷麺」

「平泉です」

「平泉の美味しいものって何でしたっけ?」

 等等言いながら二人は車に乗り込んだ。

 行きは東京から苫小牧までフェリー、帰りは苫小牧から八戸、後に平泉までの長距離ドライブというスケジュールを立てていたのだが、どちらにせよ船に乗れる時間は遅い。だったら札幌辺りで泊まるのもいいと董子は思い直した。何のかんのと言いながら、自分を案じて学校を休んでまでついてきてくれた妹である。ラーメンくらいは奢らねばバチが当たろうというものだ。

 エンジンをスタートし、もう一度董子は鬼哭谷を顧みた。何の変哲も無い殺風景な荒れ山だったが、不思議と張り詰めた気塊らしきものが感じられる。其処で兄は、香車仙輔は仲間達と一緒に厳しい修練を積んでいるのだ。

「でも、何れは私が勝ちますよ」

「何です?」

 不思議そうに聞く咲子を笑ってごまかし、董子はアクセルを踏んだ。

檻から放たれた虎になれるかは分からないが、ともかくここからは董子の自由である。順風満帆に事が運ぶなどと更々思ってはいないが、それでも旅の始まりはすこぶる楽しい。

「そう言えば」

 怪訝な顔で、助手席の咲子が曰く。

「この車、姉様が平泉でずっと使われるのでしょう? 私は一体どうやって家に帰るのでしょうか」

 全く考えていなかった。

 こればかりは笑ってごまかす訳にはいくまい。

 

<続>

 

 

 

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