格闘戦におけるアナスタシアの強さとは、とどのつまり彼女の速度である。と、全くの私見ではあるが、香車仙輔はそのように解釈している。
仙輔が習熟する形意拳に限らず、所謂拳法の「構え」とは、己が向いている軸線上の相手に対するものであり、基本的には一対一を想定している。無論一対多の場合にも相応の対処はある。背後から不意を討ってくる手合いへの処し方も。しかし、まばたきをする間に真横か後ろに立つドレーガというのはどうしたものだろう。
今、仙輔が組み手を打つ相手は、イザーク・コンドラチェンコ教官。彼もまた速度の男であり、その戦闘挙動は人の段階を踏み越えている。広い視野、センスの鋭さ、常軌を逸した反応速度を支える強靭な筋力。何れをとっても、本来ロアドが差し向かいで戦うべきではない能力の持ち主である。
それでもこれ程の手合いと組み手を打つ事が、格闘家としての自己を更に前へ進めてくれると仙輔は信じている。信じたればこそ今日まで四回もの組み手を申し込んできたのだが、まず勝てない。何しろ彼の速さに体がついていけず、最後に思わぬ位置から無造作な一撃を貰って昏倒するのが定まりである。
ただ、戦うにつれて勝負を決する時間が短くなっていた。こちらを嘲笑うかのように翻弄していた動作が、少しずつコンパクトに変化している。格闘家同士の戦いは、段階が向上すればする程短時間で決着がつくもので、だとすれば自分も多少は認められたのかもしれないと、仙輔は自嘲気味にその変化を捉えていた。それも勝てなければ、単なる慰めでしかないのだが。
そして今回が五回目の組み手。何時もは教官の方から初手を取るのだが、今の所仁王立ちのまま動く気配は無い。形意拳使いの仙輔は三体式。長身に見合う洗練された趣があり、如何にも素人と使い手という風に第三者からは見えるかもしれないが、その中身は桁が違う。
左。右。そして背後。教官はこちらが反応しきれない位置を常に確保してくる。対して仙輔は何も考えない。考えるだけ無駄だ。体の反応に任せる。あらゆる格闘行動に応じられるだけの鍛錬を、仙輔は体に仕込まれている。
教官が第一歩を踏み出した。踏み出してから怒涛の速さで、目前近くまで間合いを詰めてきた。
(真正面!)
と、余計な思考が脳に浮かんでしまうも、己が左手は既に突進する拳を掴み止めていた。そのまま後ろに巻き取る。勢い引き寄せると同時に跟歩。右の崩拳が鳩尾を狙い違わず抉る。教官の体が僅かに浮く。並の人間ならただでは済まない打撃だが、如何せん教官は「黒」だった。
横殴りの丸太が仙輔の右顎目掛けて叩きつけられた。206cm、106kgの体が反転しながら宙を舞う。軽く5mは飛ばされ、地面に激突。土煙を巻き上げて転がり続け、停止。
「貴様の体はどういう構造をしているんだ」
顎を擦っておもむろに立ち上がってきた仙輔に、教官は呆れ気味の声を掛けた。
「このくらい鬼哭谷以前からやられてるよ。オレの特徴は打たれ強さだと憶えておいてくれ」
軽口を叩き砂埃を払い、仙輔が額に張り付いた前髪をかき上げながら曰く。
「また負けちまったか。どうも負け続けだな」
「たかが五回の負けで何を言うか。負けに宝ありというぞ」
「勝ちにも学びありだよ」
「何にしても、先刻の打突は良かった。俺がロアドだったら軍配は貴様に上がっていただろう。悪かったとすれば、追い込みが足りん。一撃で終わるな。相手の命を断つまで徹底しろ。でなければ如何な紋章持ちであろうが、貴様は死ぬ」
「言う事は分かるが、俺は形意を殺しの為に学んではいない」
夜明け前。ドレーガたる教官の、宿舎へ帰る道すがら。教官は不意に立ち止まり、仙輔を苦々しく睨んだ。
「貴様、ここへ何をしに来た」
「修行だが」
「いいか。ここには他人を蹴落としてでも強さを手に入れたい輩がごまんといるんだ。俺達もそういう奴等を呼び寄せたつもりだ。貴様は、先ずその甘さを捨てろ。戦で殺しをやりたくない奴は、鬼哭谷にはいらん」
「やらなきゃ死ぬとなれば、殺しもするさ。だが、オレは他人を蹴落としたいなんぞ思わない。オレの宿敵は常にオレだし、自分を何処まで伸ばせるかに執着がある。そいつは絶対に変わらない」
虫の音の騒々しい夜ではあるが、教官はよく響く大きさで舌打ちした。相変わらずの不機嫌顔でその場を立ち去ろうとするも、再び振り返る。眉間に大きく皺が寄っていた。
「ここへ何をしに来た」
「だから修行だってば」
「そうか。しかし、まあ、いいさ」
それだけ言って、教官は宿舎に入って行く。見送りの仙輔が帰ろうとすると、背中に張り上げた声が掛ってきた。案外とコンドラチェンコという男は、くどい。
「アナスタシア様を敬愛し、修行を怠るな! それ以外で貴様が何をしようが、俺は与り知らん! せいぜい生き抜く事だ!」
言うだけ言って、教官の大音声はパタリと止んだ。東から白みが差す頃合まであと一時間。教官もドレーガの身故、何時までも話をしている訳にはいかない。そういう自分も、どっと疲労が押し寄せてきた。飯を食って寝床につこうと、頭を振りつつ歩き始めた仙輔の、鼻先にいきなり手刀が突きつけられる。今度は誰だ。
「はい、鷹乃瞳に背後を取られました。実戦だったら、あんた死亡決定」
鷹乃瞳が居る事には、全く気付けなかった。底意地の悪い彼女の笑顔を見、仙輔の気の張りがたちまちシオシオにしおれる。膝をかくりと曲げ、顔も上げずに一言。
「何時から?」
「組み手から。仙輔はともかく、教官からも隠れ通せたみたいだし。あたしやるじゃんって感じ」
「何だ、修行の成果が出てるじゃねぇか」
「あのね。おさんどんだけの女だと思ったら大間違いよ」
素早く手を引き、瞳はさっさと歩き始めた。彼女の後姿を見ていると、果てしなく疲労が増して行く錯覚を仙輔は覚える。それでも、ついて行かねばならない。ついて行かねば飯にありつけないのだ。
「はい、おかゆ」
仙輔の前にドンと置かれたドンブリは、沈んだ米が見えるほど透き通った粥である。しょんぼりした目を向ける仙輔をさて置き、ソーニャ・プリセツカヤは少し嬉しそうにオカズの素材を掲げた。
「トカゲ。秋口は丸々と太ってるから、食べがいがあるだろうな」
「丸焼き」
「お情けで腸は抜いてあげるから。骨はどうする?」
「カルシウムを取りたいから、それは残す」
現代人なのか原始人なのか分からない会話の後、ソーニャはいそいそとトカゲを捌き始め、その変に成長した後姿を眺めながら、仙輔は力無くテーブルに突っ伏した。
鷹乃瞳が経営する一膳飯屋「迷鳥」は、熊の襲撃を受けて店を破壊されるという冗談のような災害から復興し、今は以前のログハウスのようなものの姿に戻っていた。尤も幾ら形を戻したとは言え、奪われた大量の食材はどうにもならず、よって出される食事もワイルドになりつつある。
瞳が出してくれたお茶(柿の葉)を含みつつ、仙輔が何の気なく呟いた。
「オレの認識は甘いかね」
「ん?」
「さっきの会話、聞いてただろ」
「ああ。確かに鬼哭谷じゃ甘いかもね。でも仙輔は仙輔だから」
「そうか。オレは何となく、妹との遣り取りを思い出した」
「董子ちゃん」
「そうだ。あいつと教官の言う事はとても似ている」
仙輔は横浜の自宅に居るはずの妹の、静かな笑顔を思い出しながら言った。
「あいつは父に武道を学んで、オレは母に武術を習った。でも、気性は互いに逆を継いだらしい」
「お母さんの?」
「董子は全き武人だよ。旺盛な闘争心を礼儀作法で隠しているだけの」
「そうかな。優しい子だと思うんだけど」
「優しいぜ。でも、董子は全てに優しい訳じゃねえ」
仙輔と董子による組み手は、それこそ小さい頃から四桁に近付く程繰り返されてきたが、その全てに仙輔は負けた事がない。
鬼哭谷へ仙輔が出立する二日前、二人は今一度自らの学ぶ武術を駆使して対戦をしたのだが、ここでも押しているのは矢張り仙輔だった。
仙輔は形意拳を、多彩かつ強力な手技を特徴とする中国拳術を使う。董子は香車流柔術、という名称は表向きで、香車千式の名で今に残る古流柔術の継承者である。打蹴投極の全てを網羅するものの、真の奥義は鉤状に固めた指、肘と踵を使い、関節と急所を徹底して破壊するという危険な代物だ。
香車千式独特の、だらりと手を下ろしてゆらゆらと体を安定させない構え、そして思わぬ態勢から恐ろしい速度で振り回されてくる手技足技は、初見の相手が軌道を見切るのは至難である。しかし、父から妹へと鍛錬の様を見てきた仙輔には、圧倒的という程でもない。
飛んできた拳を払い、同時に崩した姿勢へ向けて突を寸止める。こうした決着は幾度と無く繰り返されてきたし、今回もそれで組み手は終わった。が、溜まった息を吐いて手を下げた仙輔の、目の先に一瞬で二本の指が突きつけられる。
強引な姿勢から目潰しを放った董子の顔は、目に愉悦の潤みを湛えて、正に鬼の笑い顔だった。指を引っ込めて間を置き、一礼と共に反則を詫びる頃には、元の落ち着いた表情に戻っていたが。
「遂に兄さんには勝てませんでしたね」
「もう帰ってこないような言い方をするなよ。何時かまた続きをしようぜ」
道場の縁にもたれて汗を拭く仙輔の傍らで、董子は用意良く麦茶を注いでいた。仙輔にグラスを渡し、自らはしかし手をつけずに畳の上へ置く。崩れた足を正座にして曰く。
「最後の目打ちは避けられたはずですが」
「ああ、あれは本気じゃなかったからな。それに勝負は決した後だし」
「決した、とは言い難いと思います」
少し語気の強い言い方に、仙輔は含んでいた麦茶を口から放して目を丸くした。対して董子は構わず続ける。
「あの寸止めは決まっても肩口。仮に肩骨を砕かれたとしても、私なら次の一手を撃てます。でしたら兄さんはそれを抑える為の先んじるもう一手を。例えば足を払って倒してから、首裏に劈を叩き込むくらいをしなければなりません。兄さんは、勝たなければ死にます」
「組み手だぜ?」
「私達の鍛錬、これからは常に実戦を意識すべきでありましょう?」
受けて轟然と仙輔が立ち上がる。ありありと驚愕の色を浮かべ、唇を震わせ、曰く。
「アレクサに入るのか」
「はい。戦う為に」
「何とだよ」
「このままだと腕前の伸び悩むだろう自分とです」
見上げる董子の目は、相変わらず涼しい。
そう言われると、仙輔も言葉に詰まる。あの危険な世界に妹が関わるのは躊躇するものもあり、当然反対の声を上げようとした仙輔であるが、董子の言い方は自分がアレクサに居続ける理由と同じである。それ以上言いようも無くなり、不承不承座り込む。
「何処の会社に入るつもりなんだ」
「それは後のお楽しみという事で」
「『黒』って知ってるか」
「はい」
「出鱈目に強えぞ。基本的にオレ達は勝てない。何しろ死なない相手なんだから。そういう連中と本気でやり合う場面も必ず出る」
「それこそが望みです。尋常ではない世界に身を置いて、私も尋常ではない力を引き出します。私は強くなりたいのです。更に強くなりたい。然る後には」
と、其処まで言って董子は口を噤み、スクと起立した。
「何時かまた続きをして下さい。そう遠くない内に」
グラスと水差しを盆に載せ、董子はきびきびとした足取りで出口に向かった。つと、振り返って今一度仙輔を見遣るも、腕を組んで押し黙ったままであったので、今度こそ董子は道場から歩み去った。兄妹が顔を合わせたのは、当面これが最後である。
「ああ、その話だったら知ってるわよ。もっと前に相談されてたもの。董子ちゃんのアレクサ入り」
飲み込んだトカゲの頭が、再び口からコンニチワを言いそうなくらい仙輔はむせ返った。
「あのヤロウ、オレに話すのは一番最後にしやがったのか」
「それから董子ちゃん、ウチらのPRAに入社済みだから」
今度は栗のテーブルにガンと頭を打ちつける。仮にも肉親だというのに、今の今迄同じ会社へ入っていた事を、誰からも知らされなかったのはあんまりだ。
「瞳よぉ、何故話してくれなかったんだよぉ」
「あんたの面白リアクションが見たかったから。でも、意外な感じだわ。そういう動機は私には言わなかったもの。何て言うか、董子ちゃんのは衝動的な考え方だと思う」
「あいつは猛々しい奴だよ。強くなりたいってのは武道家の本能だが、アイツの場合は外向きの闘争に傾倒しているのさ。理解できる?」
「出来ないわね」
「価値観の違いってのはそういうもんだ。俺にだって董子の事は少し分からない。ただ、ここに間違って董子が来なくて良かったと思うぜ。腕を競う相手には困らないし、そうなりゃ互いに血を見る羽目になりかねん。本当、董子は来なくて正解な場所だよ」
「際どい食材を試す実験台にもならなくて済んだしね」
瞳の言ったが同時、厨房でソーニャが歓声を上げた。寸胴の中でぐつぐつと煮えるものを杓子で掻き回すと、甘辛く、それでいて異様に生臭い風味が漂ってくる。魚や獣の臭いではない、と気付いた時点で仙輔は全力で逃げるべきだった。皿に盛り付けてテーブルに出されたソレを覗き込み、仙輔は顔面を蒼白にして椅子から引っ繰り返りそうになった。ソーニャが何故か嬉しそうに言う。
「はい、ザザ虫の甘露煮!」
川釣りに使う餌だ。
何時の間にか仙輔の肩口が、瞳によって上からしっかりと押さえつけられていた。不自然な座り方をしたせいで、跳ね除けて立ち上がる事不可能である。耳元で瞳がそっと呟く。
「ごめんね。たんぱく質不足も、遂にここまで来てしまったのよ」
ケケケ、と、嫌な笑い声が離れて行く。目の前では原型を完全に留めたザザ虫の塊が、ソーニャによってスプーンで掬われていた。
こんなもの、誰が食うと言うのか。
と、別に改めて言うまでも無い。
<続>